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少女とスイッチと歯車

 温い初春の空気を引き裂くような少女の悲鳴が何度となく学び舎に響き渡り、次いで数多の怒号と別種の悲鳴を産んだ。


 「え、やばくね? 何これ」


 老いた怒号は、普段何の役に立つのかと疑問に思った門衛の物だろう。続いた悲鳴は、何かを目撃してしまったであろう勧誘の生徒達が上げたもの。少し離れた校舎にまで届く悲鳴と困惑のざわめきに、教室に残っていた面々は困惑した。


 日本という国は基本的には平和な国だ。それこそ、穏やかで危機管理意識の高い人間ならば、産まれてから死ぬまで殴り合いとも警察とも無縁でいようと思えば十分に能うほど平和な国である。なればこそ、皆の反応は酷く鈍いものであった。


 「いよっと」


 ただ一人、窓枠に昇って身を外に乗り出した少女を除いて。


 「ちょっ、あぶっ、なにやってんの!?」


 「高さ稼がないとよく見えないじゃん」


 少女は椅子を踏み台に窓枠へ足を乗せると、転落防止の手摺りにもう片足を引っかけて身体の殆どを宙に晒した。普段であれば目撃した教諭から叱責が飛んでくるだろうが、非常時故に誰もが上へ視線を巡らせる余裕もないらしい。


 彼女は高倍率の双眼鏡――エアライフル競技で得点を確認する為の物――を覗き込んで校門を眺める。的を睨め付けるのと同じくらいの真剣さが宿った異国の瞳は、騒動の中心を見て無意識に眇を形作った。


 「何? 何か見えた!? ねぇ!?」


 「馬鹿! 触ろうとすんな! 落ちたらどうすんだ!!」


 脱色の少女とバスケ部の少年が繰り広げる空騒ぎも全く耳に入ってこない。耳の後ろを流れる、普段であれば全く感じられない血流だけが酷く騒がしかった。


 丸く切り取られた望遠の視界で、複数の男女が絡み合っていた。有り触れたスーツ姿の壮年男性が女生徒の首筋に顔を埋めており、守衛達がそれを必死に引き剥がそうとしている。


 舐めているだの匂いを嗅いでいるだのの生ぬるい犯罪行為でないことは、必死に白髪交じりの頭を押し返そうとする女生徒の手が血に染まっていることから明白だ。


 食い込んでいるのだろう。歯が肉へ、骨へ、血管を切り裂きながら。少なく無い血が結合部から溢れ、滴った鮮烈な赤が真新しい制服と地面を染めていくのが見える。


 「わぁお……」


 形の良い唇が歪み、思わず妙な感嘆が溢れた。


 精々、新歓期間なので正門前までチア部やバレー部などの露出が激しいコスチュームを身につける部活動がやって来たのを良いことに、外部から隠し撮りしに訪れた変態が見つかったのかと思いきや、事態は中々にハードコアであった。


 細腕が微かな抵抗を試み、老腕が日本の警備員に許されたささやかな警棒を振るうが男は離れない。半ば自棄を起こした老門衛が滅多打ちに振るった警棒の一撃が、何とか膝を打ったことで漸く身体が傾ぐ。


 それでも、平凡な見た目に反した異常なタフネスで男は女生徒に縋り付き続ける。掴まれた彼女の細い肩と腹が、よくよく見れば歪に変形し始めているのが見えた。折れているのかもしれない、男の異常な執念が籠もる握力のせいで。


 「な、なぁ、何が起こっているんだ? 説明してくれないか? それか、ちょっと貸してくれないか?」


 「いやー……これはちょっと見ない方がいいかもしんない……」


 「そんなにか!?」


 不安そうな射手の声に少女は絞り出すような返答をするのでやっとだった。首筋を焦がす不安と違和感から、他に注意を向ける余裕が無いのだ。


 何かが、大事な何かが致命的にずれていくのを感じた。今まで自分が乗っていた、暖かな流れから外れていくような。輪を描く暖流に乗っていたつもりが、知らぬ間に流れの速い寒流に飲まれ、死滅回遊の旅路に出た魚の頼りなさである。


 校門前の騒動は収まることは無く、流血を見た生徒達の多くは逃げ出していた。校門の外へ、或いは校舎へ逃げ込もうとして。


 しかしながら、世の中には多少ながら勇敢な人間が居るものだ。何人かの筋骨逞しい長身の生徒達が逃走の波に逆らって、虚しく警棒を振り上げる門衛達に加勢するのが見えた。勧誘のために重々しい防具を着込んだアメフト部の部員と、自らの身体だけで防具の厚みに負けないラグビー部の面々であった。


 力自慢の彼等は門衛を下がらせて、少女と男性の間に割り込んで引き離そうとする。身長180cmオーバーのフォワードとラインメンが三人がかりで立ち向かえば、次の瞬間には中肉中背の男性が引き離されるのが普通であろう。


