少女とドライバーと飛行機
放課後の喧騒というのは、本来ならば賑やかで楽しそうなものと相場が決まっている。事実、この建って間もない校舎には、そういった楽し気な声がいつもあふれていた。
しかし、夕方の茜色から宵の群青へと空がにじみつつある今、教室に立ち込めている喧騒は決して愉快とも朗らかとも言えないものであった。
ひそひそとした話し声が幾重にも重なって起こる、静かであるのに耳に刺さる騒音。いずれも声を抑えながらも、吐き出される言葉の端々に不安と恐怖がにじんでいるのがありありと分かった。
そんな中、少女は自分の席で本をめくっていた。平素と変わらぬ人好きのする笑みを張り付けながら、呑気に手繰るは海外の狙撃手達がチームを組んで監修した狙撃教本である。当然のごとく英字の細やかなフォントが躍る薄い紙を、彼女は日本語と変わらぬ速度で咀嚼していった。こういった本は、どうしても原文で読むしかないので、彼女は日本での暮らしが長かろうとも第二の母語を習得しきっていた。
不安そうな同輩たちを他所に本を読みこんでいた彼女であるが、不意に目線を上げて教室へと注意を移す。どうやら、誘導し終わってから待機しろと命令したきり担任が戻ってこないのを良いことに、上がり始めた雑談のボリュームのせいで集中が続かなくなったらしい。
見やれば、教室には空いた座席が多く目立った。おそらく、事件が起こったのは6限目が終わってしばらくのことであったから、部活動に所属していないか、活動に意欲的でなかったが為に帰宅した生徒が捕まらなかったのだろう。
最寄りの駅までは徒歩で7~8分。終業のベルから帰るまでに十分すぎるほどの時間がある。
とはいえ、一足先の帰宅が幸運かどうかは、なんとも判断が下し難くもあったが。
「阪急がどっかで脱線したっぽいぜ。ほら、これ見ろよ」
「マジかよ……これ、窓からはみ出してるの人か……?」
「梅田で大規模火災か? うそ、ほんとなの、このニュース」
「どうしよう、通じない、通じないよぉ、出てよお母さん……!」
「見ろよ、このツイート、すごくね? 特殊メイク?」
「にしちゃリアルすぎる・・ってか、よく写真撮れたなコイツ」
わざわざ自分の携帯を持ち出すこともなく、周囲の穏やかではないざわめきに注意を払えば、いくらでも情報は入ってくる。それも、あまり好ましいとはいいがたい内容の物が。事故、事件、通話がつながらない家族を案じる声。
そして、惨事を面白半分で拡散していく呟きが想起させる、歩き回る死の存在感。
まさしく非常時にふさわしいBGMの数々であった。
実際、少女も念のためにと家族の無事を確かめるメールを送ってみたものの、一時間以上経った今でも返信はない。電話もむなしく呼び出し音を鳴らし続けるばかりで、家の固定電話にかけても応答はなかった。
父の仕事場は、件の火事があったという梅田のオフィスビル。母は電車で数駅の住宅街であるが、時間帯によっては趣味の料理教室で梅田に出ている可能性もある。となると、二人がどうなっているかは、自分の想像と返信の不存在が暗喩してくれている。
事態は少しずつなどではなく、往々にして気が付いたら手遅れになって表出するというが、正しくそのとおりであった。いや、実際は家の柱が腐るように少しずつ少しずつ、隠れたところで誰にも気づかれずに進んでいたのかもしれない。しかし、少女のような一般人にとっては何もかもが突然だ。
まったく、世の中はうまくいかないことばかりだ。少女は嘆息して教本を閉じ、カバンにしまった。
すべて楽に生きるため、慎重に慎重に努力を重ねてきたが、こうも自分がどうしようもない外因でふきとばされると……却って面白くなってくるのは何故だろうか。人は本当にどうしようもなくなった時、泣くよりも笑うしかできなくなるというが、それとは何か違うような気もした。
