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青年と女と天幕

 後書きで雰囲気ぶちこわし、と聞いたので謝辞は前書きで手短に。二ヶ月も待たせて申し訳ない


 Twitterでフォロワーの好きな要素で短編書く とかやってる場合じゃありませんでした

 然程大きくない校舎の前に広がる校庭があった。均された土の地面が広がり、400mのトラックを描く為のガイドラインが設置され、遊具が校舎の対面に密集して置かれた小学校の校庭だ。


 今、その校庭には無数のテントが規則正しく設置されていた。オリーヴドラヴの天幕や、レジャー用と思しき数人で使う為のテントが所狭しと並び、周囲では煮炊きをする煙が立ち上っているのが見えた。


 「暇だなぁ」


 「そうですね」


 そんな校庭の片隅に一組の男女が居た。見上げるような長身の女偉丈夫に葬儀の参列者を連想させる矮躯の青年。彼等は鉈を片手に薪を割っていた。


 青年が支える薪に女は鉈を添え、刃が軽くめり込んだのを確認してから鉈を振り上げ薪ごと台座に叩きつける。すると、まだ瑞々しい生木ではあるが、薪が快音を立てて半分に割れる。


 「二の腕に良い筋肉が付きそうだ」


 「ぷよぷよしているよりは良いのでは?」


 割れた薪を傍らに積み上げ、新しい薪をセットする。慣れれば一人でも出来る作業だが、効率的には二人でやった方が失敗がなくて良い。もう一度置かれた薪に鉈を添えながら、女は刃を振るった。


 二人が武装などを没収された上で自衛隊に保護されてから、一週間が過ぎていた。武器の類いを持つ事は許されず、代わりにテントと食糧を支給されて自衛隊の防備の下、広域避難所に指定されていた小学校の校庭で暮らす。


 それなりに労役を言い渡されることはあるし、自由があるわけではないが死体に怯える必要も無ければ、腹一杯とは言わないがきちんと食べられる物が出てくる環境は、そう悪い物ではなかった。


 「そりゃそうだが、私はボディビルダーになるつもりはないぞ」


 「一振りで死体の頭をかち割れるようになると思えば……」


 再び一振りで薪が割れる。今日二人が言いつけられた労役は薪割りで、近場の街路樹や学校の前庭に生えていた木を切り倒してきた物を薪に加工させられていた。


 人間が生きる以上、煮炊きは絶対に必要で、煮炊きする以上は燃料が不可欠だ。この薪はプロパンガスの節約に使うだけではなく、別の用途にも用いられていた。


 「とはいえなぁ……結局、鉈より銃だろう? 燃やすほど倒せてるわけだし」


 「極論を持ち出されると、ちょっと……」


 そう、死体を燃やすことに使われていた。


 自衛隊員は相応の、少なくとも中隊以上大隊未満――自衛隊は一般的に大隊を持たないが、規模に換算して――の人間が学校には駐屯し、連携を取って避難してきた市民を護っていた。


 ただ、身に纏っている装備の質や垣間見える部隊章などから察するに、組織だって撤退した訳では無く、壊乱した部隊が何とか集まって防衛線を構築したといった印象を受ける。


 それでも遠距離から一方的に死体を破壊出来る火力は健在で、小学校にフラフラと近づいてくる死体を彼等は淡々と処理していった。


 積み上がる亡骸を放っておく訳にもいかず、さりとて埋葬してやる暇も余裕も無いので適当な農地に集めて燃やす。その為の燃料として薪が使われていた。


 本来薪は何ヶ月も乾かして、余計な水分を取り除くことで燃えやすくしてから使うのだが、そんな事をやっている暇も無ければ燃料も沢山あるわけでもない今、仕方が無く水気の多い生木の薪であっても使わざるを得なかったのだ。


 煮炊きにはプロパンガスを使い、それ以外は薪で補う。幸い、火元はあるし燃えやすくするための素材なら幾らでもあったので薪が不完全であっても使うのに苦労はしなかった。例え生木でも、一旦火が移ってしまえば燃えないことはないのだから。


