27.第三章二話
多少高値の山くらいのお金では不十分だと渋るリュシアーゼルを説得し、修正された契約書にサインをして昼食を終えた頃。公爵邸をある夫妻が訪れ、ベルティーユはリュシアーゼルと共に応接室で夫妻と向き合っていた。
「お初にお目にかかります、クレマン・レジェと申します」
「妻のタチアナです」
並んで座っている穏やかな印象の夫妻は、にこやかに自己紹介をした。それはリュシアーゼルではなくベルティーユに向けられたものだ。
「ベルティーユです。突然のことで恐縮ですが、これからよろしくお願いします」
ベルティーユも柔和な笑みを返した。
二人はベルティーユを養子として迎え入れてくれるレジェ伯爵夫妻だ。顔合わせのために急遽リュシアーゼルが呼び寄せたらしい。
リュシアーゼルはコラン警部の事件の対応で、最低でもあと数日は王都に滞在しなければならない。ベルティーユだけユベール公爵領に赴くわけにもいかないので、早急に養子縁組と婚約を済ませるためのこの状況である。
ベルティーユは顔合わせをせずとも養子縁組の書類にさっさとサインをしても構わなかったのだけれど、親になる人たちなのだから会っておいたほうがいいとリュシアーゼルが譲らなかった。いくらベルティーユが最初からユベール公爵家で暮らすとはいえ、相性が合う合わないは重要だと。もし合わないようなら別の候補も検討しているらしい。
リュシアーゼルが選んだ人たちなら、親という立場を利用して子を制御しようとはしないだろう。ベルティーユがユベール公爵家で生活すること、そして離婚後の生活にも口を出さないのならそれでいい。
「こちらこそよろしくお願いします」
レジェ伯爵夫妻の態度は丁寧で、貴族らしい上品さがある。ラスペード侯爵家とは大違いだ。比較するのも烏滸がましい。
「私は娘になりますから、どうぞお気軽に接していただけると嬉しいです」
「まあまあ。ではそうさせていただくわ」
レジェ伯爵夫妻には息子と娘が一人ずついて、どちらも成人済みで結婚もしているらしい。息子夫婦は仕事の都合で顔合わせを見送ることになり、娘は隣国に嫁いでいるのでこちらも顔合わせは未定となっている。
「本当に綺麗ねぇ」
ベルティーユを熱心に凝視していたタチアナが、しみじみとそう零した。
「十四歳とは思えないわ。今回は突然のお話だったから、私も旦那様も戸惑ったのだけれど……リュシアーゼル様が殿下から略奪なさるのも納得」
「略奪はしていない」
ベルティーユの隣にいるリュシアーゼルが指摘すると、タチアナは「そうでしたね」と微笑み、大人な対応を見せる。
「しかし、新しく子を迎えるというのに一緒に暮らす時間がないとは。なんとも寂しいものです」
不満を述べたクレマンの視線はリュシアーゼルを捉えている。
「せめて婚約期間は親子として仲を深める猶予をくださってもよいと思うのですが」
「長いから却下だ」
この国では、結婚できるのは男女ともに十六歳からである。ベルティーユが十六歳になるまであと一年と二ヶ月程度あるので、その間が婚約期間となる。
婚約中は伯爵家で過ごすとなると、テオフィルの呪いの解呪に致命的な遅れが出る恐れがないこともない。リュシアーゼルはそこを危惧しているのだろう。
「それに、養子縁組は形だけだからな」
「まあ、何か事情があるようですから、私どもはあまり口うるさくしませんよ」
レジェ伯爵夫妻は契約結婚のことを知らない。ベルティーユの境遇についても、リュシアーゼルがベルティーユの同意を得ずに共有しているとは思えないので、推測くらいしかできていないはずだ。
それなのに、急な養子縁組を受けてくれた。本家当主の命令だからというのもあるけれど、夫妻が寛大だからこそだろう。そうでなければ、会ったこともない娘を容易に自分たちの子として受け入れることはありえない。
「何かあれば遠慮なく我が家に来るといい。いつでも歓迎するよ」
親しいからかリュシアーゼルには少々遠慮のない発言をしていたクレマンは、ベルティーユには一貫して温和な様子で接してくれている。
「リュシアーゼル様の愚痴でもいいからね」
「はい。ありがとうございます」
「ベルティーユ」
承諾させてもらうとリュシアーゼルの不機嫌な声が飛んできたので、ベルティーユは可愛らしく笑っておいた。すると、しばし無言を貫いたリュシアーゼルが諦めたようにため息を吐く。
