防人と元防人と少女
苦痛に泣き叫ぶ声は最早日常と化していたが、その声は妙に頭に響くものであった。
略奪者の前で男が喚いている。元々はホームセンターから離脱した男達の一人であり、ふらふらと彼らの領域へやってきたので体よく使い走りにした面々の一人。
同時にホームセンターへ突入したカナリア達、その最後の一人でもあった。
最後の一人とは言ったものの、この調子では最後の一人だったと言うべきになりそうだ。襲撃者の首魁、元防人は軽い恐怖を覚えながら思った。
ラフな格好の小汚い男、彼の片足が床に喰われていた。暗視ゴーグル越しに見える緑の視界の中で、詳細は不鮮明ながら男は片足を床にめり込ませて呻いている。
明らかな苦痛の声から、単なる落とし穴でないことは明白だ。
「どうします? 隊長」
別段、彼が苦痛を伴う罠に掛かった為に恐怖したのではない。今まで何度もそういう事はあった。実際、隊を離れて以後、彼の指揮下に入った隊員も二名が戦死しており、今のように使い棄てた駒も少なくはない。
畏れたのは敵の殺意の高さだ。この即席の迷宮といい、迷宮に突入させるための形振り構わぬ手法といい、並々ならぬ殺意を感じる。
それこそ、自分たちがどうなろうと殺してやる。そんな意志が滲んでいるように感じるほど。
「引き上げろ。歩けるなら、まだ使える」
一応命じては見るものの、期待はしてない。世界がこんな有様になってから悲鳴には聞き慣れた。どの程度の痛みによって上げられた悲鳴か、そんな判断すら付くほどに。
今の悲鳴は致命の一歩手前、耐えることの出来ぬ苦痛を伴う絶叫だ。歯を噛み締めようと、相当痛みに慣れていないと飲み下せぬ、体が上げさせる苦痛の証。決して軽い筈があるまい。
それにしてもリノリウムが敷かれた普通の店舗の床に、よくぞ落とし穴など作ったものだ。硬い基礎もあれば色々な構造物も詰まっているだろうに、どれだけの手間をかけたのだろう。
後の擬装もかなり気遣われていた。恐らく、汚れや元々のパターンに合わせて裁断してから穴を掘り、丁寧に隠蔽したようだ。
さもなくば、おどおどとライトで神経質に地面を照らしながら歩いていた男が、こうも見事に引っかかる筈があるまい。
「抜けないな……何か引っかかってるのか?」
「痛い!! やべっ、やめてくれ! いだっ、あぎぃぃぃ!!」
「先にカバー剥がしてみろ」
どうやら単なる穴でないという予想は、嬉しくないことに適中したらしい。二人が脇に手を差し込んで持ち上げようとしたが、男の片足は穴に膝上まで嵌まったままだ。
歩けるにせよ歩けないにせよ、早くしなければならない。ここまで騒がれては、場所を宣伝されているようなものである。的のテリトリーである以上、既にある程度の動向を把握されていると考えてはいたが、それでも密集していると知られるのは良く無い。
壁が薄く弾が貫通することは、此方からの攻撃で証明済み。その上、そこまで壁は高くないのだ。物を放り込むのなど実に簡単なことである。一所に集まっているところへ、先ほどの火炎瓶を投げ込まれたらどうなるか……想像するだけで喉が煙たくなった。
この壁さえ乗り越えて進めれば。低く脆いはずの壁が、今は何より疎ましい。されど、悠長に乗り越えようとすれば、狙い撃ちにされるのは必定。進んで的になれる筈も無く、のんびり進んだ結果が今の様だ。
こんな事になるのであれば、いっそ外から焼き払ってしまった方が良かったかも知れないな。彼の脳裏に、斯様に破滅的で得る物が全くない思考が過ぎったのは、余裕が失せてきた証左に他ならない。
まだかと苛立ち紛れに問おうとした時、擬装を引っぺがしていた一人の配下が声を上げた。詰まるような呻きは、嫌な物を見たと露骨に意志を滲ませている
「ひでぇ……」
口を開けて待っていたのは、落とし穴だけではなかった。悪辣なブービートラップが、その中で歯を開けて待ち構えていたのである。
