少女と自警団と暴徒
「私は次の世代に興味なんてない。私は自分達にしか興味が無いのよ」
「……なんだそりゃ」
煙草の臭いが立ち込める、電源の落ちたモニターが並ぶ部屋があった。かつてはモニターで目まぐるしく移り変わる店内の状況を俯瞰し、万引きや傷害事件が発生しないかと見張っていた警備室だ。
今ではホームセンターに立てこもる自警団の本拠と貸したそこは、無数の物資やら何やらが積み上げられて混沌としている。
空調も止まったせいで、何時までも立ち込める煙草の臭いが失せず、幾枚もの灰皿の上で山を為す吸い殻のせいで煙たい臭気が消えやらぬそこで、一人の少女が煙草を吹かしながらそんなことを言った。
「あ、知らない? ジョージ・オーウェル」
「おりゃ文盲な性質でね」
自衛隊の幹部が文盲で成り立つ訳ないじゃん、という散切り頭が痛々しい少女の軽口を、三角巾で片腕を吊した壮年男性は肩を竦めることで躱してみせた。
実際、幹部試験行程は相当の勉強量を要するので、おやっさん自身も頭は悪くないはずである。勉強しすぎで、返って仕事意外で本を読みたくなくなったという可能性も否定はできないが。
少女が引用した台詞は、実にそのままな意志が篭められている。要は自暴自棄になっているのだ。いや、最初からなっていた、とも言えなくも無いのだが。
特に彼女の場合は。
この腐れた死体が堂々と闊歩する世の中で、如何にして子を産み縁を紡ぎ、時代を育めというのか。己が生きることすら難しい有様だというのに。
「で、そのジョージ・オーウェルがどうしたって?」
「いやなに、その人の1984って作品の一文でね。今の状況にぴったりじゃね? って思ったわけさ」
一々大仰な動作を交えつつ、少女は煙草を一口吸い、灰を灰皿へと落とす。口に貯めた煙を肺腑に落とすのも手慣れたもので、もう目尻に涙を浮かべることもなければ、激しく咳き込んで戻しかけることもない。
吸い始めて一月以上立てば、若い喉も不健全な娯楽に慣れたようだ。初心者が呑むには随分と重い煙草も、もう彼女の纏う微かに甘い体臭の一部と化しているほどに。
「作品そのものもぴったりなノリでさ」
「ほー、どんな作品だ」
「全体主義国家が凄い思想弾圧してる話」
「おい」
突飛に凄いことを言い始めるので、おやっさんは驚いて椅子に深く預けていた体をずり落としそうになる。思想弾圧、というのは聞こえが良くないし、物騒過ぎる発想だ。
「でもさぁ、実質間違ってなくない? 一月の末にもなって取り締まり強化したし。脱走だって既遂一に未遂四だから、もーみんなぴりっぴりしちゃって」
「む…………」
二人の死者――後に負傷者の傷が悪化し三人に増えた――を出したあの日の襲撃から、もう一月が経とうとしている。慶事の雰囲気は消し飛び、色々な出し物も予定されていた新年会もお流れになって一月だ。
あれ以降、ホームセンター内の空気は最悪と言っていい状態にあった。
命を狙われている状況だと誰しもが認識して空気が重くなり、敵が重武装をしていると隠しようも無い被害が出たので、命の危機に空気が張り詰める。
物資も潤沢とは言い難く、配給は更に切り詰めざるを得なくなった。現在は一日二食で、量も以前の2/3程度と随分減ったものだ。今では、ホームセンターの中に空きっ腹を抱えていない者など、一人として存在しない。
せめて皆が空腹に慣れていれば話も違ったのやもしれないが、下手に外征が成功していた時期があったのが痛かった。コンビニやスーパーで略奪する度に、ささやかながら宴会を行っていたので、胃袋の量が多めの食事に慣れきってしまっている。
だからこそ、一気に切り詰めたのが辛いのだ。段階的な制限ではあったものの、やはり昨年から一月の間に減らした量は、ペースとして決して少ないとは言い切れない。
命の危機もあれば腹も減る、ときたら当然人心は荒れる。衣食足りて礼節を知る、とは昔の人も大変偉いことを言ったものであり、かつての和気藹々とした雰囲気は何処にも見いだせなくなっていた。
罵声やすすり泣く声が各所から絶えず、小さな諍いは日常茶飯のこと。数日に一回は、凄まじい勢いでの殴り合いが発生し、一度は中規模の乱闘にまで発展したことがあるほどだ。
中には殺人未遂にまで至った者もいる。発端は痴情の縺れだったそうだが、聞いてみれば実に取るに足らない話だ。誰が誰を見ていただのと、人を無意識に目線で追うこともあるから気にしても仕方がなかろうに。
斯様な事態に陥るほど、風紀は荒れ、自警団の統制能力は落ちているのだ。最早、自分たちが生きるために必要な労役の指示さえ上手く行かぬほど、彼らの運営能力は削がれている。
話はそれだけに留まらなかった。今までも配給などに関して、大なり小なり不満はあったが、明らかな批判に晒されるようなことは無かった。
