青年と女と追複曲
そろそろ本気で終わらせたいので、ちょっと速度上げました。現実逃避では無いです。
感想、いつもありがとうございます。そろそろ修正も順次進めていきたいと思います
「お前もつくづく突拍子のないことをする奴だな」
夕暮れのグラウンドで長躯の女が珍しく笑みの代わりに渋面を作り、吐き出すように言葉を零した。咥えられた煙草から立ち上る紫煙が、どことなく持ち主の疲労を反映しているかのように頼りなく燻る。
対し、隣では普段通りの仏頂面を貼り付けた青年が、口を噤んで佇んでいた。ただ、その顔はどこかつまらなそうな表情を浮かべているように見えた。
二人は先程まで、指揮所に使われている職員室の一角で説教を受けていたのだ。労役中に危険行為に走ったとして、何故そんな行為をしたのかと延々窘められ続けていた。
それも、古式ゆかしい床に正座して聞くというスタイルでだ。ともすれば、バケツでも持って廊下に立たされかねない勢いであった。
いい年した二人が受けるには、随分な対応と言えよう。とはいえ、それだけの説教が必要だと捉えられても仕方の無い軽挙を青年はしでかしていたが。
慣れきっていて彼は失念しているのだが、普通の人間にとって死体を撃退することは、容易いことではないのだ。
人型をした物を破壊することへの抵抗や生理的嫌悪。単純に死体そのものが有する脅威もあり、避難してきているような人間、それも平和ボケした傾向の強い日本人に死体から逃げることはできても、倒すことはできなかった。
事実、ここまで非難してきた者の中には逃げるために突き飛ばしたり殴り倒した経験を持つ者は居ても、完全に破壊しきった経験のある者は数えるほども居なかった。
幾ら襲いかかってくる死体とはいえ、それを壊す感覚は殺人に近い。普通の人間には、そんな覚悟など簡単に決められようはずもないのだ。
そういった前提があり、青年の行動は犬一匹のために命を賭けた軽挙と周囲からはとられた。当人からすれば、一体の身動き取れぬ死体を片付けるのなど一欠片のケーキが如き些事であったとしても。
だが、当人がどう認識していようが、詰問され叱責を受けるのは当然の結果であった。あまりにも危険な行為で、自衛隊員からすれば蛮勇にしか思えなかったのである。
軽挙に走られて死人が出るのは、自衛隊員として大変困る。単純にマンパワーが減ってしまうのもあるが、避難所の士気が下がるし、例え勝手な軽挙の末の死であれど責任を問われてしまうからだ。
どんな阿呆で身勝手な死因であったとしても、どうにかならなかったのかと詰る者はどこにでも居る。自分が同じ立場なら止められたのか、ということも考えず発言する輩は、世がどれだけ混乱しようと絶えないものなのだ。
また、二人に厳しく当たったのは、単に危険行為を抑制するためだけではない。他の者の無茶を律する意図もあってのことだ。
今は環境に慣れて、危機感が薄れつつある危ない時期だ。ある程度、引き締めるのに良い機会とも捉えられたのだろう。その内、周回か何かで今回の事を引き合いに出して無茶しないようにと警告が入るだろう。
詰まるところ、説教を受けたのは完全に青年の考えが至らぬからであり、些か常識を忘れすぎたことが問題であった。
連帯責任で叱責された女は、どうにも此奴は物騒な方向になれすぎだな、と頭を掻きむしった。狂人として個人の価値観で完結しきっていることが、良くないのだろうか。
女はある程度群衆に紛れることができる。だが、青年は大きな状況に内包された、異なる前提によって動く小さな集団に溶け込めないようだ。
外が狂っているというのに、出来るだけ死体が跋扈する以前の常識を保とうとする自衛隊の風紀方針になじめないで居るというべきか。表向き静かにすることは問題無いが、果断に動く段階に至れば、その常識を投げ捨てて動いてしまうのだ。