見た目は例えではなく、人間の口のような構造をしている。大きな落とし穴、その中に折りたたみ椅子が足を上に向けて仕込んであった。
閉じた時に交錯するよう、内側に向けて何十本と錆び釘を括り付けられて。
折りたたみパイプ椅子の構造に従い、穴を踏み抜いた足によって椅子は畳まれ、畳まれた足は釘を肉に食い込ませる。向きと角度を乱杭歯の如く散らされた釘は、がっちりと噛み合って対象を離さない。
だから引っ張り上げようとしても、持ち上がらなかったのだ。錆び釘の歯が並ぶパイプ椅子の顎に、深く深く捕らえてしまっているのだから。
「駄目です、隊長。どうします?」
「……捨て置け。前進する」
「そっ、そんなっ!?」
最早カナリアは使えない。これから先は、自分たちで安全を確保しつつ進むしかない。だが、以前はそれが普通だった。楽だからカナリアを使ったが、居なければ居ないでなんなりとできる。
故に邪魔になったら切り捨てるのだ。使える内は餌をやるが、用を為さないのなら不要なのは当たり前のこと。無駄飯喰いを養ったり、気遣ってやる余裕は無い。
「置いていくのかよ!? こんな、こんな所にまで引っ張ってきて、利用して、置いていくのか!?」
男は必死に喚き始めた。苦痛によって破れかぶれになっているのか、あれ程畏れていた相手にも遠慮が無い。自分を引き上げようとしていた元自衛官の一人に縋り付き、野戦服を涙と鼻水で汚しながら叫ぶ。
それもそうだ。ここで置いて行かれては、生存の目が無くなるのだ。良くて失血死、最悪は以前の仲間に捕まっての嬲り殺しだ。もう何人も殺しているのだから、許されるはずもない。
耳障りな命乞い混じりの絶叫を聞かされて、元防人は心底不快そうに嘆息した。鬱陶しいことこの上ないし、これ以上伏撃を受ける隙を見せ続けたくない。
「分かった分かった、何とかしてやるから黙れ」
「ほっ、本当か!?」
「ああ、本当だとも」
うんざりしつつ哀れなカナリアに近づき、彼は腰元から抜いたシースナイフを首元に突き立てた。
短い刀身が根元まで埋まるほど深く突き立てられると、頸椎の間に潜り込んだ刃が柔らな神経の束を断ち切った。一度体が大きく痙攣し、男の体が脱力する。
即死だ。股間から生暖かい湯気が上がり、悪臭が漂い始める。頸椎を立たれた事により全身の筋肉が弛緩し、色々な物が溢れたのだ。
「これでもう痛みは無いだろう?」
命が失せた体を放り出し、吐き捨てるように言葉をかけた。どうにも死体に対して何か言うことが多くなったが、相手をするのが死体か、これから死体になる相手かのどちらかばかりだったので仕方なかろう。独りの時間が多くなると、独り言が増えるのと似たようなものだ。
「前進を再開する。適度に間隔を開けろ……音がしたら迷わずぶっ放せ。弾を惜しめば死ぬぞ。遠慮は無用だ」
ナイフの血糊を死体の服で拭ってから、言葉の通りに元防人は拳銃を抜いて連続で発砲した。右脇の壁にダブルタップで二回の射撃を加えれば、苦痛の呻きと悲鳴が一つ上がり、ビンが割れる音が響く。
話ながらであっても、彼の耳は鋭敏に物音を察知していたのだ。それが出来なくては、浴びた血糊で鈍く輝く月桂冠と金剛石の記章は身につけられない。
世が亡びた後でも、彼は誇りを抱いていた。より優れた戦闘単位であると示す、過酷な仮定を生き抜いたと証明してくれる記章を。
「……火は付けていなかったか。惜しいな」
防人として卓越した技能を持っていた人間が、その技能を本能のまま殺戮に傾ければ如何なる光景が繰り広げられるか。それが今の有様だ。
だから男は混乱の中を生き抜けた。部下を掌握し、彼らをカバーしながら。そして今も生きている。
「さぁ、じゃんじゃん殺すぞ、行け」
この現実に意味と理由は無い。技能があり、生きるという本能があったから、結果が追いついてきただけに過ぎないのだ。
別に元防人は残酷でもなければ冷酷でも無い。生き物が目を背け、分担していたことを淡々と自らの手によってこなそうとしているだけのこと。