コミュニティの全員が、自警団はあくまで善意の参加者によって構成される、実質的な強権は振るえぬ集団だと理解していたからだ。
傷つく危険も厭わず、皆のために無理を押して働いてくれる彼らを尊敬し支援こそすれど、ちょっとした不満を押しつけるべきでは無いと皆が心得ていた。
しかし、箍が外れたかのように明確な批判を浴びるようになったのだ。本来は責任を負うにしても、全権の責任を追う立場には、未だなかったというのに。
襲撃を受けたのは不平分子を追い出したせいだ、などの今更何をと言うような内容や、敵を追い返せないで何が自警団だのという、どうしようも無い内容の批判がそこかしこで溢れ出す。
だがその何れもが、自警団でもどうしようもなかった物ばかりなのだ。不平分子の離脱は、彼らが勝手に出て行ったのだし、襲撃そのものは守手側としては受け止める他に対策がない。
何をどうしていれば、それらを完璧に防げたのかは、自警団員こそが知りたいであろうに。
いや、彼らも結局、どうこう出来ただろうから批判している訳ではないのだ。どうにもできない苦境を、誰かのせいにして楽になりたかっただけに過ぎない。
自分は悪くない、この辛い状況は誰かのせいだ。そう思い込むことで、少しでも楽になりたいという、人間の下劣で珍しくも無い発想が毎度の如く何処からか湧き出してきた……ただ、それだけなのだ。
なればこそ性質が悪く、事態の解決は困難だ。正すべき部分があったり、悪いことをしたのであれば人は是正できる。だが、ありもしない非を責められて、一体何ができようか?
居もしない屏風の虎を倒すような芸当、この世の誰にもできるはずもなく、自警団は空しい努力を繰り返すこととなる。
少ない物資をやりくりして防備を増強し、見張りも睡眠時間を減らしてでも増やした。批判的で手伝いを期待できない中でも、できる限りのことはやってみせたのだ。
しかし、ただ批判し自己正当化したいだけの群衆が攻撃の的にしたという事実は、全ての努力を無駄にする。何処まで行っても、彼らはこの辛い事態のはけ口が欲しかっただけに過ぎないのだから。
とはいえ、批判で済んでいる内は良い。辛いが耐えれば、何時か状況が変わる目も出ようというもの。何かが契機となり、状況が好転する可能性とて、完全に絶えてはいないのだから。
その間は堪え忍び、状況を脱しさえすれば、全ては元通りになる。堪え忍べれば……の話であるが。
批判は時を待たずして、攻撃へと変わる。月の半ば頃、自警団員への襲撃事件が発生したのだ。
非番時に一人で時間を潰していた彼は、背後から何者かに殴り倒され袋だたきにされたという。素人が加減も知らずに暴行を加えたからか怪我は酷い物で、骨が数本も折れる重傷を負っていた。
自警団員というだけで白い目で見られるからと、人から離れた所でぼんやりしていたのが良くなかった。状況的に計画性のある犯行ではなかったのがせめてもの救いだが、これが今後の起爆剤にもなりかねない。
故に自警団は取り締まりを強化し、日中は立哨を立てて人々の監視までやらなければならなくなる有様。今では、一部の団員が集団で歩いている人間へ過剰に反応し、短機関銃を倉庫から持ち出したがるほどに空気は緊張していた。
少女としても当事者であるから、その気分は分からないでもない。
常時冷たい目線を注がれ、一挙手一投足に注目されるのは不快だ。狙われているように感じるし、不安も覚える。
それに攻撃されそうだという懸念すら、今ではパラノイアではなく現実味を帯びてしまっているのだ。自警団員が武器を持ちたがる気持ちもよく分かった。
「やっぱさ、中の立哨にも銃持たせたら? それだけで抑止力として、多少は楽にならない?」
「アホか、これ以上刺激してどうする……引き金が軽い奴だって居るんだぞ」
「つってもさぁ……なんか、私も割とガチで襲われそうで普通に怖いんだけど」
吸い殻の山に新たな一本をねじ込みながら、少女はしなやかな体をくねらせた。
少し前であれば、誰が手前なんぞをとノータイムで軽口が飛んできたのだが、苦々しげに煙を吐き出すおやっさんの表情は芳しくない。
それもその筈、少女の左足は未だ回復の兆しを見せていなかったからだ。
寒さと栄養の不足もあり、状態は芳しくない。悪化していないのは、一重に当人が持つ生来の頑丈さ故であり、単なる均衡状態でしかなかった。このまま上手く動かないという可能性も、決して無いとは言い切れないのだ。
以前の少女ならば、人間の骨を砕くような蹴りを放てる上、拳銃の扱いも達者であったから何の心配も無かった。逆に襲いかかるような勇敢な人間が居たなら、自警団にスカウトしたいなどという冗談が出てくるくらいだ。
