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青年と女と犬

試験的にTwitterで進捗報告はじめました。今回は早めに投稿できてよかった

 子供の歓声が青空の下に響き渡った。純粋な喜を孕んだ、何かに感嘆するような喜声であった。


 避難所として要塞化が進められている小学校の一角で、子供が群れていた。よくよく見やれば、遠巻きにであれど大人の観客も見受けられる。大人には体面というものがあり、子供ほど堂々と悦びに交ざりにいけない悲しい生き物なのである。


 軽い音が響いた。鋭い針の先端が、コルクの標的に深々と突き刺さった音だ。鈍い銀色に輝く針は、二〇の表記が為された鋭い三角形の合間に作られた、細く狭い帯の中に突き立っている。


 ダーツだ。四〇cmのダーツボードにダーツを投げ込み、当たった場所によって決められた点数を用いて行う遊技である。観衆は、その遊技の行方を見て声を上げているのであった。


 「よし、これで九〇〇点か。良い感じだ」


 観衆の盛り上がりに答えるかの如く、見上げるような長身の女が楽しそうにダーツを掌で弄んだ。安物ながらきちんと作られたダーツは、その鋭さに反して女の掌を傷つける事無く円弧を描いて踊る。


 対し、葬儀の参列者を思わせる矮躯の青年は、さもつまらなそうに二〇のトリプルリングからダーツを引き抜く。それも、大した広さも無い場所に密集して突き立った三本全てを。


 円を扇状に割った模様が描かれるダーツボードには、命中した場所によって異なる点数が決められている。区分けされた三角形は頭上に冠した数字の点数を持つが、三角形を三つに分ける帯の中では上端に近い物では点数が倍になり、下端に近い物では三倍になる。勿論、言うまでも無く倍率が高い場所は、それだけ狭く作られていた。


 そこに三連続で、しかも然程精度が高くないであろう遊技用のダーツで当てる射手の力量は如何ほどか。陽気に笑う女には、どうやら射術に通ずる物全般に適正があるらしい。


 しかし、その絶技と言ってよい業に何も反応を示さず、女が退いて開いた射点に立った青年の力量も並では無かった。


 我流の適当なフォームながらも、ぴんと通った姿勢は近しい何かに通じているような印象を見る者に与える。一瞬空気が張り詰め、的を狙う殺気にも似た気配に観衆は一瞬だけ息を飲んだ。


 そして、矢が投ぜられる。迷い無く放たれたダーツは、最早幾度穿たれたかも分からぬほどボロボロになった二〇点のトリプルリングに突き立った。


 「七八〇」


 誇るでも無く、ただ事実を告げるように言って青年は次のダーツを握り込む。そして、第一投と同じように鋭く放った。すると、矢はまるで意思を持ったように飛び、一投目の直ぐ脇に突き立って震えを帯びる。


 「八四〇」


 淡々とした宣言に一人の子供が震えた。きっと彼は他の子供より感受性が豊かだったのだろう。あの青年に自分が的として見られたら、そう考えて怖気を覚えたようだ。


 必要とする時が来たら、迷い無くダーツが投ぜられ、自分の目に突き立つ。そんな光景を少年は幻視した。理由は無いが、あの男ならきっとそうすると、少年は自然と思った。


 彼は成長すれば、きっと人を見る目に優れた一角の人物になったであろう。彼の思考を青年の傍らで待つ女が知っていれば、聡い子供も居たことだと笑った筈だ。


 最後の一投も、先に行ったダーツの後を見事に追った。そして、今までと同じように淡々と点数が告げられるのだ。


 「やるな」


 女は自分のダーツを弄びながら唸った。


 このダーツボードは、外から物資を持ち帰った自衛隊員が娯楽が無いと味気なかろうと設置した遊具の一つで、避難民の無聊を慰める為に身を晒していた。


 避難して三週間、暦が一つ老けようとする頃には、流石に此処の不自由な生活にも皆慣れてくる。そうなると、娯楽に餓えてくるのは当然の事であった。


 お熱い女と淡泊な青年の凸凹――物理的な意味でも――カップルは、ある程度認知されつつ平穏に過ごしていた。そして、揃って遊ぶのも珍しくない光景だ。


 そして、彼等がダーツに興じて凄まじいスコアを出すのも、同じように見慣れた光景となっていた。ダーツは慣れねばまともに刺すのも苦労する遊びで、風のある外ともなれば難易度は更に上がる。


 そんな環境で幾人かが無様なスコアのゲームを晒している中、この二人も最初は同じようなスコアを晒しつつも、次第にスコアを伸ばし凄まじい点数を見せつけるようになっていたのだ。


