青年と女と狂気
耳が痛いほど激しく雨音が響き渡るテントの暗闇で一人の青年が身を起こした。
矮躯の彼は、自分が目覚めたことが不思議で仕方が無いのか、寝ぼけ眼を擦りながら思考を巡らせる。何故なら、彼が目覚めは、今では決してあり得ないことによってもたらされたからだ。
雨音に混ざって低く鳴り響くのは、携帯のバイブ音。極小モーターを律動させることによって、静かに携帯電話の着信を報せる物であるが、そんな物が機能するはずが無いのだ。
確かに青年も女も携帯は持っているが、死体があふれ出した騒動で基地局が機能を失って久しい今では、カップ麺の蓋を抑えて時計を測るだけの重しでしかない。
携帯とは、文明の中でしか役に立たぬ道具だ。電波が止まり、充電にも苦労する現状では機能を果たせない。メールなど、来るはずも無いのに。
そもそも、電池の無駄だから携帯はバッテリー切れのまま放置して久しいはずだ。にもかかわらず、バイブ音はテントの中で小さく木霊している。
真逆、どこかの三文ホラーのようにあの世からの電波でも受信し始めたか? と青年が下らない考えを寝ぼけた頭に浮かべた時、ふと異常に気がついた。
一緒に寝ているはずの相方が不在なのだ。シュラフは丁寧に畳まれ、枕元に置いてあったはずの着替えが失せている。
首を傾げながら畳まれたシュラフに手を当ててみれば、そこからは既に熱が喪われていた。つまり、このシュラフの主が出て行ったのは、ここ数分のことではない。
よくよく見れば愛用の編み上げブーツも無くなっていた。この雨の中、何処に出かけたというのか。少なくとも、花を摘みに行ったとしても不自然だ。
俄に直面した異常事態に青年は自分の頭が冷えていくのを感じた。今は、考えて動かねばきっと良くないことが起こると、究極の利己主義に毒された自我の一部が警鐘を上げ始めたのである。
兎角、目覚めた原因を探らねば。そう考えて音の発生源を探れば、それは直ぐに見つかった。不在の相方、女のスマートフォンが枕元に仕込まれていたのである。
旧式携帯、所謂ガラケーしかいじった事の無い青年は操作に不慣れで苦労するが、どうにかホーム画面を開いてスマートフォンを確認する。機能していたのはメールや電話の受信ではなく、時計機能に付随するアラームだった。
時刻は深夜である今の不自然なタイミングに設定されていた。オカルトでも何でもなく、携帯は自らの職務を忠実かつ正確に果たした結果、青年を目覚めさせたのだ。
それはいい。機械は命令通りにしか動かないように出来ているのだから、不自然ではない。問題は、何故こんな時間にアラームがセットされたかだ。
確かにあの女は茶目っ気が過ぎる所があり、下らない悪戯を何より好む。とはいえ、態々どうでも良いことで相方を叩き起こして喜ぶほどの暇人でも無い。そもそも、悪戯の結果を見届けずして席を外すはずが無いのだ。
となると、何か意味があるに違いない。青年は馴染みのないホーム画面を眺め、何か無いかと探る。
すると、スマートフォンに慣れていない青年でも簡単に理解できる機能が回答へと導いてくれた。通知機能だ。
通知機能はタッチすれば折りたたまれていた画面が展開され、簡素に伝えるべき情報を纏めてくれている。そこには、メールの送信に失敗しました、という一文が踊っていた。
メール? と首を傾げつつ、これまた一目でメール機能だと分かるアイコンをタップする。すると、確かにメーラーの未送信メールフォルダにメールが存在していた。
宛先は青年の携帯。件名は一言、読め、とだけ記されてある。
考えたものだ。スマホに不慣れな相手に伝言を残すなら、メモアプリよりも通知が目を惹く未送信メールの方が早く見つけられる可能性がある。しかし、そこまでして報せたいことは何なのか。
未送信メールの体をなした、青年への書き置きには、これまでの事情とこれからの事情が極めて単純に記してあった。
あの自衛隊員を襲って物資を奪い逃げだそうとしている一派に協力するふりをして、銃器をかすめ取り車を取り戻すという算段を建てていたこと。
そして、車を取り戻したなら二人でまた安全地帯を探す旅に出ようとの提案。言葉を飾ること無く、女は事実と要件だけを単純に書き残してあった。
最後の一文には、やっぱりお前が相方だと気が楽で良いからな、と女らしいような、らしくないような言葉が添えてあった。
暗闇の中、スマートフォンのバックライトを濁った目で見つめていた青年は、吐息して後頭部を乱暴に掻き毟った。
「……あの人は本当に」
思わず愚痴がこぼれる。こんな骨が折れそうな事を考えているのなら、最初から自分を巻き込めば良かったのに。一蓮托生だと最初に言ったのは、女だった筈だ。
多分、しくじった時の事を考えて女は一人で動いたのだろう。あれでいて、先輩であろう、先輩らしくあろうとしたがる傾向がある。だからきっと、今回の事もそんな風に考えて勝手に動き始めに違いない。
確かに青年は、自分の異常性を女に見抜かれている事を考え、どうなるかを危惧してはいた。だが、かといって簡単に女を切り捨てるかといえば、そうではない。
生きるために女が居た方が都合が良いと思っているのは確かだが、簡単に見捨てるほど軽く見ていないのも確かなのだ。
少なくとも、命の次くらいには無理せず優先する程度の重要性を女に認めていた。それが人間らしい感性の一端に依る物か、利己主義に染まった生存欲求が導き出した物かはさておき、別段軽くも低くも見てはいないのは事実である。
青年は心底面倒くさそうに吐息してから、どうしたものかと考えつつ、とりあえずの準備を始めた。
寝間着から平服に着替え、少ない荷物を鞄に纏めていつでも出られるように準備しておく。気がつけば、何やら外が賑やかになり始めたので、時間的な猶予はあまり無いようだ。
まだ避難民が異変に気づいて起き出した様子はないし、自衛隊員の見張りが走り回って表に出るなと警告をし始めもしていない。騒ぎが大きくなり、身動きが取れなくなる前に行動を始めなければ。
女の置き手紙に従えば、目を覚ましてしばらくして外が賑やかになり始めたら“使い”が行くように準備しているそうな。
そして、その使いとは当然……。
テントの入り口に何かがぶつかった。雷鳴で浮かび上がったシルエットは、シャープで流麗な大型犬のそれ。ともすれば狼と誤認しそうなフォルムを見間違えようも無い。
カノンだ。青年がテントの入り口を開くと、ずぶ濡れになったカノンが飛び込んできた。
そして、青年は女が何を考えているのかを全て悟った…………。
驟雨が注ぐ夜闇の中で、一人の男が地に頽れた。胸から血を流し、惚けた顔で自分の身に降りかかったことを理解できぬまま死んでいる。
あるいは、それが幸せだったのかもしれない。道化が道化たり得るのは、自己を道化と任じ狂言に身を任せているからだ。
であるならば、知らぬまま狂言に乗せられ、道化としての役割を任ぜられた者は何になるのか?
