前へ次へ
26/70

26.第三章一話


 婚約破棄と新たな婚約の件で記者がユベール公爵邸の周囲に張りつき始めてから数時間。外の喧騒など気にもとめず、公爵邸は主人の婚約者となる少女を歓迎する動きが強まっていた。


「『ベルティーユお嬢様はきっと、他の方に想いを寄せて気にかけてくれない王子殿下の仕打ちにとても傷ついておられたはずだわ。密かにお嬢様を想っていたリュシアーゼル様がお慰めして、無事に結ばれることになったのよ!』『お嬢様を第二王子殿下から救い出したのね! リュシアーゼル様ったらあんなに浮いた話がなかったのに、やっぱりやる時はやる男よね!』――と、メイドたちは妄想を膨らませて楽しんでおります」


 リュシアーゼルの執務室には、リュシアーゼル、ベルティーユ、ジョルジュ、メイドのジャンヌが集まっている。嬉々としてメイドたちの様子を報告したのはジャンヌで、リュシアーゼルは微妙な顔をしていた。


「まあ、外で好き勝手話さないなら……いいのか……?」


 使用人や平民を人として扱わないような貴族もいるけれど、どうやらリュシアーゼルはかなり寛容な主人らしい。緊張感が張り詰めているような職場より、適度にリラックスできるほうが理想的な環境だろう。


「外部の者には些細なことでも漏らさぬよう、徹底させます」

「くれぐれも頼む」


 ジョルジュに念押ししたリュシアーゼルは、「さて」と真剣な表情になる。


「例の事件のことで、なぜコラン警部が犯人だと目星をつけたのか聞きたいと警察に言われているんだが……」


 窺うような視線を向けられて、ベルティーユは綺麗な笑みを浮かべる。柔らかな笑顔のはずなのに妙な圧があり、それを感じ取ったらしいリュシアーゼルは「わかった」とため息を吐いた。


「こちらで対処する」

「ありがとうございます」


 ベルティーユが犯人を知っていたのは新聞を読んだから。それも未来の新聞だ。事件と無関係なベルティーユには、他にコラン警部が犯人だと気づけるようなきっかけは皆無なので、説明できるはずもない。面倒なことはすべてお任せである。

 事件に関する話はすぐに終わり、次は、とリュシアーゼルがテーブルに視線を落とす。


「契約書だ。確認してくれ」


 重ねて置かれているのは、以前話し合った内容をもとに作成されたという契約書が数枚。妻としての役割を求めないことや生活の保証など、ベルティーユ側の要望の割合が非常に高いであろうものだ。


「ラスペード家だけでなく王家からの接触も決して取り次ぐことなく全面拒否とのことだが、これは第二王子を想定しているのか?」

「ええ、まあ。そのうち私と話がしたいと仰るかもしれないので、リュシアーゼル様のほうで対処していただきたいのです」

「……そうか」


 好きだったのはベルティーユのほうなのに自意識過剰だと馬鹿にすることなく、リュシアーゼルはその一言を零した。ただ、引っかかってはいるだろう。

 なぜ元婚約者が接触してくる可能性があるのか、その説明をする気はベルティーユにはなく、契約書を手に取って内容を隅々まで確認していく。少なからずベルティーユに同情しており感謝もしているリュシアーゼルが卑怯な抜け道を用意する、なんてことはないと思うけれど、念のためだ。

 ベルティーユが果たさなければならないのは、リュシアーゼルの甥テオフィルの呪いを解くこと。そして――。


「契約による婚約だと知っているのはジョルジュさんとジャンヌ、他数名だけでしたよね」

「ああ」


 契約結婚である事実を隠すことも、契約内容に含まれている。


『甥には契約結婚だと知られたくない。悪いが、急な婚約ではあるものの想い合っているというふりをしてほしい。事情を知っているのはジョルジュ、ジャンヌ、数名の使用人だけだ。あとで紹介する』

『私のほうが色々とお願いしていることが多いですし、構いませんよ』


 そんなやりとりがあり、一部の使用人以外の前では恋人らしく過ごすことになっているのだ。共に食事をする場では毎回、給仕をする使用人が少ないと感じていたけれど、このことに配慮したからだったらしい。

 堂々と契約結婚だと触れ回ってもいいことなどないし、隠すほうが無難だろう。最初からこうなると予想はしていたので、ベルティーユが拒否する理由はなかった。

 ウスターシュと婚約していた頃と、状況としては少し似てしまっている。しかし、決定的に異なるのは婚約者の対応だろう。甥の命をベルティーユが握っていると言っても過言ではない現状では、リュシアーゼルがベルティーユを蔑ろにすることは絶対にない。


 ベルティーユは契約期間に視線を留める。

 最初はベルティーユの十七歳の誕生日までと話していたけれど、契約書に記されている期間はベルティーユの誕生月の月末だ。誕生日の翌日に離婚はさすがにな、とリュシアーゼルに言われたために変更になったのである。


「……あら」


 最後の契約事項を読んで、ベルティーユは首を傾げた。

 そこには離婚の際の財産分与について書かれており、リュシアーゼルが所有する別荘をベルティーユに与え、慰謝料に加えて離婚後の生活費まで毎月支給するとあった。

 こんな話はしていなかったので、リュシアーゼルに「最後の項目はなんですか?」と確認する。


「遊んで暮らすための資金がほしいと言っていたが、投資や事業に手を出すとして、たった二年で上手く利益が出ることは稀だからな」


 ベルティーユが平均寿命まで生きると考えるなら、二年程度の収益では不足だと思いいたるのは当然である。


「甥を救ってくれる恩人への謝礼の一つだ」

「本当に、お優しいですね」


 気遣いは嬉しい。離婚後も安定した生活費の支給が継続するのはとてもありがたいことだ。甥を大切にしていることからも、リュシアーゼルは面倒見がいいのだろう。

 けれど、ベルティーユには過分だった。


「こちらは削除していただけますか?」

「……おまけだとでも思ってくれればいい」

「いえ。代わりにお願いがあります」


 リュシアーゼルが引き下がらないであろうことは予測できていたので、別の要求を告げる。


「来週あたりにでもお金を貸していただきたいのです」

「いくらだ?」


 どのように高額であろうとも望みを叶える気満々のキリッとした表情のリュシアーゼルに、ベルティーユは悪戯っぽい笑顔を見せた。


「少し高い山が買えるくらいですね」


前へ次へ目次