青年と犬と抜け殻の街
今回もグロ描写は殆どありません
ただ、分量的には一番多いかと思います
狭苦しい道があった。農地の間を進む、あぜ道を補修し、上にコンクリートを敷いたであろう田舎道だ。その道を、一台のキャンピングカーが進んでいく。
全面を地金が見えない程板金を貼り合わせて溶接した、とても一般的とは言えないキャンピングカーであり、前面には簡素ながらもドーザーまで備えられている。
その車の運転席で、一人の青年と一頭のシベリアンハスキーが暇そうにしていた。青年は道を眺めながらハンドルを取り、ハスキーは助手席で体を丸めて眠り込んでいる。
運転席の中では音楽が鳴り響いていた。備え付けのカーステレオにCDを読み込ませ、それが控えめの音量で垂れ流されているのだ。
音楽は、ギターとベース、そしてドラムが喧しく鳴り響くロック、それもヘヴィメタルに分類される音楽だった。青年の趣味ではなく、単に積んである物を眠気覚ましの為、適当に流しているだけだ。
CDはイギリスのブラック・サバスというバンドのデビューアルバムであり、文字通りブラック・サバスと銘打たれたアルバムの、BLACK・TABBTHという曲が流されている。そのまんま過ぎるとは思うが、代表曲というには相応しいタイトルといえよう。
人間の恐怖心を煽る単調にして陰鬱な旋律に、暗い日曜日と訳された邦題。命題からして人の恐怖をかき立てる楽曲だ。
そういえば、何時だったかサークルの友人が部室でストックを磨きながら、そのバンドに関して熱心に語っていたような気がした。ヘヴィメタルの元祖がどうとの言っていたが、自分の趣味では無いので既に記憶は遙か彼方、脳細胞のパルス、その合間に消え去っていたが。
どうせなら好きな楽曲でも流したいのだが、カラヤンの第九にもいい加減飽きたし、今までは余裕がなくてそういった娯楽品は大抵無視していた。時折、コンビニで手に入る本や雑誌を読み捨てていた程度だ。
それも、最近はめっきりしなくなったのだが。刊行日が四月以降新しい雑誌が出ず、コンビニに並んでいるような物は全部読み飽きてしまったのだ。十二月にもなろうというのに、四月号を何回も読むのは不毛なので興味すら沸かなくなった。
青年は片手でハンドルを操り、路肩に転がっている死体を避けた。動かないのと、首が見当たらなかったので、多分完全に死んでいるのだろう。
しかし、同じ風景が延々と続いて全く変わらない。田圃と山が広がっているが、愛知県の辺境とはここまで牧歌的な風景が広がっているのだろうか。とはいえ、色々彷徨いている時に一度通りかかっただけなので何とも言えないのだが。
だが、田舎を走るのは悪い物では無い。空気は良いし、窓を開けて走ると気分が良い。視界が開けているので、死角より死体から奇襲を喰らう事も無ければ、ビルの屋上から死体が落下してきて驚かされる事も無い。
青年は大都市に近寄る事を徹底的に避けていた。死角が多く死体が無尽蔵と思える程居る等、様々な理由があるが、一番の問題は車である。
異変が起こった時、避難しようとした大量の人間が我先にと車に乗り込んで幹線道路を占領し、そして逃げる為に車置き去りにしていった。少々であったならばドーザーの隅っこに引っかけるようにして押し出しても良いのだが、それが何十、何百台ともなると道を走る事すらままならない。
その為、今やこの図体の大きなキャンピングカーでは大都市にアクセスする事自体が難しくなっていた。
次に、大都市程連中が多い。元々死体は人である、それも生きていた。つまり、人口が多ければ多いほど密集している。そして、連中は本能に従って動く。
つまり…………。
そんな事を考えていると、稜線の向こうに屋根が見えた。一つや二つでは無い、集落といって良い密度でである。どうやら、田圃の間を延々走っている内に、別の農村に辿り着いたらしい。ふとカーナビに目を落とすと、確かに小さな集落が映されていた。
とりあえず、何か使える物は無いか街を探してみよう。青年がそう思って速度を少し落とすと、カノンがそれに気付いて頭を擡げた。
