少女と諦めと足掻き
世界とは何か、という問いに関して明確な回答は存在し得ないが、少女にとっての真実はシンプルなものだった。
自身の知覚であり、感情である。
結局、人間という生き物は大した処理容量でもない脳髄の中、細胞間の電位差によって引き起こされる化学反応の連鎖によって構築される生き物に過ぎない。
であるならば、この世に真理は無く、神は存在せず、魂はひたすらに空虚で、自身を含めた全ての存在は“たまたま”に過ぎない。
だからこそ、彼女はもう諦めてもいいんじゃないかなと思い始めた。
「で、なんであないなことをした」
元々、彼女の人生的な目的は楽に生きることだ。辛くもなく、大きな喜びもない平穏で当たり障りのない、穏やかな感情を維持できることこそが悦びである。
しかし、現状は楽なものではなくなってきてしまった。
それこそ、級友の命を救って、ひと目で割と同しようもないと分かる状態を何とかしてやったのに、生徒指導室に隔離されるような状況に理不尽を楽とは呼びようがあるまい。
「何とか言うてみぃ!!」
眼の前で疲れ切った風情の生徒指導教諭ががなっていた。あの後、悲鳴と騒ぎを聞きつけて教員が──ついでに野次馬も──駆けつけてくれたのだが、問題はより複雑なものと化した。
というのも、暴れまわる例の女生徒を拘束したまではいいのだが、背中を踏みつけにして無力化していた少女は“学校内での過度な暴行”によって自身も生徒指導室に放り込まれたのである。
「いや、普通あの勢いで暴れたらどうにかしようとしますよー」
「だとしてもやりすぎや。背中を踏みつけるなんて、何考えとんや。足も折れとったんやぞ」
「加減してどうにかなるならしましたよぉ……」
それも無理からぬ話ではあった。
現実というのは、物語ほどシンプルではないからだ。
映画好きがぱっと見て「あ、ゾンビだ」と分かるような有様であっても、その映画の知識を元に行動に移してはならないのが現実だ。現実には明確な秩序が存在し、その秩序は“映画でそうだったから”などというふわっとした判断を赦さない。
実際にどのような症状が起こっているのかは分からないのだから。もし仮に治療可能だった場合、後からいかなる責任が発生してくるかわかったものではない。
そして、少女には知る由はないのだが、日本という国の秩序はシンプルな対応を禁じていた。
野党や市民団体からの突き上げで、ひと目で死んでいると分かる見た目であれ、瞳孔が開ききり心臓が止まっていたとしても強硬な対応が取れずにいたのだ。
自衛隊や警察、関係各所が連携して本気を出せば、事態の終息は十分に適っただろう。
死者の膂力は凄まじいが、所詮は地を這い徒手しか攻撃手段を持たないウスノロだ。小銃と潤沢な弾さえあれば対処は容易い。数が増えれば装甲車や攻撃ヘリを動員すれば、楽に掃除もできるだろう。
後は避難民を匿いつつ、怪しい対象は隔離してしまえばいい。さすれば、事態は出血を伴いながらも収拾できたであろう。日本という国家には、十全に機能できたならばそれをなすだけの能力は十分にあるのだ。
まぁ、全てが理想的に機能するような世界であれば、日本は第二次大戦に負けはしなかったのだろうが。
「で、私、いつまでここにいればいいんです?」
うんざりと少女は吐息した。普段であれば、おっかない生徒指導相手にここまであけすけな態度はとらない。ただ、状態と自分の有様に色々と絶望しつつあり、対応が適当になっているのだ。
ぴくり、と強面教師の額が動いた。一昔前であれば胸ぐらを掴み上げた所であるが、色々とうるさい世の中なので怒気を必死になだめる。
「……警察きたら、そっからどないかしてもらうからな。それまでは、大人しゅうしとけ」
絞り出すように吐き捨てて、小さく頭を振り生徒指導は部屋を辞した。ご丁寧に、外鍵を閉めると内側からは開かないドアを施錠して。
彼にも立場というものがあるのだ。彼は上から「豹変した生徒には可能な限り穏便に拘束すること」と明確な指示が校長から出されている。そして、その校長も国から何か言いつけられているのだろう。
全くままならないものだ。少女は簡素な椅子に上体を預け、長い脚をテーブルの上に放り出した。優美な体がかける負荷に椅子が抗議のきしみを上げるが、少女はそれを無視して頭の後ろで手を組んで瞑目した。
頭を巡るのは、果たして頑張る価値がまだあるか、という思考。
彼女は楽に生きたいのだ。別に一切の苦を排除したいわけでも、永遠の絶頂がほしいわけでもない。精々、プラスマイナスで少しプラスに傾く程度の楽さでもいいのだ。そのためなら面倒な学校にも通うし、好きでもないが人付き合いだって厭わないし、必要とあらば恋愛だってしてみせよう。
だが、果たしてこの状況は努力でどうこうできるものなのか?
