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記憶と現状と雨上がり

 起きているのか眠っているのかも曖昧な。されど、認識が消えない茫洋な倦怠の中で記憶が浮かび上がってくる。堆積したヘドロの中から湧くように、ぽつぽつと取り留めもなく不規則な記憶の群が。


 幼少の頃の思い出や、ちょっとしたトラウマ。記憶に残る映画の内容、誇らしげに輝く優勝盾。そんな記憶の群に混じる人間の顔は、殆どが朧気で思い出せなかった。人物としての特徴や名前までは出るのだが、顔だけはどうしても思い出せないのだ。


 その中で一つだけ、確実に、鮮明に思い出せる顔があった。


 払暁の中で見た眠そうな無面目。これから一人の人間を殺そうとしているというのに、酷くつまらなそうな顔をしているのをよく覚えていた。そんな顔を「らしいじゃないか」と喜びながら見ていた自分も。


 何度となく見てきて、同類だと焦がれた男の顔だ。見目麗しいとは贔屓目でも言ってやれないが、あの目は忘れがたい。


 深い深い暗渠のように濁った瞳が、照門越しに自分を見ていた。


 そして、自分も彼を照準器越しに見ている。今は落っことして欠いてしまったエアライフルの照準器からの光景は、何度となく焦がれ、やっとの事で手に入れたそれ。


 あの男ならばと信頼した。自分を殺したかった私が、諦め悪く最後の最後に振り向いて銃を構えると。何があっても、あの男は去り行く背中を淡々と見送りはしないと。


 掠れた圧搾空気の銃声と、三連続の銃声が何を生み出したかは覚えていない。


 ただ自分が気がついた時、何処とも知れぬバス停の庇に身を預け、ただ一人残されていたことだけが事実である。


 まぁ、難しい話でもないだろう。あの男は一応名手と言って良い腕前の持ち主であるが、始めて持った小銃、しかも実弾で600点オーバーをたたき出す怪物というほどでもない。当然、実弾の強烈なリコイルを知らない人間が、感覚で叩き込んだ三点バーストが綺麗に頭蓋を砕くとは限らない。


 的からそれた弾丸は右腕に纏めて着弾。人体を軽く引き裂く火力を誇る5.56m、の鉛玉は威力を遺憾なく発揮し、その証拠をベンチの上に残していた。未練がましくライフルを握って離さない右腕と、断面から惰性で流れる血液という形で。


 殆ど付け根の辺りで荒く引きちぎられた右腕は、止血されるでもなく捨て置かれていた。縛って止血しようにも短くなりすぎていて、どうしようも無かったのか。


 いや、振り返ってみれば、這いずって広がった血の跡が見える。ここに自力で這ってきたのだろうと思考は結論をくだした。そもそもアレは、自分を殺そうとした女に情けをかけるような手合いではあるまいと、頭の中の冷静な部分が嘲笑する。


 アレは感慨を抱けど、簡単にその感慨を捨てられる生き物だ。死体を抱えて、せめて雨の当たらぬ場所になんて考える訳がないのに。


 酷く身体がだるかった。目は開いたが、それで全体力を使い切ったのか力が上手く篭められず、まともに動ける気がしない。思考は身体の状態を確かめろと喚くのだが、首を巡らすことさえ億劫なのだ。後頭部を柱に預けて、このまま目を閉じたらどうなるのだろうかと考えてみすらした。


 その時、小さな足音が聞こえた。


 眼球だけを動かして見やれば、遠くの街路から此方に歩いてくる影がある。酷く覚束ない歩き方をしたそれは、何処かでみたことがある人影のような気がした。


 影が近づいてくるにつれて、その正体が分かってきた。何の代わり映えも無い、歩き回る死者だ。緑を茶と黒の斑に染めた被服を、少し前に嫌と言うほど見た気がする。そんな姿の死者が、背中から消火斧を生やして歩いていた。


 これが私の死か、と酷く無感情に認識する。


 考えてみると無性に口惜しかった。


 綺麗な死に方を失ってしまったから。気持ちの良い死に方を。死ぬのは良いのだが、やはりどうせならば、彼の手で直接全てを終わらせて欲しかった。こんな、こんな中途半端な終わり方など。


 憎々しげに死体を睨め付けるも、形無き抗議で死者の覚束ない足取りすら止めることは能わず、一歩一歩着実に間合いが詰まる。


 そして遂に、投げ出した両足に死者のブーツが触れ……彼は、当然の様に顔から倒れた。己に向かってではなく、昨夜の雨で湿ったアスファルトへと。


 起き上がろうと稚児の如く手足をばたつかせる死者であったが、まるでこちらに興味が無いように思える。否、実際に興味が無いのだろう。立ち上がろうと藻掻く過程で、一度顔が足に触れたというのに死者は歯を立てなかった。それどころか涎を垂らしたり、恨みっぽく呻くこと以外の反応を見せない。