すなわち、殺して喰らうことだ。例え喰らうのが相手の持っている物資であり、殺した相手自身でなくとも結果は一緒だ。
人の皮を被った獣でもなく、獣であることを強いられた人でもない。
ヒトという名の獣が、あるべき姿に還った。
この一夜の暗い殺戮は、本当にただそれだけのシンプルな出来事に過ぎないのである…………。
連続した射撃音が響いた。
聞き慣れた装薬が弾け、5.56mmの弾丸がばらまかれる音。伴うのは悲鳴と、苦痛混じりの助けを求める声。
しかしそれも、直ぐに止んだ。
「第二斑、失敗しました」
「KIAか」
「恐らく」
無線機が乱雑に並べられた折りたたみの机と椅子が並ぶのは、急造の指揮所であろうか。傍らには店舗用の折り畳みコンテナが積み上げられ、中には弾薬の箱と弾倉が几帳面に積み上げられていた。
俄拵えの指揮所に座するは、これまた俄拵えの民兵以下な自警団を指揮する自衛官。記章を持たぬ、予備の野戦服を着込んだ壮年の防人は短くなった煙草を灰皿へと突っ込み、自らの前に広げた地図を睥睨する。
「攻撃頻度を下げる。第三斑は予定変更、撤収だ。通路はきちんと塞がせろ。敵さん、弾を惜しまんつもりだな」
「了解。第三斑、攻撃中止、下がれ」
アンテナ部分にビニールテープを巻き、ナンバリングが施されている無線機を取って椅子に座った防人の配下が指示を出した。短い返答の声が入り、彼は地図に手を伸ばしてマグネットの駒を動かす。
大判模造紙の地図には神経質に測量されたホームセンターが描かれており、その中では巨大な迷宮の俯瞰図が、まるで巨大な生き物の臓物の如くのたくっていた。
幾何学模様の棚で作られた迷宮の地図。渦巻きを描くような経路で中心部へと近づいていく構造のそれは、幾つもの通路で螺旋の道が穿たれて交通の便を維持されている。
しかしその通路には、全て朱いピンが穿たれていた。封鎖されている証拠だ。
棚は軽く、大人が三人も押せば動かせる重量だ。それも頑強ながら工具があれば着脱は容易な固定具を外せば、動かしやすいようにキャスターを後付けしてあるともなれば、尚更簡単に構造を変えることができる。
となればどうなるか。
「先行した消火斑から連絡。消火作業は終わったそうです」
「そうか。下がらせろ。ルート指示は任せる」
「了解。消火斑、三番から五番、一一番を経由して離脱しろ。連中、耳が良いぞ。できるだけ音を立てるな」
壁を動かすことによって、迷宮をショートカット出来るのだ。足回りは視界を遮る板で隠してあるため、どれが通路になる壁なのかは制作者側しか知らないし、知っていても固定具があるので利用はできない。
何もかもを吹っ飛ばし、棚も労力をかけて破壊する戦法をとられれば無意味ではあるが、真面目に迷宮を攻略してくれている限りは完璧に機能する。
それに、強引に破壊したとしてもちょっとしたサプライズが用意してあったのだが……それくらいは敵も予想するらしい。最悪かより最悪か、賢い選択ができる相手と殺し合うのは実に厄介であった。
なればこそ、相手より素早く展開し、アンブッシュのために部隊を動かせるアドバンテージを生かしたい所ではあるのだが、結果はご覧の通りである。
どれ程のアドバンテージとて、技能不足により生かせぬのならば意味が無い。せめてもう少し訓練機関があればと、防人は無い物ねだりをする自分を止められなかった。
「敵の様子は」
「変わりません。一二番を移動中……あ、ブービートラップ、無効化されました」
しかし、アドバンテージは一つではない。迷宮によるアンブッシュは敵の位置が把握してこそ生きるものであるから、彼らはそれすらも完璧に掌握する術を用意していたのだ。
ここはホームセンターと家電量販店の複合施設。幾らでも役に立つ代物がある。迷宮には無数の“目”が配置されていた。
壁に空いた小さな穴。その向こう側には、巧妙に隠蔽したWEBカメラが配置されている。小型のバッテリーで駆動する、家から子供やペットの様子を観察する為の物で、短波無線でも映像のやりとりができる有り触れた品。
