紙とペンを用意して頂戴

作者: 五月ゆき



「そなたの醜く歪んだその性根、傲慢で周囲を見下したその態度、引いては王家への叛逆を企てていたこと、なにもかもが未来の王妃にはふさわしくない! そなたとの婚約は破棄する!」


そう、王太子が声高に断罪した瞬間、アリアフィーネは、目の前が真っ暗になった。







「はぁぁぁぁ………」

淑女にあるまじき、深い、深いため息しか出てこない。

馬車に揺られながら、アリアフィーネ ─── 親しい人々からはアリアと呼ばれる彼女は、何度も繰り返しため息をついた。

今日のために仕立てた、海の雫を生地にしたかのような美しい青色のドレスが、今では自分を苛んでくる。

胸の内を占めるのは、深い後悔だ。こんなはずではなかった、とはいえない。予想はできていた。予想よりも斜め上に酷くはあったが、それでも、いつかこうなるだろうことは、薄々わかっていた。わかっていたのに防げなかった。それがひどく、申し訳ない。

そして同時に、終わったとも思う。何もかもが終わってしまった。アリアが描いていた未来図は、今日のあの忌まわしい卒業パーティーをもって、真っ二つに破かれることになったのだ。二度と取り戻せはしない。……日頃から、大らかだといわれるアリアでも、さすがに落ち込んでいた。

そこに、面倒くさそうな声がかかる。


「それほどお嘆きでしたら、いっそ、この馬車から飛び出して、逃亡してしまえばよろしいのに」


なにもよろしくない。アリアはうろんな眼差しを、相向かいに座る男へ向けた。

男の名前はユースフという。陽の光を集めたような見事な金色の髪と、鉱物のような冷ややかさを内包した深緑色の瞳をしている。アリアより五つ年上のこの男は、端的にいって、絶世の美形だった。その眼差し一つで、どんな女でも恋に落ちるといわれる類の男だった。しかし性格が悪かった。


「我らの麗しい姫君が、名も家も捨てて、その身一つで旅に出て、世間を知らぬ幼子同然に身ぐるみをはがされて、食い詰めて悪行に手を染めて、いずれ罪人として晒し首になるのも、それもまた一興でしょう」

「どこが? ねえ、どこが面白いというの?」


どこもかしこも一興ではない。昔から、人を苛立たせることしかいわない男である。

しかし、ユースフの言葉で、アリアは少しだけ冷静さを取り戻した。

ユースフのいうように、逃げ出すことなどできやしないのだ。お先真っ暗であろうとも、罪の意識にかられようとも、夢が砕け散ろうとも、だ。この馬車に乗ったまま、進んでいくしかない。それが現実というものだ。


「ユースフ、紙とペンを頂戴」

「おお、我らが姫君は、揺れる馬車の中でも書類をしたためることだけは得意でいらっしゃる」

「お前は余計な一言をいうしか能がないの? いえ、いいわ。返事はいらない。その開きかけた口を閉じてちょうだい。お前の剣が戦神に愛されたものであることは、わたくしも重々承知しています。ええ、わたくしが間違っていたわ。おまえは、剣の腕と、余計な一言をいうしか能がないのね」


ユースフの手から、紙とペンと、さらには台代わりに使っている粗末な板切れをむしり取る。

アリアはさらさらと紙の上に羽根ペンを滑らせ始めた。ユースフのいう通り、どんな悪条件下でも、文字だけは乱すことがないのは、アリアの数少ない特技だった。もっとも、これは、生まれ持った才能などではなく、ただの熟練の技だ。経験の積み重ねによるものだ。


アリアは、今、詫び状を書いている。


謝礼と謝罪はできる限り迅速にすべきだと、アリアは知っている。今の自分の立場も理解している。この手紙にサインできるのは自分の名前だけだ。父の名前が連なることはない。つまり、公的な文書とは言い難く、あくまで私的な範囲に留まる。しかし、私的だろうが、何だろうが、謝っておくことは大切だ。これはアリアの誠意であり、同時に根回しでもある。自分の未来を少しでも改善するためにも、こういった細やかな気配りが重要だ。……否、重要であってほしい。今の時点でアリアにできることなど、各方面へ向けて詫び状を書くくらいしかないのだから。