 不思議だった。あれ程に貪欲だった食欲が此方に向かないのは、一体何故か考えても答えが出ない。待てど暮らせど、ぼんやりした未明の陽光がはっきりするほどの時間が経っても、死者は遂に手を出してこなかった。


 億劫さを何とか押し殺し、鋼のように重く、自分の腕なのか疑わしいほどぎこちない左手を伸ばす。最初、凍り付いたように指が動かなかったが、死者の蠢きに合わせて左右にゆれる消火斧の柄に無理矢理押しつけて曲げてみた。


 やはり、死者は反応を見せない。斧を動かしても、傷口を広げるように傾けても、引っこ抜いても。


 そして、短く持ったそれで、頭を砕いても。


 まだ新鮮なのか、鮮烈な桃色の脳髄をぼんやり眺めながら悟った。死者が襲わない物は三つだけだったと。


 一つは人以外の獣。もう一つは無機物。最後の一つは……。


 「なるほどな」


 酷く濁った、呻きにも似た声がこぼれ落ちた。世の道理とは単純な物だ。大抵の場合、例外が存在したとして、例外も元の事例の派生に過ぎないと。


 「ああ、腹が減った」












 不確かな夢とも回想とも付かない記憶から引っ張り出されてみればご覧の有様だ。女は不快そうに一つ鼻を鳴らし、紫煙を深く肺へと送り込んだ。最早心臓は脈動を止め、とまった血流がニコチンを脳に回すことなどなくとも、この味は未だ心地良く舌と精神を刺激する。


 最初、感覚の殆どが失せても寝床の堅さにだけは我慢ができず侵入した民家で、鏡を見た時には彼等のように驚愕したのを覚えている。何やら片側の視界が狭いと思えば、煮魚のような色に眼球が曇っていて驚かないはずが無かろう。


 ただ、助けて貰って会話もできる相手にコレというのは、少し無いんじゃなかろうかとも思った。


 当の持ち主でさえも、自分が安全なのかを図りかねているというのに。


 如何にして身体が動いているか、何度となく夜を明かしたが欠片ほども知見は得られなかった。外で未練がましく動いている死者共と違い動きは頗るスムーズであるが、実際に生命活動をしている訳でないと判明したのが唯一の成果である。


 右腕の傷口は塞がらず、腐ってきて気持ち悪かったので焼き潰して塞いでも、痛みはおろか熱さえ感じなかった。


 一昼夜歩き回っても疲労を感じることはなく、身体は常に同じテンポで律動する。


 そして、眠りを失った。


 横になって目を瞑れば、曖昧な感覚に陥ることはできる。感覚を意識的に鈍化させ、思考を止めるのは禅にも似ているが、眠りは何をしようと得られなかった。回想に近いぼやけた過去が這い上がってくるだけで、かつての安らかな時間は得られない。


 だから、色々と想像するだけの時間はあった。


 死者の穢れが身体を巡るのには、時間がかかるらしい。それは映画でよくある、噛まれたら数分で動く死者に転じるような性質ではないことから推察できた。後輩に付き合って見た映画の幾つかでは、死を挟まずに凶暴化する展開も多かったが。


 恐らく、中途半端な状態なのだろうと女は推察する。


 噛まれて数時間と経たぬ内に、女は患部ごと右腕を喪った。そして、普通であれば死ぬほどの怪我を負いがらも、未だに這い回っている理由はそれくらいしか思いつかなかったのだ。


 間違いなく身体は死んでいる。ただ、這い回っている死者共と違って、自我と理性が揮発しなかった。熱に鼓動や血も失せた肉体だが、狂った魂だけは未練がましくこびり付いている。


 さて、どうしたものかと女は二口目を吸い、やっとの事で布団に埋もれていたバットを手にした少年を眇に見やった。


 別に彼に対して、特に思うことはない。多少の不快感はあったが、別に助けようとして助けた訳でもなく、恩を返せと小物染みたことを考えた訳でもない。


 もし何事もなく朝を迎えたなら、仲間になれと誘われたかもしれないが、それも面倒なので断っただろう。


 ましてや現状を説明し、こんな有様ではあるものの無差別に肉を食い散らかしはしないと説明して、理解を得ようとは露ほども思わなかった。長い話だし、頭に血が上った相手を説得し、こんな複雑な事情を説明して納得させるのは至極難しい。