それが後でどう響くかを忘れて。
確かに動くべき場面で動けるのは美点であるが、集団において果断な行動が軽挙ととられかねない状況において、それは大変宜しくない。
場合に寄れば、コミュニティに危険を呼び込む存在と認知されかねないからだ。集団の和を乱す者が排除されるのは、別段不思議なことではないだろう。何処ででも起こりうる集団心理だ。
人が人を傷つけ、排斥するのに大した理由は必要とされない。ただ、彼奴は自分達と違う、それだけで殺す理由には十分過ぎる。
とはいえ、こちらは文民だから略式で銃殺刑とか、そういった心配はいるまい。だが、追放される危険性が無いとは言わない。
そうなると大変拙い。準備をして出て行くのと追い出されるのは話が別で、後者の場合はほとんど確実に死が待っている。
厄介者に手土産を持たせる理由が、一体どこにあろうか? つまりは、そういうことなのだ。誰かから何か聞かれても、当人達が不在なら、後からなんとでも言いようがある。
これは手綱をしめるべきか? と女は短くなった煙草を靴で踏みにじりながら考えた。普段であれば、それは貴様の仕事だろうにと自らの後輩を眺めながら。
しかし、それでも得る物はあったのか、不機嫌そうながらも青年は臍を曲げるところまでは行ってなかった。説教をもらいはしたが、目的は果たせたので満足でもあったのだ。
視線の先では、一頭の犬が遊具の傍らに繋がれていた。見事な黒銀の毛並みを誇る、堂々たるシベリアンハスキーだ。
今は大きな体躯を横たえ、金と蒼の瞳を閉じて微睡みに落ちている。その側には、餌代わりの残飯と水の入った洗面器が並んでおかれていた。
死体を引っ張りながら逃げ続けていたので、あの犬は相当に疲弊していたらしい。最初は死体から引き離されることに酷く抵抗したそうだが、自衛隊員の一人が炊事で出た食べ物の剰りと水を持ってきたら大人しくなったと言う。
その後、首輪からリードを外して校内につれてこられて、二人が説教をされている間中、死んだように眠り続けていた。飲まず食わずで逃げ続けたのだから、体が休息を求めたのだ。
遠巻きに子供達が新たに連れてこられた犬を囲み、起きないねー、などと言っている。勇気がある子供は、直立すれば同じくらいの大きさがある犬に果敢に近づいて毛並みを撫でているが、耳が数度瞬くだけで瞼が開かれることはなかった。
「……行かないのか?」
ボンヤリと犬を眺めていた青年に女は問いかけた。女が新しい煙草に火を灯すまで青年は微動だにせず眺め続けていたのだが、やがて煙に追われるように犬の元へと歩き出す。
自分が救ったんだから、世話は自分で見るように、説教の中で青年はそう言われていたのだ。世話といっても、無体を働くように制御する程度で、食事は自分達と同じく配給を受ける事になるのだが。
まだ子供が知るほど噂が広まっていないのか、子供達は青年の姿を見るとダーツの兄ちゃんだと普段通りの声を掛けた。青年も等閑に手を振って応え、犬に近づいていく。
すると、今まで何をされても目覚めなかった犬が唐突に目を開き、弾かれたように体を持ち上げた。
剰りの勢いに耳を摘んでいた子供が尻餅をつき、目をぱちくりと見開く。どうやら、驚きを処理しきれていないらしい。
青年はそれを無視して、犬の前で膝を折る。座った大型犬と膝立ちになった矮躯の青年の視線はほとんど変わらず、二対の瞳が互いに互いを覗き合う。
月を奪ってはめ込んだような金色の瞳と、澄んだ海のような蒼い瞳。対し、濃いブラウンが陰影で濁って溝の底のような色をした黒い瞳。全く異なる質の視線が絡み合う。
視線に意識が乗っているのか、それとも睨み合いになると目を背けたら負けと見る動物の性質か、両者は全く視線をそらすこと無くしばらく見つめ合っていた。
