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少女と葬儀とナイフ

 炎が踊る。組まれた六つの木枠が、貴重な燃料を浴びせられて、赤々と盛る火柱と化していた。


 広大なショッピングセンターの駐車場で燃えている、木材で組まれた櫓は葬儀の祭壇だった。急拵えの祭壇に乗せられ、赤い炎の舌に舐められて形を崩していくのは、精一杯身綺麗に整えられた亡骸だ。


 急場を凌ぐように死相を化粧で整えた死体だが、その殆どは目さえ閉じさせられていない。長期間野外に放置されたせいで凍り付いてしまい、瞼が動かないのだ。その上、弾を受けて損壊が酷い遺骸は、死体袋代わりか白いシーツに包まれている。


 亡骸が燃えて落ちる。櫓の木材と悲しみを糧として赤熱し、この世から逃げ去るように形を喪っていく。肉は灰に返り、骨もいずれ塵と消える。不完全燃焼の黒い煙が、濛々と天へ立ち上って行く。


 これは葬儀だ。死体が墓穴から這い出して、生者を襲う狂った世界。そんな頭のねじが何本か飛んでしまった場所で、平静を保つために行われる儀式。


 愛した人が、二度とおぞましい存在となって蘇らぬよう、ショッピングセンターに居を構える小コミュニティの人々は火葬を選択した。大凡の日本人が選択する、珍しくも何とも無い葬送ではあるが、今の物資が不足した中で、彼等が死者に贈れる最大限の労りだ。


 魂を無くした体が、迷い子のように這い出さず、永遠の健やかな眠りを得られるようにと。魂が巡り、循環するのであれば、焔によって天に昇り、次は少しでもマシな所へ逝けますようにという、切実な祈りが込められていた。


 誰も彼もが泣いていた。普段は寒く危険な外に、用事があっても出たがらないコミュニティの全員が、最小の保安要員を残して全員外に出ている。服が少ない中、少しでも工夫して、全員が黒い装束を身に纏っていた。中には、少しでも体裁を整えようと、黒いカーテンを羽織っている者さえ居る。


 だが、弔いは心でするものだ。ちぐはぐでも、不格好でも誰一人文句を言わない。小さなコミュニティなのだ、誰もが死した六人と接点があり、誰もが六人の記憶を持っている。ただ、抜け落ちて生まれた虚無に抗うべく、外から見れば無意味な儀式に人は浸るのだ。


 されど、その集まりに加わらない者が居た。一人の少女だ。金の毛並みが特徴の、見上げるような長身の少女。されど、その少女は出かけた前と後で装いを大きく変えていた。


 彼女の特徴である、大型犬を連想させる癖のある長髪。黄金の稲穂が如き髪が、消え失せていたのだ。


 水不足故に洗髪の頻度は少なく、トリートメントもされていないのに陽光に輝いていた長髪は、すっかり姿を消し、少女の頭にはナイフで散切りにされた不揃いなショートの髪だけがあった。


 その髪は、死体の祭壇の一つに捧げられていた。甘いマスクに惹かれていた女達が囲んで噎び泣く、祭壇の中で燃える亡骸。彼の懐に収められている。


 花も何も無い葬儀だから、せめてもの手向けだと言って、少女は自慢の毛を切りおとした。長く、不思議と良い香りがすると子等から人気だった髪は、凍って燃えづらい死体とは違って一瞬で灰と化している。今では、原型すらも残っていないだろう。


 だが、茫洋と葬儀を少し離れた場所で見送りながら、少女は行動や外見ほどダメージを受けていなかった。


 巡るのは思考だ。独善的で、自己中心的な保身の思考。生きやすいように生きてきた少女は、何があろうが今更変われないのだから。


 友人と呼べる程度に付き合いがあった男が死のうが、周り全てが悲しんでいようが、それは少女にとってはどうでもいいことだった。


 されど、異端として排除されないためにポーズは取った。感傷たっぷりに力なく笑い、髪さえ切り落として死を悼んでみせた。身近だが、暫くは遠ざかっていた死の現実に怯える子供達を抱き寄せ慰めもした。


 それでも、心の中で渦巻くのは自分の生命なのだ。結局、人間など己が居なくては何も考えられはしない。少女は、突き詰めて己を重要視しているだけに過ぎない。


 ただ、どれだけ割り切っていようと何も感じない訳では無い。青臭いセンチメンタリズムか、何かを感じたのかは当人のみが知ることだが、彼女の手には今まで進んで手に取られることの無かった酒があった。そして、懐には一つのパッケージも押し込まれている。


 酒と煙草、死を悼み、忘れるための小道具だ。大人が持つ、特権としての逃避先であった。葬儀に際して、皆の精神的ダメージを少しでも柔らげんと、自警団が備蓄を放出したのである。酒は摂取制限と探索の甲斐もあって十分以上な数がある。故に、コミュニティの成人した構成員には、装式饅頭の代わりに酒が配布されていた。


 成人した、とは言うが、このコミュニティで言う成人はコミュニティを維持する仕事に就いていることに他ならない。なので、少し前まで高校生であった少女も、黄金の炭酸を封印した缶を手にしているのだ。


 しかし、少女は缶を進んで手に取りながらも指先にぶら下げているだけで、プルタブを開けようとさえしない。ぼぅと定まらぬ、白痴が如き視線で火を眺めているだけであった。


 脳のキャパシティを全て思考に傾けているから、というのもあるのだが、その実、単に苦いのが嫌いなだけである。少女には、好きこのんで肺をヤニ漬けする趣味が無いのと同じく、苦みを干してアルコールに脳を浸す趣味も無いのだ。


