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防人と元防人

 職業軍人とは正しく良くできた言葉である。


 兵士であることを職責とし、兵士として国防に務めるという職務によって糧を得る。近現代における軍人の基本であり、要は国家との雇用関係にあると示す言葉である。


 専門の軍人であると同時に公の僕であるのだが、その本質は使用人、金を持って雇われる人間だ。


 つまり、護国の忠誠に身を捧げたのではなく、賃金を得る為だけに志願した人間すらも含むということである。軍人と国家を繋ぐものは忠誠でも無ければ互恵でもなく、あくまで雇用関係に基づく。


 否、古来より軍人なんてそんな物だ。国家のため誰かの為に働いた人間も多かろうが、打算と妥協の結果として国に身を捧げた人間が居ないとは誰にも言えまい。


 資本という歯車に回される世界において、小さなギアの一つに過ぎない人間は、自らの機能を維持するために金銭という油を必要とする。


 端的に言えば、油を何処から手に入れるかなどギアそれぞれなのだ。会社の為に労働するものもあれば、創作活動に身を投じる者もあり、故国の外に飛び出して上質な油を探しに行く者もある。


 そして、その男は自らの油を自衛隊に求めた。ただそれだけの話である。


 されど、彼に愛国心が無かったのかと言われれば、それもまた否である。彼にも自衛隊員になった以上、矜持があり責任感もあった。有事には隊員として身を捧げる覚悟を持ち、自らの錬磨も欠かさない、兵士としての認識を持ち続けたのだ。


 彼は彼なりに自分が産まれた故国と、家族が住む世界を愛していた。なればこそ糧の為に防人となりながらも、防人としての自覚と誇りを持てたのである。


 きっと戦が起こっていたとしたら、彼は軍人として国に殉じ、死ぬことを厭わなかったはずだ。防人として、防人らしく。


 されど故国と家族亡き後に、そんな錆び付いた誇りを持ち続ける意味が何処にあるのだろうか?


 故国は滅んだ。国体は既に無く、最早行政と呼べるものは存在しない。国家指導者は何処へと消えたのか。


 もう死んでいるのだろう。もしくは、何処か安全な所へ逃げ去ったか、或いは絶望の末に自裁せんとしているのか。


 結果は分からないが、結末は一緒だ。既に日本国は存在しない。恐らくは、連なっていた多くの国々も。


 初期対応が遅れに遅れ、動く死者となり得る因子を持った患者は全国にいた。熱病と死病の判別が曖昧であるが故、多くの病人が病院で死に、そして蘇った。


 その上、熱病によって死した者達は瑞々しく、暫くは顔色の悪い生者と区別が付かないのだ。市民団体からの突き上げや、市町村からの要請。様々な要素が組み合って、国は最悪の手段を執る。


 動く死者を傷つけること無く確保せよ、と命じたのだ。警察や自衛隊に。いや、命令が下された時は動く死者、という敵の実態すら把握していなかったほどである。事態の把握が完璧に行えないほど、事態は急激に進んでいたからだ。


 その結果、自衛隊は本来容易いはずの敵の殲滅に失敗する。


 防衛線を敷き、市民を守り死体を撃ち払うのは実に容易かっただろう。5.56mmに12.7mmを雨あられと浴びせれば、防具も何もなく、愚直に進む死体なんぞ射撃訓練の的以下だ。


 されども、傷つけること無く確保するとなれば……誰にもできない。多くの者が噛み付かれ、負傷し、時には血を浴びて感染した。


 誰かが叫んだだろう。国防省にはロメロ映画の一つも見たことのない奴ばかりかと。


そんなことはない。その手の映画が好きな者も居ただろう。しかし、どうして公の職場で口に出せようか? 愛好している映画の怪物と、症状が同じだから同じように対処してはなどと。


