21.第二章十話(リュシアーゼル)
「まさかお前、本当に不貞したのか? それで殿下との婚約がなくなるってのか? どうなんだよ!」
興奮しているトリスタンの詰問にベルティーユは何も返さない。話したくないと思っているのは明白なのに、トリスタンは気づいていないのか関係ないと思っているのか、「おい!」と更にベルティーユに詰め寄ろうとする。
すかさずリュシアーゼルはベルティーユとトリスタンの間に体を滑り込ませ、ベルティーユを見下ろした。
「侯爵令嬢、馬車に」
促せば、ちらりとリュシアーゼルを一瞥したベルティーユは、躊躇いながらも馬車に乗り込んだことで承諾の意思を表明してくれた。背後で「閣下!」と責め立てるトリスタンの声は無視して、リュシアーゼルは馬車のドアを閉める。
「いくらユベール公爵と言えども、このような横暴は――」
「少し黙っていろ、トリスタン・ラスペード」
振り返ってリュシアーゼルが睥睨すると、トリスタンはびくりと肩を揺らし、息を呑んだ。そんな彼からアルベリクに視線を移動させる。
「彼女は連れていく。よろしいか?」
訊ねながらも、よろしいわけがないだろうなとリュシアーゼルは思った。予想どおり、アルベリクの表情は険しい。
「ご自分が何をしているのかおわかりですか?」
「ああ。もちろんだ」
子供ではないのだから、理解もせずにこのような行動を起こすわけがない。
最善の選択ではないだろう。それでも、知り合ったばかりのはずのあの少女を、リュシアーゼルはどうしても放っておくことができなかった。
「貴殿らには虐待の疑いがあるため、ご令嬢を保護すべきだと判断した」
「!」
「納得ができないようなら、今すぐ警察に相談することになるな」
警察と聞くとアルベリクの眉間にしわが寄った。その変化が、警察沙汰は望ましくないことを雄弁に物語っている。
「……ああ、彼女はまだ第二王子の婚約者なのだから、この場合は軍への通報も視野に入るか。貴殿はどう思う?」
追い討ちをかけると、大きく反応を示したのはトリスタンだった。
「父上!」
父親とは異なり、トリスタンはこれでは引き下がらないどころか刺激されたらしい。どうにかしてくださいと父親に訴えている。
「トリスタン、家に戻りなさい」
「しかし!」
「大事になれば、それこそ我が家の名誉は地に落ちる」
「だからってあいつを易々と――」
「誰か、トリスタンを連れていけ」
まだ庭にいて距離を置きつつこちらの様子を窺っていた使用人たちは、アルベリクの命令に従い、暴れ騒ぐトリスタンを苦労しながらも強制的に邸に連れていった。
(なるほどな)
違和感を覚えたものの、確証があったわけではないために鎌をかけただけだというのに、結果がこれである。案の定ではあったけれど、アルベリクは自白したに等しい。
ラスペード侯爵家は娘を外に出さないほど大切にしていると言われていた。昔からラスペード侯爵家は家族仲が良いことが有名で、第二王子との婚約が調うまでベルティーユが表に出たことがなかったのが理由だ。そして、ベルティーユが王子との交流で外出するようになり、亡き侯爵夫人にそっくりで美しい娘だったことから、あの噂は真実だったのだと広まった。
しかし、それは真実などではなかった。ベルティーユはこの家で良い扱いを受けていない。
よくもまあ、今まで隠し通せてきたものである。これほどまでに隠し事が下手ならとっくに噂になっていてもいいのに、周りが愚鈍なのだろうか。
(家を出たいのも当然か)
なぜ契約結婚という手段を選んだのか得心がいった。ベルティーユがすぐに次の婚約者を決めたがっている理由はこれなのだろう。妙に大人びているあの性格は、培われた教養ではなく諦観の表れだったのかもしれない。
どのような理由でラスペード侯爵家がベルティーユを虐げているのか、今得ている材料だけでは、外部の人間であるリュシアーゼルには察することができない。ただし、これだけははっきりしている。
ベルティーユを、このままラスペード侯爵家に置いていってはいけない。
「第二王子殿下とご令嬢の婚約は近々解消されるそうだ。そうなったらすぐに私との婚約を結んでもらう」
「……あの子との婚約が、貴殿のメリットになるとは思えません」
「それは私が判断することであって、貴殿が測ることではないな」
リュシアーゼルとの交渉で常に優位的な立場にあったベルティーユの情報源はわかっていないけれど、彼らとは無関係なのだろう。そうでなければ、今ここでリュシアーゼルを黙らせるために持ち出しているはずだ。
「彼女はある事件の重要な証人でもある。その点でも保護対象になりうるので預からせてもらおう。これは頼んでいるのではない、命令だ」
高圧的に、リュシアーゼルはそう告げた。
爵位も家格も、ラスペード侯爵家よりユベール公爵家のほうが圧倒的に上。アルベリクが不満を持っていようとも拒否権はないのだ。
己の立場を利用して承諾をもぎ取ったリュシアーゼルは、アルベリクに対して礼儀を守る必要もないと、きちんとした挨拶もせずに馬車に乗り込む。座ると向かいのベルティーユと目が合った。
「待たせたな」
「いえ……」
リュシアーゼルが後ろ――馭者席に面している窓を軽くノックすると、馭者は馬車を走らせる。
しばらく沈黙が流れていたけれど、ラスペード侯爵邸が見えなくなるとベルティーユが口火を切った。
「父が納得したのですか?」
「私は公爵だ。権力はこういう時に使うものだと覚えておいたほうがいい」
ぱちりと、ベルティーユは目を瞬かせた。それから手で口元を隠し、「ふふ」と上品に笑う。
「ありがとうございます」
「貴女に何かあっては困るからな」
「そうですね」
ベルティーユの声も表情も穏やかなものに戻っており、灰色の目は窓の外に向けられた。しかし無意識なのか、トリスタンに掴まれた手首をまだ摩っている。痛みは引いているだろうけれど、痕は残っていそうだし、公爵邸に戻ったらまずは医者に診てもらったほうがよさそうだ。
流れる外の景色を無心で眺めている彼女の顔からは、悲しいとか、怖いとか、そのような感情はやはり見受けられない。今更傷つくようなことではないのだろう。それほどまでに、彼女にとっては尊重されない生活が日常だったことが推察できた。
(なるべく快適に過ごせるよう、急いで準備させるか)
◇◇◇