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青年と少女と防人

 全く明かりの無い部屋に、荒い息が木霊していた。少女とも女性とも言い切れぬ、若いが艶のある声。息を荒げながら、闇の中で尚艶やかな唇が吐き出すのは、数字の羅列であった。


 「ひゃく……いち……ひゃく……に……」


 暗闇の中、息を荒げているのは一人の少女だ。手入れされぬが故に好き放題に伸びた髪の毛が痛々しく、左手と左の太ももには未だ血の黒さが消えやらぬ包帯が巻かれていた。


 「ひゃく……さん……ひゃく……よん」


 苦しげにカウントされる数字と共に、体が律動する。少女は痛んだ手を首の後ろで組み、緩やかにスクワットを続けていた。


 膝は足先より前に出ないように。背筋は垂直に。撓んだ筋肉の反発に頼らず、一回をじっくり一〇秒以上かけて行う、随分と本格的なスクワットであった。


 足が動く度、治りかけた足が軋み、無茶は止めろと抗議の激痛を上げる。栄養不足と寒さでの血行不順、更に薬の不足が治癒を送らせていた。


 それでも少女は体を動かす。痛むが、もう駆動に問題は無いレベルにまで回復していると、感覚で分かっているのだ。伝わるのは表層からの痛みで、既に筋や深い部分の筋肉は癒えている。


 だが、決して軽い傷ではない。多少なりとも癒えたとはいえ、未だ完治には遠く、包帯を剥げば体液が滲む、黄色みを帯びた傷口が覗くほどだ。今はいいが、より衰弱したなら、そこから傷が膿み、肉が腐る可能性とて残っていた。


 だのに少女が無理を押して体を動かすのには、理由があった。


 「ひゃくっ……ごっ……ひゃ……ん?」


 形の良い顎を伝った汗がしたたり落ち、小さな水たまりを形成し始めた頃、重々しく閉じられていた鉄扉が軋みを上げて開いた。


 そこに居たのは、二人の男。どちらも少女が見たことはあれど、別段珍しくも無い相手であった。


 一人は警戒するように少女へ短機関銃を向け、もう一人の手には薄いパンと缶詰の載ったトレイがある。トレイの上では、更に湯を吸って湯気を立てるタオルが一枚、絞っておいてあった。


 日に一回の食事を運んでくる牢番だ。しかし、彼らは信じられない物を見たというように、目をまん丸と剥いていた。


 怪我人が激しい運動をしていたから……ではない。その顔は、恥ずかしいほどに赤らんでいた。


 「やっ、飯番ご苦労さん」


 「服を着ろっ!!」


 数日に一度だけ寄越される、体を拭うための蒸しタオルが、惜しげも無く晒された少女の胸に強く打ち付けられた…………。











「着替えも碌すっぽ寄越さないのに、服着て運動できるかっての」


 コンクリートが向きだしであるが故、酷く冷え込む独房で少女は愚痴をこぼしながら、随分と硬いパンを囓った。黴びていないだけマシだが、賞味期限は随分と前に過ぎたと見える。これならば、湯に溶いてポリッジ擬きに仕立てた方が幾分かマシな味になりそうだ。


 どうやら彼女は、汗で服がべたつくのを嫌い、寒さを耐えて上半身裸で下は肌着だけという有様で運動をしていたらしい。それ以外に体を隠していたものは、傷口を覆う包帯だけというあられも無い姿だ。


 見張りが顔を赤くしてタオルを投げつけたのも頷ける。見た目だけであれば、彼女は今すぐにでもモデル雑誌の表紙を飾れる程度には整った容姿をしているのだから。


 「ま、これで新しいシャツと肌着が来るだろうし、服代としちゃトントンってとこでしょ」


 ゴリゴリとした食感のパンを咥えながら、混血の怪しい美しさがある顔を悪戯っぽく歪める少女。単に快適さのために寒さに耐えたようではなかったらしい。打算込みで自らの裸体を晒す辺り、この少女は女として中々できるようだ。


