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青年と犬と神の住まい

 長い長い石段があった。所々が苔むし、角が丸みを帯びるほど古くより佇んでいる石段だ。気が遠くなる困難な整地の末、山の斜面を貫くようにして作られた石段は、己が頂上に頂いた鳥居へと、ひたすらに伸びている。


 その鳥居の足下で、一人の青年が膝に手を突いて、喘ぐように荒い呼吸を繰り返してた。まだ1/4も越えていないのに二〇〇を越えた辺りで、数えるのも馬鹿らしくなりカウントを止めた石段を登り終えるのは、相当な難事であったらしい。額を伝って顎に垂れた止めどない汗を拭い、青年は珍しく悪態を零した。


 疲労感が脚に蓄積し、負荷の強い上下運動を延々繰り返していた関節が悲鳴を上げている。数時間前に風呂に入り、折角良い具合にさっぱりしていた体は、今や汗でしとどに濡れていた。


 年の瀬の夜とはいえ、運動すれば体温は上がるもので、肌着は絞れそうな程に潤っている。今は内側が燃えるように暑くとも、体内の温度を下げるべく分泌された汗は直ぐに冷え、例えようも無い寒さを伝えてくることであろう。


 急ぎ汗を拭い、肌着を変えねば風邪を惹くな、と青年は考える。どれだけ事情が逼迫していようが、汗が蒸発する際に奪われる熱と、真冬の冷えた外気は気など遣ってくれないのだから。


 彼の傍らでは、一頭の犬が荒い呼吸を繰り返している。豊かなダブルコートの被毛を纏った雌犬は、ラジエーターとして舌を口から放り出し、上がった体温の下降に努めていた。


 彼女の被毛は油分に富み、発汗量は人間よりも少なく済むこともあり、青年よりも消耗は遙かに少なく抑えられている。少なくとも、慌てて体を拭わずとも、彼女は風邪を惹くことは無い。


 貧弱な上に不便な己の体を呪いながら、青年は雌犬、カノンの頭を撫でてやってから、鳥居に立てかけて置いた鍬を手にした。登り終えておいて今更ではあるが、これはもう下に置いてきた方が正解だったのでは、と手の中の重みに顔を顰める。


 荒れていた呼吸が落ち着き、熱の火照りが失せてから、青年は改めて登り切った先を見回した。


 石畳の敷かれた参道があり、その周囲は白い玉砂利で舗装されていた。されど、長く放置され、手が入らなかった故に、玉砂利は方々に散って荒れた下地を覗かせている。


 参道は途中で分岐し、手水場や摂社へと通ずる。そして、参道の真正面に堂々と鎮座するは、見事な造りの拝殿であった。


 淡い月の光に照らし出されて、伝統に則って建立された神社は、闇夜で神秘的に輝いていた。長らく風雨に晒されたせいで瓦が所々で脱落しているが、神を祀る社は些かも威容を欠くこと無く、荘重に佇んでいる。


 全体の造りからして、ここは紛れもなく神社であった。しかし、周囲を見回しても神社の名を記した碑などは見受けられないし、祀っている神の名も見つけられない。鳥居の上をライトで照らしても、名を伺いしれる要素は存在していなかった。


 しかし、古びた階段や石畳を見るに、相当古い神社であることに違いは無い。少なくとも、明治期に入ってから建立された若い神社ではあるまい。神を祀る社に宿る厳かさは、決して施設の規模で決まるのでは無く、経てきた年数によって具備されるものなのだ。


 小さな違和感を覚えて耳を澄ませば、夜風に揺れる葉音に混じって微かな水音が青年の耳朶を打つ。消え入るような微かな音を辿れば、音の発生源は手水場からであった。彼は不思議に思って近づいてみると、水音は次第に音量を増し清涼に響く。


 近づいて見やると、屋根に護られた手水場には、なみなみと静謐な水が湛えられていた。止めどなく小さな龍を模した吸水口から絶えること無く水がこぼれ落ちている。


 運動の熱気を宿した手を差し込むと、帰ってくるのは温感を越えて、もはや斬るような痛みに近しい冷気だった。あまりの冷たさに反射的に手を抜き去るも、外気より尚冷え切った水の斬撃は中々失せてくれない。


