青年と犬と宴席の跡
隣町と言った場合、移動に一〇分から半時間、あるいは電車やバスで一駅と想像するのは、交通インフラの整った都会で暮らしている人間の感想だ。
町を跨ぐだけの距離など日常で移動しており、場合に依れば好きな商品が置いているからと最寄りでないコンビニに自転車で足を伸ばしただけで町を超えることもあるだろう。
地区が密集している都会において、隣町というのはその程度の概念である。
だが、それは一度人口密集地から離れた場合、全く異なる意味を持つ。
青年が目指す隣町は、文字通り山一つ隣にある町だったのだ。直線距離にして数キロ、車道をたどるのであればアップダウン込みで十数キロという遠路である。
地図上でみれば指で一跨ぎ、交通手段があるなら大した距離ではないだろう。特段に峻険極まる山でもなければ、道が全くの未整備というわけでもない。雪に埋もれても、何となく道だな、と分かる所を辿れば、その内に辿り着ける場所だ。
とはいえど、楽な道程かと言えば全く以て否であるが。
それは、呼気どころか気化する汗ですら微かに湯気を立てる状況にありながら、汗みずくになっている青年が身を以て証明していた。
ストックを突き立てスキー板を滑らせて進むのは、凄まじく体力を消費する全身運動である。その上、量を減らせど決して軽くは無い装備を背負い、起伏に富んだ道を行くとくれば、体に掛かる負荷の高さは想像に難くない。
傍らを軽快に駆けるカノンは、主の消耗ぶりを心配するように何度も振り返りながら進む。しかし、青年には最早、そんな健気な従僕にすら気を払ってやる余裕がないらしい。一歩一歩が苦痛である、というような表情で黙々と進んでいった。
幾ら町中の探索でスキー移動に慣れたとはいえ、雪上の行軍が地獄であることくらいは分かっていたが、これほどとは想像していなかったらしい。整地が為された平坦な市街地と山道では、起伏の数と角度が全く違うのだ。
汗の滴が体を濡らし、体温を奪っていくことも疲労に拍車を掛ける。適当な所で体を拭わねば、汗が気化する際に奪われる熱と外気の低さで凍傷を負いかねない。
酷い時は肉が腐り、切断するまでもなく指が落ちる凍傷は寒冷地と切っても切れない病である。如何に服を重ねようと、血潮の熱が失せる指先は常に危険と共にあった。
しかし、それも何とか避けられそうだ。一際きつい坂を登り切った所で、青年の曇った顔が歓喜に輝いた。
道の向こうに宿を借りた町と同規模の、こぢんまりとした集落が見えたのだから。
「や、やっとか……きつかった」
万感の意を込めて、言葉が吐息と共に零れた。肩が下がり、腰から力が抜けそうになる。とはいえ、別に到着した訳ではないし、探索しなければならないのだから気抜けはしていられない。
「よし……行くぞ、カノン」
青年はマフラー越しに顔を叩いて気合いを入れてから、再びスキーを滑らせた。小さく鳴いて、従僕も再び気骨が入った主人に答えた。
軋みを上げる間接に鞭を打ち、このままバラバラになるのではと思う違和感が発生した足を交互に動かせば集落には辿り着ける。青年は、懐からシワシワになった地図と方位磁石を取り出し、目当ての場所から逸れていないことを確認した。
特段目立つことのない集落だ。精々、近辺から小学生が集まる公立小学校がある、それくらいしか敢えて見るべき所は無い。
幾らかの商店と多数の民家ばかりが目立つ、本当にこぢんまりとした、如何にも公営テレビで限界集落として報道されそうな場所である。
しかし、今はその寂れた姿も雪に覆われて尚酷い有様だった。山一つ超えた位で気候は変わらないので当然だが、大雪に家が包まれ、時には傾き押し潰されている。
あまりにも静かだ。空気を振動させる物が無いという意味ではなく、純粋に生命の暖かみ、人の営みが感じられない空しい静かさがあった。
青年は死体を避けて行動していることもあり、獲物を求めてかつての住人が大移動した末に空となった町や集落を幾つも見てきた。ここも、そこと何ら変わりない。
凝ったような死と静寂だけが残された、廃墟の群れだ。ほんの八ヶ月前まで大勢の人間が暮らし、多くの人生がひしめいていたなど誰が信じられようか。
スキー板が雪を擦る音を供にして、一人と一匹は静かに集落を進んだ。そして、耳を澄ませながら周囲を見回し、異常を察知すると共に町を襲った悲劇を少しでも感じ取ろうとする。
ここで何かがあったことは、少し観察すれば明白だ。青年が借宿を得た町と違い、戦闘痕が方々に残されているからである。
明らかに何かに押し破られたような戸口や、バリケードと思しき物の残骸。今は雪に隠されているが、路面を掘り返せば人体の部品や赤黒い何かが大量に残っていることだろう。
死体は損傷が酷かろうと劣化しようと動くには動くが、ある程度を越えて傷つけられると動き出すことは無い。特に頭部周辺、或いは脊索へのダメージが多い死体に関して、その傾向は顕著に見られる。
あれらは、意思を持って増えようとしているかは不明だが、同胞の種となりうる死体への損壊に関しては酷く無頓着なのだ。獣欲のままに引き倒し、引きちぎり、望むが儘に喰らう。