陰鬱な未来へ向かって、馬車が軽快に走る中、アリアはせっせと詫び状を書いた。

やがて、ユースフが、嘆息混じりに呟いた。


「本当に、逃げてしまえばよろしいのに」

「お前はそれほど、晒し首になったわたくしが見たいの?」

「もし……、あなたが一人でこの馬車を飛び降りるなら、俺は旅路の供をしますよ。どこまでも、あなたの望むままに」


アリアのペン先が、ほんのわずかに、揺れた。

あえかな息を吐き出して、アリアは、何事もなかったかのようにいった。


「いやよ。お前、剣の腕しか能がないじゃないの。わたくしが苦労するのが目に見えているわ」

「おや、これは随分なお言葉だ。悲しいな。俺だって、やる気になったなら、たいていのことはこなしてみせますよ」

「一生かかっても出ないやる気は、存在しないのと同じことよ」







我が家へ到着すると、待ちかねていたらしい父親から呼び出される。

アリアは一通り、客観的事実を話した。それを父親がどう思ったのかは、その苦々しい顔を見たら、誰にでもわかるだろう。アリアの説明は、父親の意にかなうものではなかった。父親が抱いていた未来の展望というものも、今日をもって終了したのだ。


(……哀れな方)


無理を通そうとした。我が子のために。

父親は、政治手腕においては、それほど悪い評判は聞かなかったが、子供が絡むと親は愚かになるらしい。アリアには縁の遠い話であるから、さほど理解はできないが、世間一般では、そういうものであるらしかった。


「……追って沙汰を出す」


父親は、絞り出すような声でそれだけをいった。

アリアは一礼して退出すると、自室へ戻った。

窓の外からは、沈んでいく太陽がよく見える。空は紅と橙が混ざり合ったような色をしている。不思議と胸が切なくなるような、どこか郷愁をかき立てられる光景だ。


(……海が見たいわ)


アリアは、かすかなため息をついた。





アリアには、三人の兄と一人の弟がいた。別々に育てられたので、挨拶を交わすことすら年に一度あるかないかだったけれど、それぞれ優秀な兄だった……らしい。評判だけは聞いている。

しかし、武勇を誇った一番上の兄は、戦場で命を落とした。

頭脳明晰で天才と称えられた二番目の兄は、病であっけなくこの世を去った。

二人の優秀な息子を失ったことで、両親は、残りの息子たちを守ろうと必死になった。

突出した才能はなかったものの、明るく朗らかで、思いやり深く、誰からも愛されたという三番目の兄と、同様に才能がない上に、末っ子として甘やかされたために、自尊心だけが育ってしまった弟だ。


アリアにもまた、特別な才能などなかった。末の二人は出涸らしなどと陰口を叩かれたこともある。さらにアリアは、きょうだいたちの中で唯一の娘だった。

この国では、後を継ぐのは男子が優先される。とはいえ、男子がいない場合は女子が後継者となるので、アリアにも五番目とはいえ継承権はあるのだが、両親にとって、それは視界にも入らないことであったらしい。


大切に大切に守られることになった、三番目の兄と、末弟の代わりに、アリアは、多忙な両親の名代として、頻繁に地方への慰問やら視察やらとおもむく羽目になった。

無論、小娘に、実務能力などあるはずがない。アリアはただの旗印である。身分が低いために、中央では活躍できないが、能力は高い官吏たちに囲まれて、アリアは旗印としてあちらこちらへとおもむいた。当初、13歳だったアリアは、馬車での長旅に疲れ果て、身体中がぎしぎしと軋むのを感じるたびに、名前だけで良いなら、家紋入りの旗でも差しておけばいいと呻いたものだ。


─── しかし、それも、最初の慰問地である、国内最大の港湾都市ポーティスへ到着するまでの話だ。


海は、たちまちのうちに、アリアを魅了した。こんなにも美しく、恐ろしいものが、この世にあるのかと思った。寄せては返す波の音を、ずっと聞いていたいと思った。

ポーティスを見て回り、両親がつけた補佐官たちにいわれるがままにサインし、有力者たちと会食をし、奥様方のお茶会へ顔を出し ─── 、そしてその合間を縫って、こっそりと抜け出し、浜辺へ遊びに出かけるのは、アリアにとって人生で初めて味わう類の“楽しさ”だった。


