青年と女と目覚め
とりあえず一段落、という所でしょうか。
人体破壊描写があります。
大きな激突音が青空の下に響き渡った。それは、硬質な金属同士がぶつかり合う割砕の断末魔だ。負荷に金属が軋みを上げ、剥離した部品が脱落し、小さな音となって後に続く。
激突したのは、背の低い民家や商店が建ち並ぶ、細い下道を走行する一台の中型キャンピングカーと路端に放置されていたビックスクーターだ。米国製の剛性を重視して作られた古びたキャンピングカーは僅かにバンパーとフロントグリルに傷と撓みを得ただけであるが、ビッグスクーターは押し倒された衝撃で各部を盛大に凹ませ、部品を撒き散らしていた。
「あちゃぁ、やらかしたか」
暢気な声の発生源は、左側に備えられた運転席の席上からである。キャンピングカーの運転手は開いた窓から大きく身を乗り出しながら、自らがもたらした破壊の有様を、しまったとでも言いたげな表情で眺めていた。
長身痩躯を春先だというのに分厚い革ジャンに包み、革手袋まで身につけた怜悧な美貌の運転手は苦々しげに舌打ちを一つ零し、座席に身を戻す。
「何台目ですか」
不機嫌そうな声が右の助手席から溢れた。言葉の主は、座席に深く腰を降ろし、用心深くシートベルトを締めて窓の上に設けられたグリップに縋り付く矮躯の青年だ。喪服を思わせる黒で統一された服装をしているが、大判のバンダナを口元に巻いて口腔の防護としているのが何とも歪であった。
「あー……四台目だったか」
女の適当な解答に、打てば響いたというタイミングで六台目ですという訂正が入った。普段は淡々とした抑揚の無い青年の言葉だが、今回は明らかに不機嫌である事が分かった。
「し、仕方ないだろ。マニュアル車動かすの久しぶりだし、こんな狭い道で大型転がすのなんて始めてなんだぞ。その上に左ハンドルだし……」
良くそれで自分をからかえましたね、という抗議の声に唇を尖らせながら、女も不機嫌そうに言った。先程から積み重なる運転の失敗に、僅かに苛ついているのだ。
空色の車体には幾つかの擦過痕が認められ、バンパーにも傷が目立つのは二台のスクーターを跳ね飛ばして三台の自転車を挽きつぶし、そして放置されていた軽自動車に車体を擦り付けた結果だ。徐行で町中を抜けているために衝突のダメージは大きくないが、それでも看過できる物ではない。小さければ良いと言うわけではないのだ。
「はー、これ保険おりないよな」
ぼやきつつ女はシフトレバーを操作して車体を軽くバックさせてからハンドルを切り、倒したビックスクーターを避けて、中型車でも路上駐車車両が一台でもあれば行き違うのが厳しい道を曲がる。
「誰がおろすってんですか」
益体も無い冗談に、青年は手元に置かれたクロスボウの弦や機構を確かめつつ答えた。この有様では、誰も保険の適用などできもするまい。
動く死体が跋扈し、都市機能はおろか国家機能まで麻痺させた国の残骸の中で、一体誰が誰の安全と生命を保障するというのだろうか。
「ま、そりゃそうだ。ゾンビ保険なんぞ作った所で一部のマニアしか食いつきゃしないだろうさ」
冗談を吐きつつケラケラと笑い、女は路地からふらりと這いだしてきた影をハンドルを操作して回避した。それは紛れもなく人影だが、決して人間では無かった。左腕が根元から脱落し、腹腔から食い散らかされた腸を露出させ、神経策に眼球をぶら下げたまま歩く存在が、人間であるはずがない。
覚束無い足つきで出てきたのはポシェットを肩からかけ、フリルに彩られた淡い桃色のワンピースを着た子供だ。出かけようとめかし込んだと伺える被服は、食い散らかされた際に飛び散った臓液や汚物、そして血で無惨に汚れている。
事が起こって直ぐに喰われたのだろう、被服に付着した血は酸化して色を濁った黒へと変えていた。死体が動き始めたのが土曜日であるのなら、休日に出かけている時に喰われたのだろうか、だとしたらそれは彼女にとっては大きな悲劇だったのだろう。