 「んで、これで二四日と……二月は逃げるたよくいったもんだね」


 硬いパンを飲み下し、白湯で喉を潤してから、少女は手を壁に擦りつける。正確には、派手な動きを禁ずるために嵌められた、銀色の手錠を。


 何度もなぞるように擦りつけると、硬いコンクリートの壁であっても傷が入る。


 別に壁をくりぬいて逃げだそうだとか、何処ぞの刑務所で脱税の片棒を背負わされた男の真似事をしているのではない。刻まれたのは、ただ一本の線であったからだ。


 確りと掘られた線は、闇の中であっても触れれば分かる。少女の指先がなぞった線は、傍らに自らと変わらぬ姿の線を四本伴っていた。


 それだけではなく、四本の線の隣には、一本の横線に束ねられた同じ線の束が。同様の束が上に四つ、静かに存在を主張している。


 「うん、時間感覚も流石についてきた。今なら何も無しでストップウォッチジャスト止め勝負で勝てそうだぜぃ」


 これはカレンダーだ。少女が暴徒を討ち、避難民からの誹謗を受け止めるために独房へ放り込まれてからの日数。暗闇に耐え、口寂しさを覚える程度に馴染んだ煙草を奪われてからの日々であった。


 椅子に固定されるのは用便の問題もあって無くなったが、それでも時間と明かりは奪われたままだった。


 自分の中にあったプランを崩されたおやっさんからの意趣返しか、それとも単にリソースの浪費を嫌ってのことかは分からないものの、彼が出て行って以降、ここに明かりは灯らなくなった。


 いや、スイッチを入れても明かりがつかなくなったので、恐らく施設全体の電源が落とされたのだろう。発電機で賄っていた電気が落とされたのは、灯火管制のためか、それとも物資節約の為か。


 少女には想像するしかできないが、外は総力戦に向けて準備を始めたようである。


 臨むところではあるのだが、彼女としては此処に繋がれているのが大きな誤算。本来なら、斥候としては動けずとも固定砲台代わりにはなったはず。いや、もう少し環境が良ければ、既に万全を取り戻せていた可能性もあろう。


 熱を床に奪われることを嫌い、椅子に座って眠るようでは、治るものも治りようがないのだ。


 それでも尚、傷をおして少女が体を動かすのは、自らの機能を萎えさせないためであった。


 人間は包丁のようなもので、使わぬと錆び、使いすぎると鈍り、研がぬと刃が溢れて使い物にならなくなる。もし、少女が考えている事態が起こったのであれば、足腰が萎えて動けないという状態に陥ってはたまらない。


 だから彼女は、汗を拭うだけで痛む体を動かす。必要な時に動かすため。これからも“楽に生きるため”に。


 「痛いのも暗いのも嫌いだけど、我慢してやりますともさ。生きるためなら軽い軽い……くたばっちゃ楽もクソもないからね」


 自分が死ぬのは、もうそれ以外に術が無く、それがもっとも楽な時だけだ。


 意味は無い。ただ死ぬよりは生きている方が気が楽であるが故。彼女が生きる目的など、最初からないのだ。生くるべくして生きる。楽な方へ楽な方へ流されながら。


 狂人は静かに微笑みながら、残った水で一錠の抗生物質を飲み干した…………。











 電気式のカンテラがこれでもかと並べられ、どうにか明かりを確保した空間で、ガラスがこすれる音が響いていた。


 元々倉庫だったと思しき場所で、複数の男達がマスクや防護ゴーグルを身につけて何かをかき混ぜている。


 異様な空間だ。明かりを置いて尚薄暗く、物資の飛散を気にしてかビニールが暗幕のように部屋中へ張り巡らされており、更には小窓に向かって勢いよく発電機に繋がれた扇風機が回っていた。


 窓の外には雪が積もり、吹き付ける風に負けぬ寒気が忍び込んでくる。にもかかわらず、その部屋には一切の暖房器具と呼べるものがない。それどころか、火花を発する可能性があるもの、それらが全て妄執的なまでに排除されていた。


 持ち込まれた机の上に並ぶのは、無数の空き瓶と様々な道具類であった。布や増粘材になりそうなジェルに、何かを削った銀色の粉。端切れの山もあれば、何故か椅子の脚を保護するキャップまで置かれている。


 そして、部屋の片隅に居並ぶのは、たっぷりとガソリンを蓄えたジェリカンであった。


 「効率はどうだ?」


 これだけの材料で何ができるかは、然程難しく考える必要もあるまい。物騒極まりない火炎瓶製造工場に訪れた男は、その出来映えを作業者に問うた。


 「はい、上々です。増粘材とアルミ粉に濃縮硫黄……冬戦争に持ち込んでも文句ない出来映えです」


 「そうか。ま、戦車を相手にしなくていい幸運を喜ぼう」


 適当に火炎瓶、モロトフの手下を歓迎するために醸造されたカクテルを手に取った腕は、野戦服に包まれていた。随分と着古されたせいで褪色が始まり、化学繊維が毛羽立ち始めた野戦服が。


