青年と少女と元日
風が入り込まぬ立派な壁と窓が健在なれど、教室には呼気が白く染まるほどの寒気が居座っていた。
雪が降り始め窓が震えるほどの風が吹き付けている外気は、日が地平の彼方へと姿を隠したこともあって零下を遙かに下回る。このまま外に蜜柑でも出しておけば、明日の朝には美味しい冷凍蜜柑ができあがっていることだろう。
そして、それは人間にも同じ効果を引き起こすはずだ。
だから青年はバーナーとコッヘルで湯を沸かしながら、毛布と比較的綺麗なカーテンなどで武装して無言の反抗に挑んでいた。
発散されようとする熱を布にくるんで押さえ込み、逃がすものかと何重にも蓋をする。その中に混ぜ込まれたカノンが息苦しそうにしているのは、時折合わせた布の間から鼻面を覗かせて呼吸していることから明らかだ。
しかし、それでも彼女が脱出しないのは青年を気遣っていることもあるが、彼女からしても快適な寒さとは言い難いのだろう。部屋の中であっても、外より少しマシという程度に過ぎず、気温は殆ど零下に近いのだから。
そんな中、かじかむ指が辿々しくルーズリーフを手繰っていた。コーヒーの缶を煮込むバーナーを明かりとして辿る、几帳面な文字の羅列には馴染みの無い言葉が並んでいた。
図書室で見つけた、急拵えのカルテだ。ドイツ語混じりの文章は、それが俄仕込みの人間ではなく、医者によって記された物であると見る者に教える。
彼は何者なのだろうか。警察主導の避難だというのなら、一緒に避難してきた近場の開業医辺りかもしれないが、既に正体を辿る標は何処にも無い。今はただ、この丁寧な筆跡の文章から、真面目な人柄が窺い知れるのみである。
「発熱、扁桃腺の腫れ、目の充血に軽い喀血……下腹部の膨満感と四肢末端の血液循環不良」
患者名と病状の進行を書き記したカルテには、死体に噛まれた人間の末路が生々しく記述されていた。淡々と綴られる文脈が、カルテという形態もあって返って不気味さを煽っている。
それでもカルテの内容そのものは、青年としては既知のものばかりで殊更目を惹くものではない。
しかし、読み進めるにつれ内容が狂気を帯び始めた。研究者としてではなく、純粋に治療する者として、何かを探ったであろうことが書き残されているからだ。
時に死へ抗うための戦いは、死そのものより凄惨な光景を作り出す。元より生が綺麗なものでないのは確かだが、人が生きるために死へ抗った結果、最も人倫から遠くおぞましい行為に手を染めるのは、酷い皮肉か何かだろうか。
「理科室の機材を用い実験……死者の血液は粘性を増すも凝固しない理由は何か。簡素な実験機器レベルでは細菌等の影は観察できず。白血球に微かな変形が見られる」
小学校の設備は本格的な研究所と比べればおままごとに過ぎないだろうが、それでも最低限の機材はある。頼りない武器を手に彼もまた戦ったのだ。正体不明の動く死体を生み出す何かと。
しかし、闘争は人間の性なれど、非日常の象徴でもある。まともな物が浸り続けた場合、精神は変容を来たし、常ならざる発想と思考に憑かれるものだ。
蜜に浸かった刃は錆びるが、研がれすぎた刃もまた、増した切れ味に反比例して靱性を喪っていく。その末に待つ物は、自滅に他ならない。
「死者の頭部を破壊すると動かなくなる、という証言を下に検証……大脳の一部損傷では不足……眼底より小脳を傷つけても機能は落ちても健在。頸部を破壊すると停止したため、機能中枢は脳幹に依存すると推察できる」
この検証は、如何様にして行われたのであろうか。答えはきっと、体育館に転がっていた死体の山に埋もれているはず。少なくとも、まともな感性で行われた検証でないことだけは確かであった。
「死者の解剖に踏み切る……活動時の死者を検温した結果……」
あくまで淡々と綴られる文章が、滲む狂気を浮き彫りにしていく。並の精神ではできぬことを普通にする。その異常さは、目の当たりにしなければ中々実感できないものだ。
この医者と思しき人物は、果たして何を考えながら死体を解剖したのか。
「口腔内検温結果、外気温と同等。脇検温、同上……」
死体は時と共に熱を喪い、最終的には外気温と同じ体温になる。その点は普通の死体と変わらないらしい。
青年は動く死体に直接触れたことはないので、冷たいのかどうかは知らなかったため、新鮮な情報ではあった。
熱が失せた体の冷たさは、死を連想させる冷厳さを持つが、弾丸の熱量にも鉈の質量にも勝りはしない。その冷たさと無謬さを知らないのは、きっと幸福なことなのだろう。
かの冷たさを知る時は、きっと彼らの仲間入りを果たす時でもあるのだから。
しかし、動く死体を拘束して検温した彼の心境は如何なるものだったのかと考えると、大変微妙な気分になる青年だった。少なくとも愉快ではなかっただろうが、あまり知りたくはない気もする。
直腸検温、という文字を見て、青年の眉根が寄った。コーヒーを啜っている時に見たくなかった文字だというのもあるが、誰が死体の陰部に体温計を突っ込む様を想像して快くなるだろうか?