地方都市の造りは何処も似たような物だ。青年は何処か止めるところは無いかなと一瞬考え、別に道路のど真ん中に止まったって誰に憚る事も無いのだと思い出し、少し可笑しみを感じた。口の端を片方だけ釣り上げる例の笑みを浮かべ、青年は車を止める。
カノンが耳をひくつかせながら此方を向いたので、とりあえず頭を撫でてやる。洗ってからあまり時間が経っていないのと、彼女が綺麗好きと言う事もあり、撫で心地はとてもよかった。
さてさて、何か使える物が街にあればいいのだが、そう思いつつ長時間座席に落ち着かせて居たせいで汗ばんでシートに張り付きかけていた尻を引っぺがし、後部の居住区へと移った。
相変わらずそこら中に木箱が積み上げられて手狭な室内だが、整理はされているせいで雑然とした雰囲気は無い。ただ、狭苦しさはどうしようも無いのだが。
時刻を見ると、十一時を半時間ほど回った頃だった。朝から走らせているのだが、どうやらカセットコンロの為に大立ち回りをやらかした街から50km程離れた場所だろう。
車をゆったり走らせ、農家を見つける度に死体が動いていないか双眼鏡で確認してきたので、移動距離はかなり短かった。
ベッドサイドに放置していた双眼鏡を取り上げ、実に億劫そうに天窓を開けて階段を引き下ろした。今日はしっかり睡眠時間を確保したというのに、とみに眠い。天気が良いのは悪くないのだが、眠くなってしようが無い。
このまま昼寝を決め込んでしまいたかったが、一度サボると暫く同じ場所で移動せずに滞在してしまうので、それは避けたかった。天気が悪い日は安全の為に動かなくて良いのだが、出来れば年明けには一度大阪を見て起きたかった。
車が幹線道路を塞いでいる為に様々な所で大回りを強いられるので、時間は多めに見積もった方が良い。別に何日までに着いておかないとならない訳では無いのだが、予定を立てるというのは生活に張りを持たせる為に大事だ。
そうでなければ、息抜きと称して死体が少ない街を見つけたら、そこで食料を食いつぶすまでだらだら過ごしてしまう。人間だから辛い事を避けようとするのは当たり前かも知れないが、この常況でゆったりしている暇なんてありはしない。
青年は眠気を押し殺しながら屋根に上がり、双眼鏡を眼に押しつけた。つまみを調節してピントを合わせ、街を観察する。
……静かだ。確かに連中は昼間はあんまり表に出てこないのだが、それでも何体かフラフラ出歩いている事も多い。しかし、この街にはそれが見当たらなかった。
別の通りや方角を見てみるが、やはり死体の影は無い。これは……。
「移動したか」
青年は呟きながら、双眼鏡を下ろした。
たまに、こういう事があるのだ。死体共は本能に従って動く。その本能は、食べる事と増える事だ。その本能を満たすには、人間が必要不可欠なのである。
つまり、連中は人が居なくなると移動始める、生きた肉を求めて。何処へかと言うと、無論人が居る場所へだ。
風に乗って届くであろう臭いを頼りに、人が全く居なくなった街の死体は新鮮な肉を求めてノロノロと移動を始める。近くに全く気配がなければ、あのサービスエリアのようにずっと溜まっている事もあるが、臭いのような行くアテを感知するとゆっくりとだが向かっていくのだ。
つまり、人間が近くに生き残って立て籠もっていると、其方の方へと向かっていくのだ。そして、少しずつ数を増やし、その内に圧殺していく。都市部で立て籠もるのは緩慢な死を誘うのである。
その結果として辺境には生きた人間も死体も居ない、抜け殻のような街が出来上がってしまうのだ。丁度、この街のように。
まだ確定した訳では無いが、恐らくは死体は居ないか、居てもごく僅かだろう。青年はガソリンの補給や食糧の補給が出来るだろうかと期待を膨らませながら、下に降りた。
とりあえず、車で近くまで寄ってみてから反応を見よう。連中が残っているのなら、このキャンピングカーの無駄に喧しいエンジン音に反応する筈だ。
運転席に戻り、アイドリングさせたままサイドブレーキを引いて止めていたので、ブレーキを戻してアクセルを踏み込む。助手席のカノンはもう寝そべってはおらず、シートの上に座り込んで前を見据えていた。
「臭うか? カノン」
聞いてみると、小さくカノンが鳴いた。どうやら、あまり強い臭いは感じないらしい。これはいよいよ当たりか?
