12.第二章一話
死に戻りというものを体験して改めて色々と吹っ切れたベルティーユは、マチルドを部屋から追い出した。それから寝巻き姿のままソファーに座り、のんびりとした自由な生活を送るためにどうするべきかと思考を巡らせ始めた。
まず、ウスターシュとの婚約は解消したい。そして、この家を出るために手っ取り早いのはやはり結婚である。女性の一人暮らしは危険だし、ベルティーユは世の中というものをそれほど知らない。個人資産もほとんどないため、現実的なのは結婚一択だろう。
ただの政略結婚だとウスターシュの時のようになりかねないので、お互いに個人的に利益を与えることができて裏切る心配のないパートナーがほしい。それも、それなりの力を持つ家の男性だ。この先のベルティーユの安全と平穏を守るためには、ラスペード侯爵家も王家も容易に干渉できない家が理想である。
いわば契約結婚。ベルティーユが相手に求めるのは穏やかな余生を保証してくれることだけだ。
ベルティーユが相手を説得できるほどの交渉材料を持っており、尚且つ力のある家という条件に当てはまる人物。それはただ一人――リュシアーゼル・ブノワ・ユベール公爵。
王宮で会った若きユベール公爵が頭の中に思い浮かぶ。
未来を知るベルティーユは、彼が一番求めているもの、そしてそれを与える方法を知っている。契約結婚を提案して承諾させる自信がある。
標的は決まった。ウスターシュとの婚約を解消し、リュシアーゼルに契約結婚を承諾させる。
ちょうど明日はウスターシュとのお茶会の日だ。婚約解消に向けて彼を説得する材料を考えなければならない。
頭を悩ませていると、ガチャ、と、扉が音を立てた。外から誰かが開けようとしているようだけれど、鍵をかけているのでガチャガチャと激しく音が鳴るだけだった。
「なんなんだよ、鍵かけてんじゃねぇ! 開けろ!」
トリスタンの声だ。ドンドンと扉が叩かれる音が響く。
今の時期だとトリスタンは二十歳のはずで、とっくに成人している。尚且つ軍に所属している人間だというのに、相変わらず落ち着きがない。もっと厳しくしごかれて性格が矯正されればよかったのに。
鍵を開けるよう催促する声と扉を叩く音がやまない中、ベルティーユはそれを無視して頭を働かせることを選択した。しかし、ガチャリと鍵の開く音がして思考が止まる。
扉を押し開けたトリスタンが不機嫌な顔をしているその後ろに、こちらを睨むように鋭い視線を向けてくる執事長の姿があった。
ベルティーユの部屋の鍵を持っている使用人は数人いる。だから鍵をかけることは意味を成さない。
(最近は鍵を勝手に開けてまで入ってくる人がいなかったから、すっかり忘れてたわ)
時間が戻る前、ミノリに絆されて変わった彼らとは違う。ここは敵だらけなのだと思い知らされた。
ため息を吐いたベルティーユが座るソファーのすぐそばに、トリスタンがやって来た。不快だと露わにしている顔つきでベルティーユを見下ろしている。
「マチルドにずいぶん生意気な態度をとったらしいな」
予想はできていたけれど、やはりマチルドがトリスタンに愚痴を零したようだ。というより告げ口だろうか。トリスタンは話を聞いて、叱るためにわざわざここまで足を運んだらしい。
「生意気なのは、侍女という立場で主人に命令する彼女のほうでは?」
いつものように謝罪が返ってくると思っていたのだろう。ベルティーユの淡々とした言葉にトリスタンは目を丸くして、突如ベルティーユの胸ぐらを掴む。
「お前、自分が普通の貴族令嬢と一緒だとでも思ってんのか? 殿下と婚約したから自分も高貴な存在だって、分不相応にも勘違いしてんだろ?」
粗野な言動、ベルティーユを人とも思っていないような扱い。これでこそトリスタン・ラスペードだ。時間が戻る前のようなしおらしい姿には虫唾が走る。
ただ、らしいからといって、彼のこの態度を許容できるわけではない。
「貴方こそ、自分が普通の貴族令息だと勘違いしているのではありませんか? こんなに野蛮なのに」
「あ?」
煽れば簡単に不機嫌さが一段階上がる。非常に扱いやすい男だと思いながら、彼の右腕を握った。
「離してください」
力を込めて爪を立ててやると、トリスタンは痛みに顔を歪めて押し退けるようにベルティーユの服を離した。勢いで後ろに下がったベルティーユはソファーに受け止められる。
姿勢を正したベルティーユは服を直す。襟元が皺くちゃなのは、それほど力強く掴まれていた証だ。