少なくとも、青年には斯様な特殊性癖の持ち合わせは無いので、単に気味が悪くなっただけだった。必要だからやったのだが、気持ちの良いことでないのは確実である。
しかし、その後に続く結果に、青年の眉根に寄った皺は更に深い物となった。
「直腸検温……44度?」
あり得ない結果だ。血が凝固しており、更に心臓も動いていない事は、首をはねたり頭を潰した時に分かっている。心臓が動いていたら、血が噴水のように飛び出るはずだから。
そして、心臓が止まっているなら酸素は体に行き渡らず、熱を生み出さない。であるなら、熱いはずがないのだ。それも、普通の発熱であればタンパク質が変質してしまうほどの熱を帯びる訳がない。
人間の体温は、酸素が筋肉や臓器などの身体各所で化学反応を起こすことによって生まれる。ならば、この死体の熱源はなんだというのか。
「皮膚を裂き、肉に直接埋めて検温した結果、表皮は外気温と同じものの、温度は上昇していき、筋肉層は35度前後を維持……?」
あり得ぬ事の連続に眉間の皺は深まるばかりで、特徴の無い顔が歪んでいく。低くなる声に何かを感じたのか、カノンが毛布の間から顔を出し、心配するように鼻を鳴らした。
彼女が落ち着けるよう、強く鼻面を擦ってやった青年であるが、内心はあまり穏やかとは言い難い。此処に来てから、知りたかったような、知りたくなかったようなことばかりが分かってくるのだから。
あの体育館で、結局死体は目覚めなかった。本を落とされ、青年が声を上げても死体は沈黙を湛え、軽い反射の脈動を見せるだけで、本物の死体の如く振る舞った。
結果的に、それは青年にとって良いことではあるのだが、将来的に良いことに繋がるとは思えない。そして、このカルテは将来的に事態が好転しないことも担保してしまった。
死体の肝心要の所は、きっと腐らないのだ。動くために必要な関節や筋肉、知覚するための器官の一部もきっと生きている。
つまりは、稼働に必要最低限の場所は腐敗することなく残り続け、彼らが腐り果てて動けなくなるのを待つのは、現実的ではないということだ。
死体は動き続ける。これからもずっと。もしかしたら、青年が老いて死ぬことができた後でも。
彼らは一体いつまで動き続けなければならないのだろうか。
管理されぬ都市群が時流の流れに削られて崩れ落ち、文明と人の痕跡が緑に呑まれても尚、彷徨い続けなければならないのだとしたら……それはあまりに惨い。
数多の宗教における善悪の観念で、人間は一切の罪を犯さずに生きることはできない。キリストの教義だろうと仏教の教えだろうと、人は大なり小なり罪を犯して生きている。だからこそ、神が存在するのであれば、審判が下るのもやむないことではあろう。
されど、亡骸となって永劫に彷徨うだけの罪が一体誰にあったというのか。幼子も老人も問わず、永遠に彷徨わねばならぬだけの業を背負わせるなら、最初から作らねば良かったのだ。
いや、ここまで現実が無慈悲なことこそが、神の不在証明なのだろう。少なくとも、地獄というのが地上に顕現するのは、宗教的にあり得ない。今の世は、正に人の地獄だ。
生きる事も難しく、将来的には立ち枯れるように数が減って滅びが見えている。これは、一息に業火に呑まれて消え去るよりも、ずっと悲惨な結末だ。
殆どが何が起こったかも分からず果てる、核を用いる最終戦争の方が慈悲深いとは。。
命も精神も摩耗し、最後には尽きて喰われ、また起き上がる。一体、どんな性根の曲がった存在が、こんな終わりを考えたのか。
「……笑うに笑えんな、まったく」
これ以上読むのが辛くなったのか、青年はルーズリーフから目線を外し、小さく折りたたんだ。まだ何枚か医者の研究結果ともカルテともつかない文章が書かれているが、もう彼には理解できようとできまいと、どうしようもない事になっている。