 その上、アルコールは思考能力を落として判断能力を削ぎ、瞬発力を鈍らせる。今の状況で、とてもではないが、そんな危険な液体を呷るつもりにはなれなかった。


 確かに、少女も高校生だったから、馬鹿な学生のノリに付き合わされて日本国の法律においては違法であれども、酒精を呷ったことはある。だから酩酊の心地よさは知っていた。思考が鈍化し、辛い記憶が薄れて、何もかもから解放される快感を。人は、その快感を求めてアルコールを干すと理解さえしていた。


 だが、今は駄目だ。アルコールがもたらす酩酊に身を浸し、現実逃避の慰撫と共に寝入るのはいただけない。高速で音を立てる少女の思考が、そう告げていた。


 それでいて、デメリットを理解しつつアルコールとニコチンを手に取ったのは、やはり何か感じ入るものがあったからに違いは無い。今は、冷徹な思考が煮詰まった何かを押し込めているだけに過ぎないのだ。


 少女は伊達や酔狂、感傷に浸るために集団から離れていた訳では無いのだ。ただ、一人で静かに気がかりを潰すべく、この場に居た。


 脳髄の間を巡る思考は、本当にこんな事をしていて良いのか? という自己に投げかける疑問。そして、無法者の集団が死体を必要以上に痛めつけていないことも気がかりだった。


 統制が取れておらず、殺人を手段と割り切っていない集団が敵を殺したならば、殺人の高揚に任せて死体を辱めるのは世界的に良くあることだ。銃で余計に撃ち、ナイフを突き立て、腸をぶちまけ、残骸で奇っ怪なオブジェを構築する。紛争地帯や俗にマフィアと呼ばれる者達の粛正現場では、珍しくも何ともない光景であろう。


 死体をオブジェに仕立て上げるのは、よほど憎悪が深いか挑発目的でもないかぎり考えづらいものの、死体として蘇らないように処置した以外で一切手が加えられていないのは不自然だ。


 強い頭が居て、下を統制している可能性はあるかもしれないが、部下の不満を発散させる利点を殺してまで死体を綺麗に留めたのは納得が行かない。少なくとも、高ぶる部下を押さえ込めてまで死体を残し、割と見つけやすい場所に隠したのは理由があるはずなのだ。


 六人と囮の元仲間を殺した後で、天啓が振ってきて唐突に人道主義に目覚めたなどという、ぶっ飛んだことが無い限りは、理由も無しに利点の無いことはしない筈だ。


 もし仮に、死体を酷く損壊せしめる気概のないチキンの集まりであっても、目に見えてグロテスクな事にならない蹴りなどは数発入れてもおかしくない。


 では、何処に真意があるのか。何が目的で、一体何のために死体を残したのか。そこまで考えたところで、少女はふらりと踵を返した。燃えさかる祭壇に背を向け、考えが正しいかを模索すべくショッピングセンターへ取って返す。


 そろそろ一年に達しようという籠城の末、生活に適した改造を施されて雑然とした廊下を一人歩く。建材などの然程重要でも無い物資が積み上げられた廊下は、人が大勢生活している為に溢れた喧噪が嘘であるかのように静かであった。


 それもそうだ。今、ショッピングセンターの中には最低限の人員しか居ないのだから。おやっさん達は万一に備えて武装し、各所に見張りを配して待機している。されど、今の警備状況は近頃で最も緩いと言っていいだろう。


 普段屋上に配される少女は、近しかったエコーが死んだことを配慮して非番だ。現在、屋上の見張りは一人が配されているだけであり、更に彼は少女ほど目が利かない。


 その上、この雰囲気だ。葬儀で悲嘆に暮れる者ばかりの、ある種の脱力感を引き起こす環境にあっては、入れる気も湧いてこない。ともすれば、メランコリックな心境になって、手すりに身を預け呆けている可能性さえある。


 そして、外周の補修が成された現在では、最低限の警備というのは武器庫前と詰め所、簡易の出入り口だけ。それ以外の場所は、人員を配さず巡回もしていない。さしものおやっさんも、常に気を張り明晰で居ることはできないのだ。


 人間には、どうしても甘えがある。こんな時なのだから、これくらいは、と考えてしまう。


 そう、葬儀の最中なのだから、敵は襲ってこないだろうと。


 誰もが悲嘆に暮れる中、少女の頭は打算と保身だけで回っていた。故に気付ける、奇襲の可能性を。さらなる武器を求め、弛緩した我等を襲いに来る敵の存在を予感出来たのだ。


 今、コミュニティを離脱した敵は敵を倒した上に火器が補充され、指揮が相当に高揚していることだろう。となれば、次の一手を討ってくる可能性は決して低くない。


 熱した鉄と同じで、暴力的興奮に基づく指揮の高揚は長続きしないのだ。ある程度計画的に動く能があるのだから、その程度が理解できぬ道理は無い。


 その上、相手は元構成員だ。こちらの内情は、殆どが割れていると見て良い。自警団員の離脱こそ無かったものの、軍隊と違って機密性など皆無な集団だ。彼等が知らぬことなど、詳細なシフト程度であろう。


 そうくれば、この葬儀も予見されていた筈だ。死人はこれまでも出ていたし、規模は小さくとも荼毘に付して弔ってきた。彼等は、葬儀で警備が甘くなることを予想できるはずなのだ。


 思考を巡らせ、推測を構築した少女は一人で裏口に陣取った。裏口から顔を出しても死角となる、それなりに距離がある段ボールの陰で、喧噪から離れて闘争の気配に体を浸しながら。