されど有り触れた家電であろうが、使いようでは絶大な戦術的アドバンテージを稼いでくれる。迷宮における敵の位置が分かれば、移動はいよいよ以て安全になり、効率的に目的を果たせるのだから。
「一個も引っかかりませんね。掛かったのはデコイだけですよ」
「当たり前だろう。曲がりなりに本職だ。それに……指揮官は動きが良いな。空挺かレンジャーか……」
迷宮にはお約束のトラップも大量に仕掛けてあった。踏み抜けば釘が鋭い先端を覗かせる落とし穴や、先ほどカナリアにされた男が引っかかった虎鋏の落とし穴。
他にもワイヤーを踏めば火炎瓶が落ちてきたり、引き金に直結させた機構が発動して銃撃されるMP5も少数だが配されている。
闇の中では見えぬよう、巧妙に黒く塗って隠してあるのだが、敵はそれすらも見破って慎重に、それでも確実に中央へと近づきつつあった。
「なんて腕だ……もしかしたら特戦群かもしれませんね」
「いや、それはない」
軽口に近い発言であったが、断言しての否定に配下は驚きを得た。確実でないことは言い切らないのは、軍属の常だ。あらゆる状況を想定するのが彼らなのだが……。
「それはそうとして、上はどうなってる」
「二分前に行動を開始してますが、どうなってますかね。流石に俺も狙撃戦の知識はないんで……普通科出身ですから」
質問しようとした口は、結局投げかけられた問への返答に用いられた。あれ程までに断言する理由が気にはなったが、それよりも重要な話題ともなれば遮るわけにもいかぬ。
「彼奴の結果如何でどうなるかが決まるぞ。血生臭く行くか……或いは」
「最良の結果に行き着くか、ですか」
「そうだ」
防人は肯定しつつ、新たな煙草に火を灯す。手の中にあるパッケージの感覚は、咥えた一本が最後の物であると教えてくれた。
在庫も心許ない。そろそろ禁煙する時期かと彼は悟る。それにどのみち、今後は運動する機会が増えそうだ。煙草は何にせよ、辞めることになったであろう。
これもまた、良い機会なのかもしれない。
「戦略は勝つか、より大きく勝つかで立てにゃならん。さて、俺らにとっての価値は何かと考えりゃ……」
「結果は自ずとついてくる、ですね」
「ああ……。くそ、第五班がやられたな」
モニターの向こうで閃光が瞬き、無線機から悲鳴がまた一つ。今度は長く響いているので、生きては居るのだろう。これからも生きていられるかは、当たり所次第だが。
「なんであの距離で聞こえて、剰え当たるんだよ……プランを修正します」
「少し離れたら予備部隊を出して引っ張り上げさせろ。時間ねぇぞ」
「了解」
配下が忙しく地図上の駒を動かしはじめるのを眺めながら、防人は最後の一服を噛み締めつつ、天井を見上げる。正確には、その更に向こうに居るであろう一人の少女を。
「俺らの利益がお前の利益に繋がってる……そうであればいいんだがな」
男は焦れながら待っていた。確かに大事なポジションであるということは分かっているのだが、だとしても仲間が戦い、窮地に立たされている中で蚊帳の外という状況は辛い物がある。
例え銃を構え、敵の拠点を俯瞰しているとはいえ、実質的に戦況に関われないのであれば無いも同じだ。
「おい、落ち着け」
「分かってるよ……俺は冷静だ」
慌ててる奴ほどそういう。冷静な指摘を受けて、慣れない仕事に従事する男は舌打ちを零したくなったが、また窘められるのが嫌だったので何とか内に留めることに成功した。
確かにハラスメント攻撃を行うのであれば、スポッターに支援を受けた狙撃手というのは重要だ。しかしながら、亀のように籠城して頭すら出さぬ敵に攻め入るのに、果たして狙撃手がどれ程役に立つだろう。
以前から敵は狙撃を警戒し、過剰なまでに対策を施していることもあり、外から狙える場所など何処にも無い。だのに自分たちを此処に貼り付ける意味は、一体どこにあるのだろうか?