ユースフに出会ったのも、その頃だった。

港湾都市ポーティスには、このエレンメルク王国最大の海軍がある。ユースフはそこにいて、ひどく退屈そうにしていた。

彼は、戦場でしか生き生きとしない男だった。どうしてなのかはわからない。アリアはユースフの両親も弟も知っているが、みな温厚で真面目な人柄である。ユースフだけが異端だった。ユースフは戦場においては最高の活躍を見せ、若くして“戦神に愛された”とまでいわれていたが、戦場以外では役に立たなかった。平和の中では、日向で寝る猫よりも動かない男だった。

これが、ただの無能であるならまだ諦めもつくだろうが、ひとえに本人にやる気がないだけだった。戦い以外は何もしたくない男、それがユースフだった。


アリアは、もちろん、そんな人材は求めていなかった。


しかしユースフはついてきた。ポーティスが平和だったからだ。アリアの傍にいる方が、戦闘に遭遇しそうだという判断だった。最悪の男である。アリアは笑顔を保ったままお断りしたが、ユースフの両親は泣いて喜び、アリアに懇願してきた。


「どうか、お傍に置いていただけませんでしょうか。息子が自分から何かを望むなど、初めてのことなのです」


そう、優しげなご両親に頼み込まれて、アリアは折れた。

とはいえ、アリアの周囲の人間については、アリアの一存では決められない。アリアはユースフと、ユースフの両親を連れて王都へ帰り、自分の両親に伺いを立てた。すると、詳しい事情を聞かれることさえなく、承認された。アリアの両親は忙しく、また、アリアの心情に興味がなかった。アリアはただの駒だった。


それから……、アリアは名代として、地方を飛び回った。


有能な補佐官や、護衛の騎士たちとともに、ユースフもついてきた。忌々しいことに、ユースフの見立ては正しく、アリアは度々トラブルに巻き込まれ、命を狙われることもあった。

ユースフは、そのたびに、嬉々として剣を振るっていた。


そしてアリアは、名代生活に、完璧に順応していった。


長く馬車に揺られても、身体が痛むことはなくなった。

どこででも書類にサインができるようになり、初めての風土料理にも好奇心をもって挑み、各地方の風習に戸惑いつつも受け入れた。

たまに馬車の車輪が壊れて野宿をする羽目になったときも、これはこれで楽しいものねと思える図太さ ─── もとい、おおらかさを培っていた。

その頃には、アリアは悟っていた。


「ねえ、ユースフ。わたくし、生まれる家を間違えたのだと思うわ」

「おやおや。我らの豪胆な姫君には珍しく、夢想をしていらっしゃいますか」

「……ええ、そう。夢想ね。でも、わたくしはこうして、外を飛び回っているほうが性に合っているのだと思うのよ。今さら淑女としての義務を求められても困ってしまうわ。わたくしは外の世界が好きよ。延々と続く田畑も、恐ろしい獣の遠吠えも、荒れ狂う海も、何もかもが好きだわ。特に、ポーティスのあの美しさは格別ね。何度でも夢に見るわ」

「なら、ポーティスに住めばいいでしょう」

「まったく……、お前は簡単にいうわね。なんて腹立たしいのかしら」

「俺は本気ですよ。できないことじゃない」

「……お前、自分の言葉が、相手にどう受け取られるかわかっていないでしょう」

「そこまで愚鈍になった覚えはありませんが。あぁ、アリア様は、たいそう鈍くていらっしゃいましたね」

「……ユースフ、おまえ、本気だったの?」

「ええ」

「いつから……っ!?」

「さあ? いつからでしょうね。俺にもわかりませんが……、いっそ、初めからだとうそぶいてみましょうか? 初めから、あなたは、俺の美しい姫君でいらっしゃいましたよ、……アリア」





……そんな会話を交わしたこともあった。

しかし、アリアが18歳の誕生日を、馬車の中で迎えた日のことだった。

三番目の兄が病で亡くなったという早馬が来て、アリアは王都へ戻ることになった。





さすがに、残る息子が一人となっては、両親はアリアを名代として各地方を回らせる気はなくなったらしい。

アリアは18歳にして、初めて、学園というものへ入れられた。二歳年下の末弟と同じ学園である。しかし、弟とは違い、最終学年の途中からの入学だ。いくら地方巡りで社交に慣れたアリアとはいえ、学園生活に馴染むのには、少々苦労した。

そして、ようやく友人ができた頃には、卒業は目の前に迫っていた。それでもアリアは、友人たちと、卒業パーティーを楽しみにしていた。……いくばくかの不安は抱えていたものの。



