14.第二章三話
怒りが存分に含まれた低い声と、疑う余地すらない明確な敵意。ウスターシュがベルティーユを鬱陶しがっているとはいえ、これほど激しい怒りの感情を向けられたのは初めてである。
婚約者があの子に手を出した。真っ先にその考えに至るところを見ると、自身のベルティーユへの言動が褒められたものではないことは、やはりきっちり理解しているようだ。
「いただいた、と言ったでしょう?」
「そんなわけがない! 彼女はずっと大事にすると――」
「貴方が気づいてくれないから手放すことにしたのかもしれませんね」
「なに……?」
「殿下がこれを渡した少女は貴族の娘です」
そう告げると、ウスターシュがまた大きく目を見開く。
「……それこそありえない。彼女はボロボロの服を着て、その日食べるものにも困るような生活を送っていたんだぞ」
「貴族の子だからと優雅な暮らしが保障されているわけではありません。没落寸前の家や子供を冷遇する家、色々あるのですもの。ご存じでしょう?」
第二王子という立場にあるため、ウスターシュは貴族との腹の探り合いも経験豊富だ。表面上はよく見えても実際はそうではないことも多いのだとよく理解している。彼自身が表向きは取り繕っているのだから尚更だろう。
「私がこのペンダントを持っているということが、少女が貴族の血筋であることの証明になると思うのですけれど。それも、それなりに名のある家の」
「……君と交友関係のある令嬢ということか!」
希望を見いだしたように興奮した声を上げ、ウスターシュはそのまま考え込み始める。
「つまりラスペード侯爵家と同格程度……王子妃として身分も申し分ない」
婚約者の前で、まったく配慮のない言葉を漏らしている。しかし、これがウスターシュという男だ。ベルティーユへの気遣いは所詮義務であり、昔出会った少女で頭が埋め尽くされている今の彼であれば尚のこと、配慮などするはずがない。
完璧な王子様の姿は虚像で現実はこんなものだと、心底痛感させられた。
ベルティーユの言葉から、ウスターシュは少女が自身と面識のある貴族令嬢だということを察しただろう。だったらなぜ相手から名乗り出てくれなかったのだろうかと疑問を抱いているのが、そしてすぐ、それはウスターシュが婚約しているからかと結論を導き出したのが、彼の表情から窺えた。
彼は王子という立場に責任感を持っている。だから平民との結婚は難しいと、必死に己の感情を抑えて彼女を諦めた。それなのに彼女が貴族出身だと知らされたのだ、絶対に捜し出すつもりでいるのだろう。
「どの家の令嬢なんだ?」
「まあ。それを簡単に教えるとでも?」
こてん、とベルティーユは首を傾げる。なぜそんなことが訊けるのだと不思議に思っていることを前面に出して。
「私が今までどれほど殿下に傷つけられてきたとお思いですか? ひたすら尊厳を踏み躙られたのです。婚約しているというだけで殿下に寛大な対応をすべき義理はありませんわ」
「……望みはなんだ」
予想どおりの台詞に、ベルティーユはにっこりと笑みを浮かべる。
「この婚約を殿下有責で解消していただきたいのです。精神的苦痛や婚約解消による私の名誉失墜に対する慰謝料、そして少女についての情報料を、私個人にお支払いください」
「要求が金銭か。それも円満な解消ではなく私有責とは、いくらなんでも高望みすぎるな」
「婚約者同士の関係を良好なものにする意志がなかったのは殿下のほうですもの。そうでしょう?」
否定はできなくても肯定する気もないようで、ウスターシュは余裕のある笑顔で挑発気味に口を開いた。
「誰もそんな話は信じないだろうな。私たちは『理想の婚約者』なのだから」
「ふふ。殿下がどのような人間かを入れ知恵してほしいのでしたら、素直にそう仰ってくださいませ。喜んでその望みを叶えて差し上げますわ」
すう、とベルティーユは目を細めて、少しのんびりした落ち着いた口調ながらも、売られた喧嘩は買うと強気に応戦する。
わざわざ口に出さずとも、誰に入れ知恵をするのかウスターシュは気づいたようだ。威圧感のある鋭い目で射抜かれたけれど、ベルティーユは怯むことなく悠然とした姿勢を崩さない。
「別に断っていただいても構いませんよ。その場合、私からこれ以上お話しすることはございませんし、ペンダントも手放しません。私がいただいたのですから正真正銘私のものなので、返せなどと仰らないでくださいね」
こちらには『第二王子の初恋の相手』というカードがある。下手に出る必要はない。優勢なのはあくまでベルティーユだ。
「頑張ってご自身で彼女をお捜しください。ただ、断言します。今の情報でも十分に絞り込まれていますが、私の助言なしでは決して見つけることはできないでしょう。実際、殿下は再会しても気づかなかったのですから」
しばしの沈黙のあと、ウスターシュが観念したように息を吐いた。
「……わかった。君の条件を呑む」
予想していたよりも呆気なく引いてくれた。それほど初恋の少女への想いが強いということなのだろう。
「そんなにも彼女が大切ですか? 幼い頃に会っていただけの仲なのに」
「ああ。私にとっては何よりも大切な存在だ」
「思い出が美化されているだけでは?」
「否定はできないな」
「彼女のほうはとっくに冷めてしまっているかもしれませんね」
「それでも私はあの子を忘れることができないんだ。誠心誠意、私の気持ちを伝えて振り向いてもらえるよう努力する」
真剣な声と表情で決意を伝えてくる。
本当に、どこまでも酷い男だ。
(――そんなに好きなら、どうして気づかなかったのですか)
ペンダントはほかでもない、ベルティーユが彼から直接もらったものだ。当時はお互いの身分など知らなかったけれど、婚約者として顔を合わせた時、ベルティーユはすぐに気づいた。
運命だと、思った。けれど彼はそうではなかったのだ。
「婚約者に不誠実な殿下の本性を知ったら、果たして彼女は殿下を受け入れてくれるのでしょうか。失望し、軽蔑するかもしれませんね」
「……」
「せいぜい頑張ってくださいね。私は婚約の解消が成立してお金がもらえるのなら、それでいいですから」
時間が戻る前のウスターシュは、ベルティーユがペンダントを見せるとさすがに気づいたようだった。幼い頃に逢瀬を楽しんでいた少女がベルティーユだったのだと。
あれは、ベルティーユがラスペード侯爵家でどのような扱いを受けていたか、ミノリがベルティーユに憑依している間に彼が耳にする機会があったからだろう。
今の彼は、ベルティーユがウスターシュの婚約者として指名されるまで、ラスペード侯爵家で隠されるほど大切に育てられてきたと思っている。ベルティーユが父に疎まれ、双子や使用人から虐待されていたことも知らないのだから、ベルティーユとあの少女を結びつけることができなくて当然かもしれない。
「最後くらい、誠意を見せてくださることを期待していますわ、殿下」
とっくに失望し、軽蔑している。そのことに後から気づいて、せいぜい後悔すればいい。どうせ彼にはミノリという運命の相手が現れるのだから、それまでは苦しめばいい。