女と男
Twitterで誤字報告貰いました。この場を借りてお礼させていただきます
雷光が閃き轟音が響き渡った校庭で、血塗れの刃が不気味に輝いた。それは簡素なシースナイフで工作用だと思われるが、明らかに本旨とは異なる用途に用いられていた。
すなわち、殺害である。
銀色の表面を斑に血痕が汚しており、無理に突き立てたのか刃は微かに欠け、刀身は歪んでいた。ありありと命を奪ったことを示す物証を見せつけられて、刃の担い手を囲む黒ずくめの一団はたじろいた。
ただ二人、殺人の証拠を見せつけた長躯の女と甘く整った美貌の男を除いて。
誰かが石のように堅くなった唾液を嚥下する。緊張ではなく、恐怖によって喉が知らぬ間に蠕動したのだ。
確かに彼らは、今宵の決起に当たって人を殺す覚悟はした。自分たちが生きるため、自分たちを守るために骨身を削った者達に牙を剥こうとしている。だがそれは、そうせねば遅かれ早かれ死んでしまうからやむを得ず選び取った手段だ。
しかし、女の行為は、やむを得ない成すべきことだったと言えるだろうか? 恋人を殺し、別の男の下に走る行為が。
彼らには女と女を抱き寄せる男が、酷く歪な人間以外の何かに見えた。異常者、その一言が軽く思えるほどのおぞましさ。
全員が恐ろしげな視線を注ぐ中、貼り付けた普段の笑みを完全に消した女はナイフを鞘に仕舞い、懐へ戻す。何気ない動作だが、その動作が全員を怯えさせたのは、見た者が恐怖に絡め取られていたからだろう。
一体、どのような精神構造をしていれば、あそこまで慕っていた恋人を殺せるのだろうか?
少なくともそれは、余人にとって理解できることでも理解したいと思われる行為でもない。一重に神経を掻き乱し、恐怖を助長し、そして畏怖させるのみである。
何人かは、女の凶行が男からの指示によってなのか、それとも自発的な行動か。はたまた、互いに話し合って決めたのかと気になりはしたが、口を開くことは無かった。
どんな理由にせよ、聞いてしまえばおぞましさで耐えられなくなると分かっていたからだ。自分たちは、これから彼らと一蓮托生となり、今後も行動を共にしなければならないというのに。
我慢しなければならないのであれば、目を背けた方が良い。人間にとっては、知覚の範囲外にあることは存在しないのと同じに処理できるのだから。少なくとも個人の精神において、世界はそういうふうに作られている。
「……段取りを確認するぞ」
精神に絡みつくような怖気を振り払うように、統率を取っているとおぼしき男が口を開いた。誰しもが、話題が移ったことに安堵する。
今から踏み込むのは、覚悟して行く非日常だ。先ほどの覚えた怖気は、冷や水を浴びせかけられたに等しい。覚悟を決められるのなら、同じ狂気でも前者の方がずっと気楽だ。
「一班は車の奪取。キーは職員室で管理されているが、偵察の結果三人しか職員室には居なかったし、警戒も軽微だ」
数人が、自分の役割を伝えられて息を飲んだ。室内を強襲し、鍵を奪うのは簡単では無い。それも、相手は自衛隊員なのだ。徒手格闘の凄まじさにおいては、海外からも狂っていると評される集団である。楽観など出来ようはずも無かった。
「ただ、外から鏡を使って確認しただけだから人数に誤差はあるかもしれん。注意してくれ……武器も大それた物は携行していなかったから、何とかできると思うが」
小銃という大物ばかりに気が向いているようだが、拳銃の有無は確認できなかったのだろうかと女は思った。近距離では取り回しが良く狙いが付けやすいので、小銃よりも危険な代物なのだが。
とはいえ、自分が関わる部分では無い。積極的に意見を言う気になれなかったのか、彼女は疑問をそのまま飲み込み、話の続きを黙って聞き続けた。
「混乱した所を一気に襲いかかれば、きっと倒せる。気合いを入れてくれ」
一班の面々は力強く頷く。顔には緊張と覚悟が滲んでいるが、流石に認識不足と言わざるを得ない。とはいえ、自衛隊員に対して、その程度の認識しか持っていないのも軍事に興味を持っていない一般人らしいが。
「二斑は陽動。火炎瓶で火事を起こして、外付けの発電機も止める。壊す必要は無い、止めればいい……後は、可能ならどこかのバリケードを崩してくれ」
陽動斑は人が注意を集めるのではなく、火事や停電で注意を反らすことを主眼において作戦を立てたらしい。重要だろうに宛がわれたのが二人だけなのは、目立たないようにするためだろうか。
雨が降っていても、火というのは一度燃え広がれば簡単には消えないものだ。火元を選べば、豪雨の中でも燃え続けることができる。
それに、単に雑誌などを焚き付けにするのではなく、何処からかちょろまかしてきた火炎瓶が火元だ。燃えやすいよう化合された燃料を火元とするので、多少の雨ではびくともするまい。
「三斑は武器庫……三階の六年生教室に侵入してくれ。四斑は1年生の教室にある物資を狙うぞ」
生き残るのには、脱出しただけでは色々と足りない。武器と食料が必要だ。