 熱を移すように逆の手で手を揉みながら、青年は湧き水を使っているのだと察した。恐ろしく原始的な手法で汲み上げた湧き水が、人が失せた今も惰性で動き続けているのだ。


 風で飛ばされたのか、地面に転がっていた柄杓を手に取る。古びた柄杓を軽く洗ってから水を掬い、確かめるように口を付けた。


 まず、唇が痛いほどの冷たさに襲われ、次いで誘い込んだ口内が切れるような感覚に襲われた。歯茎の奥に座する神経が、無遠慮に踏み入ってきた冷たさに蹂躙されて痛みを主張する。されど、運動で乾いた口内粘膜は水気を受けて歓喜していた。


 乾ききった口に、水分を行き渡らせるように舌を蠢かせる。痛いほどの冷たさに耐えながら口内を循環させられた水は、次第に伝わった熱を受けとって潤み、丁度良い水温へと至る。そこまで水を温めてから、青年は用心深く水を干した。


 妙な味はせず、舌や口腔に違和感はない。ただの、よく冷えた正常な水だった。


 どれだけ喉が渇いていても、よく確かめもせずに水を干してはいけない。何故なら、例え流れているように見えても、一定の循環しかしない水は腐っていることがあるからだ。自らの体を守る為に、最初の一口はじっくりと吟味するように飲まねばならない。


 また、冷たい水を一気に胃へ誘い込むと、胃が驚いて顫動し、嘔吐に繋がることもある。口の中で水を温ませたのは、それを防ぐ目的もあった。


 一度安全だと分かると、乾いた体の欲求を留めることはしなかった。水を掬い、満足行くまで飲み続ける。剰りに冷えた水を口へ誘い込むのは痛みを伴うが、それも三度目を数えると感覚が麻痺して慣れた。


 腹に違和感を感じる手前で水分補給を止め、青年は小さく吐息する。冷却液を大量に供給したこともあり、体は既に冷えていた。


 それから、何かに気付いたように目を瞬かせてから、もう一度水を汲み、カノンの前の前で少しずつ垂らしてやった。


 待ってましたというような勢いで、流水に喰らい付くカノン。長い舌を繰り出して、掬うように水を飲んでいく。青年は、カノンが満足して飲むのを止めるまで、何度でも水を供給してやった。


 乾いた体に一番染みるのは、何だかんだで普通の水だ。スポーツドリンクは吸収効率こそ良いものの、甘みが酷く余分で、飲んだ時の爽快感は同じ冷え方でも水に一歩劣ると青年は感じる。そして、体に潤いが戻ると共に熱が失せ、改めて思考が回り始めた。


 口を拭い、目を閉じて耳を澄ます。感覚が世界中に拡散して、自分という概念が消え入るほどに周囲へ気を配る。耳に入るのは、夜風に葉音が揺れる音と至近の水音。他には、時折入り込む茂みが揺れる音だけであった。


 危惧していた、木立が不自然に揺れる音や枝が踏み折られる音、枯葉が蹴散らされる音はどれだけ待っても聞こえてくることはない。自然に産まれる音だけが、静かに鎮座していた。


 時折非規則に響く音は、小動物が動く音だろう。夜行性の動物が駆ける音だけなら、そこまで脅威ではない。死体が動く物音もなければ、野犬などの脅威たり得る大型動物も居ない。神社の周囲は、ある種の結界でも敷かれているかの如く平穏であった。


 神域には特別な何かが宿ると言うが、青年は突き詰めたリアリストで無神論者である。一々神の存在を信じて感謝したり、その恩恵が無限であると信じたりはしない。ただ、利用できるのならば粛々と利用するだけだ。


 鍬を担ぎ上げると、彼は脚を本殿へと向けた。日が完全に暮れて視界が著しく悪い今、無闇に動き回ることは得策では無い。故に、風雨をしのげそうな所で一晩を明かすため、無遠慮に神の住居へと押し入るのだ。


 最早中に入った物に意味がなくなった賽銭箱を通り過ぎ、本殿の扉に正対する。しかし、その扉には古びた鍵が掛けられていた。


 大きな鉄製の錠前で、青く錆びながらも複雑なレリーフが彫金された、上品な造りの鍵であった。瑞兆の獣をモチーフとしている辺り、本殿のために態々作られた鍵に相違なく、鍵その物にも歴史的な価値がありそうだった。


 されど、今はただの障害物に過ぎない。青年は鍬を持ち上げ、軽く振りかぶると鍵を殴打した。金属が金属を撃つ甲高い音が響き渡るも、鍵は錆を散らすだけで壊れはしなかった。


