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少女と香水と青年

 「いやいや、ご苦労なこったね」


 大きな穴から伸びる不安定な折りたたみ梯子を降りながら少女は呟いた。


 大きな穴というのは、略奪者達が昨夜の侵入直後に驚かされた場所、かつて階段があった場所に空けられている。


 一階を迷宮化すると共に、最後にはフロア全体をデッドエンドにするために作り出された出入り口である。


 一階にある階段全てが同じ状況にあった。壊すのが難しい物はぎっちりと埋められ、或いは扉が溶接され、場所によっては此処と同様に崩した上で蓋がされている。


 工具を使って必死に壊し、梯子を使って移動した涙ぐましい努力の跡だ。この常の移動にも物資の搬出にも大変な場所を、何時来るかも分からない敵に備えて皆は淡々と使い続けたのである。


 少女は監禁されて暫く見ていなかった拠点の現状を一目見て察し、おやっさんも無茶するなと表情を笑みに歪めた。


 罠に誘い込んで足止めというのは、古式ゆかしい伝統的な方法なれども、些かやり過ぎとも言えよう。よもや階段全てを潰し、物理的に出入りができなくしているなど。


 されど、まだ火を放って取り囲んだ敵を蒸し殺していない辺り、理性というか常識が残っていたとも考えられるのだが。


 「おーおー、見事なラビュリントス。こりゃ入ったら命が無さそう」


 夜闇の中で臨めばのしかかるような威圧感に襲われる迷宮の出入り口。しかし、朝日の照り込む中で見るそれは、何処か滑稽な代物であった。


 棚で作った壁に色とりどりのカーテンが掛けられている様は、何だか学園祭の出し物のようでもある。


 チープな怪物と一部の気合いが入ったオタが作り出す本気のホラーがない交ぜにされた歪なあの空間。百円玉を握りしめて歩いた、日常の中での非日常が想起され、俄に少女の胸中に郷愁の念が沸き上がった。


 たとえ居る地域は同じでも、此処は最早故郷とは呼べまいて。あの頃は良かったね、と心が囁くのだ。


 実態は殺人トラップが山と用意された、学園祭の迷路とは段違いの正に迷宮と呼ぶに相応しい有様と正対していてもだ。


 「豚箱に放り込まれてる間、割と昼間は喧しいなと思ってたら、こんなん作ってたのかよ」


 懐からペンライトを取り出して照らしてみるも、暗幕と何度も折り返す道のせいで奥は全く見えない。挑んでも碌な事は無さそうなので、少女は大人しく出入りできそうな窓を目指すことにした。少なくとも外縁部であれば、早々致命的な罠も無かろうて。なんと言っても、此処で人々は生活していたのだから。


 「……なんか良い匂いするな。焼き肉食いたくなってきた」


 窓が塞がれているために薄暗い一角を、小さな電球の細く伸びる光で祓いながら進む彼女の鼻腔が微かな臭いを嗅ぎ取った。


 何かが焼かれた臭いだ。生き物が焼けた時に発する特有の臭いなのだが……。


 「あー……元はアレか……これが良い匂いに感じる辺り、ちょっと鼻が馬鹿んなってたな」


 痛む足を庇いながら静かに歩いた少女は、壁から運転席を覗かせるトラックの残骸を見つける。破城槌として使われた後、盛大に燃やされた哀れな残骸だ。


 その傍らには、縮こまった消し炭が一つ転がっている。単なる油ではなく、しつこく燃えるよう工夫された火炎瓶の被害者。既に外見から察することはできないが、かつて此処で暮らし、此処を裏切った者のなれの果てである。


 「こりゃ焼き過ぎだね」


 冗談めかして言いながら、ブーツの先で蹴っ飛ばすと残骸は容易く崩れ、燃え損ねた白い骨が消し炭の中から現れた。水分が多い生者の体も、燃焼剤で燃える炎の前では網の上の肉と大差ない。


