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青年と犬と火の無い暖炉

 お待たせしました。アクション? 馬鹿め奴は死んだわ

 耐えがたい寒さに襲われて、一つの意識が目を開いた。薄らぼんやりと浮かび上がる視界に映るのは、洗濯の頻度が少ないために微かに黄ばんだシーツだ。


 覚醒したからか、寒さは尚更酷くのし掛かってくる。眠っている時は体温が下降することも相まって、部屋に押し寄せてきた寒気は耐えがたく体を苛んだ。


 骨身まで凍るのでは、そう感じる寒さを受けて、矮躯の青年が寝床から体を引っ張り出した。寝床の暖かさが残る体が晒され、冷えた空気に撫でられて肌が粟立つ。まがいなりにも断熱仕様のキャビンだというのに、息を吐くと呼気は真っ白な湯気となって立ち昇ったではないか。


 「……どういうことだ」


 あまりの寒さに驚きが溢れる。十二月を過ぎたので寒いのは分かっていたが、これは少々異常である。少し前まで滞在していた長野県ならまだしも、関西の、それも大阪を間近にして斯様に冷え込むのは少々異常だ。


 大阪は冬でも比較的暖かく、午前中に氷点下を割ることは殆どない土地柄だ。雪など極希にうっすらと積もる程度にしか降らず、雪に備えるという発想すら沸かないほどである。


 故に、この寒さはある意味異常であった。しかも、時計を見てみれば疾うに日の出の時刻は過ぎている。にも拘わらず、キャビンの中が異様に薄暗いのは何事かと天窓を見上げれば、そこには白い何かが薄く層を成していた。


 「……雪?」


 ふわりと柔らかそうな綿を連想させる物体。窓を覆っている物は、雪に相違ない。遙か空の上で塵などの微細な物体に水分が付着し、それを核に凍結した物体が地面に降着する現象の産物である。


 青年は状況を確認するべく運転席へと向かった。主人が起き出した事を察知した従僕も後に続くが、豊かな毛皮を纏った彼女はこれといって堪えた様子も無い。元より真冬は何十センチと雪が降り積もり、氷点下を上回ることなど無い地方の犬だ。むしろ、この寒さは慣れ親しんだ肌に合う気候なのだろう。


 蒼い地金を覆い隠すように装甲板が乱雑に溶接されたキャンピングカーは、山間にひっそりと佇む街を前に停車していた。名も知れぬ地方集落で、瓦葺きの民家以外にはこれと言って目立った建物の無い街だ。


 しかし、運転席から街を望む事はできなかった。何故なら、フロントガラスが雪に覆われていたからだ。暗いわけである。


 「……こいつは酷いな」


 雪を見て尚更寒さを実感したのか、青年は呟いて身震いした。寝間着にしている厚手のスウェットだけでは、寒さを到底防ぎきれない。何にするにしても、直ぐに着替えた方が良いだろう。


 少しでも暖を取るべく、青年はカセットコンロに火を灯し、鍋にミネラルウォーターを開けて湯を沸かす。調理用の頼りない炎であっても、今は何よりも暖かく感ぜられた。


 微かな熱を頼りに服を手早く着替える。肌着は長袖のものを二枚重ね着にして、シャツも合成繊維の薄い物ではなく綿サテンの分厚く暖かいシャツを選んだ。


 しかし、これでもまだ足りない。いつも通りのベストを着込んだ上で、青年はジャケットを纏い、神社の裏にあった屋敷から持ち帰った厚手のコートを羽織った。


 そこまで着込んで漸く人心地つく。ただ、覆われた体と対称的に露出した指先が酷く冷たい。寒さから逃れるように、沸騰しはじめた湯の上に手を晒して貪欲に温度を求める。これは指先を切った手袋だけで外に出れば、指が凍傷を起こしそうだった。