街と田畑の境界にまでやってきたが、まだ動きはない。とはいえ、奥からはい出そうとしている可能性もあるので、今すぐ探索に乗り出すというのも、ちと早急に過ぎるだろう。
と、なると……。
「飯にするか、カノン」
青年はエンジンを止め、そう言った。カノンもそれに応え、小さく吠えた…………。
十数分後、普段銃の整備に使われている硝子天板のローテーブルの上にはカセットコンロが置かれ、その上で小さい鍋にて二つのパックが煮られていた。
一つは本来電子レンジで温める米飯のパックであり、もう一つは甘口のレトルトカレーだ。
こういったレトルト品は、前までは食べたくても発電機を動かさなければ調理出来なかったので、あまり食べられなかったのだが、この間危険な目に遭いながらもカセットコンロを手に入れたので最近は気軽に食べる事が出来るようになった。
全く以て火という物は偉大だなと実感しつつ、割り箸で浮いてきたレトルトパックをつまみ上げる。そろそろ良いだろう。
熱いのを我慢しながら指先で挟むようにしてパックを開き、米を皿に盛る。実に日本人の食欲を誘う甘い香りのする湯気が立ち上った。やはり日本人であるなら、一日一回は米を食べなければな。
等と勝手な民族感を青年が抱きながらレトルトパックを破り、香り立つスパイスの臭いを暫し楽しんでから米の上に開けた。レトルトの割にジャガイモの形がしっかり残っており、実に美味そうだった。
皿に盛られ、水のペットボトルとカレー、銀のスプーンが並んでいるだけで実に食欲がかき立てられる。俄に口の中に唾液が分泌されるのを感じながら、青年はスプーンを手に取った。
そして、その隣では皿に盛られたドッグフードを前にカノンが座って待っている。青年が食事を始めるまで待っているのだ。
食前の挨拶をいざ始めようとし、いただきますの、「いただ」まで言い終えた頃、不意に声が聞こえた。
『おーい、名無し氏ー』
少し緩んでいた青年の顔が厳しくなり、視線が運転席の方に向かう。ああ、そういえば昼時だからと無線機を付けっぱなしにしていたか……。
脳天気な声が無線機のスピーカーから僅かなひび割れと共に響いている。青年は数度視線をカレーとアマチュア無線機の間で巡らせた後、一度深い溜息を吐き、スプーンを机の上に置いた。
カノンがその青年を見て、首を傾げながら小さく鼻を鳴らすような声を出した。青年はそれに振り返り、先に食べて良いぞ、と言うも、それでもカノンは皿に顔を埋めようとしなかった。
食事を邪魔された事に自分が苛立っているのを自覚しながら、青年は運転席に乱暴に身を投げ、無線機の送話器を手に取った。
「私だ。何の用だ」
『あ、あれ……名無し氏、ご機嫌斜め?』
無線機の向こう側、遙か遠く大阪の何処かにあるショッピングモールにて立て籠もっている女は、震えた声を出す。普段通り平坦な声ながら、露骨に不機嫌そうな雰囲気を放つ青年の怒りを察知したかのように。
「別にそんな事は無い。ただ、私のカレーが冷める前に要件を終わらせて欲しいだけだ」
『あちゃー……お食事時にお邪魔しちゃいました? これは失敬をば』
台詞は謝罪しているが、声の調子は普段通り明るい。こいつ本当に悪いと思っているのかと眦を上げかけたが、怒ると返って話が長引きそうなので、青年は無理矢理平素を装って続ける。
「それで、何かあったか? 此方は普段通りだ」
『いやぁ、暇だからさぁ。昨日も言ったけど、最近周囲がピリピリしてて、大きく動けないのよねぇ』
間延びした口調で言われるので、本当に常況が逼迫しているのか妖しいが、今の所嘘を吐かれた覚えは無いので多分本当だろう。急造のコミュニティなんぞそんな物だ。
青年は続きを促しながら窓枠に肘を突き、フェンス越しに外を見る。
先ほどまでと同じで、完全に静かで何も動く物はない。時折鳥の鳴き声と、吹き抜ける風が電線を吹き抜ける時に響かせる寒そうな音がするだけだ。
死体がどこからかやってこないかと警戒しつつ話を聞くに、どうやら向こうのコミュニティも中々に荒れているらしい。血気に逸った連中が、外に物資を取りに行くべきだと騒いだり、暴行事件が起こったりと結構な世紀末な様相がのんびりした口調で語られる。
そんな事を聞きながら、青年は頭を軽く搔きながら、一人と一匹が実に気楽かを噛みしめた。全く以て有り難い物である。
『おやっさんは、しっかり訓練してから行くべきだって説得しようとしてるんだけどさ、最近の若いのは訓練とか泥臭いの嫌いだからねー』
「お前幾つだよ」
素で突っ込みを入れつつ、ふと通りの奥で影が見えたので視線を集中させる……風で倒れた何かの幟が揺れていただけだった。紛らわしい所で倒れて居るんじゃない。
『何度も言うけど、硝子の十代さ!!』
「その言語センス的に30代以上だろうが」
何時の時代のキャッチフレーズかは数ヶ月前まで大学生であった青年には詳しく分からないが、やはり響きからして古い。通信機の向こうで騒がしく抗議が始まったので、殆ど無意識の内に音量のつまみを最小付近にまで捻っていた。
暫く放置し、騒ぎが収まったかなと思う頃に摘みを元に戻す。何やら荒い息と、
『分かった!?』
という叫びだけが聞こえた。適当に相づちを打ちながら、再び続きを促す。相手の怒りというのは受け流すのが一番だと青年は経験則から知っているので、決してまともに取り合う事はない。
激流に身を任せ同化する……そんな事を思いつつ、少し息の荒い説明を聞く。大抵の事をそつなくこなし、大きな失敗さえしなければ人生とはある程度簡単な物なのだ。最も、こうなる以前なら、の話であるが。
『彼奴等、本気で金属バットとか改造したさすまただけで何とかなると思ってるのかな。私の予測だと三分持たずに追い詰められて圧殺されると思うんだけど』
死体共は鈍重で、単純だ。故に、弱いかと聞かれれば確かに弱い。単体の死体がノロノロ寄ってきたのであれば、適当に長い棒きれで頭をたたき割ってやればいいのだから。
あ、いや、人間の頭をたたき割るのは難しい事なのか?
