少女と小銃と血
深夜の静寂を切り裂いた轟音は、紛れもなく炸薬によって生み出された破壊の協奏曲だ。科学と熱によって生み出される、人を容易く殺傷する混声合唱は、朗々と大晦日と元日の境に轟く。
「うわっ、なにごとっ……!?」
あまりに大きな音に聴力は一時的に麻痺し、寄る辺として頼る建造物の振動に体が泳ぐ。荒事に慣れてきて胆も座っている少女なれど、爆発に襲われるのは初めてのことなのか、咄嗟の行動を取れずにいた。
「アホかっ、伏せろ!」
「わぶっ!?」
しかし、急に伸びてきた腕が彼女の頭を掴んだかと思えば、反応する間を与えすらせずに地面へ引き倒した。
屋上に積もった雪へ顔を埋められた少女の視界の端に映るのは、自らも身を伏して頭を手で庇ったおやっさんの顔だ。
流石本職といった所だろうか。何かしらの炸裂音を即座に外部からの攻撃と結びつけ、防御姿勢に移るのは、普通の人間の発想ではできない。
戦闘を知り、戦闘の臭いを嗅いだものでなくては。
事実、爆発の発生源は至近にある。誘爆や次撃の可能性を考えるなら、少しでも被害を軽減できるように身を伏せるのは戦場では当然の行動である。
ついで、おやっさんは伏せたままで、焚き火が燃える一斗缶を蹴り倒した。勢いよく蹴り飛ばされた一斗缶は、耳障りな金属音を響かせながら幾度も転がっていく。
燃えていた燃料は雪に突っ込み、溶かされた雪から滲む水に犯されて鎮火した。月明かりすら差さぬ屋上は、一切の視界が通らぬ夜闇に沈む。
唯一の光源を潰したのは、遮蔽物のない屋上で姿を捉えられぬようにするためだ。無防備に体を晒し、攻撃を受けてはたまったものではない。
今、二人は殆ど無防備なのだ。なにせ襲撃されることをあまり心配していないこともあって、着込んだタクティカルベストからは防弾プレートが抜かれており、防御力には全く期待できない状況にある。
「おやっさん、鼻痛い……」
「頭吹っ飛ばされるよりマシだろ……今のは、単なる急造爆薬とは訳が違うぞ」
強引に頭を捕まれて地面に引き倒されたからか、少女は打ち付けて赤くなった鼻を庇いながら顔を上げた。しかしながら、明かりのせいで目が闇に慣れていないこともあって、直ぐそこに居るはずのおやっさんの姿さえも曖昧だ。
そんな少女を斟酌する余裕もないのか、おやっさんは随分と慌てた手つきで89式小銃をたぐり寄せ、槓桿を引いて発砲準備を整えている。
何故なら、あの爆音には聞き覚えがあったからだ。決して、そこらの洗剤などで作れる簡素な爆弾とは違う、自衛隊員であるからこそ聞き慣れた爆音だ。
「くそ、今のは擲弾だぞ……」
爆発物と一言でいっても、爆弾の種類ごとに爆音の質が随分と異なる。耳慣れぬ者には全て同じ轟音に聞こえるだろうが、馴染みがある者には何が使われたか分かるのだ。おやっさんの耳は、たった今、ホームセンターの三階に突っ込んで炸裂したものが、擲弾であると判断を下していた。
「擲弾って……グレネード?」
「ああ……音が違うし、まず手榴弾なんざフェンスのギリギリからぶん投げても三階に届く距離じゃねぇ。間違いない」
小声で話しながら、少女の背筋に嫌な汗が伝った。擲弾なんて、普通の自衛隊員や警察には配備されていない装備だからだ。
つまり、少なくとも敵は在日米軍か……自衛隊唯一の特殊部隊、特殊作戦軍の装備を持っていることになる。日本国内で擲弾を装備しているのは、彼らくらいだからだ。
じりじりと匍匐で全身しながら、おやっさんは頭に酷い寒さを感じていた。待機室に放り出して久しいヘルメットが酷く恋しい。火力の向上が著しい現代戦において、頼りない防具なれどもあると無いとは大分違う。