その過程で柔らかな臓物は引きずり出され、肉の多い四肢は特に好んで引きちぎられ、独占するために持ち去られる。故に、死体に囲まれて蹂躙された犠牲者の残骸は酷い物で、まともな形を残していないことも多い。
そうなった死体は起き上がらず、ただ街路を汚す食い残しとして風化するまで無残な姿を晒し続ける。戦いがあったが、人間が失せて死体も姿を消した町には、そんな食べ残しが方々に残されるのだ。
むしろ、早期に避難が実施され、哀れな犠牲者の痕跡を残さぬままに無人の町と化した、あそこが珍しい方なのだ。津々浦々の地方を遠回りしながら回った青年だが、避難が徹底できていた所など数えるほどしか記憶に無いほどなのだから。
実際、死体が動くことを人間を媒介とした感染症と見るなら、避けることは至難だろう。日本は世界屈指の人口密集地区であり、地方でも人間は集まって暮らしている。
その上、感染源は人間を追うように移動するのだから、感染から逃れる事は難しい。要は、人間が居る所には人間が居り、その人間そのものがベクターとなるのだから、何処に居た所で無縁ではいられないのだ。
そして、それは避難した所で変わらなかったと見える。いや、むしろ数町分の人間を集めた事で加速したのだろう。雪に覆われてなお惨状を残す町が、引き起こされた事態の凄惨さを物語ってくれる。
青年は組織だって逃げる余裕も無かったのであろうかと想いつつ、狭い路地を塞ぐ形で事故を起こした軽自動車を避け、避難所に指定されていた小学校を訪ねた。
小学校そのものは、これといって見るべき所のない普通の小学校であった。鉄筋コンクリートの判で押したようなグレーの校舎と、体育館を含めた別棟があり、校庭と纏めて敷地が塀で囲まれている。
あの県境付近で捕まり、避難させられた小学校と大差ない佇まいの小学校だ。
しかし、無垢な児童が将来の希望を持って通っていたであろう学舎は、実に陰惨に彩られていた。崩れた塀やバリケードの残骸など、雪で隠されようと微かに残る抵抗の痕跡で。
小学校の塀は刑務所の塀と違って高くも無く、全てが堅牢なコンクリートで作られている訳でもない。精々膝の高さ程度までが頑丈な基礎として組まれており、そこから上は人が入り込めない程度に高く目が粗い鉄格子が伸びるだけ。これでは、到底多くの死体を受け止められるだけの頑丈さは期待できない。
大きく内側に拉げ倒れている部分は、負荷を受け止めきれなかったのだろう。そこが侵入口となり、何もかもが終わったと思える。
しかし、正門が半分ほど開け放されているのは、凄惨な宴席から逃げだそうとした人々が居たと言うことだろう。されども、その試みが叶わなかったことは、門柱に突き立つ形で取り残されている警察車両を見るに明らかだが。
ツートンカラーの警察車両、その窓は割られて内部には吹き込んだ雪が積もっている。死体の姿が見えないのは、割れたリアウィンドウから乗員が引きずり出されたからであろう。さながら、割れたクルミの殻から柔らかい可食部を引きずり出すかのように。
正門が開いているのだからと、青年は蹴散らされたバリケードや事故車両を迂回して堂々と学校へとお邪魔した。カノンが警戒していないこともあり、もう彼も安心して進んでいる。
そもそも、この静かな雪だけが降り注ぐ死の世界で、他の生者を心配する必要があるのだろうか。こんな所で生きていけるような存在など、殆どおるまいて。
居たとしたら、それはより死に近しい何かに他ならない。まともな血潮が通う者に、現状は些か以上に過酷すぎた。
むしろ今の世の方が生命として適性が適していそうな青年は、車が入り込めるように整備された広い正門に入り込み、様子を観察する。
正門前には、二台の車が停められていた。正門に突き刺さっているのと同じ型の警察車両だ。県警の名が側面にプリントされたそれは、路上でもありふれたものである。
恐らく、ここの避難は警察によって主導されたのだろう。自衛隊も人手が十分では無かっただろうし、県警も仕事をしないわけにもいかない。
となると、此処は籠城している間、延々と火力不足に悩まされたと推測できる。38口径が詰めている人員分だけでは、絶えず押し寄せてくる死体を撥ね除けるには役者が不足していたようだ。
だからこそ、このような有様になっているのだが。
何枚も板が内側から張り付けられた正面玄関は、外部からの圧力に負けて開け放されていた。扉が外れて転がっているのは、恐らく外開きの扉を無理に内側へ押し開いたからであろう。
死体には内開きだろうと外開きだろうと関係ないのだ。ただ押し進み、力任せに打ち壊すだけである。
エントランス部分は、酷く荒れていた。吹き込んだ雪がうっすらと積もり、引き起こされたであろう惨禍は覆い隠されているものの、押し倒されたショーケースや、散乱するトロフィーや記念盾に歴代校長の写真を納めた額縁が事の悲惨さを物語る。
塀の一角が駄目になった時、慌てて校舎に籠城しようとしたのだろうか。物が荒れ、踏み散らされたままにされている様子からは、やはり秩序だった避難が実施されたようには見えなかった。
青年は観察の後、スキー靴から板を外す。校内は雪が吹き込んでいるとはいえ、歩行困難なレベルではないし、こんなものを付けていては階段を上れないからである。