 「肉、暫く食べてないなぁ……ロース、カルビ、ハラミにミノ、センマイ、ハート……」


 外見に見合って食べ盛りの少女は、一日一食のみの粗食に耐え、それ以前から動物タンパク質とは無縁の食生活を送ってきた。


 恨み言のように懐かしい食材の名を挙げていく。いつでもでは無かったが、月に一度は食べられた懐かしい味の数々。あの頃は良かった。今よりもずっと生き易い、流されていくだけの穏やかな日々。


 「ザブトン、カイノミ、ランプとツラミに豚トロ……」


 きっと何時か誰かと番い、なぁなぁに生きて死んで行けたであろう世界。あの時が愛おしかった。


 「なんと言っても牛タン塩っと」


 車が突っ込んだ余波でバリケードが壊れた窓を乗り越え、着地の衝撃に顔を顰める。貫通銃創は軽い傷ではない。正直歩きたくは無かったが、のんびりはしていられないので仕方あるまいて。


 「あー、肉くいてー。鳥でもいいぞー、ムネ、モモ、ハツ、せせりとつくね、ぼんじり手羽先……唐揚げもいいなぁ」


 思いついたままを適当に口走り、だらだらとした足取りで回り込む。目指すのは物資搬入のための裏口だ。書き置きの中で、その辺にバイクが止めてあると書いてあった為だ。


 「肉もいいけどアイスとかケーキも食べたーいねっと。バニラ、ラムレーズン、ストロベリーに抹茶。ショート、チーズ、ムースにモンブラン」


 韻を踏むように、歌うように列挙される食べ物の数々。全て、今後二度と口には出来ないであろうものばかり。


 ただ、別段彼女はそれを意味も無くやっている訳では無い。


 朝の駐車場に響く声は、死体を誘っての物だ。起きているなら起きているで、さっさと顔を出して貰った方が良い。どれだけ這いだしたかは分からないが、大なり小なり内側に入り込んできているのだろう。


 なら不意打ち気味に襲われるよりは、真正面から出て来て貰った方が気が楽である。負の走光性を無視するほど至近に隠れているのであれば、こうやって意味も無く声を上げていれば出てくるであろうと考えてのことだ。


 しかし死体は出て来ることは無かった。寒々しい風が吹く、朝のきらめきが何処までも広がっている。


 昨夜の騒動で目覚めはしたが、まだ寒すぎて本調子ではないため惰眠を貪っているとでも言うのであろうか。


 だとしたら羨ましい話だ。少女は目覚めた寝床と、寝具には金を掛けてくれた実家の寝床を比べて遠い目になる。


 自室では万年床の煎餅布団であったが、考えてみればあれも上等な方だった。柔らかいというのは、それだけで偉大なことなのだ。


 「そーとー慌ててケツまくったみたいだなぁ」


 かつて商品搬入に使われていた裏口に辿り着くと、そこは酷く物が散らかっていた。口を開けて転がされたスーツケースや、蹴り飛ばされたのか少し離れた所に転がるリュックサック。香水でも落としたのか、甘ったるい刺激臭が立ち込めていた。


 恐らく避難民が逃げ出す時に慌てて落としていったのだろう。そして拾うことも許されず、後続に蹴散らされてご覧の様というところか。


 秩序だった撤退とは言い難い。だが背中から打たれて倒れ伏す死体やら、見慣れた顔の死人が彷徨いていないと言うことは、おやっさんは上手いことやってのけたようだ。


 死人を極力出さないという、撤退戦における最も重要視すべきことを為せたのだから上等と言えよう。


 やっぱ有能ではあったんだよな、と少女が感心していると、ふと小さな音が耳朶を打つ。水が零れるような小さな音と……。


 「お食事中かな?」


 肉が引きちぎられ、すりつぶされる音。紛れもない咀嚼音。


 そんな音を立てる存在は一つだけである。少女はカービンを構えながら、内側から砕かれたと思しきバリケードのある窓へと近づく。


 「わーお、突撃、隣人が晩ご飯」


 窓の内側では、予想通りの光景が展開されていた。三体の死体が屈み込み、一人の死体に喰らい付いている。二体が腸を啜るように腹腔に顔をねじ込み、一体は此方に背を向けていたが……。