 当然、凄いゲームが展開されれば興味を惹かれて人が集まるのは道理だ。最近では、娯楽に餓えた子供が見世物代わりに集まるようになっていた。


 勿論、正規のルールに従った適正なゲームでは無い。距離は些か短めに取られているし、ボードもダーツも安物だ。それでも、一投も過たず互いに二〇のトリプルリングを穿つ様は凄まじいものである。


 興じるのはカウントアップという、三回ずつ投ずるラウンドを八回繰り返す遊技で、軽二四投で得た点数を足していくシンプルなルールだ。一投で得られる最高得点は二〇のトリプルリングに命中した時の六〇点であり、つまり最高点は一四四〇点となる。


 そして今日も二人は一四四〇点をたたき出して、ゲームは引き分けに終わった…………。







 あの後、子供に教えて攻撃を食らいながら簡単な教授をしてやった二人は、自分達のテントに戻っていた。揃って子供に揉まれたせいか、些か疲れているようだが、その表情は少しだが満足げであった。


 別段、子供に優しくしてやった充足感からでなければ、ゲームで適度な緊張を得て精神的に満足したからでもない。


 武器を手に入れたからだ。


 二人の前には石で先端を研がれて、鋭さを幾らか増す代わりに銀色の塗膜が剥がれたダーツが五本転がっていた。それは安物の玩具なれど、突き立つ場所によっては十分に人を害しうる凶器だ。


 ダーツの矢は相応の数が適当な管理の下に転がされており、ちょっとしたゴタゴタの間に幾らかちょろまかす事は難しくない。最初から複数セットが持ち込まれていたが、誰も基本の本数を把握していないので露見する心配も無かった。


 どうしても何かに備えて武器を欲した二人には、正に天佑と言えよう。ある程度練習したら形になりそうな投擲武器が、実に容易く手に入る機会が訪れたのだから。


 二人は嬉々として練習しながら機を伺い、様子を見ながら少しずつちょろまかしていった。そして、使えるように研ぎ上げて秘匿したのだ。


 二人は一月近くを安穏と暮らしながら、何ともなしに避難所は長く保つまいと見ていた。安定した少量供給を受け、多少の諍いはあれど平和に保たれている治安を目にして尚だ。だからこそ、彼等は武器を欲した。万一の時にある程度身を守りうる武器を。


 ダーツは投ずるだけではなく、握れば刺突武器としても機能する。小銭を靴下に詰めたブラックジャックと同じ程度には、役に立つだろう。投じれば牽制にもなるし、今の状況では悪くない武器だ。


 それは良いとして、どうして二人が戦う準備を始めたのかといえば、深読みによる理由のない不安からではない。実際のデータから覚った事だ。


 まず、二人は配給だけではなく、毎日どの程度の自衛隊員が物資回収に出ているのかとメモに取った。こうすることにより、出て行く頻度から物資の残余量を大まかに知る事ができる。がっしり備えていれば余裕が在り、慌てて大勢を出すようなら余裕が無いというように。


 次に、一日にどの程度の銃声が聞こえたかも大まかに数えて居た。銃声は良く響く、特に減音機を用いなければ校内の何処に居ても聞こえるくらいに。


 発砲の頻度と数は、どの程度死体が近寄ってきてくるかを教えてくれる。二人は協力し、数え間違いや聞き逃しがあっても比較的正確な数を知るために各自で計上した。


 そして、毎日全てのデータを手帳に記して管理するのだ。罫線を使ってグラフを使えば、一目で避難所の状況を知る事ができるよう工夫までして、二人はデータを積み重ねた。


 その結果、事態は日に日に緩やかなれど悪化していると知ったのだ。


 徴発に出て行く頻度は上がり、最近はそこらから集めたトラックを重装化までして用いている。人員を積むにも物資を積むにも数が居るのは分かるが、なりふり構わないようになっていた。


 更に青年と女が乗っていたキャンピングカーまで合板や鉄パイプ、それに金網まで使って強化されていたのだ。内部に積み込まれた機材と、数日姿を消したりすることを察するに、数日拠点を空ける程の長期斥候用途で使われていることが伺えた。


 籠城側が斥候を出す理由など、三つしかない。敵の接近を悉に観察したいか、味方の来援を求めて脚を伸ばすか。若しくは、退路を探し求めているかだ。


 斥候は、その全てを理由に派遣されているのだろうが、現状を鑑みるに最後の二つを重視しているように思えた。一日に響く銃声が三桁に届こうとしている現状からして、可能性は高かろう。


 人は急激な変化には敏感だが、緩やかな変化には鈍感だ。最初は一~二発の銃声にびくびくしたとしても、毎日鳴り響けば慣れていき、数が増えても気にしなくなる。


 最初は寄ってくる死体を片付ける為に、多くても一〇発に届くか届かない位しか銃声は聞こえなかった。だが、それがたった一月足らずで一〇倍以上になるのだ。その拙さは、深く考えずとも察することができる。