脱いだスキーを脇に纏めて置きながら、青年は小さく舌打ちを零し、此処に来ての計画性の無さに慚愧の念に駆られた。玄関口に置いていった普段使いのブーツ、あれが欲しくなったのだ。
スキー靴は構造上、足首が固定されており大変歩きにくいのである。屋内の探索は普通に考えられたのだから、歩きやすい靴を用意しておくべきだった。これでは、走り回ったりするのは難しい。
しかし、今更悔いてもどうしようもない。青年は嘆息を零して、どこかで靴を見つけたら履き替えようと思い直した。誰かが残した運動靴の一つや二つ、転がっているだろうと期待して。されど、流石に元の持ち主が残っている物は勘弁願うが。
ラバーマットが敷かれた廊下に甲高い足音を響かせながら歩く。普段であれば、この音に釣られて何処からか死体が顔を覗かせそうな音量であるが、その見慣れた顔を青年が拝むことはない。
それでも、念のために油断せずに短機関銃を構え、銃口でなぞるように郷愁を思い起こさせる施設を彷徨う。
窓は混乱によって割られ、少しでも時間稼ぎをしようと試みたのか屋内には倒された椅子や机に棚が目立つ。その抵抗が無駄に終わったことを語るように、各所に血液や人体の部品で悪趣味な塗装が施されていた。
寒さに凍り付いた食べ残しの指を拾い上げてみれば、素人目にも随分腐敗していることが分かる。しかし、野ざらしであったにも関わらず骨に肉がくっついている事を鑑みるに、避難民が宴席の料理にされたのは、然程遠い昔のことではなかったようだ。
少なくともほんの数ヶ月前までは、この指の持ち主も元気だったはず。夏場に死んだのであれば、とっくに肉が蕩けて落ちていただろうから。
そう考えると、彼らは随分と長く持ちこたえたように思える。警察の乏しい火力と、膨大な避難民。これらを抱え、周囲を死体に包囲されながら半年だ。一月ほどで瓦解した、自分たちが籠もった小学校と比べたら中々の成果である。
問題は、ゲームのスコアでもあるまいし、誰にも評価されないところだが。崩壊は崩壊、全滅は全滅でしかない。どれだけ頑張った所で、後に何も残らなければ無いと一緒だ。
いや、それは自分にも言えることか。青年は自嘲気に唇を歪めると、食べ残しを放り捨てた。
ぞんざいに投げ捨てられた指は、弧を描いて飛んでいき……偶然にか机の上で天を突くように直立した。爪の側を見せて突き立つそれは、丁度青年に対して下品な手真似をしているようにも見える。
小さく笑い、青年は舌を出して返答とした…………。
「ふぅ……」
板張りの床と背の低い机のセットが並ぶ部屋があった。日本で生きる者であれば、誰しもがこれぞ学舎と感じ理解できる部屋だ。
六年一組と書かれたプレートのかかる教室で、青年は微かな笑みを湛えながら暖かなコーヒーを啜っていた。足下では、カノンがぬるめに暖められた水を舐めている。
青年が嬉しそうな顔をしているのは、目の前で暖かく茹だるコッヘルの存在があったからであろう。ストーブ、あるいはバーナーとも呼ばれるアウトドアコンロの上で炙られる小型の携行用調理器具は、この探索で一番の収穫だ。
カセットコンロより小型で持ち運びが楽な上、燃費も悪くなければ火力も高い。その上、寒い所でも、余程の強風でなくば問題なく役割を果たす優れた調理器具だ。
特に寒さに悩まされることが多い冬場において、万一の備えとして用意するには最適の一品である。
その上、食料もたっぷりとまではいかないが、そこそこの量が見つけられた。多くは学校に備蓄されていたであろう保存食で、中にはジュースやコーヒーの缶なども多々含まれている。
鍋の中で煮られる甘ったるい缶のカフェオレは、青年に貴重な文明の味を思い出せた。コンビニで売っている500mlパックのコーヒー牛乳と比べると一段劣るが、これも彼の好物であったからだ。馴染みの味というのは、何時飲んでも良い物だが、疲れた時に飲むと旨さも一入である。
昔はコイン一枚あれば買えた好物も、今となっては貴重品になってしまった。自販機をこじ開けたり、スーパーを訪れれば手には入るのだが、二度と工場が生産を再開しないであろう現状では本当に貴重なのだ。
消費期限を過ぎ、最後の一本が飲めなくなるまで数年もない。いずれ消えゆく好物を噛み締めるように味わい、青年は体に帰ってくる体温を愛おしく感じ、小さく震えた。
小学校の中は、本当に一瞬で駄目になったことが分かるような光景が広がっていた。
そもそも、内部に入られた時の防御を考えていなかったのか、窓は打ち付けてあれども階段にバリケードを築いたり、校庭などへの脱出路のようなものは構築されていなかったのだ。
本来なら、正門が打ち破られても校舎内に籠城できるように予備策を用意しておくべきなのだ。無期限の籠城だというのなら、何時までも耐えられるように考え得る限りの防備を固めるのが絶対に必要だ。
物資の問題で二重三重のバリケードを作れなかったとしても、一フロアずつ切り捨てて上にこもれるように階段を予め塞いでおくくらいのことはできたであろうに。