武器が無ければ襲いかかる脅威を振り払うことは出来ないし、食べ物が無ければ生き物は生きていけない。無茶と非道をやらかすのであれば、無計画であってはならないのだ。最低限、生きる望みを以てことに当たらねばならない。
とはいえ、集団ヒステリー気味に逼迫する事態を恐れて暴挙に及ぼうとしているのだから、無計画という誹りからは既に逃れようが無い有様ではあるが。
ただ、人間は追い詰められれば追い詰められるほど、そして群れれば群れるほど正常な考えができなくなる生き物だ。大勢の人間が感じる不安が同調して伝播し、人々を狂奔へと駆り立てていく。
普通の感性を持つのであれば、そんな中で一人だけ正気を保つのは難しい。そして、周囲が狂っている中、一人狂わずに居ることは、返って異常なのだ。
本当に焦っている人間には、冷静になれと言っても逆効果だ。例えどれだけ論理的な意見であれど、恐れに狂わされた群衆は、たった一種類の叫びと本能に押し流されて間違った方向へと突き進んでしまう。
要は、この集団も心が弱く、狂ってしまったに過ぎないのだ。だからこそ、戦闘のプロフェッショナルへ、冷静に考えれば勝算があるかも怪しい無謀な攻撃を仕掛けるに至ってしまった。
されども、当人達の狂った認識の中では、十分に勝算があると思って実行に移すのだから性質が悪い。
勝算があると思うからこそ、可能な限り戦術を練ってプランを立てる。現実には失敗すれど、その練られた策は深い傷を残すことであろう。これが単なる暴発であれば良かったのにと思われるほど。
「では、予定通りに……」
扇動していると思しき首魁の声に従い、全員が頷いて動き始めた。それぞれ所定の場所に散り、陽動が始まるのを待つのだ。
「じゃあ、行きましょうか……」
「ああ。さっさと終わらせよう」
女と男も流されるように動き始める。迅速とも静かとも言い難い雑な動きであったが、雷雨が素人の杜撰な動作を隠してくれた。
そして、雨に惹かれて這い出して、飢えに突き動かされて押し寄せる死体へ注力するあまり、自衛隊員は内側で蠢動する物に気付けない。
彼らに出来ることは、ただただ抵抗しながら時を待つだけだ。
護るべき存在と任じ、自己の使命に従って身を捧げた存在から裏切られる時を…………。
驟雨が叩き付ける屋上は、酷い有様であった。雨水をためるためのバケツやらが無数に並ぶそこからは、学校を囲うバリケードの付近で閃くマズルフラッシュがよく見える。
そして、その向こうに覗く死体の群れも。
発電機が供給する電力によって動く屋外用ライトがバリケードの随所に配置され、隊員の視界を確保しているのだ。強い光が、闇を拒むように煌々と輝き続けている。
フェンス越しに外を臨む四人の男女は、眼下に広がる光景を見て唾を飲んだ。雑に構築されたバリケード、その向こうに広がる死体の陣容に気圧されて。
雨に降られて全身から水を滴らせつつ這い寄る亡者達の数は、最早上から俯瞰したとしても数えきれぬ膨大な量に上っていた。まだ押し合いへし合いし始めるほどの量では無いが、合間を縫って逃げるのに苦労しそうな密度であった。
誰もが、自分たちの考えは間違えていなかったと悟る。此処はもう、遅かれ早かれ駄目になるという危惧が、目の前で現実になろうとしていた。
「さっさと動いた方がよくないか?」
雨音に混じって聞こえた声に、押し寄せる死体を見て硬直していた者達は意識を引き戻される。見やれば、見張りが休憩するスペースと思しき場所で、女が双眼鏡を弄びながら暇そうにしていた。
普段なら屋上には見張りが配され、観測手として機能していた。どの方角から押し寄せる敵が多く、何処に戦力を集中させるべきかを伝える目として。
だが、今は押し寄せる圧に耐える為に引き抜かれたのか、それともこうも天候が悪いと見張りとして働かせても効率が悪いからか引き抜かれたのかは分からないが、見張りは不在であった。
確かにライトがあっても見張りには限界がある。それに、あの勢いだ。もう何処を護ればいいという問題では無く、何処にでも人員を配置せねばならない。そんな有様なのだろう。それなら、見張りは必要ない。
しかしそれが、女達には良い方向に働いていた。見張りを排除しないで済むのであれば、危険が無くて良い。
女に指摘され、固まっていた者達が動き出す。フェンスをおっかなびっくりと超えて、校舎の縁に向かうのだ。
目指すのは、脱出用の非常梯子である。
学校の外壁には、何らかの理由で廊下が使えなくなった時に備えて脱出梯子が備えられている。窓から校舎へ逃げ出すための、最後の脱出口だ。
しかし、見方を変えれば脱出口は進入口にもなり得る。彼らは、武器庫として使われている教室への進入に梯子を選んだのだ。
普通なら、こんな目立つ所は使わない。見張りが一定時間ごとに巡回する校庭からは丸見えだし、作られて長く時間が経ち劣化した梯子は軋みを上げて人の存在を報せてしまう。不用意に使おう物なら、一発で御用だ。
しかし、今は激しい雷雨が姿と音を隠してくれる。直接ライトでも当てない限り、真っ暗な雨具に身を包んだ離反者達に誰も気付けはしないだろう。