なぜなら、自分はいつもと同じ笑みを張り付けていることができているから。
「万事塞翁が馬……ってのは、さすがに皮肉っぽすぎるかな」
何が幸運になるか不運になるかは、実際に起こってみなければわからない。しかしながら、これが何かの幸運につながるかも、と見るのは穿ちすぎか、と少女は笑った。
「つっても、ユーモアがなければ、人生は悲劇だっておっしゃった頭のいい人もいるしなぁ」
まだ、終わっていないのだろう。終わったと、これからどうしようもなくて、楽な方向なんて一つもないと悟れたら彼女はここに居なかっただろう。もし確信できていたなら、とっくに地面のシミになるという一番楽な方を選んでいただろうから。
楽に生きる方法は残っている。多少の苦楽が増減することはあっても、気楽に生きていける方法は残されているはずだ。この心臓が脈打っているうちはまだ。少女は、そっと制服の懐に呑んだドライバーに手を添えて、今後に備えて気を入れた。
「ねぇ……」
入れなおした気に水を差すように、鼻の詰まった涙声が聞こえた。目線をやれば、目を真っ赤にした友人の姿がそこにある。そして、次の瞬間には脱色した頭が自分の胸に飛び込んできていた。
「おうおう、どしたどした。おねーさんの胸は安くないぜ?」
「だれども連絡とれないよぉ……おとーさんとも、おかーさんも、いもーともぉ……田舎のおばあちゃんや、おじいちゃんも」
子供のように泣きじゃくる同級生を突き放さず、彼女は受け止めて頭を抱きしめた。柔らかで豊かな胸が濡れた顔を抱き留めれば、級友は縋るように手を背中に回して密着してくる。背を掻き抱く手には痛いほどの力が込められていたが、少女は面倒臭いなぁとの内心を微塵も浮かばせずに優しく頭を撫でてやった。
「心配しなさんな。大丈夫大丈夫、きっとどっかに避難してるさ。火事が起こると基地局が駄目になって通じにくくなることもあるし」
「ほんとぉ……? ほんとに大丈夫かなぁ……」
無論、気休めであることを少女は分かっていたし、随分と適当ぶっこいた安請負だと理解していた。それでも、今ここは正論を説いて“あきらめろ”などと宣う場面でないことは確かだ。不確かで不誠実であったところで、今優先されるのは真実ではない。
時には理解すべき真実より、安らかな嘘のほうが大事な時もある。
たとえそれが、後々響く毒物になったとしても。
「何が、あったんだろうね……」
さっきまで皆と同じように携帯を落ち着きなく触っていた弓道部の少女がやってきて、空いた隣の席に腰を下ろした。そして、自分も泣きじゃくる友人をなだめようと背中を撫でてやり始めた。
この落ち着きようと、他人を気遣う余裕があるということは、彼女は家族とコンタクトがとれたらしい。この場で落ち着きや余裕の原因を探るのは容易い。そして、その安心の理由を大っぴらに口にしないで自分にとどめておける程度の理性があると、少女は今までの付き合いで十分わかっていた。
この弓道娘は確か大阪でも外れの方で、若干僻地と呼んでいい場所に住んでいたはずだ。
となると、やはり事態は大阪の中央部から動き始めたのだろうかと少女は想像をめぐらせた。
考えるべきは家に帰る方法ではなく、どうやって安全を確保するべきかであろう。
ゾンビ映画の展開は決まっている。田舎が舞台ならエンディングか、その後で人口密集地に事態が波及して第二作が作られるが、都市部が最初に呑まれる作品では田舎に脱出するのがお約束である。
とはいえ、問題はこの日本に安全なところが残されているのかだ。
確かに映画の世界であれば、文明がゾンビの波にのまれるのは予定調和であろう。WHQだの各国軍だのがきれいに事態を収めてしまえば話にならない。物語とすれば盛り上がりに欠けるからだ。