それならば、あまり知ったとしても楽しくも無い知識を詰め込む必要はあるまい。狂人には狂人なりに感情があり、感性もある。
人は、どうせなら希望があると思いながら生きていたいものなのだ。
そこまで考えて、ふと青年は気付いた。
この肥溜めにも劣る状況で、自分は未だ心の何処かで希望を持っていたのだと。いつか事態が好転し、生きていける確率が上がるような時が来るのではないかと、信じていたのだ。
生き残っていた研究機関の研究者がワクチンを作り出したり、残存自衛隊や米軍が力を合わせ、人類の生存権を確保して助けに来る。そんな安っぽい映画みたいなオチを、悲観して諦めたふりをしながら、望んでいた。
だからこそ未練がましく無線で情報のやりとりをし、棄てても良いはずのラジオを車内に遺している。
なんてことは無い、彼にも普通の人間のような願望があったのだ。
そして、今もまた、もしかしたらこれをどこかに届ければ、何か進展があるのでは、と下らないことを考えている。
可能性があるのなら、それは普段彼が捏ねる、行きすぎた生存のための思考と変わらない。だが、現実的でもなければ希望も含まれたそれは、どちらかと言えば妄想と呼ぶべき何かだ。
本来なら一顧だに値しない、直ぐに忘れるべき考え。本来なら寝床で夢に落ちる前に見る、つたない妄想のようなもの。
残酷劇と化した巷で見るには、あまりにも馬鹿げた夢だった。
「……ま、所詮私も人の子か」
青年は皮肉気に笑い、残ったコーヒーを煽りながら、寝たら多分死ぬなと体を蠕動させた…………。
元日、四方節とも呼ばれる新年最初の日は、本来ならば祝いの日だ。
子供の賑やかな声が溢れ、大人も笑顔でたしなめる。初詣の飾り付けがなされた神社の境内では、楽しげな屋台が並び、愉快な遊びや甘い香りが立ち込めて誰もが笑顔になっていたはずの日。
しかし、立ち込め雲のために朝日を拝むことのできなかったホームセンターには、鉛のように重い空気が立ち込めていた。昨日まであった慶事の雰囲気は、根元から吹き飛ばされ、もう何処にも残っていない。
あるのは、暗い表情をした大人達と、泣きじゃくる子供の涙声ばかりであった。
「あー……やれやれ、酷いねこりゃ」
目の下に熊を貼り付け、杖を頼りに歩く少女は三階の廊下で髪の毛を掻き毟っていた。ストレスの表れなのか、髪を乱す手つきは乱暴で、痛んだ髪が何本か千切れるほどだ。
しかし、彼女の目の前に広がる光景をみれば、理解できなくもなかろう。
施設の大きさとしては相応なサイズの窓があった場所は盛大に壊れ、周辺のリノリウムの床や壁紙が貼られた壁がズタズタに引き裂かれていた。壁に至っては直接吹き飛ばされたからか、窓枠ごと抉れ飛んで随分と風通しのよい有様になっている。
被害はそれに止まらない。周囲に飛び散る、黒く飛散した何かの痕が生々しく遺されていた。
敢えて何があったかを語る必要はあるまい。此処にもまた、見張りが一人ついていただけの話である。
吹き込んでくる冷たい風を受けながら、日が昇るまでまんじりともせず第二撃に備えた少女は、不愉快そうに鼻を鳴らした。
彼女はおやっさんの手当を終えた後、彼を引っ張って扉まで運び、必死に伏せたまま手を伸ばして扉を開けて屋内に放り込んでから屋上に留まったのだ。
もし攻撃が続いたり、フェンスを破ろうと近づく影があったら、改めて攻撃してやろうと待ち構えるために。軽挙で指揮官に傷を負わせてしまった負い目のためか、彼女は彼女なりに仕事を果たそうとしたのである。
されど、朝まで粘ろうが敵は訪れることはなく、静かに雲間に隠れた太陽の暗い明かりが降り注いだ。年が明け、最初の朝がやってきた町は、いつもと変わることなく静まりかえったまま。
敵は被害を受け、粛々と撤退していたのだ。少女は凍死の危険を抱えながら、無為な一晩を過ごしたことになってしまった。
