煙草とスキットルとタオル
ぷかりと美味そうに吐き出された煙が、ライターの淡い光源の中で霞むように消えていった。鼻につく甘いバニラを纏わせて、隻腕の女は片方だけの目で笑う。
「さて、ご一行さんはあそこで何を?」
「ああ、俺達は……」
少年は担いでいたリュックサックを下ろしながら、この奇妙な女を見て一瞬だけ迷った。果たして本当の事を話しても良いのか、それとも話さない方が良いのか。
しかし、迷いは一瞬であった。命の恩人相手に何を隠せというのか、そんな彼の正義感が己の狭量な思考を恥じ入らせる。彼女が危険を冒さなければ、自分たちは今頃どうなっていたかも分からないというのに。
「この先の高校で籠城してたんだ。だけど、食料が足りなくなって……」
「調達に出てあの様と」
恥ずかしながら、女の言うとおりだった。
全てが終わった日を新入生歓迎会の後片付けで部室棟に泊まり込むことで避けられた三人は、今まで部室棟に災害時の非常食料がストックされていたこともあって辛うじて生き延びてきた。しかしながら、広域避難所に指定された高校であっても食料備蓄は決して多くない。三人が一年以上も食いつなげば、節約したとしても当然底をつく。
準備は入念にしてきたはずだった。
死体の習性は一年間の籠城で嫌でも知った。簡単ではあるが武器も調達し、晴れ渡った昼間の少ない時間を選んで学校をでた。
しかし……。
「天気予報を見なかったのが失敗って所か」
女が煙と共に吐き出した、茶化す言葉通りであった。かつては簡単に手に入ったが、今となっては神に祈ったところで手に入らない情報が命を左右する。まぁ、世界を斯様な姿のままで留める神なのだから、元より教えてくれることなど、あろうはずもないのだが。
晴れた空は目的を果たし、帰路につこうとした矢先に崩れて雲で覆われた。嫌がらせのように訪れた曇天から降り注ぐ雨が死体の聴覚を刺激し、屋外に這いだして来たそれが行く手を阻む。
混乱した頭は正しい道順を忘れさせ、死体が少ない方へ少ない方へと場当たり的に身体を導いた。結果として、行き着いたのが車の上という苦し紛れの行き詰まり。もしも女が現れなければ、座ることすらできないあの場で早晩限界が来ていたことだろう。粘ったところで、精々が三時のおやつになるか晩餐になるかの違いでしかない。
だから、この女の存在は本当に彼等にとって救いだったのだ。
「で、成果はあったのか?」
早くも二本目に火を付けた女の問に、少年の道連れ二人は戸惑っていたものの、彼は二人を目で制してリュックサックを開いた。
軽やかな口笛は感嘆のそれ。大きく口を開いたリュックには、大量のレトルトやインスタントの食品が詰められていた。大事に食べれば、そこそこの間命を繋いでいられるだけの量が。恐らく、他の二人が持っているリュックにも同じだけ色々と詰まっているのだろう。
「良かったらこれ……」
少年は水のボトルを差し出した。自分の方が喉も乾いているだろうに、それでも恩人に貴重な水を差し出すことで彼の善性――或いは場違いなお人好しさ――が窺い知れた。
「いや、結構。こいつがあるんでね」
しかし、女はあっさり断って懐から一本のスキットルを取り出した。使い込まれてくすんだ銀色に変色した、日本では登山家かミリタリーオタクでもなければ持っていないような品を歯で乱雑に開けば、ほこりっぽさと煙草の臭いに混じって強い酒精の香りが漂った。
「寒さや辛さを忘れる命の水さ」
臭いからして“強い”と分かる酒をあおったにも関わらず、死人のように白い肌に朱がさすことはない。酒豪にたいして憧れを抱きがちな年頃である少年は、彼女を見て自然と格好良いと思ってしまった。
「私じゃなくて、ツレの二人に飲ませてやったらどうだ? 大分キツそうだが」
「あっ……! ご、ごめん二人とも……」
気にしていないよと微笑んでみせる少女と、先に二人が飲んでくださいと気丈な振る舞いを見せる女性ではあるが、二人の表情には露骨に面白くないという色が浮かんでいた。
さにあらん。命を助けられたとはいえ、急に現れた変な女に唯一の男がデレデレして楽しくない気持ちは分かる。女とて子共ではないのだ。一年間も閉鎖空間にあった男女間の関係が如何なる変化を遂げるかくらい、突っ込んで質問することはおろか想像するまでもない。
終わった世界でタイプの違う整った女性と二人。まるで映画か何かのようだ。そして、娯楽も無く暇になった人間の選択肢など数えるほどもあるまいて。
水を飲み、固形の栄養食を食べて人心地付いたのか、三人はその辺に腰を落ち着けて服の水気を追い出しにかかる。随分とあそこで雨に降られていたのか、濡れ鼠の彼等はよく見れば小さく震えを帯びていた。
如何に春先とはいえど、まだ気温は十分に上がっておらず濡れれば冷える。このまま放置すれば、低体温症になるか風邪でもひくかのどちらかだろう。