 「しかし、警戒していたのが阿呆らしくなるほど平和だ。もっと早く此処に来られていればな」


 「そうですね」


 再び鉈が一閃。薪が割れ、ルーチンワークに従って新たな薪がセットされた。


 人数がそれなりに居るからか、火力が足りているからか、それとも中の人間が大人しいからかは分からないが避難所は実に平和であった。


 割り当てられたテントで避難してきた人間は、最初から居た者も後から来た者も礼儀正しく暮らし、自衛隊員には損耗も出ず防衛戦を維持出来ているらしい。


 むしろ、その辺で拾ってきたトラックや自衛隊のトラック、後は自分達が乗ってきていたキャンピングカーを脚にして物資を集めてさえいた。たまに車が校庭に乗り入れられ、スーパーから略奪、もとい徴発してきたであろう物資を降ろしていることから明白だ。


 防衛ではなく偵察や調達に人員を割いているということは、それ程の余裕があるということに違いがない。人数がカツカツだったり防備に不足があるのであれば、外に誰かを送り出すことなど出来ないだろうから。


 確かに物資が足りずに枯死するのは恐ろしいが、無理に出て行って防備に穴が開き拠点がやられるのは更に酷い悪夢だ。少なくとも、まともな頭を持った指揮官が居るのであれば、そんな無茶はするまい。


 「とはいえ……何時までも安全、という訳でもなかろうしな」


 何度目になるかも忘れたが、鉈を振り上げながら女は呟いた。青年は、何も言わずに薪をセットし続けている。


 「今はまだ良いが、古今補給が絶たれ援軍の望みもない城での籠城の結末なんぞ、今更論ずるまでもないしなぁ」


 「城主が腹を切れば降伏できた分、昔のがマシでしょう」


 「気分は降伏しても焼かれる都市国家の市民、といった所か」


 今までで一番の快音が、女がやけくそ気味に鉈を振り下ろしている事を示していた。力がこもったが故に、今まで二つに分かれて落ちるだけだった薪が弾けて宙を舞う。その内の一本は青年の顔面へと飛来するコースを描いていたが……。


 「略奪だけならマシなんですがね」


 気軽に言いつつ、彼は左手に持っていた次に置こうとしていた薪で飛んできた薪をガードした。といっても難しい事ではない、元より保持し持ち上げていた薪を反射的に飛んでくる物の盾にしただけだ。それなりの反射神経と運動能力があれば、誰にでも出来る芸当だろう。


 だが、盾にした薪を少し動かして覗いた右目は、女の目を射貫いて「次はないぞ」と告げていた。淀んで濁った色の瞳は、見ていると怖気のような物を感じる程に鈍く、そして黒く陽光を反射して光っていた。


 しかし、女も慣れたもので、軽く肩を竦める。それで謝罪か、と問いたくなるような態度であったが、常の事だと青年は更に問い詰めることはせず、何事もなかったかのように薪割りは再開された。


 今は良い。死体を防ぐ事ができているのだから。襲撃に怯えず食事ができ、安心して眠れるのは得がたい幸福だ。多少寝心地が悪かったり不便なのに殊更の不満はない。キャンピングカーとて、住環境が特筆するほど良い訳では無かったのだから。


 だが、後が怖い。防備は何時まで完璧か? 武器弾薬は何時まで保つか? そして、やはり此処は孤立無援の敗残兵が作った最後の砦なのか? という疑問が尽きる事無く湧いてくる。


 現在は目に見える場所に死体が寄って来られないほど自衛隊員達は頑張っている。しかし、それが何時まで保つだろうか?


 死体は尽きる事がないほど居るのだ。日本中から寄ってくる、とは言わないが大阪府だけでも膨大な数で、少しずつ躙るように彼等は寄ってくる。その重圧に、この避難所は耐えられるか?