そもそも、正規の狙撃手は以前の戦いで肩に弾を貰い、依然傷の治りが良く無くて後方待機だ。確かに腕に覚えが無くはないが、無理繰り人員を割いてまで自分を臨時の狙撃手に当てる理由が分からない。
敵が打って出たり、逃げる可能性があるならまだしも、あそこまで頑強に籠城の姿勢をとっているのだ。それならば、慣れた小銃手が前線に一人でも欲しいはずだというのに。
なのにどうして、首魁は自分たちを此処に配置したのか。腕は良くとも、専門の狙撃手として教育を受けていない人間まで選び出して。
もしや、お荷物だと思われたのだろうかと一瞬暗い思考が脳裏を過ぎった辺りで、彼は脇腹を隣に伏せた相方に小突かれた。
「何だ?」
「見えないのか馬鹿野郎。屋上の扉が動いたぞ」
慌ててスコープを覗き込み、緑がかったナイトビジョン越しに屋上を浚う。隣に伏せる相方は正規のスポッターであり、目の良さは折り紙付きだ。
だから敵が見えた。まるで此方の視界を遮るよう、夜中だというのに幾枚も干しっぱなしにされたシーツがはためく屋上の中から。
「……お前がもう少し早く反応できたら撃ててたぞ」
「悪かったな、俺はただの小銃手だぞ……多少覚えがあるだけでな。で、何処だ」
「さっき見た時は左から三番目のシーツの影に、鼠みたいに潜り込むところだった……出入り口の近くだ」
鼠というには、立派なガタイの野郎だったがという感想を聞き流しつつ、スコープで屋上を浚う。しかしながら、明るく補正された視界の中ですら、人影を見つけ出すことは適わなかった。
慎重に伏せているのだろう。そして、此方を探しているのだ。
されど、敵が慎重に隠れるのと同じく、此方も擬装に擬装を重ねている。グレーの床と同色に塗ったレジャーシートを引っ被り、以前とはまた別のアパートの屋根に寝そべれば、高低差もあって楽には見つけられない。
素人のように縁から銃身を突き出すような馬鹿もやらず、予め狙いを付けやすくなるよう、屋上の縁をハンマーで砕いて作った銃眼から狙いをつける念の入れ様だ。
その上、高さも申し分は無い。窓は全て銃眼の射界に入っている上、屋上から狙おうとするには立射するほか無い絶好の角度。
極めつけに、此方からは屋上の半ばまでは視界に入っている。
ここまでやって一発も撃たれずに見つけてくるのは、それこそ本職の中でも最上位の怪物くらいであろう。
完璧に隙の無い布陣である。まともに戦うのであれば、砲撃でもせねば対処が難しい陣地。強いて隙があるとすれば……人間という不完全な部品の存在程度のものであろう。
そして、焦れるような時間が過ぎた。
動く物は無く、時折夜気を裂いて小銃の発砲音が聞こえてくる。静かな夜だ。仲間達が戦っている音は、二〇〇m以上離れていても妙に頭に響いてくる。
人差し指が無意識に動いた。仲間が戦っているという状況と、敵がいるという感覚に指先が逸る。狙撃手は延々とこの感覚を抑え、自分の精神と戦わねばならぬ。それこそが狙撃手の最大の敵だ。
そして彼は、下手な選抜射手にも負けぬと自負するだけの腕こそあれど、結局は小銃手に過ぎない。狙撃手と選抜射手は、役割こそ似れど性質は全く異なるのだ。
早く動け、姿を見せろと意識が先行し、無意識に銃把を保持する手に力が入り指先が引き金にかかる。慣れた人間でも、この時間は辛いのだ。殺すか殺されるかが交錯し、決定的な瞬間が訪れるまでの間隙は、ただただ重い。
幾度も殺し合いを経て、戦いの緊張になれた精神でさえ軋む重圧だ。前線とは違う空気は、慣れぬ身と精神を確実に蝕む。
また同時に、やっと出番が来たと心が躍ってすら居たのだ。自分たちだけが殺戮の蚊帳の外に置かれたと考え、彼は不満を覚えていた……酔うことを覚えてしまったのだ。殺しによって流す血に。
「見えたぜ早漏野郎……!」
だからこそ彼は見逃さなかった。ほんの一瞬だけ、屋上の縁から覗き込むように伸ばされた頭を。帽子を被った頭部のシルエットに即座に狙いを付け、引き金を絞る。
「馬鹿待てっ!!」
