青年と犬と、もう一人
何もかもが劇的に始まった世界であっても、その終わりまでもが劇的で、激しいものになると確約された訳では無い。
聞き慣れた音。何度となく耳朶を震わせてきたそれは、最早日常となって久しい音だ。世界の有様が狂い果てる以前より馴染み、忘れられなくなった音。それが一体どうして聞こえてきたのだろうか。
彼の仲間は誰も引き金に指を触れるどころか、構えてすらいなかったというのに。
身体が傾ぐ。不思議に思って見下ろせば、胸元と腹が紅く染まっていた。着慣れた野戦服と胴衣。動きやすくするために防弾板が抜かれたベストに点々と穴が空き、昏く朱い何かが溢れていく。
これも見慣れたものだった。数えきれぬほど眼前に広がった地獄。その中の幾つかは自分たちが作った地獄ではあったが、その地獄全てについてきた色だったから。
しかし、何故その地獄を作る色。血の赤が自身の腹から溢れているのか。そればかりは何度考えても分からなかった。急速にぼやけていく思考が空転し、身体の制御が利かなくなり、傾いだ身体が更に傾いてゆく。
唐突な浮遊感と、微かな間の後の衝撃。何か柔らかいが芯の入ったものを自分の身体で押し潰してしまった感覚。首を小さく動かして見上げれば、そこには自分を置いてきぼりにして立ち尽くす脚立があった。だが、脚立を支えていた筈の仲間の姿が無い。
いや、視界を床へと動かしてみれば、きちんと彼等は居た。自分と同じ色で腹と胸を染め上げ、目をうつろにして床に転がった状態で。
彼はしっかりとした像を結べなくなった思考の端で、となると自分が押し潰した何かは、位置からしてもう一人の仲間かとぼんやり思った。悪い事をした、装備を含めると自分は大分重いのにと。
酷く寒かった。四肢の末端から熱と共に何かが抜け落ちていく悍ましい感覚。しかし、どれだけ力を込めようと、その形容しがたい感覚から逃れることはできず、違和感は広がっていくばかりだ。
脱力と違和感に支配される頭が、視界の中で起こった不可思議を処理できたのは幸福なのだろうか。いや、そもそも幸不幸の問題ではないのかもしれない。
「ああ、やれやれ気持ち悪かった」
今更になって、死体が起き上がって来た意味を考えることも、喋れないはずの死体が口を利いたことも、剰えその死体が拳銃なんぞを握っていたことも、最早彼にはどうしようもないことなのだから。
起き上がった死体が億劫そうに首を捻り、関節の音を響かせる。それと共に弾を撃ち尽くして遊底が交代した拳銃から、空っぽになった弾倉を抜いて新しいものと入れ替える。もう殆ど感覚というものや、視界の色すらも失った男は漫然と「あ、いいな、あの銃」などとずれた思考を繰る。纏まらぬ思考が、不意に自分たちの持つことが出来た拳銃、その装弾数の少なさへの不満を呼び起こしたのだろう。
そして、羨んだ拳銃が黒々とした銃口を男に向ける。あたかも視線が合うかのように、虚無の如く口を開いた銃口ばかりが色の失せた視界の中で鮮やかだった。
「じゃ、ご苦労さんだったね」
黒の中から自棄に鮮やかな光が溢れ、男の思考は途絶える。
短くなった蝋燭が消えるように。寿命の来た電球が光を失うように。
全ては劇的に始まったが、終わりは呆気なく、そして理解すら及ぶ前に訪れる。結局、世界とはそういう風にできているのであろう。
誰にとっても。
後に残るは、血濡れの衣服を気持ち悪そうに脱ぎ捨てる一人の女。どういう訳か被服の下にウェットスーツなんぞを着込んでいた彼女は、フロントファスナーを下ろすと胸の合間より煙草を取り出して見せる。
手慣れつつある動作で茶色い巻紙の煙草を取りだして咥え、大型犬のような印象を受ける少女は獰猛に微笑んだ。
「一丁……いや、三丁あがりってとこかな」
交換材料が増えて万々歳だね、と彼女は死体に笑みを送る。まるで手向けであるように。彼等が身につけて居たものを貰う対価であるかのように。
「さて、あの人は喜んでくれるかな? 私ってばおっとめー」
目を見開いたまま逝った亡骸の瞼を閉じさせることもせず、二度と起き上がらぬように頸椎をブーツで踏み砕く生き物を乙女と呼んで良い物か。踏み砕かれる三人は、さぞかし抗議したかったことであろうが、しかしながらこの地にはもう、彼女以外に意味ある言葉を吐き出せる存在は居なかった…………。
陽光も中天に達し、微かに残った雪すらも太陽の熱に追い払われようとしている中、慌ただしく住人が逃げ去ったホームセンターに二台の車両が新たに姿を現した。
一台は世界最大手通信販売会社の荷を運んでくることで有名な運送会社のトラック。もう一台はトラックよりもジープ、或いはパジェロといった愛称の方が良く知れた輸送車両であるが、それらを見てぱっと原型を想起する人間は多くないことだろう。
二台の車両は酷く歪であった。少なくとも、これをみて車検を通るとは誰も思えぬほどに。
二台ともバンパーが車体から大きくはみ出るほど無理な補強がなされ、窓には金網を張って補強が施されているのだ。しかも、その金網は工事現場から失敬してきたのか黄色と黒のゼブラパターンのそれ。ジープの脆い幌を補強する、安全第一と描かれた鉄板が何処か薄ら寒い、世紀末を想起する装いであった。