しかし、端から結果を眺める二人にはどうでも良い事だ。少女にどのような悲劇が襲いかかったのかも、そして何があって此処を彷徨いているのかも。ただ、車にぶつかられてこれ以上車体を痛めたくない、それだけの障害物でしかなかった。
横目で小さくなっていく死体を見送り、女は首を傾げた。
「ふむ、しかし、不思議だな。腹腔の中身があれだけ持って行かれたら、立ち上がった時に体の中身がへし折れそうだが。筋肉だけで保持しているのか?」
確かに不思議だと青年は相槌を打つ。腹の中身がごっそり行くと体の安定は失われ、腹部の強度は著しく落ちるだろう。脊索は骨なので頑丈だが、幾つもの部品の組み合わせによって構成されているので何かの拍子で折れる事も考えられる。だが、死体は腹の肉と腸をごっそり持って行かれても直立し動いている。何らかの力が働いているのだろうか。
「背筋やらで支えているのかね。連中、力は増しているようだしな」
死体は人間を素手で解体する。腕を掴んで引っこ抜き、足を掴んでもぎ取って、そして腹を引き裂き中身をぶちまける。普通の人間であれば力を振り絞った所で不可能な所行を死体が造作も無くやってのける様を二人は法学部棟の屋上から眺めていた。だからこそ、アレ等が強力な膂力を手に入れている事は嫌というほど分かって居る。少なくとも、無手では相手はできないと理解できる程度に。
閉じ込められた学生達が滅んでいく数日間を俯瞰し、二人は死体の特性をある程度学んでいたが、未だに謎と疑問は山と残されている。特段疑問なのは、あれらの構造だ。
腹腔が露出しているのに肉を喰らって何をするのか。仮に栄養の摂取を目的としていたとして、血液の循環も止まり消化器系も無いのにどうやって栄養に変換できるのだろう。それとも、意味が無いままの捕食なのであろうか。
「こう、ロメロ映画を山ほど見ても謎は尽きないな……っと、何か轢いた」
ぼやきながらハンドルを切って、横転した中型のワゴンで直進路が塞がれた道を曲がる。その際、何かを踏み砕いた硬質な音が響き渡る。
「鉢植えです、紫陽花の」
右折した車が轢いたのは陶器の鉢植えであった。右側助手席に座る青年からは良く見えていたから、淡々と報告する。人を轢いていた場合は、車のダメージが心配なので後で確認する必要があるのだ。骨がタイヤを突き破ったり、血がタイヤの内側に入り込んでブレーキが鈍くなる危険性も見逃せない。
「紫陽花か、もうちょっとで良い季節なのに悪い事をしたな」
障害物を踏み散らす事、計七度目に至って尚女は気楽にハンドルを回しながら角を曲がりきった。不機嫌にはなれども、何時までも気にしたりはしない性質なのである。
だが、人だった何かを壊しても悪びれもせず煙草を吹かすというのに、旬を間近に控えた紫陽花を踏みつぶした事を申し訳なさそうにするなど、やはりこの女も頭の箍が何処か壊れている部類の人間なのだろう。
車は徐行速度で通りをトロトロと抜けていく。時折、路地を完全に防ぐような形で止められている車があったら、扉が開いていれば退けてやり、横転していたり施錠されていれば迂回した。随分と遠回りだが、強引に車で押して不調を来されると困るので無茶はできなかった。
電柱に突っ込んで止まっている軽自動車の横を通り抜けながら、女は胸元から煙草のパッケージを取り出した。胸の動きに潰されてよれよれになったソフトパッケージの煙草だ。緑のパッケージを軽く振って煙草の尻を飛び出させ、それを咥えて引き抜く。仄かな煙草の香りが広がった。
煙草の葉は火が付いていなければ香ばしく、時に甘い匂いで煙草嫌いであっても良い香りだと感じられる。その煙草からは、爽やかなメンソールの香りが漂っていた。
「左ハンドルの良いところは右手が空くから煙草を吸いやすいんだよなぁ」
