青年と女と少女の仮定前日譚
もし死体が起き上がる現象が突発的に起こったのではなくWHOなどによって初期の封じ込めが為されていたら、というIF外伝です
人は時に、信頼できる筋の報道であっても、真実であると認識できなくなることがある。それは、内容がショッキングであればあるほど顕著だ。
かの911テロ事件があった時も、あまりの鮮烈さと過激さに、またハリウッドが新しい映画の番宣でも打っているのだろうと思った者もいるだろう。
今回のニュースもまた、そんな冗談か何かと思われていた。
「……動く死者?」
矮躯の淀んだ目をした青年は、その報道を実家の居間にて朝食の卵焼きを囓りつつ聞いた。朝、いつも同じ時間に起きる習慣のある彼が、家族全員で朝食を囲んでいた時の事である。
「また海外ドラマか。地上波でもやるようになったのか?」
「お父さん、これNHKよ?」
あまり青年と似ていない両親が、ぼんやりとした感想を零した。この二人は、やはり911の時も映画のCMと勘違いしたクチの人物で、他の一般市民と同じく平穏の中に生きている。
こと日本において顕著な、自分だけは何があっても平穏無事に一生を終えられる、そう強く信じている人間が感じる、普遍的な平穏の中にだ。
なればこそ、尚更ショッキングな報道には鈍感であった。薄皮一枚隔てた、どこか遠い世界の物事のように感じてしまう。それが、数百キロ程度しか離れていない、自国内で起こった震災のことであっても。
今回の報道も、彼らは同じように受け止めた。遠い世界で起こった、自分には関係の無さそうな事態であると。
「そういえば、そうだな……ドラマの時間の数分前は、何時もCMの筈だが」
「CM仕立ての宣伝って、紛らわしいからやめてほしいのよねぇ」
そう言って漬け物を囓る妻に、夫はH・G・ウェルズの宇宙戦争を原作としたラジオドラマの蘊蓄を語り始める。
宇宙戦争という、今となっては古典的なSFとなってしまった小説を原作に持つドラマが実際のニュース風の描写を入れたため、内容を信じたアメリカで一部市民がパニックを起こした事件である。
実際は大したパニックは起こらなかっただとか、パニックなど起こりはしなかったものの、報道関係の力を削ぐ理由作りのための捏造だのと色々な説が飛び交っており、真相は分かっていない。
兎角、そんな益体もない話だ。
他人の蘊蓄を聞くというのは、あまり楽しい行為でもないが、青年の母親は興味深そうに聞いてやっている。だから、この夫婦間は子供が成人するに至っても上手く行っているのだろう。
しかし、当の青年には、そんな微笑ましさを感じている余裕はなかった。背筋に妙な怖気が走って仕方がなかったのだ。
「WHOが発表した内容によると、南米の……」
緊迫した表情で原稿を読み上げるキャスターの顔には、演技の色は見いだせなかった。もし彼が役者であったなら、それこそアカデミー賞級の男優であっただろう。
だが、その顔は毎朝のニュースで見慣れた顔だ。国営放送の飾り気のない演壇に座り、毎日代わり映えのない、何処か余所の世界で起こったような事態を報じる人物。
小さく切り取られた枠に映るのは、遠巻きに映される炎上した町。派手に燃えている訳ではなく、何処か暴動が起こったような雰囲気がある、幾筋かの黒煙が立ち上る光景だった。
「ねぇ、時間大丈夫なの?」
「えっ?」
報道を茫洋とした表情で見つめていた青年の箸は、ぴくりとも動かなくなっていた。それを不思議に思った母親は、蘊蓄の合間に彼へと声をかけた。
思考と曖昧な怖気に捕らわれていた意識が、急に現実へと引き戻されて妙な声が出る。青年は、不思議そうな顔をして母親を見返した。
「時間。早く食べないと」
「ああ……大丈夫、今日は三限からだから」
大学って面倒よね、時間割がちまちまずれるんですもの、と他人事のような感想を零してから、母親は父親に向き直った。父に関しては、職場が近く自転車で通勤しているから心配していないのだろう。
「ん? なんだ、もうドラマの時間が始まっているじゃないか」
「あら、ほんと」
見やれば、ずっと画面の端っこに表示されていた時計の表示は、とっくに家族が毎朝視聴する、どうして朝からそんなに憂鬱な気分にさせられる事件ばかり起こるのだ、と言いたくなるドラマの時間を過ぎていた。