 行政、ひいては国は指導者であると同時に国民の下僕でもある。支持を失えば成り立たぬ故、国民の扱いには繊細にならざるを得ないのだ。


 もしもあれらを動く死体と早期に断ぜられた所で、容易く撃滅せよとは命じられなかっただろう。どの国家、民族でも遺体は尊ばれるべきものだからだ。


 よしんば事態の収拾がついたとしても、その後はどうなるか? 政治家は、後の事を考えざるを得ないのだ。今なんとかしなくては、後に続くことすら出来ぬと知りながら。


 そして知事の要請がなされ、男は絶望的な作戦へ投入された。


 混乱する人間。生者と死者の区別も曖昧で、装備はどれ程危険が迫っても使用を許可されない。大勢の同期や戦友、部下が彼の目の前で倒れていった。


 ある者は首筋に噛み付かれて出血多量で果て、ある者は複数の死体に引きずられて物陰に消え、最後の姿を見ることすら適わなかった。


 酷い場合では、守ろうとした国民に蹴散らされ、まるでラグビーボールのように群衆の中で踏み倒されて死んだ者もいる。


 死者が歩き回り、自らも死病に冒されているのではと混乱する民衆の中で、彼らはあまりに無力であった。


 戦えたなら、抗えたなら、彼らは戦を棄てた国の防衛組織として十全以上に働けただろう。国防の盾として死体の波濤から国民を守り、矛として亡骸の軍勢を焼き払えた。


 だが、そうはならなかったのだ。


 指揮系統が混乱し、防衛線は感染と人混みによって蹂躙され尽くし、統制を完全に喪った部隊は離散していった。


 全てが混乱と混沌によって粉砕される中、彼にできたのは、自分の部下と幾らかの隊員を掌握して逃げ延びることだけであった。


 手元に残ったのは一個分隊と少しの隊員と、逃げる時に使った幾ばくかの物資が残るトラック。後は自分の命と装備だけ。


 最早彼らの手に力は無く、無茶な任務で疲弊した体と精神で立ち上がることは適わなかった。死体の波濤に立ち向かい、他の生き残った国民を助けるだけの気力も湧かなかったのだ。


 鍛え上げられた防人の心が折れる。それほどに死体と感染者、そして生者が混在する戦線は地獄だったのである。


 それから数日後、逃げ込んで籠城したマンションの地下駐車場で、彼らは車載ラジオからあらゆるチャンネルの放送が拾えなくなったことにより、国が滅んだのを知る。


 死体が歩き回るようになってからは、ありふれた悲劇であった。同じように壊乱し、何とか寄り集まって生き延びた部隊は幾らでもあったのだ。自衛隊にも、在日米軍にも、きっと別の国の何処かでも。軍人とは装備と鍛え上げた体のバイタリティという武器があるため、ホラー映画と違って一般人よりずっと生き残る要素を持っている。


 ありふれた悲劇に取り残された多くの部隊は、現状に見合った行動を取り始める。例えば青年達が滞在した小学校の部隊や、ホームセンターに避難した民衆と合流した防人達のように、指揮から外れて尚も自衛官として職責を果たさんとした部隊もいた。


 彼らがどのような末路を辿ったかは分からないが、今も抗い続けている者が居るのだ。防人として、民衆の盾として。


 しかし、彼は違った。盾を間違った使い方と環境に晒し、朽ちさせた亡国に殉じる意味が何処にあるかと考えたのだ。


 最早給金を与える存在はおらず、義務を果たした後に権利を保障してくれる客体も存在しない。であるならば、生存するという生命の本分を誰が果たし、誰が保障するのか。


 自分だ、自分でしかない。この死体蔓延る世界、恐らく家族も果てたであろう様でありながら、自分は生き延びた。ならば、自分が自分を生かさずしてどうするのか。


 彼に死ぬ気は無かった。死のうとする部下もいたが、死に意味を見いだせなかった。ここでの死は敗北だ。勝利と呼べるものはなくとも敗北はできるが、だからといって進んで敗北を容れてやる道理などありはしない。