 ホルスターからベレッタを抜き放つ。ここ暫く、死体も襲ってこなくて仕事が無かった拳銃が、ここぞとばかりに暴威を誇示せんと輝いた。電気が通らない廊下は暗いが、窓から入る冬の弱い陽光だけが廊下を照らしている。


 スライドを引ききらず、僅かにチェンバーを露出されば、そこには鈍色に輝く弾頭が収まっていた。捜索に出た時、即座に対応できるよう、初弾は既に装填を終えていた。例え記憶が定かでも、記憶違いによるミスを無くすための手続きは必要であろう。誰だって、心底下らない失敗で脳漿を床にぶちまけたくはあるまいて。


 普段ならば、明かりが落ちた廊下は暗くて物が見え難く良いことが無いが、今は薄暗さが有り難い。少女の存在を覆い隠し、気配を断ってくれるのだから。彼女は暗がりにしゃがみ込み、拳銃片手に三角座りを決め込むと、そっと瞑目した。


 耳を欹てて全てに気を配る。自分の存在が拡散して、世界に溶け込んでしまう錯覚を覚えるほどに使う感覚を絞り込むのだ。少女の自我は先鋭化し、床から伝わる冷たさなどの余計な感覚が次第に鈍り、最後には聴覚だけが残った。


 遠く聞こえる、鳴き声と火が爆ぜる音。人の営みは遠く、世界が自分一人になったように錯覚する。されど、少女はそこに孤独を覚えなかった。あるのは、自分を脅かす煩わしい物の不在による多幸感だけだ。


 世界が本当に自分しか居なければ、どれだけ楽だろうと考える。そんな世界は、何処までも平和で、きっと満ち足りているのであろう。


 他の者の合間に生きるからこそ、人間という。人という生き物は、単体で完結しないように作られているのだ。それは物体的な面で言えることだが、精神的なことでも変わりはない。


 人は孤独に耐えられないようにできているのだ。長く隔離された人間が、孤独に押しつぶされて精神に異常を来すなんて、実に有り触れた事だ。現代社会でも、人との接触が少なすぎて精神を病んだ症例など、町中に溢れている。


 物理的に頑強と言い難い人類だが、最も柔らかい部分は精神なのだ。豆腐のように柔らかく崩れやすい精神は、社会や他人という鋳型がなければ、形さえ作り出すことができない。


 しかし、少女は違う。この、物体的には満たされうる残骸のような世界で、たった一人、孤独に浸りながら生きて行ける。むしろ、楽な方に楽な方に流れてきた少女の源流は、人付き合いの煩わしさから逃れたいというものだ。


 幼少期は日本人離れした外見への迫害迫害を避ける為に。成長すれば、他人と違う外見に惹かれてくる異性や、嫉妬する同性を受け流す処世術を覚えた。そんな生きづらい環境に身を起き続けた彼女からすれば、他人は煩わしいだけの存在でしか無いのだ。


 にも関わらず人間に生きるのは、そうせねば生きて行けないからに他ならない。もしも、他人と関わらないで生きている環境があれば、少女は喜んで社会を捨てたであろう。


 つまりは、この少女も、彼の青年と同類の生き物なのだ。自分以外の生き物が、微生物の一匹たりとも存在しない空間に放り込まれたとしても、衣食住さえ足りていれば文句も無く一〇〇〇年正気で生存できる。そういった部類の、壊れた人間なのだ。


 だからこそ少女は、今の静寂を愛した。世界に自分しか居ないように思える感覚。寂寥感が変質した、異常な安心。何時までも、この感覚に浸っていられればと思った。


 されど、理想は実現しない。顔を膝に埋めて、孤独に浸っていた少女の静寂は俄に侵された。心の底から不機嫌そうに、瞼が上げられる。蒼く澄み渡った瞳だけが、暗闇の中で不気味に光を反射した。


 無機質な青い光は硝子玉の反射にも似ているが、それよりも更に類似した物がある。


 爬虫類の瞳だ。本能と一握りの知恵によって殺意を振るう、理性無き知能。より原始的な本能に突き動かされる、研ぎ澄まされた獣の目をしている。


 少女は静かに親指を動かし、慎重にベレッタのセーフティーを外した。発射可能状態にあると報せる、真っ赤なポインターは危険を知らせる色だが、その赤が向ける危険の矛先は、間違い無く少女の視線の先にある。


 静寂を汚す音は、コンクリートと土が何かに挟まれてこすれる音だ。特徴的な擦過音は、聞き間違えようも無い靴音であった。それも、できるだけ足音を立てないよう、精一杯気をつけて静かに脚が運ばれている。


 音源は五つあった。歩くタイミングが各々違うから判別できる。それに紛れて、小さな鉄がこすれる音も混じっていた。少女にとって聞き慣れた音は、スリングを固定する金具と銃の本体が擦れ合う音に他ならない。


 にぃ、と獣が歯を剥くように口の両端がつり上がる。邪悪な笑みを以て、少女は敵の醜態を嘲笑った。少しでも雑音を消せるように、自警団の人間は自分の銃器の金具にダクトテープを巻いている事が多い。それがないということは、彼等は紛れもなく敵ということだ。


 無遠慮に銃の音をさせ、潜めさせた態とらしい足音までついていて、敵でなければ何というのか。むしろ、状況証拠的に撃ち殺しても誹りを受けることは無いはずだ、と少女の殺意に濁った脳髄は思考する。


