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青年と少女と転機

少しですがグロ描写があるっちゃあります。

 一台のキャンピングカーが広い道路を走っていた。転々と乗り捨てられた車が残された滋賀県の国道は、人口が多い方面ではなく地方へと向かう車線であるからか障害物となる車は疎らであった。


 持ち主から見捨てられた車は風雨に晒されてくすんだ色を晒し、開け放された扉から吹き込んだゴミで車内は酷く汚れている。浸透した水に蝕まれたのか、インテリアが酷く劣化し剥がれ落ちている車も珍しくはない。


 行き倒れた死体のような車両が遺る道をキャンピングカーは時速40kmで巡航する。そのハンドルを手繰る青年はBGMとして流しているプログレッシヴに耳を傾けつつも酷く眠そうであった。


 上下を黒で統一しベストを着た矮躯の青年は、小柄な体を座席に押し込めハンドルを握っている。停滞から喚起された眠気によって眇になった瞳には、濁った光が宿っていた。


 乾物にされた魚の方が幾分か生物らしく感じられる瞳が小さく動き、地図を示しているカーナビへと視線を注ぐ。滋賀県と三重県の県境に現在地を示す矢印が光っているが、もう何時間か走れば滋賀県と大阪府の県境へと場所は移るだろう。


 少し目線を移せば、草津という地名が見える。死体と放置車両で機能が死んだ道路を避けるために延々と県境を走っていたのだが、風呂好きの青年は温泉で有名な地名を目敏く発見した。


 いや、想像の後に来る後悔を思えば、発見してしまったという方が正しかろう。人は最初から知らないものの良さは分からないのだから。


 現在地からこれほどに近いのだ。もしも世界がまともなままで、宿が開いていたら風呂の例に漏れず温泉も好きな青年は迷わず温泉巡りでもしていたことであろう。


 死体の密集しているであろう市街地を避けるべく地方ばかり走ってきたが、そういえば殆ど観光地など巡ったことは無いなと思い返す。何時も物資と当座の安全を求めてコソコソと地方を選んで移動してきた。そして、せめてもの慰めというように道の駅やサービスエリアの土産物を漁って観光気分に浸ったものだ。


 大きな息を吐きながら、温泉にゆっくり浸かりたいと青年は思った。できればアルカリ泉質でphは低めの、肌に優しい泉質が望ましい。


 海辺よりも山間にある静かな宿で、山の幸がふんだんに用いられた夕飯を楽しんだ後、じっくりと浸かるのだ。その後は、軽く体を解してから仲居が用意した寝床で思う存分眠り、寝起きには朝風呂に入って清々しい気持ちで周囲の散策に繰り出す。これ以上の贅沢は無いだろう。


 されど、今となってはどれだけ夢想しようと適わぬ夢だ。何処の温泉宿であれども運行している所は最早あるまい。例え訪ねてみたとしても、あるのは枯れた湯船か停滞して腐った水を湛えた湯船に死体だけであろう。源泉掛け流しであっても汲み上げたり温度を調整する設備があって始めて機能するのだ。ともすれば、その設備が放置されたせいで暴走して火災を引き起こし、温泉街諸共焼け落ちている可能性さえある。


 「もう、この際温泉の元でもいいから風呂に入りたいものだな」


 小さな独白に助手席で身を埋めていた黒銀の毛並みも艶やかな犬、カノンが耳を動かして反応した。二等辺三角形の厚みがある耳は、言語が分からないなりに主の意向を何とか察しようと細やかに動いている。


 青年も心得たものか、自分の益体も無い独り言に反応してくれたカノンの頭を撫でてやった。軽く指を立て、それでも爪は立てないように気をつけて掻くように撫でる。そうしてやれば、気持ちいいのか彼女は丸めていた体を更に丸め、枕にしていた前足で顔をかき抱くようにした。