しかし、今の少女は決して強い存在ではない。脚の傷で機動力が削がれ、ナイフが貫通した左手のせいで格闘能力も下がっている。状況さえ揃えば、実に容易く無力化されることだろう。
「それにさ、おやっさんだって余裕はぶっこいていられないんじゃない? まだ腕、あがんないんでしょ?」
「ぬ……」
同じことが三角巾で腕を吊っているおやっさんにも言えた。弾丸が貫通しているにも関わらず、左肩の銃創は一月を過ぎて尚、じくじくと痛むのだ。
傷口は完全に塞がりきらず、思い出したかのように血や体液がにじみ出す。壊死したり膿んでいないのが奇蹟のような状態で、今にも悪化しそうなほど傷口が回復していなかった。
単純に年のせいだ、と笑うこともできなくなってきて、当人にも焦りの影が見え始めている。
手当は適切に為されたはずだ。野戦治療に近しいとはいえ、正しい教育を受けた人間によって施された施術に不備は見られない。となると、やはり少女と同じく栄養不足と寒さのせいだろう。
冷え切った気温は四肢への血液循環を阻害し、熱の失せた体は代謝を著しく損なわせる。低温と燃料不足により、エンジンが掛かり切らないのだ。エンジンが掛からねば、他の諸機能も使いようが無い。
最後には、全ての機能が落ちて廃車になるところも同じだ。違う所があるとすれば、車には一旦潰れても修理の余地があるが、人間には無いという所であろうか。
「ちょっとした発言に噛み付くやつも出てきたし、影じゃ結構取り締まりきれてない暴行もあるとかで……」
「それは、俺も聞いてはいたが……」
人間がストレスを発散しようとした時、とれる行動は多々あるが、現状でできるものは限られる。その中で一番簡単で物も使わないものを考えた時、シンプルで楽なものが一つあった。
いじめだ。
一つは自警団に対するバッシング。これも広義でのいじめにあたるだろう。とはいえ、防人が防人である以上、無力を誹られた所で何も言い返せないのは立場上仕方がない。弾を防げぬ盾には、何の価値も無いのだから。
しかし、此方は取り締まられるし反撃も危険性もある。なんやかやで、平時でも拳銃の携行を許された自警団員は数人居るのだ。
無能と誹り、悪と詰る内にありもしない恐怖を自警団に抱く人間も現れ始めた。何時か銃口が自分たちに向くかも知れない、そう考え始める者がいた。だからこそ、自警団へのバッシングは“そこそこ”に留めねばならない。
そうせねば返って怖くなり、ストレスの解消にならないから。相手がキレない場所を見計らい攻撃するのは、人間の最も薄ら暗く悪辣な部分の一側面だ。しかしながら、これが守れているから、まだ避難民は理性的と判断することもできる。
完全に理性を失っていたなら、とっくに血で血を洗う内乱に発展していただろうから。
となると、楽なのは立場の弱い同じ身分の人間をいじめることとなる。実際、自警団はその現場を幾つか見咎め止めていた。
対象は負傷者や病人、或いは健全なれど動けない老人や妊婦に及ぶ。大半は言葉での批判で済むが、暴行に至ることも珍しくない。青タンを顔に貼り付けて歩いていれば、嫌でも目につこうというものである。
以前は、こんなことは起こらなかった。弱者は弱者として庇護され、労られた。妊婦など貴重な次代を産む女性として、皆に優しくされたものだ。
しかし、今では危険な時勢に何も考えず子を孕んだ愚か者と罵倒され、子が居るからマシな物資配給を受けられると謂われの無い嫉妬を浴びせられる様。人は自分が楽になるのであれば、攻撃する対象は本当に誰でも良いのだろう。
勿論、成熟した大人はコミュニティ参加者にも少なくないので、斯様な流れを是正しようとした者はいる。避難民の母親のように立ち回った、おふくろさんと呼ばれる女性などが率先して態度を正そうとしたのだ。
しかし、最早彼女にも全体の統制は取れなくなっている。声が大きくおっかない雰囲気があっても、ただの中年女性なのだ。圧倒的な数の勢いの前では、どれ程に怒鳴っても立て板に水でしかなかった。
結果的にホームセンター内には、じめじめとした嫌な空気が立ち込めている。誰もが誰もを警戒し、妙にぴりぴりした空気が蔓延した。
自警団の見張りは、本当に胃の痛いことだろう。自分に向けられる悪意もあれば、他の悪意で悪くなった空気にもさらされ続けなければならないのだから。
「もー細かくブロック分けし直して、数人毎に隔離するしかないのかね。悪いこと考えないようにさ」
「それこそ弾圧だろう……脱走を防ぐにはいいやもしれぬが」
いじめやバッシング以外にも、対処すべきゆゆしき問題が一つあった。ホームセンターから脱走を試みる者の存在である。
以前であれば起こりえなかった事件だが、状況が変わったことによって、このような問題が浮上した。