実際、目論み通り誰も気付くことは無かった。
梯子を下りる先陣を切ったのは、女だ。前もって自分がやると主張し、先陣を切ると共に室内へ侵入する役を買って出たのである。
彼女は窓の下に伸びる足場の役割を果たす縁に降り立つと、何の危なげも無く窓にとりついた。
部屋の中に明かりは無い。普段なら、ライトの明かりが窓から漏れているので、室内と室外両方に見張りを置いているようだが、今日は本当に人員を限界まで絞り出しているようだった。そうでなければ、武器の奪取はここで断念せねばならなかったであろう。
偶然と幸運に感謝しつつ、女は窓ガラスの攻略に取りかかる。飛散防止用の鋼線が入っただけの、ありふれた窓ガラスだ。
しかし、錠はしっかりと下ろされており、少なくとも外側から穏便に開ける術は無い。
さりとて、乱暴に殴って割ったなら、音が出て戸口に立たされているかもしれない見張りに進入を報せてしまう。そうなっては静かに入り込んだ意味が無くなる。
なので、女は前もって用意していた手段を行使しにかかった。
懐から、ライターを取り出したのだ。しかしそれは、彼女が愛用している胡蝶の刻印が施されたオイルライターではなく、コンビニで売っているようなターボライターであった。
ターボライターは、薬室の中に高圧で吹き出したガスで混合気を形成し、悪条件下でも火をつきやすくしたガスライターの一種だ。
無論、これで窓をたたき割ろうというのではない。炎で窓ガラスを溶かして割ろうとしているのだ。
窓ガラスは衝撃にも弱いが、急激な熱の変化にも弱い。普通の窓ガラスであれば、水なりなんなりで冷やしてやった後に、ちょっとライターで炙ってやれば、小さな音を立てて罅が入る。それに伴う音は、たたき割るよりもずっとささやかな物だ。
きっと、この豪雨の中では殆ど聞こえないことであろう。そして、雨によって窓は十分冷やされており、必要な条件は整っているのだ。
心配することと言えば、窓全体がまんべんなく濡らされて冷えているので、必要以上の亀裂が入って、一息に割れてしまわないかということだが。そうなれば、ガラスは瓦解して大音響を発し、一気に何もかもが駄目になってしまうだろう。
穴は小さくて良いのだ。指先が入って、クレセント錠を押し上げるだけのスペースさえ作れれば。
女は手で庇を作り、慎重にガスライターで目当てをつけた部分を炙った。より高温で燃えるガスバーナーであれば早く済むのだが、流石にただのライターでは数秒で亀裂が入ってはくれない。
それでも、焦れるような待ち難い時間を耐えさえすれば、小さな小さな亀裂が走って窓がきちんと割れた。穴は予定よりも些か大きいが、窓全体が崩壊することもなく、至近距離以外では家鳴りほどの煩わしさもない音しか響かせることもなかった。
そんな音、そこら銃で賑やかに小銃が放たれていたり、視界が数メートルも無くなる雷雨の中では無きに等しい。女は安堵したように吐息し、穴に指を差し込んで錠を持ち上げた。
古びていて滑りが悪くなった錠は、指一本で押し上げるのに些か苦労したが、それでも最後には抵抗を止めて彼女を受け入れる。
そして、濡れ鼠の女は念願であった武器庫への進入を果たした。
幼子達が将来の為に勉学を積む筈だった場所は、酷く雑然としていた。並んでいたであろう机などは全て除けられ、生徒達が認めたであろう希望という習字が空しく取り残されている。
明らかに急造したであろう木箱や折り畳みコンテナなどが教室には並べられ、自衛隊が正規に使っている装備品入れの数は少ない。施錠も不十分で、開け放されている箱も目立った。
これは、実情から来る物だろう。満足かつ正規の補給が行き届いていないということは、彼らがやはり敗残兵の集まりであることを意味する。少なくとも、組織的に集められた軍集団であったなら、物資の扱いもより丁寧に行われているだろう。
また、銃などに鍵を掛けて簡単に取り出せないようにしないのは、急場で武装が必要になった時の措置であろう。新たに物資が必要になるような状況は、大抵切羽詰まった時であり、そんな時に鍵をのんびり開けていては被害が拡大する。施錠の非徹底は、実情のつ辛さを切実に物語っていた。
周囲から音はしない。雨音と遠雷が鳴り響くだけだ。少なくとも、侵入が発見された様子はなかった。
ただ、安堵して吐息した時に外から欠伸が聞こえてきた。やはり、人員を抽出しても最低限一人は見張りを置いているらしい。切羽詰まっても、どうにか命綱を護ろうとする辺りは流石本職という所か。
だが、静かに動けば問題あるまい。女は音を立てぬようゆっくりと雨具を脱ぐと、背負っていたバックパックを下ろした。
ジッパーの音にも気を遣って開かれたパックパックの中には、更に折りたたんだ複数のバックパックが仕舞われている。それは丁度、銃器を回収に来た人数分ある。
そう、全て持ち出す必要は何処にも無いのだ。持って行ける分だけ持っていこうというのが、彼らの方針だった。