 「……不味いな。動けんぞ、これでは」


 沸き立つ湯から温度を貰いながら呟く。目は普段通りどぶ川のように淀み、顔は亡骸のように白いが、無表情が崩れて眉根に皺が寄っていた。


 雪に覆われた路面は摩擦係数が下がり、専用のタイヤでもなければグリップ力が足りずにタイヤが空転しやすくなる。無論、普通の道を走ることしか想定されていなかったキャンピングカーのタイヤはノーマル仕様だ。下手に雪が積もった山道を走ろう物なら、何処かでスリップして数秒の飛翔を堪能することとなろう。


 かといって、こんな所で耐雪タイヤに換装することなど適わないし、大型車用のチェーンなど手に入る当ても無い。完全に足止めを喰らった形になる。


 街路を走るくらいなら何とかなるだろうが、少なくとも山越えは無理だろう。県境は目と鼻の先だが、別の国道にでなければ大阪にはたどり着けない。あの足止めを喰らった国道は、車が山ほど放置されて通れないので仕方なく脇道に入ったのだが、思わぬ所で雪に出くわしてしまうとは。


 旅慣れた人間であれば、特にキャンピングカーで列島縦断などと考える人間ならば斯様な失態を犯す事は無かっただろう。しかし、青年は耐雪対策に疎い大阪人である上に旅好きですらない。雪に足止めされるという発想そのものが無かったのだ。


 むしろ、一回も積もらない年の方が多い所に住んでいるのだ、意識しろと言う方が難しい。もしもの為にとタイヤチェーンを常備している家庭など、数えるほどしかあるまい。


 彼にとって、大雪などテレビで報じられて、大変そうだなと他人事のように感想を零すことでしかなかった。意識の違いが重くのし掛かり、足を止める事になろうとは想像だにしていなかったのだ。


 やはり、如何に個人の技能が秀で、冷静に思考が回った所で限界があるのだ。人間という生き物は、そこまで固体として完結して作られていなかった。こんな、簡単な発想の違いだけで行き詰まるのが証拠である。


 もし長野に入るのが暫し遅く、東北に至ったのが夏でなければ、彼も耐雪装備をカーショップで探しただろう。しかし、此処まで来てからでは遅すぎた。既に意識する機会は、実際に降るまで喪われていたのだから。


 湧かした湯で煎れたインスタントコーヒーを啜りながら、どうするべきかを考える。備蓄物資は積み上がるほどあるので、最悪一冬丸々閉じ込められても枯死はするまい。大変慎ましやかな生活を強いられるだろうが、詰むほどではない筈だ。


 むしろ、雪を溶かして飲めるので水に余裕はある。問題は燃料だ。カセットコンロのガス缶はあるだけ持っているが、何ヶ月も保つだけの量ではない。今のように暖房に使おうと無茶をすれば、直ぐに枯渇するであろう。


 とはいえ、蒲団も屋根もあるのだし凍死の心配をするほどでもない。冷え込んで居心地が悪いことにはなるだろうが、カノンを抱えて毛布にくるまれば何とでもなるのだ。


 足止めと物資の浪費を強いられるのは大変歯痒いが、まだ危機的状況といは言えない。


 それに、規模は小さくも、目の前には街がある。ここを漁れば少しは何か見つかるだろう。火をたいて暖を取れるような所があれば、冬の間はそこに居を移しても良いのだから。


 ただ、それを考えるとタイミングの遅さに更なる口惜しさが沸き上がる。これが数日早ければ、青年はキャンピングカーを神社の下まで乗り入れ、居心地のよい屋敷で引きこもっただろうに。囲炉裏のような気の利いた物はなかったが、ストーブが倉庫にあったので、近場から灯油を探してくれば暖房器具にも困らなかった筈だ。


 ここ最近は裏目続きだと、大きなため息が零れた。価値観が狂人のそれであった所で、メンタルが何処までも強い訳では無い。あくまで、人間がメンタルを木津付ける要因として最も比重が大きい、他人の存在を全く気にしていないだけに過ぎないのだから。


