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02.プロローグ 後編


 症状が悪化の一途を辿っていたのはベルティーユ本人が一番実感していた。だからこそ、大量の血を吐いて意識を失う直前、死を覚悟したのである。それがたった三日前のことらしいのに、病が治りかけていたなんて、そんなことありえるはずがない。

 意識がない間に治療を受けていたとしても、彼の言い分からして治りかけていたというのは意識を失う前のことを指しているようなので、明らかに矛盾している。


 困惑が隠せないベルティーユを観察していた医者は雰囲気を深刻なものへと変えた。考え込むように視線を落とし、それから再びベルティーユを見据える。


「お嬢様、もしや――」

「おい、まだ終わらないのか?」


 医者の声を遮ったのは、待ちきれないといった様子の末兄だった。扉の向こうから聞こえてきた催促に応えて、侍女が扉へと駆け寄る。


「診察はお済みになったようですし、入室していただきますね」

「いや、待ちなさ――」


 止めようとした医者に気づかず、侍女は扉を開けて兄たちを招き入れた。医者がため息を吐く。

 真っ先に入ってきた末兄はずんずんベッドのそばまで来ると、厳しい顔つきでベルティーユを見下ろした。


「大丈夫なんだろうな?」


 一見すると喧嘩腰のように感じられるけれど、その声音や眼差しには心配が滲んでいる。

 末兄から気遣われるという事態にはやはり怪訝になり、ベルティーユは返事をせずにいた。すると、末兄の眉間に深くしわが刻まれる。


「顔色悪いし、何か……」


 末兄がそう言いながら伸ばしてきた手を、ベルティーユは咄嗟にパシッと払う。末兄は瞠目し、他の兄たちも父も同様だった。


「触らないでください」


 ベルティーユが鋭い目つきになると、彼らは次に困惑を顔に浮かべる。ベルティーユは最近、それこそひと月近くこのような態度をとっていたというのに、なぜ彼らはこんなに驚き、困惑しているのだろう。

 この家では、ベルティーユは使用人以下の存在だ。彼らの神経をなるべく逆撫でしないように大人しく、逆らわずに生きてきた。いつかは愛されるのではないかと期待していた。けれど、己の死期を悟り、自分を尊重してくれない人たちに気を遣うだけの人生が途端に馬鹿馬鹿しくなって、反抗するようになったのだ。

 今ベルティーユの中にあるのは、怪訝や苛立ち、軽蔑などの負の感情だ。彼らが今までベルティーユに抱いてきた感情を返しているだけ。


「ベルティーユ?」

「なんなの、どうしたのですか? 私のことなんて大嫌いなのでしょう? 憎いのでしょう? なのに心配するふりなんかして、今更どういうつもりなのですか?」

「っ……」


 末兄は動揺に混じって傷ついたような色を帯びた顔つきになった。それから、震える唇をゆっくり動かす。


「お前、記憶が戻ったのか……?」

「記憶? 何を言って――っ」


 また頭痛がして、ベルティーユは眉を寄せ、シーツをぎゅっと掴んだ。

 頭の中では次々と知らない光景が流れていく。ベルティーユが兄たちと出かけているところ、楽しそうに食事をしているところ、プレゼントをもらっているところ――どれも、実現するはずのない状況ばかり。


(何、この記憶)


 それが記憶であることを、ベルティーユは即座に理解できた。自分の中にある記憶だと。


「お嬢様」


 痛みに耐えながらも頭を働かせていると医者に呼ばれた。


「私が誰かわかりますか?」

「……お医者様でしょう」

「申し訳ありません、訊き方が悪かったですね。私と会うのは今日が初めてですか?」


 医者の質問に末兄が眉根を寄せる。


「おい、何ふざけたこと訊いて――」

「そのはずだと思いますけれど」


 末兄を無視して医者の質問に対する答えをベルティーユが伝えると、皆が息を呑んで驚愕を露わにした。

 ベルティーユに視線が突き刺さる。彼らの眼差しはまるで、そんなわけがないと言っているようだった。


「っ……」

「「「ベルティーユ!」」」


 頭痛が悪化してベルティーユが頭を押さえると、末兄と次兄、父の声が重なった。しかし、ベルティーユの思考は激痛や知らないはずの記憶で手いっぱいだ。

 そして、途端に自分の状況を理解した。

 不思議と取り乱すことはなかった。混乱はもちろんあるけれど、案外冷静でいられるものだ。


「……今日は、何年の何月何日ですか?」

「王国暦五四六年、七月二十三日です」


 頭痛が落ち着いてきたタイミングで訊ねると、答えてくれたのは医者だ。


(あれから半年くらいね)


 ベルティーユの記憶にある最期だと覚悟した日から、およそ半年が経っていた。断片的ではあるけれど、この半年間の記憶が次々と蘇ってくる。

 ありえない記憶は体に刻まれている記憶だ。ベルティーユ自身が経験したことではない。

 ベルティーユが大量に吐血して死を覚悟したあの出来事は、三日前ではなく半年前に起こったことだった。そして、死にかけたからか――それでも信じられないようなことだし、予想しかできないので正確な原因はわからないけれど、驚くことに半年の間、別人の魂がこの体に宿っていたようだ。それも異世界人の魂が。


 残っている記憶。けれど、他人の記憶。ベルティーユの意識がない間、別の誰かがベルティーユとして過ごしていた記憶。

 とはいえ、その異世界人にはベルティーユの記憶は引き継がれなかったようで、記憶喪失ということにしていたらしい。そして、『記憶喪失のベルティーユ』は――。


「お前もしかして……昔のことを思い出した代わりに、この半年間の記憶がなくなったのか?」


 否定してほしいとでも言いたげな悲痛な顔で、末兄はベルティーユに問う。医者はまだ決定的な確認をしたわけではなかったけれど、末兄も他の者たちもその可能性に気づいたようだ。医者から事前にこういうこともあると説明されていたのかもしれない。


「少しずつ思い出してきましたわ。たった半年で、この家はずいぶん変わったものですね」


 末兄は何か言いたそうに口を開いたけれど、結局は何も声に出すことなく閉じた。ぐっと唇を噛み締めている。

 その隣に来た父は、後悔を前面に出していた。


「今まですまなかった。ずっとお前を放置して――」

「謝罪なんていりません」


 父からの謝罪を、ベルティーユは冷然と拒絶する。

 だって全部、今更だ。あまりにも遅い。『放置』という甘い表現も不快さに拍車をかけるだけだった。


「出て行ってください。全員です」

「ベルティーユ、話を」

「出て行ってと言っているのが聞こえないのですか? 話すことなんてありません」


 自分でも意外なほど憤怒に染まった声でベルティーユは断固として拒絶の姿勢を示すと、父たちはたじろいでいた。

 そんな中、医者がベルティーユに声をかける。


「お嬢様」

「ひとまず頭痛以外の懸念はないのですよね。話はあとにしてください」

「……承知しました」


 一人にしてほしいと、ベルティーユの強い意思を感じたのだろう。医者が促し、皆が部屋を出ていった。チラチラ視線を寄越して気にしていた家族に見向きもしなかったベルティーユは、シーツを握る手に力を込める。


「最悪ね」


 零れたのは、そんな一言だった。


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