 「あ、お邪魔でした?」


 少女の冗談めかした感想を聞いて、背を向けていた個体が振り返る。見たことの無い制服を纏った、高校生か中学生と思しき風体の死体。


 本来であればハンバーガーでも囓っているのが似合いの派手な髪色の彼女は、引っこ抜いた人間の頭を囓っていた。囓り倒されて、殆ど頭蓋が露出した真っ赤な頭を。


 貪られていたのは、今となっては判別も付かないくらいに引き裂かれてしまっているが、野戦服の残骸を見るに襲撃犯の戦死者だったのだろう。残して行ったというのは、また戻ってくるという意思表示か、それとも死すれば仲間さえも切り捨てる合理性の持ち主達であったのか。


 事実は定かでは無いが、確かな物が一つある。起き上がって向かってくる脅威だ。


 彼等が何を思って動いているのかは分からないが、動いていつでも囓れる得物よりも、どういう訳か手近にある暖かな肉を好む傾向がある。


 食事に熱中していた死体は、ゆっくりとした動作で立ち上がって向かってくる。口から肉の筋やら、ずるりと伸びた内容物を失って細くなった小腸を引き摺りながら。


 少女はそれに淡々となれた対応を見せる。生娘でもあるまいし、最早臓物を垂れ流す死体程度に怯えるような可愛げなど、欠片ほども残っていないのだ。銃のストックが届く位置に達すれば素早く殴り倒し、頸椎を踏み折る。


 弾が抜けたばかりの足を軸に立つのは酷く億劫ではあったが、ならもっと痛い目を見たいかと言われれば話は別。分厚いブーツの底と、硬い床に挟まれて腐肉と骨が砕ける音が響いた。


 「フライドチキンの骨を抜く感覚は好きだけど、ほんとこれは何回やっても気味悪いよねぇ……」


 群となれば鍛え上げられた兵士すら屠る死体も、統制無く向かってくる分には可愛いものである。慣れれば手玉に取れるし、一発もぶっ放さず屠ることも容易い。


 ブーツの靴底にこびり付いた腐肉を惰性で入り口に残されていたカーペットでこそげ落としつつ、ふと少女は首を傾げてみせる。


 そういえば、どうして彼等は声を掛けるまで振り向かなかったのかと。


 本来ならば少女の独り言やら足音なんぞに反応し、もっと早い内に気付いていた筈だ。食事と声が聞こえてくる距離に優先順位でもあるのか、それとも……。


 「あー、香水かな?」


 軽く鼻をひくつかせ、適量であれば薫り高いオールドローズの香りであっただろう残り香を嗅ぐ。この臭いは強烈で、臭気に敏感な生き物であれば尻尾を巻いて逃げるであろう強烈さだ。


 彼等は臭いで敵を追跡する事が分かっている。動物の血の臭いに惹かれる習性を、屋上で捕まえた鳩や鴉の血で活用したこともあった。


 つまり、これだけ香水の匂いがキツイと、彼等の鼻も馬鹿になるのではなかろうか?


 動く死体とはいえ人の身体。何かしら変異が起こっていたとしても、臭いを感じるメカニズムは変わらないはず。となると、この手段は利用できるのでは無かろうか……。


 ともすれば、痛む片足を引き摺ってバイクに乗らなくて済むかも知れない。のんびり街を散策しながら療養ライフ、なんて素敵な未来が見えてくる。


 「んー……化粧品コーナーの道具って何処に纏めてあったっけ?」


 少女はにんまりと外連味たっぷりの笑みを浮かべた…………。











 雪が殆ど溶けかけた道の中、一つの影が動いていた。着ぶくれで樽か何かのようなシルエットになった背の低い姿。不格好に長い小銃を背負った姿は、何か米国製カートゥーンのような風情を感じさせる。


 「寒い」


 顔の下半分をマフラーで、上半分をニット帽で覆い、更に目を外気から守るためスキーゴーグルを身につけた矮躯の青年は、雪が大分薄くなった田舎町を眇に眺めた。


 いや、田舎町だった場所、というべきであろうか。誰も雪を下ろさなかった事もあり、倒壊したり傾いだりしている建物が散見される。人の住まなくなった街が如何に脆いかが如実に分かる光景であった。


