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闇と恐怖と瞳

 見るなのジレンマというものがある。


 見るなと言われれば、それだけむしろ見たくなってしまう人としての性だ。


 日本神話における伊弉冉と伊弉諾であったり、ギリシアにおけるオルフェウスとエウリュディケのように「見てはいけない」と言い聞かされる物語のキー。しかして有名な物語にあるように、見てはいけない物を見てしまえば、そこには破滅だけが待っているのだ。


 また、隠すと言うことは見て欲しくないという意思表示であり、そこにも見るなのジレンマは存在する。


 これは、何処の世界でも変わらないものである。平和な現代であろうと、過ぎ去った歴史の中であろうと。


 そして、終わって腐れ果てた世界であっても。


 少年は不意の寒さに目を覚ました。背筋を振るわせる悪寒に身がすくみ、ありったけ引っ張ってきた毛布と布団の中で小さく震える。吐き出した呼気が、暗闇の中でも色を帯びているのがよく分かった。


 酷く冷え込んでいる。左右で縋るように寝ている少女と女性の熱が身体に染みているが、寝相で微かに露出した足が冷えたのだろう。眠気でぼんやりとした頭で考えながら、少年は冷え切った足先を毛布の中へと避難させる。


 部屋の温度が酷く落ちており、ついでに暗いと言うことはストーブが仕事を放棄してしまったのだろうか。微かに鼻を突くのは、灯油が不完全燃焼した時の得も言えぬ残り香。どうやら残っていた灯油が随分と前に尽きてしまったらしい。


 まだ何処かに残っていれば良いのにと思いつつ二度寝を堪能しようとし、少年ははっと我に返った。


 自分たちを助けてくれた彼女は、一体どうしたのだろうと。


 暖かな食事の後、シャッターの防備は薄く全員で寝入っている間に何が起こるか分からないと、見張りを立てて眠ろうという話になった。女はまだ眠くないので、先に休んでくれと言って煙草屋の店舗スペースにある椅子にさっさと腰掛けたのを覚えている。


 三時間したら起こすから、変わってくれと言い残して。


 灯油の残りがどれだけだったか分からないが、三時間過ぎてしまったのだろうか。起こされていないと言うことは、まだ寝ていていいのかもしれない。ただ、時間を確認しておいた方が良いだろう。あの頼もしさから妙に信頼してしまったが、昼間あれだけ暴れたのだ。疲れ果てて寝入ってしまっているのかもしれない。


 灯りを探して手を左右に動かせば、小さなものを掴んだ。夜気が形になったようにひやりとするそれは、オイルライターであった。


 夜具やらを求めて家を漁った時、持っていれば役に立つかと思って店舗スペースから失敬した品だ。少女からは、直ぐ見た物に影響されるんだからと苦笑されてしまったが、女のライターを使う様が格好良かったことを否定することはできなかった。そして、それに惹かれてターボライターの方が便利なのに、敢えてオイルライターを手に取ったことも。


 蓋を弾いて開け、慣れない手付きでフリントを回すと芯に灯が灯る。淡い灯りが頼りなく部屋を照らし、少年はゲームみたいにライターだけで動くのは無理だなと、取り留めなく思った。


 二人を起こさないよう慎重に布団から抜け出して、時計を照らす。時刻は女が起こすと宣言したより、少しだけ前を示していた。どうやら、慌てはしたが寝床にくるまっていて許される時間であったらしい。


 しかし、灯りも無く嫌に静かである。ライターがなければ自分の身体さえも見えない闇の中で、未だ降り続いている雨の音だけが虚しく響いている。


 一体彼女は、灯りも付けずに何をやっているのだろうか。


 少年は暗所恐怖症とまではいかないが、それでも暗闇が恐ろしかった。何も見えないのが危険というのもあるが、今や暗がりから飛び出してくる“何か”には事欠かないのだから。


 腐臭をまき散らしながら蠢く彼等は、夜に動き回る。だからこそ、この暗闇が恐ろしかった。もしも知らぬ間に何処かから入り込んでいたとしたら、臭い以外に接近を感じ取る手段はなく、反撃しようにも見えなければどうしようもない。


 何かあったのだろうかと、そんな不安がわき上がってきた。見えない中に危険があると、今になって恐ろしさが沸き上がってくる。人は縋る物が無ければまともに立っていられない生き物だ。その精神は特に暗闇に晒されると酷く脆い。