愚者というには哀れで、さりとて道化にもなりきれない。ただ、救うに救えぬ哀れな何かとして朽ち果てるだけだ。
それは、人の死に方としては惨い物と言って差し支えなかろう。なら、そんな事実を知らないままに逝けることは、多分幸福なことなのだ。
「よぅ、後輩」
「どうも、先輩」
黒い雨具を目深に被った女の前に、一人の青年が姿を現した。平服だけを纏い、雨具も何も持っていない彼は、あの世から帰ってきた溺死者のような有様であった。
濡れて張り付いた顔の合間から覗く目が、殆ど見えない視界の中で酷く虚ろにぎらついている。
それは、紛れもない殺人者の目であった。
「やるじゃないか。エアピストル競技でも良いとこ狙えたんじゃないかお前」
青年の手には、一挺の拳銃が握られていた。制服警察官が携行する、M37リボルバー。38口径の携行性に優れる小型拳銃。
手のひらに収まるほど小型で軽量なれど、彼の拳銃が秘める威力には他の物と比べて劣ることは無い。より機能的に形を与えられた、鈍色の死は何の瑕疵も無く振るわれた。
そう、あの男を撃ったのは、青年なのだ。
「頭悪い事言ってないで、さっさと済ませましょう。慣れないことさせられて、私は疲れてるんです」
しかし、当人は何ら気にしていないのか、不快そうに鼻を鳴らしてからM37に安全装置をかけ、女に投げ寄越す。
「そうだな、お前アドリブ苦手だもんな」
からかうように笑う女を無視して、青年は小さく口笛を吹いた。すると、ゴテゴテと装甲板が強引に張り付けられたキャンピングカーの向かいに止まっているトラックの下から、一匹の犬が這い出してくる。
黒銀の毛並みを持つ彼女は、青年と同じく全身余すところなく濡れていた。それもそうだろう、今さっきまで青年と一緒にトラックの下に潜んで機を待ち続けていたのだから。
「おっ、ご苦労だったなカノン。配達もできるとか、お前は賢い犬だー」
出てきたカノンを褒めながらしゃがみ込み、女はびしょ濡れの毛皮を力強く撫でてやった。火薬臭い拳銃を握った手で、犬には決して心地よいものでなくともカノンも嬉しそうに撫でられて喜んでいる。
そう、この拳銃、青年が誘い出された男を撃った拳銃はカノンが運んだのだ。ビニール袋に入った拳銃は、首輪に繋がれて一緒にやってきたのである。
これは全て女の計画の内だ。もし、物資を奪う段階になっても決して一人では運ばせてくれないだろう。なら、物資を安全に奪うための武器が必要になる。
かといって、警戒されているだろう自分が咄嗟に撃った所で、反撃を貰うのは目に見えている。素人相手だから致命傷を正確にたたき込んでくるとは思えないものの、それでも偶然はある。
ならば、警戒していない所から攻撃させればいいだけの話だ。
そう考えついた女は、青年を呼びつけるついでに伏兵に仕立て上げたのである。銃を武器庫から奪う段階で一つちょろまかし、それをカノンに括り付けてわざと逃がす。そうすれば、賢い彼女は異変を察知して真っ先に主の向かうだろうと踏んで。
「で……大丈夫ですか? その手」
「ん? ああ……ぶっちゃけ気絶しそうなくらい痛いぞ」
濡れそばった髪の毛を後ろに撫でつけて、オールバックを作った青年が女に問うた。カノンを力強く撫でつける右手とは逆しまに、左手からは全く全ての力が抜かれていたからだ。
よくよく観察すれば、革の手袋が重くなり、雨の滴に紛れて薄まった血が滲んでいるのが見えただろう。手袋の下には、なおざりに手当が施された掌を貫通するほどの裂傷が走っていた。
「ちょっと迫真の演技に凝りすぎたな。とはいえ、捕まえられる小動物とかもいなかったし、しょうがないさ」
彼女は今足下で死んでいる男と契約し、仲間に入るに辺り二つの条件を呑まされていた。一つは、彼の女になること。もう一つは、元恋人である青年を殺すことだ。
一つ目の契約は、至極単純な思考によって提案されたことに疑いの余地も無い。女は世間一般では整っていると称して良い外見をしているし、あの男は女遊びを趣味にしていた所もある。美味しそうな物を見て、つまみたくなっただけだろう。
しかし、二つ目の契約には、どんな歪んだ意思が込められていたのか。奇妙な独占欲か、それとも自分が気になった果実を先に囓った者が居るという事が我慢できなかったのか。
それとも、単純に不安要素を排除し、完全に自分に靡いたと確信したかったのであろうか。今となっては永遠に謎だが、兎角ろくでもない話であった。
元より女は男に入れ込んでもいなければ、杜撰な脱出計画を評価してもいない。ただ囮として、切片として役立ってくれれば良いとしか思っていなかった。だから、青年を殺すなんてことはあり得ない。
なれば、殺した事に説得力を持たせる証拠が必要になる。だから女は、長く切り取った血染めの髪の毛と、荒っぽい使われ方をしたせいで人血と脂で汚れたナイフを欲したのだ。
前者は、既に散髪で入手していた。そして、血液と脂は自前で調達したのだ。そう、自前、つまりは自分の体から。人を刺したという説得力を持たせるために、女はナイフで自らの左手を刺し貫いたのである。
結果として、人の血と脂で汚れ、歯を零れさせたナイフは奇妙な威圧感で彼らに信用され、女は企てに乗れたのだ。
梯子を登ったり、重い荷物を運んだり、貫通する傷口が痛むであろう行為をよくぞ呻きの一つも発さずにやり遂げたものだ。暗闇で青年にはよく見えないが、女の顔は痛みによって蒼白になっている。明かりの下であったなら、余りの白さに心配されていたことだろう。
それでも、青年には女が何処かしらを刺したことは分かっていた。拭ったつもりだったのだろうが、テントの中に小さな血痕が残されていたからだ。
「無茶をする……傷口を見せてください。勿論、後でですが」
相当痛むであろうに普段の笑みで顔を緩ませている女を見て、青年は心の底から呆れ返りつつ嘆息した。そこまでの無茶をやらかすのであれば、やはり一言相談するべきだったのだ。
耐える覚悟があったのかもしれないが、何にした所でやり過ぎに違いは無い。
「すまんすまん」
全く悪びれも泣く笑う女を放っておくことにして、青年はキャンピングカーの鍵を要求するべく手を突き出した。女も心得たもので、懐からキーを取り出して青年へと投げ渡す。
そして、女はキャビンに繋がる扉を開けた青年の背に向かって、何処か酷く不安定な気持ちにさせられる、震えるような笑い声と共に問いを投げかけた。
「で、後輩、初めて人を殺した気分はどうだった?」
彼の動きが止まる。ステップに乗せた片足が縫い付けられ、車内に踏み込もうとしていた片足が宙を彷徨う。そんな彼の様を、女は狂気が滲む満面の笑みで眺めていた。
「別に殺せ、とは書いてなかっただろう? なのに、見事なもんじゃないか。心臓周りにダブルタップ……これが法廷なら、殺意が存在しないとは何があっても認められないだろうなぁ」
笑みそのものは、平素と同じ見慣れた形をしていた。だが、目が、目だけが笑っていなかった。いや、正確には嗤っていたというべきか。単純な喜悦以外の何かが籠もった目は、弧に歪みながら奇妙な光を宿していた。
つり上がった口の端、虚ろながら生気と狂気で爛々と輝く瞳。両手はまるで何かを楽しみにするかのように顫動し、呼吸は低く深く、それでいて荒げられていた。
女の笑みは、正しく狂人のそれである。今までは抑えていた、完全に発露されることの無かった理解され得ぬ歪な精神が表に出ていた。痛みと失血が伴う興奮、そして……青年によってあっさり成された殺人によって。
女は人間を既に一人殺している。青年が金属バットで襲われた駐車場、あの場で迷うこと無く人を殺した。躊躇いも躊躇も、ましてや後悔など全くなく殺してみせた。
だが、あれは必要な場面だった。殺さなければ、自分たちが被害を被る場面。通常の倫理観であれば狂気かもしれないが、異常な場では異常な倫理こそが正常なのだ。
ならば、そんな異常な状況に置かれたなら、青年はどうするだろう?