外装の歪さに反し、億劫そうに車から降りてきた男達の姿は服飾規定にしっかりと適したもの。何度も洗われて草臥れた野戦服と、首元までを覆う特徴的な戦闘防弾着。布で覆われた無骨なヘルメットは、かつてこの国の国防を担った者達の装束。
そして、今やこのホームセンターに終わりを突きつけた略奪者達であった。
「はー、しかし面倒いな」
「言うな。さっさと物資を集めて隊長を追うぞ」
この三人は、いわば落ち穂拾いを言いつけられた貧乏くじの男達。復讐心と自身の宗教とも言える価値観に突き動かされ、逃げ出したホームセンターの避難民達を追撃する彼等の首魁の冷静な部分とも言える。
三人の元自衛官は、拠点を引き払う準備を済ませた後でホームセンターの物資を得る為に送られてきたのだ。準備は周到にしていたようだが、車両と人員のことを考えれば、全ての物資を根こそぎ持って行った訳ではあるまい。ならば、これからの追走劇に備えて貰える物は貰っていかねばならぬ。
勿論、敵もタダで残った物資をくれはするまいから、ブービートラップや毒の心配が無いとは言えないが、脱出が何時になるかも分からぬ持久戦であったのだ。猶予時間を考えるなら、食料の汚染を実行している暇などなかっただろう。
人員を拠出して十分に実入りがあると判断され、彼等は送り込まれてきた。
「どうせなら荷物を運び出すのに何人か生かしといた方が良かったんじゃないか? 結構手間だぞ」
一人の男が、雑にパジェロの屋根に載せられていた脚立を下ろしながら言った。よく見れば、使い安いようにと紐でぶら下げられている折りたたみエンピの刃は、洗い落としきれぬ血糊で汚れたままである。
「阿呆、逃げ出されたら面倒だろう。後ろから刺されたいのか」
「んな根性あったら、とっくに寝込み襲われてんだろ」
何でも無いかのような気軽さで語る彼等であるが、その言葉尻から何が行われ、その行為に対してどう感じているかは明白であった。
彼等は追撃のための“後片付け”を既に終えていたのだ。
拠点にしていた病院の物資の引き上げから、囲っていた“労働力”の処理まで。
追撃戦に重荷となる余分な人員は連れて行けない。そして彼等は、別段防人達にとって無くてはならない物ではなかったのだ。雑事を肩代わりさせるだけの、或いはちょっとした鬱憤を晴らすための備品みたいなもの。他の不要な備品と同じく、必要なくなったなら処理するのは、文明が崩れ去った後の価値観に最適化された彼等の中では、至極当然なことでしかないのである。
使い古した雑巾を捨てた後で、まだ油汚れを拭う所を見つけてしまったような惜しみ方をする男を窘め、指揮権を預かっていると思しき男は油断なく小銃に初弾を装填した。
「さぁ、さっさと仕事を済ませるぞ。合流も簡単じゃないからな」
「了解。じゃあ行きますか」
三人の略奪者は互いに背をかばい合う布陣を作り、一分の隙も無くホームセンターへと侵入する。途中で食事の気配を感じ取った死体が這いだして来たが、物の数でも無かった。十数体の群であろうが、それが個々の食欲と歩調に従って分散進撃する限り、鍛え抜かれた彼等の脅威にはなり得ない。
淡々と銃床で殴り倒され、あるいはエンピで切り倒され、また脚立で殴り倒された後に頸椎を蹴り砕かれてゆく。淡々と無力化されていく様は、闘争ですら無く作業の領域にある。彼等にとっての日常であり、最早意識するまでもなく実行されるルーティンは正確に果たされた。
そして、人気の無くなったホームセンターに侵入を果たした彼等は、また同じように陽光に追われた死体を駆除しつつ、目的地へと足を運ぶ。
「ここだな」
迷宮の外縁部に位置する、かつて階段があった場所。虚ろな穴が雑に板で塞がれたそこは、数日前に略奪者達が見て呆然とした地点であった。鉄骨で作られた階段を完全に取り除く苦労は如何ほどであったかは知らぬが、確かに準備もせずに対面したら絶望的であろう。
ホームセンターは無数の棚を並べ、材木などの長い商品を並べるために天井は高く作られている。階段が無ければ、人間では到底這い上がることのできない高さだ。
しかしながら、最初から階段が無いと知って準備すれば、何とかなる物である。工事現場でしかお目にかかれないような、高所作業用の大型脚立を持ち込むなどすれば。
武器としても使った脚立をセットする前に、三人は周囲を念のため用心深くチェックした。脚立に昇っている時に死体が群がってきたら洒落にならないからだ。最初の一人の時は、二人が支えてカバーできるからいいものの、最後の一人は支えも無く昇らねばならないが故に気も入ろうというもの。
彼等は、これ以上の戦力の摩耗は看過できぬと言明されていたのだ。あの恐ろしい、しかし頼りがいのある自身の上官から。
慎重に索敵したが、特に目立つ物はなかった。あるのは暗幕が掛かった棚の壁と、その壁の脇で何故か折り重なるように死んでいる数体の亡骸のみ。
自分たちが訪れる前に討ち斃された死体が幾らか転がっているのに違和感を抱きはしたが、きっとここから撤収する際に隊長達が処理したのだろう。万全を期して足先を蹴ってみたり、銃剣で突き刺してみたりしたが起き上がっては来なかった。
死体は死体として動かない。今では歪んでしまった法が正常に守られている。有り難い話だと思いながら、彼等は引き抜いた銃剣から血を払う。
「よし、しっかり押さえてろよ。高いから普通に怖いわ」