 例え青年であろうと、嫌な事が続けば気も落ちる。


 チンピラ共に捕まったのがケチのつき始めで、思い返せばトラブル続きであった。骨は折れるわ二の腕に矢創を貰うわ、炎症の熱に魘されたと思えば要らぬ事を夢に見て、更にはキャンピングカーを数日とは言え喪失する様だ。これで屋敷という瓢箪からまろびでた駒が無ければ憤死している所だろう。


 青年は大きく溜息を零した後で気を取り直し、朝食を摂ることにした。湧かした湯で適当にレトルト食品を湯煎し、冷たすぎる缶詰を暖めてカノンと共に食事を済ませる。


 胃に燃料が入れば体温が上がってきて寒さも和らいだ。動き回るようになって実感したが、やはり朝食は一日の活力として欠かせない。やはり、燃料が無ければエンジンは動かず、エンジンが暖まらねば正常な動作は望めないのである。暫くはきちんと食事を取らねば、寒さでまともに動けないだろうから重要度は尚更上がりそうである。


 燃料をくべたのであれば、何時までも寒さに文句を吐き捨てながら縮こまっては居られない。無駄に燃やすくらいであれば、活用しなければ勿体ないと青年は街の探索に乗り出した。


 既に完全防備と言って良い有様に補強を施す。マフラーで目から下を頑丈に覆い、耳を隠すように少し大きめのニット帽を被る。最早露出しているのは目だけという有様は、町中で見たならば不審者以外の何者でもない。


 更に、青年は何かと便利だから取ってある空き瓶に残った熱湯を注ぎ、タオルを巻くことで即席の懐炉とした。持続力は無くとも、暫くは内側から服を暖めくれるはずだ。


 武装としては鹿狩り用のスラッグが装填してある民間仕様の散弾銃を取り上げる。モスバーグベースの汎用品で、何処で手に入れたかも忘れた品だが、大勢を相手にしない場合であれば高火力発揮しつつ堅牢であるので大変信頼できる得物と言える。


 予備のショットシェルを一掴みポケットに放り込んで、青年は覚悟を決めながらキャビンの扉を開いた。


 目の前に広がるのは一面の銀世界。深々と音も無く降り積もる雪が、醜い何もかもを自らで覆い隠さんとするかのように降り続けていた。


 山風が吹き付け、切り込むような寒気が体を被服の上から突き刺した。体が二回りほど膨れるほど服を着込んでも、寒さの鋭さは衰えない。露出している目の辺りは、室内との温度差でもあって、最早“痛み”と形容するほうが妥当な刺激を覚えている。


 剰りの寒気に体が怯み、一瞬キャビンへと取って返しそうになった。意識で体を押しとどめ、四肢に命令を送る。ずるずると逃げた所で、寒さも雪も消えてくれないのだから。


 面倒な事であればさっさと片付けてしまうに限る。それに、天候が荒れ始めたら出歩けなくなる危険性もある。流石に、こんな耐水性に乏しい装備で霙の降る中を歩き回るのは勘弁だ。こんな短期間に二度も熱で魘されるなど、考えるだにおぞましい事態であった。


 体を寒さに萎縮させながらキャビンから出る青年だが、彼の従僕は主人とは対照的に勇むように車外へと飛び出した。そして、うっすらと積もった雪の上を駆け回る。


 黒銀の毛並みが跳ね上がった雪に塗装され、表面にぼた雪のような淡さで白い装甲を作り出す。黒い鼻面を雪に突っ込み、匂いを嗅ぐというよりも、感触を楽しむように引っかき回しはじめた。


 彼女は元々雪が多い土地で橇を引いていた犬の末裔だ。遺伝子に潜む記憶が根源的な何かを擽るのであろう。まるで子供のような無邪気さで、カノンは雪と戯れていた。


 長い二重の被毛と皮脂から分泌された油の耐水コートがあるからか、雪に塗れる事は彼女にとって悦びでこそあれ不快ではないようだ。寒さなど全く感じない、そう高らかに主張するかの如く機嫌良さそうに青年の周りを走り回る。


