10.第一章八話
「彼女はラスペード侯爵一家が愛する唯一の娘で妹ですから、正式にラスペードの養子とすればよろしいかと。彼女に甘いラスペードは心強い後ろ盾となり、王族との婚姻もスムーズになると思いますわ」
ベルティーユはミノリににっこりと笑いかける。
「殿下は婚約者に対してとても不誠実なお方ですけれど、それはあくまで政略結婚の相手に対してです。貴女とは恋愛結婚になりますから、私のような扱いは受けないと思うのでご安心ください。きっと今まで以上にお優しく、大切にしてくださることでしょう。物語に出てくる王子様のようにね」
それが激励やお祝いの言葉であるとは受け取れなかったようで、ミノリは息を呑む。その瞳に浮かぶのは恐れにも似た何かだった。
ミノリを一瞥したウスターシュが、碧眼でベルティーユを見つめる。自責の念にかられている彼はベルティーユに強く出ることができないらしく、何か言いたそうにしているけれどなかなか口を開かない。きっと言葉を選んでいるのだろう。
「こちらはお返しします」
待つことはせず、ベルティーユはポケットから取り出したあるものをテーブルに置いた。シャラ、と細いチェーンが音を立てる。
「他の……婚約中に形式的に私に贈られたものに関しては、今の侍女にすべて譲るつもりです。半年間ミノリさんに贈られたものは私のものではありませんので、彼女の意向をご確認ください」
「これは……」
置かれたペンダントをその目で捉えると、ウスターシュは瞠目した。そして、驚愕の表情のまま顔を上げてベルティーユを見つめ、震える唇を動かす。
「……まさか」
このペンダントを見て彼が何を思うのか、そこは重要でもなんでもない。
「私は半年前から貴方たちに憎しみしか抱いておりません。あの頃にはもう終わっていたのです」
彼らに縋る価値はないと、愛情を求めるのは愚かだと気づいた、己の死期も悟らざるを得なかった半年前。限られた貴重な時間を無駄にしてしまったと気づいた時にはあまりにも遅すぎた。
「お慕いしておりました。どうぞお幸せに」
本心ではない。決別の意味も込めた、ただの皮肉だ。
ベルティーユが立ち上がって扉へ向けて一歩踏み出すと、ウスターシュに腕を掴まれる。
「待っ――」
「っ、げほ」
突如、ベルティーユは上半身を襲った痛みに身を屈め、咳き込んだ。口元を押さえた手に血がべっとりとつく。
「「ベルティーユ!」」
双子が叫び、ウスターシュは突然のことに固まった。
ベルティーユは血に染まった手を見ながら、血の味を感じながら、ぐっと眉根を寄せる。
(いくらなんでも早すぎるわ……)
神なんてもう信じていないけれど、神に見放されたと思った。ベルティーユはあらゆるものからとことん嫌われているようだ。
(もう少しくらい猶予があると思ってたのに)
ミノリの魂がベルティーユの体に宿って以来、病は奇跡とも思えるほど良くなっていった。しかし完治する前に、ベルティーユはベルティーユに戻ってしまった。意識を取り戻して数日、ベルティーユはそのことを失念していたのだ。治りかけていたと、医者は確かにそう言っていたのに。
ミノリが追い出されてこの体に癒しの力がなくなったことで、病は異様なスピードで急激に成長し、この体を蝕んだ。
気づいていた。気づいていながら、医者にこのことを報告しなかった。治療を受けなかった。
「ベルティーユ、しっかりしろ!」
「なんでっ…‥病は完治目前だったはずじゃ……!」
体に力が入らず自力で体を支えられなくなると、それまで驚いて固まっていたウスターシュがはっとし、ベルティーユを自分の体にもたれかからせて抱き上げた。最高級品で仕立てられている服に血がつくのもお構いなしで、ベルティーユに必死に声をかけながら、ミノリとウスターシュが座っていたソファーにベルティーユをひとまず寝かせる。
「医者を! いや、いせか、……っミノリ、お前なら治せるんじゃないのか!?」
意識が朦朧としている中、微かに聞こえてくる声は兄たちのものだ。必死な様子でミノリに助けを請うているのが霞む視界に移った。
この場でミノリの力を頼るという選択は、当然のように真っ先に思い浮かぶものだろう。癒しの力を持つ者がそばにいるのはとても運がいい。
しかし、そう都合よくいかないのが現実というものだ。
「わ、私はまだ力のコントロールが上手くできなくて、自分の怪我も勝手に治るだけで……訓練はしてるんですけど、人の怪我は治せないんです」
青い顔で声を震わせたミノリの言葉は、兄たちを絶望に落とした。ベルティーユは察していたので落胆もない。
憑依している間も、ミノリは他者に力を使うことができなかった。それは本来は癒しの力の適性がないベルティーユの体だから力が上手く使えなかったというだけかもしれないけれど、だからこそ、まだ自分の体に戻って三週間にも満たない時期では違和感があるだろうと思っていた。
それに、怪我とは異なり、病を治すのはかなり技術が必要なはずだ。ミノリには到底無理だろう。
そもそも、病の異変を悟ったタイミングですぐに医者に診てもらったところで、どうせ助からなかった可能性のほうが非常に高い。病の進行が異常すぎるのだから、手立てなどないはずなのだ。
半年前に死ぬ運命だった。それが予想もできなかったことが起こって、今になっただけのこと。
「ベルティーユ、ベルティーユッ!!」
繰り返し叫ぶようにベルティーユの名前を呼んでいるのはトリスタンだ。カジミールは医者を呼ぶよう従者に頼みにでも行ったのか、ベルティーユから見える場所には姿が見えない。
レアンドルは――どんな顔をしているのか、よく見えなかった。こちらを凝視しているようだけれど、視界が鮮明ではないので表情まではわからない。
感覚が鈍くなっている手がウスターシュに握られている。ミノリがすぐそこにいるのに、やはり移り気な男だったと認識を改めたほうがよさそうだ。
「さわら、ないで」
「っ……」
「いまさら、こんやくしゃづら、しないで。かぞくみたいなかお、しないでください」
それはウスターシュだけではなく、兄たちにも、父にも、侯爵家の皆にも向けているもの。
「あなたたちなんて、きらい、だいっきらい」
他人を受け入れた、薄情な彼らへの嫌悪。
「にくむ、のは、あなたたちだけの、けんりじゃ、ない」
理不尽な扱いをしてきた彼らへの憎悪。
「ぜったいに、ゆるさない」
彼らが償おうと何をしたって、消えることはない。
ベルティーユが、命を落としたとしても。
「ベルティーユ……」
「かぞく、なんかじゃ、ない――げほ、げほっ」
「ベルティーユ!!」
更に血を吐いて、呼吸もどんどん弱くなっていく。
半年前に倒れた時と酷似している症状だ。その時と異なるのは、周りの人たちの感情だろうか。
最期まで許されなかったという現実は、今の彼らにはかなり堪えるだろう。そのまま永遠に、死ぬまで罪の意識に苛まれればいい。罪悪感に押しつぶされて苦しめばいい。
死を目前にしているのにベルティーユの心に恐怖はなく、むしろ清々しいくらいだ。
この忌々しい人たちから、否定されるだけの苦痛だらけの人生から、ようやく解放される。
――そう、思っていた。
◇◇◇