22口径や38口径ならば、まだ当たり所によっては生存も期待できるが、5.56mmでは絶望的だ。
そして、敵は擲弾を用いてきたことから察するに、その程度の装備は十分に持っている可能性が高い。頭が無防備なままでいるのは、とてつもなく不安で心細い気持ちにさせられる。
恐怖を抑えながら雪が積もっていることを忘れさせるほどの速度で匍匐するおやっさんであったが、唐突に響いたガラスの割れる音に足が止まってしまう。賑やかに響き渡る甲高い音は、三階や二階の広い部分から発せられていた。
「畜生、撃って来やがった」
ガラスの割れる音が響けども、一向に銃声が聞こえないというのに、おやっさんは攻撃を受けていると敏感に察する。少なくとも、下の自警団が反撃しようと窓を割って射線を確保しようとしている訳ではないだろうから。
敵は、きっちり減音機を装備した銃まで持っているようだ。銃声が聞こえないのに窓が割れているのは、高い消音性能を誇る銃が遠距離から射撃してきているからに他ならない。
その上、この積もった大量の雪だ。音を吸収する性質を持つ雪は、抑えられた銃声を更にささやかな物に変えてしまう。ガラスが割れる音に紛れれば、最早居場所を宣伝してくれる筈の銃声を聞き取ることすらできなかった。
「クソが……絶対チンピラの装備じゃないぞ……」
「おやっさん、ちょいまち」
こっそり覗き込もうとしていたおやっさんの足が、不意に強く引っ張られた。何事かと思えば、少女がいつの間にやら這ってきていたのだ。
「これ、使って」
まだ闇に慣れていないからか、差し出される手は的外れな方向へ向いているものの、夜目が利くらしいおやっさんには、少女が何を掴んでいるのかが見えていた。
コンパクトだ。手鏡にもなる、小さなファンデーションの収まった、女性なら携行していてもおかしくない化粧品。しかし、それを即座に戦闘に転用しようという発想がくるあたり流石というべきか。
「助かる」
小さなボタンを押せば、弾かれるようにコンパクトの蓋が跳ね上がり、内側に貼り付けられた鏡が露わになる。おやっさんは体を回して仰向けになり、鏡を縁より覗かせて、夜闇沈んだ町を眺めた。
「……見えた?」
「……見えねぇ」
しかし、鏡を構えるまでに銃撃は止んでおり、町は変わらぬ沈黙を湛えている。覗けていたかも知れないマズルフラッシュの閃光は、何処にも伺うことはできない。
「……ねぇ、おやっさん」
「分かってるよ」
下の方は襲撃を受けた避難民の悲鳴や怒号で騒がしいが、町は至って静かなままだ。驚くほど理想的に伏隙を決めたというのに、敵は更なる動きを見せはしない。
普通であれば、ここで畳みかけるように擲弾が叩き込まれ、反撃するにも索敵するにも覗かねばならない窓へと制圧射撃が行われるだろうというのに。
あるいは、混乱して碌な防御態勢を取れぬであろう敵陣へ素早く切り込み、一息に制圧することも適うだろう。
だのに敵が攻撃を続けない理由は、恐らく早期の占領を目的としていないからと推測できる。ないしは、慎重を期しているのか。
否、慎重というには放った弾が多すぎる。十中八九、攻撃の目的は小手調べか擾乱攻撃にあるとおやっさんは考えた。攻撃を軽く切り上げる理由として、合理的なものはその程度である。
希望的観測を盛り込むのであれば、制圧射撃や一撃での制圧が適わぬ程度の火力と弾丸しか持ち合わせていないとも思いたくはあったが、やはり望み薄だ。
切り詰めねばならないほど辛い状況なら、バリケードを破ったり、正面の厚い防備を一撃で貫ける擲弾は尚のこと節約したいはず。にもかかわらず叩き込んできたということは、数発程度なら問題なく使える余裕があるに違いない。
