11.第一章九話
ベルティーユは目を開ける。視界に映った見慣れた天蓋にぱちぱち瞬きをして、戸惑いながらも体を起こした。
見下ろした両手には血がついておらず、服も変わっている。ぐっぱぐっぱと握ったり開いたりして感覚を確かめて、幻でもあの世でもないのだと確信を得る。
(また死ねなかったの?)
生きている。まだ心臓が動いている。
こうしてまた目を覚ますことになるとは思いもしなかった。一体、何度死を覚悟して倒れればいいのだろうか。いい加減に解放してほしい。
(ん? 髪、少し短くなったかしら。 倦怠感もだいぶ楽に……)
髪の変化や調子の良い体の違和感に気付きながら顔を上げて、ベルティーユは固まる。部屋の中が、とても見慣れた光景になっていたからだ。
最低限の調度品が置かれた部屋。ミノリに贈られてこの部屋を彩っていた小物や花などがなくなっており、名門貴族の娘が主人とは思えないほどに寂しい景色である。
(私が眠っている間に、彼女に渡したということ?)
半年の間の贈り物については確かにミノリの意向を確認するよう言ったけれど、ベルティーユがこの状態の時に彼女が言及するとは考えづらいし、今の兄たちがベルティーユに断りなく勝手に持ち出すということも同様だ。
(そういえば)
自分の服を見下ろす。今着ているのは、サイズが合わなくなって数年前に捨てたはずのものとそっくりだ。当時は身長はほとんど伸びておらず、サイズが合わなくなったのは胸囲だった。その成長した胸が――。
(……ない)
いや、正確にはまあまあなものがあるのだけれど、明らかに小さくなっている。
(どうなって……)
自分の体に起こっている変化に困惑していると、ノックもなく部屋の扉が開いた。久々の出来事にきょとりとなる。
「いつまで寝てるんですか」
ベルティーユ付きをやめさせたはずの侍女――マチルドが、洗面器を持って現れた。
なぜここにいるのだろう。それに、起きているのにベッドにいるからと難癖をつけるなんて、態度ががらりと変わって――いや、以前のように戻っているし、病人への気遣いが一切感じられない。
その変貌っぷりに疑念を抱く感覚は、憑依されていたことを知らずに半年ぶりに意識を取り戻した時と似ていた。
(というか、マチルドの見た目……)
どことなく若くなっているような気がする。
「モニクはどこ?」
「モニク? 誰ですかそれは」
新人の侍女の名前はモニクで間違いなかったはずだ。なのにマチルドは怪訝そうにしている。
(まさか……)
ベルティーユは、ある可能性に気づいた。
短くなった髪や小さくなった胸、倦怠感のない体。最低限のものだけが置かれた部屋。元通りの侍女の態度と、新人の侍女モニクがいないという状況。
それらを総合して導き出せる答えは、一つ。
「――今日は、何年の何月何日?」
「あら。もうボケちゃったんですか?」
「答えなさい」
凛とした声で命じると、マチルドは気圧されたように息を呑んだ。それから面倒そうに口を開いて。
「王国暦五四三年、六月二十八日ですよ。これでいいですか?」
三年ほど前のはずの日付が今日のものだと、そう言った。
(やっぱり)
予想が当たっていた。信じられないことに、時間が戻っている。
ベルティーユは他人が自分の体に憑依していたという超常現象を経験したのだ。この世界には魔法もまだ存在はしているので、時間が戻った、という現象も存外冷静に受け入れることができた。
(つまり、今の私は十四歳ということね)
数ヶ月後には十五歳。この時はまだ病には蝕まれていなかったのだから、どうりで倦怠感がないわけである。
こんなに軽い体はいつぶりだろうか。ミノリの憑依後に目を覚ました時は、高熱の名残やすぐに病が悪化したせいで、体調が良くなっていたわずかな時間をあまり実感できていなかった。
(猶予は約三年……いえ、二年くらいね)
病の自覚症状が出始めるのは大体二年後だ。そして、二年半後にはベルティーユの意識がなくなり、ミノリが憑依する。更に半年後に、ベルティーユは今度こそ命を落とす。
その未来がわかっているのだから、前回どおりの道を歩むつもりはない。
三年前に戻ったということは、マチルドがそうであるように、周りの人々がベルティーユを虐げることを当然の権利として行使しているということ。それは未来の彼らの反省している姿がすべて無に帰してしまったことを示している。ベルティーユの最後の恨み言も無意味に終わった。
それでも、新しく時間が与えられた。どうして時間が戻ったのかはわからないけれど、人生を変える機会を得たのだ。
そのうち死ぬ運命。ならば、ベルティーユではなく他人にしか愛情を向けない家族も婚約者も捨てて、残りの時間をのんびり過ごそう。限られた時間を彼らに捧げる義務はない。ずっと我慢してきたけれど、自由に好きなことをしてみよう。
今度こそ、自分のために生きてみよう。
「――お嬢様、さっさと準備してください」
存在を忘れていたマチルドの声が響く。敬意の欠片もない表情でこちらを睨んでいる彼女に、ベルティーユはにっこりと笑みを見せた。
「嫌よ」
「……はあ?」
ベルティーユが笑顔で簡単に拒否したことを理解するのに時間がかかったようで、マチルドは少しの間を置いて顔を歪めた。
「何を言ってるんですか。嫌だなんて、お嬢様ごときがずいぶん偉そうですね」
「そうよ、私はお嬢様なの。忘れているようだけれど、正真正銘、一応はラスペード侯爵の血を継いでいる侯爵家の娘なの。貴女より身分がとっても上なのよ、マチルド」
少しだけのんびりとした落ち着いた口調で、ベルティーユは告げる。
「私が侍女ごときに命令される謂れはないわ」
こてんと首を傾げ、頬に手を添え、ベルティーユは「そうでしょう?」と問いながら笑みを深めるのだった。