「おやおや。テオフィル様以外にこうも弱いリュシアーゼル様のお姿を拝見するのは初めてですね」
「ベタ惚れなのですねぇ」
レジェ伯爵夫妻が興味深そうに、そして微笑ましそうに、あたたかい眼差しでこちらを見ている。居心地が悪いと言わんばかりに顔を顰めたリュシアーゼルは、二人の勘違いを解くのが面倒だと感じたのか、それとも都合がいいと思ったのか、結局のところ訂正はしなかった。
「リュシアーゼル様。少しベルティーユさんと三人で話したいのですが、よろしいでしょうか」
タチアナがそう言い出したので、リュシアーゼルはベルティーユを窺った。ベルティーユが笑顔で応えると、リュシアーゼルは「わかった」と応接室を出ていく。
三人になった室内で、夫妻の雰囲気が少し変わった。穏やかながらも真摯な顔つきで、仄かな緊張感が走る。
「ベルティーユさんは、テオフィル様がどのような現状に置かれているかは知っているかな」
話題に上がったのは、リュシアーゼルの甥のことだった。
「もちろんです」
「正直、この婚約は手放しでおめでたいと喜ぶことは難しい。ベルティーユさんの前の婚約について世論は同情的な声が多いと思うが、テオフィル様が命の危機に晒されている今の状況では、いくら王家が勧めたこととはいえ不謹慎だと考える者たちもいるだろうからね」
「はい。承知しております」
心ない噂が立つだろう。それくらいは予想できている。
「それだけじゃないわ。テオフィル様を狙った者が、貴女のことも狙う可能性は十分にあるの」
リュシアーゼルの甥を呪い、殺害しようとしている犯人の意図。現在はまだそれが判明していないので、あらゆることが考えられる。リュシアーゼルの婚約者が標的になる可能性が高いことは想像に容易い。というより、ベルティーユは知っている。
「リュシアーゼル様が対処はしてくださるでしょうけれど、色々と覚悟が必要になるわ」
「理解しています。そのうえで、私はリュシアーゼル様と一緒になることを選びました」
すべて知っていて考慮して、ベルティーユはリュシアーゼル・ユベールを選んだ。
「元婚約者に傷つけられてきた私の心を、リュシアーゼル様は癒してくださいました。今度は私がリュシアーゼル様を支えることができたらと思っています」
リュシアーゼルが以前からベルティーユに想いを寄せていて、今回の婚約に繋がった。その噂は何もこの公爵邸内だけで囁かれているわけではない。外でもそのような話が広まっていると耳にしたので、利用させてもらう。
「リュシアーゼル様は甥御様の呪いの件で、ほとんど休むことなく動かれているとお聞きしました。見た目からはあまりわかりませんが、きっと身も心も疲弊しているはずです。私が力になれることなど少ないとは思いますけれど、解呪方法を探すお手伝いもしたいと思っています。リュシアーゼル様のご家族は私の家族にもなりますから」
自分に好意を持っている男の心を受け入れ、応えようとしている少女の振る舞い。半分は演技で、半分は本心。
上手な嘘のつき方は、真実を忍ばせること。レジェ伯爵夫妻はベルティーユの偽りには気づく気配がなく、感激を覚えているようだった。
「強い覚悟があるのね。ごめんなさい、試すような真似をして」
「いえ。ご心配は当然ですもの」
少し遠い傍系の血筋だけれど、レジェ伯爵夫妻はユベール公爵家と近しい間柄で、リュシアーゼルやテオフィルのことを大層大事に思っているのがよくわかった。息子や孫に抱くような感情なのだろう。
「貴女との婚約が、ユベールに良い風を吹かせてくれるといいのだけれど……。どうか、リュシアーゼル様たちをよろしくね」
「先ほども言ったが、何かあればすぐに相談してくれていいからね。私たちはベルティーユさんの親になるのだから」
「はい、ありがとうございます」
優しくて、いい人たちだと思った。
けれど、それだけでしかなかった。
その後は和やかに話が弾み、リュシアーゼルを呼び戻し、養子縁組の書類、婚約の書類にもサインをし、顔合わせは無事に終わった。
外にはまだ記者がいるので玄関ホールでレジェ伯爵夫妻を見送り、ベルティーユはリュシアーゼルのエスコートで自身が使っている客室に向けて廊下を進む。
「どうだった?」
「素敵な方たちですね」
「……そうか」
当たり障りのないベルティーユの感想に、リュシアーゼルは間を置いてそう零した。