一階が破られれば二階に上がり、予め狭く作っておく通用口を塞げぐだけの簡単な作業だ。そうすれば、階段や起伏の踏破が苦手な死体は侵攻を阻まれ、柔らかな肉に歯を突き立てるまでの時間は大幅に伸びたはず。
しかしこの学校には、そういった危急時の備えが為されていなかった。恐らく、正面エントランスが破られた後は、死体の波が一呑みに生存者を平らげていったのだろう。
それほど、上階に近づけば近づくほど食べ残しが多かったのだ。
中身を啜るために割られた頭蓋。臓物を取り出すのみに止まらず、肋骨に張り付いた肉を削ぐために解体された胴体。随まで啜ろうとしたのかへし折られた骨。そんな物が、折り重なるようにして積み上げられていた。
追われるように上へ逃げ、そして逃げ切れずに喰われたのだろう。現在小休止のために立ち寄った教室がある三階、つまり最上階はそんな状況だった。
実際、一度群れを構築し物理的圧力と勢いを得た死体を止めようと思えば、重機関銃座のある防御陣地か、全身を堅めて防盾を並べた機動隊が必要になる。逃げ惑う避難民など、調理され卓上に並ぶ鳥肉に等しい。
ゆっくりと解体し、美味い所を堪能する。どれほど楽しく愉快で、簡単な食事であっただろうか。
そして、自分はそのおこぼれに預かっているのだから、あまり笑えない。この物資とて、避難民が居れば手に入らなかったに違いあるまい。
外からの補給が期待できない状況にあれば、誰も助けてはくれないし物々交換も期待できない。如何に列を作るのが好きな日本人でも、それは待てば手に入るという前提があるからに過ぎない。その前提が崩壊した以上、秩序や助け合いに期待などしてはならないのだ。
故に青年は単独行を好むのである。人間は、二人居れば殺し合う事ができるから……。
「ほぅ……」
暖かなカフェオレを啜って一息吐いた青年だが、少し考えるべきこともあった。何をどれだけ持って帰るか、という問題が物理的な質量を伴って立ちはだかっている。
見つけた物資は食料品が多く、衣類などは殆どが使用済みか血液で汚れていて使い物にはならなかった。
武器弾薬も持って帰ろうと思う物は見当たらない。既に動かなくなった死体の山を抜けた時、拳銃を二挺ほど見つけはしたのだが、それらは血糊にどっぷり浸った上、長らく放置されたこともあり錆び付いていて使い物にならなかったのだ。
安っぽい子供の玩具でもあるまいし、錆を落として油をさせば元通りとはならない。錆びた銃も錆び弾も、暴発の危険が非常に高いのだ。貧乏性で寿命を減らしたとなれば、笑うに笑えまいて。
もし死後の世界があったとしたら、指さして盛大に笑ってきそうな覚えが青年には一つあったが、それはさておくとしよう。
結果的にここで得た物は、殆どが食料品なのである。それが何を意味するかといえば、兎角重いのだ。
缶コーヒーや水などの飲料は重く、かといって乾パンやインスタント食品は軽くとも嵩張る。どう転んでも運ぶのは骨である。
普段なら車で乗り付けているので、籠なりなんなりに突っ込んで往復すれば終いなのだが、徒歩での遠征となるとそれもできない。
必然的に親が与えてくれた、この短い二本の足で運ぶほか無くなる。果たして、ここまで比較的身軽な状態でも難儀したというのに、更に重荷まで背負って辿るとなれば、どれ程の苦労が待ち構えているのだろうか。
少なくとも、足腰は立たなくなることは請け合いだ。無しで歩くより負荷は軽減できようとも、スキーでの行軍も楽ではないことだし。
空になったカフェオレの缶を放り捨て、青年は一つ伸びをしてから豪儀な事にもう一本を鍋から掴み出す。普段であれば貧乏性を発揮してチマチマと啜るところであるが、今は甘い物が必要だった。精神的にも肉体的にも。
確かに青年は、常人とは異なる思考の持ち主だが、心がタングステンや金剛石で出来ているわけではない。さしもの彼でも、死体ばかりが埋め尽くす場所に居れば気も滅入る。
その上、足腰にじわりと滲むような疲労が寄せてきたとなれば、憂鬱にもなろうというものだ。
器用に片手でプルタブを開けた時、ふと教室にかかる時計が目に入った。血潮で汚れた、みんななかよく、というクラス目標が虚ろに輝く壁で、時計は見る者が失せて尚も惰性で動き続けていたのだ。
時刻は昼を疾うに回っている。此処まで来るのにも随分と時間は掛かったが、そこからじっくり校内を見て回った上で更に時間が過ぎた結果である。
青年は所要時間などを逆算し、眉根を寄せた。どうやら時間配分を誤ったらしい。この比較的綺麗な教室に戦利品を積み上げることこそ叶えど、集積に費やした時間で引き上げるのが大変微妙な時間帯になってしまっていたのだ。
年も暮れる頃となれば日の入りは早く、場合によっては午後四時にもなれば空は茜色に染まる。その上、山の天候は崩れやすくもあり、今までが晴天を保っていたのも単なる幸運でしかないのだ。
そうなると、更に冷え込む夜を前にして、天候の保障もないのに帰途につくのは不安が残る。行きに掛かった時間と、追加で加わる荷物の負荷を想定した場合、確実に日暮れまでに帰れる可能性は低いと言わざるを得なかった。
冷え込む夜に豪雪の中取り残された人間など、実に儚いものだ。蝋燭が吹き消されるように死に、翌朝には雪に埋もれた二つの凍死体が転がっていることであろう。