 迫っているのだろう。死体の軍勢が雲霞の如く、密集軍となって。それは自身の物量で全てを揉み潰す、死の波濤だ。止められるのは圧倒的な火力と鉄量のみであるが……その何れもが拠点には足りていない。


 武器弾薬には余裕があるのだろう。寄ってくるのを片端から倒すため、景気よくパンパカやらかしているのだから。しかし、それも無限では無い。弾丸消耗量は坂道を転がるかのように増えている。早晩、弾薬盒を探る手は冷たい底を擦るようになろう。


 如何に頑健な壁に囲まれようと、何十ものバリケードに囲まれようと限界はある。死体一つは高々六〇kg前後の脆い蛋白質の塊に過ぎないだろうが、それが何千と寄り集まれば凄まじい圧力を発揮する。前が潰れる事も厭わず押し寄せる軍勢そのものが、腐肉と骨で出来た破城鎚となるのだ。


 次第に脆い部分が重圧に耐えられなくなり、防壁は瓦解する。最初は応急処置で対応できるかもしれないが、限界は何時かやってくる。脆い蝶番、接合部、つぎはぎした修復部。柔い部分が干渉し合い、弾けるように潰えることだろう。


 いや、それまで保てば良い方だ。むしろ物資の枯渇や病魔で内側から、古くなった畳が腐るように死んでいく可能性すらある。


 そして、外が使えなくなると死体の処理にも苦労することになろう。煮炊きにも困るほど燃料は足りなくなっていくだろうから荼毘に伏すこともできず、さりとて遺骸を生活の場の付近に埋葬する訳にもいかない。埋められて尚、遺骸は伝染病の発生源となることがあるのだから。


 死体の軍勢を蹴散らし、生活圏を維持するだけの鉄量が得られなければ避難所に先は無い。


 最近は晩春にもなろうというのに朝晩の寒暖差が酷く、風邪を惹く避難民も多いから懸念は尚更深まるばかりだ。現代人は軽視しがちだが、風邪は死病にも繋がるのだから楽観などできようもなかった。


 避難所に強制的に身を寄せて以後、ずっと抱き続けてきた不安が形を帯び始めた。今すぐどうこう、とはなるまい。まだ外に人間を出すだけの余裕と、死体を駆除できているから時間的な猶予はある筈だ。今日明日にも破滅的に困窮することはない。


 だが、半年後も今のように不安がりながら策を練られるという保障は何処にも無いのだ。そもそも、自分達は自衛隊員が保有する弾薬の総量など知らないのだから。あくまで、メモのデータは当て水量に過ぎないのである。


 二人の腹は既に決まっていた。ここには留まらず、どうにかして脱出する。そして、生きるために尻に帆を立てる勢いで死体が少ない所まで行くのだ。


 されども、簡単に逃げられるとは思っていなかった。前提として、此処から出たいんですがと申し出て、どうぞどうぞと送り出してくれるような場所ではないのだ。


 それは先日、どうしても実家に家族の安否を確認しに行きたいから出してくれ、と自衛隊員に掛け合った家族が素気なく断られていた事から明確だ。少なくとも、彼等は生きた状態で避難民を離すつもりは無いのだろう。


 それが義務からくる保護なのか、利用する腹づもりからなのかは分からない。だが、逃げられないという図式は変わらないから真意そのものはどうでもよい。


 その上、逃げ出す為の物資も必要だ。身一つでフェンスを越えて逃げ出す事は、まぁ不可能ではないだろう。


 だが、その後は? という問題だ。


 脚も無く食料も無く、抗う術も無く死体が跋扈する都市圏を踏破して安全圏にたどり着けるのか。娯楽作品の主人公であれば、やってのけるだろう。だが現実は、そこまで人間に甘くない。


 距離が、疲労が、物資不足に鳴く腹と枯れる喉が分厚い壁となって現実という基礎の上にそびえ立つ。そして、人間のか弱い手に、その壁を登攀するだけの力などないのだ。


 されど、物資を得る事は難しい。配給はあるが、温食は当然日持ちしないし、他の食糧も食べねば体力が萎える。脚は厳格に管理されているから、決して奪えはしないだろう。人間は弾が一発当たれば死ぬのだから。


 頭を捻れど、相手は本職だ。その警戒をくぐり抜けて物資を銀蠅するのは不可能であった。出来ることといえば、みみっちく頼りない武器をこそこそ調達すること程度でしかない。これ以上に手を出せば、防人達は黙ってはいまい。


 要は手詰まりだ。今のままではどうしようもない。現実はゲームとは違うので、簡単に攻略する糸口など用意してはくれないのである。そこまで都合が良いなら、負ける戦争など何処にもあるまいて。