ある種異様な光景だ。犬に興味を引かれて集まっていた子供達も、黙って二人を見つめている。声をかけづらい空気、というのは子供でも分かるものなのだろう。
数十秒、あるいは数分が過ぎた頃。青年が手を犬の頭にやり、不慣れな手つきで頭を撫でた。犬は目を細めてそれを受け止め、強請るように手のひらに頭を進んで押しつける。
青年がそれに答えて手に込める力を増すと、犬は頭を動かして手を弾き、手のひらを大きな舌で嘗めた。
暖かさと唾液の粘度に軽く驚きながらも、彼は黙って親愛の行動を受け止める。それから、今度は両手で細長い犬の顔を包み込むように撫で始めた。
青年が撫で始めたのを見て、幾人かの子供が犬の体に手を伸ばした。安全だと分かったら遠慮が無いのが子供で、小さな手がいくつも伸び始める。乱暴な手つきで撫でる手が増えても、犬は不快そうにすることもなく黙って撫でられていた。
ひどく微笑ましい光景だが、遠くから眺める女はどこか薄ら寒いものを感じていた。なんと言うべきか、主従の契約、そんな気配を感じ取ったのだ。
犬は有史以前の遙か昔より家畜化された生物で、その遺伝子と本能には分かちがたく人間への隷属性が刻み込まれている。
そして、犬も生き物だ。保身には興味があるし、そのための術も知っている。
どこかで悟ったのだろう。この主だった物を殺した人間について行った方が良いと。きっと、その方が良い選択肢になると本能で察したのだ。あの暗く濁った瞳に射貫かれて。
家畜になったとはいえ、犬は動物。人間より強い本能と野生を残している。社会性と知性という武器を得るに至って、動物的なカンの多くを忘れてしまった人間に強者や異常者を察する技能は無い。
だからこそ、青年も女も今まで曲がりなりに一般人から逸脱することなく、社会生活を営んでこられた。
だが、犬には分かったのだ。あの男の異常性が。そして、異常になった世界で異常であることこそが正常であると言うことを。
助けられたこともあるのだろうが、ほんの数瞬でそれを悟った生き物の聡さは目を見張る物がある。
あの犬の内心は分からない。主を殺されて怒りつつも助けられたことに感謝しているのか。それとも動物的な感覚で青年に畏怖し、膝を屈したのか。もしくは、そもそも動物だから深いことを考えていないのか。
だとしても、あの犬の腹は決まったらしい。新しい主人を定めたのだ。
どこか深い知性を伺わせる金と蒼のオッドアイが夕焼けに煌めいた。
そして、女は呟く。
「同類相哀れむというより、類は友を呼ぶってやつか」
多分、あの犬もあの犬で青年や女のように自己保存への欲求が高いのだろう。人はそれを自己中心的考えと呼ぶが、生き物からすれば至極当然の思考だ。
それに、死んでいるより生きている方が好きな生き物の方が多いのは道理だろう。あの犬も、そうだっただけに過ぎない。
これからどうなることやらと呟いて、女は煙草を投げ捨てた。今となっては、最早煙草の不始末についてやかましく咎める者は居なくなっていた。
そんな細かいことを気にする余裕が、誰にも無くなっているというべきであろうか。
何かを暗喩するようにくすぶる煙草が転がり、側溝へと姿を消した…………。
流石に成人二人が入って余裕があるテントであっても、犬が入ると狭い。それが成犬まで育った大型犬であるなら尚更だ。
シベリアンハスキーは立派な大型犬であり、成犬の体高は五〇cmほど。体重では特に大きな個体であれば三〇kgに達することもあるという。
この犬は平均より少し上程度の体躯ではあろうが、それでも体高は五〇cm近く体重も二〇kgを下回ることはあるまい。些か疲労で衰えてはいるようだが、それも十分な栄養を摂ったので直ぐに回復するはずだ。
そんな大きな犬をわざわざ狭苦しいテントに連れ込んだ理由だが、春の夜は冷えるからと女が主張したからである。