 現状であれば十分に可能だ。だが、死体の数が百に達し千を越え万が満ちた時、全ては砂浜に作った堤防よりも簡単に崩れ去るだろう。


 死体は夜の間に移動し、昼の間は負の走光性によって屋内へ避難するためバラバラに動き出していてもいつの間にやら集合し、集団を形成する。それは都市部が近ければ近いほど顕著で、巨大な軍団が数日で形成されるだろう。


 目に見える陣を敷く訳では無いが、死体は包囲するのだ。圧倒的な支配地域という陣を用いて防備する人間を遠巻きに囲い込む。そして、最後には比肩しうる物無き物量を用いて、囲んだ哀れな得物を揉み潰す。


 シンプルだからこそ、破壊力が高い。これに抗しうるのは、都市区画ごと死体を吹き飛ばす飽和爆撃程度のものであろう。。


 彼等は死を怖れることなく淡々と突き進んでくる軍団だ。前の一体がやられても後ろの一体が亡骸を踏み越えて押し寄せてくる。それが最後の一体まで止むことなく続く……理屈が正しければ、自衛隊の兵士達は遠くない将来、独ソ戦で独逸国防軍兵士が味わったのと同質の恐怖を味わう事となるだろう。


 それこそ、スコップで死体と切り結ぶ悪夢の戦場だ。より性質が悪い事に、今回の戦争は不衛生な塹壕で感染するどんな感染症より恐ろしい物が蔓延する混沌の坩堝である。噛み付かれれば倒れ、擦過傷から感染し、仲間の治療でも移る危険性が絶えない。


 更には、動く死体へと変貌する前段階が極めて厄介なのだ。健康な人間が死体に噛まれれば高熱を発して倒れ、三日ほどしてから死に至る。症状だけ見れば、ただの風邪に近く判別は専門家でなければ不可能だろう。


 状況が悪化すれば、咳一つ、くしゃみ一つで疑われる。もしかして、何らかの作業中に感染したのではなかろうか、と。


 一度そういった疑念が蔓延したならば、避難所はソビエトの密告合戦並に悲惨な様相を呈することとなろう。


 彼等が安全を実感して以後、考え続けているのは末期状態に陥った後、どのように活動するかという行動指針であった。


 誰だって死にたくないから生き残るのは当たり前、どうやって生き延びるかこそが論ずる上で一番重要な問題だ。


 物資も武器もなく、死体が犇めく中に逃げ出した所で半日も生き延びられたら御の字というところであろう。それなら、逃げ出した所で生き延びたとは言えない。


 如何に生きたまま五体満足で脱するか。最大の関心事で一番の前提が、現状で最も難事といえることなのが辛かった。


 「やれやれ、どうしたものやら」


 再び快音、薪が割られる音だけが淡々と続いて積み上がっていった。いつの間にやら、そこそこの数があった薪の数が随分と減っていた。


 「……もうそんなに割ったのか?」


 青年が次の薪をセットした時、二人に声がかけられた。接近自体は足音と装具がこすれる音で気付いていたが、急襲される覚えがないので無視していただけだ。しかし、話しかけられれば無視はできない。


 視線を上げれば、そこには煙草を咥えた一人の自衛隊員が立っていた。見覚えはないが、ここの守備に就いている隊員だろう。


 「ああ、まだ全部ではないが、急いだ方がいいかね?」


 「いや、まだまだストック出来ているから全然構わないんだが……今日はもういいぞ、と言いに来たんだ」


 毎日何らかの労役が言い渡されるが、その労役は大抵軽い物だし長時間やらされることはない。子供のおもりだったり掃除だったり、今日みたいな薪割りや彼等が集めてきた物資の搬入だったり。何にしたところで重大事は任されない。


 だから、積み上げてあった薪の殆どが割られているのは隊員からすれば、ちょっとした驚きだった。


 人気のない仕事なのだ。手は痛むし、手袋をしていても木の皮が突き刺さるし挙げ句に虫も出る。しゃがんだままの作業が多いので腰を痛めることも不人気を加速させていた。


 そんな事もあって、薪割りは本当にそこそこの数で引き上げるよう作業するのが常である。故に作業の様子を休憩がてら確認して、十分であれば休養を命ずるよう言いつけられた隊員は驚いていたのだ。


