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青年と夢とストーブ

 穏やかな田舎道を一台のキャンピングカーが征く。蒼色に染め抜かれた中型の車体は、フラフラと放置された車を蛇行して躱しながら中央分離帯もない適当な二車線道路を走っていた。


 その屋根で、一人の女が堂々と突っ立っている。本来ならば立つような場所では無いのだが、徐行しているのを良いことに見事な体重移動で堂々と立っていた。


 彼女の手には一つの双眼鏡。彼女は走る車の上で器用に立ちながら、先の道が潰されていないかを偵察していたのだ。


 長身の女が車高の高い車に乗って周囲を睥睨するのだから、ただでさえ広い視界は更に広がる。まるで地平線の向こうでものぞき込もうとするような意気込みで忙しなく双眼鏡を巡らせていた女であるが、暫くすると諦めるかのように大きくと息を溢し、双眼鏡から手を放す。


 放り出された双眼鏡は重力に従って落下するも、通された紐に束縛されて軌道が変わり、豊かに張り出した母性の丘へと落着する。柔らかな弾力に弾かれる双眼鏡を余所に、女は苛立たしげに自らが立つ屋根、丁度真下が運転席にあたる部分を踏みならした。


 すると、キャンピングカーは穏やかに減速し、幾らも進まないうちに足を止める。今のは遠方の様子を伺うべく車上に立った女が、安全に下りるため運転手と交わした合図なのだ。


 完全に車が停止したことを認めると、彼女は長躯を翻して軽々と車から飛び降り、助手席側に着地する。彼女のブーツが地面を蹴るのと同時に、ドアロックが解除される音が響いた。


 左ハンドルの運転席には、仏頂面の青年が並んでいる。葬儀の参列者というよりも、葬列に見送られる方が似合いそうな風情の彼は、何もかもがどうでもよさそうな貼り付けた無表情で女を見つめていた。


 しかし、身も凍りそうな無機質な視線を受け止めているにも拘わらず、女は何事も無かったかのように体を助手席に滑り込ませた。外国人を基準に作ったシートは、大柄な彼女を設えたかのように受け止める。


 「駄目だ駄目だ。地平線までなぁんにもないぞ。どうなっているんだ、クソが」


 座席に腰を落ち着けるが早いか、女は煙草を懐から煙草を引っ張り出してソフトパックのフィルターから一本を引っ張り出す。白く短い煙草は、彼女の愛飲品ではなく、無人のコンビニから略奪してきた有り触れた二等品煙草であった。


 火が灯される前にパワーウィンドウに青年の指が伸び、窓をほんの少しだけ開ける。煙草の香りは吸わない人間にとって、理解し難い悪臭を放つ物である。しかし、幾ら言っても聞かない相手なので、できる事と言えば煙を追い出すことを無言の抗議とするだけであった。


 「カーナビが役に立たないから遠回りし続けたら、もう何処か分からんぞ畜生め」


 煙草に火を移し、一口吸い込んで煙を肺に送って勢いよく吐き出す。若干窄められた口から零れた煙は、空気を汚しながら開かれたウィンドウから虚空へと融け去って行く。一応、女にも同乗者に煙を吐きかけない程度の良心はあったようだ。


 この二人、人間が生き残っている可能性がある場所として伊丹にある自衛隊の駐屯地を目指しているのだが、如何せん東大阪から伊丹へと向かうルートは殆どが騒動で不通となっており、遠回りを強いられていた。


 とはいえ、土地勘がある訳でも無い場所を地図とコンパスだけを頼りに蛇行しながらあてどなく進み続ければ、道を見失うのは必定。大学を出て二週間は経とうという時期に至り、二人は殆ど完全に遭難していた。


 人類の文明圏で遭難といっても妙な話だが、実際に遭難している側としては笑えない。田舎のどれだけ進んでも代わり映えの無い風景と、これと言って目印として現在地を割り出すのに使えない建物達。GPSが機能を喪失したカーナビは大まかな位置しか示してくれず、肝心のナビゲーションシステムは主要幹線道路を通れと言うばかりで全く役に立たない。


 現代文明に頼り切り、詳細な道を下調べしたり覚えるという行為を放棄した人間にとって、例え人類の文明圏であるにも拘わらず遭難するのは然程難しい事では無いのだ。


 現在は、とりあえずいける所まで行って看板を頼りに進む、という実に当て所ない旅路を辿っているのだが、カーナビが示す大まかな位置に従えば交野市の近辺に近づいている筈であった。


