32.第三章七話
「ご記入確認いたしました。不備はございません」
オークション会場と同じ建物にある別室で、ベルティーユがサインした書類を確認した係の者が、にこやかに権利書を封筒に入れて差し出した。
オークションは終わった。ベルティーユは無事にヴォリュス山を落札し、必要な書類にサインをし、支払いも済ませたのだ。
「これにてヴォリュス山はベルティーユ・レジェ様のものとなりました。本日はありがとうございます。またのご参加をぜひお待ちしております」
「はい、ありがとうございます」
封筒を受け取り、ベルティーユは会釈をしてリュシアーゼルと共に部屋を出た。
「今日の目的は達成だな」
「はい」
リュシアーゼルが軽く肘を曲げるので、ベルティーユも自然と腕を絡めてくっつく。二人は建物の正面玄関へと向かうために歩みを進めた。
「それにしても、落札者の名前が発表された時のトスチヴァンの顔はなかなか面白かった」
「ずいぶん驚いていらっしゃいましたね」
トスチヴァン伯爵が提示した金額は、時間が戻る前とやはり同じ額だった。それよりも大きな額を書いたベルティーユの名前が呼ばれた際、トスチヴァン伯爵は思わず立ち上がるほど驚愕していたのだ。
彼らのほうが席が前方だったけれど、斜め後ろからその表情を窺い知ることができた。そのあと信じられないとばかりにトスチヴァン伯爵と娘がこちらを振り向いたこともあり、驚き具合がよく伝わってきたのである。
「いい気味だったな」
親子に煩わされたリュシアーゼルはご機嫌らしく、楽しそうな声色だ。
「まあ。酷いお方」
「笑顔で面食らわせた貴女が言うのか」
「ふふ。確かに」
凝視してきた親子にベルティーユは笑顔をお見舞いしたのだけれど、それが大層気に障ったようで、親子はきつくこちらを睨みながら悔しそうに歯軋りしていた。
「お金を出し渋るから、こんな小娘に出し抜かれるのです」
トスチヴァン伯爵が記入したのも現在のヴォリュス山に対する評価よりだいぶ高い金額ではあったけれど、確実に手にするためにはもっと上げるほうが安心だ。それを惜しんだからベルティーユに掻っ攫われたのである。
ベルティーユのほうが先に、希望の金額を記入して箱に入れた。その時点でベルティーユもライバルとなったことを考慮して、トスチヴァン伯爵は金額を上げるべきだったのだ。
「……小娘」
リュシアーゼルの納得がいっていないような呟きは、ベルティーユの耳にしっかり届いた。
「まだ十四歳の世間知らずですもの」
「年齢に見合った振る舞いでもしてみたらいいんじゃないか?」
「それだと十七歳になりますね」
「なんだそれは」
空いているほうの手の甲を口元に持っていって、リュシアーゼルはおかしそうに笑う。
「私より年上くらいの貫禄は十分にある」
「褒め言葉のおつもりですか? 女の子相手にとても下手ですよ」
「それは失礼した」
軽口を叩き合っていると、二人が通りがかるのを待ち構えていたらしいトスチヴァン伯爵親子が廊下に立ち塞がった。オークション会場とは打って変わり、妙に優しげな態度で。
「ラスペード……いや、レジェ伯爵令嬢。君はあの山の価値を理解しているのか?」
物分かりの悪い幼い子供に言い聞かせるように、トスチヴァン伯爵は求められてもいない説明を始める。
「ヴォリュス山には特別な薬草などないし、生えている木もほとんど金にならない。売上よりも伐採費用のほうが高くつく。だからサルドゥ子爵も手に余り、売り払ったのだ。令嬢は会場にいた若い男たちの話に惑わされたのだろうが、あれは虚言だと他の者たちは理解していたぞ」
「まあ。そうなのですね」
「そうだ。今ならこれ以上の損失が出る前に私が買ってやろう。令嬢が支払った分と同額を――」
ベルティーユの食いつきがいいと感じたのか、トスチヴァン伯爵は親切心を装って畳みかけるけれど。
「ですが、伯爵様はあの話にかなり反応を示していらっしゃいましたよね」
ベルティーユにそう遮られて、言葉を詰まらせた。
「……それは、馬鹿なことを吹聴している者がいたものだと呆れていただけで」
「あら。あの山に生えている草ではなく木のほうが他国でお金になることをご存じだったから、過剰な反応になったのでしょう?」
首を傾げながらベルティーユが訊くと、トスチヴァン伯爵も娘も瞠目した。想定外の質問に心構えができておらず、素直すぎる反応になったようだ。
「私はあの男性たちの話に惑わされたのではなく、ヴォリュス山の真の価値を知っているからこそ落札したのです。お譲りする気はありませんわ」
ベルティーユはゆったりと、余裕を持って微笑を湛えながら続ける。
「こうして交渉にいらっしゃった時点で、あの山に価値があると教えているようなものです。もっと熟考して慎重に行動なさることをおすすめしますわ、トスチヴァン伯爵」
アドバイスを送って、ベルティーユは「それから」と目を細めた。相変わらず穏やかで綺麗な表情ながら、灰色の双眸に嘲りの色をのせて。
「本日はまともなご挨拶もありませんでしたので、礼儀をお忘れでしたらご令嬢と一緒に改めて家庭教師をつけたほうがよろしいかと。リュシアーゼル様も同意見のようでしたよ」
小馬鹿にされて怒りに震える親子をまたも放置して、ベルティーユとリュシアーゼルは建物から出た。そのまま駅に向かって歩く。
「痛快だったな。さすがだ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「私が口を挟む隙もなかった」
「あえて口を挟まなかったのでしょう?」
問いかけにリュシアーゼルは否定せず、愉快そうに口角を上げるだけだった。
「木が売れるのか?」
「はい。正確には木の葉や樹液が、ですね」
およそふた月ほど前だろうか。東方の国で、それまで木材にならず価値がないとされてきたニフィ木の葉や樹液に、高い美容効果があるという研究が発表された。葉や樹液を使用した化粧水が上流階級の女性の中で爆発的に流行し、ニフィ木の価格が急激に上昇している。
その話が本格的にこの国に入ってくるのは約ひと月後で、行商によって国内に広まるのだ。
国内にはニフィ木が群生している場所がごくわずかで、ヴォリュス山は金を生む貴重な山というわけである。
偶然にもいち早くニフィ木の話を耳にしたトスチヴァン伯爵は、時間が戻る前にはヴォリュス山を落札し、その後東方の国との商売で大成功を収めた。
更には、それを機にヴォリュス山で見つけたのだ。リュシアーゼルが探し求めていた、解呪の魔道具を。
(けれど……)
解呪の魔道具が見つかり、テオフィルの呪いの解呪のために使われたけれど。――最終的に、テオフィルは呪いで命を落とすことになった。
だから絶対に、彼らにヴォリュス山を渡すつもりはない。