 これほど真面目に作業する奴が居るなんて、という驚きだ。正直、コツが分からないと言って数本しか割らない奴も居るほどなのだから。


 それでいて、そんな不真面目な人間にも強く出られないのが隊員にフラストレーションを溜めているのだが、ここまで真面目に勤しまれると中々に驚かされる。特別な報酬が出る訳では無いというのに。


 「そうかい。それじゃあ休むか」


 「ええ」


 やりかけていた薪を手早く割ると、二人は積み上げていた薪を片隅に押しやって伸びを始めた。何時間かしゃがんでいたせいで、筋が固まって痛いらしい。


 運ぶのは別の仕事なので、これで労役は終わりである。二人は嵌めていた軍手を外すと、鉈と一緒に作業場に置いてあったケースに放り込み……手を繋いで自分のテントへと戻っていった。


 しかも、指を絡めての恋人繋ぎでだ。


 肩を寄せ合い指を絡めて引き上げる二人を見つめ、隊員は煙草の灰を落として呟いた。


 「いいなぁ、こんな有様でもお相手がいると…………」













 「ああ、やれやれ、真面目ったらしく仕事をするのは疲れるな」


 大きく溜息を吐きながら、女は手狭なテントに長躯を横たえた。少人数用の明らかに民生品と思しきテントで、表にでかでかと小学校備品、と書き付けてあった。


 中には二人と寝袋が二つ、後はキャンピングカーから運び出した物資がリュックサックやバックにねじ込んで放り出されている。その中には、食糧は見受けられない。


 大勢を受け入れるため、食糧を供出してくれと装備の没収がてら迂遠な命令を受けたのだ。どのみち、強硬に所有権を主張しようと周囲から反発が来るだけなので、二人は要請に粛々と従った。毎日配給や炊き出しがあるので餓えていないから、今の所は不満はないのだが。


 「我慢してください。そういう方針なんですから」


 淡々と答えつつ青年は首を回し、筋を解す。薪を拾って放るだけに見えて、動かす場所と動かさない場所の差が大きくて疲れが溜まるのだ。


 それぞれ疲れを癒やそうとしている二人に、婚約中といった間柄にある独特の甘ったるい空気はない。


 当然だろう、単なるフェイクでしかないのだから。あの隊員の前で見せつけるように指を絡ませたのも、同じテントに居る事に違和感を覚えさせないためのポーズであった。


 されど、公衆の面前で手を繋いだり肩を寄せ合ったりするのはやり過ぎではなかろうか、と青年は常々思っていたが、女は彼の反応を見て遊んでいる節があるので言っても止めはするまい。


 流石にキスしてこようとしてきた時は脇腹に肘をねじ込んで抵抗したが。興が乗ると何処までもふざける所が女にはあるので、青年には若干の心労が蓄積しつつあった。


 それでも止めようと言い出さないのは、一緒に居る事の利点が大きいからだ。個人でできる事は限られ、対してバディを組めるメリットは大きい。それが、相手が何をしようとしているか大まかに察してくれる目標を共有する人物であるなら特にだ。


 ただ、青年にはメリット以外にも女に付き合っている理由が一つだけあることを今更になって気付いた。


 あの死体が起き上がる事件の前日、夕日に燃える屋上で言われた一言。お前は同類か? という問いかけが、心の奥に引っかかっているのだ。


 今までは忙しく、生活の維持に必死で考える事は少なかった。眠りに落ちる寸前やら、暇を持て余す見張りの時位にしか益体もない考えを繰る時間がなかったので気にならなかったのだが、今は二人で狭い所に押し込まれて時間が有り余っている。


 となれば、当然考えてしまうのだ。


 言われた直後から今まで、何事も無かったかのように女は振る舞っているが、青年はずっと気にしていた。


 自分が歪んでいる事は重々承知の上である。自己中心的と形容して剰り在る独善と生存への欲求。しかして、その生存にも殊更の意味が見いだしている訳でもなく、死ねない意味ですら死にたくないからというだけに過ぎない為体。あまりに無様だ。