 だが、手詰まりでありながらも備えておいて損は無い。何か大きな事態が起こって、動く隙が与えられるかも知れない。人の手に寄ってか、自然の今日によってかは分からないが、何かが起こるかも知れない。


 そして、そんな好機が訪れた時に動けぬまま取り残されるのは、阿呆のすることだ。特に、準備を怠って取り残されましたとなれば、愚鈍の極みである。斯様な醜態を晒したなら、二人は死んでも死にきれないだろう。それくらいの自尊心が彼等にもあった。


 故に、ちっぽけな牙を後生大事に磨きながら、二人は狭いテントで堪え忍ぶ。生きるため、生き延びるため。見せかけの安全を乗り越えて、本当の安心と安全を手に入れるために。


 とまれ、二人に出来るのはひたすらに待つことだ。暇を持て余しながら、一組の男女は世の一般の男女なら、そういう関係になりそうな環境に身を起き続けるも……別段、間違いが犯されることはなかった。


 というのも、女が面白半分でモーションを掛けることはあっても強行することは無いし、青年には応える様子が欠片も無いからであった。


 普通の人間なら、生存本能に突き動かされた性欲が鎌首を擡げ、過ちを犯させることだろう。現に夜中にテントの外を出れば、押し殺した嬌声が何処からか聞こえてくることは珍しくなかった。


 本物の恋仲ではないので行為に及ばない事自体は、普通の価値観に照らし合わせれば普通のことではある。だが、今は状況が状況だ。吊り橋的な状態が、過ちに踏み切らせてもおかしくは無い。


 現に青年も、一度は揺れたことがあった。彼も彼で健康な成人男子なのだから、肉感豊かな女に迫られて生命の本能が疼かないこともない。普段はどうでもいい、と振る舞いつつ、単純な生命のサガが擽られる事もある。


 だが、青年は踏みとどまった。何故か、手を伸ばそうとした時に夕焼けの屋上で見た、逆光の向こうに光った瞳を思い出すのだ。


 その目が青年を冷静にさせる。この女は何なのか、同類とはどういう意味かと。


 異常性が炙られる本能に水を掛け、その異常性が面白半分で本能を炙る。何処までも下らないイタチごっこの図式が構成されていた。


 だからこそ青年は、この一般男性諸氏であれば奮い立って色々と不健全な有様を作り出しそうな状況にも沈黙を続ける。そして、ただただ先を見た言葉だけを弄するのであった。


 「……なぁ、知ってるか?」


 悶々と女の事を考えて居ることを知ってか知らずか、女は襤褸切れに包んだダーツを懐にしまいながら声を掛ける。


 青年も自分の分のダーツにキャップ代わりの消しゴムと突き刺しつつ、何をと声をもなく目で問い直す。すると女は、さも神妙そうな顔を作って青年の耳に口を寄せた。


 一旦、良からぬ事をかんがえているのではないかと青年は眉を顰めた。この前、耳打ちをするように見せかけて、耳朶に舌を突っ込まれた事があったのだ。暇だからか、女の悪戯は日に日に危ない方向へと向かいつつある。


 それでも、疑っても話は進まないので、青年は諦めて進んで女に顔を寄せた。


 しかし、女は真面目だったらしく、不意打ちが飛んでくることは無かった。代わりに、あまり穏やかではない話が耳朶に浸透してくる。


 「反乱の噂があるんだ」


 反乱? と鸚鵡返しに聞き返すと、女は尤もらしく頷いて話を続けた。自分達のように、此処が然程長くないだろうと察した賢しい者達が居ると。


 「反乱、といっても自衛隊員に取って代わろうとする話じゃない。物資を奪って逃げようとする、不届きな輩が居るって話だ」


 物資を持って逃げる事を不届きというのなら、その不届きを自分達も企てているというのに何という物言いであろうか。


 ただ、二人は心に棚を作れるタイプの人間だったらしく、青年が女の台詞に茶々を入れる事は無かった。聞かせてみろ、と目で促すだけである。


 「私達のように目敏い奴が、何人か纏めてグループを作っているそうだ。ここから脚抜けしたい連中を丸め込んでな」


 「自衛隊は察しているのですか?」


 青年の問に女は首を振った。聡さは計画を立てる段階でも発揮されているらしく、間違い無く乗って事を表に出さない者にばかり誘いを掛けているようだ。


 「規模は分からんがな、自衛隊員にも呼応する奴が居たらしい。ま、確かに事態をよく知っているなら、返って焦るのもよく分かるが」


 世も末だな、今更ながら、などと冗談にもならない冗談を零す女を見て、青年はふと顎を撫でた。女の言を信じるのであれば、情報の管理は相当神経質になされているはずだ。


 では、その話を女は何処で知り得たというのか。


 二人だけの友軍だ。今更隠し立てしたり気を遣うこともあるまいて、青年は率直に女に問うと、女は悪い笑みを浮かべて豊かな胸の谷間から煙草の箱を一つ引っ張り出して見せた。