 事実、鍛えられた宇宙飛行士すら完全な暗闇には長時間耐えられないという。未だ甘えが多分に残り、世界が腐れてしまった後でも幸いなことに闘争から離れていた少年には、斯様な状況に耐えられるだけの強さが備わっている筈もない。


 言語化しかねる頼りなさと、形容し難い巨大さの恐怖が足下から這い上がり、夜気の冷たさ以外で背筋が震え上がった。今までは二人を支えてやらねばと必死だったから耐えられてきた、否、感覚を麻痺させることができていたが、少しでも頼れる相手が出てくると駄目だ。これでせめて、あと僅かなれど戦いの経験があったなら、話は違ったであろうに。


 足は無意識に頼れる存在の方へ向けられる。段差を乗り越えて、蹌踉めきながら店舗スペースへと踏み込めば、そこで女は椅子に腰をかけていた。


 店番用の事務椅子に長躯を預け、伸ばした足は軽く組まれている。左手は手摺りに肘を突いた状態で頭を支え、失せた右腕の裾が寂しげに揺れる。静かな美貌と相まって、まるで死んでいるかのような静謐さが、彼女の周囲で澱の如く凝っていた。


 寝入っている。ごく自然に、椅子に座ったまま限界が来た人間なら“こうなるだろう”と想像できる姿で。


 それでも何故かは分からないが、安心できる姿を見た筈なのに少年は更なる不安を覚えることとなった。ああ、ただ寝落ちしていたのかと安堵するでもなく、総毛立つような気味悪さに脳髄が引っかき回される。知らずの内に、ライターを握る手に粘り気のある汗が滲んだ。


 落ち着いた精神が何かを畏れることを思い出したからか、それとも夜と闇の頼りなさに本能が励起されたのか。彼は出会った時に覚えることのなかった、確かな恐怖を彼女の寝姿から感じ取っていた。


 人は、ここまで静かに寝入れるものだっただろうか?


 降り続ける雨音と、表で元気に騒ぐ連中の存在で部屋は無音ではない。それなのに、耳鳴りがするほど彼女の周囲は静かだった。淡く照らし出された寝姿は自然に脱力しており、確かに安らかな眠りを得ているように見える。普段なら、毛布の一枚でもかけて眠らせてやっただろう。


 だが、寝息さえ立てずに人は眠れるのだろうか。それに、この不確かな灯りの下でさえ、彼女の胸は上下していないように思えた。


 厚着をしていたなら、何かが被さっていたら見間違いで済ませられた。しかし、見せ付けるように薄いシャツだけで覆われた豊かな胸は、じっと見つめてみても呼吸で上下しているように思えない。


 まるで死んでいるようではないか。


 脳裏にあぶくのように浮かんだ悍ましい考えは、欠けたピースが空白に嵌まるような自然さで染み込んでくる。


 そうだ、思えばおかしな所は幾つもあった。必死に抵抗していてあやふやではあるが、あの時、自分たちが車の上で抵抗している時に彼女はどう戦った? 死体達は彼女に興味を示しただろうか?


 抱き留められた時の冷たさは、本当に雨の滴による物か? 薄手のシャツは濡れたとしても水が染みる量など高が知れているし、彼女はレインコートだって着込んでいた。


 スープの缶は、本当に自分が大げさだっただけか? 受け取ったばかりの時、トレーナーの袖を挟まねば持てぬほどの熱をスープは孕んでいた。二人に受け渡した時には、時間が過ぎて熱は失せてしまったが、舌に感じた熱さだけは克明に思い出せるし、今も残る微かなヒリつきは紛れもない現実だ。


 確かめねば。少年は衝動というよりも、使命感で恐怖を塗りつぶした。確かめてどうするかさえ、頭の中で定めてもいないというのに


 寒さよりも緊張でこわばった体を動かし、女の傍らに立つ。身体を椅子に預けて休む彼女は、灯りに顔が照らされても反応を見せない。


 恐る恐る指を伸ばし、頬に触れてみた。


 そして、次の瞬間には弾かれたかの如く指が逃げ出した。


 恐ろしく冷たかったのだ。それこそ、室温と大差ないほどに。


 何時だったか聞いたことがあった。人が死ねば肉体が活動を止め、少しずつ体温が霧散して最後には室温と同じになると。呼気が白く立ち上るほど冷たい部屋に負けぬほど、柔らかに指が沈む頬は冷たかった。