 しかし、眼球が受け取った光の反射を、少女の脳は瞬間的に理解することができなかった。


 いや、あまりに常識外れな光景を拒んだと言うべきか。


 鍛えているとは思えないちっぽけな身体が、あろうことか屈強な大男三人の力を受け止めきっていた。


 引き剥がそうと二人が男の肩を押さえ、一人が頭を押しやりながら女生徒の身体に負荷をかけぬよう支えているのだが、喰らい付いた頭は全く動かない。まるで溶接されたかのように首筋に喰らい付き、咀嚼し続けている。


 驚愕の表情が少女だけではなく、組み付いた三人にも浮かぶ。歯を食いしばりながら大地を踏みしめて力を込め、顔に朱が差してゆく。そして、対照的に流血し続ける女生徒の顔はどんどんと青ざめていった。


 血管が千切れるのでは、と心配になるほど顔が紅くなった三人が、遠く離れた学び舎にまで届くほどの気勢を振り絞り、やっとのことで男は少女から引き離された。


 「おわぁ……」


 咥えた肉と筋が引き延ばされ、血を迸らせる凄惨な光景と共に。


 凄まじい出血と、柔らかな乙女の皮膚と筋が無残に引き延ばされるショッキングな光景に巨漢達が尻餅をついた。覚悟を決めて飛び出したとは言え、それでも馴染まぬ人体破壊の有様を見せ付けられて腰が抜けたらしい。


 ふらりとスーツ姿が蹌踉めき、今まで伏せられていた顔が傾きかけた陽光に晒された。


 「っ……!?」


 かちり、と脳味噌の何処かで音がした。ずれた歯車に対応してシャフトが動き、狂った動作が正される感覚。驚愕と困惑で空回った思考が、正しく連動していく。震えていた手が止まり、双眼鏡が正しく保持された。


 見れば、押っ取り刀でさすまたを担いだ生活指導の教諭が驀進していた。体育会系の権化というべきジャージ姿は、何か捕縛術でも嗜んでいたのか性懲りも無くへたりこんだ女生徒へ手を伸ばしていた男をあっさりと地面にたたき伏せる。そして、さすまたで首を押さえ込むと起き上がれないよう背中を踏みつけて、へたれていた巨漢に指示して少女と共に下がらせる。


 一応、これで幕ということだろう。失血が酷いのかふらつく女生徒を庇いながら三人が下がり、今更になって不審者が正門前に出たので生徒は校舎に戻って外にでないようにしてくださいという放送が始まる。


 遅い対応、あまりに遅い対応だった。平和ボケの代償、というには重い。とっくに警察に通報が行き、救急も呼ばれているだろうがお粗末に過ぎる。あの男性がナイフの一本でも持っていれば、更に数人は斃れていたことだろう。


 しかし、少女の変質しはじめた思考は、そこで止まらなかった。


 噛み合ったギアと、この瞳が映した現実が演算を開始する。複雑で精緻に、確実な妄想を孕みながらも独善的な式が頭の中でよじれる。


 「ねーねー」


 「ど、どうした? 終わったのか? 何があったんだ?」


 「お、教えてよ……怖いよ……」


 少女がかける声に友人二人の怯えた声が返ってきた。感じるそわそわした気配は三つなので、声にこそせずとも少年も事態の不明に焦れているのだろう。人間、把握している事態より把握していない事態の方に恐怖を感じるものなのだ。


 「ナイトオブザリビングデッドって知ってる?」


 しかし、投げかけられた問は的外れなものだった。古典のモノクロ映画を知っているかと急に問われても答えようがない。欲しいのは答えであり、妙な謎かけではないのだ。


 「な、ない……?」


 「あれさ、アメリカの田舎に帰ったとき、結構深夜とかに何度も垂れ流されてよく見たんだよねぇ」


 軽業の身のこなしで少女は床に着地すると、双眼鏡を鞄に放り込んで扉へと向かう。


 「ちょっ、ちょっと!? 何処に行くんだ!?」


 「ねぇ、待ってって! 教えてよ!!」


 「直に教室にみんな戻ってくるし、私より詳しく説明してくれるって。なんせ生で見てたんだから」


 縋るような質問の声に振り返ることもなく、ひらひらと手を振って少女は廊下に出た。ちょっとお花摘んでくるーとの一方的な宣言への反論は、廊下に溢れ出した新歓に出ていた生徒達の喧噪に押し流される。


 取り残された三人は少女を追おうとしたが、結局は好奇心に負けて戻ってきた面々に事態を問いかけることにした…………。












 人の波を避けながら少女は廊下をゆく。確かな足取りは女子トイレの看板をあっさりと通り過ぎ、階段を降りて中庭に向かう。


 北と東を校舎に覆われ、南側に食堂を抱えたちょっとした憩いの中庭。その西から少し離れて中庭に蓋をするような形で部室棟が聳えていた。旧校舎を改装したためか些か古めかしい様式なれど、数年前の改装で中は小綺麗に整えられた空間は静かに冷えている。