スポッターからの静止は聞こえなかった。否、聞こえたとしても無視していただろう。早く撃って解放されたかったのだ。言いしれぬ重圧感から。身じろぎすら出来ぬ緊張を伴う、ただ待つだけの時間から。
この緊張を撃ち払ってくれるのは、銃声と死だけなのだ。
屋上に銃声が轟き、視界の中で頭部が弾ける。音を置き去りに飛ぶ高速弾は、スコープの向こうでは正しく間を開けずして着弾した。
そして、当然の帰結として穿った物体を破壊する。緑色の視界の中でコントラストを描く黒い頭がはじけ飛び……冗談のように飛んでいった。
「……ああ?」
「だから待てと言っただろう、馬鹿野郎が。挙動が不自然だった……マネキンの頭か何かだ」
苛立ちを隠そうともせず、スポッターは大きな舌打ちを零した。何時もの狙撃手であれば、こんな馬鹿はしなかった筈だ。直ぐに不自然さに気付いたであろう。あの高さの縁から頭を覗かせようと思えば、頭があの角度で見え始めるのはおかしいと。
要は此方の動向を探るためのデコイだ。ヘルメットの代わりに、帽子を被せたマネキンの頭部を使ただけの古式ゆかしい方法である。昼間から用意されていた、シーツの遮蔽と同じように準備していたに違いない。
やはり門外漢には、狙撃戦の空気は重かったのだろう。例え素人相手の鴨撃ちであっても、慣れぬ空気とは短時間であっても毒になるのだ。
それも、仲間すら蝕む毒に。
「お前のせいでこっちの位置はバレたぞ。少なくとも、二〇〇は離れた状態の相方に暗視装置もまともなスコープも無しで当てた奴が居るんだ……一発撃てば大雑把な位置位は掴むさ」
「……すまねぇ」
「猛省しろ早漏野郎」
暢気な鴨撃ちが殺し合いに早変わりだ。引き金一つで全てが変わるのが、遠距離射撃戦の世界である。良くも悪くも、であるが。
「前と違って別地点に隊長は伏せてないんだ。もう一方的な殺しじゃない。殺し合いだ。意識切り替えろ」
「分かってら。同じポカはやらねぇよ」
久しぶりに感じる命の危機にスポッターは、どうだかと軽口を叩きながらも、無意識に頼りとする単眼の望遠鏡を強く握り込んでいた…………。
「あっ……ぶねぇ……」
屋上の縁に背を預け、片手には手鏡を持ち、もう片方の手を痛そうに振りながら長駆の少女は呻くように呟いた。
少し離れた所には、後頭部の辺りが盛大に吹き飛んだマネキンの頭部が転がっていた。元々はスポーツショップでウェアを着ていたものだが、デコイとして使われた結果がこの有様だ。
「畜生、やっぱ良い腕してんなぁ、流石本職。でも場所は掴んだぞ、コノヤロー」
いつも通りの軽口を飛ばしながらも、正直言えば余裕は無い。マズルフラッシュの位置から予想できる距離からして、よくぞまぁ一発目で当ててきたものだと関心させられる。
相手は相当射撃が上手い。以前排除した敵と同じか、少し下という程度であろう。
だが、狙撃手ではない。簡単な探りに乗りすぎだ。自分の存在が露見しているものと見込んで探りをかけてみたが、予想は悪いことに当たっていた。
されど本物の狙撃手であれば、これほどベタな誘いには乗るまいて。
恐らくスポッターが本職で、射手は単なる射撃上手を代わりに置いているのだろう。戦力が幾らでも欲しい状況だろうに、来るかも分からない所に戦力を置くとは豪儀な話だ。
「だけど、もう逃がさないかんね……流石に動かんでしょ。移動なんて始めちゃ、次のポイントに到着するのは何分後かな?」
少女は獰猛に笑い、胸元に抱いたカービンの銃把に手を添えた。馴染んだ相方の感覚は、例え一月近い独房暮らしの後でも萎えてはいない。数度の試射をホームセンター内で実施済みで、慣らしも終えている。
此処は良くも悪くも地方都市。背の高い建物は限られており、狙撃地点として使える屋上がある建物となると数えるほどだ。ラペリングなりで移動したとしても、準備を終えるのに短くて十分、よくすればそれ以上の時間を必要とするだろう。
移動して安全を欲すれば、相手は血液より大事な時間を失うこととなる。この戦局で一〇分以上の離脱となれば、殆ど無効化したと言いきっても良いほどだ。