過去を思い出して、アリアはため息を吐く。

王都からは海は見えない。アリアが望んだ未来もない。

この先どうなるかは、おおよその見当がついていた。


─── 数日後。

父親の命令により、アリアは我が家を出て、大神殿へ向かうことになった。







王都の西にある大神殿は、三重の壁に守られた城である。

田舎にある粗末な小屋のような神殿とは違い、どう見ても城だ。王家や貴族の者たちが、儀式の前に滞在することも多いからだろうが、大金が注ぎ込まれていることは間違いない。

はっきりいって、地方領主の屋敷などとは比べ物にならないほど、立派で、堅牢な城だ。さすがは大神殿、信者たちからさぞ寄付を巻き上げているに違いない。


アリアは半ばそう睨みつけながらも、わずかな荷物と共に、神殿へ入った。


神殿の庭には、フィラネと呼ばれる青い花が、まるで青空を地上に移したかのように、盛大に咲き誇っていた。フィラネは一年を通して咲き続けることから、神が与えた祝福の花ともいわれ、慶事などには必ず添えられる花だ。王家の色が青とされるのは、この花からきている。また、大神殿では、新王の戴冠式や、新たな王太子を立てる立太子の儀式も行われるため、庭だけでなく、ガラス窓や天井にも、フィラネの模様が、聖人の絵姿とともに描かれている。




アリアは、この大神殿でひと月、神へ祈りを捧げて過ごすことになる。

そして、一ヶ月後には ─── 運命の日を迎えるのだ。




大神殿は、俗世とは切り離され、穢れを払い、心身ともに清める空間である ─── といわれるが、ユースフは、たびたび侵入して、アリアに会いに来ていた。

延々と続く祈りの間に、ユースフがふらっと姿を見せるたびに、アリアは顔をしかめてみせたが、内心では、喜んでもいた。


「お前、いったい、どうやって入り込んできているの?」

「俺にもいろいろとツテはあるんですよ、お姫様」


アリアは、ユースフと、たわいない話をして過ごした。

かつて、馬車に揺られながら、そうしていたように。

ユースフでよかったと、アリアは思った。

今ここにいるのが、ユースフでよかった。

ユースフは、端正な容姿と、剣の腕前だけで生きているような男である。戦場でしかやる気を出さない男である。口は悪く、性格も悪く、こちらの心を癒してくれるとはいいがたい。

けれど ─── 、誰よりも信頼できる男だ。

ユースフが傍にいてくれるだけで、アリアの心は支えられている。それを、アリア自身、理解していた。





運命の日が間近に迫ったある日、ユースフは面白そうな顔をしていった。


「シャレード家の御令嬢が、婚約するようですよ」


木漏れ日の中で、アリアは、まじまじとユースフを見返した。

シャレード家の御令嬢といえば、一人しかいない。アリアが最も気にかけており、何枚も詫び状を書いて、根回しを試みた相手だ。

アリアは、緊張で口の中が干上がるのを感じながら、恐る恐る尋ねた。


「相手は……」


ユースフは、にやにやと笑い、芝居がかった口調でいった。


「なんと、あの輝ける港湾都市ポーティスの領主であり、偉大なる海軍総督でもあられる、クローネルク家当主の次男坊! 実は二人は以前から密かに想いあっていたとのもっぱらの噂!……だそうですよ。笑えませんか? どんな運命の悪戯なのやら……」