一方のトリスタンは、爪の痕がついた自身の腕を確認してから顔を歪め、忌々しそうに再びベルティーユを見下ろした。
「トリスタン様」
「いい、邪魔すんな」
執事長が心配そうに駆け寄ろうとしたのを、トリスタンは視線を向けることなく苛立たしげな声だけで止める。
反撃を食らうとは思っていなかったであろうトリスタンの驚きと、それに伴う怒りは大きいだろう。目つきが鋭さを増した。
「なんのつもりだ」
「自分の身を守るための反撃です」
「それで俺の皮膚を抉ったのかよ」
「まあ大変。そこまでするつもりはなかったのですけれど、薬でも塗ったほうがいいかもしれませんね」
申し訳ないとはまったく思っていなさそうなベルティーユの他人事な言い方は、トリスタンの不機嫌を煽ることになった。
「怪我させといてその態度か? 何様のつもりだ」
「私を噴水に突き飛ばしてびしょ濡れになったのを嘲笑したり罵倒したりするお兄様よりは優しいでしょう? なんなら同じようにしましょうか? ぶつかられてお尻を打ったことも、転ばされて手首を捻挫したことも、手のひらを擦り剥いたこともありましたね。少し皮が剥けるくらいなら可愛いものですから、お兄様にもしっかり怪我をしてもらったほうがいいと思うのですけれど、いかがですか?」
可愛らしく笑顔を見せて意見を求めると、トリスタンは奇妙なものを見るような顔になった。
「お前、頭おかしくなったんじゃねぇのか?」
「今更ですね」
愚問すぎて、ベルティーユは「ふふ」と笑いを零す。
「生まれた時から罪人扱いされてきた人間がまともに育つとでも思っているのですか? あまりにも楽観的すぎますわ、お兄様」
わざと甘ったるい声で『お兄様』と呼ぶと、トリスタンはますます不気味なものを前にしているかのような色を濃くした。実の妹相手に、つくづく酷い兄である。
まあ、すでに兄であることを彼に求めてはいないので、傷つくこともない。
「人は基本的に環境で人格が形成されていくものです。もちろんその人の本質も関係があるでしょうけれど、私がおかしいのは貴方たちがそう育ててきたからですわ」
壊れたのはいつだったのだろう。死期を悟ってようやく現実を直視した前回のベルティーユは、どこまでも愚かだった。
「私は別に、貴方たちを傷つけたって心が痛むことはありません。貴方たちだって私に対してそうですよね? さんざん私を虐待してきたのに、悪いなんて思っていないでしょう?」
少しでも口答えをしたり意見をしたりすると、使用人に鞭で叩かれることが何度もあった。そのような教育をするように命令したのは、仮にも実の兄であるはずの双子だ。
「人を傷つけるなら、それが返ってくる覚悟も持たなければいけませんわ。自分に優しくしてくれない人に優しさを向けてあげるほど寛大な人の割合なんて少ないのですから」
耐えていたのは、母の命と引き換えに生まれてきた悪魔だと、ベルティーユの存在が悪なのだと言われ続けてきたから。
けれどずっと、それは違うのではないかと疑問を抱いていて、そのうち悪は彼らのほうだと確信した。
「目には目を、と言うでしょう? 悪意にはきっちり悪意でお返ししますわ」
「……ハッ。お前に何ができんだよ。どうせ強がりだろ。母親を殺したお前は一生をかけて償わなきゃいけねぇんだよ。お前が罰を受けるのは義務で責任だ」
「人が命をかけて赤子を守ることはできても、赤子が自らの意思で人を殺すことはできません」
ベルティーユがそう言うと、トリスタンは瞠目した。またも予想外の返しだったようだ。
今のはミノリの受け売りである。
記憶喪失の妹にそれまでの立場をわからせるためか、トリスタンが『お前は母親を殺して生まれてきた』と、今と同じような説明をしていた。それに対するミノリの返答がこれだった。
『赤ちゃんのために誰かが命をかけることはできるけど、赤ちゃんが人の命を奪うことはできないですよね。だって自分では何もできないんだから』
まったくもってそのとおりだと思う。そんな当たり前のことが、この家では通用しなかった。
ちらりと、ベルティーユは扉のほうに視線をやる。執事長の後ろにカジミールがいた。トリスタンがこちらに向かったと聞いて様子を見に来たのだろう。
「お母様のことは、どちらかといえば貴方たちが見殺しにした、というのが正しいと思いますわ」
灰色の双眸でトリスタンに視線を戻してはっきりとそう紡ぐと、トリスタンが息を呑んだ。