 「この辺まで来たら、もう祝園の駐屯地まで行った方が近くないですかね」


 つまらなそうに吐き捨てながら、青年がハンドルを切ってフラフラ道を歩いていた人影を避けた。無論、生者では無い。食い荒らされて顔面の骨格と腹腔を晒した、性別さえ判別できない動く亡骸だ。


 周囲は田圃に囲まれているが、少し向こうには電車も通っているこの辺りでは、死体もそこそこの数が彷徨いていた。密集した都市部ほどでは無いが、決して少ないとは言い切れない数の死体が彷徨い歩いている。


 この死体が、二人の道行きを不安定にする要素の一つでもあった。当然だろう、映画でもあるまいし、車は人間をはね飛ばしながら走れるほど頑丈にはできていないのだ。


 特に、死体に襲撃されて生者の殆どが食い荒らされた場所では、動く死体が群れを成して道を埋め、車の進路を塞いでくる。強引に突破できない以上、迂回するしか無いのだが、地方に行っても相応の人口を抱える大阪では何処に行っても死体を避けきれず、迂回した先でも更に迂回させられるという実に不毛な事態が繰り返されるのだ。


 もう、大阪全土を死体密集地と考え、通過するのは困難だとみた方が良いほどだった。宇宙からの俯瞰視点で見れば、大阪はほぼ全面が建物のグレーで覆われた人口密集地点。死体が多く居るのは明白なのだ。


 「山越えは山越えで難しいだろ。それに、そこは分屯地じゃなかったか? 規模からして大したもんじゃないと思うが」


 「かなり大きな弾薬集積地だったと記憶してますが」


 それは朝鮮戦争の時期までだ阿呆、と女は吐き捨て煙草の灰を灰皿に落とした。一応現在でも弾薬集積地として機能しているが、かつてほどの規模ではない。


 「第一、そこまで行くなら宇治の駐屯地の方がいいだろ」


 「京奈和自動車道が使えるなら、悪くないとは思うんですけどね……」


 結局、どれだけ考えた所で人間の居住区が姿を変えた、亡骸の波濤が進路を阻む。むしろ、東大阪の惨状を見た今では、駐屯地も人間が生きているかどうか妖しく感じられていた。


 「全く、何処まで行っても放置車両と腐れ汁をまき散らす死体の群れか。勘弁願いたいね……お?」


 うんざりした様子でフィルターに犬歯を突き立てながら煙を燻らせていた女が、何かを見つけたのか身を乗り出した。その先には、一台の警察車両が放棄されていた。


 「おい、止めろ」


 返事の代わりに行動で肯定がなされ、車は徐行で走っていたこともあって直ぐに止まった。


 警察車両は良い略奪対象だ。この事態の最中に飛び出していった車なら、何らかの情報を積んでいたり、予備の執行実包が手に入ることもある。警察官の亡骸が残っていたなら、拳銃も手に入って尚更美味しい獲物となる。


 停車措置を終えるのを待たず、女はダッシュボードに置いてある装備をさっさと身につけて表に出て行った。


 装備といっても、死体を斃した際に飛沫が目や口に入るのを防ぐ為のバンダナやゴーグルに、少しでも肉が食いちぎられるまでの時間を延ばす為のグローブやジャケット程度の物であるが。


 だが、これが存外馬鹿にならない。死体の膂力や咀嚼力は生前より数段上がっており、被服程度では防備にもならないが、歯が肉に食い込むまで数秒の時間は稼げるのだ。捕まっても、食いちぎられるまでに猶予があるか無いかで生存率もかなり違ってくる。二人は今までの経験で、その事実を十分に実感していた。


 もう春先で暖かくなりつつある中、大仰な革ジャンを着て、顔を厚手の布で覆うと流石に過ごしづらくなるが。死ぬよりは良い。厚さも息苦しさも、生きているからこそ味わえるのだから。