女には、それがずっと気になっていたのだ。あの日した問い掛け、その答えを求めるように、短く燃え尽きようとしているモラトリアムの空白を埋めるように女は手を伸ばした。
「別に、何とも感じませんが?」
そして、実感した。ああ、やはり私は間違っていたが正しかったと。首だけで振り返った彼の、肩越しに見えた濁った瞳が、そのことを女に教えていた。
背筋を這うように、ぞわりとした感覚が伝わった。怖気といって良い感覚は、常人であれば恐怖を喚起するものであったが、女にとっては悦び以外の何物でも無かった。失せていた血の気が顔に再び巡り、腹の底が熱くなるのを感じる。
女は体を趨る暴力的な快感に突き動かされて、手を伸ばしていた。痛みを伝える傷口を無視し、青年の襟首を掴んで無理矢理に引き寄せ、そして強引に正面を向かせる。
唐突になされたアプローチに青年は驚きを覚えながらも、それでいて目だけは冷静に女の動作を追っていた。正面にやってきた顔をじっと見つめ返し、淀んだ瞳で切り込むように睨み付ける。
されど、それは女にとって悦びを引き出すばかりで、動きを止めることには繋がらなかった。
「やっぱり、お前は、お前はそうだったか……! 愛してるぞ後輩!!」
雨の中でも響き渡りそうな大声を上げ、感極まったように女は青年を引き寄せて強引に唇を奪った。
接吻というよりも、最早喰らうと形容した方がふさわしく思える荒々しい口づけ。開いた唇で唇を覆い、舌で閉じられたそこを押し開いて侵入する。
突然の言葉と突拍子も無い行為に青年の頭は対処しきれず、出来たのは驚きの声を上げようとしたことだった。しかし、声はうめきとなって女の喉へと呑まれていくばかり。それどころか、うっかり口を開いてしまったのを良いことに、舌をより奥へ侵すように突き入れられてしまった。
艶めかしく長い舌は、青年の口腔を無遠慮に侵し尽くした。歯列を数えるように舐め、口蓋のひだを伸ばすように撫で、根元から引き抜かんばかりに舌へ絡みつく。
海外ムービーも真っ青な濃密なキスに晒され、口腔が埋まったため青年は呼吸困難に陥った。不意打ち過ぎて頭が正常に働かず、鼻で息をすることを忘れてしまったのだ。
初めて感じる奇妙な感覚を刺激され、違和感に脳髄を犯されつつ青年は考えた。呼吸をしなければと。そして、どうすれば呼吸ができるようになるかを考え、単純な一つの回答に行き着いた。
口の邪魔な物を排除すればいいと。方法もまた、単純だ。口を閉じれば良い。
「いってぇ!?」
思いついた考えに従い、青年は口を閉じようとした。思い切り。門歯が弾力に富む舌に食い込み、傍若無人に振る舞っていたよそ者に手酷い打擲を見舞う。気ままに陵辱を楽しんでいた侵略者は、思わぬ反撃を受けて領域から追い払われた。
「何しやがる!」
「こっちの台詞だ!!」
結構強く舌を噛まれた女は、痛みに任せて抗議の声を上げ、脈絡も無く口腔を陵辱された青年は当然の抗議を叩き返した。
袖で口周りに付着した唾液を拭う彼の目は、驚きと戸惑いで染まっており、先ほどまでの濁りがなりを潜めている。我が身を襲った事態を未だに把握出来かねているらしかった。
「何考えてんですか!? いっ、いきなり……」
「お前こそ噛む奴があるか! もっとやりようがあっただろうが!!」
状況を理解しないままに罵声をぶつけ合う二人。阿呆二匹を見つめる一匹も、また理解出来かねるというように首を傾げた。
暫しとりとめも無い嘲罵を投げつけ合う二人であったが、遠くから響いた連発する銃声を聞いて意識が一気に現実へと引き戻される。
互いの襟首を掴んで、今にも殴り合いに突入しそうな状況にあった二人の首がぐりんと不自然に動き、音の発生源へと向けられる。
「……職員室だな」
「ですね」
そして、音源を特定すると共に顔を見合わせ、どちらとも無く頷いて動き始めた。青年はキャンピングカーの中に入り込んで内部を確かめ、女は運んできたバックパックを開けて小銃を取り出す。
青年はしばらくぶりに入ったキャビンを眺めて、思わず口笛を吹いた。結構な量の木箱が積み上げられており、その中に十分な量の武器弾薬が納められていたのだ。
これはきっと、長期の偵察に出る斥候に十分な火力を供給すると共に、万一に備えて弾薬が補給できる地点を分散するための処置だろう。主な武器庫が駄目になったり、遠かった時でも駐車場に来れば補充ができるよう、あえて多くを積みっぱなしにして武器庫代わりとしているのだ。
この辺は常に見張りも居るし、施錠も記を払われている。そう考えれば、確かに車を予備の武器庫として用いるのは、別段おかしくは無い判断であった。
「ついてますよ先輩、武器も食料もそこそこ積んであります。食料には、ちょっと不安がありますが」
「ならプラン通りやるぞ……ああ、そうだ。ほらこれ、返すぞ」
歓喜の声を上げた青年に女は答えつつ、手だけをキャビンに突っ込んで、ある物を青年へと寄越す。
「これ……」
マットブラックのエアライフル、青年の愛銃である。
「私の愛銃を諦めてまで持ってきてやったんだ、感謝しろよ?」
「……ありがとう御座います」
笑いながら恩着せがましく言う女であったが、以外な事に青年は素直に礼を述べた。それから、長らく自分の身から離れていた愛銃を慈しむように撫でる。
身に馴染んだ物を手近に置けるのは、やはり彼としても嬉しいのだろう。珍しい事もある物だと思って顔をキャビンに覗かせた女は、更に珍しい物を見ることとなる。
青年が、何処か優しく笑っていたからだ。
「……なんだお前、そんな面もできたのか」
「そりゃ私だって人間です。嬉しいことがあったら笑いますとも」
そう、青年も人間だ。倫理観が常人に理解出来ない方向へ振れているとはいえ、感性は人並みにある。美しい物は美しいと思うし、嬉しい物は嬉しい。ただ今まで、それをあまり表にする機会が無かっただけのことに過ぎない。
「まぁいいさ。お前、その面は悪くないぞ。たまには私の前でも機嫌良く笑えよ」
一瞬、普段通り皮肉で返すが断ろうと思った青年だが、少し考えた後で濡れ髪を掻きながら、こう答えた。