 有り体に言って、面倒臭かった。


 事実、散々他の人間を食い散らかしてきたのを似た存在が、突然口を開いて「たべないよ!」と友好的に振る舞ったところで、贔屓目に見ても罠としかとられまい。


 何処まで行っても面倒臭いという感覚しか湧いてこず、女は三人の去就よりも、かかる手間の方が気掛かりであった。


 つまりは、今まで見捨ててきた色々な人間と同じく、どうでもよかったのである。


 「なるほど、だとしたら簡単だった」


 「なっ、なんだよ!?」


 勇ましく武器を取ってはいるものの完全に腰が引けている少年や、驚愕で事態が飲み込めていない女性二人を無視し、女は煙草の灰を落として決断した。


 なら、全てを元あった形に戻せば簡単だと。


 軽い足取りで入り口へ向かい、シャッターに手をかける。されど、それは自分が雨の中に消えれば片が付くと、悲劇の主人公染みた思考をした訳ではない。


 全部、他の死者に任せてしまえばいいのだと割り切っただけである。


 不快な音を立てて錆かけたシャッターが持ち上がり、あっと言う間に開け放される。久方ぶりの開店を告げる轟音に客が殺到した。


 煙草屋としてではなく、食堂としての開店に。


 悲鳴、罵声、乱れた足音。濡れた靴音が群れを成して煙草屋へと雪崩込んでゆく。


 二種類の異なる足音は家の奥へと消えていき、勝手口が強引に開かれた音が続いた。


 降り止まぬ雨の音の中、けぶるような遠くから鈍い音と悲鳴と絶叫が響き渡り……やがて、それも消えた。


 「ああ、静かだ」


 燃え尽きた煙草が吐き捨てられ、最後のか細い灯りが、まるで何かの比喩の如く吹き込んできた雨で消えた…………。












 翌朝、払暁の空は前日に降り続けた雨が嘘の様に晴れ渡っていた。重く立ち込めた暗雲は何処かへ消え去り、真っ青な空が皮肉のような平穏さを湛えている。


 「んっ……爽やかな朝だ」


 長躯の女は閑散とした煙草屋の前で伸びをした。昨日の名残で残っているのは、彼女に討ち斃された後に別の死体が踏み荒らしていった肉の塊と、横転した車が一台だけ。爽やかとは到底いえない空気の中で、女は確かめるように身体を動かしてゆく。


 「さてと……次の匂いは……あっちか」


 簡単な体操の後、雨上がりの微かに土の匂いが香る大気を肺一杯に取り入れて女は呟いた。形の良い鼻梁に入り込んでくる香りは、水の匂いだけではない。


 人の匂いがした。食欲をそそる、何処か蠱惑的に甘い匂いが。


 「さぁて、腹も減ったし、次行くか。ま、虱潰しにしてきゃ、どっかで当たるだろ」


 荷物を取るべく煙草屋に引き返せば、そこには光から追われた影の群が、昨夜の乱痴気騒ぎが嘘の様な静けさで寿司詰めになっている。ふらふらと立ち尽くす物や、傍らで蹲る物。中には優雅に横になり、他の物に踏みつけられている物もあった。


 「はいはい、どいたどいた。ごめんよごめんよ」


 影の間を強引に通り抜け、少ない荷物を引っ担ぐ。鞄と手斧、後は大事なライフル一挺。暫く補充の心配がなくなったので、女は酷く上機嫌であった。片田舎の寂れた煙草屋も、存外馬鹿にしたものではない。


 「おや、奇遇だな」


 装具を身体に固定し終え、では出るかと身を翻した時、ふと見覚えのある姿が視界を過ぎる。どこかで見たことがある背格好なので声をかけてみたが、それがもう、一体何処の誰だったのかまでは思い出すことができなかった。


 右腕を喪い、顔の過半を食われた少女と、もぎ取った誰かの顔に喰らい付いたままの女性。よくよく見れば、無理に開いたせいで壊れてしまった顎に張り付いた頭も見覚えがあるように思えたが……それもまた、直ぐにどうでもよくなって忘れてしまった。


 何事も無かったように二つの影を押しのけて、爽やかな空の下へと這い出す。差し込む陽光から拒まれたように右目が熱かったが、大した物では無い。


 この心を焦がす、耐え難い飢えと比べれば。


 ご馳走が食べたかった。何者にも換えられない、この世に存在する極上のご馳走が。


 「んじゃ、いきますか。次は当たりだといいな」


 エアライフルを一撫でし、女は歩き出した。歯と舌が欲する、ただ一つを求めて…………。 

ということで、後日談の1は終わりで御座います。彼女がどういう状態なのかは、まぁご都合主義、書きたくなったので深く考えてはいません。そもそもゾンビ物においてゾンビは舞台装(ry


次はホームセンター合流前の少女が行く青春ストーリーになります。ご期待を。

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