 生き残ったのなら、生きればいい。死ぬまで生きてやればよいのだ。結局、生き物なんてそんなものであると嗤いながら。


 斯くして亡国の防人となることを嫌った男は、防人である事を止めて略奪者に姿を変えた。配下と銃を持った愚連隊だ。彼らが何をして生きてきたかは、敢えて語るまい。


 此処に辿り着くまで、ただ同じ事を繰り返してきただけなのだから。そして彼らは、此処に至っても同じであると考えていた。


 考えてしまっていた。


 亡国に仕える防人が、未だ折れずに防人のままで残っているなどとは知らず…………。












 「あ、あれ?」


 困惑した声が闇の中に響いた。ライトが作り出す一条の光、その担い手が声の主だ。


 「か、階段室が溶接されてやがる……」


 元避難民の離脱者。鉱山のカナリア代わりに狩り出された男の一人が、上に通じる階段、正確には階段があった場所の前で素っ頓狂な声を上げる。


 彼らが突入したのは、二つある一階ホームセンター部分店舗の入り口なのだが、無論何となくで突入口に選んだのではない。


 二階に続く階段やエレベーターがある通路に通じており、そこを確保することによって全ての階への侵入口を確保できるからなのだ。


 一階より上に行くには階段とエレベーターを使うか、外にある業務用エレベーターを使うしかない。


 しかし、その階段の一つに通じる階段室の扉が完全に溶接されていたのだ。金属製の耐火扉は硬く閉ざされ、幾本もの金属棒で補強されながら頑迷に行く手を遮っている。


 これを破壊するには爆薬でも持ち出すか、気長にトーチで炙るなり工業用のカッターで気の遠くなるような作業を必要とするだろう。


 そして言うまでもなく、隣のエレベーターは電源が落ちているので使えない。こじ開けるのは不可能とまでは言わないが、陳腐なスパイ映画でもあるまいし、シャフトから上れるはずもないので問題外である。


 「他にも二つあるだろう」


 呆然として封印された階段室を眺めていた元避難民の背中が小突かれる。小突いたのは夜戦服を着込みドーランを顔に塗りたくった男で、そのヘルメットには暗視装置が器具で据え付けられていた。


 元防人が助け出し、今まで付き従ってきた部下の一人だ。文明社会の頸木より解き放たれ、原初の生存競争に身を投じることを是とした獣たちの一人。


 この場には彼と同じ装備をした者が四人続いていた。防人を含めての四人であり、指揮をする彼は兵士とカナリアを前後に配した隊列の真ん中に居る。指揮がしやすく、かつ奇襲を受けても一撃で倒されにくい陣形を取らせているのだ。


 皆、きちんと整備の行き届いた小銃で兵装しており、サイドアームも身につけている。といっても、幹部だったのは首魁である元防人だけなので、手に入れたものを適当にぶら下げているだけではあれど、実用レベルではあるので問題は無い。


 丸腰なのはカナリア達だけ。いざという時は“肉の盾”として反撃までの時間を稼いだり、遮蔽物として使われるので、彼らもまた見ようによっては武器であろう。


 避難民の背中を小突き倒し、少し距離を取って警戒しつつ前進する。トラックがつっこんだ衝撃で、少し崩れた入り口を迂回し、同じ面にある階段へと向かった。この建物、職員用エレベーターと職員用通路を除いたら、片側にしか上への道が無い極端な構造をしているのだ。


 「……ああ?」


 一階に入り込んだにも関わらず、全く迎撃を受けないので防衛線として一階は棄てていると判断した彼らは、上への道を求めたのだが、今度は二つ目の階段があった所で足が止まった。


 「階段が……ねぇ」


 階段が無くなっていたのだ。本来ならば鉄骨を基礎に組まれた、下が空いてショッピングカート置き場になった階段があったはずなのだが、忽然と姿を消している。


 後には盛大な破壊痕ばかりが残る基部と、雑に塞がれた天井だけが残されていた。二階に昇る手段としての機能は、永久に果たせそうに無い。


 「……なるほど」


 どうやら上に大事な物を集積しているのは事実らしい。警備室が一階にあったりする都合と、生活スペースがホームセンター部分に多かったのでそちらに物資が多いと離脱者は語ったが、敵は本格的に侵入へ備えるため一階を棄てに掛かったようだ。


 侵入口を一つに絞れば、仮に一階が敵の手に落ちても長く戦える。攻撃できる場所が少なければ少ないほど、守勢側には有利だからだ。


 そして恐らく、擲弾の脅しを切っているので、二階も窓側には人を配置してはいないだろう。建造物吹き飛ばされることを嫌って慎重になっている筈。援護のため、見晴らしの良いマンションの上に配置した二人の部下は遊兵になりかねないと、元防人は考えた。


 「あの……どうします?」


 「エスカレーターの方も確認しろ」


 最後に残るのは別の入り口付近に設けられたエスカレーターである。此方は階段と違って完全に解体することはできないだろうし、流石に残っているだろう。


 それに移動できる階段を全て潰すなんて無茶はしないはず。二度と一階に下りないという生活を送れるはずもなければ、窓から昇降なんぞやっていられないのだから。そちらは最低限、移動可能な状態にある……。