例え陽動で人が動こうが、えっちらおっちらと箱を持っていく余裕などありはしない。そんな目立つことをしたら、五分と立たずにお縄だろう。彼らも、幾らか暴力の行使を前提とした作戦を作っていても、真正面から戦おうという気は全くなかったのだ。
だから、武器に関しては持てるだけ持って静かに撤収するのが作戦だ。陽動が始まると人がばだばだ動き、武器を取りに来るかも知れないので、その前に手早く済ませる必要がある。
女は薄暗い中、出来るだけ足音を消し、衣擦れの音にも気を遣って動く。雨音がある程度音を消してくれるとはいえ、室内で響く音は外の音より伝わりやすい。疑われて誰かがのぞき込んだら、その瞬間で全てが終わりだ。
しずしずと動きながら、女は物資を物色する。多いのは弾や小銃で、意外と拳銃の類いは少なかった。サイドアームとして大勢が携行しているせいか、そもそもの配備数が違うからか。内部事情に詳しくない者に理由を窺い知る事はできないが、兎角ここに拳銃はあまり置いていなかった。
しかし、使える物は使えるので構わない。女は小銃を弾と併せて幾らかバックパックに放り込むと、音に気を付けながら窓際に運んだ。
窓の外には、既に女が侵入に成功したことを見届けた仲間の一人が梯子で降りてきている。女がバックパックを渡すと、一瞬重さにふらついて落としかけるも、彼は何とかバランスを取り戻しすことに成功する。
足を滑らせていたら、いろんな段取りが台無しになっていた所だ。六〇kgから八〇kgもある肉の塊が落下した時に発する音は大きく、雨音や雷轟でも搔き消しきれはすまい。そうなったら、あっと言う間に囲まれてお仕舞いだ。
彼は重そうにバックパックを背負い、梯子を降りていく。梯子の下は植え込みの向こう側にあるので、誰にも気づかれずに降りられれば姿を隠して集合場所まで逃げられるという寸法だ。
女は次々と、とりあえず使えそうな物をバックパックに放り込み、一杯になる度に窓に訪れた面々へと渡していく。弾、小銃、擲弾、必要な物は幾らでもあったし、重火器以外の装備も此処に置かれてあったので詰め込んでおいた。
そして、最後のバックパック。自分が背負うべき物を満杯にした後で、女はある物を手にした。
エアライフルだ。没収された自分の愛銃も、此処に保管されていたのである。武器類はまとめて放り込んであったのだろう。没収品は、他の品と違い酷く乱雑に捨て置かれていた。
久しぶりに手にした相棒を艶っぽい手つきで撫でて、女は小さく笑みを作る。やはり、手に慣れた物は良いものだ。喪われた体の一部が戻ってきたように感じる。
ふと、視界にもう一丁のエアライフルが目に入った。黒くマットな塗装が施されたエアライフル。それは、持ち主と同じように特徴が無いのに何処か無言の圧力を放ちながら、その場に鎮座している。
二つを見比べて、女は暫し悩んだ末……己のエアライフルを置き、黒いエアライフルを手にしてスリングでぶら下げた。
彼女が何を考えたのかは分からない。ただ、自分のエアライフルを手放して青年のエアライフルを手にした時、彼女の顔は酷く満足げに見えた。
とりあえず、これ以上は持って行けない。もう物資を満載したバックパックだけでも重いのだ。これ以上、物を詰め込んだなら動きが鈍ってしょうが無い。無理をしない範囲で運べる程度で我慢するのが一番良い。
黒いエアライフルの据わりが良い場所を探している時、壁に掛かった希望の文字が女の目に入った。半紙に荒くとも力強い筆跡で書かれた文字は、今では酷く薄ら寒いものに思える。
まるで、希望を絶たれた自分たちを嗤っているようだった。生き残ろうと足掻いて、何がある? そう問うているように思えた。
髀肉を吊り上げる自嘲気な笑みを作って女は自分にしか聞こえない程度の音量で吐き捨てた。
「皮肉も良い所だな……誰にとっても」
そして、時計に目を下ろす。見やれば、もうそろそろ陽動が始まる時間であった。
女はいつもの笑みを貼り付けたまま、窓へ向かい武器庫を後にする。
ただ一人、激戦に気が気でないあまり、背後に全く注意が向いていなかった施設科隊員の見張りを取り残して…………。
バリケードが燃えていた。急拵えのフェンスと木で作られたバリケードが、舐めるように広がる炎に炙られて燃えていく。
ガソリンやベンジンを化合した液体を燃料とする炎の熱と勢いは凄まじく、雨の中でも頑固に燃え続けていた。
それも、投下する場所をバリケードが重なり合って雨が直接かかりづらい場所を狙って行った為だ。雨の中でも燃える炎は庇となるバリケードに護られて成長し、そして庇を燃料に変えて燃え広がって行く。
勢いを増した火は簡単に消えず、少しずつだが燃え広がっていった。
のみならず、頼みの綱であった明かりまでが一斉に消えたのだ。大勢の隊員は、ライトの明かりに目が慣れて暗がりが見えなくなっていた。発電機が止まったことにより、明かりが消えたせいで殆どの視界が潰れる。
そこかしこで怒号が上がる。上ずったような悲鳴と命令の声が交錯し、混乱しつつも統制を保った護国の士はかけ続けた。バリケードを護ると同時に火を消し、何らかの理由で停止した電源を復活させ、自らの職務を果たすべく。