「強度大丈夫かこれ。装備込みで結構あるんだぞ」
「何とかなるだろう。防弾板も抜いてるし」
脚立を伸ばして梯子にし、先端で穴を塞いでいる板を押しのけて道を開く。重しで塞がれていたら少々厄介であったが、親切なことにそこまではしていなかったようだ。
二人がかりで梯子を固定し、一人が登り始める。後は物資を探すのも骨だなと先の心配をし始めた折、粘着質な水音が小さく響いた。
それに気付けたのは一人だけ。梯子を押さえ、折り重なる死体に背を向けていた一人。
小さな音だった。梯子をブーツが踏みつける音や軋みに混ざり、殆ど聞こえないような音。しかし、警戒を続けていた彼には聞こえた。心配するように梯子を登る男を見上げていたもう一人とは違って。
手が生えていた。折り重なって倒れる死体の合間から。
ピンク色のゴム手袋に覆われた手。しかして、その手には血を浴びて不吉に輝く鉄が握られていた。遊底の上部が大きく削られ、銃身が除く特徴的な拳銃が。
何かと目が合った。壁の付近に積まれた死体。壁に頭を預けるようにして死んでいたはずの死体の頭が持ち上げられ、閉じていた筈の目が開いていた。馴染まない異国の色彩を持つ瞳が闇の中で輝く。
そして、銃声が木霊した…………。
驚きは人の行動を阻害する。それが命に関わる行動であっても。
電源を弾いて入れた無線機から、唐突に死んだと思っていた人間の声が聞こえ、機械のように淡々と生きる青年であっても驚きを禁じ得なかったらしい。あくまで機械のようと揶揄できる程度であり、機械の正確性とは縁遠い身体は揺れた。
一瞬ハンドルがあらぬ方向に着られ、ガードレールに装甲化が施されたバンパーが掠れた。もしあと少し速度が出ていて、あと少し冷静になるのが遅かったなら、青年は数秒間の浮遊感を得た後、熱烈に地面へ抱擁を交わしていたことであろう。
随分と久しく運動以外で激しく脈打つ事の無かった心臓が揺れている。ここまで激しく鼓動を感じたのは何時ぶりであろうか。よもやこんなことで命の危機を感じようとは。青年は額に滲んだ汗を袖で拭った。
とりあえず冷静になるまで車は停めておくとしよう。また何かのミスで転落しかけたら笑えないし、死んでも死にきれない。
「すまないカノン、何でも無い。驚かせた」
急な制動に驚き、カノンが落ち着き無く顔を左右させている。犬には何が起こったか割らないまでも、ちょっとした命の危機が迫っていたことは分かるらしい。焦りに死人の如く白かった主人の顔に、微かな血色の朱が差している事も相まって、彼女は戸惑っていた。
まさかこんな下らないことで死にかけたとは言い難く、困惑する従僕の頭を撫でてやることしか青年にはできなかった。
『おーい? 名無し氏ー? あっれ? 気のせい? いやでも繋がってるよなこれ』
カノンが落ち着くまで撫でてやってから、漸く青年はブラブラと揺れるマイクに手を伸ばす余裕を取り戻した。
お前のせいで死にかけたぞ、と文句を言いたくなるも、流石に何の責も無い見ず知らずの他人に怒鳴り散らすのは如何なものかと理性を働かせる。何より、今後の付き合いがあるかもしれない相手の機嫌を著しく損ねるのは避けたかった。
「……聞こえるか」
『おお! よかったよかった、名無し氏もくたばり損なってたか! 私もまぁ元気だぜい』
相手が居ると分かった瞬間、通信機の向こうの相手は怒濤の勢いで喋り始めた。暫く連絡が取れなかった理由は何か、今何をしているのか、どの辺なのか。一つ応える度に話題は目まぐるしく変わり、久しく会話というものをしていない青年の精神力は鑢でもかけたかのように削れていく。
有り体に言うと、この喧しい通話口の向こうに居る女の相手に疲れていた。
『はー、名無し氏は名無し氏で大変だったっぽいねぇ』
ふと、向こうが一方的に話し続けていたせいで忘れかけた疑念が再浮上する。自分は多分死んでいるのだろうなと思い電源を付けたが、彼女は殆ど同時に電源を入れていたということは、何かしらコンタクトを取ろうとする理由があったのではなかろうかと。
問うてみれば、少女は朗らかに忘れていたと大笑した。
やっぱり電源切って無視してやろうかな、と投げやりな事を青年が考え出した頃、発作のような大笑は止み、少女は本来話題にしたかった内容を切り出した。
『あのさー、名無し氏、ちょっと取引しない?』
「何をだ」
『身請け?』
古風すぎる上、あまりにあまりな物言いに青年は咳き込んだ。
急に何を言い出すかと思えば、反応に困る話の切り出し方である。以前から青年は彼女のコミュニティへの合流を要請されていたが、その都度断っていた。群れるメリットが今の世界では薄く、逆に自身の財産を根こそぎ奪われる可能性の方が高かったからである。
以前に断っただろうと、何度目かになる断りの言葉を継げようとしたが、その言葉を遮って少女は続けた。
『実はさ、拠点放棄する時に逃げ遅れちゃってさ。今一人なんだよね、持って行くに持って行けなかった大量の物資と一緒に』
ぴくりと眉が動き、青年は無機質な瞳を眇にした。
『で、今逃げ遅れた時の怪我で、あんま派手に動けないのよね。足はあるんだけど、長距離は厳しい感じ。食い物に衣料品、日用品から貴重な銃器まで。なんでも御座れだぜぃ? 今なら金髪美少女も一人ついてくる、超お得じゃね?』
