22.第二章十一話
別邸で育てられたベルティーユは、絵本で家族というものの概念を知った。
食事を運んできたり部屋の掃除をベルティーユに命令する使用人の話によると、母親はすでに亡くなっているらしい。ベルティーユが殺したと言われた。みんな怒っていた。
父親はいるそうだ。少し離れたところにある大きな家にいるとか。それに、兄も三人いるらしい。同じ親を持つ子供だ。
絵本の中で、家族はお互いを大切に思い、助け合い、愛情が溢れる生活を送っていた。抱きしめ合ったり、お絵描きをしたり、ピクニックに出かけたり。そういう幸福な日常が描かれていた。
けれど、ベルティーユは六歳になっても、父や兄と会ったことがなかった。
(どんなおかおなんだろう)
親子は似ているという。ベルティーユと同じ髪や瞳の色をしているのだろうか。使用人とは違い、ベルティーユに優しくしてくれる人たちだろうか。
使用人は食事が美味しくなくて残すベルティーユに怒鳴るし、掃除が遅いと叩く。自分はベッドに座ってお菓子を食べながら、そこに埃や汚れがある、こんなこともできないのかと叱る。食事は臭いがおかしいことが多いし、埃や汚れもベルティーユが椅子に登って背伸びをしてうんと手を伸ばしても届かないところだ。
絵本に描かれていた彼女たちと似たような格好の人たちは、こんなふうに命令するのではなく、お皿を洗ったり、洗い物をしたり、掃除をしたりしていた。だから彼女たちにどうして手伝ってくれないのかと訊けば、ベルティーユがやるべきことだからに決まっているとまた怒られた。
(……おとうさま)
家族は一緒にいるものらしいのに、どうして会えないのだろう。使用人たちは父も兄もベルティーユを嫌っていると言っていたけれど、本当にそうなのだろうか。それは使用人たちの嘘かもしれない。
『お前たちは私たちの宝物だ』
絵本の『父親』は、子供にそう言っていた。父親と母親にとって子は何よりも大切な宝だと。
だから、酷い人なわけがない。
自分が暮らしている建物からは決して出てはいけないと言われていたけれど、ベルティーユは家族に会いたくて、使用人がいないタイミングで抜け出した。
初めて外に出た。木々や草花で彩られた外は空気が澄んでいて爽快だ。わくわくしながら、ベルティーユは本邸へと駆け出した。
一階の開いていた窓を見つけて、そこから邸の中に入った。椅子やテーブルが置かれている部屋の中をキョロキョロと見渡したベルティーユは、廊下に繋がっているであろうドアを見つける。
取手を回し、恐る恐る開けて顔を出すと、近くから声が聞こえた。
「――旦那様」
いつも見ていた使用人の女性たちとは違う人だ。男性が二人、廊下で話している。白髪の男性に旦那様と呼ばれた壮年の男性に、ベルティーユは目を輝かせた。
使用人たちはベルティーユの父親のことを旦那様と呼んでいた。同じ呼ばれ方をしているということは、暗い茶色の髪の彼が父親なのだろう。
嬉しくなったベルティーユは部屋から出て、彼らに駆け寄る。
「おとうさま!」
男性二人が振り返った。二人とも、ベルティーユを見て目を丸くする。
「おとうさま、ですよね?」
キラキラと目を輝かせて、喜色満面にベルティーユは父を見上げた。――しかし。
「なぜお前がここにいる?」
とても低い声と厳しい顔つきになった父に、ベルティーユはびくりと肩を跳ねさせた。
怒っている。使用人たちが怒った時よりもずっと怖い。
「おとうさま?」
手を伸ばすと、パシッと払われた。ベルティーユは大きく瞠目する。
「別邸から連れ出したのは誰だ。早くこの邸から追い出せ」
「はい、旦那様」
冷たく命令を下した父が、背を向けて歩き出す。
「あ、まって――」