しかし、少なくとも今は総攻撃をかけてくるつもりがないのは明白であった。内部を制圧するのであれば、攻撃のタイミングは早ければ早いほうが良い。そうでなくば、絶好の機を逸してしまうことになる。
そして、陽動というには敵の攻撃に間が開き過ぎと思うだけの時間が流れた。此方の即応能力と保有火力を確かめに来たのだろう。
「どうしよっか」
「黙って頭下げてろ……無線機……あっ、やべ」
無線で呼びかけ、階下の状況を確認しようと腰に手を伸ばしたおやっさんであるが、指先に違和感を感じて声を上げた。
勢いよく倒れるように地面へ伏せた事で、体と地面に挟まれて脆い一般業務用の通信機が壊れていたのだ。頑丈で泥にぶち込んでも機能し続ける、自衛隊の無線機と同じような扱いをすれば駄目になるのは仕方の無いことであった。ただの警備員が装備する通信機には、そこまでの剛性は必要ないのだから。
「拙ったな、お前持ってるか?」
「後一人来るって分かってたし、一カ所に二台あっても勿体ないから置いてきた……」
今まで通信機が鳴らなかったのは、混乱して対応しかねているからではなく、単に壊れていたかららしい。となると、下の自警団員は指揮を求めて何度も通信を試みたのでは無かろうか。
本業であったこともあり、指揮官として認識されているおやっさんだが、かなり皆から頼られている。不在時には別の自衛隊員に指揮権を委譲するようにしているとはいえ、彼の指揮が求められたのは明らかだ。人は、本当に困った時ほど頼れる人に縋るものだから。
そうなると、混乱した人間が考える行動は自ずと絞られてくる。
伏せていて地面に耳を近づけていたこともあり、おやっさんの耳には階段を駆け上がる足音が確かに聞こえていた。
「っ……!? あの馬鹿共っ……」
足音は紛れもなく、無線機にでなかったおやっさんを心配した自警団員が、屋上に駆けつけようとしているものだろう。
危急時に頼れる者を側に置いておきたいのは分かるが、今は下策だ。少なくとも、敵の攻撃位置も射界も不明瞭な状況では。
「おやっさん、鏡返して!」
「ああ!?」
少女がおやっさんの隣に這い寄り鏡をもぎ取るのと、屋上の扉が勢いよく開かれるのは殆ど同時のことだった。
「おやっさん! 無事ですか!?」
屋上に現れたのは、自警団の一人だった。取るものもとりあえず駆けつけたのか、武器らしい武器は持たず、手には負傷した時の事を考えてか救急箱が握られている。
「馬鹿野郎! 伏せろっ!!」
言うが早いか、開かれた筈の扉が不快な金属音と共に閉じられた。それも、単に閉じられたのではなく、強引に殴りつけられて閉じたかのような勢いでだ。
扉は丁度、敵が伏しているであろう方へと開かれるような構造をしていた。見ようによっては、扉そのものが開いたとしても遮蔽物になり得る構図ではある。
問題は、現代の貫通力を重視した銃弾相手では、単なるスチールのドアに防弾効果は全く期待できないことと、大まかに立ち位置を敵に教えてしまうことだが。
敵の射界がホームセンターより低く、扉が見えなければ問題はなかった。だが、敵はきちんと屋上すらも射界に納めていたらしい。そうなれば、のこのこ姿を現した的を見逃す理由はあるまいて。
結果、真鍮に被甲された鉛のノックは、扉に幾つもの穴を穿ち、闖入者を階段へと送り返した。それ以降、何の声も聞こえてこないことから、ドアの向こうに立っていた者がどうなったかは考えるほど難しい問題ではなかった。
「見えたっ!」
しかし、少女にはどうでも良いことなのか、形の良い唇からは楽しげな声が漏れる。
何が見えたのか。決まっている。敵だ。
敵は的を見つけたのをいいことに引き金を絞ってしまった。音は減音機と雪が吸ってくれるから良いとしよう。しかし、どうしてもマズルフラッシュまでは隠しきれないものだ。