 「これを呑むのは、元同胞だがな」


 最早鬱陶しく腕を束縛する三角巾は無く、かつてと同じ壮健な姿をしたおやっさんであった。


 されど、そこにはもう、かつての避難民が知る彼の姿は無かった。煙草を咥えて穏やかに笑っていた、少女やエコーと軽口を叩き合っていた気さくな姿は。


 あるのは、鉄炉と金床、そして鏨に槌で以て鍛造された屈強な軍人の顔。巌の如き顔に、厳めしい皺を伴った表情を貼り付けた武人。


 誰かの為に人を殺し、罪を負うという責任を自ら臨んで被った、現代の狂人達が。


 「しかし……何とか、なりますか」


 彼に問いかけるマスクの男。よく見れば、彼はおやっさんに付き従って避難してきた自衛官であった。混乱する、人が人を喰らい、斃れる仲間さえ助けられない地獄から、彼が率いて救い出した僅かな人員の一人。


 「それは、どっちの意味でだ?」


 「え?」


 鈍く輝くブラウンの瞳が、ゴーグル越しに男の目を射貫いた。ふと、彼の脳裏に銃口のイメージが映る。手に馴染んだ、そしてかつて嫌と言うほど担った、89式小銃の銃口が。


 目の前に立っているのが人間ではなく、人の形をした小銃なのではないかと錯覚するほど鮮明に。


 「勝機か? それとも、人間を撃てるかどうか自信がないか?」


 軍人の目は、嘘を吐かせなかった。射貫いた目に感情を強引に励起させ、恐怖に反応して浮かび上がってきた澱を浚い上げる。


 返答を聞くまでもなく、彼は理解し、そして背を向けた。


 「腹は括っておけ。向こうは殺す気だ……大人しく殺されてやる道理がどこにある?」


 「あ……いえ……はい」


 瓶の中身が染み込んだ端切れ。その端切れが外気に晒され、変質したり引火しないようにかぶせられたキャップを弄りながら、おやっさんは工作室を後にする。


 残された部下は、小さくなっていく背中に言いしれぬ不気味さを覚えていた…………。











 壮年の自衛官は、静かに歩く。感覚を取り戻すために、素早く歩きながらも一歩一歩をおろそかにせぬよう気を払って。


 ブーツを履いていることもあるが、彼の歩みは驚くほど静かであった。そして、身に纏う雰囲気でさえ静かで、呼吸音も極めて小さい。余程敏感な物でなければ、背後に立たれたとしても気付けないだろう。


 漫画の世界でもないため、如何に静かで気配を消すように歩いたとしても、道の中央を歩く自衛官が視認されぬことはない。されども、誰もが彼を視認しながら声を掛けようとはしなかった。


 以前であれば、誰もが気安くお疲れ様の一言でも寄越したであろうに。


 彼が発散する雰囲気に威圧され、話しかけようという気にもなれないのだ。今では、誰も彼の事をおやっさんと気軽に呼びはしなくなっていた。


 特段自警団の対応が強硬になった訳でなければ、彼が厳しいことを言った訳でもない。しかし、その場の雰囲気というのには中々逆らえないものだ。


 暴発事件以降、おやっさんは指揮官であることを真正面に押し出し、治安の引き締めを行った。といっても、精々は「暴力には暴力で答える」と宣言し、自警団の武装を幾らか引き締めた程度だ。


 されど、実際に死人が出た上で「暴力には暴力」と言われ、一体誰が萎縮しないでいられるだろうか?


 それに、以前は大した武装を持たなかった巡回の者が、三人に一人は短機関銃を携行するようになったのである。ここまでされて、堂々と馬鹿がやれる人間は居まい。


 かつて無いほど避難所の治安はよくなったが、その代わりに場を沈黙が支配するようになった。今やここで聞こえるのは、病を患った者の咳や、威圧されて潜められた小さな会話のノイズくらいのもの。


 以前にはあった、暖かみのある賑やかさは完全に喪われていた。


 子供達ですら、何かに怯えたように声を潜め、大勢集まって遊ぶこともない。何時か響いていた、そこらを走り回る子供を叱る大人の明るい声が響いていたのが、遠い昔のように思えてきていた。


 だが彼に後悔はない。これでいいと考え、こうなるのが最善だと策を組んだ。それが、今歩く家具や建材によって迷路のように区切られた一階店舗部分だ。


 人々は、ベニヤ板や家具、時に鉄板で区切られた迷路の小部屋で別れて暮らしている。見ようによっては以前よりプライベートが保たれているように思えたが、それがどの程度の慰めになろうというのか。