そろそろ梅雨が近いというのに、最近は夜の冷え込みが酷い。朝方ともなれば、呼気が白く染まるほど冷え込むこともあった。やはり、町の営みが気温を上げるというのは間違いではなかったらしい。
その冷え込みのせいで風邪を引く者もちらほら現れており、寒さ対策は急務であった。
テントの下に断熱材を増やしたり、着込んだりしても限界はある。煮炊きで出たお湯の余りを空き瓶に入れてタオルにくるみ、即席の湯たんぽにしたりすることもあるが、それも全員に行き渡るほどではない。
となると、体が頑丈な若者が我慢するのは、まぁ当然の流れであった。
なので、肉体的な接触をあまり好まない青年でも女と寄り添って眠ることを選ぶほど、寒さへの対抗策は求められていたのだ。
そこに大柄にして暖かな毛玉が一つやってきたなら、何を考えるかはさして難しい問題でもあるまい。女はこれ幸いと、大型犬を湯たんぽにすることに決めたのだった。
日が沈んできて灯火管制で薄暗い校庭で、女は微かな電灯の明かりを浴びながら犬の体に顔を埋めていた。犬は辛抱強く、大柄な成人女性がもたれかかってくる圧力に文句も零さず寝そべって耐えている。
「あー……犬臭い」
「そらそうでしょう」
犬の腹に顔を埋めたまま、女が言った。密着したまま呼吸しているので、犬特有の獣臭を全力で感じ取っているのだろう。若干声が辛そうに歪んでいた。
臭いをコミュニケーションや個体判別に使うからか、犬の臭いは同じくペットとしてベターな猫と比べると強い。慣れていないなら、抱きついて深く吸い込むと結構きつい臭いだ。
女は顔を上げ、熱を分けてくれた犬の頭を優しく撫でた。人慣れしているのか、撫でられること自体は犬も嫌ではないらしく機嫌良さそうに体毛の豊かな尾を振っている。
「良い子だな。無駄吠えはしないし、言うことも聞いて大人しい。ハスキーは躾も難しいだろうに、よくぞ前の飼い主はここまで賢く仕立てたな」
褒めながら女は犬をもみくちゃにし始める。若干激しいかわいがりにも、犬はこれといって抗議することも無く、むしろ心地良さそうに受け止めてみせた。酷いことがあったから、触れ合いに植えているのだろうか。
女が言うように、ハスキー犬は中々に躾が難しい犬種だ。高い社会性があり、運動能力に優れるからこそ躾のメリハリが重要になり、愛玩動物として単に愛でるだけでは我が儘な暴君へと変貌する。
だが、躾をすれば家畜として並の猟犬以上の忠誠を見せる種類でもある。ハスキー犬は馬鹿だと言うこともあるが、それは誤った認識だ。
一時期、ドラマの影響でシベリアンハスキーの飼育が流行し、知識が無い飼い主が躾に失敗し、育ちの悪いハスキーが世間に増えたから、そう言われているだけに過ぎない。
きちんと躾が施されたハスキーは、適度に人に慣れて愛嬌があり、そして運動能力に優れた良い家族となる。
この犬はきっと、家族に愛されてしっかり躾けられたか、きちんとしたブリーダーが躾けてから引き渡されたのだろう。実に模範的なハスキーであった。
寒さをごまかすように犬と戯れていた女だが、ふと気づく。
「なぁ後輩。お前、こいつに名前つけたりしないのか?」
犬を飼うなら名付けるのは当然のように付随する儀式めいたものだ。家族として受け入れるのであれ、家畜として飼育するのであれ名付けは重要な意味を持つ。
最も明確に所有権を主張することにつながるからだ。名は体を表すというように、そうあれかしと願って与えられるもの。鶏と卵の関係に近いが、やはり名前は以後のあり方に重要な影響を及ぼすのだ。
それに、呼ぶたびにアレだのコレだのと言っていれば据わりが悪い。会話のメリハリをつけるためにも名前は大切だ。
しかし、青年は開いていた文庫本を閉じるでもなく、犬についている首輪を指さした。頑丈な造りの革でできた首輪には、よく見ればネームプレートが備わっていた。