昼間では目立たない銃撃の瞬きも、この闇の中では灯台のようなもの。連射と共に生まれた発砲の閃光が、少女の掲げる鏡にしっかりと映り込んでいた。
意識して探さねば見逃してしまいそうな光ではあるが、探そうと思えばこれほど目立つものも少ない。少女は嬉々として愛銃を引っ張り出すと、チェンバーへと弾丸を叩き込んだ。
『こいつ、仲間が撃たれたってのに……』
世界がこんな有様になってから、人死には随分慣れたつもりでいても、目の前で仲間が撃ち殺されることに未だ驚愕を禁じ得なかったおやっさんは、少女の歓声に底知れぬ恐怖を抱いていた。
いや、むしろ彼女は仲間が打ち倒されることを嫌うどころか、率先して利用しようとすらしていたではないか。おやっさんが足音を聞いていたように、彼女も足音を聞いていたはずなのだ。同じような体勢をしていたのだから。
そう、彼女は気付いていた。だのにおやっさんのように警告しようとするでもなく、迷い無く鏡を奪い取ったのだ。彼が扉を開けることで何が起こるか、完全に予期して利用すべく。
結果的に無事を確認しに来た自警団員は撃ち倒され、少女は決定的な反撃の好機を手に入れた。
殺意を充填した小銃をコンパクトに構えつつ、膝立ちで起き上がる。流れるような動作でスコープを覗き込み、マズルフラッシュの起点を睨め付けた。
狙うのはほんの二〇〇mほどしか離れていない、ほど近いアパートの屋上。鏡に映った閃きを彼女は見間違うことはない。
暗闇になれた瞳は、朧気ながらに人影をアパートの上に見いだした。霞むような、本当に微かな人影ながら、彼女の射手として秀でた目はターゲットを捕捉する。
動きは一瞬足りとて止めてはならない。扉が開いた次の瞬間に反応してきた敵だ。悠長に狙いを構えていたら、膝立ちになって体を晒した少女を一瞬で見つけてしまうだろう。
そして、蜂の巣にされる。それが嫌なら、狙いを付けられる前に相手を蜂の巣にしなければならないのだ。
相手は射点で既に射撃体勢に入っているため、立ち上がり銃を構え狙いを付けねばならない少女よりもずっと有利だ。後は、その有利を先んじて攻撃しようとした時間と、少女の技術が何処まで埋めてくれるかで全てが決まる。
狙撃用のスコープほど大きく拡大してくれるわけではない、この距離でも頼りないスコープ越しに少女は気取られたことを察した。小さながらも、伏せて此方を狙っていた一人が蠢いたからだ。
恐らく、彼の蠢動は銃口を巡らせる動作。この暗闇の中、どうやってかは分からないが、少女の位置を完全に掴んでいるのだろう。
背骨が抜かれ、代わりに液体窒素でも注がれたような寒けが尾てい骨の辺りから頭蓋にまで突き抜けていく。体が死ぬと悟り、脳髄に警告を発しているのだ。
しかし少女は、額から冷や汗を一滴流しながらも自らの体に語りかけた。少し大人しくしてなさいと。すぐに怖いのは、居なくなってしまうから。
そして、子供に言い聞かすかのような優しさで人差し指が落ち、引き金が絞られた。
耳慣れた5.56mmの銃声が闇夜に轟いた。減音機を備えない少女のカービンは、景気良く装薬の炸裂音を世界へ投げかける。これこそが自分の戦吠えであると、音が届く限りの全てへ誇示するが如く。
少女は、やっぱりこっちの方が良いなと感じ入りつつ二度、三度と引き金を連続して引いた。自分の存在を小さくしてくれるサプレッサは確かに心強いが、銃声が轟く方が戦っているという実感がある。
攻撃をしている、相手を傷つけているという確かな証左。全てが銃声の中に篭められている。この火薬が弾ける音は、ただ喧しいだけのディスアドバンテージではないのだ。