青年はかつての常識から大きく外れてしまった自分の感性に首を傾げながら考えを纏める。
連中の強みは、その数だ。一体一体は脆くて鈍い腐った死体に過ぎない。確かに、色々と吹っ切らないと気分が悪い上に臭くて不快だが、慣れたらそれ以上の何者でもない。だが、一度数が集まるとどうしようもなくなる。
人間であれば、山ほど集まろうと一定数が痛い目を見れば逃げてくれる可能性もあるだろう。特に、自分が銃を持っているが相手が丸腰という常況であれば。
だが、死体は恐れを知らない。傷つく事を避けようともしないし、例え傷ついても浮腫を理由に足を止める事はない。ただ、原始的でどす黒い欲求を満たす為に、腕を伸ばし呻きを上げながら突き進んでくる。
一体を潰しても、その死体を押しのけて次の一体が。十体を吹き飛ばしても、肉片を踏みしだいて次の十体が。百体を撃ち殺しても、その百体を貪りながら次の百体が……。
尽きる事を知らぬ物量と、死を恐れぬ軍勢程恐ろしい敵は他はないだろう。それも、多く見積もればだが、そんな軍勢がこの狭い国内だけで一億近くいるのだから。
青年のように生き汚く生き残った人間が何人居るかは分からないが、間違いなく死体の方が多いだろう。そして、青年が今までに始末した数は数万分の一以下の数に過ぎないのである。
戦車や潤沢な弾に、よく整備された銃でもあれば話は別だが、そんな連中に釘バットやらさすまた一本で立ち向かえと言われれば、青年なら命じた相手の頭をそのバットで叩き潰しているだろう。
「その連中、実戦経験は?」
『殆ど無いよ。敷地内にフェンスの綻びから入り込んだ何体かを叩き潰した程度かにゃ?』
なるほど、適当に斃して自信が付いた頃か。確かに調子づいても仕方あるまいて。それが免罪符になる訳ではないのだが。
「数は多いのか?」
『力仕事やってる若いのが一五~六人だねぇ。自警団はまだ理性的だけど、それでも焚き付けられてる上に、実際物資少なくなってきてるから何時まで抑えられるか。おやっさんも大変だよ』
気軽に言っているが、正に暴発一歩手前という常況ではないかと青年は暫し頭を抱えた。下手に門を開けてしまったら連中が雪崩れ込むと分かっているだろうに、なんでそんな無茶をしたがるのやら。
「死にたがりが多いようだな」
『勝手に死ねって言えないのが辛いところだねー。いやはや何とも』
本当に困っているのか妖しい言いぐさであるが、困窮している事に違いはあるまい。そこまで逼迫した常況なら、青年であれば足抜けを考えて少しずつ準備を始める所だろう。
『あー、もう……名無し氏ー、助けてよーう』
「私からも何度も言わせて貰うが、そんな余裕は逆さに振っても無い」
迷うことなくノータイムできっぱりと言い切った。助けるリスクの方がメリットよりも高いのだから、青年からして助けても良い事は何もない。
車も武器もみんなの生活の為と奪われて、コミュニティの体の良い尖兵にされるのが目に見えていた。そして、足抜けしようとしたら自分から奪った銃で自分を撃ち殺すのだろう。別に深く考えないでもよく分かる。
人間は余裕がある常況ならば寛大だが、余裕が無ければその残酷さは他のどの生物にも勝る。だからこそ万物の霊長なんぞと嘯いていられたのだろうが。
考えている間に、また通りで何かが動いた。今度こそか? と思い視線を集中するも……痩せた野良猫だった。一瞬強ばった体の力を抜き、シートに身を深々と埋める。猫という生き物は逞しい、こんな世界になっても生き延びているとは。
「ともかく、適当に言い含めて集団行動の訓練をするなり、少しずつ死体の数を減らす努力をするべきだな」
『しちゃあ居るんだけどねー。でも、すっごい増えてるんだよ。何処からやって来るのかは分かんないけどさ。それに彼奴等言う事聞かないし』
珍しく、間延びしながらも本当に不機嫌そうな響きが言葉に含まれていた。どうやら、近場の生き残りが少なくなり、人間が大勢立て籠もっている彼女のコミュニティに引き寄せられているのだろう。いよいよ武器が無い人間には辛い常況に陥ってきているな。
『それでも、死にたくないから努力はしますけどね~』
そうしろと言いかけ、ふと腕時計に目をやると、時間は十二時半にまでになっていた。