鋲で打ち付けられた金属板には、レーザーで何事かが刻印されている。女は半ば毛で隠れている首輪を見るために銀色がかった黒い毛をかき分け、ランタンの明かりと寄せる。
「……Kanon」
流麗なフォントで名前が刻んであった。飼い主が愛犬のため、ただ一つの首輪を贈ったのであろう。よく見れば、革も合皮ではない上等な品であった。
「大砲かな?」
「パッフェルベルでは? ドイツ語だとKanoneで大砲なんで、eが足りませんよ」
「ああ、お前第二外国語はドイツ語だったか。私、楽だって聞いてチャイ語だったから詳しくはないんだよ」
Kanon、日本語になおせば規律や規範という意味があるが、最も一般的なのはヨハン・パッフェルベルの追複曲であろう。クラシックの入門として用いられることもあり、コマーシャルにも起用される曲だけに誰しもが一度は聞いたことがあるだろう。
カノン様式の楽曲は、異なる声音、あるいは楽器が同じ旋律を奏でるポリフォニーの一類型だ。複数の楽器や声が異なる音で同じ旋律を奏でるには、調和が重要で少しのズレがあってもならない。
しかし、それでいて個々の良い部分を消さず、特徴を残し独特の旋律を産むのが追複曲だ。追従しつつも良さは残す。犬の名前にするには、洒落が利いているとも言えた。
群れの規律や規範を重要視するという所も併せて、ダブルミーニングを狙ったのであろうか。とはいえ、名付け親がこの世の者では無くなってしまったので、真相を知るのは人後を介さぬ当の本人だけになってしまったが。
「小洒落た名前だ……でもカノンってKじゃなくてCじゃなかったっけ?」
「ドイツ語だとKなんです」
ああ、そう。とそこまで語学的な正確性に興味が無かったのか、女は再び犬、カノンをかまいにかかった。
「お前はカノンというのか。まー呼びやすいし悪くない名前だな。女の子には、些か厳つい感じがするが」
今度は青年が、女の子? と声を上げる番だった。文庫本に滲んだインクの羅列を追うのに専念していた視線が、久方ぶりに外れて他の物に向けられる。
「雌でしたか」
「ああ、雌だな。お前、確認してなかったのか?」
言われてのぞき込めば、確かにカノンは雌であった。しゃがみ込んで顔を見つめ合ったなら、構造的に分かりそうなものであるが、他に気を遣うべき場所があったためか性別については失念していたようだ。
「男女比が変わったな」
女がニヤニヤと普段通りの笑みを浮かべながら青年の頭に手を伸ばす。そして、カノンを撫でるのとを同じ手つきで髪を掻き乱そうとした。
数秒後には、皮膚同士が強く打ち付けられる乾いた音と小さな悲鳴が響き、巡回の自衛官からうるさいぞ! という注意の怒声が浴びせられた…………。
カノンが二人の元にやってきて数日、少しずつだがわかり始めたことがあった。
女と青年は早朝のグラウンドを駆けている。冷えた朝方の空気を突き破るように、一定のペースでテントを囲うように敷かれたトラックを回る。
そして、その二人の傍らを躍動するように黒銀の獣が追う。見事な体躯に見合った代謝に追いつくよう、大型犬は一日の必要運動量が多い。二人は有事に備えて体力を鍛えると共に、カノンの体調のためにランニングを始めたのだ。
もとよりカノンの運動能力が優れていることは分かっているが、想像以上に動きが素早く持久力がある。彼女は二人が疲れ果てるまで一緒に走った後で、子供に誘われてボール遊びに興じる余裕があるほどにスタミナに優れていた。
人間が野を駆ける獣に体力面で挑もうというのが、土台から間違っていると言えば間違っているのだが、そこは良い。最初から分かっている話だ。
分かってきたことは、カノンが想像以上に役に立つ、ということである。
