03.第一章一話
ベルティーユ・ラスペードは、ジュストルネ王国の名門貴族ラスペード侯爵家の末子として生まれた。母親譲りの亜麻色の髪と灰色の瞳、そしてこれまた母親に似た顔立ちが特徴で、兄妹の中で唯一の女の子だった。
両親も兄たちも女の子が生まれるのを切望していたらしく、本来ならば溺愛されて育ったのだろう。しかしそうはならなかった。
理由は単純だ。ベルティーユを出産した数時間後、母親である侯爵夫人が亡くなってしまったからである。
母はとても愛されていた、らしい。夫である侯爵を始め、息子たちや使用人、領民から愛されていた。彼女の死は侯爵領を悲しみで覆いつくした。ベルティーユが生まれてから侯爵領で自然災害が重なったこともあり、悲しみや不満はやがて、ベルティーユに対する憎悪へと姿を変えることになったのだ。
母の死と引き換えに生まれてきたうえに災害まで呼び寄せた子。存在そのものが不吉だと、悪魔のようだとされた。
母の死後、侯爵一家は王都を生活の拠点とし、領地に帰ることは少なくなったようだ。ベルティーユを領地の邸に残さなかったのは、体裁以上に領民の不満を少しでも鎮めるためだろう。
しかし、ベルティーユが母によく似ており、母を思い出させるのが非常につらく腹立たしかったのか、侯爵はベルティーユを別邸へ追いやった。兄たちもベルティーユを憎み、様子を見にくることはなかった。
別邸では、ベルティーユに対して使用人からの嫌がらせが続いた。食事はカビの生えたパンや残飯がほとんどで、そもそも何も出されないことも珍しくなかった。部屋の清掃もされず、服も滅多に新調されないので小さかったりボロボロだったり。生きているのが不思議なほどの環境に置かれていた。
その環境に変化が起きたのは十歳の頃。
国内の公爵家には年頃の娘がおらず、侯爵家の中でも特に力のあるラスペード家の娘で年齢が近いということで、ベルティーユは第二王子の婚約者として指名された。それからは本邸に移って生活することになったのだ。
しかし、扱いは多少改善された程度にとどまった。
第二王子との定期的な顔合わせがあるため、侯爵家が娘にまともな食事も与えていないことが露見するのを恐れてか、食事はまともになった。ドレスも与えられるようになった。しかしどれも必要最低限で、ベルティーユの好みなど意見が反映されることは一度たりともなかった。父は無関心だし、兄たちは会えば呪詛を吐くし、まともな会話をしたことなど一度もない関係性は変わらなかったのだ。使用人たちが態度を改めることもなく、雑に扱われた。
外部にさえバレなければどう扱ってもいいというようなスタンスが侯爵家では継続され、まともに関わってこなかった。彼らはベルティーユを一人の人間として認めていなかった。
だからだろう。半年前、病で倒れたベルティーユの中身が突然赤の他人になっても、彼らは以前とは異なる性格に違和感を抱いてはいたものの、記憶喪失だからと納得した。ベルティーユがベルティーユでないことを疑いもしなかった。そして、徐々に受け入れ始めた。十七年も恨み続けてきた妹を、ほんの数ヶ月で。
その記憶がこの身にあるのが、とても気持ち悪い。
他人が自分の体の中にいたというのも、ものすごく不快だ。
仕組みはわからない。ミノリとて、わけもわからず他人の体に魂が入り――憑依とでも言えばいいのか、とにかく己の意思で望んだことではなかった異常な現象の被害者だ。恨むのは筋違いだろう。
それでも、ベルティーユには受け入れがたかった。到底納得できることではなかったのだ。
ベルティーユが手に入れられなかったものを、彼女は容易に掴み取った。それも、ベルティーユとして。
ベルティーユは死んで、ミノリがベルティーユとして今後も生きていけば、こんなにも惨めな気持ちを知らずに済んだ。
(――いっそ、そのまま戻らなければよかったのに)
自室の出窓の天板に座り、気怠げに窓の外を眺めながら、ベルティーユは心の中でそう零す。