文句を言いつつもルーチンワークとして視聴していたドラマは、疾うに始まっている時間だ。父親は、そのドラマが終わると同時に身支度を始めるとちょうど良い塩梅になるので、タイマーとしての役割も果たしていたドラマが始まらず、未だ逼迫した顔でキャスターの話す、現実味の欠けたニュースが続いていることに違和感を覚えた。
「……じゃあこれは、本当にNHKのニュースなのか?」
「ええ……? まさかそんな……」
遠い世界で起こっていた出来事が、這い寄るような速度で現実に迫りつつある。精神の端っこを擽る、馴染みのない感覚に脅かされながら朝餉の時間は過ぎていった。
ごく普通の日本人として生きてきた二人は、その感覚の名を知らない。
しかし、所以の分からぬ強迫観念により静かに狂っていた彼らの息子は、その名前を知っていた。現代においては異様なまでに生存に拘る、謎の気質を持つ彼だからこそ分かる感覚。
それは、一般的に死の気配と呼ばれるものだった…………。
「号外か……」
昼頃のがらんとした電車の中で、青年は普段見ない紙の新聞を手繰っていた。新聞と言っても、偶発的に刷られる両面刷り印刷一枚きりの、いわゆる号外と呼ばれるものだ。
紙面には、何かを伺ってのことなのか直接的な描写は避けられ、WHO奇病を発見か、という見出しが躍っていた。
大凡の一般市民は、死体が歩くのはテレビ画面の中かスクリーンの出来事だと考えているし、今までは実際そうだった。死者が起き上がるのは、陳腐な映画やゲームの中だけの話で、実際に起こりうる事態ではないとされている。
しかし、現実が変わり始めていたのだ。
がらがらの電車の中、現実感の薄い文章が報じるには、南米北部のガイアナ共和国なる小国にて事は始まったらしい。馴染みのない国名であるからか、殊更に現実味が薄れ、遠い世界のことに感じられる。これがブラジルやベネズエラなら、少しは違ったのであろうか。
とまれ、内容を読み解けば、数日前の未明に葬儀を控えていた遺骸が起き上がり、死者が蘇ったと感動して抱きついた家族に噛み付いたそうな。
正にゾンビホラー映画のテンプレートだ。ジョージ・A・ロメロが制作指揮を執っていたのであれば、ここから籠城戦が始まったことであろう。
ただ、そこから先は映画とは違った。葬儀関係者が持っていた銃を抜き、即座に動き始めた死体の頭を吹き飛ばし、改めて神の御許に送り返したらしい。
ガイアナ共和国は南米のギアナ三国でも治安はかなり悪い方であり、首都のジョージタウンはバイオハザード都市などと揶揄されるほどの危険地帯だ。日本政府も渡航する際には、十分注意するようにと警告を発するほどの場所である。
発砲事件も多く、拳銃を用いた殺人や強盗も日常茶飯事である、ステロタイプな治安が悪い都市。だからこそ、事態の沈静も早かったのかもしれない。
今時は何処ででも映画は配信され、ケーブルテレビで見ることができるから、メジャーな映画の知識は大勢が知っている。だから、即座に頭を吹っ飛ばした葬儀関係者もゾンビ映画に則った対応が取れたのだろう。
しかし、事態はそこから少し複雑化する。噛まれた親類が、そのまま処理されずに病院へ運び込まれてしまったのだ。
当然、映画知識に従って行動した葬儀関係者は、その親類も撃とうとしたものの、周囲からしたら突飛かつ狂気の沙汰としか思えない行動だ。彼は死体の頭を撃ち、首筋を噛まれて悶える親類の頭に銃を向けた所で、別の葬儀関係者に拘束されたそうだ。
そして、そこからは挫かれていたお約束が息を吹き返した。病院に運び込まれた怪我人は、お世辞にも良いとは言い難い環境の下治療を受けた結果、血液感染するらしい奇病が病院関係者の中で伝染。数時間後にバタバタと医者やナース、果ては彼らに治療された人間までもが倒れ始め大事故になった。
ただ、治安が悪い国とはいえど、曲がりなりに政府がある場所だ。対処はそこそこに早く、何か拙い感染症なのではと懸念されWHO、世界保健機構に通報が飛び事件が発覚。そして、昨日には最初に噛まれた親類が死亡した十数分後に起き上がって、大事件に発展した訳だ。
しかし先を読めば、死体は葬儀関係者からの話を聞いて警戒していた警察職員によって、起き上がりはしたものの、即座に処理されたと書かれていた。