 その中で数少ないまともな姿を保った家屋の前で、青年は雪の調子を確かめる。湿気の多い日本の雪だが、温んだ気温でもう随分と薄くなり、かつての如く臑まで埋まるということはない。


 また、如何に水気の多い雪でも、幾人にも踏み固められることが無いので、氷となって寝穢く居座る様子も見られない。


 更に数日もすれば、気を付ければ車で出られるようになるだろう。


 しばしの逡巡の後、青年は雪を蹴立てて感覚を確かめつつ、小さく頷いた。


 随分と長く、腐るような時間を過ごしてしまったが、そろそろ頃合いのようだ。


 「そろそろ出立の準備を整えるか」


 ここも別段悪い場所では無かったが、長居出来るような所でもない。死体は群を作り、餌を求めて延々と遠征をしてくる。囲まれても安全に暮らせる所を求めて、あの神社に辿り着いたのだから、こんな山の中を切り開いた平地に長居する必要は何処にも無い。


 なんと言っても道は続いているのだ。長くとも愚痴を言わず歩く彼等ならば、何時か踏破できてしまう道が。


 頭の中でキャンピングカーの限られた容積へ如何にして物資を詰め込むかを計算する。一冬の間、方々を歩き回って集落中から集めた物資の山は相当の量だ。


 使えそうな日用雑貨から缶詰にレトルトパックの保存食。そして元から持っていた武器の山を詰め直すとなれば重労働である。


 一瞬、やはり明日から頑張ろう、という駄目な大学生らしい思考が顔を出したが、青年は深呼吸して怠惰な空気を脳内から追い出しにかかる。


 今やそれが許される環境では無いのだ。だが、寝て起きて食って、軽く運動してまた寝るというサイクルが良く無かったらしい。生存のために研ぎ澄まされていた精神に、僅かながら贅肉が付いてしまったように思われた。


 微かながらに人間らしい反応を示す精神が、狂気染みた生存欲求に押されて傾いていく。

ほんの数瞬の迷いを捨てて、青年はキャビンへと足を向けた。


 改めて開いた空間の寸法を測り、どの箱を使えば目一杯物資を運び出せるかを計算するために。元より狭い空間が、更に狭くなる事は気合いの入れようからして確実であろう。


 家とキャンピングカーの往復と物資の選別、詰め込める容積の計算に必要な時間を勘案するのであれば、必要な時間は大体……。


 「三日と言うところか」


 大凡で弾き出された所要時間は目安であると共に目標だ。随分と長居した事もあり、物資は生活に易いよう並び替えられ、かなり雑になっている所もある。


 食品にしても賞味期限が長い物から厳選するなどの作業を勘案すれば、三日は妥当な所であろう。その上で、三日で全てを終わらせて、ダラダラとしたある意味で彼の理想的な環境から抜け出すという意思表明でもある。


 雪が作り出す純白のぬるま湯から上がる時が来た。また腐肉と腐汁、そしてひたひたと冷たく身体を這い回る死から逃げ回る日々が始まる。


 思えば長い冬休みであった。何時もは短いと感じる冬期休暇であるが、終わって新しい季節が来ると考えれば感慨深い物がある。


 しかしながら、もう新しいカレンダーも手帳も必要ではない。ましてや年度末考査の心配すらないのだ。いや、むしろそれを受けられる環境が、どれ程幸福であったか。今持つべきは鈍器と銃器、そして生き残る気概だけ。大学生らしい感覚と感慨を振り切って、狂人は止まっていた足を再び動かし始めた…………。











甲高い音が高らかに響き渡る。広く天井が高い空間特有の反響を供として木霊するそれは、酷く不安定な口笛であった。


 適当な旋律は、かつてFMのヘビーローテーションで流れていた流行歌の物であるが、うろ覚えのためか途切れ途切れで酷く怪しい調子で紡がれる。


 機嫌が良さそうに吹かれる口笛の主。ストックが畳まれたカービンを気楽にぶら下げた少女は酷く上機嫌であった。


 珍しく彼女の顔に化粧っ気があるから、ではない。気まぐれに薄くコンシーラーをはたき込み、色つきのリップなんぞを塗って色気づいてはいるものの、特段見せる相手も居ないのだから張り合いもあるまい。