「殺った……!」
小銃を担いだ姿が揺らぐの少女は見た。レティクルの向こう側で人影が頽れ、小銃が落下し、傍らに伏せる別の人影が慌てているのが分かる。
先ほどよりも何もかもが鮮明になるのを少女は感じていた。時間の流れすらも、ゆっくりになっているようにすら思える。高ぶった殺意が神経を刺激し、脳内麻薬を過剰分泌させているのだ。
少女は多少の経験と技術を持てど、本来ならば専門職とはほど遠い技量しか持ち合わせていない。しかしながら、この撃ち合いを彼女が制したのは純粋に意志の問題だろう。
作業としてではなく、殺してやると断固たる意思を持って望んだからこそ、彼女は普通では足りない部分を埋め合わせることができた。
将来それを任意で行えるようになり、経験と技量を持ち合わせたなら、少女は実に優れた戦士になるのだろう。
「このアホタレがっ!」
「わぁっ!?」
だが、それは将来の話。生き延びて経験を積めばの話に過ぎない。今はまだ、彼女は殺しに慣れただけの一般人でしかないのだ。
体を起こしつつ、おやっさんは銃を構えた少女を突き倒した。体制的に袖を掴むなどして、引き倒すことが適わなかったからである。
そして、次の瞬間には起き上がった彼の左肩から血が飛沫となって飛び散り、雪を朱に染めた。
射手は二人居たのだ。別地点に伏せ、互いにカバーしあうため。おやっさんは、最初に窓ガラスを割った時の音から、既にそれを察していた。だからこそ、下手に動かなかったのである。
日本のホームセンターは、アメリカの巨大なものと比べると随分とささやかなれど、建物としては巨大な方だ。その窓ガラス全てを割り尽くすには、一本のマガジンでは少なすぎる。
ガラスが割れ続ける音が響く時間から、おやっさんは放たれたであろう弾丸の大凡の数を計算していたのだ。決して一本の弾倉では足りぬだけの数が既に撃たれていると、彼の経験は答えを出している。
経験と戦場にあるものの発想が可能にする、敵戦力の概算をはじき出す知恵。しかしそれは、少女には無い知恵であった。
また、別種の経験からも射点が決して一つではなかろうとも考えていた。これほど手慣れた相手が、反撃された時に対応し辛いだろう一組で動くはずがあるまい。必ず、何らかの不測の事態があったとしてもカバーしやすい、複数チームで動くはずなのだ。
そうするように、本職は教育されるのだから。
少女には、敵の数を測る知恵も軍集団が行動するセオリーの知識も与えられていない。結果が、この様であった。
「がっ……」
蹴り倒されるような衝撃を肩に受け、鍛えられた体は容易く地に投げ出される。焼け付くような激痛を覚えながら、彼の頭の冷静な部分は致命傷ではないと冷めた思考を回していた。
弾丸は野戦服も厚着したコートも薄紙のように貫いて、鎖骨と肩胛骨の間を潜って抜けだし、肉を裂きながらスピンして屋上に転がった。二〇〇mは小銃の適性交戦距離圏内であり、人間の体とは柔らかいもの。無遠慮な侵入者に対して、無防備な肉体に抗う術は無い。
しかし、弾丸は骨を削ることもなければ、関節も破壊せず、臓器にもダメージは遺さない位置に当たったのは幸運なことだ。
人間の体は脆いようで頑丈で、簡単に壊れるが全体の機能は中々失いづらいようにできている。動けなくなっても、この程度では中々死なないものだ。
だからといって、軽い傷というわけでもないのだが。それに、痛いのと死なないことも別問題であり、やはり辛いことは辛いのである。
痛みに苛まれる頭の片隅で、少女に喧嘩っ早いところがあると分かっていたのだから、伏せている間に大人しくするよう釘を刺すべきだったという考えがよぎった。とはいえ、弾を受けた今では今更過ぎる発想だが。