「……仕方ないか」
主人の嘆息混じりの独り言を聞き、従僕は不思議そうに首を傾げ、小さく鳴いた。何かありましたか、とでも問うように。
「……お前がちりとりくらい使えたら、掃除も多少楽そうなんだがな」
しかし、彼女には人間の言葉を完全には理解出来ない。単語から意味をくみ取ることは出来ても、単語の連なる言語まではどうしても無理なのだ。
カノンは優しく自分の頭を撫でてから、入り口を抑えるように倒された掃除用具入れに向かう主人の背中を見送った…………。
大学という施設は、小中学校と異なり専門の清掃員が雇われ美観を維持されている。これは大学以前の学校と規模が違うことや、掃除による集団行動を教育する段階に生徒が既にないからである。
そして、一部の高校においても掃除は生徒の仕事ではない。金がある私立学校は美観や設備に気を遣うので、此方もまた専属の業者を雇うのだ。
青年は高校時代には、親の奨めもあって上の下程度と言える私立高校に通い、こうなる以前は大学生だった。
「懐かしい気分に浸れたが、疲れたな…………」
当然、板張りの教室掃除なんて随分と久しぶりだった。箒で積もったほこりを掃き、濡らしたモップで血糊を洗い流す。その前段階として、面倒くさいので人体の部品は拾ったゴミ袋に詰めて窓から放り捨ててある。
今となっては墓を掘る意味すら無いのだ。それなら、動く死体共が捨てやすいように細切れにしてくれたと思って割り切った方が気も楽だ。凍った土を掘り起こし、墓穴を掘ろうと思えば何日かかるか分かったものでもないし。
血生臭さと若干の後ろめたさと何時間か戦った後、ようよう青年は人間が腰を落ち着けるに相応しい空間を手に入れた。
矮躯であっても膝がきつい机と椅子ばかりが並び、血糊のせいで妙に皮肉な事になった書き初めなどは見ないことにしての話だが。
やはり、慌てていた中で死体による晩餐会が開催されてしまったせいか、使える物というのは殆ど無い。宿泊するにあたって欲しくなる暖房器具や寝床に使えそうな物は、そもそも存在していないか汚染された血液で駄目になっている。
確かに寒さは辛いものの、下手を踏めば自分までかつての道連れと同じ轍を踏むような物は使いたくない。一応、バックパックに毛布も入っているしカノンも居るので、まぁ屋内であれば凍死する危険性も少なかろう。
後は、ガスが多少勿体ない気もするが火を炊き続ければ室温も維持できよう。快適に、とまではいかぬまでも、震えながら足踏みして夜が明けるのを待つほどのことは無い。
しかし、快適であることと快適とまではいかない、の間には非常に大きな隔たりがあるのだ。曲がりなりに文明人として育ち、世界が終わった後もきちんとした寝床で夜を過ごしてきた青年に板張りの床は硬すぎる。
かといって、毛布にくるまって段ボールなりを尻に敷いた上で座りつつ寝るのは辛い。翌朝、まともに動けない状態で行動するのはきついのだ。特に山越えをした上での帰宅を控えてともなると。
「……そうだ、学校なら体育館にマットの一枚や二枚でもあるだろう」
ふと思い立ち、青年は体育館へと足を運んだ。マット運動などに使うマットがあるなら、それを敷けば多少なりとも快適に眠れるだろうと思ったのである。
黴や埃臭く、お世辞にもふかふか戸は言えない硬度のマットでも板張りの床と比べれば、正に天と地の差だ。あると無いでは、全然寝心地が違ってくるはず。
荒らされてこそいれど、学校の中には人が寝泊まりしていた形跡は残っていた。布団やら寝袋やらが取り残されており、急拵えの寝具などはなかった。
つまり、物資が十分あるなら人は代替品に手を伸ばさないので、マットが使える状態で残っている可能性があったのだ。
ただ、青年は本校舎しか見て回っていなかったので、体育館がどうなっているかは知らなかった。本来であれば、広い体育館こそ避難所として一番多用されていそうな所ではあるのだが、どうにも打ち破られたり荒らされた形跡がなかったのだ。
それは、中に人が居なかったことを意味する。故に青年は探索を後回しにしていた。
死体は敏感に生者の気配を察知し、ただの一人になっても根気強く大勢で囲み続ける。であるなら、体育館は打ち破られてしかるべきなのだ。
にもかかわらず、あそこが無傷だったということは、人間の居住に使われていなかったのだろう。それが何故かは分からないものの、推察しかできない理由を求めても仕方が無いので、青年は特に何も考えず短機関銃片手に体育館へ足を伸ばした。
青年としては、もう殆ど気を抜いている。カノンは何にも警戒していないし、ここまで好き勝手荒らし回る敵を見逃す阿呆もいないだろうから、この近辺には敵は居ないのだ。
習性の一部になっているので、銃こそ手放していない物の危険域を歩いている時の緊張感は、最早完全になかった。
だからこそ、襲いかかる衝撃は一入である。
体育館には入り口が二つある。一つは一階校舎から渡り廊下から続く入り口。もう一つは校庭側に向かって口を開けた大きめの入り口だ。
別に雪が積もる校庭側に態々向かう理由などないので、青年は普通に渡り廊下から体育館の入り口に向かったのだが……そこで信じられない物を目にした。