かつてはホームセンターの周囲には動く死体が群生しており、とてもではないが脱出など考えられない状況であり、内部は唯一安全が確保された場所だった。
しかし今では、周りに死体の囲いは無く、近代兵器の火力に晒されうるホームセンターは安息の地ではなくなってしまった。雰囲気も悪く、割り当てられる食料も少ない。立ち込める空気から、多くの人間は生活の終わりを予期するようになっていた。
沈み行く船だと、皆が考えてしまいつつあるのだ。そして、当然沈没する船と運命を共にしたいと考える者はいるまい。居たとしても、ロマンティシズムに狩られた一部の責任者くらいのものだ。
言うまでもなく、自己犠牲に酔う精神と無縁な一般人は生存を望む。何をしてでも生き延びたいという、生物の本能に従って。
彼らの発想は、至極普通の思考だ。狂気でもなくば間違いでもない。かの青年の狂気は、正常な思考のままで、命の危機で狂した人間と同等の思考を行うことにある。
つまり彼らの狂気は、状況が作り出した狂気であり、一過性のものに過ぎない。しかしながら、その一過性というのが厄介なのだ。
熱しやすく冷めやすい、一過性の思考はそれに尽きる。要はちょっとした切片さえあれば、簡単に激発してしまうのだ。その証明が、今までに発生した既遂と未遂合わせて五件にも上る脱走事件である。
食料をかき集めて逃げようとする、簡単な脱走ばかりだからまだ良いが、これが集団で食料備蓄庫や武器庫を襲っての計画的な集団犯行に至ればどうなるか。コミュニティは一夜にして霧散し、無数の死体が築き上げられることだろう。
外部からの攻撃を待たずして、だ。
「いや、むしろやっこさん、これ待ってんのかねぇ……」
「だろうな。ドンパチやるよっか、締め上げた方が楽だし成果もでかい。素人の弾でも当たる時ゃ当たるもんだからな」
いや、漸う考えてみれば、これもまた病院に陣取る敵の思惑の一つなのだろう。労せずして成果を得るため、籠城する相手の仲違いを誘うのは古代史から続くお約束だ。
考えてみれば、敵を倒して拠点を制圧するのはシンプルなれど、出血を避けることはできない難事だ。特に相手が銃を持ち、籠城の準備を整えているとなれば尚更である。
その上、この拠点は今、内部を段階的に切り捨てることによって、撤退しつつ更に籠城し粘れるよう準備を進めている。通路などにバリケードを設置し、トカゲの尻尾のように領域を次々放棄しつつ交戦できるよう、内部を工夫して区切っているのだ。
いざ戦いになれば、少なくとも軽火器だけで立ち向かう相手には、かなりの出血を強いることが適おう。
されど、それは敵が堂々と踏み入ってくれたなら、の話であるが。
「内側で集団暴動が起こって、混乱してる間にダイナミックエントリー! って算段なんだろーなー」
「そうした方が圧倒的に楽だからな。ばらまく弾も少なく済むし」
「5.56mmは希少だもんねー。擲弾は言わずもがなだし」
全ての防備も潤沢にある9mm弾や短機関銃も、統制が喪われては役立たずだ。火力が脅威となるのは、きちんと運用されてこそである。それらが倉庫に死蔵されたままであれば、結局は何の用もなし得ないのだから。
故に籠城を最も簡単に破る方法は、内応や反乱などによる内部からの瓦解だ。今回の場合、狙われたのは後者であり、脱走を企ててからの内部抗争でも期待されているのだろう。
緩やかな攻囲だけを敷き、擾乱攻撃を絶やさないのが良い証拠だ。戦略にまで通じている敵を相手取るのは、本当に厄介なことだ。数で押してくる死体とは訳が違う。
毛沢東は軽蔑すべき敵よりも尊敬すべき敵を持てとは言うものの、その尊敬できる敵に殺されては笑い話にもなるまいて。
そして、その懸念は不本意なことに実を結ぶかも知れないのである。攻められる側としては、この上なく辛い状況だ。
これが軍隊なら綱紀粛正のために色々と強硬手段を取ったり、演説をブツなり本営からの支援が来ると励ますことができるのだろうが、孤立無援の避難所ではそれも適わない。
少女としては、一人二人中からも見せしめを出して引き締めてしまえばいいのだ、とかなり過激な発想もできるのだが……生憎、実質の指導者がハト派なのでどうしようもない。
おやっさんは既に自衛隊の統制下から離れ、給金を貰う立場でもないのに公共の守護者であることに固執する。ことこの期に及んででだ。
暴力を振るうどころか、強い言葉に命令まで避けるのは、頑固を通り越して妄執に近い何かを感じる。同じ立場の同業者さんは、さっさと自分の立場を割り切ってしまったというのに。
未だに彼が自分を自衛官と任じ、職責に殉じようとしているのは、一体如何なる理由に依る物なのだろうか。
「……ねぇ、おやっさん」
「あん? 何だ」