 それでも青年は何度も鍬で鍵を叩く。振り上げれば威力は出るが、当たりづらくなるので、威力が低くとも何度も叩いて壊す事を選んだのだ。


 最初の数度は錆が散るだけに留まったが、五回を超える頃には歪み始め、一五も叩いた頃には、遂に負荷に耐え切れて鍵は扉に封する役割を果たせずに落ちた。


 何度も硬い物を殴った衝撃が伝わるせいで、軽い痺れに憑かれる手を振りながら、もしセキュリティが生きていれば今頃は大変だっただろうと考えた。少なくとも、文化物窃盗に備えてか、最近の寺社ではセキュリティが当たり前のように導入されているものだ。


 小さな軋みを上げる扉を開けると、まず青年より先にカノンが鼻面を突っ込んだ。まるで、主人より先に中の危険を察知しようと言わんばかりに。ただ、長らく外から封鎖された本殿の中に、脅威となる物が存在しているとは考え難い。


 居たとしても、青年が柄にもなく寄生を上げて逃げ惑う羽目になる、黒く俊敏な昆虫程度だろう。


 事実、中は静かなものであった。ライトの光が切り裂くように入り込んだ部屋には、奥に神体を頂くであろう、白い布に覆われた祭壇以外には何も無い。しかし、意外な程に中は埃臭くも黴臭くも無く、むしろ清涼な榊の匂いすら感じられた。


 祀る者も失せ、参る者も居ないのにあり得ない事だ。青年は気のせいと切って捨て、ブーツだけは脱いで上がり込んだ。流石に、安全であると分かった場所に土足で上がり込むことだけは、日本人としての感性が咎めたのだ。


 鍬を壁際に立てかけ、バックパックを下ろす。折角風呂に入ったというのに、バックパックに圧迫されて風が通らなかった背中は、汗の濡れが一層酷かった。


 シャツのボタンを外し、襟をばたつかせて空気を送り込みつつ、青年は布の被せられた祭壇らしきものを観察した。布で隠された祭壇の上は、半円形の形に浮かび上がっている。


 形状から察するに、神道のご神体としては一般的である鏡が隠されているのだろう。神体に鏡が多いのは国家神道が制定した形式の名残はあるのだが、この神社は相当に古そうなので、そうではないのだろう。しかし、刀ならまだしも、鏡には最早特別な価値など無い。


 価値が無いと断じた青年は、覆い布に手すら触れず、扉を閉めて荷物の側に座り込んだ。


 運動後の虚脱感が体を襲う。汗が冷え切って風邪を惹く前に、汗を拭わなくては。彼は順次服を脱ぎ捨てると、バックパックからタオルを引っ張り出して汗をぬぐい去り、新しい被服に身を包んだ。これで少なくとも、真冬の深夜、寒さに震えることは無くなる。


 被服を替え終えた青年は壁に背を預け、鍬をかき抱いて体から力を抜いた。投げ出した脚に溜まった疲労で、脚全体が圧迫されるような不快感を覚えていた。


 カノンは、そんな青年の隣に腰を降ろして体を浅く丸めた。自分で暖を取らせ、青年の体温で自分も暖を取るかのように。


 彼は大きく息を吐いた後で、不意に眠気に襲いかかられる。胡乱な瞳で月明かりに浮かぶ壁を見つめながら、足先から泥にずぶずぶと沈んでいくような錯覚を感じる。足首に、睡魔の腕がガッチリと掴みかかっていた。


 眠気にから、足下の何処か深い所へと引きずり下ろされるように体の均衡が崩れた。思っていたよりも消耗していたらしい。貪欲な本能が、明日以降もコンディションを保つため、意識を強引に落とそうとしているのだ。


 体が脱力し、芯から力が抜けて預けていた背が滑る。気がつくと、青年は崩れるようにカノンへと体を預けていた。もたれ掛かるというよりも、丸くなった彼女の体の合間に頭から肩までを埋める形になる。


 鼻腔に感じる獣臭を嗅ぎながら、青年は目を閉じて睡魔に身を任せることにした。どのみち、危険を感じれば目が覚めるはずだ。それならば、明日以降に備えて眠った方が良い。


 瞼が鉛に変わったように重くなるが、彼は重みに抵抗すること無く目を閉じた。獣臭に混じって自分が使った石鹸と汗の臭いが鼻先を擽る。その中に、不思議と懐かしい匂いを覚えたが、どんな匂いだったのかは思い出せなかった。


 夢は、見なかった…………。












 小さな身じろぎで青年は覚醒した。体を持ち上げると、寝汗でくっついたカノンの抜け毛が幾らか落ちる。妙な体勢で寝入ったせいか、首に軽い違和感を覚えていた。


 寝起きの虚脱感に襲われている低血圧気味の体を強引に引き起こし、殆ど惰性で動く体が自動で目を拭った。眠気を払うために押しつけられた手に、硬い違和感を覚える。目脂だろう。