 身に纏っている服が新しく、何処か春めいた装いになっているから、でもない。


 寒さが緩みつつあるからか、少女は珍しくワンピースなんぞを着込み、そこに不釣り合いな大柄のジャケットを羽織っていた。足の傷を出来るだけ布地に触れさせたくなかったからだろう。


 大きな革ジャンにさえ目をつむれば、日本人離れした容貌の少女がめかし込んでいる様子は可愛らしいものである。


 しかし、その手に血糊がべったりと付いた消火斧をぶら下げていなければ、の話であるが。


 不確かな旋律と共に床を斧の頭が撫で、不快な金属音が伴奏として鳴り響く。重量のある金属性の擦過音と調子外れの口笛は、まるで何処かのホラー映画から切り抜いてきたかのよう。


 「おっ、いたいたぁ」


 不意に口笛が途切れ、楽しげな声が溢れる。その調子だけ聞けば、通学路で友達でも見つけた女子校生そのもの。


 しかしながら、彼女の目に映るのは、一体の亡骸であった。


 本当の上機嫌の原因は、これであった。床に蹲り、一心不乱に抱えた何かをしゃぶる死体。


 今では珍しくも無くなった、歩き回る死体。啓蟄が過ぎ、虫の代わりに雪から這いだして来た彼等はポツポツと人の気配が残るホームセンターへと入り込みつつある。


 そうしてやってきた彼等は、転がる死体や元同胞を見つけると、無くした物を補填しようとするようにしゃがみ込んで食事を始めていた。


 その背後に求めて止まない暖かな血潮の通る肉が居るとも知らず。


 和やかに表情を歪ませて、少女は半ば干涸らびた指の肉を必死に刮げ落としていた死体の背を蹴倒した。腐汁がビニール張りの床に飛び散り、抗議でもするかのように呻き声が漏れる。


 肉を囓っていた、何処か懐かしさを感じさせる服飾。学生服の死体はそれでも少女に気付かない。ぎこちなく顔を上げ、倒れた時に口からこぼれ落ちた指に手を伸ばすだけだ。


 何故倒れたか、何にやられかたすら認識できていない。否、認識しようとしていないのだ。認識するための器官と思考回路が破損しているからなのだろうか。


 「ほい、お疲れさんご同輩」


 微笑みを讃えたまま、少女は消火斧を振り上げる。コツは狙いだけを正確に付け、無駄な力は込めないことだ。斧のヘッドを落着地点に導き、後は重力と重みに任せてやる。


 結局、気に入った毛布を求める子供のような一途さで伸ばされた手は、結局干涸らびた指一つ掴むことは適わなかった。


 「やぁやぁ、良い気分だ。足は痛いし腹は減ったし、置いてけぼりにされたけど、世の中捨てたもんじゃないねぇ」


 ぷらぷらと暇な休日にショッピングセンターを冷やかすのと同じ具合に歩き回り、少女は目に付いた死体を一つずつ潰していく。多数の死体を相手取るには些か重すぎる消火斧も、一つ一つ潰すにはちょうど良い。


 何よりも振り上げるだけで良いので、疲れないのが楽だった。動かない的であれば、薪も人間の頭も大して変わらないのだから。


 たたき割った頭蓋の数が二桁に達した頃、少女はぐるりと迷宮を迂回し、見慣れた扉の前に辿り着いた。そして、ポケットから鍵束を取り出し、その中の一本を無造作にねじ込む。