もう一度伸ばした手を、ぴたりと止めた。先ほど手を払われた時の衝撃が頭に過ぎる。
ベルティーユが躊躇っている間にも、父の背は遠のいていく。残った白髪の男性がベルティーユの手を乱暴に掴んだ。
「さあ。お嬢様のいるべきところに帰りますよ」
「でも」
「貴女は疫病神なのです。不幸を撒き散らすものは閉じ込めなければ、侯爵家に更なる不幸をもたらすことになります。大人しく従ってください」
「いっ……」
ベルティーユの手を掴む大きな手がぎゅっと力を増して痛みが走る。嫌悪が滲んだ声や表情に足がすくむ。
父の姿も、完全に消えてしまった。
「――なんだ? そのガキ」
そこに、新たな人物たちが現れる。
よく似た、しかし印象はまったく異なる顔をした男の子が二人、怪訝そうにベルティーユたちを見ていた。髪や瞳の色が父と似ている。
「カジミール様、トリスタン様」
白髪の男性がそう呼ぶ。
その名前は、確か兄たちの名前だ。使用人が話していたのを覚えている。二番目と三番目の兄の名前。同じ日に生まれた双子。
「おにいさま」
痛みで涙を浮かべながら、初めて顔を合わせる兄たちに助けを求めようとしたけれど。
「……お前」
「もしかしてベルティーユ?」
驚いたような顔をした二人は、ベルティーユの正体を察すると、すぐにこちらを睨みつけた。
「お前みたいな悪魔がなんでここにいるんだよ」
「え……」
敵意が込められた眼差しに、ベルティーユは硬直する。手の痛みも忘れるほどの衝撃で、まんまるにした目で二人を見つめた。
「母上を殺したみたいに、今度は俺たちを殺すのか?」
「おにいさま……」
「お前は俺たちの妹じゃない。お兄様なんて呼ぶんじゃねぇよ」
疑いようのない、心の底からの深い拒絶。憎悪。
歓迎されていない。使用人たちが言っていたように、みんなベルティーユを嫌っている。憎んでいる。
「トリスタン、あんなのと話す価値なんてない。行くよ」
「ああ」
兄たちも、ベルティーユに背を向けて遠ざかっていった。父と同じように。
「ほら、行きますよ」
ぐいっと力強く白髪の男性に引っ張られて、強制的に歩かされる。もつれそうになった足を必死に動かしながらも、ベルティーユは大きすぎるショックから抜け出せないでいた。
(どうして)
ベルティーユは何もしてないのに。誰かを傷つけたことなんてない。殺したってなに。そんなことやってない。母親なんて知らない。覚えてない。それなのに、なんでみんなそう言うの。何もしてないのに、どうして――。
ゆっくり、ベルティーユは目を開けた。
見慣れない部屋と、寝心地も触り心地も良すぎるマットレスやシーツ。自分の部屋ではないことを不思議に感じて、思い出す。ここはユベール公爵邸の客室だ。
ウスターシュに婚約の解消を、リュシアーゼルに契約結婚を提案したのは昨日のこと。リュシアーゼルの厚意で昨日からユベール公爵邸に身を寄せることになり、一夜明けたのだ。
(今更、あんな夢……)
まったく大人しくなっていなかったトリスタンのせいで、昔のことを思い出すかのように夢を見ていたらしい。ベルティーユはまだ薄らと手の痕が残っている手首を撫でる。
彼らの態度が変わることになった最初のきっかけ。ミノリの言葉を真似ても、ベルティーユでは意味がなかった。彼らの心には響かなかった。
落胆とは違う。ただ純粋に、事実を受け止めた。
(やっぱり、私ではだめなのですね)
ミノリが言っていなかった最後の余計な一言のせいかもしれない。
――でも、あの言葉は。
『お前は何も悪くない。……どっちかって言うと、俺たちのほうが見殺しにしたようなもんだ』
時間が戻る前に。
(貴方が自分で言ったことなのですよ、お兄様)