 動物のふとした仕草は可愛らしいものである。濁った瞳が少しだけ生気を取り戻し、愉快そうに輝いた。


 さて、時刻は昼を間近に控えている。適当な所で車を停めて、昼食を取ろうかと青年は考えた。ハンドルを切るだけだから運転は楽だと思われがちだが、これでいて重労働だ。四方に注意を払い、道にも気を払って走らせるのだから当然精神的に疲れる。


 それのみではなく、座っているにしても完全に背もたれやヘッドレストに体重は預けられないので楽な姿勢とも言い難い。オマケと言わんばかりに、このキャンピングカーのパワーステアリングは弱いのでハンドルが重いのである。体躯の小ささに見合った膂力した持たぬ青年にとって、重すぎるハンドルを何時間も握るのは正しく重労働と言えた。


 調理器具を手に入れたことにより幾分マシになった食事事情に思考を巡らせ、何を食べるか逡巡する。レトルト商品にインスタント麺と選択肢は以前より遙かに多いのだ、悩むのも致し方ないことであった。


 今日はラーメンにしようと思考が纏まり始めた折、不意に無線機が不愉快な音を立てた。昼頃になると、いつも何処ぞのホームセンターから無線を飛ばしてくる女が居るので情報源として活用すべく、車載のアマチュア無線を付けっぱなしにしていたのだ。


 『あ、もしもし? 聞こえてる? おーい、名無し氏?』


 雑音に混ざって女の声が響き渡る。闊達さの滲む明るい声は、聞き慣れた少女のものであった。少し眉根を顰めたが、青年は片手を伸ばし受話器を取り応答する。


 「私だ。走行中なんだが」


 『あはは、急でごめんね? 暫く連絡途絶えてたから死んだかと思ってさ。まぁ、無事ならいいんだよね。それよか、ちっと色々やばくってさー。焦げ臭い? あれ、きな臭いかな?』


 妙に機嫌良さそうに弾む、道化回し染みた口調。笑いを交えながらスピーカーを通し、遙か向こうの大阪に居る女は言葉を続ける。


 『ちょぉっとさ、いや、マジちょぉっとやばくてさ』


 「ちょっと、とはどの程度だ。説明には主語述語をしっかり入れて度合いも具体的にしろ」


 どれくらいやばいかっていうと、お風呂入ろうと服を脱いだ後で浴槽が空だって気付いたくらい? とすっとぼけた回答が返ってくる。青年は露骨に舌打ちを零しながら、片手運転ではハンドル操作を誤る危険性があるのでハザードランプを点灯させながら側道に停まる。その後、ハザードランプなんて要らないのに、とまた舌打ちを零した。


 ただ、タイミングがタイミングで受話器も持ったままであったので、その舌打ちは受話器の向こうの相手にとっては自分に向けられていると勘違いするに足る内容だったが。


 「そうか、割とフェイタルだな。で、それが何かね?」


 『あ、名無し氏お風呂好きなの? じゃあ相当致命傷か!』


 スピーカーから割れた笑い声が響く。何やら通信状態が前よりも悪化しているようだ。急ごしらえの電波塔を建屋の屋上にでっちあげて通信可能距離を稼いでいると少女は言っていたが、それに不具合でも生じたのだろうか。


 いい加減にせんと電源を切るぞ、と脅されて少女はやっと本題を切り出す。その内容は、改めての助命嘆願であった。


 『いや、今回はマジやばくてさ。ほんと、助けてよ名無し氏。今の状態で届くってことは割かし近いんでしょ?』


クラッチを操作してサイドブレーキを引き、停車措置を終える。此処は殆ど平坦な道なので、降りて車止めを挟むほどの必要性も無い。キーを回してエンジンを落とし、無線機を動かし続けるためにバッテリーだけ稼働させる。


 「病み上がりの人間に突然な要請だな?」 『あ、やっぱ病気してたの? 前触れも無く通信が途絶えたからさー、てっきり死んだかと』


 「今の所、死ぬ予定は無いな」


 予定にあろうとなかろうと、死ぬときは死ぬが、と内心で思いながらドリンクホルダに差していたスポーツドリンクを手に取り一口煽った。文明が終わってからは久しく人と話す機会がないので、沢山話すと億劫で口が渇くのだ。