しかしながら、現実は得てして無常であり、盛り上がりもへったくれもなく事態が収拾されることなどままある。
脚本の都合によって時折発生する目も覆いたくなる無能の集団よりも現実の警察や軍隊、国際機関は優秀だ。ふらふらさまようばかりのゾンビであれば、自衛隊や警察の火器で十分すぎるほど簡単に駆逐できる。数千のゾンビが密集軍となって街路をまい進したところで、重機関銃座が一つと潤沢な弾、後は小銃分隊が一つもあれば十分に対処できるだろう。彼らの動きはとろくさいし、ゲームと違って破壊されたゾンビには当たり判定もあれば、勝手に消えもしない。そのうち、倒された同類が邪魔になって進軍が止まるはずである。
最悪、都市区画ごと“消毒”してしまえば、被害は最低限で食い止められる。そのあと、消毒の是非を問うて政権が入れ替わる可能性があるにはあるが、それはゾンビ映画の枠外だ。平和になった後に議会で十分に論じていただこう。
選択肢はいくつかある。
一つはおとなしくここで待つこと。有能な人たちが有効に機能して事態が収まれば、そのうちに迎えが来るだろう。避難勧告に従って事態が収拾するのを待てばよい。家族の安否が気にかかるが、最悪は米国の祖父母にでも頼ればなんとでもなるだろう。ゾンビ災害が生命保険の免責事項に抵触しないか、それだけが不安ではあるが。
二つは逃げ出すこと。有能な人間が足を引っ張られて機能しきれない、それは戦前戦中、そして戦後も変わらない法則である。この場合、あの人を食らおうとする状態を奇病か何か扱いして、まだ治療の芽があるかもしれないだろうと謎の講義をし、きちんと処理できない可能性もあるのだ。
そうなれば、後に待っているのはまさしくロメロ御大と、偉大なる氏の追従者が描いたホラーそのままである。
となれば、悠長にここで待っているのは悪手だ。どういうわけか連中は人の多いところに集まる性質があるので、こんなスカスカの防備しかない学校なんぞあっという間にもみつぶされて終いであろう。
では、この胸の中で鼻をすする級友や隣の席で不安そうに形態を抱きしめる二人、ひいては同じ教室にいる同輩をどうしたものか。
戦力になるかと言われれば、正直微妙としかいえない。息をする弾除けと足手まといの中間……いや、限りなく足手まといに近い弾除けにはなるだろうが、戦力としてカウントするにはあまりに心もとない。
なにせ相手はゾンビなのだ。遠目に見ていただけなので、あの中年男性がどのタイプのゾンビなのかわからないが──流行りの全力疾走タイプでないのを祈るばかりだ──ラガーマン三人がかりで引きはがせない怪力の持ち主なのは確かなので、撃破は困難を極めるだろう。
つかまれれば終わのドマゾゲー。その上残機なしでインクリボンもなしと来た。賑やかしがどれだけいたところで、気休めにもなるまいて。プロデューサーとディレクター出て来いと声を大にして文句を言いたいところであった。
いや、よくよく見てみれば足手まといばかりでもない。数時間前まで談笑していたバスケ部の彼は運動能力もあれば、人間性からして自己犠牲精神にも富んでいそうだ。いかにもな主人公体質であり、こういう場面ではよく働いてくれそうではないか。
そんなメンツを見繕っておけば、あるいは……。
黙考に沈みつつあった思考が、ノイズ交じりの校内放送で唐突に打ち破られた。普段の校内放送をしている放送部の声ではなく、低いそれは学年主任のものであった。
「えーみなさん、落ち着いて聞いてください。たったいま入った通達によれば……」
ざわめく生徒を置き去りに、上ずった声で読み上げられる放送は思わず舌打ちしたくなるような内容であった。
曰く、この近辺が警戒区域に指定され、避難命令が発令されたので生徒はここで待機とのおふれだ。級長が何人か率いて、講堂の倉庫に備えてある避難物資を取りに来るようにとの内容が続き、長期戦が否応なく予想された。