 獰猛な笑みと狂った笑いを浮かべて、少女は銃を両手で保持し、段ボールを支えに入り口へと向けた。銃口を含めて、決して暗がりから出しはしない。相手に見えては、奇襲にならないのだから。


 間もなく、中を伺うように扉が小さく開かれた。ご丁寧に鏡を差し込んで左右を確認しているが、それでは暗がりの奥まで見通すことはできない。杜撰な安全確認の後、扉が開ききられ、愚かな五人が姿を現した。


 だらけきった若者風の薄汚れたファッションに、無許可で携帯される銃器。一丁前に警戒しているつもりなのか、怪しい構えで突き出された銃器は右へ左へふらふらと揺れていた。射線さえも曖昧で、時に味方を捉える銃口。その上、保持される銃の引き金には、用も無いのにしっかり指が掛けられていた。


 素人も素人の動作だ。曲がりなりにも銃器の扱いに習熟した、四人の自衛隊員に指導された自警団員では絶対に晒せない無様である。


 もしこ、こんな危なっかしい手付きで扱おう日には、命が掛かっているだぞ、という怒号と共に鉄拳が飛んできたものだ。


 少女は、むしろ哀れみさえ伴った笑いを浮かべた。あの五人は、不確かな技術と知識で鉄火場に放り込まれたのだから。細い細いナイフの上を伝う、命綱も無く踊るジルバのダンスホールへと。


 そこに踏み込むのに資格は要らない。ともすれば、簡単なステップさえ知らずとも歓迎されるであろう。されど、誰もエスコートなどしてくれない。ついてこられなければ、ホールの床に突っ伏して、誰ぞのステップに踏みつけられるだけ。


 恨むなら、頭の悪い指揮官を恨むのだな、そう思いながら、少女はトリガーガードから引き金へと指を移した。緩やかに力を込める。後ほんの数十グラムも負荷が掛かれば撃鉄が落ちる、ギリギリの状態で機会を待つ。


 扉が閉じた。最後の一人が入り終えた時、愚かにも自ら退路を断ってしまったのだ。ここの入り口は内開きなので、外開きに開ければ、外に出るのに数秒のラグが余計に発生する。音速の弾丸が山と飛ぶ戦場では、その数秒は何処までも致命的だ。


 一番手前の男が、不安さを誤魔化すためか、銃をフラフラと四方八方へ向けている。一瞬、銃口が隣の味方の腹と被り……少女は、訪れた好機を見逃さずに引き金を引いた。


 撃鉄が落ち、雷管が殴打される。装薬が弾け、燃焼した火薬が生み出す膨大な燃焼ガスがチェンバーの中を荒れ狂い、薬莢から分離された弾頭を圧力の迸りも力強く押しだした。


 暗がりにマズルフラッシュの光が爆ぜ、弾丸は射線を遮るもののない二〇mの虚空を、認識できぬほどの速度で駆け抜けた。音速で飛ぶ9mmの高速弾にとっては、二〇mmなど瞬きの時間よりも早く過ぎてしまう。


 先端を硬質スチールで被甲された、貫通力に秀でるFMJは、狙いを過つ事無く男の腹に突き刺さった。


 「あ」とも「お」ともつかない悲鳴が溢れる。次いで、音速で飛翔する弾丸が産む、成人男性の蹴りよりも強烈な衝撃が体を揺らし、不用意に引き金に添えられていた指先に不必要な負荷を掛けさせた。


 音が連続して二つ爆ぜる。一つは、殆ど間を置くことも無く、ガスに押し出されて後退したスライドが戻ると同時に引き金が引かれた、少女のベレッタが上げるダブルタップの咆哮だ。


 もう一つは、弾着の衝撃で引き金をうっかり絞られたニューナンブの上げる、乾いた発砲音。38スペシャルは構造に従って正確に弾け、小ぶりな弾丸を対面に居た男の肩口に叩き込んだ。


 数秒の間も開けず、驚くほどの正確さで叩き込まれた弾丸は数センチの誤差で狙った男の胸へ突き刺さる。回転し、肉を引き裂く弾丸は心臓を引き裂き、血流を一時的に狂わせる。解剖医でも原型を取り戻せない程に心臓を破壊され、男は自分の愚かさを知覚する間もなく即死した。


 仲間の誤射で肩口を撃たれた男は、至近距離からの衝撃を受けてもんどり打って頽れる。目の前が紅く染まるほどの激痛が、弾着から数秒遅れて脳に伝わる。打ち込まれた弾は骨に掠りながら肉を穿ち、虚空に飛び抜けて壁へぶつかって止まった。


 まるでピンボールかビリヤードだ。目標としていた球を弾き、見事二つの球を落とした。費用対効果としてみれば、一回の奇襲で二人を葬り去ったのだから十分だ。


 敵は突然の奇襲に対応できていない。俄に銃声が鳴り響いたと思えば、仲間が二人倒れたのだ。それも、安全を確認したはずの場所から弾が飛んできた。来るはずの無い奇襲に対応するのは難しい。もしそれが、見通しの甘い確認しかしていないが故に受けた奇襲であれど、当人からすれば確認はすませているので関係無い。残るのは、不意を打たれたという現実と混乱だけだ。


 少女は銃口を巡らせ、次の目標を探る。敵はプロでもあるまいし、二発撃っただけで発砲箇所を瞬時に判別して撃ち返すという業をみせようはずもない。ともすれば、この不意打ち一度で全員“喰って”しまえるほどだ。