教員の対応で分かってしまった。ろくでもないことになったと。淡い希望だった、有能な人間が有効に機能して事態を収拾させるという絵図は燃えて落ちた。
きっと、できの悪い物語のように、できの悪い誰かが頭の悪い方向に努力してしまったのだろう。
何時だったか遊んだゲームで、似たような事態に放り込まれた警察官のセリフが脳裏に湧いてきた。
「まったく、泣けるぜ」
少女は色々考えるのが面倒くさくなり、そっと目を閉じた。どうせここからは逃げられないのだから、少し眠いし寝てしまおうと思って。それがきっと、今一番楽な道だ。
何、楽な道を選び直すことなんていつだってできる。
最悪、懐に呑んだままのドライバー、こいつがあればどうとだってできるのだから…………。
眠りとも呼べぬ浅い微睡みがほつれ、少女は目を開いた。ちらと時計に目をやれば、時計は深夜四時指し示している。
普段であれば、明日に備えて心地よい寝床の中で丸くなっている時間帯。春先の遅い払暁は、まだ顔を見せていない。
しかし、椅子に身を預けての窮屈な眠りで快眠は望めない。ふとした拍子に浅い眠りから精神は浮かび上がり、夢に溺れることも能わない。
ましてや、遠くから切羽詰まった喧騒や悲鳴が聞こえてきたのであれば尚更に。
せわしなく廊下を走り回る靴音、上ずった悲鳴や助け、あるいは説明を求める絶叫。誰かの名前を連呼する残響に、微かに鼻孔をくすぐる不快な臭い。知っているようで知らない、脳みその深い所から“これは不快だ”と示される臭気の源を少女は悟った。
腹腔から溢れた血と臓物が混淆される臭いだ。
傾いていた椅子がもとに戻る勢いを利用して立ち上がり、彼女はドアに耳を寄せた。数人の足音が走り去っていき、後は遠間から響く喧騒以外の音が失せた。その喧騒も争う声ではなく、助けを求めて上げる意味もない絶叫ばかり。果たして何が起こったのか。
いや、深く考えるまでもないか、と考えて少女は口の端を歪める笑みを作った。
“お約束”ではないか、アレを題材にした物語の中では。
ノブを捻ってみるが、ドアは固く閉ざされて動かなかった。外が荒れているにも関わらず、鍵が開くでもなく迎えが繰るでもないということは、見捨てられてしまったのだろう。教師だの聖職だのと言ったところで、結局は人間だ。命が危難に晒され、脳が混乱して尚も庇護者として振る舞える者などそうはいないのだから。
「とくりゃ、後は手前でなんとかするしか無い訳だ」
窮屈な姿勢で寝たせいで凝った筋を解しながら、少女は部屋を見渡した。生徒指導室には一揃いの椅子とテーブル、後は鍵のかかるキャビネットしかない。あのキャビネットは没収品の保管棚なのだろうが、こじ開けたとして利はなかろう。アメリカのハイスクールでもあるまいし、出てきて精々が卑猥な書籍だ。
「気を利かせてさすまたくらい置いてきゃいいのに」
少女は屈伸の後にアキレス腱を伸ばして四肢の稼働を十全に整えた後、ドアを睨めつけた。
「いよっ……」
そして、草食獣の如くしなやかな右足を持ち上げて腹の前でゆっくり貯めを作り、
「こらせぇ!!」
機構部に勢いよく前蹴りを叩き込んだ。いわゆるヤクザキックとも称される、工夫も何もあったものではない単なる蹴りである。
ただ、恵まれた肉体から放たれれば、それだけでも十分すぎた。
ローファーの靴底に踏みにじられ、肩書だけで妙な重厚感を帯びていただけの他と変わらぬ扉は安々と開いた。
少女からすると予想外だったのは、ドアが跳ね開いたのではなく、蝶番ごと吹き飛んでしまったことだろうか。
そして、その向こう側に居た誰かを引き倒したことも。
「あちゃー、運が悪いやつが居るみたいだなぁ……」
やっちまったと言いたげな顔をして、後頭部を軽く掻きむしる少女。扉に押しつぶされてもがく誰かを拝んでやろうと、彼女は足を引っ掛けて扉を軽々ひっくり返せば、