「……考慮しておきます」
素直ではない物言いに女は笑い、今度はライフルの代わりに実包を満載した89式小銃を寄越す。それから、朗らかな笑みを別種の邪悪な笑みに変えて宣言した。
「よし、じゃあ略奪だ」
槓桿の引かれる音が、冷たく響き渡る…………。
「畜生、いてぇよぉ……」
黒い雨具を着込んだ数人の男女が、校庭の片隅で怯えながら何かを待っていた。女と男が場を離れた時より、数人増えているものの状況が好転した訳ではない。
幸いにも、被害者を出しつつ食料庫の強襲は成功したらしい。とはいえ、一人しか生き残らなかったので、集合場所まで引っ張って来られたのはわずかにバックパック一つ分という為体である。
挙げ句、本校舎の職員室方面で賑やかに銃声が響き始めた。鍵を取りに向かった面々は、自衛隊に捕捉されてしまったらしい。
この銃声はきっと、最後の悪あがきだろう。今日この日まで実銃など握ったことの無い素人が、何年も危難に備えて訓練を積んだプロフェッショナルに勝てると考えるほど彼らは楽観的でも馬鹿でもない。
銃声が止んだ時、それは鍵を確保しに向かった仲間の心音が停止する時だろう。この期に及んで、自衛隊が命までは取らないだろうとは思わない。少なくとも、彼らは甘かったが決して愚かではなかったのだから。
無駄な抵抗を止めて降伏すればいいと誰かは考えたが、それもまた無駄だ。どのみち、ここまで大それた事をしでかした者達に居場所などない。結果的には今死ぬか後で死ぬかの差だ。
なら、最後まで可能性に賭けて抵抗した方がマシと考えるのが人情だろう。とはいえ、全員がそこまで気合いの入った人間であるかと問われれば疑問は残るが。
「な、なぁ、合流地点をばらされる前に逃げないか? ほ、ほら、もう一台あるんだろ? もう逃げなきゃ拙いだろ!」
食料を奪いに行った者達の生き残りが、上ずった声で言った。殆ど悲鳴に近い甲高い声は、他の物の精神を焦燥という炎で炙っていく。
もう誰も、鍵を確保しに行った者達が帰ってくるかも知れないし、とは言わなかった。誰かが言ってくれるのを待っていた、と言わんばかりに同意しはじめる。
そして、立ち上がり移動し始めようとした所で、食料が入ったバックパックを担ぎ上げた男の背中がこづかれた。
「意外だな、生き残りが居たとは」
「ひっ!?」
いつの間にやら、そこには送り出したはずの女が居た。しかも、持っていなかった筈の小銃を抱えて、脅すように銃口を向けながら。
「なっ、何して……」
「いや、なに、予定変更だ。お前達はここに残れ。私は逃げる……その前に、置いていけるものを貰っていこうとおもってな」
全員が事態の把握をし損ねていたが、ここまで堂々と言われれば流石に気付く。雨で濡れてたこととは出所の異なる恐怖が、彼らの精神を手酷く打ち付けた。
「うっ、裏切るのか!?」
「すまんが、最初から仲間になったつもりなど無い。だまされたのが悪かったと思って諦めろ」
満面の笑みを浮かべながら、実質の死刑宣告を発する女。しかし、あまり挑発的な発言をし過ぎるのはよくない。それが、切羽詰まって逃げ場を無くした相手であれば特に。
「このクソアマ!!」
万一の為と、一人だけ小銃を持たされていた男が不格好ながら小銃を構えようとした。既に銃口を持ち上げ、少し動かすだけで誰であっても狙えるようにしていた女相手には無謀すぎる行為である。しかし、恐怖と焦りで茹だってしまった頭では、そんな単純な図式ですら理解することを困難にしてしまったらしい。
されど、頼もしい銃声が轟くことが無ければ、銃火が闇夜に花開くことも無かった。響いたのは、耳に喧しい男の悲鳴だけであった。
「あっ、ああっ! 目がっ、うあああ!」
男の目にダーツが突き立っている。暗がりから唐突に放たれたそれは、微かに弾力を返す眼球を突き破って完全に破壊していた。涙と共に眼球内部へ蓄えられていた水分が漏れていき、断末魔の叫びと共に吐き出されてしまう。
「……お前、えげつないな」
「いや、狙った訳じゃないですよ。あんな細かいの狙えるはずないでしょう。偶然ですよ偶然」
笑みを何処かひくつかせながら、女が言うと背後から声が届く。よくよく見れば、女の背に隠れる形で青年が潜んでいることが見えただろう。彼の黒い平服は、雨具と同じく存在を隠してしまっていた。
銃を使えば音が大きい。悲鳴なら、至近距離で銃声が鳴ることで目を覚ました避難民が幾らでも上げているから誤魔化せるが、流石に5.56mmの喝采は、どうしようもない。
目立って自衛隊に殺到されても困るので、女はいざとなればダーツを使えと青年を背後に控えさせたのである。そして、その備えが役立っていた。
「まぁ、そういうことだ。私の引き金は軽くないが、必要とあれば幾らでも引くぞ。後ろの奴もな」
予め決めてあった、些か演出過多のきらいがある台詞に合わせて青年も担いでいた小銃を突き出す。
「だが、大人しく物資を差し出すのなら私たちも鬼じゃないから撃ちはしないさ……ああ、そこの男の小銃も置いていって貰おうかな? 置いておくものさえ置いていけば、逃げて構わんよ?」
時に優しげかつ親しみを持って語りかける言葉は大変有効だ。特に武器を向けながらであれば。そう言ったのは誰だったかな? と青年は親愛なる筆髭のおじさんを思い返していた。
逃げ道を用意してやるのは、何時だって相手の為ではないのである。
「それに、今ならお前達は面も割れていないんだろう? それなら、何食わぬ顔でテントに戻って、怯えたフリをしておけば良い……その男だって、突然襲われたとシラをきれば何とかなるかもな。悪い話じゃないだろう?」
優しく言い聞かせられ、彼らはハッとした顔をした。そうだ、彼らは行動を気取られつつも、未だ顔は割れていない。誰が行動員かを知っているのは、仲間だけなのだ。
そして、恐らく仲間は此処にいる面々以外は全滅している可能性が高い。それなら、女が言うとおり何食わぬ顔で潜り込めば助かるのではないだろうか?