 それだけで青年は事を察した。煙草、つまりは配給品を持ってくる美男、あれから聞き出したのだろう。いや、聞き出したというよりも、誘いを掛けられたというべきか。


 「で、何て応えたんです?」


 「考えておく、と応えたのさ。嘘では無いだろう? 言葉は実に不思議だな」


 呆れた様に眉根を寄せる青年に、女はケラケラと笑いをあげる。落とせると思ってモーションを掛けた美男が哀れだった。良いように使われようとしているとは。


 考えておく、という言葉は実に不思議だ。何をという目的語を欠いているのだから、何を考えた所で嘘では無くなる。そして、そんな言葉がある意味前向きに捉える事もできる言語の仕組みも不思議であった。


 だが、今はそれが良い方に働く。平素の笑みを知る者が見れば、悪い事を考えて居るなと思うような笑みを作って、女は煙草を一本咥えた。


 馬鹿が何をしても結構だが、それを利用するのも此方の勝手だ。上手く転がれば万々歳、利用して此方の都合に合わせるまでだ。そうでないなら、対岸の火事とばかりに失敗して鎮圧されるのを眺め、次の機会を待つだけだ。


 いや、寧ろそれすらも良い機会となりうる。今の環境から脱したいのであれば、何にしたところで奇貨たり得るのだ。


 後は、偶然転がってきた小銭を蹴飛ばすのでは無く、拾うことができるか否かだ。


 邪な策謀を巡らせながら、ライターに手を伸ばした女は、数秒後に強かに手を引っぱたかれて、小さな悲鳴を上げた…………。














 女が改めてテント内禁煙をきつく言いつけられた翌日、二人は学校の外周を三重に囲むバリケードの最外縁に居た。


 別段、脱走したり何かを企てて、という訳では無い。バリケード構築の資材を運ぶ労役に参加しているだけだ。


 ここ暫く、銃声が増え続けているからか自衛隊は防備を固めることに専念していた。元々作っていたバリケードの囲いを広げ、ある程度の活動圏を維持すると共に万一に備えている。


 確かに簡易であれど複数のバリケードがあれば、有事の際に撤退する先が出来て安心できる。


 また、車の出入り口が裏門と正門の二つだけ、というのは不便極まる。もしもそちらに死体が殺到したなら、外に物資を集めに出た部隊が締め出されることになるのだから。


 だが、簡易に口を開けて受け入れられるバリケードがあるのならば、その心配も少しは薄れる。誰かが音でも出して死体を一方に惹きつけ、手透きの者が新しい出入り口を作って塞げば彼等の帰還は適うのだ。


 しかし、そういった事態に備えた構造にするのであれば、脆弱になるのでは? と思うやもしれないが、そもそも彼等は頑健な城壁を築くつもりなど更々無いのだ。欲しいのは、簡単に構築・修復が可能で、抛棄しても簡単に奪回できる簡易な防御陣地なのである。


 昔の戦争のように軍勢が戦列を組み、攻城兵器や火砲を伴って押し寄せてくるわけでは無い。徒手の死体、一体一体は然したる脅威でもない死体が相手なのだ、当然戦法も普通とは異なる。


 脚を止める程度の簡易な防備があれば、それで事足りる。後は銃器で頭を吹き飛ばすなら、建材の先端を尖らせた槍で突くなりして破壊すればいいのだ。


 死体は武器を持たぬし、バリケードを乗り越えるだけの運動能力もなければ、迂回して穴を探す知恵も無い。ただ愚直に食欲に突き動かされ、眼前の餌に最短で突き進むだけだ。


 なので、動きを止め侵入を阻める柵と見張りの為の高台があれば、死体相手のバリケードには十分過ぎる。


 そして、それらの防壁には学校の机が役立てられた。労役に参加している男女は、皆一様にパイプと木で作られた机を担いで運搬いしていた。


 学校の机は素材と構造のおかげで、大変軽くて丈夫に作られている。小学生でもはこべ、荒っぽい子供の蛮用にも耐えるだけの頑強性があるのだから、バリケードには持って来いだった。


 建造中のバリケードの大まかな形は、既にできあがっていた。学校の周辺、建物の間や開けた道路、そして幾らかの農地を囲むようにバリケードが広がっている。自衛隊員が安全を確保しながら先んじて構築し、それから民間協力者に作業を言いつける。満足に抵抗する術の無い民間人を安全、かつ効率的に使うのであれば当然の処置であった。


 基本は簡単だ。土の地面があれば軽く掘ってから、机の脚を上に向けて置く。それから再び土をかけて脚だけが露出した状態にしてやり、そこに互い違いに机を置く。そして、ワイヤーやロープで脚同士を括り付ければ、土台も安定した腰元までのバリケードが完成だ。