「灯りは持ってるか?」
「懐中電灯があるけど……」
「なら、ちょっと待ってろ」
女は答えも待たずにライターを持ち、そのまま煙草屋の奥へと入り込む。ブーツで畳を踏みしめて、揺れる灯りを頼りに進む。急に灯りを持って行かれた三人が困惑する声が聞こえたが、頓着することなく家捜しを始めた。
一年前の日付で止まった新聞を見ると、懐かしさと共におかしみを覚える。残響のように「焚き付けにはちょうど良いんですけどね」という冷めた声が脳裏を過ぎった。
煙草屋の住居スペースは、誰も立ち入らなかったせいで酷く埃っぽいものの整理自体は良くされていた。恐らく、老人の一人暮らしだったのだろうか。テレビを初めとする電化製品は古く、今時珍しい石油ストーブが設置されている。
あれが使えたらいいのだがと考えつつ、更に奥へ。さして広くもない家なので、廊下を少し進んだだけで目当ての物は直ぐに見つかった。
脱衣場だ。
長く放置された水場独特の嫌な臭いに辟易させられるものの、バスタオルが直ぐに見つかった。大分使い込んで薄っぺらくなってはいるが数は十分であり、水もきちんと吸ってくれることだろう。
さて、これを何枚か持っていってやるかとライターを置いて手を伸ばした時、背後で床が軋む音がした。
正しく刹那と称するに相応しい反射で身が翻った。振り返るために戻された足と、スリングで保持していた銃器、エアライフルに伸びる腕が連動する。ダクトテープで諸所を補強した、黒い競技用の品は見た目は悪くとも未だ現役である。威力が絞られているとはいえ、目に当てれば死体の機能を破壊するには十分な威力を秘めている。
長い銃身を戸口に引っかけることもせず振り回し、左手のみで保持しているのが嘘の様な軽やかさで照準は完了した。一瞬に遅滞も無く、単なる転回は攻撃動作へ昇華される。
そして、ごく自然に指は引き金に添えられ……。
「わっ!? う、撃つなよ!?」
灯りを持った少年が、照門の向こう側で両手を盾にするかのように突き出している様が見えた。顔は驚愕と命の危機に引きつっており、本気で怯えているのが分かる。それほど、照門越しにあった左目が剣呑につり上がっていたのだろう。
「……あのな、近づくなら先に声をかけろ。灯りが無かったら撃ってたぞ」
「いや、その、一人だと危ないと思って……」
「今一番危なかったのはお前だがな」
そう言われると立つ瀬が無いのか、少年は所在なさげに武器のバットをふらふらさせながら目をそらした。
「まぁいいさ、丁度手が足りてなかった所だ。文字通りな」
「はい?」
笑って良いものか微妙な冗談はさておき、女はライフルを降ろすと親指で脱衣場を示した。片手では灯りを持ちながらタオルを運べないので、実は難儀しているところだったのである。
「持ってってくれ。濡れ鼠は嫌だろ?」
「あ、これを探しに……ありがとう」
「なに、私も普通に濡れてるからな」
片手しかないというのは不便なもんだと独り言ち、女は咥え煙草をホーローの洗面台へと放り捨てた。あそこでなら燃え移る心配もあるまいと。
少年は命じられたままにタオルを持てるだけ抱えた。懐中電灯はタオルの上に置いて、二人に届けてやろうと足を踏み出し……段差に引っかかる。廊下と脱衣所の間には微妙な段差があり、足下がタオルで隠れていて見落としてしまったのだ。
「うおあっ!?」
体勢を崩し、手が塞がっているのであわや顔面から床にダイブと思われたが。
「おいおい、自分の足下くらいしっかり見てろ」
掬い上げるように腹に添えられた腕が、転倒を防いでくれた。平均的な高校生の体躯を小揺るぎもせず女が受け止めていた。
「……あ、ありがとう」
見上げれば、ライトが落ちたせいで口元しか見えないが、面白そうに笑っていることだけは分かった。ただ、助けるために差し出された手が、冷え切った自分でさえも冷たいと思うほど冷えていることに少年は違和感を覚えた。
「さて、コレで貸し二つか。後、期待してたらな悪いが、胸で受け止めてやるほど私はサービス精神旺盛でもないし、これでいて身持ちは堅いんでな」
「なっ!?」
「顔を埋めたいならツレに頼め。あの年上の方は先生か? 中々良い乳してたぞ」
「おっ、俺は別にそういうんじゃ!! というか態とやったわけじゃなくて!!」
しかし、その違和感は年頃の少年なら反応せずにはいられないからかいによって断ち切られ、少年が誤解を解くために思考を裂いたせいで忘れ去られた…………。
前回が3,600文字程度で、今回が3,700文字強。普段が12,000~15,000文字ですが、どちらの方が読みやすいでしょうか。普段の調子なら一話に収まるかと思ったのですが、一話5,000文字程度が読みやすいと聞いて、試験的に短く納めております。
この程度の字数でなら、然程間を開けずにお送りできるのですが、中々難しくもありますね。