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レインコートと消火斧と煙草

 小雨のぱらつく中、金属を引き摺る音が響いていた。アスファルトの細かな起伏の上を、重量感のある金属が乱雑に引き摺られることで発する小刻みな音。鈍色の空の下、金属音を伴奏として機嫌良さそうな歌声が響いていた。


 「I'm singing in the rain.Just singing in the rain」


 往年の名作映画、雨に唄えば。有名なミュージカル映画の中でも代表的なシーンで歌われる印象的な曲。その曲を体現するように、歌い手は雨の中を傘も差さずに歩いていた。共にするのは、雨合羽から覗く左手が引き摺る酷く錆び付いた消火斧。そして、背中に担う、ビニール袋で雨から庇われた長い筒。


 「What a glorious feelin'.I'm happy again.I'm laughing at clouds.So dark up above」


 上機嫌に、心底愉快そうに歌い手は歩いて行く。同じように、雨に惹かれて路上へフラフラと這いだして来た何者かを共にして。


 否、何者かであった者達を共にして。


 「The sun's in my heart.And I'm ready for love」


 秩序無くただ彷徨い歩く者達の合間を通り抜ける。時折意味の無い呻きを上げるだけの、雨の中傘も差さず歩く者達は果たして自由なのであろうか。


 「さてはて、雨の中踊るのが自由だというのなら、馬鹿やって風邪ひいたら自分で何とかするのが義務ってやつなのかね」


 歌詞を歌い上げ終えた歌い手は、冗談めかした調子で言って、消火斧を握る手に力を込める。そして、避ける気も無くフラフラと前を歩いていた人影へ、何の遠慮も無く振り下ろした…………。






















 雨合羽を被った人影は、雨の中延々と続く道を歩き続けていた。口寂しいのか串を咥え、雨に唄えばをリピートさせながら飽きることも無く、奇しくも進行方向を同じくする正体の無い影と同じ方向へ向かう。


 知らない街の知らない街角。彼等は何処へ行こうとしているのだろうか。歌い手はそんなことを考えながら歌詞を諳んじる。時折、すぐ前を塞ぐ邪魔な人影を殴り倒し、時には他の人影には超えられない、横転したり電柱や建物に突っ込んでいたりする車両を乗り越えて歩く。


 自分にも行き先など無いのに、彼等は何処へ向かっているのだろうか。


 その答えは、存外直ぐに見つかった。


 数分ほど雨の中を歩き続けた頃、何処かから声が聞こえてきたのだ。


 切羽詰まった数人の声。助けを求め、自棄を起こした悲鳴と怒声が街の建物を反響して、何処からか届いてくる。


 興味を惹かれた歌い手は、歌うのを止めて声の元を探った。


 三人の男女だ。年若い少年と、彼と同年代と思しき少女に少し年上の女性。ドラマか何かであれば、彼等が主役各なのだろうなと思わせるルックスをしていた。雨に濡れて尚も爽やかに整った容姿は、現状と比較すると冗談のようにも思えてきた。


 彼等は茫洋と歩く者達に囲まれていた。背の高いワゴン車の上で囲まれ、四方から滅茶苦茶に押される車体の上で翻弄されている。


 左右に揺れる車体の動きは激しく、今にもバランスを崩して転落しそうだった。


 無論彼等とて無防備にやられている訳ではない。手に持った角材や金属バットなどで、押し寄せる者達の頭を叩いて追い返そうとはしている。しかし、それも焼け石に水。今更一つ二つ倒したところで、数十体規模で囲まれているのにどうしようもあるまいて。


 歌い手は直ぐに興味を失った。幾度となく見た光景であり、幾度となく見捨ててきた光景だからでもある。


 何時ものように背を向けて去ろうと思ったが……ふと気付く。ちょっとした気掛かりに歌い手は心変わりし、消火斧の柄を握り直す。


 そして、軽い足取りで包囲する影に近寄れば、まるで知人の肩でも叩くような気軽さで消火斧を頭に叩き付けた。


 頭骨が砕け、腐って蕩けた内容物がぶちまけられる不気味な音が雨の音を劈いて響く。歌い手の羽織っていた黄色いレインコートに灰色の体組織が降りかかるが、それも直ぐに雨に流されて落ちていった。


 後は単純な作業だ。崩れ落ちた影の頭蓋から消火斧を引っこ抜き、同じ作業を目に付くもの全てに行うだけ。雨音に混じり、断ち切るというより重量に任せて砕くだけの鈍い音が幾度も木霊した。


 「た、助けてくれぇ!!」


 「早く! お願い!! もう無理なの!!」


 「ありがとう! ありがとう!! 頑張って!!」


 切羽詰まった懇願と声援が聞こえたが、レインコートの主は淡々とした手を止めなかった。手近な影を叩き割り、邪魔になった身体は蹴飛ばして道を空けさせる。やっている事は道を塞ぐマネキンをどけるのと大差ないので、実に簡単な作業であった。