まったくどうしようもない。決断するにも想像を巡らせるにもパーツが足りなすぎる。一応備えてはいるものの、できることはあまりに少ない。
すでに他人によって賽は降られてしまったらしい。どうせならルビコンは自分の意志で渡りたかったが、プレーヤーが数多座席について、好き勝手にふるまうテーブルではベットするタイミングを選べるとも限らない。それどころか、プレーヤーではなく、誰かのチップとして掌の中でもてあそばれている可能性すらあるのだから。
内心のイライラを追いやりながら、少女は動きかねている級長に向かって荷物持ちならまかせろー、と朗らかな声を上げた…………。
かび臭さと揮発した汗が立ち込める体育倉庫には、マットなどの体育で使う設備に交じって様々な避難用物資がため込まれていた。先だっての震災に伴って、大地震の到来が予見される大阪では広域避難所の整備と物資の準備が進められており、この高校もそんな避難所に指定されていたのだ。
食料や飲料水は言うまでもなく、シュラフなどの寝具が校内各所の倉庫にため置かれている。少女はそれらが収まった段ボールをバケツリレーで校庭へと並べる一段に組み込まれていた。先に出すだけ出して、それから各クラスに分配するらしい。
見れば、わずかに開けられた門から避難してきている近隣住民がちらほらと居た。彼らは体育館に誘導されているらしく、自分たちは教室で夜を明かすことになるのだろう。
ただ、少女は段ボールを運ぶ手は止めず、目ざとく避難者たちを観察していた。
彼らの何人かが、何者かに襲われたのか負傷していたり、具合が悪そうにせき込んでいたりする様子を見て確信する。
ああ、ここに長居してはいけないのだなと。
何より、この期に及んで警察が到着していないのがよくない。遠方でサイレンが激しく行きかっているのは分かるが、こちらに近づいてくる気配はなかった。消防も警察も救急も、すべて方向からして市内に駆り出されているように思えた。となると、あの重傷を負った女生徒は、今も養護教諭が診ているのだろうか。
ろくでもない映画の展開になってきたな、と少女は口中に苦いものを感じた。本当に、くだらない映画の冒頭のようではないか。となると、次あたりに起こるのは……。
「な、なぁ、あれ……」
段ボールが落ちる音。そして、誰かが指さす方向に目をやれば、夜陰の空に一機の航空機が見受けられた。大阪北部は航路の関係で飛行機が頻繁に行きかうので、中型の旅客ジェットは実に見慣れたものだ。
ただ、聞きなれたエンジン音や見慣れた姿と裏腹に、その航空機はひどく不安定に揺れていた。平素と比べるとかなり低い位置を飛んでおり、まるで熱病に浮かされているかのように翼が左右に振れている。
「高度が下がってないか?」
「嘘だろ? おい、嘘だよな、たのむたのむ、マジかよやめろ……」
皆が呆然と立ち尽くして航空機を見送る中、頼むからそんなことにならないでくれという祈りを振り切って翼は大気を切り裂き……遠方に臨む山の稜線に突き立って、赤い花を咲かせた。
現実離れした、しかし、決してスクリーンの向こう側で起こったものとは違う光景を見せつけられて誰も動くことができなかった。監督する教師も、荷物を持った生徒も。
少し遅れて、距離によって減殺されてもひどく不気味な音と衝撃が届く。剣呑に重いそれは、腹の底を撫でるかのように抜け、後に言い知れぬ不安と絶望を塗り付けていく。
お前たちが愛していた、安穏とした日常は終わったのだと告げながら。
「こりゃ決まりかなぁ……」
その中で、少女だけが笑っていた。いつものを笑みのままで、しかして瞳だけは欠片ほども笑わないまま。
懐のドライバーが、にわかに重みを増したような錯覚を覚えた…………。
多分次あたりからどろどろぬまぬましてきます。