はて、おかしいなと青年は首を傾げる。そうであったならば、朝の黒煙が昇る町は何だったのかと。頭の中ではてっきり、巨大製薬企業のあった都市が如き惨状が繰り広げられているものと思っていたのだ。
されども、文面に従うのであれば、死体そのものの脅威は病院内で押し止められている。ならば、あの炎上する町は何だったのか。
想像を巡らせ始めた青年だが、不意に紙面に落としていた視界の端っこに誰かが立ったのが見えて視線を外す。どうして態々、がらがらで空いたところに座れる筈の車内で、自分の前に立ったのかが気になったからだ。
「よう、後輩」
斯くして視線を上げた彼は、結果的に少し首が辛い角度まで顔を上げる嵌めになった。何故なら、目の前に立っていたのは見上げるほど背が高い女性であったからだ。
「……どうも、先輩」
下から見上げると、大きいものの威圧感というのは何倍にも増す。特にそれが、女丈夫と表現して何ら差し支えのない、堂々たる体躯の美女だった時は特に。
豊かに張り出した女性のシンボルと、その向こうにある何が楽しいのか分からないが、切れ長の意志が強そうな目を弧にねじ曲げた笑み。威圧感のある美女は、小さな体を縮めて記事に見入っていた青年を見下ろしている。
「隣座るぞ」
許可を待たずして、一般衣類量販店では服の調達が大変そうな彼女。青年が通う大学の先輩は座席に身を投げるようにして、腰を下ろした。
「どうしたんです、先輩。電車なんて珍しいですね」
「ん? ああ……今夜は雨らしいからな」
普段は電車で会わない人物と遭遇したことに驚きながら、青年は無遠慮に隣へ座る女に声をかけると、彼女は腰元まで届く長い髪を体の前へと流しながら、事もなげに応えた。
バイクで大学の近くまで通学している彼女は、雨の中でバイクを転がすことを嫌って珍しく電車で通学することにしたようだ。四月とはいえど、流石に日が暮れた後は寒く、雨が降れば尚のこと冷え込むだろう。
寒さに震えながらバイクで走るのを避ける気持ちは、青年にも何となく分かった。ただ、パーソナルスペースなど知らぬと言わんばかりに、他人の膝の上で広げられた新聞を覗き込む考えは全く理解できなかったが。
「なぁお前、これどう思う?」
「……何がです?」
主語を欠いた疑問に疑問で返せば、女は号外の見出しを面倒くさそうに突いてみせた。
奇病、たった一言で表された、おぞましい現実を。
「如何にもやばそうだろう。具体的にいえば、二八日くらいで世界が終わりそうじゃないか」
「先輩、その手の映画好きですね」
「なぁに、お前ほどじゃない」
実際、青年はゾンビホラーと区分される映画は好きだった。名作はDVDを購入し、個人的に保存しておく程度には愛好している。しかしながら、全く以て心が躍ったりはしなかったが。
たとえホラーが好きだったとして、誰がその当事者になりたいと思うだろうか。ホラー映画が楽しいのは、自分があくまで部外者として惨劇を俯瞰するからに他ならない。参加させられるとなったら、それは最早娯楽ではなく、単なる悪夢だ。
「……WHOが隔離を宣言してますが」
「馬鹿、こういうのは映画だと、大抵は手遅れだろう? 直ぐに全世界に広がるかもしれんぞ」
ニヤニヤと実に愉快そうに笑う女を見て、青年は珍しく表情を曲げた。怪訝そうな、不快そうな渋面に。彼の表情は、如実に縁起でもないことを言うな、と語っていた。
平穏が一番というのは、一般人が共有する願いだ。ちょっとのスリルはあってもいい。だが、命を賭けるようなスリルは、その他大勢の一般人は望んではいないのだ。
少なくとも、青年が好んで見る映画のような事態になったなら、どれだけ生き残れるか。彼には、自分だけは大丈夫だと楽観的に考えることなどできようもなかった。
「広がるにしても、南米で止まってくれませんかね」
「一昔前ならまだしも、飛行機も船も一日に呆れるほど行き交ってる世の中だからな。望み薄だろうさ。それに、日本がどれだけ南ア産の食い物を輸入してると思ってる?」
事実として、南米産の魚介類や果樹は日本に多くが輸入されているし、行き来も決して少なくはない。奇病の元が一体なにかは分からないが、潜伏期間などを考えるに、既にある程度世界中へ拡散していたとしても、おかしくはなかった。