この場には指紋を照合したり、毛髪類からDNAを採取して検証できる設備も機材もない。となれば、喋る余計な口さえなければ何もなかったことにできる可能性があるのだ。
そして、彼らは喋る口が死んでいると安易に考えていた。さっきまで賑やかになっていた銃声も、殆ど勢いを落としてきている。抵抗が終わろうとしているのだ。
甘い言葉と逃げ道に惹かれ、誘蛾灯に群がる蛾のように元より俄仕込みであった烏合の衆は逃げ散った。死からも闘争からも遠い、温い日本の社会で育った人間など、大抵はこんな物だ。
最初から成就する筈がなかったのである。
「やれやれ、小銃一挺と弾倉数個増えるのを期待してただけだが、思わぬ収穫だ」
「そうですね」
色々と詰め込んだせいか酷く重いバックパックを担ぎ、ついでに増えた小銃も小柄な体躯に搭載した青年の声は酷く苦しそうである。しかし、流石に左手をナイフで抉って色々限界が近い女にこれほどの重量物を背負わせる訳にもいかず、筋力に乏しい青年であっても気張らねばならなくなってしまった。
普段であれば、遠慮無くあんたの方がでかいんですから、とかいって荷物を押しつける所であったが、彼にも一応はけが人を思いやる優しさはあったらしい。
「くっ……結構きつい……」
大きめのバックパックと小銃二挺の重量は、流石に青年をしてもきつい物があったようだ。伴っていたカノンが心配そうに寄り添い、鼻を鳴らしている。
勿論、カノンも二人に伴って隠れていたのだ。何かあった時、この賢い犬なら飛びかかって攻撃を防いでくれる事を期待して。普通の人間であれば、犬が本気で襲いかかれば対処など出来ようもないことを二人は知っていたのである。
しかし、荷を運ぶとなっては頼もしい犬にも出来ることはない。橇でもあれば、エスキモーに財産として重宝されたシベリアンハスキーの面目躍如といった所であったのだが、無い物ねだりをしても仕方有るまい。
「あー……すまんな。なら、私は先に行って車を出す準備をしておくぞ」
「頼みます。転ばないよう歩くのに、ちょっと気合い入れる必要があるので」
畜生、何も考えずに水とかたっぷり入れやがったな、と珍しく荒い口調で悪罵を吐く青年を残し、女はキャンピングカーへと向かった…………。
青年はキャビンに荷物を降ろすと、まずずぶ濡れの装束を脱ぎ捨てるよりも早く運転席へと向かった。
助手席には既に女が腰を下ろし、何やら座席の下を忙しく探っている。
「……どうしたのですか?」
青年の問いに女は答えず、無言で手を動かし続けていた。そして、遂に目的としていた物を見つけ出したらしい。
「……何でそんな所に」
座席の下、シートとクッションの間を探っていた手に握られていたのは、白いソフトパックの煙草だ。錨の意匠が描かれたパッケージは、紛れもなく女が愛飲するものである。
「何、前に見つけた最後の残りでな。目に見える場所にあると吸ってしまいそうだったから、自制のために隠しておいたんだ」
何を映画みたいな事を、と思いつつ青年は既にイグニッションに差し込まれていたキーを回してエンジンを起こした。大型のエンジンが不機嫌そうに律動し、車体が低く振動する。
暫くぶりの感覚を覚えつつ、青年はクラッチとアクセルを操作して、ゆっくりと車を発進させた。ギリギリまで見つかりたくないので、ライトは付けない。稲光と、つい先ほど息を吹き返した発電機によって動くライトの明かりを頼りに動かす。
そんな青年を余所に、女はビニールを雑にひん剥いてパッケージを開け、ぴんと伸びた茶色い煙草を咥えて火を付けた。実に美味そうに一息吸い込んで、味わうように吐き出す。
「バリケードに突っ込むんで、衝撃に備えて下さい」
「ん」
しかし、青年は静かに煙草の煙を味わう女に違和感を覚えた。普段なら、バリケードを突き破ったりしようとしたならば、テンションを上げて映画の台詞なりを引用しつつ口汚く大声を上げていただろうに。
だが、女は煙草をくゆらせながらシートに深く身を預け、茫洋とした目で暗い窓の外を見つめていた。
焼けて黒く染まり、未だくすぶって煙を上げるバリケードの一角が合板のブレードで蹴散らされた。元より重量級の車体に装甲が足され、挙げ句に障害物を撤去するブレードまで装備されているのだから、この程度の障害物は無いに等しい。
気を遣えば、軽自動車程度なら踏み散らしながら走れそうな威容なのだ。その様は大変目立ち、今も押し寄せる死体や火事を押し止めようと奔走する自衛隊員の目にとまる。
されど、既に手一杯の彼らに出来ることは無い。アリのように追い散らされ、ただ自分の本分を果たそうと努力するほかないのだ。そうしなければ、死体の圧力は直ぐにでも防備を噛み破って襲いかかってくるだろう。
この混乱が無くして、二人が愛車を取り戻すことは出来なかっただろう。射撃で破壊される危険性もあるし、追撃されることもあろう。あの一団は、最初から最後まで二人によく働いてくれたのだ。
最後のバリケード、農地付近を囲む最外縁の物は可能な限り死体が密集していない部分を狙ってぶち抜いた。良心が咎めたのではなく、単に死体をはね飛ばす数を減らし、車体へのダメージを軽減したかったからだ。
構造物を破壊する耳に痛い喝采と、車体越しであっても何処か生々しく伝わる肉を押しつぶす感覚。怖気を感じる気味悪さと引き替えに、くびきに捕らわれていた車両は遂に逃げ出したのだ。
閉塞した死から逃れるために。少しでも長く生きようと足掻くために……。
「とりあえず県境を沿って、また兵庫を目指しますよ」
荒れた農地を脱し、やっと舗装された道路に戻れて青年は安堵した。乱れた路面に突き上げられ、車体が揺れている時は気が気でなかったからだ。この車が横転したなら、もうどうしようもなかったであろう。
「……この辺だと宇治駐屯地やら桂駐屯地もあっただろう。だのに、あの有様だ。きっと伊丹の第三師団も駄目だろう」
窓の外を惚けたように眺めていた女が、吐き捨てるようにそういった。
確かに、この近辺には自衛隊の駐屯地が多い。福知山駐屯地には第七普通科連隊が配備されているし、宇治は補給の重要拠点がある。にもかかわらず、避難所になった小学校に配備された自衛隊の規模は酷かった。
人数の問題では無い。編成と装備、見るからに敗残兵の寄せ集めだ。それが近畿の重要拠点付近で、補給も受けられずに孤立するであろうか?