 道路などの支えが無い場所なら、埋める代わりに土嚢を重しとし、或いは通りを封鎖するなら標識のポールや塀の飾り煉瓦の穴を活用してワイヤーで括り付ける。


 少し工夫するだけで、そこそこ信頼できるバリケードが容易く構築できるのだ。使わない手はなかった。


 とはいえ、欠点もある。就学児童の年齢に合わせて大きさもバラバラなので、調整は必要だし、完全とは言い難い。二重に積み上げて土嚢を足したり、工事現場から失敬してきたフェンスやらを使って補強する必要もある。


 場所によっては、机で塞いだ後で隙間に椅子をねじ込み、更に乗用車を乗り付けて塞いでさえいる。


 効率を考え、利便さを察する事ができないのであれば、何とも不安な防壁であった。見た目だけみれば、ひょいっと乗り越えられそうな風情なのだがら、


 学校を囲う塀や、その直ぐ先に作られた工事現場の足場や建材を使って一部の隙無く作られたバリケードと比べれば、頼りなく見えるのは揺るぎない事実である。


 「おうおう、麗しの我が家よ。何とも獰猛な姿になって」


 が、二人はそんな不安とは無縁だった。見た目からして、バリケードの目的と用法を察していたのだろう。車を集めてある農地の一角を見て、暢気な感想を零していた。


 机二つを器用に運ぶ二人の前には、一台のキャンピングカーが止められていた。蒼い車体が特徴であったそれは、今は鈍色の鋼板で武装されていた。


 車体の各部に鋼板が張られ、更には装甲の強度を上げるためか各所に鉄パイプが骨組みとして溶接されている。窓には直接触れられぬよう金網が張られ、更に車体側面にはタイヤに死体が飛び込むようにするためにかスカートまで設けられていた。


 極めつけは、二枚の鋼板を山形に貼り付けたドーザーだ。死体を撥ね除け、障害物を蹴散らして進むための装備。自衛隊員が長期斥候に使うための改造が施され、彼等の元拠点は獰猛な獣に改造され尽くしていた。


 「最初から此奴だったら移動もらくだったのにな」


 机が集積されている場所に机を放り出しながら、女はしみじみとそう言った。ちょっとした障害物でも車体へのダメージを嫌って迂回した場所が多く、それにより死ぬほど遠回りを強いられたので酷く実感がこもった台詞である。


 「こんなんで大学乗り付けるアナーキーな教授は嫌です」


 対して応える青年の突っ込みは、正鵠を射ていた。社会崩壊に備えて装甲キャンピングカーを拵え、そいつで大学に来るアナーキストに何を教わると言うのか。ポストアポカリプスの使者とでも名乗るつもりなのだろうか。


 「そりゃそうだ。しかし、長期斥候の為とは言え、よくぞ豪儀にやってくれたな。工兵の仕事かな?」


 鉄と僅かな蒼の歪なコントラストを描く猛獣を撫でつつ、女は仕事を悉に観察した。溶接は明らかに急ぎ仕事で、精々実用に耐えうると称せる程度の出来映えであろうか。元は人の持ち物とはいえ、適当な仕事をしたものである。


 だが、売るわけでも無いので実用性を満たせば十分とも言える。その点、この鈍色のケダモノは十分に要望を満たすスペックを有していた。


 しかし、こんな物をこさえてまで助けを探しに行くとなると、自衛隊の困窮具合が伺い知れる。彼等も長くは保たないと見ているのだろう。


 されども、よくよく考えずとも分かることであった。補給を立たれた籠城に先など無いと、古今の先人が身を以て示してくれていることでもある。


 「しかし、随分気合いが入っているな」


 焦りようを見れば不安は募るが、バリケードを見れば中々に心強くもあった。死体が全て近寄ってきたら、手慣れた自衛隊員によって鉄パイプの手槍で片付けられていくし、構造も中々どうして考えてある。少なくとも、しばらくの間は安穏としていられそうだ。


 それに、随所に避難スペースがあることも評価できる。上に上れる、背が高いバンなどが放置されているのだ。


 普段、その車は自衛隊員が見張りに使っているが、いざ逃げ遅れた時は一時的な避難所となる。手を伸ばしても届かない位置に居られれば、どれだけ囲まれようとも脅威ではないのだから。