「楽しそうで何よりですが、もしそうなったらどうするんですか?」
愉しそうに暗い未来を語る先達への抗議としてか、青年は号外を折りたたんで彼女へと押しつける。話を始めたんだから、後の始末はアンタが付けろと言うかのように。
「そうさなぁ……」
しかし、女は号外を受け取ると、それを胸ポケットにしまい込んでから車窓へと目線をやった。静かに変わらない毎日が流れているそこへ、つまらないものでも見るかのように眺めながら、ぼんやりと呟く。
「その時は、旅でもするか」
「旅ですか……?」
ああ、旅さ、楽しそうだろう? 女は、青年へ快活に笑いかけながら言った…………。
「ねぇねぇ、朝の話聞いた?」
「ニュース見たよ。ガッコ来る途中で、新聞も配ってたし」
朝の学校の姦しさというのは中々のもので、女学生達は早朝の雀も斯くやという賑やかさで延々と話し続ける。その内容は大凡、昨日のテレビの内容やら授業、あるいは気が早いことに放課後の予定であることが殆どだ。
しかし、今日は平素とは異なり、女子高生には似合わぬニュースの内容で教室は溢れていた。死体が歩いただとか、現地では感染しただのしてないだのとで撃ち合いが始まった、そんなニュースを各社が報道したこともあって教室の話題は持ちきりであった。
理解出来かねぬことでもない。平和な自分の世界が、もしかしたらスリル溢れる創作世界のようになるかもしれない。そう考えたなら、危機感に薄くスリルに飢えながらもリスクマネジメントに疎い子供は賑やかにもなろう。
結果の一つとして、死したかつての級友にはらわたを貪られるかもしれない、修羅の世界が到来するとも知らずに。
「おはよー、賑やかだねぇ」
「あっ、おはよう!」
楽しげに不穏な推測を孕んだニュースへの話題が飛び交う教室に、一人の少女が扉を開けてやってきた。
学校のどの男子教師や男子生徒より高いと言われても、まぁなるほどと受け入れられそうな、見事な体躯の少女だった。それでいて彼女の手足はしなやかに長く、折れてしまいそうな頼りなさとは無縁であった。
モデルというよりもスプリンター、ともすれば兵士のようだと形容するのが似合う体つきをしている。
にもかかわらず、その体躯が戴く顔は、あまりに無邪気で幼かった。朗らかな満面の笑みを浮かべ、豪奢でボリュームのある金髪を背中の半ばまで伸ばした彼女は、どこか愛嬌のある大型犬を連想させる。
美人というには幼く、可愛いというには整いすぎた、一言で印象を語るのが大変難しい彼女は、自然と一番大きな人だかりの中へ紛れ込んでいく。これだけで、彼女がクラスの中でも中心人物であることが自然と理解できよう。
「ねぇ、見た? あの朝のニュース」
「あー、見た見たー、映画っぽかったよね、ほら、映画の演出であるニュース!」
少女の声に同調し理解を示す声が返ってきて、教室は今まで以上に賑やかさを増す。正しく、危難など実際には存在していないかのように。
少女もまた、あくまで朗らかに、あくまで自然に、誰の目にもおかしくないよう振る舞い続けた。危機感を覚えるような事件が起こっていても、歓迎し難いニュースが巷で溢れるようになっても。
しかし、彼女の目は笑っていなかった。目だけは、何か別のものを見ていた。生きるために楽な方へ流れる流れ、とでもいうべき空気をだ。
惰性に流されるのと、最終的に楽な方向へ向かうのは違う。少女が求めるのは、後者だ。楽な方へ、苦しむことも悩むこともなく、考える事すら必要なくなる楽な所へ。彼女が行きたいのは、そんな精神的に弛緩しきって死んでしまうような極地。
だからこそ考える。どうしたら楽なのか。どうすれば楽に……生きていけるのか。生きていくのは前提だ。絶対に必要な条件を満たすために逃げるのだ。されど、その逃避は現実から目を背けるための逃避とは違う。
戦う為の逃避。大きな矛盾を内側で沸騰させながら、少女は爽やかに笑って、世界が立てる軋みの報道をちっぽけなことであるかのように語り合った…………。
世界は思っていたよりも理不尽であるが、映画ほど世界を回している人間達は無能ではなかった。一ヶ月後の世界がどうなったかを語るのであれば、それに尽きる。