 この歪な自我を女も持っているのだろうか? あの奇妙な笑みの向こうに何が蟠っているのか、青年には測り兼ねていた。


 とはいえ、今までの振る舞いを見る以上、尋常の精神でないことだけは確かだ。普通の人間は、彼処まで簡単に人間を殺す事はできない。そういう風に作られているのだ。


 戦場の狂気の最中でさえ、見える敵に引き金を引けた新兵は半数を下回ったという統計がある。殺さねば死ぬような状況に追い込まれて尚、人は人を容易く殺せる訳では無いのだ。


 だが、女は迷わず殺した。酷く痛めつけていたから、見逃せば害を為せなかったであろう男に向かって簡単に引き金を絞って見せた。それは間違い無く異常な事だ。


 日常が終わるまでのメディアは、何か叩く物を求めて、やれゲームなどの娯楽は残虐性を加速させるというが、そんな簡単な事では無い。仮想の世界で引き金を絞るとの、生きた人間に刃を突き立てるのは、全く違う事なのだ。そんな事くらい、幼い子供ですら理解する。


 斯様な遊びを好んだ末に殺しを働く者は、根源から壊れているのだ。義務も保身もなしに人を迷わず殺せるのは、狂人の業に他ならない。


 その点を勘案すれば、他人を見捨てたり殺す事に毛筋ほどの悔恨も抱かぬ青年は、紛れもなく狂人だ。当人も自己を俯瞰し、その事を認識はしていた。


 だが、隣に同じ類系と思われる狂人が居て平気かと問われれば、首を横に振るしか無い。


 不気味さや生理的嫌悪で、ではない。狂人が狂人たる所以は、常人と同じ感想を抱かないからだ。青年にとって、女が異常であることなど然程問題ではないのだ。


 気になるのは、その異常性が何時己に向けられるのか、ということ。


 女が自分のように自己保全を異常なまでに尊ぶ狂人であれば、まだよい。考えている事は同じだから、対処は楽だ。しくじらない限り、互いに利用するメリットがある限り両者は決して裏切らずに居られる。


 デメリットなど、命の危機に陥った時に救援が期待出来ないこと程度だろう。だが、現状では迂闊に死にかける方が悪いとしか言えないので仕方あるまい。


 だが、女がもしもベクトルの異なる、青年より更に性質の悪い異常性を持っていればどうなるか。今までの互助関係が、ただ単に天秤が奇跡的に釣り合っただけの危うい状況でしかなかったとすれば……。


 切っ掛けによって、容易く事態は転がり始めるだろう。


 それが良い方向である可能性は、悪い方と比べればずっと低い筈だ。希望的観測をすると酷い目に遭うのが、正常の範囲外に出た時の常識であるのなら、楽観はできなかった。


 自分は結局、女をどうするべきなのか……。


 そう考えている時、テントの入り口辺りが叩かれて間抜けな音が響いた。人影が青いテントにぼんやりと浮かんでいる。ノックの音だった。


 「はいはい、何かね?」


 対人コミュニケーション担当の女が、陽気な声を出しながら体を起こして応対に出た。


 ふと、自分以上の狂人なのではと懸念している相手に人への応対を任せている自分とは一体? という疑念が湧いてくる。彼女の方が得意だし、楽だから任せていたが、よくよく考えるとどうなんだろうと思ったのだ。


 青年が無表情の向こうで煩悶しているのを知ってか知らずか、女は普段通りの役割を何事も無かったかのように果たしていた。


 「ああ、君か。配給かい?」


 テントの前には、一人の男が立っていた。平服姿の年若く整った容貌の美青年で、その手に段ボールの箱を担っている。整髪料が無いから酷く無造作な髪型になっているが、それが返って様になる現代的な美男であった。


 「ええ、嗜好品を配って回ってます」



 人好きしそうな笑みを浮かべながら、彼は箱の中身を女に見せた。ちょっとした菓子やら煙草が詰められており、子供が喜びそうな漫画なども飛び飛びではあるが収められている。