 喉を潤し、一息付けてから青年は先を促す。たとえ解答は既に決まっていようとも、頭ごなしに断って小さいとはいえ情報源を断つのは憚られるからだ。


『やっぱ、中が騒がしくてさ。どうにも、収まりが付かなくつつあるんだよね。どうにかしたいんだけど、ほんと助けてよ』


 「中のことは中で片付けるべきだろう。外様の私が出向いて、やぁやぁ我こそは、と敵を撃てというのか? それは幾分、都合の良すぎる話だな」


 暗に見返りは何なのだ、と問う言葉に少女は乾いた言葉を返す。


 『あー……みんなからの賞賛とかほしくない?』


 「腹が減ったから切るぞ」


 一瞬、本当に切ってやろうかと青年は受話器を戻しかけた。スピーカーから謝罪の声が飛んできたので腕を留めたが、その方向で話が進めば本当に会話は終わっていただろう。そして、暫くは無線機の電源が灯ることもなかったはずだ。


 『えーと、安全にゴタゴタを解決するのには、ゴタゴタを上回る出来事が欲しいんだよね。できれば平和的かつ身内に利のある…………』


 「メリットを抱えた新人の加入かね?」


 YES、という妙にこなれた発音での肯定が返ってきた。青年は彼女の年齢しか知らないので外見の想像はしようが無いのだが、もしかしたら外国人なのだろうかという考えが頭を過ぎる。


 頭の端っこで要らないことを巡らせようと、脳髄の根本は冷えていた。そこにあるのは、ただひたすらの我欲と利己だ冷たい足し算に引き算である。現実的な利益のみを数字として扱う有機的な計算機は無情に計算を繰り返す。結果、現れるのは朧気な推論と、確定した結果のみ。


 「さしずめ、報酬は安全な住処と食糧の共有。それと英雄としてのポジションというところか? 最後は無いかもしれないし、こっちの武器も共有されそうだがな。後は……哀れにも引きつけられてきた外敵、という可能性もあるな」


 長らく昼時の会話相手だった少女だが、その実青年は彼女を全く信用も信頼もしていなかった。ただ、外のほんの僅かな情報を囀るだけのスピーカーに過ぎない。


 この会話とて、物資に困窮した彼女のコミュニティが困った末に獲物を引き寄せようとして発したものかもしれない。仏心を出していざ駆けつけてみれば、銃口が此方を向いて出迎えられ、身ぐるみ置いてけと叫ばれる可能性だって大いにあり得るのだ。


 よしんば真実であった所で、得られる利点は少ない。今の状況を顧みるに、移動し続ける事が最も安全だと判断したからこそ、彼は車をひたすらに走らせ当て所ない旅を続けている。だのに、態々危地に飛び込む必要性が一体何処にあろうか。


 とまれ、どう話そうとどんな理由があろうと、どのようなメリットを提案しようとも頭の中ではじき出される答えは変わらないのだ。もしも彼女達が立て籠もっているのが物資豊富な自衛隊の基地で安全が完璧に確保されるのであれば話は別だが、助けを請う程に困窮した小コミュニティであるのならにべもない。


 最終的に吐き出される答えは、「で、それで私が何か得するんですかね?」という趣旨の物だ。圧倒的なメリットでも無い限り、この男は決して自分を危険になど晒しはしない。


 色々と無茶をやってはいるが、全ての力は最終的に一点を向くように出来ている。即ち、自分だ。死体蔓延る商店街や商店に押し入るのも自己の維持に必要だからに過ぎない。それがないなら、例え些事であったところで青年は微動だにすることはなかろう。もしも、スピーカーの向こうに居る少女が目の前で死体に集られていたとしても。