五月の末、桜も葉桜となって淑やかに姿を隠し、散った花弁も掃かれて消え、新たな学生達が謎の脱力感と講義出席への意欲を失う中世界は、少なくとも日本はあんまり変わっていなかった。
いや、変わってはいる。されどもそれは、一般人の目に見えづらい場所での出来事だ。税関が強化されたり、今まで一部の国からの輸入品には検疫を免除していたのを一切認めなくしたり、出入国時の検疫が強化されていた。
それでも全ての渡航が制限された訳でもなければ、夜間外出禁止令が発布されたり、町を機動隊が固めたりするほどの非日常は訪れなかった。
未だ日本では、死体が起き上がる事件は起こっておらず、連日報道されるニュースでも詳しいことは分かっていない。大っぴらになっているのは、よしんば動き出しても死体は大した脅威ではない、とされる程度のことである。
しかし、ネットは色々な論調で荒れているし、海外の報道機関が報じるニュースは、中々に物騒な内容も多い。
特にアメリカでは、死者の到来に黙示録のアポカリプスを重ねてキリスト教系のカルトが暴れたり、病気の隣人をゾンビ病だと疑ってかかり銃で撃ち殺したとかいう事件が増えている。
南米の一部地域では、死体が起き上がる奇病への恐怖で暴動が起こっているとも報じられていた。青年は後々知ったことだが、最初に見たニュースで炎上する町も死体のせいではなく、死体を畏れて発生した暴動によって炎上していたらしい。
今も自警組織を自称する連中が、少しでも奇病の疑いがある者を射殺したり、病院を焼き討ちしたり、果ては土葬した墓を掘り起こして棺を焼いたりと相当派手にやらかしているそうだ。
それでも日本には、大それた騒ぎも起こらなければ、一部の声高に恐怖を叫ぶ人間以外に殊更変わったことは起こらなかった。
このままなら、何も起こらないだろう。不確実なことを確実だと信じる、平穏に浸りながら生きる人々は根拠のない確信の中、いつも通りの日々を甘受している。
「なぁ、後輩、私はちっとスイス辺りに飛ぼうと思うのだよ」
「はぁ?」
大学の部活棟、その屋上で夕暮れの逆光の中、茶色い巻紙が特徴の煙草を燻らせながら、長躯の女は矮躯の青年へ告げた。唐突過ぎる宣言に、奢られたカフェオレを啜っていた彼は、素っ頓狂な声を上げてしまう。
ここで二人が休憩がてら煙草を吸ったりコーヒーを飲むのは、殆ど慣例と化しているのだが、あまりにも脈絡のないことを言うので驚いたのだ。
しかも、ちょっと頭が緩そうな、あまり質の宜しくない大学に通っている人間が、とりあえずで言いそうなことを宣うので、正直何言ってんだコイツという反応をするしかなかったのだ。
「何言ってんですかアンタ」
顔をするだけでなく、ついでに実際に言っておくと、女は楽しそうに一枚のビラを突きつけてくる。それはネットのホームページ上から印刷されたもので、内容は全て英語で記されていたが、青年には記述を読む程度の英語力はあったので特に文句も言わず目を通していく。
「国際公衆衛生維持局?」
それは、International Public Health Support Service、日本語訳するのであれば国際公衆衛生維持局とでもするのが妥当である組織の発足を宣伝するものであった。
内容は特定奇病の原因究明と対処のための特別機関であり、立場としてはWHOの従属機関として、死体が起き上がり活動する事態の対処に特化する組織になるそうだ。
今は血液感染しかしないと思われている奇病だが、病気には突然変異や感染経路の拡大は付きものである。早期に対策し、可能ならば根絶しなければ国際的に宜しくないと判断が下されたため、複数の組織にあった特別対策部署を統合、再設立した上で事に当たろうというのだ。
主業務は奇病感染源および治療法の特定に関する研究と予防措置。また、実際に死体が動き始めた段にいたっての感染経路特定から……。
「事件実働対処」
「ああ、機動隊を作って現地警察と協力の上、事態解決を図る部隊も置くんだとよ」
名前に反して、扱うものの危険性に応じてか、あまり相応しくなさそうな業務まで国際公衆衛生維持局には附帯するらしい。とはいえ、此方に齧り付こうとする死体が彷徨く中、無防備でいろとは言えないのだし、独自の機動部隊を持つのもやむを得ないことなのだろうか。