 「おお! ありがたいな」


 普段通りの笑みの喜色を更に強くしつつ、女は箱に手を突っ込んで煙草を手に取った。気に入りの銘柄ではないが、この際似たフレーバーであれば文句は言わない。


 「こ……んっ、なぁ、何か欲しい物はあるかダーリン」


 冗談めかした呼びかけに、青年は怖気を感じつつも渋面を作ることだけは必死に耐えて首を振った。今は甘味も娯楽も欲しい気分では無いし、女のように愛煙家でもない。だから、自分の分で煙草を貰っても構わないと言ってやる。


 女は遠慮なく煙草を二箱手に取った。そして、運んできた美男に礼を言う。彼は平服を纏っているから自衛隊員でない事は明らかなように、女達と同じくボランティアで働いている協力者だ。主に物資の配給を任されている所から、仕事ぶりは相当真面目なのだろう。


 嬉しそうに煙草を弄ぶ女を見て美男は笑みを強め、更に一つ煙草を取り出して、彼女の手に握らせた。決して嫋やかとはいえない、機械油や銃のグリップで作られたタコが目立つ手を包む手付きには、何か単なる好意以上の何かが滲んでいるように見える。


 「おや、いいのかい?」


 「特別ですよ」


 何でも無いことのように問う女に、美男は腰が蕩けそうになる笑みと共に答えた。明らかに他意を含んだ行為であるが、やはり女は普通に礼を言って煙草の封を破り始めた。


 「それじゃあまた」


 「ああ、すまないな」


 来た時と同じく、去る時もにこやかな笑みを絶やさずに美男はテントの前を辞した。こんな有様でも微かにコロンの匂いを漂わせていたのは、何の拘りだろうか。


 しかし、女にとっては煙草の香気の方が重要だったらしい。彼女は取り出した煙草を華の前に持っていくと、恍惚とした顔で真新しくぴんと延びた煙草の香りを肺一杯に取り込んだ。


 「ん~、愛飲してるのと比べると落ちるが、やはり良い匂いだな」


 普段の若干外連味がある強い笑みとは異なる、髀肉の落ちた蕩けるような笑みを浮かべながら女は吐息する。愛好家にとって、煙草の香気は何よりも蠱惑的に香るのだろう。


 非喫煙者である青年には理解し難い感覚だ。女もニコチン中毒という程では無いが、かなり吸う方なので執着は凄まじい。個人として、そこまで思い入れがある物が無い青年には、女が何を感じているか想像することさえ適わなかった。


 ただ、素っ気なく吸うなら外でお願いします、と言うだけだ。今更遠回しな健康被害が云々と宣うつもりは無いが、何にしたところで煙いことは煙い。


 「分かってるよ。大事に吸わないといけないからなぁ。くふふ、ついてるぞ、懸想されるのもたまには悪くないものだ」


 ごろんと転がりながら、火を付けるでも無く煙草を咥える女の言葉に、青年は眉尻を上げた。


 まぁ、阿呆でも無いし彼処まで露骨に振る舞われれば、そういった事に興味がない青年でさえ配給を持って美男の意図は分かる。相手が居る前で堂々やるのはどうかと思うが、ここまでやる気が無さそうで外見が優れぬ男であれば、己に自信がある人間ならアプローチをしかけないことも無いとは言い切れない。


 何せ、世の中には略奪愛を好むという、困った性癖の持ち主も居るのだし。


 「何を堂々と言ってるんですか」


 眇になる青年を女は面白そうに見ていた。彼が不機嫌になった理由を考えて楽しんでいるのだろう。そして、嫉妬などという幼稚な理由でないことくらいは察しているだろうが、女は目一杯楽しむつもりなのか嫌らしい笑みを形作った。


 「何だ、私が寝取られるのが不安か?」


 「寝た覚えがないんですが?」


 笑みを強めるていく女と対照的に、青年の無表情はどんどんと冷えていった。明らかに、こいつ鬱陶しいな、と思っていることを微塵も隠そうともしない。


 「まぁ、確かにあれは相当な美男だからな。私はお前の面構えも嫌いではないが、受けが良いのはあっちだろう。上手くいけば、雑誌の読者モデルくらいにはなれるんじゃないか?」