あっ、と思い後ろを見ると、カノンがどことなくうんざりした様な顔で床に寝そべり、最後に見た時は美味しそうに湯気を立てていたカレーはすっかりと冷え切って表面に薄い膜を作っていた。
……ろくな事がない。ため息を吐き、どうしたのと聞いてくる無線機の向こうの少女に、言葉少なに切る旨を伝えて電源に指を伸ばした。
無線機の向こうで何が起こっているか分かっていない少女は声をうわずらせて焦りながら引き留めようとしたが、青年は一切気にせず電源を指で弾いて切った。
電源が入っている事を示す赤いランプの灯りが消え、先ほどまで細かに震えていた受信計の針が一気に0へと落ちる。ようやく静かになった。
やれやれと思いながら、適当に送話器を無線機に投げつけるようにしてフックへ引っかけ、体をシートから引き上げる。折角美味い食事にありつけると思っていたのにご覧の有様だ。
缶詰から取り出され、ほぐした折角の食事が乾燥してパサパサしつつある皿を見つめ、カノンが少し悲しそうな顔をしていたので、青年は小さく謝罪の言葉を漏らしながら、皿を取り上げた。
湯を沸かしてちょっとかけてやれば、少しはマシになるだろう…………。
お湯を掛けたおかげで潤いを取り戻したドッグフードをカノンが美味しそうに平らげ、冷めて微妙に硬くなり、粘質を帯びてしまったカレーを青年がスプーンでねじ込む。味は冷めても悪くなかったが、何だか空虚感と侘びしさを感じた。
肩を落として、ただでさえ低めの背を丸めて皿を少量の水で洗い、青年は水切り籠に自分の皿とカノンの食餌皿を乗せる。例え気落ちしていても、生活環境を整えるのは習慣の為せる業だった。
しかし、環境が悪いと更に気落ちするので、整頓に努めるのは合理的な思考ではあるのだが、如何せん本人はそれを意識して更に気落ちする。なんだか普段から生くるべくして生きているのに、より無機質になった気がして鬱になるのだ。
自分にまだそこまで繊細な感性が残っている事を喜ぶべきなのか、まだまだ甘いと嘆くべきなのかは、結局考えても更に鬱になるだけのなので思考を打ち切る。今考えるべき事は……。
「此処は完全に空と見ていいな」
なんだかんだやらかしながら一時間車を止めていたが、全く以て街は静かだ。死体が蠢いているようでもなければ、誰か人が住んでいる訳でもなさそうである。
この街にはもう生き残っている人間がおらず、死体共も新鮮な肉を求めて何処かに行ってしまった。ここは、生者にも死者にも見捨てられた抜け殻の街という訳だ。
いや、その方が自分には有り難いのかもしれないなと思いつつ、青年はジャケットを脱ぎ、防弾ベストを着込んだ。
死体が居れば戦いになるし、人間が居れば大抵の場合は諍いは避けられない。出来れば銃を撃つ常況には陥りたくないが、必要となれば撃たざるを得ないだろう。
ナイフを固定し、M360をホルスターへねじ込み、ベルトにニーホルスターを通して同じくマチェットもぶら下げる。装具を完全に整えている青年を見て、カノンも体を擡げる。食後に動くのは億劫だろうが、ここは殆ど安全とみて良いだろう。
とはいえ、気を抜く訳にはいかない。動けない死体が残っていたり、建物から出られないで取り残された死体が居る可能性もある。また、実は生きた人間が隠れている可能性だって無いとは言い切れないのだ。
自分が一番最初にこの抜け殻の街に訪れたとは限らないし、死体が居ないのを良い事に住み着いた人間が居ても不思議ではないのだから。
青年は散弾銃を手に取り、鹿撃ち用の大口径スラッグ弾をねじ込んでいく。チョイスしたのは、レミントン社製の伝統的なポンプアクションショットガンのM870なのだが、オリーヴグリーンのマット風塗装が施されている上に、内蔵マガジンのチューブがかなり長く、八発も装填できる。
国内法では、確かポンプアクションの猟銃であっても内蔵マガジンチューブを切り詰めて、装填数を少なくしたオミット品でなければ所持できなかったと記憶している。だが、これにはしっかりとスペック上の限界数まで弾が装填できる。
硬質プラスチックと鉄の混合物の手応えを感じながら、仕様から推察するに自衛隊の装備だったのだろうか。自分がこれを拾ったのは、死体が散乱する路地の片隅だったので持ち主を確認していないのだが、民間人はこんな物を持っては居ないだろう。
