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34.第三章九話


 山を登り始めて数十分ほど経った頃、ベルティーユはすでに満身創痍だった。汗が首をつたい、肩で呼吸をする。

 サルドゥ子爵の調査で整えられた道はすでに終わっていて、不安定な足場は思っていたよりもごっそりと体力を削っていく。長距離移動は馬車に頼りっきりの貴族令嬢であるベルティーユにはつらい。ダンスの練習程度で備わった体力ではほとんど役に立たないのが現実だった。


(わかってはいたけれど……)


 男性陣は汗を滲ませてはいるものの、まだ余裕そうだ。普段からしっかり鍛えている者たちはやはり次元が違う。

 一番体力がないベルティーユのペースに合わせているので、彼らだけであればもうとっくに目的地に到着していたのだろう。足を引っ張ってしまうと事前に申告していたとはいえ、さすがに申し訳なさはある。


 ベルティーユは木の幹に手をつき、一度足を止めた。

 目の前には大きな岩がいくつも積み上がっている。その岩を足場に、身長よりも高い位置にある上のスペースまで登らなければならない。


「ほら」


 先に岩場を登ったリュシアーゼルが、上から手を伸ばした。ベルティーユがその手を掴むと引っ張り上げられたので、岩に足をかけて登り切る。


「ありがとうございます」

「婚約者殿のご要望だからな」


 先ほどのベルティーユの発言へのお返しのような言葉を、リュシアーゼルは挑発気味に告げた。

 ベルティーユはぱちりと瞬きをして、それから「ふふ」と笑い声を零す。


「背負って下さってもよろしいのですよ、婚約者様」

「さすがに山登りでそれは勘弁してくれ」

「まあ酷い」

「重いとは言っていないだろう」

「当然です。女性は羽のように軽いのですもの」

「そうだな」


 冗談は笑顔であっさり流されてしまった。少々不満だけれど、リュシアーゼルとの会話は愉快である。


「イチャイチャなさっているところ申し訳ありませんが、先に進みましょう。それともご休憩されますか?」


 お互いに見つめ合って次は何を繰り出そうかと悪戯心を働かせている二人に、護衛が気まずそうに割って入ってきた。

 ベルティーユとリュシアーゼルは護衛に意識を向け、それから再び顔を見合わせる。


「行けるか?」

「平気です。もうすぐなのですよね?」

「ああ。つらかったらいつでも言ってくれ」

「はい」


 目的地まではもう近い。休憩はなしと決定して、また歩みを再開した。

 そうして十分ほど進んでようやく到着した目的地は、目の前に高い崖が聳え立っていた。


「ここに魔道具があるのか?」

「もう少し先ですね」

「……先も何も」


 リュシアーゼルは高い崖を見上げる。登るのは上からロープを垂らしでもしない限り難しそうだ。

 そんなリュシアーゼルをよそに、ベルティーユは崖の下の草むらを手で掻き分けていた。


「ベルティーユ?」


 それに気づいたリュシアーゼルの声が聞こえたけれど、ベルティーユは探っていた草むらに何もないとわかると、少し離れたところにある草むらに移動した。大きく育っている草をよけて、ぴたりと動きを止める。


(あった)


 草むらの影に隠れていた、人一人が通れるほどの大きさの穴を発見した。斜めに下るような形になっている。


「なんだこの穴は」

「洞窟です」


 後ろから覗き込んできたリュシアーゼルの質問に端的に答えたベルティーユは、早速足から穴に入ろうとした。しかし、リュシアーゼルに肩を掴まれて止められる。


「最初に行くな。危ないだろう」

「……申し訳ありません」


 先に護衛が二人、次にベルティーユ、リュシアーゼル、残りの護衛の順番で穴を下ることになり、慎重に進んでいく。

 穴を抜けると、広い空間にたどり着いた。穴から地面まではベルティーユの身長より低いくらいの高低差があり、先についていた年長者の護衛の手を借りて降り立つ。


「ありがとう」

「いえ」


 ベルティーユのお礼に笑みを浮かべた護衛は、続いて次に姿を現したリュシアーゼルを見上げた。


「坊っちゃんも、手をお貸ししましょうか?」

「その呼び方はやめろ」


 面白くなさそうに眉を寄せたリュシアーゼルは、スタッと軽やかに一人で降りてきた。そのあとの護衛も同様で、運動能力が違うとまたも思い知らされる。

 洞窟の中は、頭上の隙間から差し込む陽光でほんのり明るいくらいだろうか。護衛たちがランタンをつけているので、視界はそれほど悪くない。


 洞窟の奥に石造りの大きな扉があり、ベルティーユはそこに近づいて扉に刻まれた文字にざっと視線を走らせた。ベルティーユにつられるように、リュシアーゼルも扉を注視する。


「古代魔法文字……!」


 刻まれた文字を理解して、リュシアーゼルは目を見開いた。護衛たちも「え!?」と驚愕の声を洞窟内に響かせる。


「さすがユベール公爵閣下。ご存じなのですね」


 扉に刻まれているのは古代に使われていたという魔法文字だ。現代の人間は見たこともないという人も珍しくない。


「書かれているのはこの扉の開け方ですね」

「読めるのか?」

「王子妃教育で勉強しました」


 さらりと答えたけれど、十四歳の時点では基礎を習い終わってそれほど時間は経っていない。身につけたのは時間が戻る前の十七歳までの間だ。余命を悟って周りに反発し、部屋に引きこもっている時も、古代魔法文字の本でよく暇つぶしをしていた。

 そして。


「そういえば、邸でも本を読んでいたな」


 ユベール公爵邸で過ごしていた間も勉強していたのだ。

 古代魔法関連の本は希少なもので、ほとんどが国によって厳重に管理されている。ユベール公爵家は数少ない、古代魔法の資料の一部を保管することが許可されている家の一つである。


「リュシアーゼル様は読めるのですか?」

「単語なら見覚えがあるくらいで、読むのは無理だ」


 記録が多く残っていないので、専門家でも難しいと断言するほどなのだから、解読できないのはむしろ当たり前だろう。


「やはり、私がついてきて正解でしたね」


 ベルティーユは得意げに笑って、解読に集中した。


 時間が戻る前、入り口であるあの穴は木の伐採を進めていく過程で偶然発見された。トスチヴァン伯爵はこの文字を書き記し、洞窟のことは告げずに専門家に解読を依頼したらしい。それを参考にこの扉の仕掛けを解除したとか。

 堅苦しい文章なら解読に時間がかかっただろうけれど、比較的易しい文章のようで、ベルティーユは少しずつ読み進めていく。


「えっと……『パンはパンでも、食べられない、パンは』……え?」

「は?」


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