 言い換えるなら、その程度の美男でしかない、ともとれるが女も分かって言ってるのだろう。良くも悪くも一山幾らの美男だ。


 「私は面食いではないからな、正直面は三番目くらいに気にする」


 にたにたと笑う女を見返しながら、敢えて青年は何も言わない。一番目と二番目は何だと聞いて欲しがっている面だと分かっているからだ。そして、聞けば聞いたで面倒くさい事になるのは分かりきっていた。


 「どうした、気にならないか?」


 同時に、聞かねば聞かなかったで面倒くさい事になるとも分かっている。この女は、人で遊ぶのに躊躇いを覚えない人種だ。絡まれたなら、諦めてしまうのが一番楽なのだろう。


 「二番目は金だが、一番目は気が合うことだと思っていてな」


 顔を寄せながら女は得物を追い詰めた猫の様に嫌らしい笑みを浮かべた。色っぽい笑いではない、ネズミを弄ぶ嗜虐的好奇心に満ちた顔であった。


 青年が女との間に色っぽい関係が似合わないと思っているが、女も同じ事を思っているとは限らない。しかし、態度から察するに考えは同じであるように思えていた。


 だが、ここ最近は攻勢が激しい。身を寄せ、何かを囁き、間合いを詰めてくる。少なくとも、性欲云々ではないと思うのだが……。


 「あんまり邪険にするなよ、まだ居るからな」


 囁くような声を聞き、青年は女の肩越しに視線を巡らせた。まだテントの青く呆けた幕の向こうにうっすらとだが人影が見受けられる。


 「凸凹カップルである事に自覚を持て。何かされる事は無いと思うが、疑われて良い事は無いからな」


 暫し女の横顔と影に目線をやってから、青年は互いの体の間で抵抗に用いていた腕から力を抜いた。


 すると、女の長躯が撓垂れかかってきて、まろやかな女体の柔らかさが体に浸透した。女は出る所は目を引くほど出ているし、対称的に引っ込んでいるところは見事にくびれている。普通の男なら発憤を留めることが難しい、見事な肢体であった。


 鼻腔を石鹸の微かな臭いと、汗の残り香が擽った。並の男なら、ここで色々と耐えかねていた所だろうが、青年の頭は冷え切っていた。


 どんなコミュニティの中にも、面倒で厄介な事はある。特に、人の物に興味を矢鱈と示す鬱陶しい奴はどこにでも居るものだ。


 ここに来て、こんな下世話な事で面倒くさい目に遭おうとは、青年も予測はしていなかった。相手が本気なのか遊びなのか、十中八九後者だろうが面倒な事に違いはあるまい。


 体を預けられるに任せ、青年は全身の力を抜いて横たわり、枕代わりに使っていたリュックに背を預ける。外からシルエットが見えるのであれば、むつみ合っているように見えることだろう。


 心の底から鬱陶しそうに嘆息する青年の首筋に顎を預けながら、女は言う。


 「まぁ、噂を聞く限り、結構手当たり次第に愛想を振りまいているようではあるからな。警戒するに越した事はないさ……煙草を融通してくれる分には、私も文句は無い」


 相手も相手だが、女も女だ。青年は疎んだ筈の相手を一瞬だが、哀れだと感じてしまった。数をごまかすのも楽では無かろうに。或いは、自分の分を愛想を使うのに用いているのだろうか?


 それは聞いて見なければ分からないが、自分が斟酌するような事案ではないか、と思い直し、青年は力を抜きながら女に一言告げた。


 「先輩、重いです。痩せるか乳削るかどっちか選んでください」


 「何ぉ!?」


 お前、乳が薄い方が好きなのか? 変態!? やら、全ての胸に恵まれない女性に腹切って詫びてください。とかいう下らないやりとりがテントの中に響いた…………。













 凄まじい寒さに襲われて、青年は目を覚ました。そして、気がつくと目の前が暗い。


 何やら、心底しょーもない夢を見たな、とか思いつつ起き上がるべく手をつけば、不思議と手は床へと沈み込んでいった。どれだけ力をかけても手は沈み、痺れるような冷たさだけが伝わってくる。