 目脂は血中に混じる不純物の排泄でもある。血が汚れていたり、疲れていたり、何らかの薬物を摂取した時には増量傾向にある。普段より大ぶりな乾いた目脂が溢れるのを見て、青年はやはり疲れていたのだなと思った。


 覚醒の原因はカノンの身じろぎであった。やはり、人間の頭のような重量物を何時間も乗せていると辛かったらしい。それでも、外を見れば既に淡くだが日が差していた。重さを朝まで耐えたのは、正しく忠節が為せる業であろう。


 「すまなかった、重かったな」


 労いの言葉を掛け、青年と同じくぼんやり覚醒しているカノンの頭を優しく撫でる。毛並みが正されると、半目に開いていた目が静かに閉じられた。寝苦しくて眠りが浅かったのか、彼女もまだ眠気を駆逐できずにいるようであった。


 軋む体に鞭を打ちながら体を起こし、本殿の引き戸を開くと、光に照らされて紫に色を変じた明け方の空が広がる。参道の向こうに広がる山々の稜線から陽光が溢れ、黄色にも似た光で夜を薄めているのだ。


 青にもなりきれず、黒には弱すぎる紫の空の下、青年は大きく伸びをして固まった筋肉と筋を解す。微かにけぶるような朝靄の中、静かに風の音と手水場から溢れる水の音だけが、優しく静寂をかき乱していた。


 切れるような冷たさの水で顔を注ぐと、少しは眠気も落ちる。手水場で顔を洗って、寝起きの気持ち悪い口腔を注げば、青年も少しは本調子を取り戻す。


 まだ若いからか、脚に蟠っていた疲労の重さは眠りの縁に置き去りにされていた。昨日と同じく、装備を担いだままで何キロか走った所で支障がない所まで回復している。


 スリングでぶら下げたMP5も、太股に巻き付けたレッグホルスターも昨夜ほどは疎ましく感じない。今はただ、昇りつつある陽光を受けて輝く、光沢の無い黒が何よりも頼もしく思えた。


 山の稜線から太陽が顔を出す。すると、どっちつかずの紫は瞬く間に駆逐され、朝の爽やかな青空に塗りつぶされる。月は、太陽に追い出されるように対面の地平へと消えていった。


 幻想的な光景だ。手水場から望む山々は朝靄を纏いながら厳かに聳え、人の営みが露と消えた今も在り続けている。超然とした自然は、人が消えても何一つ代わりはしなかった。


 流転するのは人だけだ。国が敗れても山河は残る。何時の日か、この神社が風雨に負けて崩れ、飛散した植物の種より芽吹いた草花で参道が埋もれても、自然は惑星が終わるその日まで、淡々と在り続けることであろう。


 「母なる自然は性悪女か」


 青年は何処かで聞きかじったジョークを吐き捨てて、寝癖の残る髪の毛を掻き毟る。昨日風呂に入ったこともあり、普段と違って雲脂は散らなかった。


 昨夜と変わらず、朝日に洗われた境内は平和その物であった。死体が這いずる音はせず、大きな獣の気配も無い。石段から山道を見下ろしても、追いかけてくる死体の姿は何処にも無かった。


 平衡感覚に乏しい死体のことだ。山の中に逃げ込めば、追いついてくるのには相当難儀するだろう。特に、この急な石段を登り切るのは至難の筈だ。青年はふと、この地こそ長年求めた安住の土地ではなかろうか、と思い至った。


 険しい自然に囲まれた自然の要害。物資を集められる、適度に人が居た形跡のある都市が点在し、死体の絶対数は少ない。深い山野は自然の恵みを提供してくれることだろうし、少し頑張れば菜園を作って野菜を得ることも不可能では無い。


 確かに毎度毎度階段を昇る不便はあるが、それでも死体はここまでやって来られないだろう。例え抜けてきたとしても数は少なく、鈍器で始末がつく数の筈だ。その上、階段の近くで駆除したら、突き落とすだけでケリが付くのだ。考えれば考える程、ここは理想的な立地であった。


 水はある。雨風を防げる建物もあり、階段の下には十分キャンピングカーを停めておくスペースも。その上、進入路は殆ど階段のみだ。見張る場所は少ないに越した事はない。


 今すぐには無理でも、ここは良い場所だと、青年は記憶に留めておくことにした。土地勘がないので、正確にここが何処かは把握出来ずとも、キャンピングカーに戻った後でカーナビか国土院の地図を使えば良い。寺社の地図記号を頼りに探せば、直ぐに見つかることであろう。