 『つれないなぁ……ほら、颯爽と登場して厄介事をかたづけてくれたら、私という美少女が靡くかも!』


 「昔のホラーであったな、文通して通い合った相手といざあってみれば、二目とできない醜女だったとか」


 やる気も素っ気も無い返答をし、スポーツドリンクを更に一口。文句の罵倒は音量の摘みを下限にまで絞る事で対処した。


 そろそろ良いだろうか、という時期までまって摘みを元に戻す。こんなやり過ごし方も何度目か分からないほどで、慣れたものだ。


 『よろしい!?』


 「はいはい。で、もう何も無いか?」


 未だに憤りが混じった呟きが聞こえるものの、怒声は引いたので良しとする。正直な話、相手が臍を曲げて通信を絶った所で然程困らないので彼としては不快では無い程度の付き合いが出来ればそれでよいのだ。


 『もー……じゃあ、どうすりゃ来てくれるのさ』


 「そうさな、数え切れない程の弾丸や整備が行き届いた良質な銃でも無償で提供してくれるというのなら、考えないでもない。ではな、そろそろ昼餉だ」


 返答を聞かぬまま、青年は心底面倒くさそうに通信機を元に戻し無線の電源を落とす。そして何時までもバッテリーだけ動かしていても車に優しくないので、今度こそ車の機能を完全に落とした。


 自分は善人ではないし、ましてや正義の味方などではあろうはずもない。己を生かすのに必死なだけの一般人だ。そんな生き物が見返りも求めず人を助ける愚をどうして犯そうか。


 例えどれだけの人間が死のうが、文明が斃れようが、人類が滅び行こうが世界は何の興味も抱かず回っている。正義の味方も悪の秘密結社も現れず、文明は腐敗しながら終演へと近づいている。きっと、世の中などそのようにできているのだ。


 劇的でもなく、運命を感じさせるものでもない。終末は喇叭の音色も伴わず、滅びの大王も降臨することなく訪れた。


 爆発とは起こりこそ激しいが、終わりはぱったりと訪れる物だ。人類の始まりがビックバンに端を発するというのなら、この立ち消えるような終わり方も当然の帰結なのであろう。


 「私としては、私が死ぬまで食べ物が保てばそれでいいさ……飯にしようか、カノン」


 利己主義の塊の誘いに、彼の忠実な従者は起き上がることによって無言の了承を返した…………。












 「こりゃ、いよいよ詰みかにゃ」


 狭く、物が妙に散らばった部屋で一人の少女が呟いた。言葉の終端は上がっておらず、推測というよりも己に言い聞かせるかのような淡々とした声であった。


 長い金髪をうなじで結わえ、日本人離れした体躯を寝床に放り出したまま、彼女は視線を電源の落ちた無線機に送る。


 「頼りになる騎兵隊は無しの礫で、いよいよ川の水は濁ってきたと。王子様が来ないままに枯死するラプンツェルとか、格好つかんでしょ」


 己が湛えた流れる金色の水が如き髪を弄りながら、抑揚の無い声が口の端よりこぼれ落ちた。普段の不必要な迄に弾んで楽しそうな声とは対称的に、色合いの無い淀んだ声。そのしゃべり方は、先程までスピーカーから発せられた物と相似している。


 うねりを帯びた髪の毛を手放した指先は、ポケットから一発の弾丸を引き摺り出す。鈍色の弾頭を輝かせる9mmパラベラムは安っぽい蛍光灯の明かりを反射して、酷く魅惑的な光を放っていた。


 真鍮色の輝きは自由への誘いだ。少女の脳裏に、これで楽になれるという自身の声が響き渡る。ベレッタの弾倉に弾をこめ、スライドを引いてセーフティーを外し、引き金を絞れば何もかもが終わりだ。


 チープなホラー映画にも似た現実を描く脳髄は弾丸にかき回されて機能を失い、これ以上刻苦に苛まれることもなくなる。この上は存在しない完璧な逃避だ。


 かの世界宗教では自殺は罪という。彼女も洗礼名を持つ身だ、例え信じておらずとも知識としては知っている。されど、今の惨状こそが神の不在証明書とも言える。死体が蘇り地に溢れるなど、敬虔な信者でさえ自害しかねない有様だ。