 そう思って回り込んだ彼らは、再び驚いて言葉を失うこととなった。何故なら、登りと下り、どちらのエスカレーターも山ほどの家具で完全に塞がれていたからである。


 椅子や本棚をはじめとする、大凡ホームセンターで扱っていそうな家具の類いが、エスカレーターの先頭から後端までを余すこと無く塞いでいた。


 針金やワイヤーで互いをがっちりと固定しあい、押そうが引こうが小揺るぎもしそうにない偏執的なまでの固定。ここまできっちり積み上げてあれば、最早子猫ですら通り抜けることは能わぬだろう。


 「これは……」


 「マジかよ……なんだってここまで」


 以前の居住者達は、異質なまでに様変わりした古巣に感嘆の声を上げる。これほど頑丈にバリケードを組んでしまっては、自分たちも不便であろうに。一階に下りるための階段は、もう職員用通路の物しか残っていないのではなかろうか?


 そちらへ回り込もうとするのであれば、ホームセンターの店舗部分を抜けねばならない。しかし、それはそれで実に困難そうであった。


 救いを求めるように動かされたライトが、背の高いバリケードと狭い入り口を照らし出したからである。


 何とも無しに元防人は、自衛官時代に使った屋内戦闘訓練用の模擬建造物を思い出した。壊れること前提で作られた、即席の訓練施設。目の前に広がるのは、そんな施設を想起させる即席の迷宮だ。


 ホームセンターには商品を陳列する、背の高い棚が無数にある。三m近い棚の群は板を打ち付けて対面を覗けぬようにして、配列を変えてやれば頑強な壁になるのだ。


 壁の下端を見やれば、ボルトが何本も撃たれたL字の金具で地面に貼り付けにされているではないか。耐震装備で補強された壁は、タックルした程度では微動だにするまい。


 脆い迷宮であれば、壁をたたき壊して付き合わないという選択肢ができるのだが、それは無理そうだ。吹き飛ばせる装備もなければ、壊す道具も足りていない。


 となると、まともに付き合って迷宮を攻略するしか術は無いように思えるのだが……。


 人二人がすれ違おうとすれば肩がぶつかるような通路が、暗闇の中で暗渠のように口をぽっかりと開けている。間違いなく、碌でもない道だ。あの先は間違いなく罠や殺し間が、これでもかと言わんばかりに仕掛けられているのだろう。


 果たして、抜けるまでに何人が呼吸を止める嵌めになるであろうか? 想像するだに恐ろしかった。正しくマンパワーの浪費でしかない。


 元防人は無意識の内に舌打ちを零していた。予想以上の防備だ。自分たちに何ができるかを気味が悪いほど冷静に考え、敵が嫌がることを徹底して行う。基本なれど難しいことを忠実にこなしているではないか。


 今まで襲った、どの共同体とも違う。無茶な水際防衛を試みて、狙撃や擲弾で崩れていった者達とは。


 火力が怖いのであれば、発揮できない所へ誘引すればいい。包み込むように殺せば、恐ろしい擲弾も小銃弾も無いと同じであるのだから。


 「……別の入り口から再突入を試みる」


 あの迷宮に正面から挑むのは愚策だ。ならば、こちらも相手にしなければいいまでのこと。トラックは念のために二台用意させてあり、待機している狙撃斑が動かせるよう準備済みだ。


 それに必要とあらば、狙撃斑はその場に残し、そこそこ信頼できる程度に躾けた別の避難民を使うこともできる。痛みと恐怖は最適の教育だ。半端な人間でも、兵士の使いっ走りくらいには仕立てられるのだから。


 水際での迎撃を諦めているということは、撤退もそこまで困難では無かろう。何かの役に立つだろうと持ち込んだ、発煙筒を焚きながら寄せてきたトラックに乗り換えれば良いのだ。


 それに入り口とは必然的に出口にもなる。破城槌として使ったトラックは、きちんとコンテナ後部の扉を開けば外に出られるようになっているのだから、態々バリケードを崩す必要もない。


 悪い方の入り口を選んでしまった可能性の方が高いのなら、攻めやすい方を選んだ方が賢明なのは道理だ。構造を知っている人間が居るのだから、改めて職員通路がある方へ突っ込むとしよう。