「しかし、敵さん殺意高いなぁ……ほんとに居たよ、狙撃手。一人たりとて逃がさない気なのかね」
匍匐で角度に気を付けながら、シーツの後ろへと逃げ込む。月光によって姿を照らし出されない位置取りであれば、絶好の隠れ家だ。尤も、遮蔽としては何一つ期待ができないが。
「いやぁ、チビ共が急にやって来るから何事かと思えば……やっぱおやっさん、ガチになると凄いなぁ」
少女が此処にいる理由は一つ。防人が差し向けたのだ。もしも野外に敵が居た場合の備えとして。
少女は最初、流石に攻城戦で乗り込んでくるとなれば、敵も戦力の分散はしないだろうと思っていた。投入できる戦力は全て、中の敵を鏖殺すべく差し向けられると。
故に屋上なんぞに向かっても、敵は居まいと思っていたのだ。
だが、彼女の想像を裏切って敵は居た。狙撃手とスポッターが一人ずつ。完全に殺すことを念頭に置いて組まれた配置……それも、逃げる敵を殺す配置だ。
窓から攻撃しようとしているのではない。此方が狙撃に怯え、窓を塞いでいるなど敵とて百も承知。その上で籠城を決め込んだのなら、外からの射撃でできるのは、精々嫌がらせくらいものだ。その嫌がらせとて、相手が奥へ奥へと引っ込んでいけば、弾の浪費でしか無い。
だのに態々貴重な戦力を裂いた意図が何処にあるのか。
彼らは蓋なのだ。外という逃げ道に置かれた蓋。逃げ出した敵を殺すべく配置された、最後の敵である。
要は生きて帰すつもりが無いのだ。ただの一兵、否、一人の生存者とて残さず、完全にブラッドバスに仕立てる心算なのである。そのためには、やけを起こして外に逃げだそうとした敵ですら狙える要員が必要だった。
成る程あの位置であれば、何処からであれホームセンターから出ようとすれば通らざるを得ない駐車場の入り口が狙える。高く塀を補強したが故に、出口を狭める結果にもなっていたのだ。
何が彼らをここまで突き動かすのか。物資が欲しければ、そこまでする必要は無かろうに。最後の一人まで殺し尽くすだけの理由など、何処にも無いはずだ。
にもかかわらず、彼らは実際にやろうとしている。完全な皆殺しを。使える戦力まで裂いて……。
「ま、どうでもいいさ」
少女は笑った。結局の所、相手に都合があるように自分にも都合があれば、別に相手の都合を斟酌してやる必要など無いのだから。相手が自分たちに情けをかけぬのと同じように。
相手が如何なる狂気を秘めていようと、それは相手の狂気であり、外側での出来事だ。狂人は狂人を知るが、決して共鳴するような存在では無い。
個として完結するからこそ、狂人は狂人なのである。
ならば少女としては、相手が如何様な殺意を抱こうが、どのような理由で皆殺しを画策しようが知ったことではない。殺そうとするなら、殺し返すだけの単純な図式なのである。
その先に自己が気楽かつ安穏と生存できればいい。例えその場所が、千の屍の上であったとしても。
「此処で私が連中を殺せば無罪放免……ま、取引としちゃ妥当かな。病み上がりにゃきついけど……」
安全装置を外しながら、少女は獰猛に牙を剥きながら笑った。長い犬歯が月明かりを反射して、瞳が鈍く輝く。
「自由の駄賃が命がけの狙撃戦。悪かないが、安くも無いよねぇ」
振りかざされる狂気に別種の狂気が牙を剥く。相手が狂っているのと同じように、此方は此方で狂っているのだ。ベクトルが異なるだけで、相手を殺す気に充ち満ちているのは一方だけではないのである。
狂気を制するのは圧倒的な理性……或いは、それすらも塗りつぶす狂気。
「さー、格好良い兵隊のお兄さん方、ファックしてやるぜぇ」
舞台に昇った狂人は微笑み、仕掛けに手を伸ばす。勝つために、殺すために。
そして、生き残る為に…………。
後二つ三つと言ったな。アレは嘘だ。
すみません、もう少し伸びそうです。終わりと言えば終わりなんですが、そこまで持っていくまでに冗長にしたがる悪癖が……。次はもう少し早く投降できるよう、努力しますので最後までお付き合い願えれば幸いです。