アリアは唖然とし、ついで愕然とした。

最後には疑惑の眼で、目の前の男を見つめた。


「ユースフ、神に誓って、偽りなく答えなさい。 ─── お前は、この件に、一枚噛んでいたの?」

「神など信じていませんので、俺の名に誓って答えましょう。いいえ。俺はなにもしていませんよ」


ユースフは、深緑色の瞳を、少しばかり冷たくして、こちらを見た。


「だいたい、あなたを追い詰める側に回って、俺に何の得があるというんです」

「だって、お前……、そのほうが面白いことになるだとか、考えそうじゃないの」

「おお、なんと悲しいお言葉! 我らが姫君に疑われるとは……、我が身の不徳の致すところとはいえ、嘆きのあまりこの胸は張り裂けんばかりです……」

「お前のそういう言葉遣い、わたくしは昔から好きになれないのよね。なにが“我らが姫君”よ。怖気が走るわ」

「必要な場面も多いんですよ。それに、あなたの嫌がる顔が見たくて、つい……」

「最悪の趣味ね。わたくしがお前を疑うのは、まったくもって筋の通った話だったわ」


アリアはうんざりとため息を吐く。

ユースフは、のらりくらりとした笑みを浮かべていたが、やがて、静かな口調でいった。


「俺の描いた未来図は、ポーティスで、平和に耐えながらも、末永くあなたと暮らすことでしたよ」

「……ええ」


アリアは、こみあげる激情を押し殺して、あえかな息を吐き出した。

そして、窓の外を見つめていった。


「わたくしもよ、ユースフ」






─── ……そして、運命の日が訪れる。






静寂を尊ぶ大神殿が、今日ばかりは騒がしく、慌ただしい。

すでに、大神殿の周りには、見物人が押し寄せてきているからだろう。

民衆のざわめきは、大神殿の深部にまでも聞こえてくるようだった。

最後の祈りと清めを済ませて、アリアは、先導に従い歩き出す。

いくつもの扉を抜け、いくつもの人の手にかかり、そして最後の出口で待っていたのは、ユースフだった。

彼も、今日ばかりは、さすがに、身なりを整えている。

ユースフは、こちらを見ると、しみじみとした口調でいった。


「重くありませんか、その恰好は」

「お前、こういうときは、まずわたくしを称えるものよ」

「逃げ出したいなら、これが最後のチャンスですよ」


アリアは、しげしげと、美しい深緑色の瞳を見上げた。

ユースフの顔は、笑っていなかった。

アリアは、鮮やかに、微笑んだ。


「逃げないわ。ここはわたくしの国よ。わたくしの愛しいエレンメルク」





そうしてアリアは、一歩踏み出した。





大歓声が、アリアを迎える。





アリアフィーネ・エレンメルク。





─── これより、エレンメルク王国第一王女アリアフィーネの立太子の儀式が始まる。





本日をもって、アリアフィーネは、この国の王太子となるのだ。









アリアには、三人の兄と、一人の弟がいた。

優秀な兄たちが亡くなった後、王と王妃は、溺愛する末の息子を王太子とした。

しかし、甘やかされた彼は、自尊心ばかりが育ってしまい、とても次期国王の器とはいいがたかった。

両親は、王太子を支えるために、大貴族の令嬢であり、才色兼備と名高いシャレード公爵家の令嬢を婚約者に据えた。

しかし、愚かな末弟は、婚約者が二歳年上であるというだけで気に入らなかったらしい。

学園へ入学し、事態を知ったアリアが、どれほど言い含めても無駄だった。王太子である末弟には、駒でしかない王女など、嘲りの対象でしかなかったのだ。侮る相手の説得に、耳を貸すはずがない。アリアは末弟の説得を諦め、両親へ訴えたが、彼らにとって王女は、親に従わない生意気な娘でしかなかった。アリアの話を聞くのすら煩わしく、時間の無駄であり、アリアは王へと取り次がれることもなくなった。

そして、末弟は、婚約者の卒業パーティーに、エスコート役として現れながら、公衆の面前で、彼女に婚約破棄を言い渡した。


アリアは、目の前が真っ暗になった。


これがまだ、婚約者の態度が気に食わないなどという、くだらない理由だけであったなら、末弟を溺愛する王は、末弟を守り、婚約を解消して、事をうやむやにして済ませただろう。シャレード家の御令嬢を泣き寝入りさせるだけでいいなら、さほど難しくはない。遺恨は残るだろうが、それだけだ。公爵家当主といえども、娘を侮辱されたというだけで、王家に歯向かえはしない。


しかし末弟は、こともあろうに、彼女が叛逆を企てていると告発した。


王家への反逆は大罪である。女子供も、赤ん坊に至るまで、容赦なく、一族すべての首を刎ねる罪だ。つまり、末弟を守ろうとするなら、シャレード公爵家を、その分家に至るまでことごとく潰さなくてはならない。

そして、その道を選べば、公爵家は、真に反逆者となるだろう。当たり前だ。一族の命運がかかっているのだ。黙って処刑人を待つはずがない。


王は、苦悩の末に、末弟を『病に侵され、正気を失っているために、離宮で休養に専念させる』と処理した。一生離宮で飼い殺しという意味だが、あの甘やかされた末弟には、むしろ幸福な日々ではないかと思う。どうせ王妃が足しげく通うのだろうし、王冠を戴いて一国を背負う羽目になるよりは、よほど幸せな人生を送れるだろう。