 彼女は死んでしまったのか。それとも……。


 恐怖と好奇心に突き動かされて、指がもう一度恐る恐る伸ばされた。本来なら、ここで冷静になって彼女を揺り起こして事情を聴いてみるか、他の二人を起こして相談するべきなのだろう。だが、人間とは恐怖に飲まれて混乱すると、理性的な行動がとれないものなのだ。


 今回は、揮発してしまった理性の代わりを沈んでいた好奇心が満たしたに過ぎない。


 右目を覆い隠す髪に指が触れる。雑に自然乾燥したのが嘘の様な艶やかさの髪には、脂気がないように感じられた。何日かに一回しか頭を洗えず、粘っこくなってしまった自分たちの髪とは違う手触り。彼女は本当に代謝をしているのだろうか。


 その答えを探るため、髪の毛をのかそうとした瞬間……。


 「死体漁りとは、感心できない趣味だな」


 飛び上がるほどの冷気が少年を捕まえた。肉体的にも、そして魂すらも。


 素早く伸び上がった女の左手が、髪にかかった手を力強く握りしめたのだ。


 「うあああああああ!?」


 少年は叫んだ。もう自分が何に驚き、何を恐れたのかすら曖昧なままに全身を動かして拘束から逃れようと試みる。死体のような手の冷たさが悍ましかったのか、単に死んでいると錯覚した人間が起き上がったことに怯えたのか、はたまた単に予想外のことが起こったことに驚いたのか。


 ただ、それが彼にとって破滅の引き金であったことに違いは無いのだが。


 拘束を弾き飛ばした右手が、右目を覆う長髪を払いのける。そして、ライターが手からこぼれ落ち、唯一の光源が掻き消えた。


 せめて、その順番が逆だったなら、彼は見ないで済んだだろうに。


 見なかった方が、彼等にとって幸運であったものを。


 「なっ、何!?」


 「どうしたの!? 大丈夫!?」


 夜気を劈く悲鳴に少女と女性が叩き起こされた。暗い中で聞こえた少年の悲鳴に、何があったのかと問いかける声は上ずり、傍らに置いて寝たはずのライトを探すこともできずにいる。


 「ゾンビっ、ゾンビがっ!?」


 闇の中で虚空を切る虚しい音がした。少年が何かを追い払おうと、でたらめに両手を降りたくっているのだ。しかし、拒絶の意思を篭めて必死に振りたくられる両手には、悲しいかな意思に見合っただけの威力も射程もない。


 そして、形の無い精神に食い込んだ恐怖という爪を振り払う力も。


 「あーあ……面倒臭い」


 ぎしりと椅子が軋み、女が起き上がった。喉が潰れて掠れるほどの悲鳴とは逆しまに、冷たく心底つまらなそうな声で言う。


 「あ、貴女は大丈夫だったんですね!? ゾンビが居るって、一体どこに……」


 「そいつだ! そいつなんだよ!!」


 「何言ってるの!? ゾンビが来たなら逃げなきゃ!! 灯り、灯りは……」


 混迷は加速し、バタバタと畳の上を忙しなく人間が転げ回る音が響いた。二人は灯りを求めて布団を引っかき回し、少年は女から距離を取ろうとして下がりすぎ、段差に躓いて倒れ込んだのだろう。彼は散らばった布団の巻き込まれて藻掻きながら、手の中に飛び込んできた筒状の物体を反射的に掴んだ。


 そして、濁った頭がその道具の用途を思い出し、正しく使おうと指が震え混じりに蠢いた。


 「あいつが、あいつはゾンビだったんだ!!」


 偶然、本当に全ては偶然だ。


 彼等は偶然雨が降る日に出かけ、女は偶然彷徨っている途中に彼等を見つけ、偶然“見捨てようと”した時に煙草屋の看板を見つけた。


 結果的に三つ目の偶然は、彼等にとって幸運にもなり得たし、二つの偶然と同じく不運のまま終わることもあり得た。だが、どうやら世界をこのまま捨て置いた神とやらは相当に性根が歪んでいたらしく、最後の最後でも彼等に酷いカードを配ったらしい。


 電源が付いたライトは、煙草のパッケージから飛び出たフィルターを咥える女を照らし出す。艶やかな立ち姿を。昼間に出会った時と変わらぬ美貌を。


 そして、その中で歪に白い、外を徘徊する者達と同じ濁りを宿した右目を…………。

もう少し曖昧な筋書きにしておけば、ホラーらしくなったのでしょうか。

ということで、今回も五千文字程度になります。やはりこれくらいで切った方が構成上楽で、次いでに更新ペースも速められて良いのでしょうか。恐らく、次でこのお話は終わりです。

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