 普段狭い所で抑圧されているからか、跳ね馬のように体を踊らせる様子は大変満足そうに見えた。


 ニット帽の上から頭を掻きながら、ここまでテンションが高いと言うことは死体の腐臭は付近から臭ってきていないのか、と青年は察した。自分でも危険を探ろうとマフラーを降ろして空気を鼻孔に送り込んだのだが、得られたのは粘膜が凍るような冷たさだけで、臭いなど欠片ほども感じられなかった。


 鼻の奥に産まれた刺すような痛みから逃れるようにマフラーを上げるが、慌てる事もないと考え直した。気配に敏感な彼女の事だ。危難が直近に迫っていたならば、人間でもあるまいし此処まで無邪気に遊びはするまい。


 普段とはまた異なる方向に野生を擽られている従僕を好きにさせることにして、青年は誰にも穢されていない新雪に足跡を刻みながら、建物も疎らな集落へと踏み入った。


 山間の集落、そのイメージを逸脱することのない寒村には、大きな商店は見受けられない。あったとしても、こぢんまりとした個人商店ばかりで、食料品店も一つしかなかった。どうやって生活を維持しているのか甚だ疑問であるが、最近ではスーパーの移動店舗などもあるらしいので、それに頼っていたのであろうか。


 何故か妙に同じ名字の表札が並ぶ家々を適当に見て回る。雪が音を吸収しているからか、嫌に静かだった。世界の全てが動きを停止してしまったのでは、そう錯覚するほどに静まりかえっている。


 響くのはカノンの呼吸と、雪を踏みしめる軽い音。それ以外にはモスバーグのスリングを固定する金具が擦れる音だけが木霊する。


 鼓音が体から溢れて反響しそうな静寂が横たわる街に動く物は本当に何も無かった。この町には、もう誰も居ないのだ。生者も、亡骸も、何もかも。


 旅の最中に幾度となく見た、亡骸が人間を求めて徘徊した結果空になってしまった街。棲む者も無く、遺された物も無い文明の亡骸。


 その中を這い回る己は何なのであろうか。青年の頭をそんな考えが一瞬過ぎった。


 考えた所で仕方が無いのだろう。それでも、こんな所を彷徨っていると考えてしまう。街のもの悲しい雰囲気がそうさせるのか、それとも自分は認識している以上にセンシティブであったのか。


 突き詰めたリアリストでありエゴイストであれど、青年は人並みの感性を持ち合わせては居る。ただ、何処までも自分の価値と他人の価値が噛み合わないだけなのだ。だからこそ、そんな気分にさせられることもある。


 しかし、体だけは冷静に駆動し街を徘徊し続ける。集落に荒れた所は少なく、強引に破られた扉や血糊の化粧は見受けられない。


 人が居た所であれば、何処ででも見られた物が此処にはない。かつて動いていた亡骸、闘争の痕跡、そして食い荒らされた遺骸。その何れもが見つけられないのだ。


 扉の殆どは施錠されたまま放置され、事故車の姿もない。亡骸だけならば雪に隠されているのかも知れないが、此処まで無傷であるのは異様であった。


 都市部から離れていたが故に、山間の寒村が何らかのパンデミックから逃れられたという話は希に聞くが、今世界に蔓延っている存在は毛色が違う。そんな手垢のついた小説のような事態が起こったとは考え辛い。


 青年は首を傾げながら、適当な家屋の鍵を壊して踏み入った。磨り硝子にアルミサッシの玄関扉など、ちょっとした金属の棒があれば軽くこじ開けられる。


 しかし、家の中にも荒らされた形跡は無かった。冷蔵庫の中では食糧が取り残されて腐敗していることも無く、慌ただしく荷造りした形跡が確認できた。玄関の靴箱からは、普段使いに適さない靴意外が残されている。


 畳をブーツにこびり付いた雪交じりの泥で汚しながら、青年は首を傾げて顎に手を添えた。


 内装に積もった埃から察するに、少なくとも此処に家人が帰ってきた様子は無い。だが、何れ帰ってくるとでもいうように整頓され、施錠までされているとくれば、何処かに避難したと見るのが妥当であろうか。