臆病と言うよりも、引き際を弁えていると言うべきだろう。小手調べで打撃を受けては今後に響くと冷静に判断し、戦力の漸減を嫌って退いていったのだ。
反撃に逆上し、かっとなって襲いかかって来ない辺りプロの仕業としか思えなかった。
また、確かに現代の小銃の交戦距離は二〇〇mから四〇〇m程度とされるが、ずぶの素人が拾ってすぐに、その距離で当てられる訳ではない。
コツも癖も分からない状態なら、一〇m先の的に当たれば御の字、という所だろうか。実際、自警団の面々も高性能な短機関銃を装備しているが、射撃練習が出来るほど潤沢に弾がないため、三〇m先の的に当てるのでやっとだ。狙おうと思えば、一〇〇m先であってもそこそこの精度で弾をたたき込める代物ではあるが、最終的に物を言うのは射手の実力である。
擲弾、暗所で正確に狙える装備、高性能な小銃。そして、敵は二人一組で動いており、素人ではない。
「……嫌な予感がするね、まったく」
「俺もだよ」
「ふぁっ!?」
背後に突然沸いた気配に少女は奇声を上げながら、片足の力のみで数メートル左へ跳躍し、距離を取ってから振り向いた。野生動物さながらの反射であるが、実戦であったらとっくに撃たれていただろう。
「……何変な声だしてやがる」
唐突に現れたのが味方であったのは、幸運なことだ。とはいえど、驚くことは驚く。なにせそれが、病室で寝込んでいるはずの人物であるなら尚更。
「い、いや、おやっさん……出歩いて大丈夫?」
よれた煙草を咥え、眠そうな半目で立っている壮年の自衛官は、血糊で汚れた野戦服の上をホームセンターで売っていた適当なシャツと着替え、左腕を三角巾で吊していた。
無精髭やらと相まって、病院から抜け出して煙草を吸っている不良中年にしか見えないが、実態は5.56mm弾を一発貰った重傷者だ。
「あれくらいでどうこうなるか。7.62mmとか5.56でもホローポイントならやばかったが、命に関わらないところを綺麗に貫通したからな」
だからといって、銃創は決して軽い負傷ではない。絶大な運動エネルギーを伴って体に入り込んだ弾丸は、肉を裂きながら圧力で瞬間的な空洞が生まれるほどの勢いで突き進む。文字通り、弾が抜けていった部分は挽肉にされてしまうのだ。
そんな傷が軽い筈がないだろう。
あの後、弾丸の治療法を知っているおやっさんの部下が、メディカルキットを用いて治療したのだろうが、断じて煙草を吸ったり、ふらふら出歩いて良い傷ではないのだ。
今回は貫通力が高い弾丸で、骨や臓器を傷つけずに抜けたから良かったものの、場合によっては即死もあり得た。だのにまぁ、何とも軽く扱ったものである。
「つっておやっさん……煙草は……」
「うるせぇ、痛いもんは痛いんだから、気晴らしに煙草くらい吸わせろ」
しかし、なんやかんや言って傷は痛むのか、おやっさんは不快そうに紫煙を吐いて、短くなった煙草を随分と風通しのよくなった窓の外へと放った。
「あーもう……」
「おい、火」
「ああ、はいはい……」
傷を負わせた負い目もあり、言いたいことは幾らかあったが、少女は大人しくライターで火を付けてやる。おやっさん愛飲の煙草特有の、同じ煙草呑みからしても臭いと言われることがある香りが漂い、紫煙が吹き込む風に揺れて霞む。
「で、補修作業は進んでるのか?」
「昨日、結構やられたからね。怪我人多数に死人二人で士気がメタクソ。おかげで全然……せめて窓塞がないと、雪降ったら凍死するよこれ」
窓際に着いていた見張りは多く、外に二人しか置かない代わりに二階と三階に三人ずつとなかなかの数だった。
結果、一方向だけとはいえ窓を掃射された被害は大きく、敵も歩哨を率先して狙ったためか被害は必然的に拡大する。
銃弾を受けて一人が死に、窓際を通りかかったり、窓に近い所で休んでいた六人が破片を受けて負傷。