少女はふと思い立ち、揺さぶりをかけてみることにした。短くなった煙草を唇から抜き、新しい煙草を咥えて火を寄せながら、胡乱な笑みを邪悪なものへとねじ曲げる。
「もうさ、いっそ逃げちゃわない? 私とおやっさん、あと配下何人かでさ」
「……ああ?」
ぎしり、と椅子が軋みを上げた。今まで上体を預けきっていたおやっさんが体を持ち上げたのだ。
彼は鋭い半眼をつくり、普段の笑みと形は変わらないのに酷く歪な印象を受ける少女の顔を睨め付ける。その目には、下手な事を言えば撃つ、そんな意志が言外に篭められていた。
「もう手詰まりだよ、此処。それこそ物資を持てるだけ持って、こそこそ夜逃げした方が賢いって。私らが逃げたら、残った面子はさっさと降伏するなりするだろうし、その方が被害も出ないと思うんだよ。抵抗するからこそ、殴られるんだしさ」
少女の言っていることは、考えようによっては間違いではない。抵抗を試み、殺す気で来るなら殺してやる、という意気で立ち向かうから殺し合いになるのだ。白旗揚げて、好いたようにしろ、とすれば血みどろの争いは避けられるだろう。
或いは争いだけは、と表現した方が正確性に勝るやもしれない。果たして占領下の統治と抵抗の後の戦闘、どちらが被害が大きく出るかは天のみぞ知る話である。それでも、一応の統率を保っている相手なので、無節操な虐殺などはするまい、という打算はある。
「私達が此処で気張る意味って何? 返って死人出るんじゃない? それならさ、いっそのこと……」
粘質な言葉に混ぜられた甘言。泥のような言葉を吐く少女は、実に楽しそうだった。一人で進みたくないから、一人では進めないから。だからこそ誘惑する。巌となって絶えようとする防人をとろかさんと。
しかし、少女は言葉を途中で止めた。金属が擦れ合う、剣呑な音を聞いたからだ。その音に少女は聞き覚えがあった。おやっさんが持つ、普通の自衛官には不釣り合いなサイドアーム、9mm機関拳銃のセレクターを操作する音だ。
「黙れ。一遍だけ言っといてやる」
「……ガチじゃん、おやっさん」
鋼板で作ったかと錯覚するような険しい顔を、笑みが失せた能面のような顔が覗き込む。心の奥に宿る何かにぎらつくブラウンの瞳と、淀んだ瞳が互いを抉るように交錯した。
「たりめーだボケ。ガチじゃなきゃ、こんな仕事やってられっか。いいか、俺は自衛官だ。自衛官として生きたんだ、自衛官として死ぬしかねぇだろうが」
壮年男性の内で燃えるのはプライドか、単なる意地か。
いや、きっとそのどちらでも無さそうだと少女は察した。下らない意地のためにコミュニティ丸ごとと心中するのであれば、もっと早い段階で避難所は瓦解していたはずである。
ならば、この男をこうまでも突き動かす原動力は何なのか。考えてみても、少女には想像することしかできなかった。
何故なら、少女は狂人だからだ。楽であれば自己単体で完結できる、人間の中では異端な生き物。まっとうな世界でまっとうに生きて信念を持った兵士の心など、どうして理解できような。
なら、少女が理解できぬ領域にあるが故に、彼の内で燃えるのは狂気ではないのだろう。もっと別の、普通の感性の持ち主には崇高な、或いは尊いと賞される物なのかもしれない。
「はいはい、分かった分かった、冗談だよおやっさん。そんな怖い顔しないでよ。ちびりそうだから」
「冗談でも場所と時を選べ。思わず引き金が軽くなりそうだ」
軽口を叩き合いながら、両者共に絶対に本気の発言であることは察していた。一年足らずの付き合いなれど、その程度の本意は読めるようになっている。だからこそ、未だギリギリの所で関係が破綻していないのだろう。
行き着く所に行けば、致命的な結果が待っていると理解できるから。
両手を挙げて降参の意を示すと、再びセレクターを弄る音が響く。少女は嘆息しながら、今の意見を容れてくれるだけで、どれだけ楽になっただろうかと夢想した。
しかしながら、妄想は長く続かない。空気を読むことを知らぬ無線が、小さな音を立てて鳴ったからだ。
『警備室! 助けてくれ!』
かなり逼迫した声。ノイズ混じりの短波無線には、騒がしい声がBGMとして寄り添っている。通信している側で、何かが起こっているのだ。
決して穏やかでは無い何事かが。
「こちら警備室、落ち着け。場所と状況を報告しろ、そうしないとどうにも……」
「じゃ、アテクシちょっと行ってくるわー」
「ああ!?」
無線機を手に取り苦虫を噛み潰したような表情を作るおやっさんをおき、少女は杖を頼りに立ち上がり部屋を辞そうとする。
「多分食料庫の方でしょ。声の響き方で何となく分かるよん。あそこ、奥まってるからよく響くんだ」
『食料庫前の警備斑です! 人が押しかけてきて、おいっ、やめろっ! 離せって!!』