 とはいえ、何処に? という疑問がある。ここは民家ばかりが建ち並ぶ集落で、公共施設など銭湯くらいしか見受けられない。市民会館どころか、小学校さえないのだ。


 未だに山一つ越えて学校に通う小学生が居ることを認識してはいるが、あの地獄の最中で一体何処に避難したというのだろうか。


 されど、考えても詮無きことでもある。大事なのは現状で、此処の住人がどうなったか、ではないのだから。


 有り難い事に家は荒らされていない上、死体まで付近に居ないとくれば、越冬するには悪くない環境と言えよう。探せば春先でも灯油を備蓄し、暖房器具を出しっ放しにしている家庭もあるはずだ。


 事が上手く運べば、此処で平和な越冬生活を送る事ができる。豊かな食事に期待は出来ないが、震えないで済むだけで涙が出るほどの贅沢といえよう。


 ただ、今踏み入った家は彼の気に召さなかったようだ。暖房器具らしいものはエアコンくらいしかなく、それに警戒して立ち入ったためにかなり汚してしまった。少なくとも一冬を過ごすつもりであれば、もう少しマシな家に腰を落ち着けたい。


 どうせ部屋賃をとられる訳では無いのだ。吟味して、一番過ごしやすい家にお邪魔するとしよう。実に現金な事に、楽しみが見いだせた途端に寒さが少しだけマシに感ぜられていた。


 兎角、宿を探さねばならない。キャンピングカーで一冬を過ごすのも不可能では無いが窮屈に過ぎる。借宿を探すべく、泥で汚した家屋から青年は立ち去った。


 さて、周囲に死体の姿は無いのだが、もしも越冬を試みるのであれば家は横に広いよりも縦に長い方が好ましい。何故なら、その方が構造的に侵入口が少ないからである。


 横に広い構造の日本家屋であれば、縁側やら勝手口など侵入口が多く、低い位置にある窓も絶好の突入口となり得る。守るべき部分が多い上、防備を用意するのが大変なのだ。


 だが、土地が狭いから立てに伸びざるを得なかったという風情の建物であれば、侵入口は玄関口程度に限られ、それ故防御は簡単だ。もし裏口があったとしても、それは体を横にせねば通れぬような裏路地に通じているだけだろうし、斯様に狭ければ多くの死体が押しかけることも難しいので心配は不要だ。


 が、いかんせん土地の価値が低い田舎であるせいか古い家屋でなくとも何処もかしこも横に広い。ここ数年で建て替えたような家であったとしても、土地代の心配が要らず予算が箱に思う存分注ぎ込めるせいか贅沢に横へ広がっている。曲がりなりに都市部で育ってきた青年からすれば、考えがたい事態であった。


 二〇坪程度の土地で頑張って縦に伸びた戸建て住宅群が恋しかった。あれは実に籠城に適している。似たような構造が連続していて、ベランダも同じ位置にあったりするので、いざというときはベランダから隣の家に逃れられる実に籠城向きな存在なのだ。


 軍勢の籠城でもそうだが、脱出時の利便性は極めて重要である。多くの死体に囲まれ、最早この拠点は保たないとなった時、どれだけ外に逃げやすいかが生き延びる可能性を引き上げてくれる。死体の手が届かない上は、逃げる時に最も頼りになる脱出ルートとして機能するのだ。


 嫌な経験ではあれど、経験は生きるものだなと、建物の物色を続けつつ、青年は何とも無しに考えた。


 暫く街を彷徨い、寒さに体の感覚が消えかけた頃、一軒の家を見つけた。中々の大きさがある家だが、珍しく塀に囲まれているのだ。


 コの字型に箱を組み合わせたようなシンプルな現代型の家屋は、最近の建築家によってデザインされたらしい小洒落た外観をしていた。塀は矮躯の青年の腰元程度までの高さで、そこから二mほどを鉄格子で上方を覆っている。庭と外との視界を殆ど遮らない、開放的な塀であった。