 更に引き金を連続して絞る。されど、全くの偶然で必殺の弾丸は獲物に食いつかなかった。狙いを定めていた男が倒れた仲間に怯え、咄嗟の動作でしゃがんでしまったのだ。


 頭上を弾丸が抜けていく甲高い音を聞き、男は物陰に飛び込むでも遮蔽物を求めるでもなく、ただ恐怖に怯えて身を竦める。頭が混乱し、命を守る最低限の動作さえ思いつけないのだ。人間の頭は、混乱してしまえば最初期のコンピューターよりも劣る処理能力しは発揮し得ない。


 内心で舌打ちしながら、少女は銃口を巡らせて、しゃがみ込むだけで弾を避けられると思った愚か者の頭を西瓜のように吹き飛ばした。幸運は二度も訪れぬ。研ぎ澄まされた照準は、幸運と偶然以外で的を過つ事は無い。


 されど、六発も叩き込むと些か撃ちすぎだ。マズルフラッシュの瞬きも六度目となれば、如何に鈍くとも射手の場所に気付いてしまう。一人は少女に向かって弾を射掛け、一人は慌てふためいて扉へと向かった。


 だが、二〇mという距離は、精妙にして確実な技量を誇る戦士だけに赦された領域だ。短銃身のリボルバー、それも扱い慣れぬ人間が放てども、ラッキーヒット以外は到底期待できぬ。反撃の弾丸は明後日の方向へ飛翔し、暗がりの中へと消えていった。


 これが短機関銃であれば話は少し違ってくるが、五人の内で長物を携えていたのはしゃがんで撃たれた馬鹿が一人と、今正に逃げだそうとしている臆病者の二人だ。武器の配分が違っていれば、彼等の運命も少しは変わったであろうに。


 しかし、仮定を上げても仕方が無い。結局は、そうならなかったのだから。


 少女も反撃せんと、銃口を扉に取り付いた男へ動かすが、先制攻撃が成功した時点で少女は戦略的に勝利している。このままブラインドファイアで敵を釘付けにし、重武装の自警団員が駆けつけるのを待っても良いのだ。むしろ、その方が賢い選択とも言える。


 それでも、少女は止まらない。一応エコー達の仇ではあるし、命を狙って入り込んできた敵を見逃してやるほど優しくも無い。殺せる敵なら、殺すだけだ。


 わたわたと覚束無い手付きでノブを弄る男に照門を重ねる。慌てすぎて、ドアノブという簡素極まる動作の危惧の使い方すら忘れてしまったようだ。


 一人たりとも逃がしてなるものか、原初的な殺意に導かれつつ、少女は優先度を振り分けて、殆ど命中する心配のない距離に居た拳銃手を後回しにした。


 ダブルタップの一撃は、十センチも離れないで晒された横っ腹にねじ込まれた。即死するような位置ではないが、行動できるような位置でも無い。暗い色の血が飛び散り、男の体が泳ぐ。


 しかし、崩れかけた体勢を、拳銃を持っていた男が引っ張り上げて戻させる。だが、それは決して男の助命を意図した行為ではなかった。


 振り回すように、未だ死していない男の体を己の前に回す。背丈の殆ど変わらない男が、成人男性を一人盾にすれば、体の殆どは覆い隠せる。そう、仲間を壁にしようというのだ。


 逃げられるか、と少し焦りを覚えた少女だが、男は逃げなかった。肉の盾を掲げながら、早足に少女へと詰め寄ってくる。自分があてられる距離まで、強引に近づくつもりで居るのだ。


 「上等……」


 獣の笑みを強めながら、少女は引き金を絞った。この距離なら、FMJの弾頭は蛋白質と水分の盾程度、容易く引き裂くことができる。


 更に引き金を二度絞り、腹の真ん中に叩き込む。この位置であれば、突き抜けた弾は背後の男へと当たるはずである。


 が、少女の意図に逆らって男は止まらない。少女は驚愕に目を見開くも、思考は止まらず、更に二度引き金を絞った。


 確かに、盾にされた男は体を跳ねさせて死んだ。肝臓や腎臓などの重要臓器を弾丸でミキシングされて、生きて行ける人間はいない。されど、弾丸は体内に留まっていた。


 男が、少しは防弾効果があるかと期待して服の内に仕込んだ、分厚い月刊誌が弾丸の威力を減衰させたのだ。


 一〇cm近い、硬い紙の束は弾丸の威力を減衰させるに足る強度を誇る。9mmのFMJを止められるほどではないが、背中の雑誌と合わせて貫通を防ぐ程度の堅さはある。


 ダブルタップが都合六回、確実に殺す為、人間相手には二発ご馳走する習慣が悪く働き始める。


 ベレッタの装填数はダブルカラムのマガジンに、たっぷりと詰め込めば一五発。チェンバーに予め一発装填した上で、フル装填のマガジンを装填すれば一六発だ。


 都合一二発も発砲しており、銃の中には四発しか残っていない。五人を殺すには十分過ぎる装填数だったのだが、こうなると話が違ってくる。


 距離は、もう一〇mほどに詰められている。物陰に戻り、マガジンを取り出して装填している暇など最早無い。少女は、現有の弾丸で何としても男を止めねばならなかった。


 如何に下手であれども、銃を真っ直ぐ構える程度のお脳があれば、五mほどしか距離が無ければ弾は十分当てられる。少女としては、死ぬにしてもド素人の弾で死ぬなんてプライドが赦さない。