「おやっさん!? 大丈夫!?」
「おう……弾貰うのは初めてじゃないが、きついなこれ……」
じわじわと溢れる傷口を押さえつつ、這い寄って来た少女におやっさんは呻き混じりに応える。傷口は火でもついたかのような熱を帯び、血液と共に漏れ行く体温に薄ら寒い感覚を覚えた。
死の気配だ。足音も無く滑るように近づく死神の気配とやらは、こういう感覚なのだろうと彼は笑った。この程度で死にはすまいと分かっていても、体の大げさな抗議に怯えずには居られない。
「手当っ、手当しなきゃ……」
少女の慌てた声が暗闇に響く。彼女は彼女なりに負い目を感じているのだろう。何が起こったか、聡い頭がもう理解してしまっているのだ。自分の軽挙で、頼れる人物が傷ついてしまったと。
慌てた声は年相応だな、とおやっさんはぼんやり思いながらも、外したベルトで腕を縛るという適切な応急処置の落差におかしみを感じていた。
「やばい、やばいよ心臓近いよ……」
「五月蠅いな、黙ってろ。この距離で小銃弾なら心配いらん……」
「でもさぁ……」
少女が泣き言を零したり、自信無さそうな声を出すことは滅多にない。親しかったエコーの死に目にも笑顔を絶やさなかった彼女だ。今も狼狽こそすれ、涙は流していないのだろう。
心配している内容も、普通の少女の発想にはないものだ。確かに体に潜り込んだ弾丸が伝える衝撃波が臓器を傷つけ、時に心臓の弁などを破壊し致命傷になることはある。
だが、そうなっていたらとっくに死んでいるか、意識を失っているはずだ。出血量も重要な血管を傷つけているとは思えぬ量だし、きちんと手当をしたら回復も望めよう。
「それより、もうちっと頭下げてろ……」
「ああもう、どうして余裕そうにしてんのかなぁ……」
ただ、今は見たことも無いほど狼狽する少女の顔が、暗くてきちんと見えないことが惜しかった…………。
「なんて有様だ」
完全に明かりが落ちた体育館の中二階。そこから見下ろす一階は、窓が完全に封鎖されて一部の光も差し込まぬ闇に落ちている。まるで巨大な暗渠が口を開いているかのような、生理的恐怖感をかき立てる光景であった。
一度転落したならば、永遠に落下しつづける無限の虚を想起させる暗闇。普通の感性の持ち主であれば、正視するのを恐怖に動かされた精神が拒んだだろう。
しかし、そのおぞましさだけが人を忌避させるのではない。
なにより酷いのは、別棟の三階に立ち込めていた腐臭が軽く感じられる、より一層酷い腐臭が暗闇から立ち上っていることだ。粘膜を冒し、脳髄に突き刺さるような悪臭は顔をマフラーで硬く覆っていても無遠慮に侵入してくる。
悪臭に慣れて麻痺しつつあった鼻に更なる刺激が届き、脳にほぼ痛みに近い感覚となって押し寄せた。これ以上滞在するのは、粘膜にも健康にもよくないぞ、と体が抗議しているのだ。
目尻に微かに涙を浮かべつつ体の警告を無視し、青年はペンライトの弱々しい光で階下にて淀む闇を払って呟く。
その感想が、最初の一言だ。シンプルな一言に、彼が感じた全ての感情が込められていた。最早、恐怖や怖気ではなく、諦めや呆れの境地に至るほど、階下に広がる光景は酷薄で凄惨なものだった。
ペンライトの光が照らしだしたのは、数多の死体。横たわり折り重なる、腐汁と腐臭をまとわりつかせた人の終着点であった。
板張りの体育館を覆い尽くすほどの死体が群れとなり、一塊に積み上げられているのだ。その総数は、俯瞰する視点からであっても計上することは能わない段階に至っている。
少なくとも、三桁を下ることはあるまい。それほどの亡骸が、まるで寄り添うように積み上がり、巨大な肉塊を作り上げている。何かの性質が悪い、前衛芸術のような光景だ。