「おう?」
そこには、先刻自分が膝を叩き割った少女の姿があった。
血染めの制服と、ひしゃげて骨が飛び出した膝。ようようみれば、何やら拘束でもされていたのかちぎれた縄の残骸が腕や肩にまとわりついていたが、例によって定説どおり細いタイガーロープ程度では止められなかったらしい。
「ああ、ほんとに運が悪いやつだったみたい。一日で何度悪い目に遭うのやら」
飢えた女生徒が立ち上がろうと足掻きながら、焼け付くような視線を少女に注ぐ。生徒指導室から漏れる光に照らされた瞳は、内の水分とタンパク質が変性してにごり始めていた。ここまでくれば、誰もがひと目で分かるだろう。
彼女はもう、どこか遠くに行ってしまったのだと。
「映画ならここで感傷たっぷりに楽にしてあげる所なんだけど……」
腐った視線を平然と受け止め、少女は笑う。懐に飲んでいた長い整備用のドライバーを指の間で器用に弄んだ。くるくる回るそれは、眼窩や首に突き立てれば十分に人を害せる鋭さを帯びていたが……。
彼女はそれを逆手に握り直すと、さもすまなそうに片手で拝んでみせた。
「ごめーんね、相手してる余裕ないや」
軽やかなステップでもがく彼女を飛び越えて、中庭に続く廊下へ足を向けた。背中に注がれる口惜しげな目線も、溢れる呻きも華麗に流して少女は立ち去る。アレを破壊するのはさして手間ではなかろうが、ノーリスクではないのだから。格好つけてムービースターの真似をする理由はどこにもない。
それにしても、少女は結構前に置き去りにされてしまっていたらしい。最後の走り去る足音を聞いて暫く経つが、一階の廊下は静かなものだ。上の教室階からも声は聞こえず、皆何処かに散っているようだった。
「どいつもこいつも薄情だなぁ、おい」
呟きながら、その実心底どうでも良さそうに少女は廊下を駆け抜けて中庭に飛び出した。自販機の思い出に浸ることもなく部室棟へと駆け込み、やはり人気のないそこを駆け抜けて数時間前に目をつけた掃除用具入れを乱暴に開いた。
「会いたかったぜぇー、かわい子ちゃん」
無骨なロッカーの中には、嫌な予感に従って忍ばせておいた愛銃が無言で主の帰参を待ち受けていた。そして、傍らには新たな供として選んだ物騒な消化斧の存在もある。
弾丸や小物を詰め込んだサブバックを背負い、エアライフルは左手で担ぎ上げるように保持。ずっしりと重い消化斧も、コンパクトに振りおろせるよう先端を肩に添えて担う。
「さぁてと、コインは一枚こっきりだけど、まだ終わってないしなぁ」
少女は諦めが悪い方ではない。楽な方に流れるためなら、少し欲しいと思っていたり、良いなと思っていたりしても簡単に諦められる。そして、生きていることが何よりの苦痛に成り果てるなら、さっくり楽になることを選び取る負の果断さも持ち合わせていた。
彼女は挑戦者でもなければ抵抗者でもない。ましてや善人や聖人ですらない。
ただ日々を苦痛なく生きていたいだけの愚物なのである。
それ故、まだ目があるなら頑張ってみる程度の気概もあった。なんだかんだで四肢は整い、心臓は脈打って血には熱がある。なら、少しでも楽に生きる方向に顔を向けて損はあるまいて。後は、可能な限りの楽な生き方を模索し続けるだけだ。
「あとちっと、悪足掻いてみようかしらね。まずは状況の把握だな」
武装を整えた少女は平素通りの笑みを貼り付けて、意気揚々と部室棟を登った…………。
書きたいことをつらつら続けると、思っていたより長くなる病気。
どうにか治療したいものですが、これはどこの病院にかかればいいのやら。
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増えれば増えるほど早くなるあたり、やはり私は現金な生き物らしいです。
次も然程間を開けずにお届けできれば幸いです。