 それに、女にも青年にも、いくら動きやすいからといって肉を喰らおうとする死体が跋扈する中を半袖で動くだけの度胸は無かった。


 女は打ち捨てられたパトカーへと近寄りながら、ぐるぐると片手でバールを振り回す。これぞバールというような、真っ赤に染められたL字型の鉄の棒だ。これが頑丈な上に取り回しが簡単で、殴るのも突くのも自在と来れば、単独の死体を相手取るのに勝手がかなり良い得物である。


 うっすらと先端に血錆を纏わり付かせたバールは、立ち寄った作業現場で拾われて以来、女のメインアームとして死体の血を啜り続けている。


 女の気配に反応し、一体の死体がふらりと現れた。腐汁の染みた作業着を纏った中年男性は、白濁した瞳であらぬ方向を睨め付けながら蛆の這う両手を突き出し、定まらぬ歩みで瑞々しい肉を求めて滲み寄る。


 動いてはならず、丁重に扱われるべき物が腐り果てて這い回り、底知れぬ食欲と獣性を自らに向けてくる嫌悪感は凄まじい物だ。見る者に怖気と生理的嫌悪、そして深い恐怖を植え付ける。


 死という、全ての人間が恐れる物が具現化して襲いかかる恐怖。目にすれば、動きはこわばり思考は濁る。まともな精神の人間で、これと相対するのは極めて困難であろう。


 だが、女は頓着しない。恐怖も怖気も感じないというように滑らかな動作でバールを振り上げ、釘抜きが備わった先端を目に突き立てた。


 釘を抜くため楔状に裂けた先端は、腐れた眼球を破裂させながら薄い眼底を容易く砕き、汚泥と化しつつある脳をかき回す。気味の悪い水音を立てながら、惰性で残留していた血液が圧に負けて押し出され、それに伴って眼球が脱落する。


 しかし、女はそこで動きを止めず、突き刺さったバールを渾身で振り抜き、頭が刺さったまま手近な放置車両に叩き付けた。


 鈍く濡れた音が響き、頭蓋が砕けて拉げた。血潮が飛び散り、黒い革ジャンに恨み言のようにへばりつくが、撥水性に負けて直ぐに滑り落ちていく。無念を物語る黒く粘性の高い血液は、ただ地面を汚すだけに終わった。


 強烈な一撃に中枢を破壊された体は数度痙攣した後に脱力し、本当の意味での死体に戻る。そして、打ち付けられた車体から滑り落ちるように体は頽れた。恨みがましそうに虚ろな目を見開いた頭をバールに残して。


 「おいおい、そんな恨みがましそうな目で見るなよ」


 取り残された頭を目線の高さに合わせ、濁った瞳を見つめ返しながら女は笑った。バールは人体を効率的に破壊できて良いのだが、突き刺して使うとこうなることが多いのが困りものであった。どうにも死体が壊れた時、体が脱力すると関節が重みに耐えられず千切れてしまうらしい。とはいえ、殴打で一撃の下に機能停止に追い込むのは少し難しいので、効率を重視するならば多少の見栄えの悪さは我慢するほか無い。


 「そうしてると世紀末の無法者みたいですね」


 車の凹凸に引っかけて頭をバールから引き抜き、軽く素振りして血糊を払っている女に青年が声をかけた。彼は彼で似たような格好をしつつ、片手にクロスボウを抱えていた。


 「間違いじゃ無いだろう、正しくこれぞ末法の世だ。略奪だって、何度もしてるんだしな」


 彼の冗談に女は肩をすくめる演技めいたモーションで答えた。実際、この二人は完全な無法者と言えよう。コンビニやスーパーで略奪を繰り返し、各地で死体損壊罪を繰り返す極悪人だ。何が問題かといえば、それを取り締まる存在の不在だけである。


 「肩パッドとモヒカンが欲しい所ではあるが、略奪者は略奪者らしくなっと……!」


 サイドウィンドウが砕ける音が国道に響き渡る。乗り捨てられたパトカーには鍵が掛かっていたので、女がバールを使って窓をたたき割ったのだ。こう言う荒事にも遠慮無く使えるので、バールは本当に役立つ武器である。


 しかし、衝撃に反応して盛大に電子音が鳴り始めた。盗難防止装置だ。取り締まる側にこんな物がついているとは意外だが、盗まれたらどんな悪事に使われるか分かった物でも無いのだし、防犯装置が装備されていても不思議ではあるまい。