そして、一人が窓際で擲弾の直撃を受け即死。遺体は、死体を見慣れた避難所の自警団であっても嘔吐するほど、酷い有様であったと聞く。
幸いというべきか、寒さから逃れるために傷病者が寝ている区画や、年末の祝いをやっていた会場は中央よりであったために銃弾による被害は出ていないものの、爆音に驚いて鍋をひっくり返し、重度の火傷を負った子供が二人出ている。
たった一撃、ほんの一回の襲撃でこの様だ。急拵えの寄り合い所帯がどれ程脆いかが、簡単に露呈してしまった。
多くの銃器と弾丸、それなりの防備に敵を追い返した実績。なまじっか成果があるから勘違いしていたのだ。自分たちは強いと。押されれば弱いと分かっていたのは、実務に当たっていた僅かな人間達だけ。
だからこそ、襲撃で受けたダメージの大きさが大きく響き、士気は挫かれる。傷ついた隣人への悲しみもあるだろうが、彼らの内心を埋める感情の多くは悲しみでは無い。
不安だ。攻撃を前にして、自分もあのように死んでしまうのでは、そう考えてしまう不安。
人間というのは肉体的に脆いが、精神的にも脆い生き物で、死を実感すると容易く壊れてしまうことがある。その死が、与えるにせよ与えられるにせよ、というのが問題なのだ。
銃で殺されることと、銃で殺すこと。二つの重圧にのしかかられ、避難民の心は悲鳴を上げ始めている。
せめて雰囲気だけでも、と思って始めた慶事が妨害されたことすらも拍車に転化し、誰も動けないでいるのだ。肉体的にも、精神的にも。
今も窓を塞ごうと作業している自警団員が居るものの、効率的に動けている者は絶無だ。精々、おやっさんについていた自衛隊員の残り三人が、まだ少しマシという程度で、皆心此処にあらずといった調子で能率は著しく悪い。
ただ板で塞ぐだけの作業だが、それが夜までに終わるかは大変疑わしかった。
「最低でも窓は塞いで、他の窓にも板を打ち付けるなりしないと拙いね。こっちの即応能力が分かったんだし、直ぐに押してくるかもしれないよ」
「可能性はある……が、どうかね。力押ししてくるかは分からんぞ」
「へ?」
煙草を吹かしながら、皺の深くなり始めた顔を渋く歪め、おやっさんは煙草のフィルターを軽く噛む。紙と繊維が負荷に晒され、きしむような音が零れた。
「連中は、まぁ間違いなくプロだろう。打ち上げる軌道でしっかり初弾を当ててくる。分かってるかお前、俺が押さなきゃ眉間に穴が開いてたんだぞ」
「うへ……そこまで正確だった?」
「おう。多分三〇〇位までならきっちり当ててくるだろう。古巣や特戦群の連中には劣るだろうが、一端の兵士であることに疑いはねぇ」
「勘弁してよ……」
チンピラ相手であれば、どうとでもなっただろう。連中なら中距離での撃ち合いになれば、小銃を構えたところで少女なら一方的に叩き潰せる。おやっさんでも簡単にやってのけるだろう、それこそ本職なのだから。
他の自衛官達も、普通科連隊所属だったり、通信部隊の所属だったりと不安は残るが、素人と比べるのは流石に失礼だ。
しかし、戦闘のプロ集団相手となれば、最早抵抗云々の問題ではなくなる。現代戦において、守手は場合によると圧倒的に不利になるのだから。
「とりあえず、窓を塞いだら鉄板なりなんなり貼り付けて、バリケードも強化させんとな……最悪、止めてある車バラすか」
「えー? 車の装甲板程度でどうにかなるもん?」
ならんよと言い切るも、無いよりはマシではある。威力が減衰されれば、より致命傷に至りにくくなるのだから。
されども、この作業状況でどこまで防備を固められるのか。出来ることならば、屋上に土嚢で壁でも築き、もっと監視をしやすくしたくもある。
やるべき事は多いのに、情報も無ければ士気も低い。その上、敵は間違いなく腕利きときた。これがゲームなら、おやっさんはとっくにコントローラーを投げているだろう。
「あーあ……参ったねこりゃ。戦車が欲しくなってきた」