まともに作戦行動を行える状況にあれば、断じて否だ。少なくとも、より堅牢な防備を誇る駐屯地へ引き上げられるように増援が送られたはずだ。
しかし、待てど暮らせど増援は一兵たりとも来援せず、補給物資一つ届かない。最悪、全員を乗せて宇治や桂まで強行軍ができるだけの足がありながら、籠城した自衛隊員が脱出を測らなかったのにも疑問が残る。
きっともう、駄目なのだ。まともな戦力を残した部隊が何処にも無いのだろう。初動が拙かったのか、それとも何か別の原因でもあったのかは分からない。
しかし、現状から察するに、自衛隊は壊滅し作戦遂行能力を喪失していると断定せざるを得ない。
最早、誰にも頼ることは出来ないのだ。
青年は、余りに低く暗い女の声音に驚きを覚えていた。普段とは雰囲気が違いすぎる。ちらと横顔をみやれば、そこには別人のように表情が失せた彼女の顔があった。
さしもの彼も驚きを隠しきれず、ハンドルさばきが危うくなる。女は無言で煙草の灰を灰皿へ落とし、赤く光る火玉でライトスイッチを示した。もう距離も十分稼いだだろうから、明かりを付けろというのだ。
若干もたつきながら、青年はライトを付ける。雨で視界が著しく悪くとも、ライトがあるだけで随分と違う。雨粒の向こうに霞む死体の数は、避けるのが難しいほどの密度ではなかった。
暫し無言で車は進む。車内で響くのは女の吐息と、キャビンで雨を払おうとカノンが体を震わせる音。それ以外では、かつての習慣で道を曲がる時に青年がうっかりとウィンカーを出した時以外には誰も音を発しなかった。
うなり声のようなエンジン音とロードノイズ、そして雨音だけが世界を埋め尽くす。押しつぶされるような沈黙に包まれ、青年は珍しく居心地の悪さを感じていた。
何かが、何かが狂っていた。
不意に、違和感に気がついた。女の格好が普段と違うのだ。
一足先に車に乗り込んでいた女が、雨の気持ち悪さに着替えたのなら分かる。だが、女のズボンは替わらずに濡れているのに、ジャケットだけが替わっているのは何故だろうか?
今女が羽織っている物は、テントから持ち出した私物を詰めたリュックに収まっていたものである。しかし、青年が車に乗り込んだ時には雨具や着ていたジャケットは見受けられなかった。
それらは何処へ行き、何故女は濡れるのにジャケットだけを着替えたのか?
疑問が尽きることは無い。考えば考えるだけ違和感が膨れあがり、何かがあったことだけが確かになっていく。
「……燃え尽きたな」
「はい?」
女の指に挟まれていた煙草は、もう根元までが燃えていた。ほんの微かな振動を与えただけで落ちそうな灰だけが、熱の名残を示すように遺されている。
「……停めてくれ」
急に告げられた要望に逡巡したが、女の声音があまりに真剣であったので、青年は素直に車を停めた。減速の慣性で灰が落ち、女のジャケットを汚すが、彼女はそんなことは気にならなかったらしい。燻る煙草を灰皿へとねじ込み、大きなため息を漏らす。
「やれやれ、我ながら詰めが甘いな、全く」
自嘲気な呟き。遠い目で遠雷が光る空を眺めつつ、女は不器用に笑った。あの何時も浮かべていた笑みが、嘘のような笑顔。
「……何があったんですか」
既に察しては居たが、何かあったのは最早問うまでも無く明白だ。されども、青年には問いを押さえ込むことができなかった。女が此処までしおらしくなるなど、余程のことではありえない。
彼女は青年に目線をやり、暫し無言でじぃっと濁った瞳を見つめていた。それから、意を決したようにジャケットの袖を手をやり、大きくまくって見せた。
「っ……!?」
そこには鍛え上げられた前腕部だけではなく、手酷く噛みちぎられた傷跡があった。形状は、明らかに人間の歯列が肉を裂いたものである。
「ちょっと気を抜けば、この様だ。笑えよ後輩」
青年は全てを悟った。女の態度、不自然にジャケットを着替えた理由まで何も鴨を。
「何故……?」
だが、一体何処で噛まれたのだ。死体に噛まれる要素など、何処にも無かったではないか。まだあの時点ではバリケードは破られておらず、亡者が入り込む余地は無かった筈だ。
「あっ……!」
青年は、ある事に気付いた。自分が胸を打ち抜いて殺したあの男。確か、倒れていた位置はキャビンの入り口近くだったはず。
だのに、自分は荷物を運び入れた時に見た覚えが無い。もう明かりが生き返り、微かな明かりで視界が照らされていたので見えないはずがないのだ。
なら、あの死体はどうなったか……わかりきった話だ。動き始めたのだ。狂ってしまった世界でのズレてしまった法に従って。
「お察しの通りだ。因果応報とは、よく言ったものだよな。ええ?」
力なく女は笑い、芝居がかった動作で肩をすくめた。
二人はあの場で殺した男の始末を付けなかった。胸に二発たたき込めば、人が死ぬのには十分過ぎるから、それ以上に追い打ちをかける必要性を感じなかったこともあるが、これほど直ぐに死者が起き上がるとは思っていなかったのだ。
二人は大学の屋上で死者を観察していて、生者が動く死者に変わるまでの時間は分かっていたし、死者によって殺された生者が動き始めるまでの時間も知っていた。
しかし、生者が殺した生者が動き始めるまでの知識は、全くなかったのだ。
接触感染で動き始める死体ができあがるのであれば、人間が殺した死体は動き出さないと確認していないのに二人は思い込んでいた。それもそうだろう、そうでなければ人は襲われるまでも無く亡者に変わる熱病に冒されるはず。
だが、そんな思い込みを裏切って死体は動いた。動いてしまったのだ。
そして、油断しきってキーを開けようとした女の腕に牙を突き立てたのである。自らの血に濡れた歯は、異常なまでの咬合力で服を裂いて、肉を抉った。
思考など無い、本能的に行ったであろう行為なれど、それは不思議と仇討ちのようであった。利用されて殺された男が、最後に「貴様だけに良い思いをさせるか」と恨み言を遺したかのような錯覚を覚える。
噛まれた者が助かった試しは無い。早晩熱に倒れ、そのまま死に、そして動き出す。例外は無く、誰にも防ぐことはできない。
女の運命は、決したのだ。
「やれやれ……最後の最後でこんな無様を晒すことになろうとはな。私ともあろうものが、随分と腑抜けたもんだ」
女はジャケットの襟を戻し、濡れそばった髪を掻き毟った。苛立ちというよりも、悔恨だけが動作には滲んでいた。