 後は、味方の救援を待てば良いのだ。咄嗟に陣地を抛棄した際に逃げ遅れたとしても、奪回を待てば生き延びれるという希望があるだけで随分と気も楽になろう。


 少し離れた所で悲鳴が聞こえた。野太い男の悲鳴だが、放っておく訳にもいかないらしい。バンの上で見張っていた自衛隊員が一人、手槍を抱えて駆けていった。


 「肝が細い男がいたもんだな」


 「普通、あんなもん見慣れませんよ」


 大方、バリケードに死体でも近づいてきて驚いたのだろう。もう死体が跋扈しはじめて一月も経とうというのに暢気な話だ。比較的早期に避難してきた者なのだろう。


 「一体くらいなら、新業の練習台くらいにする精神でいかないとな」


 戯けつつ女は手近に放置してあった予備の手槍――ただの建材なので消耗が早いらしい――を手に取り、格好つけて振り回してみせた。


 適当にやっているだけだろうが、長い手足と堂々たる体躯が躍動すると、それだけで不思議と堂に入った様に見える。


 女は長身ながら、モデルのような細く頼りない体型ではない。鋼線を縒って作ったような、細くも見事な体躯を誇る女丈夫だ。それが鉄の棒きれを振り回した時に産まれる運動エネルギーは、人間の頭部くらいなら容易く砕く事だろう。


 実に頼もしいことだが、それが付近で振るわれるのが心地よいかと言われれば断じて否だ。むしろ、自分の頭が砕かれるビジョンが浮かんで来る事だろう。そして、手元が狂ったり、汗か何かで手槍がすっぽぬければ、そのビジョンは現実になるのだ。


 青年は足下に転がっていた手槍の端を践むことで勢いよく屹立させ、素早く掴み取る。万一の時の防御手段を確保したわけだ。


 じりじりと後ずさりながら、手槍を振る感覚を我流で覚えようとしている女から遠ざかる青年だが、ふとした音を感じ取って脚を止めた。


 それは獣の上げる声だ。作られた鋼の獣ではなく、本物の獣が上げる吠え声。甲高いそれは、犬のものだった。


 犬は避難所にもそこそこ居る。現代では家畜と言うよりも家族の一員として遇する事が多いから、共に避難してきた者が多いのだ。


 だが、そんな犬たちではない。運動のためにグラウンドを歩き回ることはあれど、彼等をバリケードの方まで連れ出すことは許可されていない。


 それに、鳴き声はバリケードの外から響いている。農地の向こうにある、民家が並ぶ方からだ。


 青年は顔を巡らせて、死体が溢れ出た混乱で飼い主の元から離れた犬が野犬化しているのか? と想像を巡らせながら、声の発生源を探した。


 棒きれを振りたくって、若干悦に入っていた女も青年の所作に気付き、ついで鳴き声も聞きつけて注意をそちらに移した。


 「……犬か。後輩、お前犬派か?」


 「いえ、猫派です」


 犬だけでは無く、キャリーケースに入れられた猫も数匹避難所に居る。女は、彼がそんな猫を遠巻きに見つめていたのを何ともなしに思い出す。多分、柄じゃないとで進んで触りにいけなかったのだろう。


 「野犬かね。野犬なら対処してもらわんと困るが」


 「一度家畜化された犬なら、人は進んで襲わないのでは?」


 とはいうものの、畜生は畜生だ。野に返れば、人に牙を剥く危険性を忘れることもあろう。そうなれば、人間の脆い肉にはエナメルの鋭利な牙に抗う術は無い。


 吠え声は大きく、それでいて低い。小型犬の上げる神経質で甲高い声では無かった。これがポメラニアンやチワワであれば、例え野犬と化していた所で蹴飛ばして終わりだ。脅威は脅威であるが、大型獣とは比べものにならぬ。


 見回せば、自衛隊員は周囲に居ない。どうやら、さっき声を上げた男の方には結構な死体が向かっていたようだ。事態の収拾のために駆けつけているのだろう。


 放っておいてもよいが、気にはなる。もし野犬だったなら、銃の力を借りねばなるまい。夜闇に乗じて襲われるよりは、昼の内に対処した方が防人諸氏にも気が楽であろう。


 真偽を見定めるため、二人は暫し通りを見つめ続けた。


 すると、暫くして一頭の大型犬が姿を現した。黒銀の毛並みも艶やかな、見事な体躯の大型犬だ。犬というよりも狼と呼ぶ方がしっくりくる、精悍な顔つきをした犬であった。


 毛並みと顔立ちを見るに犬種はシベリアンハスキーであろう。古くは北方の民族が犬ぞりに使った大型犬である。


 しかし、その後に続く者を見て二人は目を見開いた。


 犬の首には赤い首輪が嵌められており、それからはリードが延びていた。そして、リードは人の手に担われている。腐れた黒い血を流す人の手に。


 後ずさりながら吠える犬に繋がれたリード、その先には一人の童女が居た。まだ幼い少女で、外傷は殆どみられない。ただ、生命を失って青白くそまり、死人の唸りを零しているだけだ。


 硬く結ばれた右手には、リードが幾十にも巻き付けてあって離れない。まるで何かに縋り付くように結ばれたリードは、何度も引っ張られて死人の皮膚を裂き、肉を削っているが、解ける気配は全く無かった。