「じゃ、そういうこったから。おやっさん、増援早く呼んだってねー」
無線から零れる絶叫や怒号、そしておやっさんのふざけんな、という声を背中に浴びながら、少女は警備室の扉から出て行く。
廊下に出ると、確かに遠くから明らかに穏やかな事態とは思えぬ喧噪が響いてきていた。彼女は皮肉を吊り上げる笑みを浮かべ、ジャケットに片手を突っ込んだ。
「やれやれ、いよいよもって末期だこりゃ」
自警団は物資を一極管理し、配給が平等になり必要な所へ行き渡るよう、ホームセンター内にある資材の多くを倉庫にて管理している。
建材や金具に工具をはじめとし、一番慎重に管理すべき銃は警備室の隣の用具倉庫で。そして、人間が生きていく上で絶対必要な飲料や食料も、元々の商品保管庫で保存していた。
その警備倉庫前は、人でごった返している。多くは成人の男性だが、中には女性の姿もあった。皆一様に顔を怒りに染め、好き勝手な怒号をまき散らしている。
彼らの多くは、健康だからという理由で配給を大幅に減らされた者達だ。その上、集会の自由まで奪われ、命の危機に晒され続けたストレスで箍が外れでもしたのだろう。少なくとも、理性が残っているとは見ただけでも思えなかった。
「落ち着いて下さい! 落ち着いて……落ち着けつってんだろ!!」
食料庫前の警備は二人で、中にも二人居るのだが、表に立っている二人は抗議に詰めかけた面々からもみくちゃにされていた。
どれ程落ち着くように、帰るようにと注意しようが、逆上した民衆が警告を聞く筈があるまい。もし警告に従う大人しい民衆ばかりであれば、デモの鎮圧で死者が出るような事例は世界に存在するまいて。
殺意すら籠もっているのでは、と思わせる民衆にもまれる方はたまったものではない。命の危機が背後に寄り添っていると思うほど近くに感じる上、今後のことを考えたら碌すっぽ抵抗すら許されないのだ。実に損な役回りである。
実際、警備室からは何とかして落ち着かせろとの命令が来ており、武器の使用は厳禁だ。いや、そもそもこれだけの数を鎮圧できるような武装は、彼らの手元にない。
さすまたや拳銃位はあっても、それが二〇人を軽く超える抗議者の群れ相手に何の役に立とうか。この勢いを止めるには、最早軽機関銃くらい持ってこなければどうにもならないだろう。
「うるせぇ! てめえらはどうせ、たらふく食ってんだろ! 役立たずのくせによ!」
「そうだ! 子供達も腹を空かせてるんだぞ! お前らも減らせ!」
怒りにまかせて詰め寄る避難民だが、その実叫び挙げている怒りが本心から来るものかと端から考えると怪しい。確かに食料は足りていないが、それは皆同じだ。実際問題、自警団も殆どの人間が一般避難民と同じ量しか食べていないし、大抵は同じ場所で食べるので周知の事実である筈なのだ。
つまり、今回の暴動は純粋に食料を切り詰められたことによって発生したのではなく、貯まりに貯まった鬱憤を暴発させるため、何らかの適当な理由を求めただけに過ぎないのだろう。
堂々と相手を非難できる材料があれば、人間は気持ちよく誰かを貶められる。そうすると、暗い満足感を得られるのだ。自分は悪くない、この状況に陥ったのは自分のせいではないと思うことができるから。
現実的に誰が悪いという問題でなかったとしてもだ。強いて言うなら、外から襲いかかる者が悪いのだろうが、彼らには胆力が足りなかった。一致団結し、死ぬ覚悟で外的で戦おうという胆力が。
それも仕方有るまい。避難民の多くは、事態の発生当初から“庇護されるべき人民”としての立場を一切変えていない。敵に立ち向かうべき兵士としての認識を持つのは、自警団に参加した人間達だけだ。
下手に自衛隊員という、民間人を護る公僕が存在する環境が悪かったのかも知れない。戦う事を専業とする者が居り、労役はあれど護られることが基本になっている人間の心根は弱いのだ。
もしも全員が団結して死体と戦う体勢ができていれば、襲撃を受けたとしても事態は違ったかも知れない。
されど、それは仮定の話だ。幾つもある仮定の話の一つに過ぎない。自衛隊員達が来なければ、早々に陥落していたかもしれないし、離反した若者達が牛耳って暴政を敷いていたかもしれない。与太話で語られる可能性の一つ……ただ、それだけの話。
結局、現実は仮定とは違った。危難に晒されても場は一致団結できず、下らない争いが引き起こされる。外が外なら内は内、人間がすることなど何処に行っても変わらぬものだ。
「ふざ、ふざけるな! 好き勝手言いやがって! 俺たちは、俺たちが何のために戦おうとしてるか、お前らを護るためなんだぞ!?」
浴びせられる怒号に限界が来たのか、もみくちゃにされていた自警団員が一人大声を上げた。それから、掴みかかっていた避難民一人の手首を捻り上げ、襟から引きはがした上で突き飛ばす。