正直何を宣っているのか些か理解が追いつくまでに時間が必要だった。
連絡を取らなかった間に彼女のコミュニティは瓦解。その混乱で置いていかれ、離脱する際に持って行けなかった物資と共に取り残された。自分だけで生きていくのは大変なので、報酬があるから助けてくれ……剰りに出来すぎた話だ。
美味しい話には裏があり、ただより高い物はこの世に存在しない。この期に及んで授業料として命を取られては堪らない。青年は考慮に値せぬと、普段のように切って捨てることとした。
「で、私に何の旨みがある? 其方を助けるリスクが高すぎる。何より、本当だったとしても、体力が尽きるだろう頃に取りに行けば、私はボロ儲けだ」
『わーお、見事に畜生じみたお言葉。だが名無し氏、私を甘く見るなよ? 死ぬなら死ぬで、手前の使えない物資なんて腹いせに焼き払ってやんよ』
スピーカーの向こうから聞こえるせせら笑い。言葉の調子を拾う限り、不思議と嘘ではないなと青年は感じた。
多分きっと、助けてくれないと死んでしまうという下りは嘘なのかもしれない。むしろ、それだけの重傷なら無線なんぞに縋り付いている余裕はなかろう。語りにも余裕があるし、交渉しようという選択は余裕の表れと見て相違あるまい。
どうせどうなっても、まぁ生きてはいけるのさ。そんな声が滲んでいるように思えた。
『心配なら見に来なよ。前に話した感じ、もう近場なんでしょ? 一目で分かるよ、ああ、もう誰もいないんだなって。そんな所で待っててあげるとも! お買い上げようって気になったらおいでなさいな。美少女のあてくしが歓待してしんぜよう!!』
一目で分かるほど荒廃している、ということであろうか。しかし、行くことに対してもリスクが生じる。物資満載の車に乗ってつり出された馬鹿を郊外で待ち伏せ、ということも起こりうるのだ。
『証拠が見せらんないのが辛いねぇ。SNSが生きてりゃ、画像なりなんなり送りつけられたんだけど……あ、そうだ、良いのがあった』
どうしたものかとハンドルを小刻みに叩きながら考えていると、彼女は脈絡も無くスピーカーの音量を少し下げておいた方が良いと言う。
言われるが儘、損はするまいと音量を半分ほどに絞ってやる。すると、暫くして耳を劈くような轟音がスピーカーから連続して轟いた。音量を絞っていなければ耳にダメージを受けかねない豪快な音は、ここ一年で嫌と言うほど聞いた音。
銃声だ。音の質からして、小口径の高速弾。小銃弾ではなく、拳銃弾であろうか。
幾度となく闘争の中で轟いた音に驚き、やっとの事で落ち着いたカノンが再び警戒態勢に入ってしまう。犬には分からないのである。通信機の向こうで響いた銃声には、自分たちを害する事などできないと。
『これが自由である証明ってとこかな。じゃ、後は名無し氏が決めておくれー。んじゃ、あでゅー』
耳に残る銃声の痺れを残し、無線は切られた。未だに警戒を続けようとするカノンを押し止めつつ、青年は深く嘆息を零した。
今のは一体何なのか。誘いかけの性質は変わった。自分が得をする可能性を秘め、一応の証明も添えられている。
彼女は銃を乱射した。無警戒に無遠慮に、それも数からして弾倉一つ分を贅沢に使い切ったのだろう。これが許されると言うことは、彼女が銃弾の使用を自由に決められる立場になったと考えられる。少なくとも普通の感性であれば、惜しいと思って使えまい。たとえ今のように証明に代えたかったとしても、数発で止めるはずだ。
多少無駄遣いしても惜しくない思える銃弾の数があり、そこまでして庇護、あるいは協力者を欲するだけの事態であると銃声は語ってくれている。
青年は吐息し、ハンドルに上体を預けた。些か慎重に考える必要が出て来たようだ。今までのように無視して、ただただ安全に事を運べばいいのかもしれない。
だが、これは美味しい。
弾と武器は幾らあっても困らない。協力者が欲しいかと言われれば、カノンと自分だけでも十分やっていけているが、やはり人間が居ると居ないでは結構違うのだ。
青年は狂人であるが、その狂気は現実的な生存への欲求に向けられ、現実主義によって裏付けられている。だからこそ、自分一人でも立派に生きていけるなどという幻想は抱いていない。命運を預けるとまではいかぬが、寝込み程度を守ってくれる味方が居るに越したことは無いのだ。
口が減らず無駄に嵩の高い女が居た頃は、まだ少し楽だったこともあった。
しかし、無線機の向こうの相手と気が合うかは、果てしなく微妙であった。
脳天気というより、若干言葉選びが古かろうがアーパーな印象を受ける少女だ。その上、会話しかしていなくとも匂うのだ。かつて運転席や助手席に、その長駆を窮屈そうにねじ込んでいた女と同じ臭いが。
果たして彼女は自分の生存に役立つのであろうか。
人間関係とは、ある種の契約だ。何かを果たすからこそ尊重され、求められ、役割を果たし果たされる。その契約を何処まで遵守するのか、自身の中での軽重が如何ほどかは個人の気質というよりも、相手との相性に依存する場所が多い。
人の皮を被った畜生のような人間でも、一人の異性に入れあげて真面目になることもある。それほど、その個人によって人の契約を守ろうとする意志は左右されるのだ。
さて、彼女は自身の眼鏡に適い、また自分の眼鏡に適うのであろうか。