 庭は雪に覆われて見えないが、木が植えられていたりと庭を整備する程度の金持ちの家らしい。造りも相応にしっかりしていると外観から見て取れる。


 試しに青年が格子を掴んで前後に揺さぶるが、塀は小揺るぎもしない。当たり前といえば当たり前だが、たまに雑な造りをした塀もあるのだから確認するに超した事は無い。


 脱出口がないのであれば、次善策としては塀に囲まれた頑丈な建物であろう。とはいえ、此方には致命的な欠陥もある。完全に包囲された時、敵を打破する意外に脱出する手段が無い事だ。建物から他の建物に移るという手法が取れないので、早めに見切りを付けないと囲まれて枯死する他無くなってしまう危険性があった。


 されども、他にこれ以上良い物件も無い。アルミサッシに磨りガラスの脆弱な扉や、薄い雨戸で広い縁側を塞いだ頼りない家に籠もるよりは良いだろう。それに、今は死体が居ないのだ。もし押し寄せてくるようであれば、多少無理でも迎撃するか逃げ出せば良い。そのための武器と備蓄物資なのだから。


 目標とした物件に侵入するべく、周囲をぐるりと回る。建物本体は塀に囲まれているが、西側にはシャッターが下りたガレージが設けられており、奥行きによってはキャンピングカーを格納できそうなほど大きい。


 塀は高く、侵入防止のスパイクが鋭く伸びていてよじ登るのは困難だ。しかし、玄関に通じる門は背が低く乗り越えるのに苦労はないし、その気になれば腕を回して表側から空ける事も十分に可能である。


 乗り越えるかと青年が手をかけると、門扉は冷たい感覚を手に伝えながら奥へと動く。最初から鍵がかかっていなかったようだ。どうにも日本人は、こういう門やシャッターを放置しがちであるが、こういう時ばかりはありがたく感じられる。


 難なく敷地内へと侵入した青年であるが、家への侵入も実に容易い物であった。田舎故にセキュリティ意識が薄いのか、ポストを開けてみれば鍵がテープで留めてあったのだ。


 鍵を無くしたり忘れた時の対策としてありきたりな方法だが、実に不用心である。しかし、こういう時はありがたい限りだ。窓を割るのは今後に響くし、何より適当なふさぎ方では骨身に染みる寒さを防ぎきれない。


 ポストは門に埋設されており、外側からは内側を窺えない作りになっているので多少気は遣っていたようだが、こんな古典的な隠し方は如何な物だろうか。迂闊さの恩恵に預かりつつも勝手な感想を溢し、青年は堂々と家への侵入を果たした。


 ペンライトの明かりに宙を舞う埃が映り込む。外と遜色の無い冷たい空気が立ちこめる玄関には、微かな埃臭さと凝ったような静寂だけが取り残されていた。まるで、時間が凍結しているかのような雰囲気が鎮座している。


 玄関にはサンダルやピンヒールにローファーなど、動くのに適さない靴だけが残されており、スリッパラックにはスリッパが隙間無く納められている。荒れた様子もないので、ここの家主が普通に家を出た事が見て取れる。


 一分ほど佇んで耳を澄ますが、これと言った物音は何処からも聞こえてこないし、カノンも何の反応を見せない。薄闇の中で光るオッドアイから感情を読み取る事はできないが、この家に脅威を感じていないようだ。


 青年は、とりあえず安全であると認めると散弾銃を靴箱に立てかけてからブーツを脱いだ。雪と泥まみれのブーツで、これから暫く暮らす予定の家を汚す訳にもいくまい。


 玄関で靴を脱ぐ、この余りにも当たり前の行為を珍しい事だと考える自分に青年はおかしみを覚えた。欧米人でもあるまいに、最近ではあの神社以外では大抵が土足で踏み入っていた。ほんの一年もするまでは、靴を脱ぐなど当然の習慣であったのに。