「処理したとしても、一旦動いた死体はベクターとしての能力は失っても感染経路にはなり得るらしい。そんでもって、軽々に現地警察が扱ったなら感染が拡大する可能性もあると」
「文字通りの死体処理屋って訳ですか」
薄っぺらいビラ一枚には、そこまでの情報は載っていないのだが、恐らく別口のページで得た情報だろう。女は実に愉快そうに、新たに設立される物騒な組織への展望を語った。
「日本も厚労省が協力を表明してるそうだ。早晩ニュースでもやるんじゃないか? こういうのは、どーにも日本の報道はやるのが遅いからな」
「はぁ……大仰な組織ですね」
「WHOの一部署が重武装したり、現地警察に全部対処させるわけにはいかなんだのだろうさ。扱うブツがブツだから、仕方あるまいよ。むしろ、腰が重そうに見えて中々果断な判断をしたと思うよ、私は」
現実的に死体が動くという、今までの世界をひっくり返しかねない異常事態なのだ。そう考えるなら、多少強引であり性急に見えたとしても、対策する本部は組織されねばならなかったのだろう。
また、各国がバラバラに対処するべき事案とも言い難い。であるならば、各国で協力して資金を拠出して事態解決を図る方が話としても単純で楽になる。
「まぁ、中々にブラックそうな所もあるんだが……」
「でしょうね」
実態は、各国間での牽制合戦といった具合であろうか。歩く死体の感染源を特定できれば、経済的に優位に立てるし、場合によっては悲惨なテロリズムにも利用されかねない。
どこか一国が感染源の治療法や利用法を独占しないように相互監視をするのが、裏の設立理由であろう。或いは、足の引っ張り合いと言い換えても良さそうだが。
「……入りたいんですか?」
「ああ、ほら、考えてもみろ。この場合、最前線が一番生き残りやすそうだろう?」
「最前線……ですか」
「そうだ。職員ともなれば、いの一番にワクチンやら予防接種やらを受けられそうだし……無力な一般人で居るよりはよくないか?」
確かに、これらの業務を遂行する以上、職員にしてもエージェントにしても武装は許可されるのだろう。日本にいては、個人では決して携行できない部類の、敵に抗うための手段を。
万が一の事態に陥った時、抵抗する手段があるとないでは生き残れる確率はぐんと違う。その上、奇病への治療手段が確立されたなら、最も早く恩恵を受けられる立場にいられるのだ。
それならば、自分たちの住んでいる所で事件が起こらないようにと祈っているより、生き残る確率は高くなるのではないだろうか。
何ならば、奇病に感染するような人間がそもそもいない山奥に引っ越すこともいいが、現代を生きるにはあまりに不便で消極的過ぎる。積極的に生き残りを図るなら、そう悪くもない考えだと思えた。
しかし、問題があるとすれば……。
「でもこれ、曲がりなりに国際組織ですし、修士課程を終えないと駄目なのでは」
「そこに気付くとは……やはり天才か」
頭の悪い反応に、青年は一瞬カフェオレの缶を取り落としそうになるも、何とか握力のコントロールを取り戻して甘味を無駄にせずにすんだ。
海外の就職は、日本の育成型就職と異なり、就職した次の日から実戦レベルで働けることを前提として採用されることが多く、国際組織も例外ではない。
特に国連などをはじめとする、世界中で広範にわたって活動する組織では、その傾向が顕著であり、何かしらのスペシャリストであることが望まれる。
国際公衆衛生維持局であるなら、性質上必要とされるのは医師や研究者に看護資格保持者。他にも国際法や多言語に対応した人物と……荒事のスペシャリストといったところだろう。
欲しいのは、すぐに使える人材だ。新卒で雇って貰って、スキルを現場で磨かせて貰おうという日本の考えが通用する場所ではないのである。
「まぁ、だから修士課程に進むか自衛官になるかで思案中だ。どっちでも、上手いこと行けば生きる目も出てくるだろうさ」
「ゼミ、国際法でしたっけ?」
専攻変えるのは大変だよなぁ……と遠い目で沈む夕日を眺める女を、青年は冷めた目で見つめてやった。何やら色々と考えているようで、殆ど思いつきではないかと。
「ああ、そうだ、後輩。お前も目指してみたらどうだ? 興味……あるんだろ?」