腐敗が進んでにじみ出した体液に汚され、服装の判別すら難しい死体が多い。暗いことも相まって、どんな身分の人間が多かったのかも分からない。
ただ、降りてはならないことだけは確実だった。あの死体の山は、無数の感染症の温床と化していることだろう。それに、他の原因で青年にも降りる気は元よりなかった。
死体は横たわって動きを止めているが、本物の死体ではない。まだ動く、仮初めの死者であることが何ともなしに察せられるから。
彼がそれを確信したのは、部屋の暖かさかのせいだ。階段を下るにつれ、青年は気温が上がるのを感じていた。暖房設備も無ければ、火も焚かれていないというのに。
そして、むわっと籠もった熱気は下から、つまり体育館の一階から立ち上っていたのだ。発生源は、当然……体育館に存在している、死体の山だ。
「テントウムシじゃあるまいしな」
外はあれだけ寒いというのに、死体は熱を放っている。物が腐敗する時、熱を発することはあれど、既に腐敗が進んだものが積み上がったにしては、高すぎる温度だ。
原因は何にあるのかは、ここからでは推察することしかできない。しかし青年は、彼らが何のために山を作っているのかが何となく分かってしまった。
越冬のためだ。
さて、虫の多くは成虫になってから一年で命を終えることが多い。その最たる理由は、構造的に気温の下がる冬に耐えられないからだそうだ。
だからこそ、夏場に次代を造り、春に卵が孵るようなサイクルの虫が多いのである。しかし、世の中には例外も存在するものだ。動物のように越冬する虫も少なくない
なじみ深い所で言えば、土中で冬を越すクワガタだろうが、青年が想起したのはテントウムシだった。
テントウムシはクワガタと違い、土中ではなく風の入り込まない暗所で越冬する。その方法は、寄り集まって熱を保つという単純な方法だ。真冬に大きな岩をひっくり返したり、家の床下を覗けば、びっちりと密集したテントウムシが見つけられるかもしれない。
死体が寄り集まっているのは、それと同じ原理なのだろう。熱を保ち、冷気による凍結を防いで自己保全を図っている。そうとしか考えられなかった。
元より、あれらがどうして動いているのかは誰にも分からない。通常なら死んでいる状態に陥って尚、死体は動く。筋や筋肉を稼働させ、動いているのだ。
その上、原始的ながら本能のようなものもあり、動物じみた欲求に従って動いている節もある。つまり彼らは、何らかの行動原理を持っているのだろう。
その一つに自己保全が含まれているというのは、実に大きな発見である。死体は、ただ捨て身で進んでいたのではなかったのだ。それしかできないから、捨て身の戦法をとっていたに他ならないのである。
あれらも、何かしら考えて動いていたのだ。自己を護るために。そして増えるために。
しかし、その事実は特に青年の精神を揺さぶらなかった。もし彼が研究者であったなら、顔を赤らめて研究室に飛び込み、怪しげな理屈を考察しはじめたに違いあるまい。
だが、残念ながら彼は動く死体の解決に燃える科学者でもなければ、治療法を求める医者でもなかった。
ただ一人の狂人。異常なまでの自己保全意志を持つ狂人に過ぎない。
彼は死体が寄り集まっている原因まで考えたが、そこから先の思考は治療だの動く原理だのとは別の場所に飛んでいる。
何の事はない、狂人が狂人の理屈に従って捏ねる思考など一つだけだ。狂った理由に即した内容、彼の場合は生き残るための思考である。
死んでおり腐った死体が姿かを隠し、密集して冬の寒さから逃れんとする理由は分からない。それこそどうでもいいことだ。だが、寒さから逃れようとしているということは、寒くなくなったらどうなるか?