 二人は知る由も無いが、少女はほんの数日前まで生きていた。家族と逃亡する最中に死体に噛まれ、その後飼い犬と共に逃げ込んだ家屋の中で熱病に魘されながら死んだ。


 不安と痛み、家族とはぐれた恐怖から逃げるように愛犬にしがみつきながら。これがただの熱病なら、どれほど良かったか。少女は永遠の眠りに身を横たえるだけで済んだのだから。


 だが少女の命を奪ったのは、死体の毒だ。毒が回りきって少女は死に、そして抜け殻となった遺骸だけが起き上がった。


 遺骸は獣欲に押されて、兎角手近にある肉へと向かった。しかし、犬は人間以上に聡く、起き上がった少女が既に己の飼い主でなくなったことは覚っていた。


 死から逃れる為に走ろうとも、頑丈なリードと首輪が行く手を阻む。そして、距離は短い紐以上に離れてはくれないのだ。この一匹と一体は、今まで延々と終わらぬ哀れな鬼ごっこを続けていた。


 そして、最後にここへ辿り着いたのである。


 死体は昼夜問わず歩き続ける。多少強引に引っ張れば、行きたい方向には行けるので犬は他の死体を避けることはできていた。されど、一番の危難、魂を失った飼い主の肉体からはいつまで経っても逃れられずに居た。


 如何に犬の体力が人間より多く、喰わず眠らずに強いとはいえ限度がある。このままでは数刻もすれば倒れるだろう、そういう段に至って哀れな主従は二人の前に姿を現した。


 目を背けたくなるような光景だ。死した童女が犬のリードに引かれている。悪趣味な戯曲のような光景に、常人であったなら叫びを上げたか目を背けただろう。


 だが、青年は常人ではなかったし、死体に驚くほど初心では無くなっていた。


 周りに死体もおらず、相手は単体。彼は手にした手槍を邪魔にならぬよう片手で担ぎ、跳ねるように駆けてバリケードを飛び出した。


 女が驚いて静止の声をかけるも、青年は止まらない。


 何故なら、彼にも人並みの感性があるからだ。美しい物を美しいと思い、悲壮な様には哀れみを覚える。ただ、彼が狂人であるのは、それを越えて尚、理不尽なまでの自己保全を追求できることなのだ。


 身の危険が殆どないのであれば、彼も常人のような行動を取る。その上で、残酷といえる仕打ちを何の躊躇いも無くできるからこそ青年は狂人なのだ。


 犬は駆け寄る青年に気付くと、軽く牙を剥いて唸った。しかし、リードが撓むと慌てて亡骸の方へ目線をやり後ずさる。俄に近づく危難と既に襲い来る危難、どちらに対応すべきか測り兼ねているのだ。


 青年は犬の警戒に構わずに脚を踏み出し、手槍の間合いに死体を捉える。そして、元々は愛らしい少女の形をしていたものに躊躇いも無く、斜めにカットされて尖った穂先を叩きつけた。


 鋭い先端は眼窩を抉り、薄い眼底の骨を突き破って猛進、脳幹と小脳の一部を穿って頭蓋の内側にぶつかった。


 打突の勢いは亡骸の頭蓋を貫く前に体を襲い、小さな体を吹き飛ばした。少女の亡骸は後ろへと泳ぎ、抵抗する犬との間でピンと張ったリードに引かれて一瞬硬直する。


 そして、数秒動きを止めた後で、糸が切れた人形の如く地に頽れた。二度三度と痙攣を繰り返し、貫かれて虚ろな穴を湛えた眼窩から血と脳漿の混合物を垂れ流す。痙攣は直ぐに止まり、涙の代わりに眼窩から溢れた汚濁も直ぐに勢いを失った。少女の長い旅路は、終わったのだ。


 犬はかつて主人だった物への無体を怒り、吠え声としてぶつける。数秒、けたたましく命を燃やすような激烈さで吠えた後で、はたと犬は動きを止めた。


 そして、倒れ附す主人と青年を見比べて、二度と動かなくなった彼女下へ駆け寄って悲しそうに鼻を鳴らした。


 他の生き物も、これが危ない何かを含んでいるということは分かるらしい。虫は集るが鳥が啄むことのない腐乱死体を、犬は舐めることも出来ぬ口惜しさを埋め合わせるように見つめ続けていた。


 亡骸を穿ったパイプ、その逆端から暴虐の流れがだらりと溢れ出す。青年は、普段通りの濁った無感動な目で主従の悲劇を眺めつつ汚れた得物を投げ捨てた。


 彼は何も言わず、女や自衛隊員が自分をバリケードの中に引っ張り込むまで、やはり色の映らぬ瞳でその様を眺め続けていた…………。

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