 息苦しく、陰鬱で、自由が利かない生活。猥雑で狭苦しかったが、楽しくはあった日々を多くの物は懐かしく思い返す。


 しかし、それではいけないのだ。それでは勝てない。死んでしまえば、後に何が残るのか。意志を持たぬ屍となり、風化するまで町を彷徨い続ける。斯様な運命を、一体どうして自己意志で狂った防人が認められよう。


 もう彼は何でもやるつもりだった。生き残った者が勝利者であるという図式が変わらないのであれば……何をしても生き残らなければならぬ。


 そのために、態々ここまで大仰な細工をしたのだ。建物全てを遅滞戦闘のための舞台へと作り替える。後は、延々と粘るのだ、敵が根を上げる、或いは此方が戦えなくなるまで。


 勿論、そうなった時の手段も用意してあるのだが。


 防人は静かに歩きながら、迷路の各所に作られた隠し収納を漁る。定数の弾丸がしまわれているか、きちんと火炎瓶が置いてあるか。その火炎瓶にしても、キャップが外れていないか等を確認しつつルートを回る。


 最後に彼は、大荷物で塞がれた正面入り口へと辿り着く。シャッターが下ろされたガラス張りの入り口。その内側に積み重なるソファーや寝台にカラーボックス。見るからに頼りないバリケードが、それでも此処は通さぬという鋼の意志を持って積み上げられていた。


 軽く、確かめるようにバリケードに触れてみる。噛み合うよう気を付けて組まれただけあって、押しただの引いただの程度では、小揺るぎもしない。死体相手であれば、数百人規模の圧力ですら耐えるだろう。


 だが足りない。この程度では、近代兵器に抗し得ない。擲弾の一発でも浴びれば、実に容易く砕け散ることであろう。


 されど、できることをやるのだ。できることを、できるだけ……。


 不意に、外から甲高い音が響いた。耳慣れた音、5.56mmの咆哮だ。続いて聞こえてくるのは、些か小さな9mmの発砲音。


 「ちっ、応射は控えろと言ったはずだろうが」


 最初の音は、間違いなく外から撃ち込まれた音だ。5.56mmを撃てる銃はホームセンター内に五挺しか存在しておらず、その全てが保管室にある。


 敵が此方をゆっくりと休ませまいとする、数時間おき、あるいは数十分おきに行われるハラスメント攻撃であろう。何時弾丸が叩き込まれるか分からない状態にあれば、人間は穏やかに休むことさえできないものだ。


 例え弾が届かぬ屋内にいれど、銃声は不安を掻き立てる。落ち着けず心も体も休めないとなれば、指揮は下がり体調も悪くなる。籠城する相手に対して取るには、スタンダードにして非常に悪辣な戦法であった。


 時間帯から逆算するに、今のは外で軽作業を行っていた人員に対して発砲したのだろう。そして、護衛の自警団員が恐慌に陥って適当に応射……貴重な弾丸の射耗まで強いられるとは。


 さりとて、護衛に武器無しで屋外作業を命じた所で、ビクビクし過ぎて儘ならず、効率が著しく落ちるので困りものだ。


 支給する弾丸を弾倉半分だけに絞り、被害を抑えてはいるものの、何処まで保つかを想像すれば、先行きは暗い。


 死人が出ていなければいいのだが、そう思いながら目線を動かせば、板が打ち付けられた窓の隙間から外が見えた。


 「……そろそろだな」


 雪は未だ積もっているが、最盛期と比べると厚みはもう殆ど無いに等しい。ここ数日ぱったりと雪が止んだからだ。


 雪が止めば機動力が増し、戦いやすくなる。攻め寄せて来るだろうタイミングは、雪解け後となるだろう。今までは万一退く時のことを考えていたようだが、雪さえ止めば撤退も容易となる。何より、足が使えるようになるのだ。