 だが、四方から押されることでバランスを取っていた車体から、一方向からの圧力が失せてしまえばどうなるか。


 図式はシンプルだ。均衡を失った車体は徐々に傾いでいく。


 「わっ、わわっ!?」


 「跳べ!! 逃げろっ!!」


 「おち、落ちるっ!?」


 反射神経に富む少年は跳躍して転倒を避けたが、少女と女性は反応しきれず押し倒される車体から滑り落ちた。幸いにも、彼等が投げ出されるのは掃除された為に死体が少なくなった面である。強かに身体を打ち付けた女性二人も、高所からの着地で足に痺れは得たものの少年も無事であった。


 しかし、そんな三人を無視してレインコートは消火斧を振りたくり、目の前の影を撃ち払っていった。右へ、左へ、刃で、峰で、柄で。邪魔な物を掃除するのと変わらぬ手軽さで、影達は撃ち払われていった。


 そうして出来た道を見て、レインコートのフードに覆われた顔が歪んだ。口の端だけが奇妙に吊り上げられるそれは、きっと笑顔だったのだろう。


 目先にあるのは、半分だけシャッターが開いた店舗。その店舗には、煙草という看板が掲げられていた。黄色い姿を素早くシャッターの下に潜り込ませる闖入者を見て、車上にあった三人は慌てて後を追った。この雨の中走り回るよりも、あの中に逃げ込む方が賢明だと悟ったのだろう。


 差し出される手を掻い潜り、殿となった少年がシャッターに飛び込んで強引に閉じたならば、店舗の中は完全な暗闇に覆われた。


 埃っぽい滞留した空気の臭いが立ち込める空間に、未練がましくシャッターを叩く音と荒い呼気が木霊する。三人は喘ぐように激しく呼吸し、乱打される心臓を何とか落ち着けようと試みた。


 まだ、生きている。詰んでいた状況からの回帰が、何よりも嬉しかった。


 そして、擦過音と共に灯りが灯る。


 何事かと見やれば、レインコートの合間から覗いた左手がライターを握っていた。真新しいオイルライターに起こったささやかな火が、くすんだ空気の中で揺れていた。


 ライターは煙草屋のカウンターにそっと置かれ、次いで左手は朧気な灯りで照らされた壁面を彷徨う。無数の煙草を納めたケースをなぞる細い女性の指は、白いパッケージの煙草に触れて止まった。


 煙草が引き抜かれ、器用に片手でフィルムが剥かれると、茶色い巻紙の煙草が姿を現した。これまた器用に煙草の底をカウンターに叩き付けて頭を引っ張りだし、笑みを作った口が先端を咥えて引っこ抜く。


 それから、揺れるライターの火に顔を近づけて、三人の目にフードで覆われていた闇の中が晒された。


 長い髪の女だった。レインコートでも防ぎきれぬ雨で濡れた髪が右目を覆い隠しているものの、美女と称して何ら差し支えのない女性である。


 グロスが塗られている訳でもないのに嫌に艶やかな唇から、ぷかりと煙が吐き出され、バニラの甘い芳香が漂う。埃臭さを追い払うほど強い臭いは、死の恐怖に荒れていた精神を落ち着けてくれる。呼吸が整った少年は、レインコートの主に正対すると深々と頭を下げた。


 「助かった……ありがとう、本当にありがとう」


 「ん……? ああ、気にすることはない。ちょっと煙草屋に入りたかっただけでね。暫くヤニ切れで辛かったんだ」


 下げられる頭を見ることもせず、女は笑って煙草を吹かした。そして、レインコートの内側にぶら下げていた鞄を開くと、その中に煙草を放り込み始める。頭を下げた少年の視界に一瞬だけ映ったそれには、不思議と中身が何も入っていなかった。


 煙草を目一杯詰め込み終えた後、女はレインコートを勢いよく脱ぎ捨てた。脱ぎ捨てられたレインコートは店番が座る椅子に引っかけられ、晒された姿に三人は息を呑んだ。


 痩身を彩る細身のパンツと、きゅっと小股が切れ上が下腹部から豊かなラインを描く胸のバランスに呑まれたのではない。まるっと消え失せた右腕の辺りで、この真冬に着込むにしては薄すぎるシャツが縛られていた。


 そして、まるで身体に縛り付けるようなバランスで保持されたのは、あまり見ない形だが銃器であろう。三点式のスリングで左腕に通されたそれは、まるでハンドバッグか何かのような自然さで彼女の立ち姿にマッチしていた。


 「ああ、これか?」


 彼女は指で失せた腕があるであろう辺りを指してから、誇るように煙草をひくつかせた。


 「ちょっと夫婦喧嘩でな」


 しかして、どぎついジョークには痛々しい沈黙のみが浴びせられた…………。

色々とお待たせしました。多義的に。ということで、番外編とかプラスアルファの一つ、後日談です。待たせすぎて何が何やら。


そして、完結タグ付けてたら次話投稿できないんですね。一時的に外しました。今暫し、この物狂い共とお付き合い願えれば幸いに存じます。

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