だが、夕日を眺めていた女が唐突に振り返り、逆光に塗りつぶされた陰影の中で妙にぎらつく瞳に射貫かれ、青年の体は俄に緊張を帯びた。瞳孔が光の刺激に反して拡大し、毛穴が開いて背筋に小さな汗の玉が浮かぶ。
何かを探るような、試すような言葉と視線。全くぶれることなく、目の奥にあるものを浚おうとするかのような目を、青年はじっと見つめ返す。
自分は試されている。彼は、そう直感した。彼女の目に適うものであるか、品定めをされているのだ。
濁った瞳は、目を通して魂の輪郭を探ってくる。人間の本質は、目に宿るものだ。本性、気質、願望……それらは時にモニターに映し出された画像も斯くやといった風に目へと現れる。
青年の淀んだ瞳が小さくぶれて……閉じられた。
「興味はありますよ。でも、私は院に進みたいと親に我が儘を言うのは気が引けますし……このタッパなんでね」
残ったカフェオレを一息に干し、視線から逃れるように青年は女に目を背け、ゴミ箱へと向き直る。そして、山なりの軌道を描くように空になった缶を投じた。
どことなく、これ以上見透かされてはいけない、魅入られてはいけないと、狂人の本能が囁いたのだ。生き残ることにかけて、何より敏感な己の本能が「つきあうな」と警告を発したのである。
彼女は、ある段階においては良きパートナーとなるだろう。生存を助け、人生を安定させるための良い相方に。貪欲な本能が、そこは認めていた。
だが、その本能が彼女の中で微かに蠢く別種の本能をかぎ取った。ある段階を超えた時、その本能が抱える欲望が、きっと自分の生存にとって望ましくない結果をもたらすぞと。
青年は逃げたのである。自分が信じてきた本能と狂気に従って、今はつきあわない方がよいと考えて。
「採用される実績を作ろうにも、警官にも自衛官にも身長が足りないんで……私は遠慮しておきます。ま、先輩が何とかしてくれるよう祈っておきますよ」
足早に去っていく矮躯の背中を、濁った瞳は何時までも見つめ続けていた…………。
小さな部屋にキータッチの音が響いていた。
狭いながらも小物が沢山置かれた、少女らしい部屋だ。その中で、大型のタワーパソコンと鍵付きのガンロッカーだけが異彩を放っている。
ガンロッカーに収められているのは、エアーを充填してパレットを射出する競技用空気銃、いわゆるエアライフルと呼ばれる銃だ。本来は一八歳から所持申請が通るそれを、部屋の主は海外での競技実績により特例の一四以上からという制限で所持していた。
「んー……やっぱ厳しいかぁ」
しかしながら、その持ち主はエアライフルに満足していなかったらしい。何故なら、猟銃の所持申請方法や、現実的に入手できそうな猟銃が複数タブでモニターに表示されていたからである。
エアライフルは銃刀法で規制される品で狩猟にも使われるが、競技用となると威力は相当に落ちる。それこそ人間を殺そうと思えば、目に打ち込んだ上で眼底を砕き脳幹に直撃させてなんとかという、実に神業じみた技量を要求してくるのだ。
もしも映画のようなゾンビパンデミックが発生した場合、到底使い物になる品ではない。精々、痛みに弱い人間に当てて威嚇としたり、鴨などの食べられる鳥を捕獲するくらいにしか使えないだろう。
となると、もしもを考えると欲しいのは高威力の実銃だ。一二ゲージのショットガン、それもセミ・フル両用の品があればご機嫌なのだが、如何せん日本では手に入らないし弾丸も高価である。
挙げ句の果てに、頼みの綱ともなりうる装弾数すら制限がかけられているとなれば、もう割とどうしようもない有様だ。死体が山と押し寄せる中、ちんたらと三発ずつ装填していてはキリがない。
要するに日本国内では、どう足掻いた所で死体を満足に撃破しうる、高い発射レートの武器は手に入らないということだ。
どうしても、というなら自衛官か警察の特殊部隊にでも志願するほかあるまい。銃規制が激しいこの国で、装弾数の多いフルオート射撃ができる銃を所持できるのは、彼らくらいなのだから。
とはいえど、その彼らも仕事でなければ銃の携行は許可されていないし、よしんば仕事だとしても発砲許可が下りるかどうかは大変怪しい。
それこそ“奇病”と呼ばれている段階なのだ。治療法が分かっていないだけで、もしかしたらどうに治せる可能性が残る病人を撃ち殺す許可が下りるだろうか?