だが、彼らには人員が足りなかった。雲霞の如く襲いかかる敵に対し、数が絶対的に不足している。全てを同時に護りきることは、到底不可能であった。
既に今夜は数人ではあるが、暗がりからの不意打ちや、飛沫を浴びすぎた為に感染してしまうという被害も出している。その上、朝からずっと戦い通しだし、最近は満足に休憩も取れていない。
疲労は蓄積し、各員の集中も限界に近づいていた。未だ物資に余裕はあるとはいえ、それを使う人間がへたってしまっては、どうにも出来なかった。
死体は重機関銃座や二脚で固定した軽機関銃で片付けられるし、発電機も壊れていないのなら復旧は直ぐだ。
しかし、火ばかりはどうにもならない。何人かは急いで校内の消化器を取りに走りはしたが、多くの消化器の期限が切れていた。管理が甘く適当な所が多い学校では、例え規則で点検が義務づけられていてもそういう事は珍しくないのだ。
点々と設置されてある消火器の幾つかは、生きているかも知れない。しかし、数個で同時に複数付けられた火に対処できよう筈も無ければ、水道が止まって久しい以上消火栓も動かない。
雨のおかげで直ぐに焼け落ちる事はないだろうが、バリケード付近は混乱の坩堝と化した。
今すぐ放棄して下がるべきか、それとも物資などを回収するために遅滞戦闘に努めるべきか。それとも、死体を撃退し続け火が消えるまで粘るか……離散部隊による俄作り故、指揮系統が通常編成より曖昧な部隊は、思考さえ儘ならぬ泥沼に突き落とされた。
それでも、しばらく時間があれば立て直し、誰かが最も効率的だと考えた方法を選ぶことだろう。彼らは、何があってもそうできるよう鍛えられたプロフェッショナルなのだから。
しかしそれは、しばらく先の話である。
絶好のタイミングだった。十数名の離反者は、ここぞとばかりに動き始める。鍵を求めて職員室に向かっていた者は攻撃を開始し、食料品を狙っていた者達も襲撃に移った。
そして、武器調達斑は集合場所にて集めた武器を開き、おっかなびっくりの怪しい手つきで銃の準備をする。いざとなれば、ぶっ放してでも離脱しなければならないから。
怪しい手つきが多い者の中で、女の動作は比較的速かった。猟銃をいじった事もあるので、多少なら心得があるのだ。小銃と散弾銃では勝手が多少違うものの、足りない部分は映画などで見た内容でカバーできなくもない。
分解清掃ならまだしも、弾倉に弾を詰め込んで装填するくらいなら余裕だ。
全員が女の真似をして、とりあえず有るだけの弾倉に弾を詰め込めるようになった所で、女は一つの提案をする。
「すまない、校舎に行って犬を連れてきて良いか?」
「犬……? 何でですか」
周りの騒ぎで、何時もの整った笑みもなりを潜めてしまった美男が問う。今の状況で、犬など助ける必要が無いと思うのは、至極当然の判断だ。
「ここしばらく観察していたが、犬は死体の接近が分かるらしい。今後に役立つだろう。ここからなら直ぐだから、行ってきたい」
しかし理由を言えば、幾人かは確かに役立ちそうだと納得する。死体の接近が分かるセンサーがあれば、休憩の時にも安心できるだろう。あれらは日が暮れてから動くので、低スペックな光学センサーに感覚を依存する人間では発見が難しいのだ。
「異論が無いなら、行くぞ。念のために銃器を持っていっていいか?」
畳みかけるように女は言う。異論を言われる前に動いた方が、色々と都合が良い。そして銃器に手を伸ばしたのだが、仲間の一人がそれを留めた。
「駄目だ。銃は置いていけ。必要ないだろう?」
女を押しとどめる男の目は、何処か怯えていた。裏切られる事を恐れたのか、それとも訳の無い恐怖に駆られたのか。兎角、女が武力を手にすることを嫌っているように思えた。
それもそうだろう。いとも容易く恋人を殺した女だ。そんな女に撃てる銃を握らせるのは、酷く危険な行為にしか思えない。
立候補しただけではなく、銃器に詳しいから回収は彼女に任せましょうと発言権が強い美男が言うので物資回収は彼女に任せたが、彼は本当なら女が武器に触れることさえ禁じたかったのだ。
何とかに刃物、である。何をしでかすか分からない相手に武器を持たせるのは、馬鹿だけだろう。ともすれば、後ろから撃たれる危険性もあった。
後は、ここで武器を得ることに酷く拘るようなら、難癖を付けて女を行動から外すことも出来る。頑なに武器を欲しがるなんて、何を考えているのだと糾弾すれば、怪しくて危ない女を無力化する賛同は得られよう。
例え男が何か言おうとも、圧倒的な賛成の下では無意味だ。無形のパワーバランスが集団には形成されていようと、名目上は全員の合意が無ければ動けないとしているのだから。
しかし、意外にも女はあっさりと引き下がって、身一つで行くことを了承した。念のためにあった方が安心できるが、止めろと言われても持っていきたいほどじゃないと言うのだ。
「……なら、誰か連れて行け。念のためにな」