安っぽいはずの輝きは不思議と蠱惑的に映る。楽な方へと流されていくのが人間の常だ。楽に生きるために歪んだ処世術を身につけた少女であれば、楽な方へ流されたいという欲求は更に強い。意図せずして、弾丸を摘む手の親指が震えた。まるで銃のマガジンキャッチを探すかのように。


 自殺は臆病者のすることだと言うが、そんなことはないだろうと少女は考えていた。この世で最も勇気ある行為の一つでさえあるとさえ思っている。口にすることが憚られる内容なので誰にも言わないが、少女の中に、その考えは厳然とした事実として存在していた。


 想像するだけで怖気が走るだろう。ささくれ立って不愉快な感覚を伝える荒縄が首に回った時の肌触り。目も眩む高さの高層ビルの縁に、靴を脱いで寄る辺も無く地上に向かい合う瞬間。冷たい刃を体の中に潜り込ませ、致命的な何かを断ち斬る手応え。その何れもが肌が粟立つほどおぞましい。


 思うだけで耐えがたい恐怖を感じるような行為なのに、実行するにはどれだけの勇気が必要なのだろうか。或いは、その恐怖を塗りつぶすほどの諦観と絶望は如何ほどか。


 自分には、きっといざという時に引き金を引く勇気はないだろう。足掻きに足掻ききって、最後の最後に無様な醜態を晒しながら、やっとの事で引き金を引く。それで精一杯の筈だ。


 「あーあ、もしかしたら、みんなみたいに一番最初に死んだ方が楽だったのかもしれないなぁ」


 脳髄の彼方から到来する記憶。文明が終わりを迎えたその日の光景。訳も分からぬままコントロールを失った車と電柱の間に挟まれて逝ったクラスメイト。脱線した電車に巻き込まれて挽肉になった知人。そして、助けを求める誰かの腕に引かれて、階段から落ちて頭が砕けた親友を自称した少女。


 記憶の向こうには過去の地平を埋め尽くす、幾つもの死体が転がっている。その中で安らかな顔をした死体など一つも無かったが、恐らく彼等は今の自分よりは幸福なのだろうと、少女は漫然と感じる。何せ、彼女達は今の腐るように死んでいく焦燥感を味合わずに済んだのだから。


 状況が躙るように逼迫し、真綿に締め付けられるように閉塞していく感覚。物理的な圧力を伴わぬ締め付けは、精神を少しずつ絞り上げていく。まるで心が軋みを上げるような状況は堪えるものだ。展望の無いまま這いずり回ることが人間にとって最も辛いというが、今正に置かれている状況が正にそれだ。


その上、一度開けた道が見えたことが戒めを強めてくる。いっそのこと、最初から最後までずっと道が見えていない方が幾らか気楽だただろうに。


 「お?」


 遠くから小さな足音が響いてくる。蒲団に寝そべり、頭を床に置いていると音は地面を伝って非常に良く聞こえてきた。


 聞こえてくる足音は一人だけだ。地面を叩く硬い音はブーツのそれだろう。少女は体を持ち上げ、暫く目線を彷徨わせた後で9mmパラベラムをシャツの胸ポケットにしまった。皮膚に冷たい表面があたり、ひやりとした感覚が差すようだが、それが彼女には心地よかった。


 ここに、最後の時にすがれる藁とお守りが残っていると実感できるから。


 扉はノック無しに開かれた。来訪者が来ると分かっていたから、少女も鍵を掛けていなかったのである。


 「やほ、おやっさん。どうだった?」


 扉の向こうに立つのは野戦服を着込んだ一人の壮年男性。普段は何処か疲れた様な、困った様な印象を受ける無骨な顔は打って変わって巌の如く引き締められていた。


 おやっさんは女に向かって箱を放る。軽い合金製の箱は内部にスプリングによる機構を収めた小銃のマガジンだ。挿入口を見やると、先端が鋭く尖った5,56mm小銃弾が整然と詰め込まれている。


