01.プロローグ 前編
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ベルティーユ・ラスペードは目を開いて、霞む視界に映った天蓋をぼーっと見つめた。
水の音が聞こえた直後、視界の端に動く何かを捉える。そちらに顔を向けると、ベッドの傍らに侍女がいた。サイドテーブルに置かれた洗面器の上で濡れた布を絞っている。
「お嬢様、失礼しますね」
十分に水を絞って広げた布を丁寧に畳んだ侍女はそう言いながらこちらを見て――ベルティーユと目が合うと、ピタ、と動きを止めた。銅像のように固まっている侍女の目が見る見るうちに見開かれていく。
「お嬢様っ」
力が抜けたのか手の中から布が滑り落ちたけれど、侍女はそれには目もくれず、泣きそうな、安堵したような表情でベッドに手をついた。
「お目覚めになったのですねっ。よかった……!」
泣きそうなではなく、明らかに目に涙が滲んでいる。
「どこか痛いところはございませんか? 何か違和感や熱は……」
(どういうこと?)
侍女から質問攻めにされて、ベルティーユは困惑していた。この侍女がこんなにもベルティーユを心配しているのが不可解極まりなかった。
だって彼女は主人であるベルティーユをずっと嫌悪し、雑に扱っていたのだ。取り繕うことなく、わかりやすく態度に出していた。ベルティーユの心配などするはずのない人だった。
それなのに、この様は一体なんなのか。
「うっ……」
「お嬢様っ」
ズキッと頭に痛みが走ったためベルティーユがこめかみに手を当てて呻くと、侍女は焦ったように声を上げる。
「お医者様と旦那様方をお呼びします!」
侍女が駆け出して部屋を出ていき、ベルティーユは起き上がった。一人になった空間で思考を巡らせる。
(本当に、どうなってるの……?)
使用人とは思えないような、敬意など一切ない態度だったあの侍女が、涙を浮かべるほどベルティーユの身を案じていた。とても演技には見えなかったし、そもそも演技をする必要など彼女にはないだろう。
喉は異様にカラカラだ。一晩眠った程度でここまで渇くとは思えない。
部屋の雰囲気も記憶にあるものと異なる。最低限のものしか置かれていなかった部屋の中は、花瓶に生けられた花や可愛らしい小物など、見覚えのないものばかりで彩られていた。
「あ……」
考えた末にまた頭が痛みを訴えて、一つ思い出した。
ベルティーユは血を吐いて意識を失ったのだ。吐血して意識が遠のいていくなか、ああ自分はとうとう死ぬのかと思った。しかしこうして生きているということは、どうやら死ねなかったようだ。
(終わらなかったのね)
ため息を吐いて、ベルティーユはサイドテーブルに手を伸ばす。水の入った水差しとコップがあったので、自分で水をコップに入れて飲んだ。
喉を潤したあとは、再び思考を巡らせる。
侍女は医者と父を呼んでくると言っていた。どうせ父がこの部屋に顔を出すことなど――ベルティーユが倒れて目を覚ました程度で会いにくることなど、あるはずもないのに。侍女もそれを理解しているのだから、あの言葉は嫌味か何かだろう。
ベルティーユがそう結論づけたところで、扉の向こうから人が走っている足音が聞こえてきた。その音はだんだんこの部屋に近づいており、扉の前に到達すると、すぐさま扉が大きな音を立てて開かれる。
「ベルティーユ!」
焦って必死な形相で叫ぶようにベルティーユの名前を呼んだのは、来るわけがないと思っていた父だった。そのため、ベルティーユはぎょっと目を見開く。
父は部屋に突入してきた勢いのまま、ベッドのそばに来る。その後にもずらずらと――兄たちまで現れた。
双子の次兄と末兄は父と同様にベルティーユの名前を呼んで父の隣に立ち、医者らしき白衣を纏った初老の人が入室したあとに長兄と侍女も続いてきた。比較的落ち着いた様子の長兄も、ベルティーユを見ると安堵したように見えた。
「体調はどうだ? 気分は悪くないか?」
「旦那様、診察しますので隣室に移動していただけますか」
「ああ、そうか、そうだな。よろしく頼む」
珍しく取り乱している父は医者に促され、兄たちを連れて大人しく隣の部屋に移動した。この場には侍女と医者が残っている。
「ではお嬢様、少し失礼しますね」
「はい」
医者は脈をとったり、お腹や胸元を軽く押して痛みがあるかを確認したりと、診察を進めていった。口調は穏やかで優しく、寄り添う姿勢が見える。
彼はこの家の主治医ではない。あの主治医はどうしたのだろうかと疑問に思うものの、目の前の医者に診察されることに不満はなかった。少なくともあの主治医よりは顔つきが真剣で、態度も丁寧なのが一目瞭然だからだ。
「熱も下がっておりますし、現時点で気になるのは頭痛のみですね」
「頭痛だけ、ですか」
熱や頭痛よりも吐血したほうが重大な問題のはずなのだけれど、今は落ち着いており、頭痛以外に目立った症状がないのは事実だ。それでも、いつまた他の症状が出るかわからない。
頭痛だけを気にかけるのは楽観的ではないかと怪訝に思っていると、どう受け取ったのか、医者は説明のために口を開いた。
「失礼いたしました、経緯の説明を失念しておりました。お嬢様は突然お倒れになり、三日ほど目を覚まされなかったのです。ずっと高熱が続いており、一時期は命も危険な状態でした」
「……そうですか」
ベルティーユは視線をずらし、見慣れない花瓶や小物に焦点をあてる。
部屋の雰囲気、家族や侍女の態度。たった三日のうちに激変しているのは何事か。ベルティーユが死にかけたことに対する同情によるものだろうか。いや、彼らに限ってそれはないはずだ。
「情けないことに、お嬢様がお目覚めにならない原因が判明できず……」
申し訳なさそうに告げる医者は、自身の不甲斐なさを心苦しく感じているのが窺えた。
「原因は病ではないのですか?」
ベルティーユは病を患っていた。主治医はベルティーユの体調不良をストレスだと診断していたけれど、様々な不調が次々にベルティーユを襲い、鼻血や吐血も何度かあったのだ。最後にはそれまでの比ではないほどの量の血を吐いて意識を失った。その症状が病以外のなんだと言うのだろうか。
ずっとベルティーユの意識がなかったために話を聞くことができず、病気を確定するための材料が少なかったのか、もしくはこの医者もわざと間違った診断を下しているのか。
疑念を持ったけれど、医者は首を軽く左右に振り、耳を疑う言葉を口にした。
「お嬢様の病はほとんど治りかけておりましたので、可能性は低いかと」
「……治りかけていた?」
「? はい」
目を丸くして聞き返したベルティーユに医者は不思議そうにしながらも、確かに肯定したのだ。