少し安堵した後で、一人の男がそう提案する。ふと、あまりに簡単に引き下がりすぎでは無いかと思ったのだ。それもまた、何か考えてのことではないかと。
だから、余計な事をできないように手を打つべきだと考えた。流石に見張りがつけば、女も余計なことは出来ないだろうから。
見張りには、予測していたが美男が手を上げた。もとより彼が目を付け、参加させた女だ。最後まで責任を取れという気持ちはあったので、誰もそれに異を唱えはしなかった。
「まぁいいさ……直ぐそこだ。数分で戻る」
「……気を付けてな」
何処か他意を含んだような言いぐさだが、女は何も感じなかったように手を振って校舎へと向かっていく。犬たちは校舎の一階に繋がれているので集合場所からは、本当に然程遠くないのだ。
校舎内は混乱しており、そこかしこから大声が聞こえてきた。大抵は、使える消化器は無いのか! という声だったり、屋上のバケツから水持ってこい! と消化に努める人員が上げる声だ。
しかし、中には物騒な声もある。襲われた、だとか助けてくれ! という声。各所で行われた襲撃が上手く行っているのかは判断つきかねるが、戦闘自体は始まってしまっているようだった。
女は悲鳴や怒号を無視して、犬たちが繋がれている備品倉庫に入り込んだ。男は、警戒のために入り口に残ってくれと言い、彼も犬を連れるだけなら時間もかかるまいと了承した。
中で鎖がすれる音が響いたと思えば、扉から犬が飛び出してくる。薄暗い中を駆け抜けていく影を、男は殆ど確認できなかったが、体が当たって軽く蹌踉めいてしまった。
「あっ、待て! くそっ」
駆けだした影を追うように女が現れるも、影はもう女達が入ってきた扉から出て行ってしまい、見えなくなっていた。
「……どうしたんですか?」
「逃げられた。鎖を外した途端にだ……何だというのだ」
彼女は苛立たしげに舌打ちを零した後で、振り返り室内を眺めた後で男に告げた。小さな座敷犬じゃ役に立たない、もういいから戻ろうと。
実際、小さくて騒がしいだけの愛玩犬ならば、連れ帰った所で意味は無い。センサーとして働いてくれるかも分からないのであれば、発見される危険性を上げるだけの重荷だ。それなら、惜しいが犬は諦めた方が良い。
「何をっ……してっ……いるっ……!!」
肯定し戻ろうとした時、不意に声が投げかけられた。明らかな警戒が滲む声は、聞き覚えのある声だ。
突然の事に驚きながら振り返ると、そこには壁に手を突き、頭から血を流した自衛隊員が立っていた。女には見覚えがある、あの日、ここに来る嵌めになった原因だ。
彼は酷く消耗しており、血が大量に頭部から出ているのが目立つが、本当に重傷なのは9mm拳銃を持った手で塞いでいる腹だろう。何かを突き立てられ、強引に捻られたのか血が滲み続けている。
女は、きっと職員室で襲撃を受けたのだろうと推測した。彼、確か三尉だったか、が歩いてきたのは職員室がある方向だったからだ。
彼が武器を手にし、這々の体でやって来たと言うことは、襲撃は失敗したのだろう。少なくとも、あの足取りで此処まで追撃も受けずに逃げられるとは思えない。つまりは、襲撃斑は全滅したのだ。
唐突の会敵に男は冷静さを失い、体が凍り付くが女は違った。自然に両手を挙げ、さも驚いたような顔を作ってみせる。
「どうした!? 私たちは、何か騒ぎがあったようで目が覚めたから様子を見に来たんだが……」
そして、一歩近づこうとした時、腹に添えられていた手が素早く動き、拳銃が突きつけられる。疲弊しているだろうに、三尉が担う拳銃の銃口は小揺るぎもせず女の額を向いていた。
「動くな! そのポンチョを脱いで床に伏せろ!」
厳しく怒鳴りつける彼の口から、血が溢れる。血の色は鈍い黒だ。何処か重要な臓器を傷つけられたのだろう。肝臓からは外れているようだが、胃かどこかが破れているようだ。
しかし、額にポイントされた拳銃は、まるで縫い付けたかのように女の額から動かない。距離は5mほどしか無いので、どう足掻いても避けられそうに無い。
もう、ばれているのだろう。襲撃者の仲間であると。似通った格好をしているし、何より、こんな時間に立ち入り禁止の校舎に入っている時点で疑うに十分過ぎる。
即座に発砲しなかったのは、二人が武器らしい武器を持っていなかったからだ。これで小銃なりを抱えていたら、警告無しで撃ち殺されていたはずだ。
「動いたら撃つ! 逃げるなよ……げほっごほっ……」
状況を把握するため、生かして捕まえたいのだろう。ということは、職員室を襲った者達は生かして無力化することが出来なかったと見える。
女は可愛そうに、とは思わなかった。殺す覚悟を以て挑んだのであれば、殺されても文句は言えないはずだから。もしそこで文句を言うのであれば、それは覚悟が本当は出来ていなかったに過ぎない。
殺し合いとは、要約すればそういうことなのだ。
だからこそ、考えるのは状況をどうすれば覆せるかだ。今自分は、殺されても何の文句も言えない状況にある。それだけのことをしでかしている。