「モラトリアムは、本当に思っていたよりもずっと早く終わるものなのだなぁ……いや、むしろ長く貰いすぎた方か?」
思い悩むように窓を見つめながら、女は淡々と独白を始めた。青年もそれを止めない。止めた所でどうしようもないと分かっていたから。
「私は……昔からちょっとおかしくってな。なんつーか……誰かを殺してみたくてたまらなかったんだよ」
淡々と、何の意思も感慨も込めずに女は語り続ける。幼少期より自己の中で醸造し続けた、他人には決して理解できないだろう狂気を。
「ここで私が此奴を殺したら、世界はどうするんだろう? とか、本当にとりとめも無く考えていたんだよ。誰がどう反応して、どう私を詰るのだろうかと」
小さい頃は、寝ても覚めてもそんな事を考えていたと女は言う。理解されぬ、自分ですら理解し得ぬ狂った感情。狂人は理解されぬから狂人なのだ。他人からも、そして自分ですら理解できぬからこそ狂っている。
「ただ、ある日ふと気付いたんだ。私が誰かを殺したいと思うのは、殺した先に自分がどうされるのかが興味がある……根底にあるのは、それだと気付いたんだよ」
窓を見ていた顔が、ゆっくりと巡る。そして、目が合った。濁った目と濁った目が、互いを視線で射貫き合う。つきあわされた二対の瞳は、紛れもなく同種の狂気に侵されていた。
「私が殺したいのは、私だったんだ」
されども、それは単なる自殺願望では無い。他殺願望に基づき、自分が自分を殺し、その殺された自分を観察したいという歪んだ欲望。
出所も経緯も不明の欲求が、ただただ噴出する方法も分からず吹き出していたのだ。胆略的な他殺願望は、単に欲求がより理解しやすい方向へ姿を変えたに過ぎない。
自分で自分を殺し、剰えその末を自分で観察したいと願うなど、一体どうして理解出来ようか?
単純な自殺願望なら、まだ良かった。理解しやすいし、その根底は狂気ではなく逃避や嫌悪だ。自分や環境を嫌い、死を以て逃避しようとする自己防衛反応の一つに過ぎない。
だが、女のそれは、そんな単純な物では無かった。女が欲しいのは死ではないのだ。死を得た自分を観察し、俯瞰し……楽しみたいと願う。そんな願いを、狂気以外の何物と言えようか?
「なぁ、後輩、あの日出来なかった話をしようぜ」
だから女は、的を狙う時に自分を投影する。ライフルを構えた自分をライフルを構えた自分で狙う。己の頭を吹き飛ばし、己に頭を吹き飛ばされる感覚。それだけが彼女を満たしてくれた。
しかしそれは、中途半端な自慰行為ですらない。欲求が炙るように精神を急かし、決して達成不可能な願いだけが膨れあがっていく。
自分の代わりに誰かを殺す、隠れていた欲求の外側で自己を満たしてしまいたいと思うほど、女は焦れていた。二〇年の我慢は長すぎたのだ。
自分から死に飛び込む自殺は、求めていたものと違う。先が無い、見られない。それでは意味が無いのだ。
出口が無い迷路のように、答えの無い暗号のように、解の出ない数式のような欲望に苛まされ続けた女だが、ある日一人の青年を見初めた。
濁った瞳と、よくよく見やれば異常な態度。あれは狂った何かだ。自分と同じように、他人には決して理解出来ず、そして自分でも首を傾げてしまう根源的欲求に取り憑かれた狂人だと。
あの青年が、如何なる狂気に侵されているのか女には理解出来なかった。そも、理解出来る物は狂気とは呼ばない。本当の意味で共感も理解も出来ぬ、歪んだ思考ならざる本能こそが狂気。
思考の羅列を言語化し、表層をなぞった程度で理解した気持ちには決して狂気を知ることは出来ない。ただ、自己が理解できそうな形に変換し、解釈したことを理解できたと勘違いするだけだ。
だから女にも、青年の狂気を理解はできなかった。されども、分かることが一つだけある。
アレは狂気に侵されているという点については、自分の人生では終ぞ出会えぬと思っていた同類なのだと。
このまま歪んで満たされぬ、本来の願いとは違う願いに身を委ねるくらいならば、私は彼に殺されたいと女は思った。
同類である彼に自己を投影し、自分に殺されると思えば良いのだ。そうすれば、限りなく本質に近い所で自分の欲求は満たされる。
狂人の中に自分を遺し、最後に遺した自分によって自分は殺されるのだ。想像するだけで、女は絶頂の震えを覚えるほどだった。
そして、人間は思いついたことを簡単に止められるほど理性的に出来ていない。もう頭は勝手に決めつけて、自分に都合の良い思考を回してしまっていた。
「お前は私の同類か?」
夕焼けで赤く染まった暮れなずむ屋上で、女は煙草を咥え、その表情を逆行で隠して問うた。しかし、その顔が見えていたなら、まるで請うような泣き笑いの顔であったことが青年には分かっただろう。
女は今、正にそんな顔をしていた。
「……いいえ」
縋るような問いと震える声音に、青年は揺るぎなく冷厳な回答を叩き付けた。
確かに彼は狂人だ。自分が狂っていると認識し、その狂気との付き合い方を覚えた静かな狂人。内側から狂気に溶かされ、耐えきれなかった女とは違う。
狂人は狂人。例え同種同類であろうとも理解し合えることは無い。断じてあり得ないのだ。
だからこそ、狂っているのだから。
「そうか……ああ、知ってた。むしろ私は、そう言ってもらいたかったのかもしれないな」
女は笑った。屈託の無い顔で、朗らかに声を上げながら。女の笑顔を呆れるほど見てきた青年だが、今浮かべている笑みは、どれとも違っていた。
「でもな後輩……いや」
笑っていた彼女は、不意に青年との距離を詰めた。そして、耳元に口を寄せ、彼の名を呼んだ。今ではもう、女くらいしか呼ぶ物の無くなってしまった彼の名を。
「だからこそ、私はお前に殺して欲しいんだ」
耳元から顔を離し、再び目を見つめる。至近距離でつきあわされた目は、全く引くこと無く、視線で互いの目を焼くかのように熱く熱く注がれ続ける。
どれほどそうしていただろうか。いつの間にやら、止むことは無いのではと思うほど強く降り続けていた雨は止んでおり、東の空が微かに白み始めていた。
「ふっ……」
また一つ笑い、女は近づけていた顔を離し、握りしめていた煙草のパッケージから一本抜き取り、いつものように咥える。
そして、もう一本取り出してから、青年の方へとフィルターを向けて差し出した。
「最後だ、一服に付き合えよ。キスしたら粘膜感染しかねないからな……」
言いつつ女はライターで煙草に火を移し、火がけぶる先端を誘うように蠢かせた。