「んー……欲が先走りすぎているな。まず罠を疑う所から再考せねばなるまいに」
こういう時、煙草呑みなら一服して気持ちをリセットできるのだろうか。座席と灰皿に微かに残った残り香を嗅ぎながら、青年は瞑目した…………。
「さてさて、仕込みは済んだ。後は天運に祈るばかりかね」
コルダイトの特徴的な香りが立ち込める狭い部屋で、少女は微笑みながら呟いた。足下には15個の空薬莢が転がり、手には遊底が下がった拳銃が握られている。
「しかし、我ながら大盤振る舞いしたもんだなぁ。なんやかやでクリップ一つ分は貴重だぜぃ」
証明とするべく開けた窓から外に向かって打ち出された銃弾。勿体ないからと、適当な狙いでありながら近場を彷徨いていた死体を幾ばくか討ち斃すことに成功していた。だが、費用的に考えると結構な博打でもある。
とはいえ、一縷の望みを掛けて藁に縋ったという訳でも無い。最悪、足を引きずりながらバイクに乗って逃げることだってできるのだから。これは楽に生きるための布石。自分を流してくれる流れを探してのこと。
「さぁ、名無し氏、戦車とまではいかずとも、立派なカボチャの馬車を期待してるぜぃ?」
空になった弾倉を排出。手に馴染んだ愛銃を再び人を殺しうる兵器へと回帰させ、少女は更なる仕込みのために寝床を後にした。
縄梯子を億劫そうに登って辿り着いたのは、二回にある大型スポーツショップだ。アウトドア用品を始めに幅広い商品を取りそろえていた店舗で、少女が足を向けたのは殆ど手付かずのマリンスポーツコーナーであった。
キャンプ用品や屋内運動用品コーナーは、長い籠城生活に活用するべく商品が根こそぎ持ち去られ、運動不足にならないようにと大勢が使って随分と装いが変わっていたが、ここだけはかつてと並びが変わることはなかった。
何せ使いようが無いのだ。サーフボードはバリケードの構築に幾らか持ち出されていたが、使い道の無い水着などは捨て置かれ、薄らと埃を被っている。
「お、これこれ。サイズあるかしらねーっと」
捜し物は直ぐに見つかった。カンテラが照らし出す薄明かりの中では、ともすれば首無し死体とも誤認しかねないそれ。サーフィン用のワンピースタイプウェットスーツだ。
中空糸などの保温性が高い素材で作られたウェットスーツは耐水性と保温性が高く、身体の中に水が浸入しても体温が下がりづらいように作られている。少量の水なら問題なく弾き、身体の熱を保ってくれることだろう。
「ドライスーツがあればご機嫌なんだけど、流石にガチの潜水具は望めないよねぇ」
タグを見て、一番自分の体型に近しい男性用のウェットスーツを手に取ると、少女は手近に残されていた買い物籠へ適当に放り込んだ。そして、買い物籠片手に次の獲物を求めて徘徊する。
半時間もすれば、買い物籠の中には雑多な道具が多く詰め込まれていた。
未使用の包丁にラップが一巻き。市指定の大容量ゴミ袋と防水スプレーに荷造り紐。全てホームセンターに潤沢にストックされていたもので、よく使うからと取りやすい位置に置かれていた。何処ででも手に入るからと置いて行かれていたことが幸運である。
「おけおけ、じゃあ後は小道具だなー。おっと、あそこ以外は塞いでおかないと」
荷を確認した後、少女は予め用意してあった釘打ち気を片手にふらりと出かける。目的地は梯子を掛けて昇降に使われていた数カ所の穴だ。
彼女は一つの穴を残し、全ての穴を板で塞ぎ、簡単に押しのけられたり破られたりせぬように重しを載せた。必要になるかは賭けであったが、失敗する可能性を潰すのに労力を惜しんではならない。
なにせ、空振りした待ち伏せほど虚しい物は無いのだから。
「後は擬装だねー。足に穴空いてんのに重労働とか勘弁して欲しいよ」
グチグチ文句を言いながらも、少女はテキパキと動く。化粧品が纏め置かれていた場所へ向かい、適当な一つを選ぶと、先端をナイフでえぐり取ってボウルに空けた。そして何をするかと思えば、香水一瓶の中身を丸まる豪快に自分へと振りかけたのだ。
「よし、迷彩完了っと」
微かであれば心地よい香りも、過剰となれば鼻を突き刺す悪臭と化す。その悪臭を纏っている当人が一番きついのかもしれないが、嗅覚の鈍化はかなり早いので慣れるしか無いと諦めているようだ。鼻が曲がるほどの悪臭を纏いながら、少女は意気揚々と一階へと降りていった。
靴音も高らかに歩く少女の周囲には、多くの死体が居た。あれだけ銃声を轟かせれば、光から脱がれて微睡んでいた死体でも起き上がる。音に惹かれてやってきて、獲物を探して徘徊する。
されど、癒やし得ぬ飢えを抱えた亡骸達は少女に反応することはなく、他の死体が立てる足音や、風に何かが揺れる音に反応して彷徨うばかり。少女は荷物を抱え、その合間を気軽に散歩するように抜けてゆく。
少女は察した。死体は多くの感覚を音感に依存し、個体の識別を嗅覚、つまりは大気中に放散される分子によって行っていると。
臭いとは嗅覚器官に分子が付着することで感じられる。ごく小さな分子、例えば人の汗や皮膚の欠片、そんなもので彼等は死者と生者、人とそれ以外を察知し、臭いが漂ってくる方へと惹かれてゆく。今この空間には、大勢の人間が暮らしていた残滓がある。彼等はそれを感じ取って集まり、今も彷徨っている。
では、その臭いを強く覆い隠すものがあればどうか?