 腕を振って移動を促そうとした時……何かが割れる音が響いた。


 ビンが割れる音。その音は一つでは終わらず、続いて男達の近くでも響く。


 出本を見やれば、割れた酒のビンが転がっている。何処ででも売られている、ウォトカベースカクテルのビンであるが、中身がスクリュードライバーやコスモポリタンでないことは明白だ。


 突き刺すような臭気が、略奪者達の鼻粘膜を蹂躙しはじめたからである。


 「ガスかっ!?」


 割れたビンからぶちまけられた中身が、大気と反応して何かを吹き出している。化学反応の微かな異音が、発している物が何かを報せていた。


 いわゆる毒ガスというものだ。人間にとって有害な物質を含んだ気体の総称である。第一次大戦に投入されたことで鮮烈にデビューした、無差別に生き物を殺戮する回避の難しい兵器。


 鳥を絞めたような絶叫が響き渡る。不幸な一人の男、元避難民がのど元を抑えながら叫んだのだ。彼はビンが炸裂した間近におり、警告を受けても反応ができず、大きく息を吸い込んでしまったのである。


 「吸うな! 入り口まで走れ!」


 元防人は喉を押さえてげぇげぇと妙な音を上げる男を視界から追い出し、ぼさっと突っ立っていた避難民の尻を蹴飛ばして駆けだした。


 言うまでも無く、既にガスを吸い込んだ男は切り捨てている。担いで連れて帰った所で、夜は越せまい。


 悲鳴を上げながら走る二人の男と、冷静さを保ちながら後ろに続く四人の略奪者。


 どうして彼らが冷静だったのかというと、自衛官は対科学戦の知識もある程度持ち合わせているからであり、更に状況的に一息吸ったら死ぬ戦略兵器の毒ガスではないと察せられたからだ。


 何のガスかまでは判断できかねるが、吸い込むと粘膜がやられるようなので、吸い込めば間違いなく動けなくなる。しかし、刺激臭が強いと言うことは純度も低いものでしかない。軍事目的で使われるガスというのは、得てして無臭であり、知らぬ間に吸い込んで死に至るような代物だからである。


 何より自分の家の庭先を、完全に汚染する筈も無かろう。その内始末できる濃度でなければ、本当に困るのは済んでいる人間なのだから。


 しかし認識が甘かったと、走りながら元防人は自分を情けなく思った。ホームセンターなんぞ素材の宝庫、幾らでも毒ガスを作れる環境ではないか。こういった科学攻撃を想定し、最初からガスマスクを装備しておくべきだったのだ。


 任務が任務だったため、彼らはきちんとガスマスクを装備に支給されており、今もまた携行していた。視界が狭まるのを嫌って身につけなかったが、こんなことなら最初から付けておくべきであった。


 だが後悔は何も産まない。反省して次に行かせば良いのだ。さっさと脱出し予備のトラックに拾ってもらい、再攻撃だ。


 少し予定外の反撃を喰らったが、叩ける内に叩き返した方が効率が……。


 破城槌と出入り口を兼ねるトラックに先頭を駆けていた元避難民が辿り着こうとした瞬間、闇を裂いて輝く軌跡が子を描いて飛来した。明るく光るそれは、後を追う者達によく見えたことであろう。


 再びビンが割れる音が響いた。そして、反応すらできぬ程の短い間を挟み、炎が産まれる。液体が弾けるような挙動を見せながら広がる炎はさながら生き物の如くあり、まるで噛み付くかのように元避難民の右手に絡みついたではないか。


 「あっ……!? ああああああ!?」


 火炎瓶だ。人間が扱える文明の象徴を、最も原始的に扱った武器。しかしながら、原始的かつ野蛮な物は、破壊と殺傷という目的において比類無き威力を発揮する。


 「うわぁぁぁ!! ああっ、あああっ!? あつっ、あついぃぃ!! 消して! 消して!?」


 こと破壊を洗練することに余年の無い人類が生み出した、最先端の野蛮だ。一度燃え上がった炎は、簡単に消えはしなかった。絶叫しながら腕を振り回し、炎から逃れようとするも勢いは弱まるどころか腕という燃料を喰って、いよいよ強まるばかり。


 その場に居た全員の動きが止まる。多くは目の前で燃え始めた男に驚き、恐れを覚えて。しかし元防人は違う。


 狂気を感じたのだ。あの炎には、敵対者の狂気が滲んでいる。屋内で、しかも自分たちが立てこもる場所で火を使うなど、正気であるはずがない。


 助けを求める絶叫を聞きながら、誰もが動けずにいた。いや、動けたとしてもどうしようもないだろう。助けに寄ったところで、できることなど一緒に燃えてやるくらいなのだから。