数日、常にそばに居るから自然と観察をすることになったのだが、カノンにはどうやら死体の接近が分かるらしい。いや、カノンがというよりも、犬全体がと言うべきだろうか。
時折、カノンは鼻を鳴らしたかと思えば立ち上がり、どこか警戒するように余所を向くことがあった。それから決まって数秒から十数秒後には銃声が響くのだ。
銃声が響くということは、自衛隊員の誰かが死体を処理したということ。カノンがそれに反応するのは、近寄ってきた死体を敏感に察知したということなのだろう。
これは二人にとって実に喜ばしいことであった。死体の存在を敏感に感じ取るセンサーを手に入れたのと同義なのだから。
人間の感覚は、他の生き物と比べたらいくらか鈍い方だ。全ての物がまんべんなく、そこそこの精度で備わっているものの、極まった一つの感覚には全く適わない程度のスペックでしか無い。
そして、犬の嗅覚は人間の一千倍から一億倍と言われている。つまり、人間ではどう足掻いた所で感じ取ることのできない領域で、物事を捉えることができるのだ。
人間には、例え角を曲がった直ぐそこに死体が居た所で気付けない。最も頼る所である視覚の範囲外であるし、うめき声などを上げねば聴覚で捉えることもできない。そして、人間は臭いに頼る部分が少ないので、臭いで距離感をつかむことも不可能だ。
むしろ、死体が多い場所では鼻が麻痺してセンサーとしてはとてもでは無いが使えない。粘膜を守るため、顔を隠したりもするので尚更だ。
しかし、犬ならば気付ける。死体が多い場所では、如何に犬であっても多すぎる臭いで混乱してしまうだろうが、直近に迫った個体くらいは余裕で見つけ出すことができるようだ。
そして、その危険を知らせてくれるのであれば、死体と鉢合わせして齧り付かれずに済む。小さな傷からでも死に繋がるので、これは大変有用である。
嗅覚のセンサーは、物資の探索に際して特に効果を発揮することだろう。物資を求めて進入するコンビニやスーパー、ホームセンターなどは構造上棚が林立しており、どうしても死角が多くなる。
その上見通しが悪いだけでは無く、室内なので暗いから不意打ちを受ける危険性が外よりもずっと高いのだ。
幾らでも伏撃をする機会がある場所でリスクが減らせるのであれば、それ以上に喜ばしいことはないだろう。
拾った後で打算的に役立つ奴だと考えられているなどと知らぬカノンは、元気に体を躍動させて走り続けた。時には二人を追い去って、周回遅れにするほど素早く。
「にゃろう、からかってるな……?」
「犬相手に……対抗意識……燃やしてどうすんですか」
時折振り向いて、遅いぞと言わんばかりに様子を見てくるカノンに女は悔しそうな声を上げた。
絞り出すような調子ながらも律儀な突っ込みをする青年であったが、こちらは随分と辛そうである。やはり体格差もあって、女より体力はないのだろう。
運動能力の殆どは、その体躯に依存するものなれば、三〇cm近い身長さ故に仕方の無いことであった。
軽く歯を食いしばって先行する犬に追いつかんとギアを一段上げた女だが、速度を上げる予備動作で深く息を吸い込んだ時に湿った土の臭いを感じ取った。
遠くで雨が降った時に漂ってくる臭いかと、女は鼻を軽くひくつかせつつ思った。人間の鈍い嗅覚でも、それくらいのことは分かるのだ。
雨が降れば労役は無しになるが、かといって全力を出しすぎるのは如何なものか。女の中で熱を上げた競争欲が水を差されたように減水し、結局彼女は上げかけたギアを元に戻すことにした。
それから更に数分走ってから、二人は適当な所でランニングを切り上げる。直ぐに座り込んだりはせず、適度に歩いてから運動を止めるのは体調管理の基本だ。一息に動きを止めると体が驚いてしまい、予期せぬ体調不良を引き起こす危険性がある。