類い希なる甘美な芳香であろうが、肥溜めの隣では掻き消されてしまう。過剰なまでに振りかけた香水はそれと同じ理屈だ。大量の香水は人間の臭いを誤魔化し、死体に察知させない。淀んだ目で人間を見つけられず、音だけで敵味方の判断ができぬのなら、識別機能の一つが潰されれば、その者は死体にとって居ない者と化す。
さながら森に溶け込む迷彩の如く香水で自身の存在を覆い隠し、少女は荷物を所定の場所に置くと、今度は消火斧を手にした。
暢気な鼻歌。しかし振りはコンパクトながらしっかりと確実に。一撃一撃に重みを載せて手近な死体を砕く。首を落とし、頭を割り、脊柱をたたき割る。感じられぬ敵からの攻撃を受け、死体は訳も分からぬままに倒れてゆく。自身が何に襲われたかも知覚せぬままに。
「まぁま、こんなもんでしょ」
瞬く間に動く死体は動かぬ死体に作り替えられ、それが片手の指から少し余る数に達した所で、少女は一方的な破壊を止めた。
次いでゴム手袋と軍手を二重に纏い、腐肉を一箇所へと引き摺ってゆく。荷物を置いてきた壁際にだ。死体を積み上げ、その合間に丁度人間が一人くらいならば収まれそうな空隙を作る。死体で作った掩蔽壕とでもいうべきだろうか。この世界の有様になれた人間であれば、生者がその中に混じっているとは考えまい。
何せ、この血液の感染力は凄まじい。毛筋程の傷から僅かに入り込んだだけでも人を蝕むのだから。
だが、先入観というのは何よりも恐ろしい物だ。そして、利用する側にしては、何よりも美味しい物でもあった。
「うんうん、歓待の準備はこんな所でしょう。どうせ、名無し氏が来る前に荷を引き上げに来る連中がいるだろうから、備えないとねぇ」
死体の山の上にどっかりと腰を下ろし、少女は煙草を咥えた。ただただ煙たかったコレが、葬儀の後に咥えて以来、今ではニコチンの慰撫の虜になっているのだから、世の中分からない物だ。こんな所で腐肉の罠を作り、必ず戻ってくるであろう略奪者に備えていることすらも。
きっと連中は車で乗り付けてくるのだろう。それならば、生活音が街から聞こえることも無くなった今、普通にしていれば接近には容易く気付けよう。後はここで待てば良い。じっくりと蟻地獄が蟻を待ち構えるように。
狩る側も狩られる側も常に一方的なものではないのだ。彼等はそれを忘れていた。だからおやっさんに一杯食わされたし……これから、またきつい一杯をご馳走になるのだ。
「さぁて、愛しの王子様は来て下さるかしらねっと」
暗闇の中、ほの白い煙が立ち上り消えていく。その様を、少女は飽きることもせず、何時までも笑みを湛えて眺めていた。闇の中で待ち続けるのに、もう慣れてしまっていたから…………。
都市部を遠間に眺める小高い丘があった。田圃と民家が点在し、僅かに背の高いアパートやビルが点在するそこは、もう立地的には大阪府にあるといってもイマイチ実感が湧かぬ地方都市である。
道路には事故車両が放置され、炎上して燃え落ちた家屋がなすがままに放置されている様は、今では日本の何処にいっても見慣れた物。方々を放浪した青年にしても、見飽きた光景ではあるのだが、今更新鮮味など求めても仕方のないことである。
県境まで10km、という交通看板を背にし、無骨な装甲化が施されたキャンピングカーの上で青年は双眼鏡を構えていた。
高い倍率を誇る軍用の双眼鏡で、街の隅々まで調べ尽くすように眺めていく。そして、四方を忙しなく行き来していた視線は、一つの建造物で停まった。
急拵えの電波塔が屋上に作られた大型のホームセンターだ。
無駄に広い駐車スペースを有する、複数の商業テナントが入った何処ででも見られるチェーン店。度の途中で何度もお世話になったことを覚えている。
しかし、双眼鏡で覗いたホームセンターの壁面は、何処か世紀末な雰囲気を感じる色彩に彩られていた。
「……ようこそ、名無し氏、ね」
Mr Nameless Welcome my home.壁面にローラーでも使って塗りつけたのだろう。黒々とした、遠くからもであっても分かる歓迎の言葉が描かれている。されども、その黒さはペンキや塗料のそれではない。
赤黒く無理矢理伸ばされて、所々異物がダマになってしまっているそれは、酸化して固まった血文字だ。
随分とまたインパクトのある出迎えである。普通の感性の持ち主なら、殺害予告か何かと勘違いして、即座に回れ右というところだろう。青年も内心で、とんでもない狂人を引き当てたか? と来たことを後悔し始めていた。
背中にじわっと嫌な汗が噴き出してくる。この感覚は何処かで味わった事があるものだ。脳裏にフラッシュバックするのは、朱い夕焼けとカフェオレの甘ったるい香り、微かに甘い煙草の香気……。
不意に下で待機していたカノンが吠え声を上げた。物静かな彼女は、余程のことが無ければ声を上げたりしはしない。尋常ならざる警戒の吠え声は、何者かの存在を報せる警報。