 教師の目を潜るように中庭へ抜けてきたが、多くの生徒達は正門から着替えもせずに逃げていた。訳も分からぬまま部活を中断された、グランドやそれぞれの練習場で汗を流していた面々も同じである。中には可哀想なことに温水プールから追い出され、水着から未だ塩素の香る水を滴らせた水泳部も居た。


 つまり、今の部室棟は空っぽだ。誰か残っていたとしても、何も知らずイヤホンを耳にねじ込んでさぼっているような人間くらいのものだろう。


 少女は悠々と中庭の自販機で真っ赤な缶の炭酸飲料を一本買い込んで、静かな部室棟に足を踏み入れた。


 のんびりと心地良い音を立てて開いた缶を啜りつつ、馴染んだ道を行く。一年間で何度となく訪れた、エアライフル部の部室を目指して。


 女子部員の割合が多いため小綺麗に片付いた部屋で、少女は部室に据えられた一時保管用のガンロッカーを開けてエアライフルを取り出した。白い本体に紅いラインの入った優美な本体は、実銃メーカーとしても名高いワルサー社製の一品。14の時から使い込んだ私物は、ビームライフル競技で積み上げた実績から推薦を受けられたお祝いで買って貰った思い出の品でもある。


 少女はそれを運搬用の鞄に放り込み、空気を充填するポンプやジャラジャラと楽しげな音を鳴らすペレットケースもねじ込めるだけねじ込んでゆく。そして、ものの序でとばかりに手近にあったメンテナンス用品も誰かが置いていったサブバックに放り込む。


 「……あ、これも借りてくか」


 手に取ったのは大ぶりなマイナスドライバーであった。指先で器用に弄び、くるくると回しながら彼女は部室を後にした。


 次いで足を向けたのは、廊下の片隅でぼんやりとした光を灯す火災報知器の下。夕暮れの朱に染まった廊下の中で、警告の灯りは酷く胡乱な紅に光っている。


 押すなという警告と暴発防止のガラスカバーに悪戯心を擽られながらも、少女は理性でぐっと堪えてドライバーを逆手に握り直した。そして、警報器の下にある消火栓ボックスをこじ開けにかかる。記憶が正しければ、ボックスには防犯装置はついていないはずだ。


 ついでに、目当ての物が……。


 「ビンゴ」


 金属の断末魔と共に開いたボックスの中には、丸められた消火ホースと共に一本の消防斧が納められていた。


 日本の消防法で消防斧は常備を義務づけられている訳ではない。それでも学校は何かと頑丈な扉が多いこともあり、万一に備えて何本かあると聞いていたので、少女はそれを求めていたのだ。


 当たりが出るまで何個の消火栓ボックスをこじ開ける必要があるのかと危惧していたが、存外運が良かったらしいと少女は斧を掴みながら微笑む。


 ただ、直ぐにその笑みは皮肉なものに変わってしまったが。歯車がずれた瞬間を見たというのに、運が良いと感じるのは滑稽であろう。


 それでも木製の柄と赤く塗られた金属の刃がもたらす重量感は変わらず、手の中で凄まじい存在感を放つ。普通の女子校生であれば、持つだけで蹌踉めくような代物を彼女はボールペンでも弄ぶような気楽さで回してみせた。


 掌に伝わる重厚な感覚が頼もしい。武器がもたらす得も言えぬ安心感は、何時持ってもいいものだ。ただそれだけで力を実感できて、何よりも恐ろしい感覚から遠ざかったと錯覚できるのだから。


 「やれやれ、とはいえど、これも掴んだ藁に過ぎないと思うと虚しいよねぇ」


 しかしながら、彼女の本能は囁いていた。これでは足りない、剰りに頼りないと。楽に生きる事に貪欲な本能が、これでは必死に足掻いたとしても、徒労の末に死ぬぞと嘯くのだ。指先が求めるのは、里帰りした際に触れた本物の暴力装置の冷たい感覚。


 「ま、あれは贅沢品かな……あー、困るなぁ……どうしよっかなぁ」


 重い荷物を少女は部室棟一階の目立たない掃除用具入れに放り込む。そして、まるで何事もなかったかのように校舎へと足を向けた。変わったことと言えば、まるでお守りのように長いマイナスドライバーを握りしめていることだけ。


 「しかしみんな、ゾンビ映画とか見ないのかね」


 小さな呟きは、血のように赤い夕焼けに滲むように消えていった…………。 

ということでお待たせ致しました。サクサク進めたかったのですが、色々とありまして最近凄い早く寝てしまっておりまして、テキストを開く元気が無かったりしました。


 次は然程間を開けずにお届けできればよいのですが。

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