28.第三章三話
契約書を交わし、正式にレジェ伯爵夫妻の子となり、リュシアーゼルの婚約者になっておよそ一週間。今日はベルティーユとリュシアーゼルが領地に向かう日だ。
ベルティーユの支度は侍女に任命されたジャンヌの手で進められた。楽しそうにベルティーユの着替えを手伝い、荷物をまとめてくれた。
ラスペード侯爵家を出たのはかなり急だったため、ほとんど何も持ってきていないので荷物は少ない。公爵邸に来てからベルティーユが着用した数着のドレスや装飾品は、リュシアーゼルがひとまず購入させた最低限のものだ。急ぎだったので何を買うかはジャンヌが一任されていたらしく、どれもセンスの良さが表れていた。
荷物が詰められたトランクはすでに馬車に運ばれている。準備が完了したので、ベルティーユはリュシアーゼルと共に廊下を歩いて玄関ホールへと向かっていた。
「甥御様はどのような方なのですか?」
領地に行けばベルティーユはテオフィルと顔を合わせるし、一緒に暮らしていくことになるので、純粋に気になったためそう訊ねた。
「元気で明るく、気が利く子だった」
普段とは異なる低い声で紡がれた言葉が過去形なのは、今は違うということを意味している。それはきっと呪いと、呪われるより以前から積み重なってきた不幸によるものだろう。
「今はあまり人に会おうとしない。自室に引きこもって、ほとんどベッドの上で過ごしているようだ」
甥を家族として大切に思っているリュシアーゼルはテオフィルを常に気にかけている。頻繁に様子を確認しているはずなのに、曖昧な言い方が引っかかった。
「もしかして、リュシアーゼル様にも会ってくれないのですか?」
「私に一番会いたがらないな」
淡々としつつも寂しそうに、リュシアーゼルは話す。
「あの子は幼いながらも非常に聡明だ。万が一にも私に呪いをうつしてはならないと、頑なに私を部屋に入れようとしない。会話も続かない」
テオフィルはまだ八歳である。公爵であるリュシアーゼルの安全を考えて、八歳の子供がそれほどまでに気を遣い、行動しているという事実は衝撃的だった。
呪いを受けて恐怖や苦痛に支配されていることは想像に容易いのに、家族であるリュシアーゼルに頼りたいはずなのに、きっと必死に己を律しているのだろう。八歳でなくともその選択は難しいはずだ。
「呪いが成功する条件を鑑みるに、うつるような呪いではないと思いますけれど」
対象者の髪など情報が必要で、腕輪を着用させることも条件なのだから、周囲にも影響が出るとは考えにくい。
「それを証明することは、現代では不可能だろう」
「……そうですね」
魔法使いがいなくなってしまった現代では、魔法というのは摩訶不思議な力だ。魔力が宿る石が魔道具の動力源となっているけれど、魔法使いではない只人では魔力を見ることも感じることもできない。魔法関連の書物が残っているとはいえ、いくら研究したところで到底解明など困難な原理でしかない。
非魔法使いは、魔法という現象を正しく理解できない。ゆえに懸念を取り除くことは不可能に近いのである。
「こんなに大切に思ってくれる叔父様がいるのだから、不安や恐怖を吐露してもいいのに……難しいのでしょうね」
頼れる人がいなかったベルティーユとは環境が違う。子供は大人の庇護を受けるべき存在で、大人に頼る権利が侵害されてはならない。本来ならそういう生き物なのだ。テオフィルには頼るという選択肢がある。
けれど、現代ではほぼ縁遠い呪いというものが身に降りかかっているのだから、それこそ環境の差異だ。他人がテオフィルの苦しみを想像するだけなら簡単だけれど、所詮は未経験のこと。実際に経験した者とは解像度に懸隔がある。
理解するふりは慰めにもならない。ベルティーユはよく知っている。
「私には会ってくれるでしょうか」
「……正直、難しいだろうな」
極力人を避けているとはいっても、食事を運んだり、体調を診察したりする者は接触できているという。中から施錠されているとしても、鍵は使用人が持っているからだ。
リュシアーゼルが使用人や医者のように強引な手段に出ないのは、テオフィルを刺激しないためだと思われる。呪いは体力の少なさや不安定な精神状態によって悪化を加速させることもあるので、特に拒絶されてしまっているリュシアーゼルは安易なことができないのだろう。
そして、リュシアーゼルの婚約者であるベルティーユも拒絶されるであろうことは目に見えている。
「一刻も早く、あの子を救いたい」
ぐっと、リュシアーゼルは眉間にしわを寄せた。
解呪の魔道具の手がかりも、黒幕の手がかりも、リュシアーゼルは自身の手で掴めていない。ベルティーユ以外に頼みの綱がない不甲斐なさを歯痒く感じているようだ。
「大丈夫ですよ、リュシアーゼル様」
安心させるように、ベルティーユは落ち着いた声をかける。
「リュシアーゼル様は約束を守ってくださいました。だから私も、きちんと約束を履行します」
コラン警部の事件のことで、リュシアーゼルはベルティーユに感謝している。しかし、親切で面倒見の良いリュシアーゼルに、ベルティーユだって謝意を抱いているのだ。彼の期待を裏切るつもりはない。
「もう少し時間はかかってしまいますが、必ずテオフィル様の呪いを解く魔道具をリュシアーゼル様の手にお届けします。ですから、テオフィル様の懸念がなくなり、以前のように接することができるようになったら、たくさん甘やかしてあげてください」
見上げて微笑むと、リュシアーゼルがわずかに目を見開く。ベルティーユは自信たっぷりに続けた。
「私という切り札があるのです。リュシアーゼル様は現状を嘆くより、すべてが解決した時に何をしてあげるか、それを真剣にお考えになっていればよろしいのですわ」
リュシアーゼルはこの自信の根拠に見当がついていない。けれど、ベルティーユが成し遂げる確信を示したのは効果抜群だったようで。
「――ふ、はは」
子供のように、リュシアーゼルは笑い声を上げた。
「ああ。頼むよ、ベルティーユ」
「お任せください」
胸を張るベルティーユを眩しそうに見つめながら、リュシアーゼルはまた表情を緩めるのだった。