「馬鹿言ってないで、三曹ん所いって、さっさとやれとケツっぺた叩いてこい。夜までに終わらんとマジで凍死するぞ」
「うへーい……私も眠いんだけどなぁ」
今はみんな辛いんだよ、と言われると何も言い返せず、少女は再び頭をかきむしり、眠気覚ましに煙草を取り出した。何度も体に敷いたせいでよれよれになっているが、味そのものに変化は無い。
疲弊した脳にニコチンは染み入るように行き渡り、興奮を静めてくれる。これもまた現実逃避だが、人間は戦い続けられるように出来ていない。時には逃避するのも悪くない。
それが後に繋がる休息であるなら、の話だが。
「さて……ちょいと捕虜を尋問するか」
「ああ、遂にするんだ」
根元まで燃えた尽きた煙草を、もう一度窓の外へと放りだし、おやっさんはバックヤードへと足を向ける。目的地は、警備員詰め所横付近の物置。
銃を保管しているのとは別所の、捕虜収容部屋だ。
現在そこには、少女が撃退した敵の一人が放り込まれている。彼女の掌と太ももに刃を突き立てたが、ギロチンチョークで落とされた男だ。
確保してから結構日にちが経っているが、自警団は彼を直ぐには尋問せず、とりあえず放置している。単に面倒だからとか、尋問方法で揉めているのではなく、日に一食だけ食事を与え、後は暗い部屋に一人で放りだし続けることで心を折ろうとしているのだ。
暴力を伴う尋問、率直に言い換えれば拷問は楽だが、これが大変難しい。専門家でなければうっかり殺してしまう事もあれば、痛みから逃れたい一心で適当な事をいう奴もいる。
要は加減も使い処も難しいのだ。扱いを誤れば、拷問は情報源を駄目にした上、誤情報を掴まされることもあるので、一般人が考えているよりも簡単な選択ではない。
やる側はやる側で、拷問される側から受ける無形の反撃に備えねばならないのだから。
そして、ジュネーヴ条約やハーグ陸戦条約などの捕虜への拷問を禁止している条約の批准国である日本の自衛隊に、そんな知識を持った隊員は居ないわけだ。
拷問の難しさは、小銃の長距離射撃と同じく素人がどうこうでいるものではない。暴力の加減は、知識以上に慣れと経験が物を言う分野である。
とはいえ、それは体面上の問題で、耐える為に拷問の知識は必要ではあるので、対拷問訓練を受けた隊員であれば、拷問する側の知識も必然的に持っていることになるのだろうけれども。
去って行くおやっさんの背中を見ながら、少女は軽く流していたが、聞き捨てならない発言があったことを思い出す。
「……おやっさんの古巣って、何処なんだろ」
おやっさんの部下四人、今では三人になってしまった彼らだが、実は同じ部隊の人間ではない。混乱の最中で潰走し散り散りになった部隊を、おやっさんが手の届く範囲で掌握して集めた面子だそうだ。
最初は、その人員も二〇人は居たと言うが、此処に辿り着くまでに漸減され尽くし、最終的に到着したのは僅か五人だった。
しかし、死体の溢れる市街を軽装で、分隊支援火気すら無しで如何にしてくぐり抜けてきたのか。少なくとも簡単な事ではないし、並の隊員には出来ない技の筈だ。
だが、おやっさんの野戦服には部隊章などが縫い付けられていなかったし、タクティカルベストも当人曰く借り物だという。他の三人は兎も角、おやっさんだけは出自が全くの謎なのだ。
生き残りの隊員が従っている所を見るに自衛官であることは間違いないのだろうが、所属や何をしていたかなどを知る者は、実は自警団にすら居ない。
ただ、古巣か特戦群という発言が気になる。少女はミリオタではないのだが、少々なれど知識はあるのだ。その少女の知識で特戦群という響きが当てはまるのは、自衛隊中央即応集団の特殊作戦群のみ。
特殊作戦群とは、分かりやすく言えば自衛隊の生え抜き精鋭だけで編成した、日本国唯一の特殊部隊だ。過酷な環境に適応し、如何なる任務であっても達成できるよう編成された人外の巣窟。