 訥々と将来の定住について考えていると、不意に腹が呻き声を上げた。何の事は無い、消化する者を無くした胃が顫動し、空腹を伝えてきているのだ。


 環境も落ち着いているのだし、と考えて青年は朝食を摂ることにした。とはいえ、持っている食べ物は多くないので、豪華な朝食とは行かないが。


 昨日上がり込んだ家で調達した手鍋を取りに戻ると、カノンは既に目を覚ましていた。


 カノンを伴って手水場から水を汲み、水を湧かして白湯を作ると共に乾麺を湯がく。朝方の外は酷く冷えるので、ダウンジャケットしか防寒具の持ち合わせが無い青年には、暖かいラーメンの汁は体に染みいるほど有り難く感ぜられた。


 白く濁ったスープと、欠片が残った薄いワンタンを干して、やっと胃は落ち着いた。即席乾麺は朝に食べるには少々重すぎるきらいがあるが、彼はそれを危惧して粉末スープを半分ほどしか使わなかったので、気分を悪くするようなことは無かった。


 少し行儀は悪いものの鍋から直接ラーメンを啜って朝食を終えた青年は、装具一式を軽く点検したあとで周囲の探索に乗り出した。少なくとも、死体を周辺に引きつけるために数日は滞在する必要がある。そうしなければ、あの国道に道を拓いて先に進むことはできないのだ。


 使う機会は無いだろうが、もしもに構えるのは重要だ。スライドを引いて薬室に弾を送れば直ぐに撃てる状態であると確認して、青年は拝殿から出た。


 荷物は置いていく。物盗りの心配は要らないし、探索に出るなら身軽な方が良い。それに、暫く近辺に逗留するにあたって、目に見えた危険が無いかを確認しに行くだけなのだ。態々荷物の一切合切を持ち歩く必要性は何処にも無い。


 青年は扉を閉めると、神社の周囲を歩き回って地形を確認した。


 山の中腹を切り開いて作った神社は広々としており、周囲を囲む林も人工のものらしく、植林された杉の木ばかりが目立つ。カノンが泰然と構えているので、犬などの大型生物などが生息している痕跡もないようで、ここは恐ろしい程安全であった。


 しかも、切り開いた土地であるからか、ここだけがぽっかり山中の間隙に作られた平地なのだ。上は険しく、下からは死体が昇りづらい、自然に築かれた要塞のような形になっている。


 随分と恵まれた、奇跡的な環境であった。危険は近づき難く、侵入も難しい。少なくとも、ここまでまともにやって来られるのは四本脚の高い走破性を誇る獣か、えっちらおっちら頑張って歩いてくる人間程度のものだろう。


 探索を続ける内に、神社の裏手に小さな小道がある事に気がついた。放置された下生えや、伸びるに任された立木の枝が遮っているせいで見つけづらかったのだが、明らかに踏みならして舗装した道が隠れている。


 上を遮る枝を退け、下生えをかき分けて地面を改めると、確かに人が均した道が見受けられる。久しく歩く者が居なかったのは、好き勝手に繁茂した草木から明白だ。


 道があるということは、先に何かがあるということに他ならぬ。場所が場所であるが故、想像できるのは倉庫だろう。祭事に用いる神具やら御輿は、大抵神社の近くに倉庫を置いて保管するものだ。


 ただ、この神社は集落から少し外れた山間に建っている。熱心な一族が世襲で神職をやっているのだとしたら、近場に家を持っていても不思議ではない。少なくとも、数えるのが馬鹿らしくなるほどの石段を、毎日登るが非効率であることは考えないでも直ぐに分かるからだ。


 とまれ、色々と想像を巡らせようとも実際に行ってみなければ、答えなど返って来ないのだが。青年は、とりあえず道の先を調べることにした。


 名も知らぬ草を踏みしめ、邪魔な枝を屈んだり押しのけて通る。もう少し快適に行き来したいのであれば、枝を払うのは急務であろう。


 しかして、草木を踏破した向こうに現れたのは、立派な門と壁を持つ日本建築であった。漆喰の壁に黒い瓦が葺かれ、それに囲まれた立派な平屋は見事な構えの数寄屋風書院建築であった。