12ゲージのショットシェルをポーチにバラでねじ込み、探索の準備は完了した。自分で指先を切り落として作った指ぬきグローブを装着し、レミントンのセーフティを外す。そして、スライドをポンプして初弾を薬室へ装填した。
「よし、行くか」
それに応えるようにカノンが小さく鼻を鳴らす。それを聞き、青年は満足げに居住区の扉を開けて、表に出た。
段差を経て地面に降りる。アスファルトの地面と鉄板の入ったブーツのソールがこすれ合って独特の音を立てた。
ショットガンをスリングで肩に通したまま油断無く持ち、周囲をじっくりと見回す。ただ、冷たい真冬の風が吹き抜けていき、何処かでごみが転がる音がした。
「……静かだな。どうだ、カノン」
隣のカノンに問うてみると、やはり臭いはしないのか首を傾げて見せた。やれやれ、どうやらここは本当に空っぽであるらしい。
青年はカノンを後ろに伴い、ゆっくりと一歩を踏み出す。剥離したアスファルトや砂利を蹴散らしながら、静かに街へ侵入した。
細い道路が走り、背の低い平屋が何軒も何件も建ち並んでいる。その合間に、小さな煙草屋や個人商店、スーパーなんぞがちらほらと軒を連ねていた。見た目だけは本当にのどかな田舎町だ。端から端まで見たとしても広さは殆ど無く、精々人口も何千人かという当たりだろう。
しかし、街には所々に血がぶちまけられた後が残っている。壁や道路が、酸化して真っ黒になった血で前衛芸術の如く飾られ、食い荒らされて散らばった内蔵や肉の欠片が干涸らびて転がっていた。
これさえ無ければ清々しい散歩であるのだが、死体はこんな場所でもしっかりと本能に従って暴れていたらしい。警察署、と言うよりも駐在所という存在が似合いそうな場所なので、ひとたまりも無かったであろう。
ふと、磨り硝子の引き戸が開け放たれたままの家があったので、中を覗き込んでみる。土間があり、一段おいて廊下がある伝統的な日本家屋だ。
土間には小さなサイズの古いスニーカーや履き古された革靴が放置されていた。スニーカーはお洒落なデザインの物ではないので、恐らく老夫婦が住んでいたのだろうか?
確認の為に家へ上がり込む。お邪魔しますと小さく呟きながら、若干抵抗のあるものの、土足のままで廊下へと上がった。板張りの廊下が奥に続き、奥には外れ掛かった暖簾の向こうに厨房が見え、両側面には襖戸があるが、右側の物は無惨にブチ破られていた。
破られた右側の部屋を覗き込むと、大きな畳の間があった。テレビに大きめの座卓……恐らく茶の間だろう。かつてはここで家族が暖かな夕食を囲んでいたのだろうが、今残されているのは潰れた座卓と、倒れて画面が割れた古いテレビだけだ。
久しぶりに懐かしい藺草の香りを感じ、青年はたっぷりとその匂いを肺に取り込んだ。実家の私室は和室であり、畳の匂いは郷愁と落ち着きがこみ上げてくる。郷愁の念にかき立てられると同時に、僅かな腐臭が鼻を掠めた。
一瞬、その臭いに反応して驚いたが、カノンが此方に危険を知らせていないので、恐らく普通の腐乱死体なのだろう。
安心して再び部屋を見回す。特に目に付く物はなく、足下に四月の日付の新聞が転がっていた。取り上げてみると、日付は四月一四日となっている。確か、自分が履修登録を済ませた日だったろうか。
茶の間にも襖があり、別の部屋に通じていたが、大きな畳の間が延々と続いているだけだった。どうやら古い家にある、襖を取り払ったら大きな宴会場になるという類いの部屋だろう。奥に衣装棚等が置かれていて生活感はちゃんとあるが、見るべき物は特に無い。
次に、廊下に戻って襖をそっと開け、左側の部屋を覗いてみた。右側の部屋と同じくらいの広さがある和室であり、床の間と仏間があり、古ぼけた仏壇がそのまま放置されていた。そして、畳まれる事なく捨て置かれた蒲団が、すっかり埃を被って色褪せていた。
敷かれたまんまの状態で、抜け出した事が分かるように掛け布団が真ん中から折られていたので、恐らく起き抜けに事件が起きたのだろう。
青年はふと、その部屋の棚の上に置いてある写真立てが気になり、手に取ってみた。