交差するように無数に打ち付けられた木材や、二度と開け放つまいとするような強い意志の現れと思われる何重にもドアハンドルに巻き付けられた鎖で、体育館の扉は一部の隙も無く封鎖されていた。
その上、大きな窓にも全て板が打ち付けてあるのだ。律儀なことに、内側から何かが漏れてくるのを畏れるようにダクトテープで頑丈に目張りまでして。
あまりの異常さに、青年は憮然として口を開くことしかできなかった。剰りにもおかしな光景だ。
「……なんだ、これは」
偏執的なまでに封鎖された体育館の入り口は、完全に異常としか言えない。ここまで頑丈に外側から封印する辺り、何があっても外に出てこられては困る物が中に封じ込められているのは明白だ。
もしも雪が積もっていなければ、青年は一枚の剥がれ落ちた張り紙を見つけられた事だろう。それには、大きく赤い文字で、こう書き付けられていた。
決して開けるな、死者が起きる……と。
だが、世界がこうなってから長い。青年には、ここまで頑丈かつ、やり過ぎとさえ思えるほど堅牢に押さえ込む物など、一つしか思い当たらなかった。しかも、外から内を押さえ込むとなれば尚更確証に裏打ちがなされる。
中に死体が封じ込められているのだ。それも、自分が窓から放ったような食べ残しではなく、相当数の動き回る死体達が。
完全に気が抜けていた体が総毛立ち、まるで背骨が全て氷にでも入れ替えられたような怖気が体に走った。この向こうに、己がなんとしても避けようと腐心してきた死の具現が詰め込まれている事を認識し、体がアレルギーでも起こしたように反応したのである。
死体の一体一体は然したる脅威ではない。危険はあれど、慣れれば無手でも無効化は可能だ。しかし、そんな御しやすい相手を態々ここまで大仰に封印することはなかろう。
つまり、此処には動く死体が最も畏れられるべき要素を備えて封じられているのだ。圧倒的な衝撃を産む、質量という武器を有した死体の軍勢が。
死を避けようとする本能的恐怖に押されて、青年は後ずさった。頼もしくもある短機関銃が、途端に手の中でしぼんでちっぽけな物に変わり果てるような錯覚に襲われる。
いや、それは錯覚ではない。
青年が持つMP5の伸縮ストックモデルは、警察の特殊部隊が採用した信頼性も精度も高い一品だが、弾倉には三〇発しか弾が無い。デュアルマガジンにして装填速度を高めていても、高々六〇発だ。
群れとなって襲いかかる死体を押し返すには、役者として不足している。高台から一方的に始末するならまだしも、追い縋られながらも殲滅しなければならない状況に追い込まれれば、完全に火力不足だ。
確かに9mm弾は人間の頭蓋を砕くに足る威力を有し、使い慣れており照準器のサポートもあれる銃なだけに命中精度は高い。だが、百発百中ではないのだ。弾倉の弾を撃ち尽くしても、倒せるのは精々弾数の1/3もあれば良い所。小集団ならまだしも、軍勢を倒すには到底たりない。
死体は一発当たれば無力化されうる人間とは違うのだ。倒しても倒しても立ち上がり、時に這い進みながら襲いかかる。必要なのは面制圧力と高い火力。短機関銃などではどうしようもない。
普段なら逃げの一手も慣れたもので、死体の数が多いとなれば誘導し迂回するか、そもそも近づかないのだが……知らぬ間に懐に入っていたとなると、如何ともし難い。
挙げ句の果てに、逃亡も叶わないとくれば絶望的だ。今から外に駆け出すのは、殆ど自殺であろう。雪に埋もれ、震えながら死ぬのは、四肢をもがれ臓物を引きずり出されるのと比べると、どの程度心安らかに逝けるのだろうか。
本能の警告に従い、踵を返そうとした青年だが、ふとした違和感を覚えて足を止める。
見下ろせば、信頼できる従僕が尾を振りながら、表情を伺うように此方を見上げていた。何かあったのか、とでも言いたげな表情には警戒も怯えもない。
後退しようと浮かび掛かっていた踵が、再び地面を捉えた。慌てて逃げるより、何が起こっているかを冷静に考えるべきだと冷静な儘に狂った理性が語りかけるのだ。死から逃れるには、まず死を直視せよと。
恐怖と怖気で脂汗が滲んだ手を顎にやり、高鳴った鼓動をどうにか落ち着けながら思考を巡らせる。普通ではないと、事態は己が考えている状態にないと自らに理解させるように。
カノンは優秀にして忠実な従僕であり、実に鋭敏なセンサーを搭載した警報器でもある。死体の接近を敏感に感じ取り、直近にやってきたり暗がりに隠れた死体の存在を見逃さない。
彼女には、どういった原理かまでは分からないが、普通の腐臭と動く死体の区別がつくのだ。それは、今まで彼女と共にあった半年以上の生活が確実であると保障してくれる。
もしそうでなければ、青年は既にダース単位で死んでいる筈だからだ。
そのカノンが、大量に動く死体が居るはずの場所で落ち着いている。それはおかしくは無いか? 少なくとも、つじつまが合わない。
今、彼女は此処を危険な場所では無いと判断していることになる。
「……死体が危険である理由は、動くから……だよな」
そして、一つの考えが青年の頭に沸いた。