なら、殺されないよう動く必要があった。
そして、好機は訪れる。またとないチャンスは、美男の手によってもたらされた。
警告で怒鳴り声を上げた時、腹が痛んだのか三尉が喀血して拳銃のポイントがずれたのを良いことに、男は悲鳴を上げてきびすを返して逃げだそうとしたのだ。
咄嗟に三尉は逃げ出そうとする男と留めようと、拳銃を向け直す。女がフリーになってしまうというのに。
とはいえ、それはおかしな判断ではない。少なくとも、漫画でもあるまいし普通の人間に五mは一息で埋められる距離では無いのだ。相手が無手で、銃を持っていたなら一人が逃げて一人が向かってきても、容易く両方とも制圧できる間合いだ。
だが、それは相手が無手だった場合の話である。
逃げる男の背に向けて引き金を絞ろうとした時、不意に刺すような痛みが手を襲い力が抜けた。狙いもぶれて、弾は見当違いの方向へと飛んでいく。
発砲の衝撃が手に伝い、更に手を痛みが襲う。拳銃は手から抜け落ち、代わりに熱い血潮が滴った。
見れば、手の甲にダーツがつき立っているではないか。遊戯用の粗末なダーツだが、鋭利な先端は脆い人間の皮膚と肉を貫くのに十分な威力を有している。
そして、次の瞬間、腹に酷い衝撃を受け、目の前が激痛で暗く歪む。視界が眩み、意識が痛みの余り落ちていく。
壁に寄りかかりながら頽れた三尉の視界が最後に映したのは、蹴りの残心をとった女の姿であった。
「ふぅ……やばかったな」
女は知らずの内に掻いていた汗を拭い、安堵の息を吐く。流石に拳銃を向けられれば、女の肝も冷えようというもの。思い返せば、殺意を以て銃を突きつけられたのは初めての経験であった。
いや、初めてではないか、と内心で思い返すも、女は直ぐに意識を切り替えた。激痛で気を失った男のそばにしゃがみ込み、様子をうかがう。
呼吸が浅い。もとより深い傷を負っていたが、追い打ちを受けて限界が近づいているのだ。このまま手を出さずに居れば、数分とせず男は次の輪廻に旅立つことになろう。
「備えあれば憂いなしだったな」
手から転がった拳銃を拾い上げながら、手に突き立ったダーツを見やる。無論、何処からか飛んできた救いなのではなく、女が放ったものだ。
彼女は、万一の武器として隠匿していたダーツを服の袖に仕込んでいたのだ。抜き出そうと思えば、直ぐに抜き出せるようにテープで固定して。
そして、注意がそれたのを良いことに、隠していたダーツを引き抜き三尉の手を穿ったのである。
来る日も来る日も飽きるほど練習した動作だ。例え五m離れていようと、彼女には当てる自信がきちんとあった。
それから怯んで拳銃を落とした彼に近づき、今最大の弱点であろう腹の傷に蹴りを見舞う。がっしりとしたブーツから放たれる、全身を躍動により発揮される運動エネルギーを余さず乗せた重い蹴りは、さぞかし効いたことだろう。
ブーツのつま先には、蹴りの威力を伺わせる血がきっちりと付着するほどだ。腹圧と蹴りの圧迫に負けて傷が開き、軽くはらわたがはみ出ているのがライトで照らせば確認できたはずである。
しかし女は、そんな無駄なことをせずに三尉の体を素早く漁り始めた。しゃがみ込み、ポケットに片端から手を突っ込んで予備の弾丸や弾倉を探る。
だが、目当ての物は見つからなかった。既に職員室で撃ち尽くしたのか、無遠慮に突っ込んだ指先に触れるのはハンカチや手帳ばかりである。
これ以上の収穫は期待できないか? と諦めかけた時、指先に鋭い何かが触れた。ギザギザの凹凸が刻まれた金属の感触。これはもしや、と思って引っ張り出すと、出てきたのは鍵だった。
しかも、ただの鍵では無い。車の鍵だ。それも、見慣れた鍵……彼女がここにやってくるまで乗ってきていたキャンピングカーの鍵である。
「ついてるな……!」
思わず快哉の声が口を衝く。職員室の面々が駄目なら、今から向かわねばならないなと考えていた所なのだ。
それが労さずして手に入った。これ以上の喜びは無い。
きっと、彼の率いる部隊が偵察行であのキャンピングカーを使っていたに違いない。だから、管理者として身につけていたようだ。
女は心の底から嬉しそうに笑い、9mm拳銃を懐に仕舞い込みながら言う。
「これは車の貸し賃として貰っておこう。確かに返して貰ったぞ」
元々アレは女と青年の持ち物だ。それなら、きちんと持ち主の所へ帰るのが道理。収まるべき物が、収まるべき所へ収まったのである。
虫の息となった三尉を置き去りに、女はキーを弄びながら出口へと向かった。全てが自分に都合良く動こうとしている。
「後は仕掛けをご覧じよう……って所だな」
ご機嫌なつぶやきが、誰に聞かれる訳でも無く廊下に木霊した…………。
普通、喧嘩に負けて逃げ帰った男というのは酷くバツが悪そうにするものである。
それが特に、女を置いて逃げ出したともなれば尚更だ。
しかし、面の皮が厚いのか肝が太いのか、それとも良い性格をしているのか。或いは、その全てかもしれないが……。
「ああ! 無事で何よりでした!!」
