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20.第二章九話(リュシアーゼル)


 貴族の子息なら、本心はどうであれ表面上は友好的に接することも身につけておくべきである。初対面の相手にそれができないということは、トリスタンは素直な性格のようだ。

 三男は爵位を継ぐこともないだろうから、それなりに自由に育てられたのかもしれない。淑女然としながらも堂々として存在感を放ち、一歩も引かずにいとも容易く相手を言いくるめる妹とは大違いである。


「ユベール公爵閣下、送っていただいてありがとうございました」


 二人が握手を終えたのを見計らい、リュシアーゼルの隣に来たベルティーユは頭を下げた。それにトリスタンがはっとして、「お前どこ行ってたんだよ」とベルティーユの手首を掴む。


「っ……」


 軍人だというのにトリスタンの力加減が甘いのか、ベルティーユは顔を顰めた。


「答えろ」

「離してください」

「答えるのが先だ」


 ますます力が込められたのか、ベルティーユの眉が更に寄る。黙って見ていられず、リュシアーゼルも手を伸ばしてトリスタンの手首を捕らえた。


「トリスタン殿、彼女が痛がっている」

「失礼ですが公爵閣下、妹は家の馬車を帰して王家の馬車を利用するといったわがままを通し、不敬を働きました。しかも行き先や帰宅時間も告げずに勝手にどこかへ行って家の者を混乱させたので、躾が必要です」

「度が過ぎればそれはただの暴力だろう」


 リュシアーゼルが手に力を入れると、今度はトリスタンが痛みに顔を歪める番になった。


「離すんだ」


 多少脅しに近い声音になってしまったけれど諭すように言えば、トリスタンはベルティーユの手首を離した。リュシアーゼルもトリスタンを解放し、ベルティーユを気にかける。


「大丈夫か?」

「はい……」


 掴まれた部分を摩るベルティーユは無表情だった。兄に乱暴をされたのに、手首はまだ痛むはずなのに、まるで慣れきっているかのように驚きも何もない。


(想像していた空気感とはだいぶ違うな)


 若い女性の失踪が増加しているこの時期に、妹が自らの意思とはいえ姿を消したのだ。それなのに、トリスタンには無事に帰宅した妹を見て安堵した様子はない。そもそも妹の身を案じてはおらず、勝手な行動に対する憤慨しかないように思われた。


「婚約者に会いにいって他の男に送られて帰ってくるなど、我が侯爵家の名を貶める行動です。なぜ閣下が妹と一緒なのですか?」


 不機嫌さを隠そうともしないトリスタンは、ベルティーユの名誉ではなく、家の名誉を気している。


(婚約解消の件はまだ耳にしていないのか)


 王家からは何も報告がなかったようだ。第二王子は国王夫妻の説得に時間を使っているのだろう。それか、説得のための準備をしている段階なのかもしれない。


「――ユベール公爵」


 冷静に分析していると、見覚えのある男性が邸のほうからこちらに歩いてきていた。


「なぜ貴殿がこちらに?」


 ラスペード侯爵家当主。ベルティーユとトリスタンの父アルベリク・ラスペードは、リュシアーゼルにそう問うた。

 アルベリクも若くして当主となった人物で、当主の座についてもう二十五年ほど経っているだろうか。その年月によって積み重ねられてきた貴族当主としての風格がある。


「ご令嬢と話す機会があったので、お送りしたところだ」

「そうですか。手間をかけてしまい申し訳ありません」


 淡々としているアルベリクも、大切な娘を心配していた父親のようには見えない。

 無表情のまま、アルベリクはベルティーユに視線だけを向けた。


「早く部屋に戻りなさい」

「はい」


 温度のない声で返事をしたベルティーユは、改めてリュシアーゼルに一礼し、邸に向けて足を踏み出す。その彼女の腕をリュシアーゼルは咄嗟に掴み、歩みを止まらせてしまった。


「……?」


 不思議そうにベルティーユに見上げられて、リュシアーゼルは少し時間をかけて自身の行動を理解し、内心驚愕する。完全に無意識で、体が勝手に動いていた。


「あー……」


 このような経験は初めてで、どんな言い訳を並べるべきか、すぐには言葉が見つからずに口ごもる。

 自分は何をしたくて彼女を引き止めたのか。しばし考え、逡巡して、リュシアーゼルはわざとらしい咳払いをした。


「ラスペード侯爵令嬢。貴女さえよければ、今日から私の邸に身を寄せるのはどうだろうか」


 その提案は予想していなかったようで、ベルティーユは目を見開いた。もちろん彼女だけではなく、アルベリクやトリスタンも突然のことに驚いている。


「閣下、何を仰っているんですか!」


 そして、トリスタンは思わずといったように声を荒げた。その声はもちろん届いているけれど右から左に聞き流して、リュシアーゼルはベルティーユの返答を待つ。

 困惑気味のベルティーユは表情が取り繕えていない。とんでもない提案だと自覚しつつも、だからこそ意表をついて彼女の鉄壁の仮面を剥がせたのかと思うと、どうにも気分が良かった。

 リュシアーゼルがご機嫌なことに気づく余裕はベルティーユにはなさそうで、動揺に瞳を揺らしたまま口を開く。


「さすがにそれはご迷惑なのでは。まだ婚約も……」

「どうせ殿下との婚約が解消されれば私たちはすぐ婚約者になるのだから、評判は大して変わらないだろう。言いたい者には言わせておけばいい」


 ウスターシュとの婚約解消直後にベルティーユとリュシアーゼルが婚約するのと、今の婚約が解消される前から二人で同じ邸の中で暮らし始めるのとでは、問題の大きさにかなりの差がある。しかし、リュシアーゼルとしては特に気になることではないので、そのことをしっかり示した。

 ベルティーユも構わないのであれば、リュシアーゼルは快く彼女を公爵家に迎え入れるつもりだ。


「婚約が解消? おい、どういうことだ」


 期待していた声とは違うものが再度響き、リュシアーゼルの気分を落とした。


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