 数寄屋風建築は、戦国時代の茶室に端を発する建築様式であり、そのことから建物自体は恐らく江戸期に立てられたものだと推測できる。


 家人が失せて庭木が手入れされることはなく、風雨が運んだ汚れに晒されようとも、建物が有する厳かさが揺るぐことはない。青年は暫し、林の中に建っているにしては立派過ぎる建築に眉を顰めた。


 脳裏に、軽く遠野物語に伝わるマヨヒガの伝承が想起される。山の奥に迷い込んだ旅人が、ふと立派な建物を見つけて入り込んでも誰も居なかった、という話だ。付随して、マヨヒガから何かを持ち替えれば莫大な富を成す、という話もある。


 これがマヨヒガであれば、果たして自分は幸運なのだろうかと思考を巡らせた。世の中は、黄泉比良坂と直結してしまっているような有様だ。死者が徘徊する中で、山中の怪異などといっても、逆に滑稽でしかない。


 まぁ、ここまで堂々と建っている神社の裏をほんの数分歩いたくらいで辿り着けるマヨヒガなら、程度も知れているかと笑い、青年は探索を続けた。


 門は、正門も勝手口も硬く閉ざされていた。押しても引いても動かず、ましてや引き戸でも無いので、普通に鍵がかけられているのだ。青年は壁を一回りして侵入口を探したが、大凡尋常の方法で通り抜けられる場所は、全て完璧に封鎖されていた。


 一旦正門まで戻ってきて、青年は顎に手を添えた。中に人の気配は無く、腐臭もしない。となると家人は既に死んでいるか、脱出しているかの二択だ。そして、今となっては壁の上を見張るように据えられた監視カメラも働きはしない。


 それならば、この二m程しか無い壁であるなら乗り越えてしまえば良い。青年は短機関銃を下ろして身軽になると、持っていた鍬を壁際に立てかけた。


 これを足場にして、壁を乗り越えようというのだ。幸いなことに、壁の上には有刺鉄線も鳥避けのとげも無い。ちょっとした足がかりさえあれば、乗り越えるのは簡単なことだ。


 ふと、少し前であれば、自分は立てかけた鍬の位置にあったな、と青年は思った。今では、おちゃらけた調子で映画のまねごとをしたがる奴は、記憶の中にしか存在していない。


 青年は大して労せずに門を乗り越えたが、流石に映画のように軽々とはいかなかった。一旦壁の上に登り切り、そこから脚を挫かないように、そろりと足先から体を下ろす。捻挫でもしたら大事だ。現状で走れなくなることは、喉笛を噛み千切られる事と同意だ。


 用心深く不格好に壁の向こうに降り立った青年は、壁からは全容が伺えなかった家が想像よりも立派な造りをしており意外さを感じていた。


 瓦の脱落は殆ど見られず、閉じられた縁側には雨戸が嵌められている。窓硝子が割れている所もなく、無論壁に穴も開いていない。住もうと思えば、今直ぐにでも住めそうなほど綺麗に保たれていた。


 移住計画が益々現実味を帯びてくる。環境が、設えたかの如く整っていた。天然の要害が立ちふさがってくれる上、この上なく見事な壁まであるのだ。これを利用すれば、最早死体は脅威では無くなる。


 例外中の例外だが、周囲の死体が一気に押し寄せてきて、山の全週を囲む四面楚歌状態に陥れば話は別である。その場合、聞こえてくるのは響き渡る楚の歌ではなく、低く伝わる呻き声になるだろう。


 とりあえずカノンを引き入れねばならない。青年は正門を見やると、巨大な閂が嵌まっているのが見えた。金属で補強された木が渡された閂は、何処までも原始的であるが故に返って強固だ。これをブチ破るには、トレーラーで突っ込むか、破城鎚でも持ってこない限りはどうにもならないだろう。


 勝手口も内鍵を回せば開くようになっているのだが、その上で金属製の閂を落とされていた。今時では珍しいほどに防備が硬い。何か重要な文化財でも管理していたのだろうか。


 鍵を開けてカノンを導き入れ、乗り越える為に置いていた荷物を回収する。大事な荷を少しでも離して行動するのに抵抗はあるが、さしもの青年も何kgもある鉄の塊を担いで塀を乗り越えることはできない。


 それに、銃は繊細だ。落として部品が歪めば精度が落ちて役立たずと化すし、MP5の減音機が折れたら発狂物の事態である。最悪、暴発して弾が自分に飛んでくる可能性もあるのだから、銃は荒っぽく扱う訳にはいかぬのだ。


 ひとまず安心したように、スリングを通して短機関銃を担ぎ直す。神経質なくらいでなければ生きて行けない世の中だが、神経質すぎるのも精神的には宜しくない。今となっては、荷物を少し離すだけで不安にある自分に、青年は少し辟易させられた。