その怪物と並べ立てられる古巣とは一体何なのか。
もしかしてあの人、パラシュートがモチーフの記章持ちだったりしないだろうな、と少女は煙草の苦みを感じながら、別の苦さを舌先に覚えていた…………。
闇は恐ろしい。人間は有史以来、暗闇を払うことに腐心した。火を焚き、油を燃やし、電気の光を作り出し街路を多う。
闇から避けるのは、人間の本能なのだ。群れることと戦う事と同じように、人間は完全な闇の中で生きていけるように出来ていない。
だからこそ、目隠しをして耳栓をねじ込み手足を縛って暗所に転がしておくだけで、それは十分拷問たり得るのだ。
手足は動けぬ程度に縛られ、更に手を縛る紐と脚を縛る紐は別の縄で括られ、満足に体を動かすことすらできない。その様で、時間の感覚すら失せた後、漸く口を塞ぐ縄だけを緩められ、獣のように食事を流し込まれる。
糞尿は垂れ流す他ない。しかし、始末の手間があるからか、成人用のおむつを使っているので臭いは気にならない。それでも、不快なものは不快なのだ。彼らは取り替えこそすれど、拭いたり乾かしたりとケアの事は何も考えなかったから。
世界には闇と飢えに乾き。そして耐えがたい痒みと不快感だけしかない。音も聞こえず、触れるものは冷たいコンクリートの床ばかり。人との接触は、ただただ不快さだけを伴う行為に成り下がった。
人間の心を折るには、十分過ぎる重圧だった。
終わりがあることなら耐えられる。しかし、いつまで続くのか? と考えた時、人の心は一息に強度を喪ってしまう。水に濡れた砂糖細工のように、最初は耐えて見返してやろうとしていた決心は溶けて消えた。
もう、この目隠しを取ってくれるだけで、彼は何でもしただろう。
しかし、念のためというだけで拷問が実施される現状と同じく、彼らの敵対者が取った行動は冷厳極まるものであった。
歯の根が合わぬほどの寒さが忍び寄る、暖房もなければ毛布すら与えられぬ収容部屋。風がないのがせめてもの救いである場所で、彼に浴びせかけられたのは冷水だ。
態々汲んでから数十分外気に晒し、凍る寸前の温度に達した水は、切り込むように寒さで麻痺した体に更なる冷たさを突き込んでいく。
最早、寒いと言うよりも刃で切られるような痛みを感じた。見えない極小の刃が皮膚表面を這い回り、神経を切り刻んでいくかのようなおぞましい痛み。
直後に覚えるのは熱だった。冷たいという感覚すら失せたと思っていた場所が、逆に耐えがたい熱を帯び始める。痒みとも痛みともとれぬ、焼け付くような感覚に体が悶えれど、雁字搦めの体で出来るのは芋虫のように蠕動することだけ。
猿ぐつわが噛まされた口からは、嘆願の悲鳴が零れるが、返答は二杯目の冷水であった。寒さに体が慣れてくれることはなく、耐えがたい熱だけが精神を蝕み、思考を埋め尽くしていく……。
永劫に続くかと思われた責め苦は、唐突に終わりを迎えた。三杯目の冷水を浴びせかけられて暫くの後、悶えるがままに放置されていた男の猿ぐつわが外されたのだ。
涎と反吐で悪臭を発する布が外されるのは、彼が此処に放り込まれて二週と少しが過ぎてから初めてのことだ。食事の時ですら、僅かにずらされるだけの猿ぐつわのない呼吸は、これほど甘美なものがこの世にあるのかと思えるほどに心地よく、目隠しに覆われた光景が激しく明滅ほどの悦楽を伴うものであった。
ついで、長らく外されることのなかった大きめの耳栓が、強引に引き抜かれた。皮膚と癒合していたのでは、と感じるほど隙間なく張り付いた耳栓が抜ける時、彼は壮絶な痛みに悶えると共に不思議な快感を覚えていた。
皮膚が剥がれども、長く封ぜられていた内耳道に新鮮な空気が入るのは、解放されたという精神的な感慨もあり、痛み以上の心地よさを脳に伝えてくるのだ。
そして、その耳に入り込んでくるのは、心地の良い空気だけではなかった。低く籠もる、感情の薄い声。