決まっている、また動き出すのだ。
きっと今頃、都市部でもこの町と似たような光景が随所で見られるのだろう。何処か風が吹き込まない場所に死体は集まり、冬が過ぎるのを待っている。
きっと、何も知らなければ死体が消えたように見え、平和に感じることだろう。雪や寒さは鬱陶しいが、直接的に殺そうと襲いかかる存在が消えるのだから。
しかし、実態は消えた訳ではない。動きやすくなる時期を待っているだけなのだ。テントウムシや熊のように。
暖かくなり、活動に支障がなくなったと判断したら死体は塒より這い出し、今までのように餌を求めて彷徨いはじめることだろう。今までと何も変わらず、そうあるのが自然であると言わんばかりに。
現在は単なる小康状態だ。無数の死体が歩き回るという前提は崩れない。寒さがきつい場所では活動しなくなるだけの話だ。
となると、あれらは暖かい所ではいまも活動しているのだろうか。沖縄なら冬場でも一五度ほどで気温は安定すると聞くし、どれだけ冷え込んでも一〇度ほどまでだとか。それなら雪も降るまいし、死体は動き続けるのだろう。
東南アジアの方は、もっと顕著だろう。何時の時期でも暖かいあの地では、死体は眠ることなく動き続けているはずだ。少なくともあの死体は、今まで眠ることも休むこともしなかったのだから。
死体が眠る冬場を猶予期間として使えるのは、きっと雪が降るほど冷え込む場所だけなのだろう。それこそ、連中は早朝に氷点下を下回ることがある年末でも動いていた。ただの寒さでは駄目なのだ。
そこまで思考を巡らせたあとで、青年はふと一つの考えに行き着いた。彼らが冬場に積雪があれば活動しないというのであれば、積雪がある状態でも活動できる装備さえ調達できれば、冬の間には物資収集をかなり安全に進められるのはなかろうかと。
今までは車を乗り入れるのが難しかったり、距離があって運べないが故に大型の資材は諦めざるを得なかった。ガソリンで動く発電機など、定住するにあたって欲しい物は幾らでもあったのにだ。
だがもし、大きな音を立てても死体が寄ってこない環境で活動できる装備を調えられたとしたら、得られる利潤はどれほどか。
少なくとも、逃げ腰でおっかなびっくり、戦う為の装備を満載しておどおどやるのとは、比べものにならないほどの利益が出るはず。
生き残る可能性、それも惨めに生き残るのではなく、快適に生活できる可能性を引き上げる考えであれば……試さずにはいられなかった。
完全な保身ではなく、後を含めての最適を選べるのが青年の生き延びるという狂気の形であった。だからこそ、必要だと思った時には果断に動ける。たとえ人を殺すことであったり、虎口に飛び込むようなことであっても。
青年は死体の山を睨め付けると、図書室から持ってきていた一冊の本を放り投げた。後で読もうかと思っていたが、今は手近に投げ捨ててもいいものがこれしかなかった。
別に意味深な走り書きがしてあるわけでも、重要な資料が挟んである本でもない。なかなかの重量がある本は、まったく惜しくないと言うように勢いよく投ぜられる。
そして、肉の山に濡れた音が響き渡る…………。
お待たせしました。もう少しペースアップしたい所存ではあるのですが、やはりやる気と筆速が伴わず、遅くなってしまいました。
Twitterでの感想や誤字報告感謝します。次も間を空けずにやれるよう努力いたします。