青年は咄嗟に構えていた双眼鏡を放りだし、ヒップホルスターにぶら下げていたM360を抜き放ち、カノンが吠えている方へと銃口を巡らせる。馴染んだ滑らかな動きに遅滞は無く、銃口を動かす動作の合間に撃鉄も引き上げられていた。
そして、銃口と銃口、視線と視線が絡んだ。
視線の先に居るのは、金髪が中途半端に伸びた長駆の女性。野戦服を着崩し、アクセサリの殆ど付いていないM4カービンを構え道路脇の草むらから姿を覗かせている。
同じ位置であれば見下ろすことの能わぬ鍛え抜かれた長身は、エアライフル競技者を呻らせる正しいスタンスで小銃を保持していた。緩くつり上がった異国の色彩の瞳が、アイアンサイト越しに青年の目を射貫くかのように細められている。
緩く波打つ黄金の髪と相まって、犬のような印象を受ける女性だった。歯をむき出し、生存のためであれば穏やかな外見も身分もかなぐり捨て、元の野生に立ち返る事の出来る獣の姿が薄らと重なる。
葬儀の参列者というよりも葬列に見送られる死人の印象を受ける青年は、しかし彼女を見て一瞬別の光景を幻視した。
赤々とした夕焼けが逆行になり、赤と黒で塗りつぶされた屋上の光景。背の高い女が縁に背を預け、陰影で見えぬ顔を此方に向けていた。あの時と何かが似ていた。見ない方が良い物を見てしまったような、そんな感覚。
「犬連れてるって忘れてたよ、名無し氏」
かけられた声に一瞬の幻想は霧散した。残るのは、油断なく銃器を突きつけあっているという、歓迎しがたい現実。
道路脇からの距離は10m少しという所だろうか。アンブッシュというには近づき過ぎで、さりとて道の脇に広がる林を考えればまともに射線が通る数少ない場所でもある。短銃身の拳銃と中距離射撃にむいた小銃、相対するにはあまりにも不利な距離。
カノンが今気付いたということは、最初からずっと伏せていた訳ではないのだろう。気付かぬようここまで接近する手並みは見事の一言に尽きる。自分一人であれば、今頃何も分からぬまま地面に転がっているか、無様に両手を挙げさせられているかのどちらかだっただろう。
カノンならば一息で駆けられる距離でも、流石に銃を向け合っていては分が悪い。引き金を引くよりも早く走れる犬など何処にも居ないし、恐らく狙いは腹か胸。避けられる距離でもないし、この距離で外すほどのヘボでもあるまいて。
「やっとこリアルに合えたね。王子様っていうより葬儀屋さんって感じだけど、まぁ白馬より上等なカボチャの馬車だから良しとしましょう」
流れるように紡がれる軽口。声も口調も違うのに、何処か懐かしい感じがした。
「でさ、提案なんだけど、同時にチャカ下ろさない? 別に撃ち合いしたい訳じゃないし。あれだよあれ、文通してて気になってた人を早く一目見たいと思う乙女心的な?」
一瞬、昭和かと反応しかけた。そこまで殊勝な性質でもあるまいて。むしろ、これは彼女なりに十分な下準備をした末の状況なのだろうと思った。無線機で話していた時から、軽いように見えて狡猾なのではと思っていたのだ。
ここに停車するまでも誘導されたに違いない。キャンピングカーが通れるほど大きな道は他に無く、事故車で塞がっていない道を選んで来た。前もって下見をし、慎重な性質は見抜かれているので、何処かで様子見をすると考えて待ち伏せる。
その上、アンブッシュを気付かせないよう別の物へ意識を向けさせる仕掛け。あのメッセージは嫌でも目を惹き付けられた。そこまで考えてやったのであれば……。
相当厄介な相手に目を付けられたのかもしれない。
「……いいだろう。三つ数えるか?」
「映画じゃあるまいし……はい、下げたっと」
銃口は意外な程にあっさりと下ろされ、青年も釣られて銃口を地面へ下ろし、引き金に移していた指をトリガーガードへと戻す。カノンは未だ警戒しているが、彼女を武器にカウントするべきかは悩ましい。とりあえずの優位を担保してくれると考えれば、そのままにしておくべきだろうが……。
「カノン、ステイ」
待機するように命じた。相手が先に銃を下ろし、交渉する意志を見せたのであれば、無駄に撃ち合いに発展するような状況は潰すべきだろう。
主人からの命令に従僕は振り返り、数秒逡巡するように女と青年の間で目線を彷徨わせたが、最終的には指示に従って地面に伏せた。
「ありがとね、名無し氏。良い相方じゃん」
「ああ。何度も助けられている。で、確認するまでも無いが、お前が?」
「ん、そうよ、無線の向こうの超絶美少女。どうよ、惚れた?」
この軽い調子に呑まれつつある。どうにもこういう、会話においては自分から引っ張っていける人間の対応に弱いらしい。青年はゆっくりと撃鉄を定位置へと戻し、顎で我が家を示した。
「とりあえず、茶でも飲むか?」
ああ、やはり苦手だ。こういうタイプは。また、何処かで誰かに嗤われているような幻聴が聞こえた。しかし、どうしてだろうか、その声は随分と小さく掠れて聞こえたように感じられた…………。
第一印象は、呼吸していなければ死体と勘違いしそうな人だな、だった。
少女は狭苦しいキャンピングカーの中で、適当に荷物を退けて作られたソファーの上に座っていた。対面では寝床に腰を下ろし、湯煎して暖めた缶コーヒーを啜る青年の姿。