雪が降る前後になって、動く死体の数は減ってきた。単に集落が空になったからだと青年は思っていたが、もしかしたら何か別の理由があるのではないか。
そう、たとえば死体が危険でなくなった……つまり、動かなくなったと考えればおかしくはない。
確かめねばならぬと、彼は体育館の重々しく閉ざされた扉に近づき、冷たい曇りガラスにそっと耳を寄せた。冷え切っているので、完全に近づけると貼り付けかねないので密着はさせないが、音を拾うには十分の距離だ。
しかし、体育館の中からは何も聞こえない。両手を筒のように丸めて耳に添え、集音機能を高めても中は全くの無音だった。
そのまま暫し耳を澄ますも、帰ってくる音は一切無かった。まるで、中に居るのが本当の動かない死体だけであるかのように。
青年は扉から耳を離すと、今度はおそるおそる手をあげた。それから数秒の逡巡の後、覚悟を決めたのか唾を飲み下し、扉をノックする。
金属の分厚い扉を叩く音が、鈍く渡り廊下に響く。音がよく反響する構造の体育館の中では、その何倍もの大音響となって響いたことであろう。
そして、再び耳を寄せて音を聞く。だが、青年が辛抱強く五分、十分と音を聞き続けたとしても呻き声や衣擦れはおろか、物音一つ返ってくることは無かった。
一つの確信を得た彼は、小さく頷いて校舎へと振り返る。教室に帰るためではない。体育館の別の入り口に向かおうとしているのだ。
この体育館は別棟として独立しており、二階建てになっている。天井の高い体育館は中二階が設けられているが、更にその上がある。
二階は特別教室が集まっているようで、図書館もそこに設けられていた。ただ、一々特別教室に行くのに体育館を経由しては面倒なので、三階からも渡り廊下が延びているのだ。
青年が向かったのは、その渡り廊下である。向かったのは勿論、ある一つの仮説を確かめるためだ。
案の定、渡り廊下は頑丈に封印されていた。机が積み上げられ、机同士は針金で結束されて簡単には外れないようになっている。どれほど畏れて体育館を封鎖したのかが、折り目正しく縒られた針金から察せられる。
それも当然だろう。普通の人間にとって、身近な者が死者となり、己を喰らおうと死したにも関わらず襲いかかる様がどれだけおぞましく、恐ろしいか。
直ぐに事態を飲み込んで、容易く破壊することに順応した青年と女が異常なのだ。この過剰なまでの封印と封鎖は、むしろ普通の反応と言えよう。
青年は、そんな普通の考えに唾を吐くかのように持ち込んでいたツールボックスからペンチを取り出して封印を解いていく。針金を切断し、机をどんどんと除けていった。
ガタガタと喧しく作業を続けた後、渡り廊下への扉が姿を現す。今までスチール製の事務机で隠された扉が露わになれば、一つの警告文が窓から差し込む夕日に紛れてぼんやりと浮かび上がった。
開封厳禁。死者は既に死者にあらず。
赤いアクリル塗料の警告文は、記した者が相当に畏れていたことを示すように乱れた筆跡で書されていた。
扉には鍵が掛けられているが、青年は知ったことかとばかりに近場に置いてあった消火器でノブごと叩きつぶすことでこじ開ける。頑丈な鉄扉ならまだしも、普通の扉のロック機構など脆いものだ。
映画のように蹴り開くことは至難だろうが、こうして十分な加速度を与えた質量物で殴ってやれば訳はない。凄まじい音響と共に開いた扉をくぐり、青年は早足に渡り廊下に入り込む。
両脇の窓の殆どが割れ、異様に風通しが良くなってしまった渡り廊下は、夕焼けの赤以外の赤で汚れていた。血の赤みがかった黒だ。
しかし、悪趣味な前衛芸術のように塗り広げられる人由来の絵の具は、この場で流されたものではなかった。全てが靴によって塗り広げられた、薄い塗装である。
これが意味することは、死体がここまでやってきていたということだ。きっと餓えに苛まれ、出る場所を探して来てしまったのだろう。彼らは夜毎に飢えに突き動かされ、唸りと共に戸を叩き続けた。決して迎え入れられることは無いというのに。
腹を空かせた亡骸の無念が、閉じた扉の裏側に手形となって今も張り付いている。数多の大きさが違う死体は、何度も何度も往復しては求めたのだろう。肉の温もりを……。
無感動な目で死者が残した芸術を俯瞰して、青年は懐からペンライトを取り出した。明かりを灯し、口に咥えてからストックを伸ばした短機関銃を構える。
「行くぞ、カノン」
奥歯でペンライトを保持したせいで、不明瞭になった発話で従僕に命じ、利己の塊は歩き出す。自分の安全を得るために、未知を未知のまま恐怖にしてしまわないために。
どこか警戒するというよりも怯えているように見える従僕を余所に、完全に封鎖されているが故に薄暗い別棟へと入り込む。別棟側の扉は、とうの昔に破壊されて無くなっており、まるで何かの大きな生物が口を開けているかのように闇を覗かせている。
陰り欠けた赤から、凝った黒の中へ青年は足を踏み込んだ。途端、鼻に耐えがたい腐臭が襲いかかる。完全に内側に封じ込められたが故に停滞した、死者が発する臭いだ。
この酷い臭いが気にならなかったのは、渡り廊下が地上から高い位置にあり、尚且つ窓が割れて風通しが良くなっていたからだ。臭いが貯まりやすい場所に移った途端、臭覚が暴力となって襲いかかってきた。