 「やっかましいな……」


 「それより、近所中のが寄ってきそうな勢いですよ。手早くしてください」


 「分かった分かった。本当にキーを回すだけじゃパトカーのエンジンが動かないかどうかを確かめたかったんだが、また今度だな」


 益体もないことを言いながら、女は長身をクラウンタイプのパトカーへと潜り込ませる。何の変哲もない普通のパトカーで、これと言って目立った物も無かったが、女は助手席に転がる鈍色の物体を見逃さなかった。


 警察の執行実包、それも38口径仕様のものだ。女の家に帰る時、青年が拾った拳銃に装填できる弾丸に相違ない。


 「ついてるな、三発も落ちてる。装填の時に取り落としたか?」


 車の主が居ない以上、助手席に弾が転がっていた理由は永遠の謎であるが、弾が手に入った事に変わりは無い。拾い上げた鉛弾を太陽に掲げれば、火薬が装填された暴力の化身は陽光を反射して貪欲に輝いた。


 「いいね、力の象徴だ。中坊の頃に家族旅行で行ったハワイで撃ったことがあるが、こいつは中々ご機嫌だぞ」


 新しい玩具でも手に入れた子供のように彼女は笑っていた。ゾンビといえば銃がつきものだ。それが手に入ったことでご満悦らしい。


 だが、ガンマニアが喜んでいるのは、単純にそれだけであろうか? と一瞬考えた後で、青年は眉をひそめた。普通の音にさえ反応するような死体が何処に居るかも分からない状況だというのに、銃など使いようがあるのだろうかと。


 別に憚るような疑問でも無いので素直に問うたのだが、かけられた疑問に女は何とも言いづらそうに笑みを歪めながら答えた。


 「おいおい、忘れたのかお前、人間に襲われたんだぞ? これは、所謂ところの抑止力だ。人間相手にゃバールやクロスボウより分かり易い」


 鈍く輝く拳銃は、確かに人間を押しとどめるのに役立つ。何より、間合いを十分にとって一方的に殺せる立場になれるのが心強い。上手く使えば、襲いかかる人間を完全に制圧できるだけのポテンシャルを秘めているのだ。


 中枢を潰さねば斃せない死体相手に拳銃弾は確かに心許ないが、痛がりな人間相手なら十分だろう。ただ、銃に馴染みが薄く、怖さの認識が薄い日本人相手に何処まで通用するか、という不確定要素はあるが。


 説明されて、青年は納得いったのか小さく頷いた。そうして、懐からニューナンブを取り出して女に放る。女は驚きの色を浮かべながらも、器用に放られた拳銃を受け取った。


 「お前、何でそれ持ち歩いてるんだよ」


 「弾が無くても、いざという時に脅しに使えるかと思って」


 いや、納得したと言うより、青年は青年で銃の有用性を理解していたのだろう。それこそ、慣れた人間でも無ければ咄嗟に拳銃を向けられて、発射可能状態にあるかなど判断できない。いざ敵対する人間が現れた時、弾が無くとも拳銃は抑止力になり得ると考え、持ち歩いていたのだ。


 「考えることは大して変わらんか……だが、これでハッタリではなく……」


 「本物の抑止力になった、と」


 しなやかな指がラッチを押し上げてシリンダーを解放する。五つの小さな穴が空腹を訴えるかのように空いており、金属によって整形された殺意はあるべき場所にあるべき形ですんなりと収まった。


 「どうだ、決まってるか?」


 女が手首のスナップだけでシリンダーを戻す姿は実に様になっているが、それを見つめる青年の目は実に冷ややかであった。


 そして、唐突に降ろしていたクロスボウまで構え始める。鏃を向けられた事に女は俄に話手始めるが、青年は冷静に狙いを女から外して引き金を絞り……女の方へとフラフラ近寄っていた壮年男性の体を居抜き、放置車両へと縫い止めた。


 「おおう……」


 「何度目ですかね、調子乗った先輩のフォローをするのは」


 「あー……四回目くらいか、後輩」


 「数えるのが馬鹿らしいくらい、です」


 吐き捨てるように悪態を吐いて、クロスボウを引き絞り新たな矢を番える。そうして、女に死体の方を顎でしゃくって見るように促した。


 ボルトで胸を貫かれた挙げ句、車に標本の如く打ち付けられた亡骸は、引き裂かれている上に酸化して黒ずんでいるせいで判別がつけづらいが警察官の制服を着込んでいた。


 かつては公共の奉仕者であり善良なる市民の盾も、今や朽ちて役割を忘れ彷徨っている。縫い止められた体を強引に引きはがし、鏃とプラスチックの矢羽根が肉を裂くことに頓着もせず藻掻いていた。