隙の無い人だった。利き手の右手は常にフリーでヒップホルスターの拳銃に手を伸ばせる位置にキープ。カノンと呼んだ飼い犬、黒銀の毛並みも艶やかなシベリアンハスキーも手近に伏せさせている。何かあっても、最悪は相打ちを取れるようにとの準備だ。
冷静で冷酷で自己中心的で……どうしようもなく臆病。成る程、無線の内容から察してはいたが、直に顔を合わせてしっかりと分かった。
彼は一種の狂人だ。死ぬことを病的に恐れ、自分だけが損することを何よりも嫌う。死ぬ確率が低かったこの国では、あまりに異質な狂気。それが今日まで彼を生かして来たのだろう。非常時にあっても、何とかなると楽観して、何の躊躇いも無く行動力がある他人に命運を預けた避難民とは、明確に違う臭いがした。
おやっさんが纏っていた、防人として殺人に落ちる覚悟を決めた、理想論と理念を支柱に据えた狂気とは違う臭い。狂うべくして狂い、それを良しとして、狂気を理性に代えた別種の狂人だ。
何となく分かる。自分と一緒で、根源的に他人なんてどうでもいいのだろう。生き易ければいい自分、ただ生きていたい彼。少女は直感的に悟った。ああ、相互理解さえ結べれば、これほど相性の良い相手は居るまいと。
互いに目的を果たす助けとなる限り、絶対に裏切ることの無い他人。単に考え無しに無情なだけではないからこそ、尚のこと都合が良かった。それこそ、本当に使い物にならなくなる……死ぬまで利用し合える相手だ。
ここまで理解が及ぶのは、如何なる業によるものだろうか。少女は出された甘いカフェオレを一口煽り考えを巡らせる。
相手の正気かどうかは、この際関係ない。目に付いた人間全部をばらして回らないと気が済まない変態ならまだしも、相手は理性的な狂人だ。時に狂気と理性が同居できることは、嫌と言うほど分かっている。おやっさんしかり、自分しかり。そして彼も、年齢を図りづらい所はあるが、成人はしていると言っていたので、それまで何もしでかさずに成長できただけの理性はあるのだろう。
偶然が良い方に転がってきた。もしかしたら素通りするかもしれない。だから様子を見ようと思っていた。前々から調査で分かっていた、大型の車両が通れそうな道は一つくらいだったから、そこで待ってみれば見つかるだろうと。
そこから訪ねてくれば良し。素通りするようなら、どうせ何処かで足止めを喰らうだろうから、その時にどうにかしてしまおうと思っていた。
だが、今の流れは……。
「流れが来てるねぇ」
「ん?」
「あ、いや、何でも無いよ、ごめごめ」
思わず口をついて出た言葉。今まで敏感に感じ取り、乗ってきた流れが来ているような気がしたのだ。楽に生きて、楽に死んでいくための潮流がもう一度。
少女は微笑み、立ち上がる。そして青年と間合いを詰め、その矮躯を見下ろし、目と目を合わせる。
そして言った。
「貴方のお名前なんてーの? 私はね」
耳に馴染みの無い異国のナチュラルな発音と、何処にでもある日本の家名が青年の耳朶を打つ。
されどそれは、有り触れていても大事な物。自分を自分であると担保する、自己存在の証明。生くるべくして生きてきた自分が、最後に名前を呼ばれたのは何時だっただろうか。名乗ったのは何時だっただろうか。
自分の名前は、何だったのだろうか。
「……ああ、私は」
人間は一人で生きていけない。しかし、例外はどこにでもある。
生きて行ければ、楽ならば、一人であっても平然と生きていける人間は居る。たとえ話す相手すら居なくとも、助けてくれる誰かがいなくても。周りに自分を食おうと這い寄る死体ばかりであったとしても、生きていける人間が。
ただ、そうであっても、余分な何かがある位が丁度いいのかもしれない。
たとえば犬と、誰かもう一人くらい居ても。
随分と久しく思い出すことすらなかった自分の名前を口にする。もう、あの何処か懐かしい笑い声は聞こえてこなかった…………
ということで完結でございます。これまで長々と間を空けながらの連載にも関わらず、感想・誤字報告、Twitterでのフォロー等に感謝を。
とはいえ、これは元よりあったプロットの一つのオチであり、やりたかった津々浦々放浪記を話の展開の中で省いた物。一つの区切りが付いたと言うことで、完結とさせていただいただけで、まだ後日談や放浪記、少女と青年の話や、おやっさんのその後等がまだまだ残っております。
それに関しては、次回作をやりつつ、今まで書きためていた分を修正しつつの投稿となりますので、今暫しお付き合い願えれば幸いです。
語り尽くせぬことも御座いますが、流石に20000文字まで許されているとはいえ、後書きで長々と語っても余韻を潰しかねませんので、活動報告にライナーノーツとして解説と謝辞を添えさせて頂きたく存じます。
それでは皆様、改めて拙作に最後までおつきあいいただきありがとうございました。至らぬ所が多く、筆の遅い筆者でございましたが、これからも何卒よろしくお願い申し上げます。