 脚を止めねばならない。小走りだから安定しないが、ぶらつくせいで盾からのカバーが完全ではない脚を狙ってみる。


 一発、二発と放つも、タイミングが合わず、弾は無情に床へと牙を突き立てる。流石の少女でも、人間の足のように忙しなく動く的へ弾を当てるのは難しいのだ。


 距離はもう五mもない。男は死体を投げ捨てるような愚を犯すことは無く、盾の脇の下から銃を突きだし、自分の顔は最小限に覗かせて狙いを付けている。


 頭は小さく動きが機敏だ。狙うのは難しい。それならば。


 一瞬の判断。少女は銃口のライフリングさえ覗けるのでは、と錯覚するほど近づいたニューナンブに弾丸を叩き込んだ。


 映画のように、銃口にジャストインとはいかない。だが、照門を覗くことも無く感覚で放たれたにしては、弾丸は見事に命中した。 鈍色の弾丸は、左側面からニューナンブのシリンダーに突き刺さり、機構部ごとレンコン状のシリンダーをもぎ取った。


 衝撃が男の手にも伝わり、右手を手ひどく打ち据える。弾着の威力は痺れへと姿を変え、弾かれたニューナンブのトリガーガードに差し込まれていた人差し指は、円環に浚われてあらぬ方向にねじ曲がる。耐えがたい脱臼の熱と痛みに、男は甲高い悲鳴を上げた。


 残り一発、この一発で男を殺せば万々歳だ。少女は男が頭を出すか、痛みに負けて死体を手放すのを待ったが……咄嗟に拳銃が動かされ、引き金が絞られる。


 殆ど反射的に為された射撃で弾丸が穿ったのは、肩を頼りに這いずってきた男の背中だった。一番最初に撃った男から誤射を受け、肩を砕かれた男であった。


 彼は肩を砕かれながらも気絶せず、このままでは全滅すると思い、少女の注意が外れたのを良い事に死角を這って接近していたのだ。


 そして、地面に腕を添え、非常に安定した状態での射撃体勢を整えており、決して不可能とは言えない状態で少女を殺せる体勢にあった。


 浴びせかけられる殺気に反応し、腕が振るわれ、結果として血を流しながら這いずった男の命は奪われた。されど、全てが無に帰した訳では無い。


 最後の一発を撃ちきった瞬間、薬莢を吐き出すために後退したスライドが動きを止める。マガジンの中に弾丸が無く、装填すべき弾が切れた事を知らせる動作だ。


 自動拳銃は、次の装填をスムーズにすると同時に、使用者へ弾切れを分かりやすく報せる為の機構が内蔵されている。マガジンを交換し、ストッパーを落とすだけで装填作業が完了するのは便利であるが、その動作は致命的な隙を敵に報せる事にも繋がる。


 形容しがたき怪鳥のような声を上げ、男が死体を投げ捨てて、腰から一本のナイフを抜き放つ。両刃の刃渡り一〇cm程度の長さがあるシースナイフで、それは表面の塗装が剥げるほど研ぎ上げられていた。


 彼が死体の体に絡みつく短機関銃に固執せず、ナイフを取り出したのは賢い選択だったと言えよう。スリングを外して安全装置を外すといった手間をかければ、少女はその隙にリロードを終えて、マガジンの弾丸全てを男に叩き込むこともできたのだから。


 男は獰猛に笑っていた。目には隠しようも無い嗜虐の光が燃え、勝った、と叫び出しそうな程だ。


 ホールドオープン状態の銃は、使用者のみならず敵対者にも明確に弾切れを報せる。インファイトの距離に入れば、リロードなどしている暇は無い。そうなれば、銃は単なる鉄の塊と化す。


 お粗末な銃の腕とは対称的に、ナイフの扱いは心得があるらしく、男は素早く駆け寄りながら半身に構え、最後の一歩を鋭い踏み込に変えてナイフを繰り出した。


 狙いは喉頸ではなく、銃を握る手だ。右でも左でも良い、当たればそれだけで戦闘能力は大きく削がれるのだから。その上、もし銃を手放して回避した所で、更に踏み込めば胴体に切っ先を突き込むこともできる。


 少女は内心で冷や汗を掻きながら、ほんの一瞬で計算を終わらせた。自分を含めて数字を弾く、何処までも冷徹な引き算を。


 生き残るのに確実な方法は、これなのだ。内心で言い聞かせながら、少女は銃を手放した。


 両手でホールドしていた銃がこぼれ落ち狙いがはずれるが、男は構わず、すり足の要領で更なる一歩を踏み出し突きを見舞った。少女がどうしたところで、生身で鋼を止められはしないのだ。


 別の武器を手にするのは、ナイフが刺さるより何秒も後のことで、心臓が動きを止めた後で指が触れても遅すぎる。さりとて、素手でナイフを止めようとした所で、突きの軌道を変えて手を切り払えば済むところだ。


 その上、少女は障害物に隠れる為に膝を突いている。この状態から蹴りを放つには、少なくとも構造的に人間を止める必要がある。よしんば、無理して蹴ってきたところで勢いの付いた体は止められない。もう、どうしようもない筈なのだ。


 だが、少女は変わらず嗤っていた。肉食獣のような、狩る側にあると自認した残虐な笑みを未だ湛えている。男の背筋に、死を予感させる怖気が走り、同時に肉を裂く手応えが伝わってきた。


 刃は、まず薄い繊維と皮膚を裂いた。微かな弾力を持ってはじき返す肌に先端を差し込み、ついで組織を断ち割りながら潜り込む。次に切り込むのは肉と骨だ。断たれた血管から血が飛沫となって散り、掠った骨を削る硬い手応えを覚える。