 そんな哀れな官憲に女はバールを一撃見舞ってとどめを刺した。長い残業が終わったことに安堵するかの如く、縫い止められた体から力が失せる。そんな彼に、女は小さな敬礼を捧げて労を労った。


 「さっさと行きましょうよ。音でどんどんよってきますよ。矢も回収してくださいね」


 映画であれば感傷たっぷりの様になる光景に青年は欠片ほどの興味も示さず、他人事のように言った。敬語を使っていながら、言葉に敬意が全く滲んでいない事がトーンから察せられる。


 言われるがままに矢を抜かんとし、淑女らしからぬ声を上げ歯茎が見えるほど力を込める女であったが、至近距離で叩き込まれた矢は車に深々と突き立って、中々抜けてくれなかった。


 もう少し考えて撃てよ、と言いたくなるところだが、流石に助けられた手前大きな口は叩けない。精々抗議にも成らない声を上げながら、矢を抜くことに心血を注ぐだけだ。


 歯が軋むほど食いしばり、しなやかな筋肉を隆起させて渾身を振り絞ってから、やっとのことで矢は車体から抜ける。抜けた時の反動で女の体が一瞬宙を泳ぐが、女は即座に車体に押しつけていた足を後方に蹴り出し、放置車両に叩き付けて反動を殺すことで体勢を立て直した。


 そして、唇をつり上げてニヒルに笑いながら言う。


 「悪いが、期待通りには行かんぞ」


 足は放置車両の装甲、丁度青年が立っている真横に突き立っていた。彼はクロスボウを下ろして軽く腕を広げていることから、体勢を崩すであろう女を受け止める準備をしていたように見受けられる。矢を抜きに掛かった動作から、バランスを崩すことを想像していたのだ。


 ただ、自力でリカバリーするとは考えていなかったらしく、女の笑みに軽く肩をすくめてみせるだけであった。


 「やれやれ、クロスボウは威力が素晴らしいが撃った後が厄介だな全く」


 ちょっとばかりの意趣返しに気をよくしつつ、女は抜いた矢を放って返す。威力が高い故に着弾点へ深々と突き刺さるクロスボウは、再利用を考えるなら使いどころに難点がある。


 青年は矢に深刻な歪みが無い事を確かめてからアローホルダーへと矢を戻す。高威力で打ち出され、堅い物にも突き立つが故に歪みも起こりやすいので、使った後のチェックは欠かせない。変に歪んでいたら弾道が狂い、外れるだけなら良いが女に刺さる危険もあるのだ。そうなっては目も当てられない。


 矢のチェックが終わるのを見届けると、女はキャンピングカーへ帰るべくきびすを返しかけるが、ある物に気付いて動きを止めた。


 「……拙いな、長居しすぎた」


 彼女の言葉に反応して青年も視線を女に合わせ、それから言わんこっちゃないとばかりにため息を溢す。


 付近の死体が警報に惹かれて近寄りつつあるのは既に把握済みだが、甲高い音は別の物を引き寄せていたようだ。


 遠方から響くエンジンの音が微かに耳朶を打っていた。警報に紛れて聞こえてくるのは、紛れもなく車の走行音だ。高速ではないものの、大きくなる音量が此方への接近を報せてくれる。


 「ちょっと別の厄介ごとが増えたか……」


 「もっと手早く離脱していれば……」


 「言うな」


 気まずそうに頭を数度掻いて、女は無造作に近寄ってきた死体の頭にバールを叩き込んだ。群れで襲いかかられると死体は脅威だが、単体が正面から奇襲するでも無く襲いかかってくるのであれば、慣れた今となっては対処も片手間で済む。


 しかし、生きた人間相手なら話は別だ。どれだけ相手しようと反応も対応も個人によって違うので、慣れることは無い。それに、直接人間を殺すような事態には、まだ一度しか直面していないのだ。何が起こるか分からない。


 可能な限り避けるべき事態であっても、向こうから近寄ってくるのであれば、それも難しい。そして、得てして厄介な事態であればあるほど向こうから寄ってくる性質を持つものである。