 満タンから一発だけ余裕を持って弾丸が収まったマガジンの重さを確かめながら、ああ、やっぱり、と少女は心の中で嗤う。


 私物扱いの小銃は、普段殆ど弾丸を装填しないままにされている。だからこそ部屋への持ち込みを許可されているところもあるのだが、態々弾丸を渡すということは……。


 「見つかったんだ、エコー」


 張り付いた能面の笑み。平素と変わらぬ盛りのひまわりが如き笑顔を見て、おやっさんは形容しがたい気持ち悪さを覚えるも、自己の感情を押し込めて首を横に振った。


 「いいや、まだだ。だが、大凡の場所は分かった……それに、消えた輩もな。捜索に出るぞ。確定してからだ、報復はな」


 顔面筋を発声以外で動かせずに済んだことを内心で感謝しながら、おやっさんは更にマガジンを放る。少女が受け取ったマガジンの数は合計で四本、彼女が持つタクティカルベストで無理せず運べる本数であり、自衛隊の通常携行数でもあった。


 「完全装備で一五分後に自警団詰め所に集合。作戦行動はそれからだ」


 「あいよっと」


 マガジンを一旦枕元に放り、部屋の片隅に放り投げていたタクティカルベストを身につける。何処の誰とも知らぬ米兵が来ていたものだ。今でも、隅に彼の血が僅かに残っていた。


 マガジンポーチにマガジンをしまい込む少女を確認して、おやっさんは部屋を後にする。まだ、彼にも回るべき所が幾つかあった。


 携行弾倉、ナイフ、ライトや緊急用のメディカルキットなどポーチの中身まで確認してから、少女は愛用しているM4を手に取った。春先から今まで使い続けた鋼の相棒は、彼女の手に吸い付くかのような馴染みがある。


 平常時であれば、万一死体が侵入した時の事を考えて弾倉には弾が五発装填されている。しかし、数日前に非常警戒態勢が敷かれてからはマガジンには弾丸がフルで詰められている。少女はレバーを引いて初弾をチェンバーに装填すると、スリングでM4を担ぎ立ち上がった。


 ホルスターに収まっているM92Fは確かめるまでも無くフル装填だ。薬室に弾は装填されていないが、それもスライドを引けば直ぐに撃てる状態にしてあるので不備は無い。


 「やれやれ、死出の旅路みたいだね。まったく、死ぬには良い日だよほんと……恨むぜ名無し氏」


 銃の操作を邪魔せぬように人差し指と親指だけを抜いたプロテクター付手袋に手をねじ込んで、少女は嗤う。仮面のように貼り付けた普段の笑みとは似ても似つかぬ、自嘲めいた歪んだ笑みを浮かべて。


 今さっき、寝転んでいる間に弾丸を頭に叩き込んだらどれだけ楽だっただろうか、と考えて、少女はまた小さく笑った…………。













 鈍い音が寒空の下に響き渡る。重低音の腹に響く音は銃声だ。89式小銃に込められた5.56mmの装薬が弾け、肉が砕け散る音。


 青年は舌打ちして、次の標的に狙いを付けた。乗用車の影から這いだしてくる一体の死体。酷く顔面を損壊させ、下顎部を無くし舌を暖簾のように垂らせた男の首元に弾丸を叩き込む。少し距離があったが、強固に被甲された弾頭は鎖骨から入り背中に抜けていく道程で背骨を破壊した。余波で肉が削げ、首が殆ど落ちるも斃れた死体は未だに小さく蠢いていた。


 更に銃口を巡らせて死体を撃つ事二度、短気は損気という言葉が青年の頭を掠めて苛つきを掻き立てた。しかし、どれだけ後悔したところで起こった事は取り戻せないのだ。


 時刻は午後三時を少し回った辺り。真冬の勢いに欠ける太陽が照らす国道で、青年は僅かに密集した車の間より這いだしてくる死体相手に近距離戦闘を強いられていた。


 目の前には幾台かの乗用車と一台の大型バスが身を横たえている。側面に大手旅客業者の名前がプリントされた二階建ての大型バスは、県を跨いで大勢の人間を輸送する高速バスだ。電光掲示板は灯っていないので行き先は分からないが、きっと何処か遠くへ行く予定だったのだろう。