幸福な未来図が崩れ去ったのは、アリアのほうだ。

末弟が廃嫡となったことにより、両親は、打ちひしがれた。そして、余り物のように扱っていた娘に、半ば投げやりに、次期王の地位を与えてきた。


アリアは王位など望んでいなかった。

海の見える街で暮らしたかった。潮風の匂いも、空を飛ぶ海鳥も、荒れ狂う嵐の夜すら、アリアは愛していた。

しかし、アリアに命じられたのは、大神殿行きだった。


大神殿での立太子の儀式は、一ヶ月に及ぶ神への祈りと、俗世から離れた清めの後に行われるからだ。







民衆の大歓声の中で、アリアは、神官長の前に膝をつき、王太子としての冠を授けられた。

そして、アリアは立ち上がり、群衆へ向かって微笑んで見せる。

隣に立つユースフは、アリアと同じように微笑を浮かべたまま、ぼそりといった。


「各地方の領主たちも、我らが姫君が王太子となる姿を一目見ようと、大勢駆けつけているそうですよ」

「即位するわけでもないのだから、来なくていいといったのに……。仕方ないわね、この後の挨拶回りに予定を入れてちょうだい」

「全員ですか? 姫君が老婆になるほど時間がかかりますよ」

「いったいどれほど来ているのよ……。わかったわ。特に有力な者だけに会う。残りは礼状をしたためるわ。紙とペンを用意して頂戴、ユースフ」

「我らが姫君の特技が活かされてなによりです」


それからユースフは、美しい深緑色の瞳を凍らせて、ひどく乾いた声でいった。


「あなたはいつも、貧乏くじばかり引かされるな、アリア」

「……そう?」


アリアは笑った。

妙なことをいい出すこの男が、愉快だった。


「わかっていないのね、ユースフ」


深緑色の瞳が、怪訝そうにこちらを見る。

アリアは、心から微笑んで、彼を見つめた。


「わたくしは幸福だわ。誰よりも信頼できるお前が、生涯を共にしてくれるのだから」




─── そうでしょう、ユースフ・クローネルク?




そう囁くと、クローネルク公爵家の長子である男は、珍しく虚を突かれたような顔をして、こちらを見た。






ユースフ・クローネルク。

港湾都市ポーティスを治める領主であり、偉大なる海軍総督であるクローネルク公爵家の長男としてこの世に生を受けた男である。


温厚な両親から、深い愛情を注がれて育った彼は、しかし、どういうわけか、戦場以外では役に立たない異端児だった。


戦場では確かに最高の活躍を見せる。剣の腕は戦神に愛されたごとし、将として指揮を振るっても天才のそれ。しかし、平和な日常においては、なまった包丁よりも働かない男だった。


それでも、ユースフの両親は、彼を愛し、ユースフの弟もまた、異端な兄を慕っていた。はっきりいって、駒扱いされてきたアリアから見ると、垂涎ものの環境だった。どうしてあのお優しい御両親から、この凶刃のような男が生まれてしまったのか、理解できないところである。


ユースフは、駒のごとく動かされる第一王女を面白がって、旅の供をするといい出した。アリアはきっぱりとお断りしたが、ユースフのご両親に懇願され、仕方なく公爵家と共に王都へ戻った。王宮の両親へ伺いを立てると、王と公爵家当主の間で話し合いがもたれ、早々にユースフは自分の婚約者になってしまった。


当初はアリアも己の不運を嘆いた。なんだって、あのような、顔と剣の腕が良いだけの、ろくでもない男と婚約しなくてはならないのかと。


しかし、ユースフは、アリアと共に各地方を回った。不満を零すことなど一度もなかった。ユースフはどんな状況でも、アリアの傍にいた。アリアの話に耳を傾け、ときに軽口を叩き、ときに笑いあった。ユースフは口も性格も悪い男だったが、それでもアリアは、彼を愛していた。彼ほどに信じられる男は、ほかにいなかった。



アリアは夢を見た。ユースフとともに、海辺の街で暮らす夢を。


しかし、それが破れた今でも、ユースフは共にいてくれる。


それは、アリアにとって、最大の幸福といえた。





「わたくしの傍にいてくれるのでしょう、ユースフ?」


「ええ……。あなたは、俺の美しい姫君ですからね、アリア」