 家というよりも屋敷と形容する方が正しいだろう家屋を探索する。磨り硝子が通されたスチールサッシの引き戸は施錠されており、花を散らした木が植わる庭に面した縁側には雨戸が嵌まっていた。雨戸は、内側から支えでもされているのかまともに動かなかった。


 しかし、中に誰かが籠城しているような気配はない。人が生活していたら長く残るはずの臭気がないのだ。


 消費された食品の据えた臭い。生きている限りは、絶対に出てくる排泄物の悪臭。そして、籠城の末に死んだ者が発する腐臭。その何れもが、この建物からは感じられなかった。


 臭いが無かった理由は、青年が庭の裏手に回り込んだ時に明らかになる。


 表側よりも広々とし、裏手にも縁側が設けられた庭。しかして、そこには大きな四つの土饅頭が並んで鎮座していた。


 土饅頭の向こうには、記念樹を植樹した時に残すような杭が突き立っていた。風雨を浴びて殆ど判別不能になりつつあるが、杭には毛筆で何事かが書き付けられている。


 人名であった。誰かが、この庭で死人を葬ったのだ。簡素ながら、土饅頭の墓には確かな弔いの後がある。朽ちた花の茎が、未だ飛ばされずに刺さっているのだ。


 土は乾燥しており、埋まっていた物が土に還元されるにつれて陥没していった形跡がある。かつて土が均整に盛られていたのだろうが、今では土饅頭の大きさは個々に変化してしまっている。


 丁寧に葬られている上、墓が荒れた形跡は無い。中の死体は完全に死んでいる、本物の死体なのだろう。


 それに、よしんば土中で復活した所で、余程浅い所に埋めない限り、死体が墓穴から這いだしてくる事は、まずあり得ない。一mも掘れば、死体に覆い被さる土の量は相当な物となり、生半可な事では動かせないほどの重量になるからだ。


 如何に人間の四肢を裂けるほど筋力が発達していようと、土の圧力には抗えない。向こうは面で押しつけてくるのだから、点でしかない手で完全に掻き出すのは不可能だ。土の負荷に負けて、動くのに必要な肉が削げて木偶と化すのが目に見えていた。


 墓の下の死体に対しては心配は要るまい。問題は、この墓を作った人物の存在だ。死体には墓など掘れようはずも無いのだから。


 周囲に人の気配は無く、墓に誰かが参ったのも相当に昔。では、葬った者は何処へ消えてしまったのであろうか。


 庭の周囲には漆喰の白も眩い、これぞ蔵というような蔵が建っているが、その蔵にも立派な錠前が外から掛かっていた。中から錠前をかける術はないので、この中に誰かが居ると言うことはない。


 用心深く外周を更に何度か巡れども、終ぞ人の気配を感じ取ることはできなかった。そして、まともな侵入口も見つからない。なので、青年は仕方なく鍬を使って縁側の雨戸を一枚引き剥がすことによって、屋敷への侵入を果たした。


 ライトで屋敷の中を照らす。襖で区切られた部屋があり、灯りの中を無数の微細な塵が舞っている。入り込む前に、廊下を軽く指でなぞると、床板の上には埃が厚く堆積していた。


 カノンが身を乗り出し、警戒するように暫く鼻を鳴らすも、そう間を置くこと無く静かになった。この屋敷の中に、カノンが警戒するような臭いを放つ物は居ないのだ。


 腐臭渦巻く街の中であれば、琵琶湖に垂らされた一滴の水ですらかぎ分けるという犬の高精度センサーも麻痺して機能を落としてしまうが、この場にはかび臭いだけで清涼な空気が満ちている。現状であれば、カノンの鼻は青年の目よりも遙かに確実なセンサーとして機能するのだ。



 青年は労うように頭を撫でると、警戒も漫ろに屋敷へと上がり込んだ。昨日の民家とは違い、既にブーツは脱いで、片手にぶら下げて上がり込む。


 靴下に埃が絡みつき、歩く度に巻き上がる。鼻腔と気管に優しくない環境だ。青年は咳を零しつつ、通りかかる窓という窓を開け放し、雨戸を全開にしながら屋敷中を回った。


 屋敷は、古い建築には珍しくも無い事だが、一部屋一部屋を回れば歩き疲れるほどに広大であった。外観に見合った、年月を経た古さを持ちながらも、畳や障子に襖は定期的に張り替えられているのか埃に反して内装は綺麗で、台所は現代的なシステムキッチンに換装されていた。