「俺たちだって飯食ってないことくらい、見て分かってんだろ! 隠れて食うほどの量も無いんだよ、もう!! それに、もう何人も死んでんだぞ!? こんなことしてる場合じゃ……」
今にも泣き出しそうな引きつった声音で、彼は感情のままに言葉をぶちまける。誰も彼も何かを喪っているのだ。理不尽に詰られ、怒りたい気持ちは普通ならば理解できよう。
しかしそれは、まともな思考ができている人間相手であれば、の話だが。
悲痛な声に帰ってきたのは、先ほどまでの何倍もの怒号を伴う拳や蹴りであった。人間は痛い所を突かれると、もう怒るしかなくなるのだ。ただでさえ八つ当たりしなければやっていられない精神状態にあったというのに、更にお前達は正しくないなどと言い返えされようものなら、激高するのは自然な流れである。
何発も放たれる蹴りや拳は、容赦なく最初の一撃で斃れ伏した彼に見舞われる。ついでそれを助けようとした二人目の見張りも、別の避難民に掴みかかられて引き倒された。
袋だたき、正しくそう表現するしかない光景だ。手加減などせず、感情のままに振るわれる四肢は鈍い音を立てて、蹲る肉の塊を打擲する。餓えて力の出ていない避難民ばかりだからまだいいが、この状況があと一分でも続いたなら、彼らは二度と歩けない体になるか、最悪命を落としかねない。
何より恐ろしいのは、暴行を加えている誰もがその結果を予見していないことだ。人は殴ったり蹴ったりすれば傷つく、当たり前のことが怒りで茹だった頭では考えられない。
両隣の人間が怒っているから、たった一つの事実だけで人間は理性を無くし、人間を殺せるのである。
挙げ句、その中でも血の気が多い者が居ればどうなるか。偶発的にではなく、能動的に殺してやろうと過激な行動に出始めるのだ。
避難民、否、暴徒と化した一人が床に転がる一挺の拳銃に目を付けた。弾丸がきちんと装填されたM60ニューナンブは、自警団の一人が装備しつつも、最後まで理性を護って抜かなかった武器である。
手の内にあれど、平穏を護るのならば何があっても抜けない宝刀。ジャケットの内側にしまわれた銃は、殴られた時にこぼれ落ちてしまったようだ。
しかしながら、鉄の意志で護るべき存在に向けられなかった銃口は、容易く拾い上げられてしまった。
怒りの儘に、理不尽を誰かに押しつけようとする心弱い暴徒の手によって。
拳銃を拾った彼は、慣れない人間であれば恐ろしさを感じる重みに興奮を覚えた。暴力に酔う集団心理と、ここで殺してやったらどれだけすっきりするだろうと夢想する、短絡的な欲求の誘いかけだ。
暴徒は拳銃を雑に握り、少しでも負荷が掛かれば撃鉄が落ちそうな強さで引き金に指をかける。
そして、銃口が数えきれぬほどの蹴りを見舞われ続ける自警団員の頭へと向けられ……轟音が轟いた。
炸薬が弾ける大音響の一瞬、その後に場へ満ちるは水をかけたような静寂だ。誰もが発砲に驚き、激情に任せて動かしていた体を止める。
それから響いたのは、床に薬莢が転がる冷たい音であった。
「はい、そこまでよっと。下手なコトしでかしたらマジぶっ放すよ」
群衆から一〇mばかし離れた所で、少女が愛用のM92Fを天井に向けながら突っ立っていた。足下に転がる、射撃時のガスと火薬カスで汚れた真鍮の薬莢が、銃声の主が誰であるかを教えている。
「何暴れてんのさ。気にくわないのは分かるけど、人殺しになりたい訳? なら、その殺意は外側で手ぐすね引いてる連中に向けてくんないかなぁ」
杖を頼りに立つ少女の顔には、この状況に及んで普段の笑みが貼り付けられていた。何が楽しいのか分からないが形作られる、愛嬌ある犬のような笑み。
だが、愛らしい笑顔は場合によっては、ただただ不気味に映る。こと殺意の固まりたる拳銃を担い、一発を遠慮無く天井に向かってぶっ放していた時には。
短絡的な怒りに茹だっていた暴徒の熱は一発の威嚇射撃で失せ、一瞬で零下へと引き下げられた。別段彼らは命を賭けて、ここまで抗議をしに来た訳ではないのだ。話の流れで暴行に至っただけで、命のやりとりがしたい筈も無い。
自分もまた殺される可能性が出て来て、どうして冷静でいられようか。
自警団員は銃を抜いていなかったし、下手に出ていたから怖くはなかった。反抗してこないサンドバッグを殴るのは、勇気が無くてもできること。
だが、敵対すれば殺意を向けてくる相手に立ち向かうには、胆力と勇気が必要なのだ。何となくで集まり、何となくで暴力を振るった群衆には、持ち得ない物ばかりが。
「今なら見逃してやんないでもないよ。その銃置いて、回れ右。馬鹿なことしでかしましたって反省して大人しくするならいいけど、これ以上頭の悪い……」
「うるっせぇ!!」