 そして、最後には全てを穿って、切っ先は再び虚空へと躍り出た。


 大量の血飛沫を伴い、少女の手の甲から。


 男の顔が驚愕に歪んだ。一方、自分の手から迸った血化粧を纏いながら、少女は嗤っている。痛みなど感じていなかのように、貫かれ、唾元までナイフを飲み込んだ左手を閉じ、きつくナイフをホールドしながら。


 新たな武器を抜く暇は無く、体制的に反撃も回避も難しく、いなすのも確実では無い。なら、無理にでも止めれば良いのだ。己の体なり何なりを用いて。


 少女は迎え撃つように体を起こし、突き込まれるナイフを左手で迎え撃った。指ぬきのグローブは破片を止められてもナイフは止められず、突き込まれる刃は三番と四番の中手骨の合間を抜けて掌を貫いた。しかし、そこで終わりだ。


 少女は、自分の左手を盾にしたのだ。そして、手指を握り込むことによって、ナイフを抜くことも捻ることも出来ないように押さえ込む。


 剰りの事に、男は反応が遅れた。驚愕から回復しても、攻撃手段を失う事を嫌ってナイフに固執してしまう。引き抜こうとナイフを引っ張るも、硬く握られた指はナイフを放そうとしない。痛みを与えれば離すかと捻って見れど、溶接されたように手はナイフから離れなかった。


 悪戦苦闘すること数秒、その数秒は少女にとって福音に等しいものであった。ただ、その数秒とナイフに固執する思考の隙、これだけあれば逆転は容易だ。


 少女は立ち上がりながら、無傷の右手で男の髪の毛を掴んだ。長く洗われておらず、油で痛んだ髪を千切れるのも気にしないで強引に鷲掴み、手前に引き寄せる。


 繊維が引き抜け、千切れる小気味良い感触と耳障りな絶叫。無理に抗えば、頭皮ごと引き剥がされそうな痛みに耐えかねて、男の体は前に倒れ込む。


 その前に、少女は髪から手を離し、頭を右脇の間へと誘い込んだ。そして、完全に首が通ったことを見計らうと前腕を首の下に通し、万力の如く締め上げる。


 片手で行われるフロントチョークであった。気管を塞ぎ、意識を落とす効率の良い絞め技であり、少女の行ったそれは、正しく頭をねじ切ろうとする気概もあって、別名のギロチンチョークという名前がよく似合っていた。


 遂にナイフから手が離される。首に掛かった負荷を振りほどこうと、両手が右腕に添えられたのだ。だが逆に、少女は拘束から解き放たれた左の手首を右手で掴むことによって拘束を強めてしまう。圧迫が強くなり、首への負荷はいよいよ以て増してゆく。


 骨が断末魔の軋みを上げる。締め上げられた気管が、七本の首の骨諸共に千切れ飛びそうだった。塞がれた血管から酸素が供給されないせいで脳が濁り、目の前が紅く充血しはじめる。豊かな少女の胸が、後頭部にめり込むように触れているなど、意識することも出来ぬほどに男は苦しめられていた。


 チョークは完全に決まっている。体はくの字に歪むよう押さえ込まれ、蹴りも放つことは出来ない。殴って束縛を解こうにも、体勢が崩れていて強いパンチは出せないし、そもそも腕から手を離せば拘束が強まって数秒と保たず意識は落ちるだろう。


 さりとて、最早効果的に少女を振りほどく術は……そこまで考えた所で、男の脳裏に閃きが走る。


 少女は、右手での束縛を強める為に左腕を握ってはいれど、左手の力は抜いていた。抉れた傷口から生えるナイフは、力強い拘束から解き放たれている。流石に、これ以上の負荷を掛けて傷を酷くしたくなかったのだろう。技は完璧に決まっているから、気を抜いていたのだ。


 男はしめたと落ちかけた思考の中で笑い、腕に抗う手を片方離した。右手でナイフの柄を掴み取り、一息に引き抜く。少女の手に激痛が走り、締め上げた腕が跳ね上がる。


 腹は自分の頭や上体、少女自身の左腕で隠されているから狙えない。それならば、と男は少女の左大腿部へとナイフを根元まで突き込んだ。


 少女の口から苦痛の声が漏れる。過剰なまでに血が溢れ、脳が焼き切れるほどの激痛が迸る。だが、男はそこで攻撃を止めてはくれない。何度も突き刺すほどの力は無くとも、刃を捻って傷口を抉ることはできる。ナイフが肉をこじ開けるかのように動かされ、筋繊維が断ち斬れ血管が引き裂かれる。


 一瞬、腕に掛かる負荷が緩む。これならなんとか逃れられる! と男は思ったが、彼の考えは少女の上げる、怪物のような叫びにかき消された。


 言語化できない獣のような叫びを上げながら、少女は一旦緩んだ腕の力を込め直した。そうして、今度は自ら後ろに倒れ込む。


 この女、痛くないのか!? と驚愕する男。少女は受け身も投げ捨てて体を背後に倒し、見事に背中から転倒した。


 衝撃が二人を襲うが、最も負荷が与えられたのは男の首だ。衝撃がモロに伝わり、圧迫の負荷も相まって頸椎に重大なダメージをもたらす。


 その上、少女は最後の抵抗もかき消すように脚を開いて体に回し、胴体をも締め上げる。互いにむつみ合う男女が如き体勢であれど、男が落ちるのは気絶の地獄だ。


 腕さえ動かせず、抵抗する術は完全に奪われた。酸欠に陥った脳が活動を停止し、意識を落とす。抵抗の意思が、残り火のように燻ったのか、数度痙攣した後で男の体は動きを止めた。