パッケージを再び懐に戻すと、女は胡蝶がレーザー刻印された愛用のオイルライターを取り出し、先端に火を灯す。途端に煙りっぽく鼻を刺すメンソールの臭気が車内へと拡散する。青年は眉ね一つ動かさぬまま、不機嫌そうに軽く鼻を鳴らした。
非喫煙車にはきつい臭いだ。鼻腔を焼く煙だけでも不快に感じられるというのに、その奥にまで突き刺さるような、爽快さを突き抜けて痛みに近しい領域に達するメンソールの冷たさは耐えがたい。
「ん、悪い」
女は言って窓を少しだけ開け、隙間から呼気を吐き出す様にする。直接吐き出されるよりは幾分かマシだが、そもそもの発生源が車内にある以上誤差の範囲だ。
この煙草、女は大学で死体から態々危険を冒してはぎ取った物とは別の物だ。紅いパッケージの煙草は大学を出るときには既に空になっている。これは、邪魔な放置車両を動かすとき、偶々助手席に取り残されていた物を拾ってきた物だった。
「分煙って流行ってますよね」
「じゃあここは喫煙車だ。灰皿が置いてあるからな」
青年の迂遠な苦情に、女は煙草の灰をドリンクホルダに収められた車用灰皿に落とす事で応えた。どうやら改める気は更々無いらしい。
本人からすれば、五日間ほど嗜好品を切り詰めた生活を送らされた上、このストレスのかかる環境に晒されているのだから、精神安定剤くらい見逃して貰いたいと思う。しかし、青年は喫煙家ではなく、その香気に価値を見いだす趣味人でも無ければ、ニコチンに溺れた中毒者でもない。せめてもの救いは、女が後者ではないので落ち着けば喫煙量は減るという所だが。
女にとって煙草とは正しく嗜好品だ。香りを楽しみ、酸欠の慰撫に身を浸しながら心を慰める物であり、断じてポーズや自棄で吸う物では無い。嗜好品とは、文字通り楽しんで好むからこそ良いのである。
青年が不快な煙に辟易とし、女があまり好まないメンソールの舌に刺すような味を疎ましく感じながら向かっている先は、大学近くにある女の下宿であった。
何故そんな所に向かっているかというと、物資の補充と武器の調達だ。女は狩猟用エアライフルを個人で所有しており、それを欲して大学から然程離れていない下宿に向かっているのだ。
本来なら通い慣れた道をバイクで抜ければ直ぐに着く道も、車で塞がれたり死体から逃げて迂回していれば時間がかかる。それに、普段ならば通れるような細い道でも、この巨体は通れない。大幅な遠回りを強いられながらも女は道を急いでいた。
狩猟用ライフルは熊とまではいかないが、6mmの専用ペレットで中型の獣にとどめを刺せるだけの威力は十分にある。少々離れていたとしても、50Jもあれば人間の頭蓋を正面からカチ割る位はやってのける。威力のある武器が二人には必要だった。
クロスボウは確かに威力は高く、硬質カーボンのボルトは人間の頭骨など堅さも丸みも無視して突き立って尚再利用できる頑強さはあるが、、構造上速射はできず再装填に要する時間は長い。
一方、コンパウンドボウも威力そのものには不安はないが、此方は技量に不安がある。慣れぬ獲物では部の活動では優秀な射手である青年も実力を出し切れぬ。精密に狙うのであれば、5mも離れれば限界であろう。
対して、二人が持っている愛用のエアライフルであれば、多少の風があっても競技距離の一〇〇mまでは必中させる自信はあった。動目標の頭という小さな的を連続してであっても。だが、こちらは精密性に勝るも威力が絶望的に足りない。人間の頑強な頭蓋を砕こうと思えば至近距離で脆い部分を試すしかあるまい。
帯に短し襷に長し、そんな物ばかりが揃っている。これだけで今後を生き抜くのは難しいだろうと思ったのだ、故に女は武器を欲した。
しかし、それでも普段の倍以上の時間を走って尚辿り着かないとなると流石の女も苛ついてくる。普段は唇で挟むだけで保持している煙草のフィルターに門歯が僅かに食い込んでいた。