人の良さそうな老夫婦が、その老夫婦をそのまんま若くしたかのような夫婦に肩を抱かれて微笑んでおり、その前では小学生低学年と思しき少年が真っ白な歯を輝かせながら映っている。
写真の褪色から推察するに、かなり昔の写真だろう。フレームを外して確認してみると、1992年と裏側に撮影日が表示されていた。
写真を元に戻し、隣に置いてある物を手に取る。そちらには、より老化の進んだ老夫婦と、がっしりした体格の青年と線の細い女性が家の前で笑っていた。撮影日は2008年……どうやら、あの写真の少年が成長して農家を継ぎに妻と帰ってきたのだろう。その姿は幸せそのものだ。
青年は何も言わないで写真を戻し、部屋を後にした。そして、破れて垂れた暖簾を退けながら厨房に入り込む。
厨房はかなり古い物で、竈が潰された痕まであった。どうやら、古い家を改築して今の姿になったのだろう。古いシンクに水が溜まっており、戸棚の中では使われる事の無い食器が埃を被っていた。
シンクの隣に置かれた大型の冷蔵庫は電源が断たれて久しく、とてもではないが開けようとは思わなかった。密閉されているから匂いはしないが、きっと中は酷い有様だろう。
シンクにはプラスチックの盥が置いてあり、中で水が腐って嫌な匂いを発していた。黒く変色し、妙な滓が浮いているので、恐らくは夏にボウフラでも沸いたのだろう。
その盥の脇から、何やら木の棒が覗いていたので摘んで取り出して見たが……酷く錆び付いた包丁が出てきた。どうやら中に取り残されていたようだ。
朽ちる程錆びた包丁をシンクの上に戻し、青年は厨房を見渡す。放置されて久しくても、何処か、かつて作られていた料理の残り香がするような気がした。
厨房の奥には階段があり、二階に向かって大きな口を覗かせており、勝手口がある。恐らく裏庭に繋がっているのだろう。青年はまず、勝手口のノブに手を伸ばしてみた。
軽く捻る……抵抗なく最後まで回り、扉が開いた。そのまま注意深く押し開けて裏庭に出る……なんて事の無い、木の塀に覆われたそこそこの広さのある庭があった。
同じく時代を感じさせる小さな土倉が立っており、犬小屋もある。だが、犬小屋には鎖と、外れた首輪だけが残されており犬の姿は無かった。
「タロウ……か、またベタな」
青年は言いながら犬小屋の中を覗き込み、打ち付けられたネームプレートを見つけた。中を探ってみると、白い毛が残されている。かつて此処で飼われていた犬は、真っ白でフワフワした犬だったのだろう。
埃の積もり具合からして、少なくとも数ヶ月は完全に誰も入っていないのだろう。犬は逃がされて何処に行ったのやら。少なくとも、カノンが反応していないので近くには居ないようだ。
青年は犬小屋から離れ、土倉に向かった。カノンはまだ興味深そうに首輪の匂いを嗅いでいるので、放っておくとしよう。何かあったら直ぐに吠えて教えてくれるはずだ。
土倉は、母屋の二階より少し低い程度の高さだが、それでもかなり大きいと言える。昔ながらの白い漆喰壁に黒い瓦葺き屋根。扉は鉄製のようであり、陽光を反射して冷たく光っていた。そして、鍵を掛ける為の穴や閂も設置されていたが……鍵は掛かっていなかった。
散弾銃で軽く扉を押してみると、古びた鉄の軋みと共に少しだけ開いて直ぐ止まった。隙間が開くと同時に仄かな腐臭が奥から漂ってくる。しかし、その腐臭は新しい物ではない。時間が相当経っているのか、臭いが乾燥により薄くなっている。
青年は散弾銃をスリングでぶら下げ、片手で扉を押して隙間を作りながら、フラッシュライトの光で奥を照らした。
中を覗き込むと、無数の行李やら段ボールが並べられており、その合間に農具が転がっている雑然とした蔵の内部がフラッシュライトの光で切り取られて視界に映る。内部で何かが暴れた形跡や、荒らされたような痕跡は何もない。雑然としているが、それは単に物が多いからであろう。
視界を少し下ろすと、何やら扉の直ぐ向こうに板のような物が見える。どうやら中からも閂がかけられるようになっていたようだ。手を差し込めるほどの隙間は無いのだが……。
青年はライトをマチェットに持ち替え、細い刀身を閂の下へと潜り込ませて、上へ持ち上げる。錆びているのか、手応えがかなり重かったのだが、少しずつずれて行き……やがて、外れたのを感じた。