「ぬぅ……涼しい顔をしおってからに……運動の後は煙草があんまり美味しくないから、苦しい思いをしていると言うに」
その合間、だらしなく肩で息をする人間とは打って変わって余裕たっぷりな大型犬は、犬特有の舌を出して体を冷やす仕草すら見せない。何kmか走った程度で疲れるほど、柔な構造をしていないと見せつけるかのようであった。
二人は放り出してあった小さな鞄から、水のペットボトルを取り出して少しずつ水を煽った。避難生活は窮屈な所も多いが、自衛隊の給水車があるので水にだけは苦労しないのが救いだった。
喉を潤す程度に水分を補給し、体に水を慣らしてから飲む量を増やす。そうしなければ、胃が水で膨らんでも喉の渇きは癒えづらいと教えたのは誰だったか。益体も無いことを巡らせつつ、二人は静かに水を煽り続けた。
水も飲んで一息吐いたので、後は体操でもして上がろうかと話していると、テントの方で自衛官を呼ぶ声が聞こえた。焦りで上ずった女の声だ。
「……また風邪か」
彼女は子供を抱えていた。苦しそうに顔を赤くして、寒い寒いと呟く子供は風邪に冒されているようだ。寒暖の差と冷え込みが、体力の無い子供や老人を次々と牙にかけていく。
ここ数日、朝がくるたびにあんな声が上がるのは珍しくなくなっていた。
「性質が悪い風邪みたいですね。腹も一緒に下るとかで、拗らすと腸炎が凄いとか」
汗をタオルで拭いながら、青年が言った。念入りに汗を拭って体が冷えるのを防ぐのは、自分も話の例外ではないからだ。免疫が弱い現代人は風邪に弱い。倒れる時はドミノが倒れるかのような容易さで倒れてしまい、あっという間に重篤化だ。
「これで、確か一二人目か。子供が八人だったかな?」
「快癒したのは二人ですね、今のところ」
倒れるのは今のところ、体力の無い子供や老人が殆どだ。ただ、一応風邪から回復する者も居るので、そこまで状況は悪くない。
「最初は、やれゾンビウイルスがどうだのと騒ぎになったよな」
手帳を鞄から取り出し、病人の所に数字を足しながら女が嘆息した。風邪の諸症状が、噛まれてから死体になるまでと似ており、それに刺激された一部の避難民が騒ぎ立てたことがあったのだ。
確かに死体に噛まれた人間は、直ぐに動く死体へと変貌するのでは無く、数日高熱に苛まれた末に死亡し数時間後に起き上がる。そのプロセスは、一見普通の風邪と見分けがつかない。
噛まれていない人間が動きだすことはないので、飛沫感染か接触感染のいずれかであろうと推察することはできても、知識の無い普通の人間には、そこまで冷静に物事を見ることはできないのだ。例え説明されても、納得できる可能性も低かろう。
群衆は何時だって何かに怯えている。誰かがちょっとした不安を口にすれば、それが連鎖的に大きくなりながら広がるのが常なのだ。噂や不安に実態や証明が伴っていなかったとしても。
死体が動き出すための要因が、空気感染するようになったと考えても不思議では無いと避難民は考えた。そもそも、誰にも死体が如何なる理由で動き出すのか、何が原因で人間が動く死体になるのか全く分かっていないのだ。
不安が広がる速度は、まるで枯れ野に火を放つが如くであった。
せめて国が公式に声明を出していれば違ったのかもしれないが、その国も最早活動しているとは思いがたい。こうなっては、妄言と悪い方向に進んだ妄想が人々を突き動かすのも不思議では無かろう。
一時は、死体になる前に殺せと主張する過激な人物と、ただの風邪に決まっていると主張する病人の親族が殴り合いの喧嘩一歩手前にいくまで空気が悪くなかったこともあったのだ。治って元気になる子供が居たのは、本当に幸運だっただろう。
誰一人回復せず、そのまま風邪の合併症で死人が出たなら、今頃避難所の病院は一人このらず処分されている可能性もあったのだから。