意識を取り戻した翌日には、ベルティーユはこの身に他人が憑依していた半年の記憶をほぼ完璧に思い出していた。
この出窓も、半年前まではシンプルだった。しかし、ミノリに心を許した侍女が気を利かせ、座り心地の良いシートと柔らかく肌触りの良いクッションを揃えたのだ。ベルティーユには一度もされることのなかった気遣いである。
ただ外を眺めるだけの時間が過ぎていると、静寂を遮ったのはノックの音だった。ベルティーユは反応することなくぼーっとしたままだ。
すると、ガチャリと勝手に扉が開けられた音がした。そういえば鍵を閉め忘れていた。
扉のほうを一瞥すると、末兄トリスタンと目が合った。最も頻繁に様子を見にくるのがこの男だ。
「安静にしろって言われてるだろ。ベッドで寝てろ」
「勝手に入ってこないでください」
再び外に視線を向けながら言うと、しばしの沈黙のあと、静かな声が落とされる。
「話をさせてほしい」
真剣な声は少し震えているように聞こえた。ベルティーユはため息を吐き、天板から降りる。
「わかりました」
その返事に、トリスタンは嬉しそうに、安堵したようにわずかに表情を緩ませた。しかし、ベルティーユは彼の希望に添う意図で返事をしたわけではない。
歩き出したベルティーユがソファーにもベッドにも行かずにトリスタンの隣を通り過ぎると、トリスタンは不思議そうに眉を歪める。
「何してるんだよ?」
「貴方が出ていかないので、私が出ていくだけのことですわ」
わざとらしくにっこり笑って告げ、扉の取っ手に手をかけると、トリスタンが慌ててそれを止める。
「わかった! 俺が出ていくから大人しく休んでろ!」
最初からそうしてくれれば無駄な会話で疲れることもなかったのにと思いながら、ベルティーユは扉を開ける。
「どうぞ」
さっさと退室するように促せば、トリスタンは足ではなく口を動かす。
「これだけは伝えさせろ。第二王子殿下が午後に見舞いに来られる」
第二王子。ベルティーユの婚約者だ。ベルティーユの意識が戻ったことを、父か誰かが王家に伝えたのだろう。
「そうですか」
「なんだよ、嬉しくないのか?」
「嬉しいわけないでしょう」
思わず短く冷ややかな声を零すと、トリスタンが目を丸くした。ベルティーユはそっと視線を落とす。
「お断りしてください」
「おまっ、相手は王子だぞ? わかってんのか?」
「わかっていますわ。人目のないところでは婚約者としての最低限の義務や礼儀すら守ろうとしなかったくせに、その婚約者が記憶喪失になったらなぜかあっさり興味を示して、まるで別人みたいに紳士的に接してきた人でしょう?」
顔に浮かぶ落ち着いた笑みとは裏腹に、声音から強烈な軽蔑が窺えたのだろう。トリスタンは更に目を見開いた。
「……そんなにぞんざいな扱いされてたのか」
「貴方たちに比べたら優しかったのではないですか? 罵詈雑言を浴びせられるわけではなかったので」
何も言い返せないようで、トリスタンはぐっと唇を引き結んだ。自分たちのことは棚に上げて第二王子を非難することはさすがにできないと、一応は自覚しているらしい。
「でも、同じ穴の狢ですよ。貴方たちとの差異なんてそれほど大きくないと思います」
彼らはほとんど同じだ。ベルティーユを邪魔者扱いして、勝手に後悔して、勝手に傷ついた。被害者はベルティーユのはずなのに、今はまるで自分たちが被害者のような顔をする。それがいかに無神経であるかを理解できていないところもそっくりである。
「とにかく、会うつもりはありませんので追い返しておいてください」
「……それができなかったら、お前が出ていくのか」
「ちゃんと学習していますね」
視線で催促すると、トリスタンは何か言いたそうにしながらも結局は口を開かず、ようやく部屋から出ていってくれた。ベルティーユはしっかり扉の鍵を閉める。
その日、兄が上手く説得できたようで、第二王子がベルティーユの前に現れることはなかった。