 乗用車とバスの合間には殆ど隙間が無く、尚且つ一台のセダンがバスの尻に突き刺さる形で止まっていた。事故を起こして乗り捨てられたであろう車達に行く手を阻まれ、青年は少し退かさないと通れない状況に合ったのだ。


 セダンタイプの車はサイドブレーキさえ上げてやれば一人でも押して動かせる。だから、態々戻って道を探すよりも障害物を退かす方が早いと考えた青年は、セダンを退かすことにした。それが今の後悔に繋がっている。


 よくある事だ、負の走光性を持つ死体が光から逃れる為に車の下に入り込んでいた。近づいて扉を開けようとした青年に反応した死体は這いずりながら飛び出し、当然の如く頭を銃床で砕かれる。不意打ちするほどの頭が無い死体は、青年に気付くなり出てしまったので指先さえ掠らせられなかったのだ。


 しかし、肉体が地面と銃床に挟まれて潰れる音は思いの外大きく響き渡った。その音はバスの中にも十分届き、内部から多くの死体が一斉に這い出してくる結果に繋がった。


 何の事は無い、車の下の死体と同じく、光を逃れてバスに入り込んだ死体が居たのだ。されども、その数は想定されている乗員数の二倍近い数であったが。確かに立って乗り、通路まで占有すれば入らない数でもない。


 倒すには数が多く、さりとて退こうにも距離が近くて発進する前に車に取り付かれる。損傷の危険性を考えると、幾ら障害物を撥ね除けるための鉄板を溶接していたとしても突撃は考えられなかった。


 引き金を二度、三度と間断なく絞る。火薬が燃焼する際に発せられる大量のガスに押し出された弾丸は、完膚無きまでに死体を破壊するが、その数は遅々として減ろうとしなかった。


 カノンが後ろで小さく吠えた。吠え声は注意を喚起する警笛だ。振り返ると、国道の反対車線側に現れた死体に向かって毛を逆立てながら唸りを上げている。


 確認できる数は二桁に達する程度だが、両足が揃った死体ばかりで歩みは遅くない。一分ほどで掴みかかれるほどの距離に至るだろう。


 カノンはバスへと接近する前に、死体が居ると警戒するようにズボンの裾を噛んでいた。だからこそ身構えており、即座に車から這いだした死体を処理できたのだが、よもやバスにあれだけの数が居ようとは思ってもみなかった。もしもカノンが過剰に吠え立てていれば、青年は直ぐさま踵を返しただろうが、できるだけ吠えないように躾けたのが徒となっていた。


 畜生と内心で零しながら、意識せずとも仲間を囮にしながら間近に達しつつあった死体を撃ち倒す。至近距離で弾丸を受けて死体の頭が熟れすぎたトマトのようにはじけ飛ぶのと、弾切れを示すように89式小銃の槓桿が後退したまま動作を止めたのは同時であった。薬室に送り込むべき次の弾丸が切れたのだ。


 隠すことも無く悪態を零し、小銃を手放す。スリングに従って体の脇に流れようとする小銃を捨て置き、スリングホルスターからM360を抜き放つ。車を一台どけるだけのつもりで来たので、89式の予備弾倉やM92Fは持ってきていなかったのだ。


 死体を退けるべく、更に二発発砲。弾丸と同数の死体が倒れたが、一体は咄嗟の照準だったので当たったのは肩であり、倒し切れていなかった。放っておけば立ち上がり、被弾の衝撃で脱落した右腕など気にした様子も無く彷徨い続ける事だろう。


 運動や緊張以外の理由で汗が額から滴った。焦りだ。既に89式の小銃弾は尽き、M360の予備の弾はあるにはあるが、リボルバーへの装填は自作のフルムーンクリップを用いたとしても時間が掛かりすぎる。青年は更に一発たたき込みながら後退を始めた。