 物資と人員の同時移動を可能とする、車両の類いが。


 その時が決戦。鏖殺せしめるつもりで襲いかかってくるのか、単に占領するつもりなのかは分からない。だが、どのみち碌でもない結果になるはずだ。


 古来より戦争なんてやらかして、碌な結果に終わった試しがないのと同じように。


 「だが、何もかもがお前の思い通りには、ならねーぞ」


 誰に聞かせる訳でも無い独白。苦々しげに表情を歪め、防人はけたたましく音を立て始めた無線機に手を伸ばす。


 被害報告を考えると、頭が痛かった…………。













 弾けるような音が連続し、枝に積もっていた雪が重い音を立てて落ちた。


 そして、その上に砕け散った空きビンが、陽光を乱反射しながら散らばった。一つ二つと続いて落ちるビンは、強烈な打撃を受けて上半分が見事に砕け散っていた。


 音が五つとビンが五つ。ビンが一つ落ちるまでの間隔は、ほんの一秒あるかないかという所であろうか。


 少し間が開いて金属の稼働音が響き、何かが床にぶつかる甲高い音が続く。


 次いで、再び破裂音が轟いた。先ほどと同じくきっちり五回、僅かな間を開けて寒空の下で破裂音が空気を振動させ、同数のビンが砕け散った。


 「……ま、こんなものか」


 音源は庭に面した大窓を開けた居間に立つ、矮躯の青年が握る38口径輪銅拳銃であった。小型で銃身が短い、日本の警察が採用した新式のリボルバーは、小柄な彼の手に根があるかのようにしっくりきていた。


 「一旦体が覚えると、抜けないもんだな。これなら何とかなるだろう」


 ラッチを押してシリンダーを解放し、掌に発砲ガスの熱が移った空薬莢を空ける。そして、青年は確かめるように砕け散った的を見やった。


 試し打ちをしていたのだ。年の瀬から数えて、この借宿に引きこもり生活をして三ヶ月。既に立春が過ぎて久しく、山間にある集落でも雪は止んでいた。


 最後に降ったのは一週間前で、昨夜はついに雪では無く雨が降るほどだ。寒の戻りはあるかもしれないが、早晩雪解けが訪れ、下山も適うだろう。


 そうなれば、暖かさに死体共も目覚めるはずだ。啓蟄と共に穴から這い出してくるのは、何も虫に限った話ではないのである。


 春の訪れは旅の再開であると同時に、戦いの再開でもある。結局、世の中がこうなった以上は、生きて行くには戦い続けるしか無いのだ。


 そして、青年は生きるためであれば、戦う事だろうと意地汚くなることだろうと頓着しない。恥じるも悔いるも、命あっての物種なのだから。


 空薬莢をポケットへとしまい、懐から自作の厚紙製フルムーンクリップを取り出し再装填。構造上邪魔になるので、クリップは剥いで棄て、シリンダーを定位置へ。


 それから確かめるように、青年は拳銃を“右手”に持ち替えた。


 長らく痛々しく覆われていた人差し指が、大気に晒されている。死人のように白い肌には、同じく白い傷痕が残れど、指は元の姿を取り戻していた。


 ゆるりと腕を突き出すシングルスタンスで拳銃を構え、親指が撃鉄を降ろす。人差し指が愛撫するような慎重さで引き金へ移され……空気が弾けた。


 ガラス瓶が砕け散る快音。青年は間を空けず、今度は引き金に力をかけてダブルアクションで弾丸を放つ。撃鉄が寝ている分、人差し指がかけねばならぬ負荷は重かったものの、微かに震えながら撃鉄が持ち上がり、落ちた。


 されども、次に響くは軽やかな銃声のみ。的として用意されたガラス瓶は、一〇mほど先の屏の上で揺るぎもせずに佇んでいた。


 力を込めすぎて、照準がぶれたのだ。ガク引きとも呼ばれる、見合った銃を用いぬ初心者がやりがちな失敗である。


 照準を修正、今度は時間をかけて引き金を引く。だが、やはりビンはそのまま突っ立っていた。


 次の音は続かなかった。銃声の残響が空しく木霊し、何処か遠くで驚いた鳥が飛び立つ音だけが響いた。


 今度は五発撃ちきることなく腕を降ろし、青年は舌打ちを零す。一〇mの距離で三発撃ち、命中は最初の一発だけ。如何に短銃身のM360であっても、お話にならない精度だ。


 何処かで誰かが大笑しているような幻聴を覚えつつ、憎らしげに人差し指を見つめる。骨折を治療するために固定し、ずっと動かさなかったために力が萎えているのだ。


 「……暫くはリハビリだな」


 左手で頭をかきむしり、弾を抜いて拳銃をソファーの上へと放った。そして、自分が立っていた居間の足下で、寒さを和らげるため付けっぱなしにしてあったストーブへ手を晒す。


 そう、外に出でず、態々居間から撃っていたのは距離のためでは無く、単に寒かったからなのだ。


 何とも格好のつかない姿の主人を眺めつつ、カノンが小さく欠伸を零した…………。

 次からクライマックスです。間を空けずに更新できたらいいのですが……

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