 「早速こいつが役に立つ……なんて事がなければいいんだがな」


 殺意が装填された鋼を女は掌でもてあそんだ。手に入れて数分も経たないうちに役立つ機会がやってこようとは。世の中とは全く以て異な物である。


 喧しく鳴り響く警報の中であっても、撃鉄が起こる音は嫌に耳に響いた…………。













 ふと、頭が傾いだ衝撃で青年は目を覚ました。目を開くと、目の前では赤々と火が燃えており、傍らでは自分と同じようにソファーに背を預けて体を丸めて眠るカノンの姿があった。


 どうやら夢を見ていたらしい。最近夢を見る機会が増えたが、過去を連想させる用語とよく接しているからだろうか。夢は記憶の整理に伴う現象と言うし、今の夢も特段珍しいことでもなさそうだ。


 しかし、火は良いと青年は感じた。夢の内容より、体に染みいるように浴びせられる熱と炎の明かりが心地よかった。


 彼の目の前で赤々と燃焼筒を燃えさせる反射式のストーブが稼働していた。昔ながらの石油ストーブで、古式ゆかしいことに上面にはちょっとした調理用の鉄板まで設けられており、今はそこで雪を溶かした湯が煮えている。


 暗くなった室内を見回してから時計を見やれば、既に時刻は一九時を回っていた。青年は暖かさに安心して寝入ってしまったのか、と頭を掻きながら状況を再認識する。


 雪が降り積もる山村の家で青年に貴重な熱を供給するストーブは、拠点を決めた翌日、つまり今日の昼に青年が雪に足を取られながら周囲の家を散策した時に得た成果であった。


 山村には老人が多く、老人は得てして古い物を使い続ける傾向がある。この電池を電源として駆動する発火機構を持つストーブは、そんな時代の流れに取り残された老人達の所有物だったらしい。古ぼけた民家の居間に置いてあったのを、これ幸いと青年は持ち帰ったのだ。


 石油ストーブは一々灯油を足さねばならないが、構造のシンプルさ故に例えインフラが死んだとしても灯油があれば幾らでも動き続ける。それに、この集落ではメジャーな暖房設備であったのか、灯油を蓄えたポリタンクは幾つかの家で発見できており冬越えにも十分な量を確保することができていた。雪に足止めを喰らった中で、これは不幸中の幸いだ。少なくとも、寒さに震えて凍死に怯えながら眠る必要が無くなったのだから。


 その上、暖を取りながら簡単な調理も出来るとなれば何をか況んやである。この戦果を持ち帰った青年は実にご機嫌であり、だからこそ暖かさに微睡んで昼寝までしてしまったのだろう。雪をかき分けて大荷物を運び込む重労働の疲れがあったからか、午睡というには些か眠りすぎという時間帯ではあったが。


 夕飯を未だ食べていないからか、フローリングに座り込んでソファーの下部に身を預けていた彼の腹が小さく鳴いた。胃が消化する物を失い、空しく顫動している音だ。


 その音に反応し、共に寝入っていたカノンが身をもたげ、くるまるように収まっていた毛布から鼻面だけが顔を出す。


 「……何か食うか」


 暖かさと空腹に押され、青年は夢の事を意識から消し去ってキャンピングカーから持ち込んだ物資の山に歩み寄った。折角湯が沸いているのだから、カップ麺でも軽く啜り、カノンの食事も温めてやることにしよう。


 窓の外では、溶け行く記憶を惜しむように雪が静かに降り続けていた…………。

 私です、やっぱり生きています。ただ、今回は構成の都合で短めなので申し訳ない。仕事から解放されようが春休みが忙しいのってどういうことだ。


 流石にこれだけの量を書くのに一月掛かってしまった、というのはちょっとお恥ずかしい限りで。ただ、合宿とか色々あって忙しかったので勘弁していただきたいです。


 感想いつもありがとう御座います。流石に都会で生まれ都会で暮らしてきたもので、指摘されなければ知らないこともあるので役に立っています。ただ、プロパンガスが供給されても電気が無きゃ動かないガス製品も多いでしょうから、どうしようも無い現状は変わらないかと。ガスコンロくらいは動くのでしょうか。


 兎角、次は早めに投稿できたらいいなぁ……。

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