 周囲から死体が集まり始めている。国道の脇に転々と家がある田舎町からも死体は溢れ始めていた。埋め尽くすほどの大群とは言えない疎らな行軍であるが、その数は決して青年一人の手に負えるものではない。


 今から車に戻るのは簡単だが、その後が問題と言えよう。周囲を死体に集られ、前進は今の所不可能となってしまった。だからといって後退も難しいだろう。


 兎角、弾が要る。車に戻るべく踵を返した青年だが、振り返った視界に映った物を認識して更に汗が滲んだ。


 キャンピングカーの背部にも死体が居た。ちらほらと、という数だが撥ね除けてはいけない数だ。あれだけの量を跳ねたら間違い無く不調を来すし、ともすれば血や臓物に滑ってコントロールを失うだろう。


 苦々しげに舌打ちをして、カノンを伴って青年は車内に戻る。そして、弾切れになったマガジンを放り出しながら新しいマガジンを89式に装填した。


 次いで焦るなと自らに言い聞かせながらタクティカルベストを羽織る。以前、偵察に出る時に使ったベストなので、ポーチに収まっているのはMP5に使うマガジンだ。


 そして手近に転がっていたバックパックを引っ掴み、乱暴に木箱を空けて中の弾が収まっているケースを放り込んだ。9mmパラベラムのケースを五箱とMP5の弾倉を更に幾つか、それと巻き付ける余裕は無かったのでM92Fをホルスターごとねじ込む。


 少し開いたスペースに500mlの水ボトル二本とブロックタイプの栄養食を少し。それとカノンのおやつである骨ガムも何本か放り込んでおいた。本当なら缶のドックフードが良いのだが、手近にあったのがそれで、判断をする前に入れてしまったのだろう。


 最後にズボンのポケットや多目的ポーチに入るだけキッチンタイマーを放り込む。そして、お守りに破片手榴弾を一つ取った。


 装具を点検する暇も惜しい青年は、バックパックのジッパーを乱暴に引き上げると担ぎ上げ、減音機を先端に備えたMP5を筆禍掴んで車外へと飛び出した。カノンも身を躍らせ、後に続く。


 キャビン側出口の側には既に死体の姿があった。胸元に狙いを付けて単射で一発、肉がはじけ飛びながら後ろへと死体が転げた。


 扉に鍵をかけ、数度引っ張って開かないことを確かめる。焦りで僅かに手が震えていた。いや、前にもこんな事はあったのだ、焦るんじゃないと自らに言い聞かせながら青年は走り出す。


 アテがある訳ではない。少しでも車から離れ、一晩を死体から逃れながら明かせる場所を求めていた。


 死体の処分そのものは手間ではない。普段のように屋根に立ち、淡々と撃てば良い。だが、死体は増えつつあり、何時尽きるか分からない。その場合消費する弾薬は膨大だ。その上、進路を塞ぐであろう死体の始末も考えなければならない。そのまま死体を踏みつぶして足回りが駄目になれば場合は立ち往生だ。


 ならば、死体を引き寄せる要因であろう自分が一旦何処かへ去って、キャンピングカーの周囲に死体が居なくなってから拾いに来るしかない。貴重な足をこんな所で潰すわけにはいかなかった。


 死体を避けながら国道を走り抜ける。5kmも走れば点在する住居も無くなって、疎らに立つ農家しか無かったはずだ。可能ならば、そこに宿を借りれば良い。夜が明ければ追いつけなかった死体は暗所に消える。


 急がば回れとは良く言ったものだ。苦々しげに青年は進路を阻む死体を睨め付けて、倒す必要も無いのに半ば八つ当たりで一体撃ち倒した…………。

 私です、今回もまたお待たせして申し訳ありません。とりあえず、忙しいですが合間を見て投稿することができました。就活が本格的になりはじめ、周りがスーツで通学する機会も増えて少し焦り始めております。


 どうにか纏められそうです。何とか手短に済めばいいのですが。これ以上プロットが妙に伸びないことを祈って。


 皆様の感想やご意見に大変助けられております。これからも拙作ではございますが今暫しのお付き合いをお願い致します。

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