少女の声を遮るように上がった怒号の持ち主は、拳銃を手にした男だった。まだ若いが自警団には加わっていない、普通の男。
「偉そうにヌカしてんじゃねぇよ! お前だってそうだ! 贅沢に個室持ちやがって、それでまだ我慢してるとか、みんなのために節約してるとかほざくのかよ!」
されども見た目が普通だということは、内面も外見と同程度の成熟を見せているという担保たり得ることはない。気が短く我慢弱いことは、この集まりに加わっていた時点で明白だが、どうやら自分が攻撃されることにも我慢が効かない性質の持ち主だったようだ。
「自警団っていうんなら、さっさと全部殺して来いよ! どうして引きこもってやがる! 偉そうにしてやがるけど、結局何もできねぇだけじゃねぇか!!」
吐き出される罵倒の数々に、コイツ何言ってんだ? と言わんばかりに少女は眉根を寄せた。
自警団は戦闘を担っているので、物資の消費が他より多いことは明白であるし、少女が個室を与えられているのは無線の管理もあるからだ。
その上、この状況で外に出て戦えとは、もう笑いすら出てこない。雪上戦闘の訓練はおろか、市街戦の心得すら無い兵士未満の人間ばかり連れて出て行って、何ができるのか教えて貰いたいほどであった。
相手はプロだ。おっかなびっくり鴨を連れて散歩したなら、ネコが鼠を弄ぶほどの気軽さを以て鏖殺されよう。
しかし、普通に考えて分かることが、知識の無い外野には分からないのだ。だから勝手で的外れなことでも、臆面無く口にして攻撃できる。
ハナから誰かを罵倒して、心の均衡を取り戻そうとしていた面々だ。男の言葉に勢いを取り戻し、ちらほらと罵倒がわき上がる。そう時を経ずして、罵倒の勢いは先ほどを上回るほどへと成長してみせた。
「……想像以上にアホばっかだったか」
むべなるかな、とは思わないでもないが、当事者として最前線に立たされた少女には呆れることしかできない。彼女は心底面倒くさそうに、右手に担った銃のグリップで頭を掻いた。
何気ない動作。しかしながら、銃を向けられた方には何気ない、では済まない動作でもある。
拳銃を持った男は、銃をもたげる動作に撃たれることを予期した。さっき自分がそうしようとしたから、相手もまた同じだと考えたのだ。
悲鳴と共に銃が向けられる。38スペシャルは、一〇mの距離を空けたとしても人間を殺傷するには十分過ぎる威力を持つ。そして、一〇mの距離であれば、素人ならまぐれ当たりが怖い距離だ。
それでも少女は、動じること無く冷めた笑みで男を見返す。視線で「馬鹿な真似すんなって言ってるでしょ」と警告するように。
「馬鹿にすんなぁぁぁっ!!」
残念なことに、ある意味気遣ってなされた警告は、返って相手を激発させただけであった。馬鹿にされているとでも感じたのだろう、彼は銃口を少女の胸にポイントし、引き金を絞った。
再び轟音が響き渡る。先ほどと違い、発砲の後に続くのは重く鈍い音であった。力が失せた肉の塊の斃れる音だ。
「だから言ったじゃん、馬鹿な真似するなよって」
呆然とした顔を、貫通した銃創から吹き出した血や脳症で汚した暴徒は、拳銃を構える少女を見て思考を止めることしかできなかった。
誰の目から見ても、男の方が銃口を向けたのが早かったのだ。しかし、先に撃たれたのは男の方。それどころか、轟いた銃声は一発きり、女が放ったものだけなのだ。
男は額を銃弾に穿たれ、弾丸は貫通して後頭部から脳症と血液を伴って飛び去っていった。彼らは自分の幸運を喜ぶべきだろう。人体を貫通したとしても、弾丸には人を傷つける力は十分にあったのだから。
人が殺された。単純な一つの事実に驚愕し、火がつきそうなほどに加熱していた群衆は、あっと言う間に熱を霧散させ、別の熱に憑かれる。殺されると本能が悲鳴を上げる、恐怖の狂奔に。
一人が悲鳴を上げて逃げ出せば、遅れれば死ぬと言わんばかりに全員が逃げ始めた。中には混乱しきっているのか、態々少女の方に突っ込んで、横を通り抜けて逃げようとする者まで居るほどだ。
バタバタと騒がしく人が駆ける音に重なって、遠くで別の怒号が聞こえた。押っ取り刀で駆けつけた、別の自警団が逃げ出した連中を拿捕しているのだろう。
滅多打ちにされて呻き声だけが聞こえる老化の真ん中に立ち尽くし、少女は愛銃をホルスターへねじ込んだ。そしてポケットからクシャクシャになったソフトパックの煙草を取り出し、一本咥える。
「あーあ……やっちったねぇ」
憎々しげに吐き出される言葉と共に、空になった煙草のパッケージが死体へ向けて投げ捨てられた…………。
お待たせ致しました。流石に今年には完結できると思いますので、どうかよろしくおねがいします。Twitterの方で更新報告などしておりますので、サボってるなと思ったら突っついてやってください。