 用心の為、更に十数秒締め上げた後で、少女は戒めから首を解き放つ。脱力した体が、のし掛かるように少女を押しつぶした。


 「へへ、ざまぁ……」


 掠れた声で少女は嗤う。予定とは大分違ったが、とりあえずは目論見通りだ。伏撃を挫き、ついでに少ないであろう人員を更に削いでやった。望外な事に、生きた捕虜まで得る事ができたのだ。負傷の問題はあれど、これ以上は無い戦果と言えよう。


 これで暫くは、敵方も静かになるはずだ。少なくとも、組織に痛烈なダメージを与えたのだから、彼等としても動きにくくなるであろう。何より、指揮を高揚させていた成功の熱気は、この失敗で吹き飛ぶのだろうから。


 勝利に酔っていた少女だが、じわり、と存在を主張するように傷口から血が広がっていく。男は気絶したが、男が残した傷が消える訳では無い。抉られ、こじ開けられた傷口から止めどなく血が溢れている。


 掌には向こう側が覗けそうなほど大きな貫通創、骨に罅も入っている。太股は肉が無惨に裂かれ、大事な血管が切れているのか血が止まらない。このままだと、十数分もすれば少女は失血死するはずだ。もしかしたら、もっと早くに失血性のショック死もあるやもしれない。


 だが、遠くから声が聞こえていた。バタバタと走り回る足音も一緒である。


 それもそうだ。ここまで賑やかに銃声を響かせたのだから、幾ら葬儀に意識を取られていても気付かないはずが無い。直に自警団員が駆けつけて、負傷した少女や襲撃者の亡骸を発見することだろう。


 彼等が手早く処置をすれば、少女はもしかしたら助かるかもしれない。自分の運が向いている事を祈りながら、少女は目を閉じた。


 体から熱が失せていくのが分かる。横たわった廊下の温度が酷く冷たく、のし掛かる男の体温が不愉快に暖かい。とりあえず、元気になったら此奴を殺そうと、少女は内心で誓った。


 廊下の冷たさが強まり、堅さが失せる。まるで、泥に身を浸しているようだった。感覚がぼやけていき、体を取り巻く状況が曖昧に溶けていく。


 失血で脳から血が失せ、意識を保てない段階に近づいているのだ。襲いかかる冷たさは、その最中に感じる錯覚に過ぎない。


 しかし、水と泥の感覚は酷くリアルだ。粘質で硬く、不愉快にまとわりついてくる。


 圧迫感が酷く鬱陶しく感じ、少女は力が入らない体を動かして、男の下から体を引き抜く。年頃の乙女だから、という訳でも無いが、男にのし掛かられるという状況も気にくわなかった。


 失血と傷の痛みや殺意に反応して漏れ出したアドレナリンのせいで、大腿部の傷は痛みを伝えてこない。ただ、その部分だけがぼんやりと焼けるような感覚を伝えてきていた。


 ナイフは抜かない方が良いか、と少女は壁に身を預けながら考える。深々と突き立てられたナイフは傷口を抉っているが、今は傷口を塞いでもいる。不用意に引き抜けば、出血が酷くなることであろう。


 「勝利の美酒ってやつかな」


 薄れていく意識を押しとどめつつ、少女はビールの缶に手を伸ばす。敵を待つ時、一旦部屋に戻るのが面倒くさかったので持ってきていたのだ。


 覚束無い手付きでプルタブを起こし、一口呷る。醸造されたホップの苦味が舌を突き刺し、弱いアルコールが喉を焼く。味を無視して飲み込めば、廊下の気温に冷やされた炭酸は爽やかで心地よい物だった。ほんの数分の戦いなのに、知らぬ内に消耗して喉が渇いていたらしい。


 半分ほど一息に呷ると、少女はビールを傍らに置き、今度は胸ポケットから煙草を取り出した。この時には、失血で殆ど力が入らず、今にも手から力が失せてしまいそうになっている。


 白いソフトパックの煙草は、碇が刻印された上品なデザインをしていた。甘ったるい臭いのせいで、今まで誰も手を付けていなかった海外製の煙草らしい。


 感傷に引っ張られて持ってきたが、どうしたものだか。最早、自分にはフィルムを剥くだけの力さえ残っていないというのに。


 倦怠感はいよいよ以て強くなり、目の前は霞み始めている。体を包む冷たさは、凍った泥を被ったようにしつこく纏わり付いてくる。


 不意に、体を包む冷たさの泥から何かが生えてきて、肩を掴まれたような気がした。触れる感覚は、五指を持った人間の手のように感じられる。


 もしかしたら、誰かがお迎えに来たのかな? などと漫然に考えながら、少女の意識は闇に掠れて、手から転がり落ちた煙草が、血だまりに沈んだ…………。

 割と短めに書き上がりました、私です。え? 何でかって? 現実逃避です、言わせないでください恥ずかしい。


 そろそろ終われそうだ、良かった良かった。今年の夏に終わったら良いなぁ……でも、身近な人間が~~までに、とかいうと確実にオーバーするジンクスがあるので、何とも言えないのですが。夏を割り込んでも、今年の夏とはいってねーし(震え声) としんどい言い訳をすることもできますが。


 感想など何時も励みになっています。何というか、読んでいるとやる気が湧いてきますね。生の意見というのはありがたい物です。感想を書けるほど細かく読み込んでくれている、ということでもありますし。次も、前回ほどお待たせしないで済むようにしたいです。とりあえず2~3週間感覚で更新できたらベストなのですが……。ジンクスに引っかかりそうなので、明言するのは止めておきます。

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