マチェットを引き抜くと、刀身に剥がれた錆が付着していた。それを拭き取って鞘に戻し、再びショットガンを構える。L字ライトの光を付け、胸元から覗かせてフリーハンドのまま前を照らせるようにした。
扉を、少し乱暴だが蹴り開ける。大きな音が鳴り響き、犬小屋を観察していたカノンがびっくりして体を跳ねさせた。
「すまん」
何事かと驚いて此方に振り返ったカノンに謝罪し、青年はそのまま土倉に入り込んだ。
……かび臭さと埃臭さ、そこに交じって古い血臭と腐臭。中二階、今風に言うとロフトかね? 等と思いつつ中を観察する。一階部分は荷物しか置いておらず、隅っこで鼠が一匹死んでいるのが見えた。だが、あれが腐臭の原因ではないだろう。
中二階に上がる為、階段に片足を掛ける。大きな軋みが響いたので、大丈夫か? と思って更に体重を掛けてみるが、不意に板が割れて落下する、などという兆候は見られなかった。
それでも一歩一歩慎重に進んで中二階へ上がる。木が軋みを上げる音が一歩踏み出す事に響き、それが大きくなっていくような錯覚を覚える。最後の一段を上り終えるまでもなく、青年はある物を目にした。
横たわる三つの死体と、蹲った一つの死体を。
死語かなり時間が経っているのか、死体は殆ど外見から性別や老若の判断が付かないほど腐敗し、ミイラ化していた。骨から肉が削げたような痕が幾つもあるので、もうちょっとフレッシュな時に鼠のような小型生物に啄まれたのだろう。
服装から考えるに、割烹着を着た死体は写真の中の老婆。寝間着と思しき気軽そうな作務衣を着ている物がその夫。そして、藍色のワンピースを着ているのが二人の孫の妻、であろうか。
蹲っているのは体格からして男性だろう。身に纏っているのは変色したTシャツと、履き古されて色の落ちたジーンズ。死体の全てが腐敗を終え、殆どミイラ化していた。
死体の側にしゃがみ込んで少し調べてみると、死因は直ぐに分かった。首筋に大きな切り傷がある。ミイラ化による乾燥で出来た裂傷や、小動物に喰われた為に出来た損壊よりも大きな傷で、頸動脈諸共器官を切断したであろう程深い鋭利な傷だ。間違い無く鋭利な刃物による物であろう。
横たわる死体三体は全て死因は首の傷だった。そして、正座した状態で蹲る男の近くには血錆びで表面がグズグズに劣化した薪割り用の大きな鉈が転がっている。
ふと、壁などを照らしてみると……なるほど、色がかなり変わっている。恐らく、首を切ったことによって吹き出た血潮だろう。人間の心臓が血液を送り出す勢いというのは凄まじい物だ。それこそ、足の末端にまで届くのだから想像は難くない。
その先端が断ち切られ、ホースのようにぶちまけられた。正しくここは血の海だったのだろう。
これは推測に過ぎないのだが、事件が起こった後に生き延びる為家族全員で此処に立て籠もり、覚悟の末に自決。偶然首を搔ききった事により頸椎が損傷し、死体として復活しなかった……という事なのだろう。
苦しまず、動く死体となって辱められる事の無かった彼等は幸せだったのかも知れない。助けが来る宛てなど無いのだし、飢え死にして命を失った後も歩き回るよりはずっとマシではないだろうか。
青年は死体に手を合わせようとして……ふと、顔を歪めて笑った。
「神も仏もあったものではない……か」
数秒間、笑っているような、泣いているようなよく分からないない交ぜの感情が渦巻いた笑みを青年は浮かべ……その後、不意に無表情に戻った後で、土倉を後にした。
後に残されるのは、永遠に黙する家族のみであった…………。
やりたい事を一つ書くと、別の書きたい事が書けなくなるというジレンマ。銃撃戦とかゾンビとの修羅場を書きたいが、キャラに合わないという事で大抵のお約束はスルーしちゃうしね……
今回は比較的短い時間で仕上げる事が出来ました。とはいえ、次は何時になるかはやはり未定な訳ですが。その分、多分今までで一番の文章量になったと思います。
そろそろ暖めてきた別の作品もチョロチョロ出してみようかしら……と、思いつつまた次回。感想、誤字指摘などお待ちしております。感想にはできる限り全部返答するつもりなので、長い目で見てやって下さい。