 これは一体どうしたことだろうか? と考えていると、不思議とぼんやりする頭に声が響き渡ってきた。犬の鳴き声だ。何かを案ずるような声に、青年の脳は一瞬で覚醒した。


 これはカノンの声だ。そして、カノンが声を荒げるなど、危急の敵を報せる時だけである。警報器の音を聞いて緊張しないように、頼もしい従僕からの問いかけを聞いて青年の脳は、闘争に備えて鈍った回転を一挙に取り戻した。


 だが、回転が取り戻され、現実を認識するにつれて、あれ? 何で寝てた? という疑問がわき上がり、暗さと息苦しさに違和感を覚える。そもそも、己は下らない夢を見る前に何をしていたのか。


 思考が数秒空転した後、思い出した。自分がさっきまで、雪かきのために屋根に上っていたことを。


 青年は大阪、雪があまり降らない地域の生まれだ。都市部ともなれば、微かに降ることはあれども積もることなど殆どない。小学生が雪の溶けづらいグラウンドの雪に心を躍らせ、泥なのか雪なのか判別し辛い何かで遊ぶくらいだ。


 であっても、雪が建物を圧迫するすさまじさは、インターネットを通じて学んでいた。耐雪構造の家でさえ、雪かきをサボった結果、崩れたり歪んだりしたりするという。


 となれば、この家で越冬する事を決めた以上、屋根の雪を下ろさなければならない。寝ている間に破滅的な音が響いたと思えば、次の瞬間には生き埋めになったなど、笑い話にもなるまいて。


 なので、青年は意気込んで屋根の雪を下ろすべく物置からシャベルと脚立を取り出して屋根に上ったが、どうなったかは現状を見れば説明するまでもなかろう。


 屋根の上になど初めて昇る上、雪下ろしなど産まれてこの方したことの無かった青年に、ぶっつけで二階の屋根に上って雪下ろしをするなど無理があったのだ。


 青年が生きているのは、単に幸運だったからに過ぎない。頭から落ちず、一階と二階の間にあった雨樋にぶつかってワンクッション置いた上で、こんもりと積もった庭の雪に落ちられたのだから。


 雪は一mと少し積もっており、人間一人が落着する衝撃を吸収するには十分であった。それと同時に、落ちた人間を圧殺するほど高くも積もっておらず、柔らかかった事もあって窒息による死ももたらさなかった。


 そして、頭を打っていないことも大きい。致命傷にならずとも、頭を打っての昏倒から復帰するには時間が掛かる。ショックと驚き、軽い衝撃による気絶だったので、青年は間を置かず目覚めることができた。そうでなければ、凍死していたであろう。


 いくつかの要素が良い方に働いて、青年は死の手から免れたのである。これを幸運と言わずして何と言うべきか。


 雪をかき分けながら、体を引き上げて顔を出す。作業の役には立たないからとリビングに残してきたカノンが、窓越しに必死で鳴いている。積もった雪のせいでリビングを伺うことはできないが、窓と雪に阻まれて尚響く声が、彼女からの心配を伝えていた。


 あまりの無様さに、青年は顔を覆った。これで死んでいたらどうなっていたのだろうか。雪に埋もれて凍り付き、来年の春に動く死体となって這いだして、カノンは家の中で餓死。キャンピングカーは永遠に此処に留まり、自分は閉鎖された庭の中で朽ち果てるまで彷徨い続けるだけの運命を負う。


 ぞっとしない想像だった。生きていられる事が、本当に幸運で幸福であると実感出来る。やはり、手から溢れ落ちかけなければ、人間はありがたさを完全に認識することはできないのである。


 多分、心底下らない死に方をしかかったから、あんな心底くだらない昔の夢を見たのだろう。


 「……次は命綱を用意するか」


 呟いてから、カノンに無事を伝えるべく声を上げた青年はキャンピングカーからロープを持って来ようと考えた。


 彼が、命綱の結び方によっては腰を痛める事を知るのは数時間後のことである…………。

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