 冷たいフローリングから逃れるべく、スリッパを取り出して足を守る。グリップ力が足りないので走れなくなるが、高性能なセンサーたるカノンが静かであれば過度の心配は不要だ。むしろ、痛みに感じるほどの冷たさを耐える方がずっと危険だ。足先が凍傷にかかったなら、目も当てられない。


 ふわふわと暖かい上等なスリッパで冷気の神道を拒みつつ、青年は散弾銃を取り上げて家の物色を開始した。


 家は、全体的に洋風の作りをした近年では珍しくもなんともない作りの家であった。大きなリビングとダイニングキッチンを備え、風呂とトイレは別々どころか一階と二階にトイレが一つずつある充実様。部屋も六部屋あり、ベランダも随分と広く設計され、洗濯物を干すのに役立つ事だろう。


 キッチンもダイニングも特に荒れた様子は無く、慌ただしく準備した形跡が住人の私室に残されていた。開け放されたクローゼットに取りこぼされた被服、一つ前に入り込んだ家と同じだ。何かに追い立てられるように家財を纏めて逃げ出したのだろうか。


 家主の書斎らしき部屋には金庫があり、金庫は口を開けたまま捨て置かれている。金目の物を持って逃げようとしていた所から、思っていたよりも余裕はあったのであろうかと青年は考える。だが、空の金庫を調べようとしゃがみ込んだ時、一枚のビラが机の下に落ちているのを見つけた。


 如何にも急いで擦りました、という風情の白黒印刷のビラには、パンデミックによる避難のお知らせという文字が躍っている。これを見て、漸うこの集落の有様に納得がいった。荒らされた形跡も無ければ死体と争った形跡も無いのも当然だ。死が押し寄せる前に、彼らは何処かへ避難していたのだから。


 避難場所は簡易な手書きの地図を添えて第一小学校までと記されており、地名などを見る限り隣町のようだ。車でも暫く掛かりそうな距離であるが、この集落の子供はどうやって通っていたのであろう。


 ビラを放りながら、もう記憶の中でも遠い時期の頃の事となってしまった四月を振り返る。学舎の屋上に籠城していた頃ラジオで拾った音声には、確かに死体の発生と襲撃に対して抵抗しているような様子はあった。市民団体やらの活動で、自衛隊が上手く動けていないようだったが、それでも住民を一カ所に集めようとしたり、避難場所を報じていた覚えがある。この避難招集も、その一環であろう。


 街が静かな理由に納得がいった青年は、特に興味も無いというように家捜しに戻る。奇妙さが解決してしまえば、後はどうでもよいのだ。重要なのは、自分が害される可能性がわずかにでも残っているか否かである。


 その判別さえついてしまえば、他の人間が生きているかどうかなど、最早些事でしかなかった。


 周囲が完全に無人で、死体が存在していたとしても遙か遠くであるだろうと分かった途端、青年の足取りは一気に軽い物へと転じた。スリッパを暢気に慣らしながら、散弾銃の引き金に軽く添えていた指すらトリガーガードへと移している。


 ぶらぶらと歩き回っている内に、彼はガレージへと通じる扉を見つけた。


 家の中から入り込めるガレージには、一台のクーペが所在なさ気に取り残されている。最近発売されたタイプで、かなり高価な輸入車だった。何やら映画の予告で巨大ロボットに変形していたような覚えがあるが、もうテレビを見なくなって水分と立っているので記憶も朧気である。青年には外国車というイメージしかないのだが、右ハンドルであることだけが不思議に思えた。


 鍵さえ見つければ、このクーペは簡単に表に出せるだろう。だが、如何せんキャンピングカーを納められるほどの奥行きは無かった。バン程度であれば余裕で飲み込める大きさではあるのだが、流石に中型のキャンピングカーを収容するのは不可能だ。


 少々不満が残るが、多くは望めまい。防備がそれなりで綺麗な環境がある、それだけで感謝すべきなのだから。


 とりあえず、此処を借宿にすることに過不足が無い事は分かった。青年は大仰そうに伸びをしてから、荷物を運ぶべくキャンピングカーへと取って返した…………。













 ソファーと大きなテレビ、そして暖炉が置かれた広いリビングで、青年と犬は寄り添うようにソファーに体を横たえていた。寒々とした空気に対抗するように一人と一匹は毛布にくるまって体温を与え合っているが、少なくとも犬には随分と余裕がある。むしろ、一方的に人間がぬくもりを貰っているといった方がより正確であろう。