人間ですら涙目になる臭いを浴びて、カノンは完全にたじろいでいる。だが、彼女の狼狽はあくまで悪臭に対してのもので、死体への警戒によって引き起こされたものではない。
殆ど確信を持った青年は、このまま彼女をつきあわせては酷だと思ったのか、待てと命じた。普段ならば、本当についていかなくて良いのかと目で問うてくる彼女も、流石に辟易したのかそそくさと渡り廊下の中程まで下がっていく。それ程に此処の臭いは、鼻が鋭敏んな犬にとっては辛いようだ。
埃が舞い、腐臭が立ち込める中を歩くと鼻が酷くむずつく。思いっきりくしゃみをして鼻をかみたい衝動に駆られつつ、ペンライトでなぞるように暗い屋内を照らす。
図書室、工作室、工作準備室に資料室とプレートのかかった扉が続く別棟は、渡り廊下と同じく零れた血液の汚れがあるものの渡り廊下より酷く汚れてはいない。また、扉も全て閉められたままだ。
もたれかかれば開くこともある引き戸が閉まっているということは、中に死体は居ないはずである。彼らには開けることはできても、閉めることはできないのだから。
リノリウムの床を靴が叩く音が反響する。闇の中に木霊する音は、世界中に染み渡るかのように広く滲むように広がっていった。
この場で音を発しているのは青年だけ。無防備に足音を高らかと馴らそうと、引き戸を開けてきしむ音を盛大に響かせようと呻き声一つ聞こえてこない。
施錠されていない図書館にも工作室にも人の姿は無かった。ただ、そこには幾らかの寝具が手付かずのまま取り残されている。
机を端に寄せ、スペースを無理に用立てた図書館の寝具類は乱れており、誰かが起きたまま放置されてたような状態にあった。血などは付着しておらず、密閉された空間に放置されたせいで湿気ており、周囲の腐臭のせいで臭いが移り実用には耐えられそうにはない。
見やれば、空になった救急箱や小さなガラスの小瓶に小さな空き箱が散乱している。青年は、その内の一つを手に取りラベルの文字を読んでみる。
「……抗生物質か」
他の箱やカプセルを押し出した空のシートも品名を読めば、ありふれた抗生物質であることが分かった。全て常備薬として、薬局で買えるような代物である。
青年は抗生物質の箱を捨てると、端に寄せられた机の上に本が散乱しているのを見つけた。傍らには、荒い筆跡で何事かが書き付けられたルーズリーフも乱雑に散らかされている。
「家庭の医学、二十世紀の感染症事典、寄生虫の歴史……」
ライトで照らさし出される本の表題は、そんな医学系の内容ばかりだ。随分と読み込まれているようで、かなり本の端がへたれている。小学生が読むわけも無い本がこうも傷んでいるのは、つい最近に何度も読まれたからだろう。
何故なら、ルーズリーフには病状を記したカルテらしき内容と、本から引用したと思しき文章が事細かに記されていたからである。
青年は、それを無言で纏めると懐に突っ込んだ。今読んでいる暇はないし、何より暗い所で文字を読みたくない。適当に折りたたんでコートのポケットに仕舞うと、彼は現代の医学事典を手にとって図書室を後にする。
元々何となく予想がついていたことが、実際に訪れてみてどんどんと追認されていくことに青年はおかしみを感じ始めていた。
世の中は複雑怪奇に描かれることは多く、こと陰謀が関わってくる話となれば伏線に次ぐ伏線や裏切りが絡み合い、もう何の話だか分からなくなることが常のこと。
だが、世の中は思っていたよりもずっとシンプルな構図をしているようだ。
靴音を唯一の友として、青年は廊下の最奥で地獄のように暗い口を開ける階段へと向かう。そこは、体育館の中二階となり一階を見下ろせるテラスと一階そのものに通じる階段だ。
階段にもやはり、擦ったような血の跡や忘れられたように転がる、脱落した人体が転がっていた。転がる指や臓物だったものは、殆どが腐りきって溶け落ち、干涸らびたミミズと区別がつかないような代物となっている。
状態からして、相当昔に死んだのだと分かる。本校舎で見つけた物とのラグは半年から数ヶ月、といったところだろうか。
全滅するまでの間、死体を詰め込んだ施設と隣り合い、更に外も死体に脅かされての籠城とは。実に心労の多かったことだろう。子供など、恐怖で夜も寝られなかったのでは無かろうか。
いや、大人でも眠るのは難しかっただろう。多少の呻き声が聞こえたり、車体が叩かれても五月蠅いなと思いながら寝ていた自分と女の方がおかしかったのだ。
内部の人間が壊れて連鎖的に駄目になるのと、防備が崩れて一呑みにされてしまう結末。果たして、どちらがより酷い結末といえようか。
少なくとも、青年にはどちらも単なる死でしかない。
中二階から覗く体育館に広がる光景も、また同じである。
「……ぞっとしないな」
暗い体育館に青年の独白が、酷く虚ろに反響して消えた…………。
二話分割だと言ったな、あれは嘘だ
思ったより文章量が増えました、すみません。Twitterでの誤字報告や感想、大変励みになっております。次もまた、出来るだけ間を開けないうちに更新したいと思います。