 今では動かないが、電気式の湯沸かし器が備わった、横に寝そべるほど広く余裕のある風呂場まで設けられている。もしこれが動いたらと、青年は強く思った。


 部屋の数も膨大で、青年は途中で数えるのをやめた。幾つもの襖で区切られた部屋が連続しており、襖を取り払えば大広間になるような構造をしている部分が、屋敷の中央に広がっていたからだ。


 それ以外にも、私室らしき部屋も幾つか見受けられた。質素な文机が二脚ならび、電気式の行灯が置かれた古くさい部屋。和室なのだがシステムデスクが運び込まれ、可愛らしい小物に埋め尽くされた部屋。そして、本棚が何本も並ぶ書斎。人間が暮らしていた形跡が、有り有りと残されていたのだ。


 あの庭に弔われていたのは、これらの部屋の主達だろう。部屋のレイアウトと私物から推察するに、年頃の娘が一人と老夫婦が一組、最後に夫婦が一組。


 この五人の中の四人が何らかの理由で死に、最後に残った一人に葬られた。そして、その墓穴を掘った人間は何処かへと姿を消している。恐らくは、永遠に。


 つまり、ここは完全に空き屋という訳だ。開け放した窓から吹き込む風が埃を巻き上げる中、青年は安堵してとても大きな息を吐いた。分かっていても、自分の目で確認しないと安心できないのは人間の悲しい性なのだ。


 居間だったと思しき、立派な造りの座卓が置かれている部屋で青年は座り込んだ。この完璧に近い環境が、今は自分だけのものなのだ。静かに、冷めた心が興奮しているのを感じていた。


 時間は掛かるだろうが、拠点として改造すれば、ここは正しく青年が求めていた定住の地たり得る。適度に都市から遠く、適度に不便で、防御に易く攻撃に難い立地。水は確保されており、土地の広さも十分で、木の資源は山ほどある。少なくとも、十何年程度で駄目になる場所では無い。


 思いがけぬ拾いものだ。正しく怪我の功名、ひょうたんから駒。長い間探して彷徨っていた物が、虚しい逃避行の合間に見つかったのだ。形容し難い感動に包まれて、青年は暫し打ち震えていた。


 とはいえ、何時までも感動などしていられない。暫し感動に浸った後、こんな無防備を晒した事に自己嫌悪しつつ、青年は数日を過ごすために準備を始めた。自分に、仏陀でさえ悟った事を暫く自慢する程度許されたのだから、数分くらい構うまいと言い聞かせながら。


 風通しを良くして埃を気休め程度に拭い、しばしの生活拠点として使うべく、居間を洗面所で見つけた雑巾で丁寧に拭う。夜逃げしたようでもないので、この家には一般的な生活用品が殆ど全て揃っていたのも、青年の気を良くする。


 ついでというように、飲用のためではないのだろうが、地下水か井戸水を引いていると思しき蛇口がキッチンに据えられていた。田舎では洗濯用や洗い物の為に、こういった蛇口を引くことがあるらしく、青年にとっては望外な贈り物であった。これで、懸念していた手水場までの往復をしなくてよくなったのだから。


 また、ここを出たら長く開けるので本格的な掃除をしたわけではないが、それでもまともに環境が整うのには数時間を要した。時計を見れば、朝日が昇ると共に神社を出たというのに、短針は既に?の部分を大幅に過ぎ去っていた。


 「お前が手伝えたら、幾分か楽なのだがな」


 汗を拭いながら、青年は益体も無い事をカノンに言う。彼女は、困った様に小さく鼻を鳴らした。この身で、どうやって雑巾をかけろと言うのだと、問うかのようであった…………。 

 ところがどっこい生きている、私です。雑事が色々片付いて、やっとの事で投稿することができました。仕事とか大学とか就活とか、面倒な事が重なって四ヶ月も間が開いてしまった事を謝罪致します。エタったと思われても仕方の無い有様です。


 もう一年、大学に行くことになりそうです、自主的に。とりあえずは、何とかなったのではないかと思いつつ、次回はできるだけ直近で投稿できたらな、と思いながら試験の準備を始めております。間が開いてしまったので、自分でも設定ノートやプロットを読み直しながら書いてるので、変な所が出ていたらいやだな……。


 感想など、何時も励みになっています。楽しみに待ってくれているというコメントが来ていて、嬉しくもあり、申し訳なくもあり。せめて生存報告ぐらいするべきでしたね。それでは、また次回。

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