心音と血流、自身の呻き声以外で久しぶりに耳朶を打った声は、彼を脅すものだったが、それすらも心地よく感じてしまう自分を俯瞰して、彼は自身の敗北を何よりも強く悟った…………。
白く広がり町を覆い隠す新雪は、新しくおろされた絨毯のように柔らかく清廉だった。
顔を埋めれば柔らかく優しい感触を返してくれそうな白は、その実、死の色だ。
あの色の下では色々な物が死んでいる。街路の下でも、そして雪が覆い隠した体育館の中でも。
青年はカノンすら伴わず、軽装でかの体育館の前に居た。片手には、つい先ほど空になった灯油のポリタンクが握られている。
灯油の帯は体育館の扉に向かって伸びていた。厳重に封鎖された扉の前には、学内からかき集めた燃えそうな物がひとしきり積み上げられている。
それは教科書だったり学級文庫の本だったり、かつて避難していた人たちが集めた様々な本や雑誌に取り残された被服だ。過去の残骸が、恨み言を言うかのように積み上げられ、灯油で湿らされて擲たれている。
また、学内で見つけたが持ち帰ることを諦められた灯油をはじめとする燃料は、適当に燃えそうな体育館の内側に山ほどばらまかれている。生活のために運び込んだのか、業務用サラダオイルの一斗缶などが給食室で見つかったのだ。
一部が燃え始めたなら直ぐに引火して、別棟全体が盛大に燃えはじめるであろう。この寒さの中でも、炎だけはあり方を変えはしない。
全ての区別無く自らの熱量で炙り、溶かし尽くす。後には、意味を喪った灰だけが遺されるのだ。
しばし茫洋と体育館を眺めた後で、青年はポケットからルーズリーフの束を取り出した。医者が遺した狂ったカルテを。
羅列される狂気の中には、希望を追い求める願いが密かに生き残っていた。だからこそ、彼は死体を辱めるような実証まで行いながらも原因を探ったに違いない。
そうでなくば、自らが殺されるような真似をしてまで追い求めなかっただろう。全ての出来事の原因を。
ルーズリーフの最後には、行きすぎた自分を処理しようとする動きがある、と書き付けられていた。その日付は七月半ばと、青年がこの避難所の終わりを予測した時期より随分と早いものだ。
それ以降の続きが著されなかった事を鑑みるに、彼もきっと此処に居るはず。終わりがどのように訪れたか、消えゆく思考で彼が何を願ったのかは、既に腐肉の中で朽ち果ててしまって誰にも分からない。
だがもう、それでいいのだ。
青年はポケットからライターを取り出す。胡蝶が踊るライターの蓋が弾かれ、フリントが回って冷気に反抗するが如く火が揺らめいた。
生存への情熱と希望を持って書かれたカルテに火が移される。しかし、赤々と燃える火は熱意の色では無く、青年が抱いた諦念の色だ。結局、何も変わりはしないのだろうという諦めの色。
景気良く燃えはじめたルーズリーフを、彼は灯油の帯へと添えた。引火性の高い液体は、直ぐさま熱を受けて燃え上がり、彼方に続く全ての同胞に熱を与えんと走り出す。
時期に火が建物全域に回り、景気良く燃え始めるはずだ。別棟全域か、あるいは小学校全域。もしかしたら、町すらも巻き込んでもえるかもしれない。
しかし、青年は炎の結末を追おうとはせず、無感動に別棟へ背を向けた。正門前で待っているカノンと合流し、此処よりマシなどこかへ帰るために。
どのみち何をしたところで結果は変わりなどしないのであれば、全てを見届ける意味はないのだから…………。
Twitter、及び感想での誤字報告ありがとうございます。文章を再編するついでにがっと一気に修正しようと思うのですが、とりあえず早く進めた方がいいと思ってついつい後回しにしがちで申し訳ない。可能な限り早く作業を進めたいと思いますので、気長にまってやって下さい。
Twitterなどでつっつかれると、多少は早くなるかも知れません(乞食)