「おちおち風邪も惹いていられないなんて、嫌な世の中になったもんだな、後輩」
とはいえ、今も死体になる要因が空気感染すると強硬に信じている一派は存在するのだが。彼らはマスクをし、ゴーグルをかけて一角で固まっている。
何かをすることは無いが、目に見えて怪しいので自衛隊員も対応を図りかねていた。
「そうですね……彼らが早まって襲撃とかしなければよいのですが」
表面上は、そういっておくしかないので、無難な感想を青年は零した。誰も周囲には見えないが、本当に誰も居ないとは限らないからだ。見えないと人は居ないと思いがちだが、どこか死角になっている所で誰かが聞き耳を立てていない戸も限らないのである。
そして、流石に犬に盗み聞きしていそうな奴が居たら教えろ、と高度な命令を下す訳にもいかない。大事な所は、自分が気を付けねばならないのは世の中が荒廃したところで変わらないようだった。
正直、青年から言えば事態が多少混乱してくれた方が動きやすい。逃げ出す時の物資調達ができるし、ことここに至って大事に発展したらしたで混乱に紛れて大量の物資と共に脱出できるかもしれないのだから。
とはいえ、如何にして混乱から逃れつつ上手く立ち回るか、という難事が未だ残っているので、その事件は少し先にしてほしいと思ってもいたが。
それに、本当の獅子身中の虫は他に居る。女に接触してきたとかいう、脱出を目論んでいる別の連中だ。そっちの方が、パラノイアにとりつかれた一般人や、進んで混乱を生もうとしていない二人と比べるとずっと厄介である。
女が聞いた話によれば、校舎に火を放つことさえ考えているようでもあるのだし。
いよいよ状況は混乱し、これからどうしたものか、と追い詰められていく。まだ余裕はある。だが、余裕があるからといって動かなければ、余裕が無くなった時に困るのだ。
夏休みの宿題と生命の危機を一緒にすれば、裏で必死扱いて動いている諸氏や、懸命に守りを固めている自衛官から怒られそうだが、本質は同じだ。
三十一日がやってきてからでは遅い。望ましいのは、七月中に困難な物は終わらせ、時間がかかる物はじっくりと時間をかけても片付けること。
二人は今のところ、まだ半分ほども宿題を片付けていない状況だ。間に合わせの武器はあれど、食料備蓄も足も無く、道連れも増えた。
このままでは、到底脱出など望むべくも無い。自殺に等しい逃亡など、したところで何の意味も無いのだから。
不意に、冷たい滴が青年の頬を打った。それは二滴三滴と続いて降り注ぎ、涙のように伝って落ちていく。
「……雨が」
見やれば、薄雲から雨が降り注いでいた。朝から曇りがちで、あまり良い天気とは癒えなかったが、遂に天が機嫌を悪くしたようだ。
さめざめと泣くように降り出した雨は、数秒と立たず勢いを増し、二人と一匹が泡を食ってテントに飛び込む頃には叩き付けるような雨へと変わった。
大きな雨の滴が風に煽られて勢いよくテントを打ち付け、耳障りなドラムロールを奏で上げる。その騒音は眠りに落ちていた避難民の多くをたたき起こし、苦しみの無いまどろみから現実に引き戻した。
方々から雨を嫌う声が聞こえる。罵倒や嘆息、どうすればいいんだという絶望の声。生活に必要な水を供給してくれる雨だが、今この場においては好ましからざる事態への拍車でしかなかった。
自衛官は銃口を庇うために銃身を下げ、防御用に備えた重機関銃や軽機関銃にカバーを掛けるため忙しく走り回り始めた。
外につながれた獣たちは、唐突な降雨に驚いて激しく吠えたてる。自分たちだけぬれない場所に居る人間達を非難するように。
叩き付けるような雨に合わせ、遠方で何かが光り、微かに遅れて低い轟音が襲い来る。子供の悲鳴が、そこかしらから響いた。
空を割り、未明の空を一瞬だけ輝かせた遠雷が梅雨の到来を報せていた…………。