恥ずかしげも無く、美男は戻ってきた女を抱きしめて大げさに喜んで見せた。これにはさしもの女も呆れたような顔をする。
周囲もまた、似たような反応であった。自衛隊員に襲われた、と言いながら血相変えて逃げてきたのがほんの二~三分前のこと。泣いたカラスがもう笑った、というにも短すぎる時間であった。
女は心の底から微妙そうな顔をしながら、抱きしめてくる男の背を優しく叩いてやり、他の面々に職員室の連中が失敗したことを教えた。
そして、今ならきっと職員室は空であろうことも伝える。今直ぐ向かえば、職員室で倒された仲間の死を無駄にせず済むだろうと。
「それなら、直ぐに行った方が良いな……念のために銃も持っていこう。二人ほど着いてきてくれ」
果断さのあるらしい参加者の一人が、弾の装填された小銃を持って勇ましく立ち上がった。しかし、セーフティーをかけているにしてもトリガーに指をがっつり掛けていたり、ストックを脇の下に挟むように保持したりと色々と動作が危なっかしい。
「ああ、そうだ。キーを一つだけ確保できた……自衛隊員が持っていたんだ。先にある程度の銃を運んだらどうだ?」
いい加減鬱陶しくなったので、男を引きはがし、女は懐からキーを取り出して見せる。そして、返事を待つこと無く続けて告げた。
「この調子だと、食料斑も駄目かも知れない。それなら、直ぐに逃げ出せるよう準備をした方が良いだろう。少なくとも、私たちにはもう居場所など無いのだしな」
全員が女の言葉に息を呑んだ。確かに、戻ってくるのが遅すぎる。陽動は上手く行っているようだが、直に自衛隊員も統制を取り戻して対処してくるだろう。そうなれば、あらがう術もなく捕らわれてしまう。
そこから先、どうなるかは恐ろしくて考えることすらしたくなかった。
「最悪、この車はでかいから一台でも逃げ出せる筈だ。先に物資を積んでおくから、職員室が駄目そうなら直ぐに戻ってくればいいだろう。後は、ここで他のメンツの到着を待っても良い」
焦りそうな状況の中で、そこそこ普通の意見というのは驚くほどあっさり通る物である。不信感丸出しで見られていた女の意見は、実にあっけなく受け入れられた。
とりあえず、ここに居る人員分と職員室に行く人員分の銃器を抜いた、残りをまとめて女と美男でキャンピングカーまで運ぶ。それから、全員を待って離脱すると決まった。
「なら、迅速に動いた方が良いな。行ってくる、幸運を祈るぞ」
おっかなびっくり、襲いかかってくるかも知れない自衛隊員に怯えて銃器を構え始めた面々を残し、女は小銃が抜けて幾らか軽くなったバックを担いだ。中に入っているのは、殆どが弾丸だ。
都合四つのバックパックを担いで、二人は雨の中を走った。足音は、もう気にしている余裕は無い。少なくとも、自衛隊員にも走り回る足音一つ一つを確認して誰何する暇など無いと信じて。
事実、二人はさして労することなく駐車スペースにたどり着く。バリケードの二層目付近にある、出入りが多い方の駐車場に人気は無かった。
騒ぎは最外縁のバリケードで起きており、人員はそちらに集中している。普段なら悪戯したり盗もうとする奴が来ないかと配置された見張りは、全て出払っていた。
「ああ、これだ」
そして、見慣れた姿からは大きくかけ離れてしまったキャンピングカーの元に辿り着いた。金属の板や金網でゴテゴテと防備を施されてしまった、蒼いキャンピングカー。変わり果ててしまった麗しの我が家である。
「立派ですね、これなら長旅にも耐えられそうだ」
「そうだな……まぁ、お前が乗ることはないのだが」
「は? 何を言って……」
余りに突拍子の無い女の台詞を理解できなかったのか、美男は間抜けな声を出して問おうとしたが、それから先の言葉が出てこなかった。
言葉が思いつかなかったからではない。
数度、胸を叩かれたような衝撃が伝わってきたからだ。息が詰まり、口を開いても声が出ない。何とか声を出そうとすると、代わりに塊のような勢いで血が噴き出す。
零れた血を手で押さえたかったが、上手く行かなかった。酷い脱力感が訪れると共に、目の前が暗くなり始めたのだ。しかし、不思議と眠気は無く、大量に血を吐いたのに痛みらしい痛みも感じない。
気がつけば、いつの間にやら膝を突いていた。力が抜けた首が、膝を突いた勢いの儘に下がり、視界に己の胸が映る。何故か、雨具に穴が空いて血が溢れていた。
どうしてだろう? そう考えていると、遂に地面に顔がくっついていた。しかし、倒れた時の感覚は無かったし、やはり痛くない。頽れたのだから、相当強く打ち付けたであろうにも関わらず。
代わりに酷く寒かった。雨具があっても濡れて体温を喪うから、防寒対策はしっかりしてきた筈なのに、冷水を浴びせられたように冷たい。
冷たさがじわじわと浸透してきて、まぶたが重くなる。寝ている余裕は無いのに。まだ、しなければならないことが有るのに。
「お休み馬鹿男……ま、世の中何でも思い通りになると思わん方がいいってことだ」
何度も聞いた声が聞こえたが、もう彼にはその意味を考えることすら出来なかった…………。