 まるで松明のように燃える腕を必死に振る彼は、まだ気付けていないのだろうか。トラックの前面にぶつかって弾けた炎が、躙るように足下へ襲いかかってきているのが。炎は粘度のある液体を伝って広がるので、水のように伸びていくのだ。


 そして遂に炎が彼の足まで侵略し、瞬きの間に彼は人間の大きさで、激しく踊る松明と化した。最早誰にも彼を助けることなどできない。たとえ十全な文明のサポートがあったとしても。


 次いで、お代わりでも如何かと進めるようにビンが投擲される。再び耳障りなガラスが砕ける音と共に炎が燃え広がり、トラックに通じる位置が完全に塞がれた。この勢いで燃えれば、早晩建物にも燃え移ろう。


 しかし今度は、火炎瓶の投擲者も痛い目を見る嵌めになる。


 炎の赤に照らされた屋内で、淡い灯りが霞むほど鮮烈なマズルフラッシュが瞬いた。


 元防人が発砲したのだ。朱い軌跡を描いて飛ぶ火炎瓶、それが投擲された方向へ向かって薙ぐように掃射を加える。


 薬莢が転がる音と、何かが倒れる重い音。そして、燃えさかる松明が上げる絶叫に紛れて、呻き声が聞こえてきた。


 火炎瓶は人が投げる以上、射程は恐ろしく短い。投げるのに適さぬ形状と形質が、どうしても射程を縮めてしまうのだ。その結果、ベニヤで覆われた棚という壁の向こうにある射点を晒してしまった。


 後は適当にぶっ放せば良い。程度の低いボディーアーマーなら易々と貫通する5.56mm弾なら、遮蔽を貫いて敵を倒してくれるのだから。そのためなら、半マガジンほど弾を消費しても惜しくは無かった。


 「どうします? 隊長」


 「……敵は心中が望みか? 仕方有るまい。前進するぞ。罠を食い破ってやる」


 燃えさかる炎によって脱出口は塞がれた。後に残るのは、ご丁寧な事にトラックの前にも口を開けていた二つ目の入り口。先ほどは注視していなかったが、これも最初からあったものなのだろう。


 元防人は勇ましく命じながら、弾を半分撃ち尽くしたマガジンを外し、新しい物と入れ替えた。勿体ないかもしれないが、戦闘が始まった時に弾の数が多いと少ないでは、全く事情が異なるので仕方がない。


 「腹を括れ。力で奪おうとしてるんだ、力で返されることもある……。なら、より強い力で蹂躙するだけだ。総員、前へ!!」


 略奪者達は半端な気持ちで挑んでいない。何時だって殺し合い……戦争だと腹を決めてやっている。殺し殺されるのだ、生きるということは。


 ならば、相手が自分より勝っていたならば、殺されるのも仕方がない話。要は自分たちが相手より劣らぬよう、全力で殺しに行けば良いというだけのこと。


 相手が狂気を以て迷宮に此方を追い込み、罠で絡め取ってじわじわと殺そうというのなら、罠の上から相手を食い殺すまでだ。そのための長い長い牙が、自分たちには備わっているのだから。


 生き残った、たった一人のキモが小さい元避難民を蹴りやって、餓えた猛獣共が進撃を開始する。


 赤々と猛る炎に照らされて、彼らの携える頑丈な牙が不気味に光を反射した…………。












戦いが始まった。賑やかな戦争音楽が散発的にホームセンターに轟き始める。銃声、怒号、そして絶叫に悲鳴。


 かつて鳴り響いた有線放送の音楽や、脳天気な声の案内は消え失せて、人間の本質だけが立ち込める。


 その喧噪すらも僅かに遠い位置で、少女は煙草を踏み消しながらぼやく。灯りが落ちた階段室、彼女が望む扉には“屋上立ち入り禁止”のかすれた張り紙が揺れていた。


 「あーあ……どうしてこんなことになったのやら」


 煙草の煙と共に愚痴がこぼれ、暗い廊下に弾丸を装填する冷たい音が鳴り響いた…………。

 あれ、思ったより分量が……思っていたより少し長くなりそうです。無駄に冗長にする癖を直さねば

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