銃で武装した犯人や、制止を振り切って突っ込んでくる車、果ては躾の失敗で暴走する大型犬相手ですら銃を使うと、喧しい連中が何処からか沸いてくる国なのだ。たとえ完璧に死んでいるような死体相手でも、凄まじい文句が吐き出されるのは想像に難くない。
武器を持ち訓練も積んだのに、よく分からん連中の文句のせいで抵抗もできず引き裂かれる。考えてみれば、これほどおぞましい事もあるまいて。少女は検索しかけていた、自衛隊員の募集ページを静かに閉じた。
「んー、どげんしたもんかなー……」
長い足を突っ張らせ、窮屈そうな椅子の上で体を伸ばしつつ、大型犬を連想させる少女は声を漏らす。伸びに合わせて震える声は軽く、内心の苦悶が浮かび上がることはない。
それでも少女は苦悶していた。楽に生きる方法は何処にあるのか。この、ちょっとした衝撃で崩れてしまいそうな中で、自分が気楽に生きていける道、それが見えない。
今までは良かった。流されていけば、楽なルートが見つかったから。しかし今は、流される流れを見極めなければならない。日常に埋没していては、楽に生きられない可能性の方が高くなってしまっている。
「ん……?」
そんな彼女の目にインターネットのニュースが一つ映り込む。少し前に発表され冗談だと笑われたが、今ではアメリカで一躍人気の保険となったゾンビ保険のニュース。そのゾンビ保険会社が、ゾンビ保険加入者向けの対ゾンビPMC事業を始めたというのだ。
内容は普通の警備会社と変わらないが、オプションとしてゾンビが死骸に溢れた時は、特性の装甲バンを用いて救助に駆けつけるというサービスがあるとか。
そして、そのPMC母体に少女は覚えがあった。夏にアメリカへ祖父母を訪ねていった時、自分が通った護身術指南をしてくれたPMCだったのだ。
「へぇ、これは……」
アメリカ、それは銃を大っぴらに所持できる土地。州法によって縛りはあれど、正規のPMCともなれば装備の規制は緩く、質もよく自由も利くはず。
勿論、仕事は危険かもしれないが、窮屈な所で何時大事故が発生するかを怯えながら待つよりは、ずっと良いように思える。
「えーっと、資料請求は……」
ごく自然な流れとして、少女は資料請求をしようとメーラーを立ち上げていた。見つけた流れに上手く乗るのが、彼女の特技なのだ。きっと、流れに逆らわず自然に周囲を納得させながら、また自分を変えてしまうのだろう。
ただ、アメリカ国内のサービスの資料を日本に届けさせるのは、中々大変そうではあるのだが…………。
更新に間が開いて申し訳ない。何やら筆が捗らず、別のものへちまちまと手を伸ばしてしまった結果です。次回は間を開けずに出来たら良いなと思っています。そちらはTwitterの進捗報告で確認するか、現実逃避して呟いてなければ突っついて催促してやってください。
多分、BSAAみたいな仕事してんだかしてないんだかよく分かんない組織ができて、その中で狂人が仕事するって名目で遊んでるだろうなぁ、この世界。