 庭に面したリビングのカーテンは降ろされているが、光が入り込まない事と惰性で動いている時計を見れば日が落ちて随分と時間が経っていることが分かる。もう後何時間もすれば、日付が変わるという時刻。いつもの如く眠ろうとした青年であるが、あまりの寒さに彼は中々寝付けずに居た。豪奢な黒銀の毛皮を持つ従僕は、既に浅い眠りに身をゆだねているというのに。


 より熱を求めるようにカノンと毛布に体を寄せながら、冷える体の末端をすりあわせ憎々しげに暖炉を睨め付ける。せめてアレがまともに動けば随分と事情は違ったのだが。


 リビングに設置された暖炉。落ち着いた雰囲気の部屋にマッチし、テーブルやソファーも相まって高級な雰囲気を醸し出しているのだが、今では役立たずだ。何故なら、あれは薪を燃やす本式の暖炉では無く、最近流行のガスで部屋を暖めるなんちゃって暖炉だからである。


 部屋から冷えた空気を取り入れ、ガスの熱で暖めてから部屋へと戻す暖房器具。当然ガスはガス管から供給されねばならず、始動には電気が必要だ。インフラが全て止まった今では、ただの粗大ゴミに過ぎない。


 しかも構造的に本物の暖炉と違って排気用の煙突が伸びているわけではないので、蓋をぶち壊して適当な物を燃やすこともできない。平時であれば暖を取らせてくれる機具であろうと、今では単に見ていて寒さを助長させるだけの鬱陶しい物でしかなかった。


 効率良く眠りに落ちるには、体温がある程度高い方が好ましいが、その為の体温が圧倒的に足りていない。歯の根が合わないほど寒くはないが、落ち着けるほど暖かくも無い。実に居心地の悪い状態にある。


 眠りに落ちられないとなれば、寒い中で脳だけが動き続ける。毛布の中で凍り付きかけた脳が、静かに記憶を過去という溝から浚い上げ、自意識に曖昧な記録を辿らせる。何もすることが無く、思考の目的も無い場合、人間の脳は本当に無為な動きだけを繰り返すものだ。


 ふと、昼間に見つけたビラが脳裏を過ぎり、過去の記憶を想起させた。まだキャンピングカーに人間の道連れが乗っていた時期の記憶を。


 そうだった、小学校だ。まるで連想ゲームのように起点が沸けば、次々と思考があふれ出し記憶が再生される。青年の脳裏に、とりとめも無い過去が甦ってくる。


 まるで忘れるなと呻くように、どうして忘れていられるのだと呪うように記憶は脳髄から這い上がってきた。茫洋とした視線は一所に留まらず、ただ顧みる価値も無いと記憶の彼方に追いやった過去に侵される。


 夜はまだ、明ける気配が無い…………。 

 こんばんわ、所がどっこい生きてます。期末試験とか仕事終わりとか新年会とかもあったのですが、年始に父方の祖父が亡くなっていこうが修羅場ラッシュでえらいことになり、ちょっと書いてる暇がありませんでした。もっと長くするつもりだったのですが、とりあえずキリが良い所でとこの辺までにしてあります。やっとこ色々な事にケリがつけられそうです。


 感想返したり文章更正したりが全然できていませんが、もう少し長い目でみてやってくれると大変嬉しいです。次は、あまりお待たせしないで投稿できればいいのですが……。


 後、ツイッター始めました。流石に間を開ける機会が増えたのと、如何せんメッセージが来ても中々気づけないので生存報告にでも使おうかと。名前の後に3157で検索したら出てくると思います。気が向いたら棒きれで突っついてみてください。生きてたら起きるし、死んでたらうめき声を上げながら起き上がると思います。

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