 「おお、我が麗しの私室よ!」


 扉の向こうは、彼女が独房にブチ込まれるまで寝起きしていた警備員詰め所の一つ。裏の搬入口を見張る部屋は、彼女が出て行った時からそのままの状態が保たれていた。


 そう、そのまま。


 「……くせぇ!? 何か腐ってる!?」


 分厚い鉄扉に阻まれ、寒さから逃れるために密閉されていた空間が一月以上ぶりに解放された結果、溢れてきたのは据えたような不愉快に甘い腐臭であった。


 明らかに発酵の度合いを超え、何かが腐敗に至った臭いが怒濤の如く溢れ出す。少女の別の臭いで馬鹿になった鼻腔すら蹂躙し、脳髄に突き刺さるのは、恐らく菓子か何かであった物のなれの果てが発する臭いであろう。


 大事にへそくりしておいた物が、少しずつ湿気を吸って駄目になったらしい。乾いた冬場の空気でも、流石に密閉空間で一月というのは食べ物が腐敗するに十分な時間であった。


 「うおお!? マジか!? ちょっとおやっさん勘弁してよ!?」


 少女は狂を発したようにジャケットを脱ぎ、必至にばたつかせて空気の入れ替えを試みた。その次いでに、この惨状を作り出したおやっさんへと文句を零すが、これは些か酷な文句と言えよう。


 預けていた武器の回収はすれど、掃除をしなかったのは年頃の乙女の部屋だからだ。たとえ脱ぎ捨てた下着がその辺に転がっていようと、これきちんと洗ってあるのか? と思うシャツが脱ぎ散らかされていようと、女人の部屋を漁らない分別が彼にはあったのである。


 さりとて色々と重要な――或いは危険な――物もあるので、一般の女性避難民に掃除させることも能わず、結局おやっさんは色々諦めたのだろう。どうせ後で文句を聞くこともあるまいと、この時点で割り切っていたのかもしれない。


 しばし少女が踊るように騒ぎながらジャケットを振りたくっても、彼女の叫び声以外に付近で蠢く物は無く、臭いの元を取り出さねば意味が無いことに考えが至ったのは、更に十分ほど狂乱してからのことであった…………。











 「些かやり過ぎたやもしれんな」


 燦々と朝の陽光が降り注ぐ中、青年は湯煎した缶コーヒーを啜りながら呟いた。痩身は既にコートを纏って旅支度が調えられており、このコーヒーも出立前の気付けのようなものだろう。


 隣でカノンが小さく鼻を鳴らしていた。主人の感嘆に同意するように、目の前に広がる光景に呆れたのであろうか。


 装甲化が施され、元の地金が殆ど見えない物騒なキャンピングカー。その後部キャビンは、殆どが荷物で埋まっていた。具体的に言えば、最早キャビン側のドアからは出入りが出来なくなるほどに。


 それのみならず、屋根の上のスペースも荷で一杯だ。ストーブすらも何時か使えるだろうとビニールシートに包んで括り付けてあり、明らかに過積載である。


 何とか寝床と運転席の間にスペースは確保してあるものの、それ以外は全て埋める徹底ぶりであった。ソファーの上から何から何まで、詰める限りの物資の箱で占領されており、最低限の生活スペースすら怪しい。


 勿論、ある程度考えて配置はされている。寝床から手が届く場所に直近で必要そうな道具や直ぐ食べられる食料、必要になる銃器と弾丸を纏め、運転席と寝床の往復だけで全てが完結する配置だ。


 ある意味、万年床の周囲に全ての物を配置する、ずぼらな人間の布陣に近しい。


 物資のために風呂とトイレはすっぱり切り捨てた。全て外に出てその辺で済ます構えであるが、まぁこれはいつも通りなので良かろう。逆に今まで文化的な排泄をしていたのが贅沢だったのだ。


 とはいえ、いざ出立という段に至ると、流石に欲張りすぎたかという気がしてくる。これほどまでに重量を増せば、燃費も大きく悪化することであろう。道中で車が転がっていれば、その都度ガソリンを抜く必要が出て来そうであった。


 「ま、物が足りないと嘆くよりはいいな」


 自分を納得させるために呟き、青年は運転席側のドアを開ける。そして、カノンは命じられる前に素早く身を躍らせ、助手席に飛び込んだ。


 久しぶりだからだろうか、黒く健康的に湿った鼻がシートの臭いを慎重に嗅いでいる。確かめるように、思い出すように。そして、暫くして自分の居場所であると納得したのか、彼女は行儀良く腰を下ろした。