青年も何も言わずに煙草を咥える。そして、唇が触れあうように煙草の先端同士が接触し……吐息の音と共に火が灯った。
微かに咳き込みながら甘ったるい煙に悶える青年と、実に美味そうに吐き出す女。目尻に涙を浮かべる後輩を見て、悪い事を教えた先輩は満足そうに微笑んだ。
「シガレットキスっていうんだ、覚えとけよ後輩」
「げほっ……二度と吸わないんで、直ぐ忘れます……」
甘ったるいのにいがらっぽい、香りは良いのに鼻に刺すような感覚がくる。鼻と喉の粘膜を蹂躙され、苦しんでいる後輩を余所に、女は機嫌良く煙草をくゆらせながらキャビンへと向かった。
そして、自分の私物が詰まっていたリュックサックに様々な私物を詰め直す。まるで、全ての痕跡を消してしまおうとするように。
僅かな時間で荷造りを終えた女は、事態の推移をじっと見守っていたカノンの頭を乱暴に撫でて、慈しむように告げる。
「ああ見えて可愛い所もある男だからな、護ってやってくれよ」
今まで殆ど吠えたことの無かった犬が吠える。すると、女は心の底から嬉しそうに口の端を上げてから、もう一度彼女の頭を撫でてやった。
「……うっし、じゃあ後輩!」
やっとの事で涙が止まった青年がキャビンを向くと、唐突に小銃が投げ渡された。弾の籠もった、ここに来るまでしっかり担いでいた89式小銃である。
「カタを付けてくれ。私は今から外に出て遠くに歩く……後は、分かるな?」
さして重く無さそうなバックパックを抱え直し、女は手近に転がっていた青年のエアライフルを手にした。そして、意地悪く笑って煙を吐く。
「此奴は担保として貰ってく。とりかえしたきゃ、しっかりやれ。いいな?」
エアライフルをしっかりと握りしめると、女は別れの言葉も無くキャビンから降りた。雨で貯まった水が跳ね、酷く冷たい空気が鼻腔を通り抜けて脳へと回る。
何もかもがクリアだった。もう、考えることが無いと思うほど。
彼女は煙草を一つぷかりと吹かし、確かな足取りで歩き始めた。今まで車が走っていた道を遡り、死体が光から逃げ混み始めた街へ向かって。
「今日は死ぬには良い日だ」
誰に聞かせるでもなく宣言し、女は歩き続ける。そして、背後で車の扉が開き、閉じる音がした。
払暁の空で、乾いた銃声が響き渡る…………。
鼻を煙が掠めたような錯覚を覚え、青年は目を覚ました。
体を起こすと、どうしようも無いほどに怠くて節々が痛む。雪を屋根から下ろし、家が倒壊するという恐怖から解き放たれる代償が、この様だ。
ソファーから体を降ろすと、外は登りかけた朝日で藍色に染まっている。朝でも無く夜でも無い曖昧な時間、ここ最近ずっと夢にみていたとりとめの無い記憶の最後も、こんな時間だったなと思い出した。
それと共に、一つの光景が脳裏に去来した。
自分の名を呼んだ後、再び至近距離で顔を見つめてきた女の眼窩に収まっていた大きな狂気が。
アレは、決して全てを納得して笑っていた目ではない。むしろ、未だ狂気に取り憑かれ、何ともし難い内心に突き動かされていた目だ。
そう昔のことでも無いのに、薄れて思い出すことも無かった光景の中で、あの目だけは良く覚えている。狂った目……自分も余所からは、ああ見えているのだろうかと思っていただろうか。
そして、考える。女の欲望が適う方法が一つあったと。
肥大した狂気に流されて、否定されて尚相手を己の同種、生き写しだと思い込めば良いのだ。そうすれば……その相手を撃ち殺したなら、欲望は適う。彼女の狂気は、自分を更に狂わせれば矛盾しようが適っていたのだ。
あのエアライフルに弾は装填されていたのだろうか。例え競技用エアライフルでも、狙う所を狙えば人は殺せる。あの女は、何かを打つことに賭けては天才的だったから、二〇年も煮詰めた情欲を込めて放った弾丸を過つことはないだろう。
柔らかな目を抉れば、例え威力不足でも人は殺せる。
果たして、女は弾の籠もったライフルを持っていたのだろうか。朧気な記憶の中で、そこだけがどうしても思い出せない。自分は、彼女を撃ったのだろうか? そして、撃って殺したのだったか?
思い返せば、荷の中には使い慣れたエアライフルは無い。小銃を使い慣れ、狙撃銃にも慣れたからといって愛用品を捨てることはないと思うのだが、かといってどこかにやったような記憶も無いのだ。
記憶の中に残るのは、アイアンサイト越しに覗いた女の……何処だったか? 顔か、それとも背中だったのか。それすら思い出すことはできない。名前を呼んだ気はした。初めて、彼女の名を呼び捨てに、声を上げたことだけは何とも無しに覚えていた。
でも、それだけだ。確固たる記憶は、頭の中に無い。思い起こそうとしても、ただ不確かな回答だけが帰ってきた。
確かなのは、銃声を聞いた後、残った煙草をぼんやりと吸った事だけ。
「……まぁいいか」
数分ほど思考と記憶の海に潜ってみたが、青年は思索を唐突に切り上げて声を上げた。それから、鍋を片手に窓辺へ向かう。雪を掬ってからストーブの上で溶かし、一日の飲み水にするのだ。
狂人は普通の事は考えない。彼は狂気と言って差し支えの無い利己と保身に基づく行動が取れるからこそ、一見普通に見える思考を構築し、行動を取れることができる。
それでも、彼は狂っているのだ。どうしようも無いほど。
だから、普通の人間ならば永遠に心に刻み込まれるような思いであっても、忘れたのなら忘れたままでいいやと思える。覚えている部分の思い出だけを、また益体も無いことを思い出したなと思いながら生きていけるのだ。
何故なら、彼は生きているから。
生きているのなら、それでいいのだ。彼の狂気は、そこにある。生きてこそあれば、後は割とどうでも良い。行き過ぎた自己保全は、人をそこまで無感動にできる。
全ては無価値だ。生きること以外、彼にとって価値は無い。例え美しい物を見ようと、美味しい物を食べようと、それに感慨を抱けども拘泥することはあり得ない。
他人に価値を見いだせず、殺すことに何の抵抗もないのと同じように、最終的に彼は自分の生存以外全てを切り捨てても平気でいられるのだ。
何故なら彼もまた、狂人であるから。
「ああ、良い天気だな今日は」
嘘のように爽やかな朝日が、白々しく狂人の濁った瞳を照らしていた…………。
とりあえず一段落です。青年と女編はここまでですが、タイトルの通りにお話は続きます。
感想や誤字訂正、励みになっております。皆様よろしければ最後まで、今暫し拙作におつきあい願います。