 青年もまた、小銃を外して運転席に潜り込む。暫く座って居なかったにも関わらず、合皮製のシートは酷く身体に馴染むような気がした。


 念のためシートベルトを締め、足がクラッチとアクセル、ブレーキに問題なく届くことを確認する。


 ふと、お前が座った後は乗り込むのが大変なんだよ、と何処かで聞いたことのある声で、大変無礼な愚痴が聞こえた気がした。


 コートの内から、これまた久しく手に取ることの無かった鍵束を取り出し、キーをシリンダーへと差し込む。


 そして、最早手慣れたギアとクラッチ操作と共にイグニッションへ回せば、暫し寝起きの悪い子共がぐずるように甲高くエンジンが空転し……冬の静謐を劈く、重々しい駆動音が轟いた。


 定期的にエンジンを掛けてバッテリー等にも気を配ってはいたので、駆動に問題は無さそうだ。エアコンの排気口からは、もう吸う者もいないのにしつこく残った煙草の香り混じりの暖かな空気も吐き出されている。


 「さぁ、行くか」


 誰に聞かせるでも無く淡々と呟き、キャンピングカーは緩やかに街路へと雪を踏みしめて這いだしてゆく。青年は最早、随分と世話になった誰の者とも知らぬ家を振り返ることも無い。


 感慨も思い入れも不要だから。どうせもう、此処には二度と戻って来ないし、訪れる者もないだろうから。家人や街の者が戻らないように、きっと誰も。


 次の冬には、今年の雪を耐えた建物も崩れて落ちるのだろう。そして、蕩々と流れる時間の流れに押し潰されて、いずれ村落があった痕跡すらも消え果てる。


 いつか来るはずだった終わりが順当に訪れただけに過ぎない。ならば単なる間借り人に、感慨などどうして抱けようか。


 ここに居たこと、隣町まで物資のため行軍したこと、全ての思いでは最初のカーブを曲がり終え、集落が見えなくなった頃には霧散して消え去った。


 ただ生きている。それだけで満足なのだ。故に忘れるし、忘れられる。


 人は時に記憶に苛まれ、記憶に押し潰される。膨大な思い出と感慨が精神を押し拉ぎ、死に追いやるのであれば、忘れてしまえればどれ程楽か。


 なればこそ、忘れた方が楽だから彼は忘れる。思い出したとしても、懐かしい写真を目にしたのと同じように、また忘れてしまえる。これもまた、狂気の一側面なのだろう。


 人は忘れるからこそ生きていけるが、ここまで記憶に無感動になれる生き物でもないのだから。


 ふと、今まで忘れ去っていた物が脳裏から浮かび上がった。路面を確認する度、ちらと視界に入ってくる四角い機械。


 ちょくちょく娯楽や情報を提供してくれた車載無線だ。死体が動き出した直後は、負けて成るかと音楽を流し続ける個人ラジオ局や、助けを求める通信が拾えたが、それらも何時しか絶えて一つの周波数しか拾わなくなっていた。


 その周波数ですら、冬の間は忘れ去っていた。


 流石にもう生きては居まいか、と考えつつ、青年は座席から手を伸ばして電源を入れた。久方ぶりに紅いランプが灯った無線から、ノイズと空電音が溢れる。


 単なる気まぐれ、理由をつけるにしても不在を死亡確認とする程度の行為。それこそ最後の通信相手を失ってしまえば、デッドウェイトとして放り出しても良い品ですらある。


 まぁ、これで誰も出なければ捨てて、ここにも何かおける物を置けばいいかと考えつつ電源を弾いた指をマイクに伸ばした時……。


 『あー、ご機嫌如何? いえーい、かけようと思ってた所に掛かってくるとか、何コレ運命?』


 何度も聞いた、脳天気な少女の声が無線機から響き、青年は驚いてマイクを取り落とした…………。


今まで最長の間が開いた上、見事に死亡フラグを完遂してすみませんでした。Twitterとか感想欄で生きてるかと棒きれでつっついてくれていた、気の長い諸氏に感謝を。

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