その上、色々と運転をしくじっているのだから苛つきは加速する。青年を弄って鬱憤を晴らそうにも、向こうは向こうで対抗する武器を持っているのだから軽々しく攻撃できなかった。散々醜態を晒しているのだからどうしようもない。
さて、どうしてくれようか、と女がイライラしつつフィルターを無意識に噛んでいると、青年が小さく止めてくれ、と声を上げた。
ゆっくりと狭苦しい下道の真ん中で車を止め、どうした? と問うと青年は一方を指さした。青年が座る右助手席側の向こうであった。
「……マッポだな」
血で汚れ、制帽が何処かに失せてしまっているせいで分かりづらいが、濃紺の制服は間違い無く日本の制服警察官が纏う物だ。左の二の腕から先を無くし、齧り付かれた喉の前部に大きな裂傷を覗かせながらもフラフラと彷徨うそれは、治安の守護者であり、現在は単なる障害物である。
青年がそれに興味を示したのは、警官の足下でカラカラと小さな音を立てながら追従する物だ。
拳銃であった。
ニューナンブと呼ばれる警察では最早旧式となりM37やM360と交換が進められている38口径の五連装リボルバー。制服の警邏警官なら装備しているが、決して抜けない伝家の宝刀。それが、奪われる事を防止する為の紐にぶら下がって、リードに繋がれた犬の如く所在なさ気に引き摺られていた。
女が察した事を感じたのか、青年は何も言わないままに車から降りてクロスボウを構える。彼我の距離は一五~六m程かと目測でつけながら、クロスボウ上部に据えられたダットサイトを覗き込む。慣れた獲物ではないが、装備の補助もあれば外す事は無い。
引き金が絞られ、留め具に放って解放の時を待っていた弦が矢の張力がもたらす反発に任せて帰り、噛み合っていた矢が甲高い風切り音を立てながら飛翔した。
硬質カーボン製のボルト、当たり所が良ければボアでさえ射殺す威力を秘めた矢は一〇mの距離を瞬きの間に疾駆し、警察官の濁った双眸、その合間に深々と突き立って小脳を穿った。
弛緩したような力の入らぬ体勢から更に力が抜け、吊られていた糸が断ち切れたように死体は斃れて本来の姿に帰る。
青年は補助具を使いながら弦を引き絞り、次のボルトをセットする。そして、まだ死体の頭に狙いを付けながら慎重に足の方から近づき、革靴の褄先で足を軽く蹴っ飛ばした。
死体は動かない。当然ではなくなった当然の事が、そこで起こっている。青年は、それでも暫く死体を見つめた後で漸くクロスボウを下ろし、ホルスターの紐と繋がったニューナンブを手に取った。
ニューナンブは38口径の小口径弾を用いる小型リボルバーで、成人男性の掌にすっぽり収まる程に小型だ。しかし、全体を鉄で構成したそれは、小ささに反してずっしりとした重量感があった。
弾倉部分を固定するラッチは幅が少し広めに取られており分厚い。前期型ではなく後期型だろう、グリップにもしっかりと滑り止めが施されており、小指までしっかり掛けて保持すればリコイルは極めてマイルドになるはずだ。
ラッチを押して弾倉を露出させるも、収まっている五発の38スペシャルは全て発射済みであった。掌に薬莢を開けてみると、濁った真鍮色の薬莢に付着した煤が手袋に移る。
青年は特に期待もしていなかったのでがっかりもしなかった。ホルスターから外れて引き摺られていたという事は、使用したという事だ。この非常事態、市民を護るためか自衛かは分からないが、撃ち切っていても不思議ではなかろう。
他の装備を漁る。折りたたみ式の特殊警棒に無線機、手錠に多目的ポーチ。ポーチには鍵などの小物は入っていたが、予備の弾丸は入っていなかった。警察官は基本的に執行実包なんぞ装填している分しか携行しないだろうから、これも期待していなかったので失望は小さかった。ただ、それでももしかしたら、と言う期待はあったので、全く無かった訳ではないが。
他に血で汚れた制服のポケットを漁ると警察手帳が出てきた。二つ折りの手帳で、バッジと顔写真付のカードが収まっている。持ち主の階級は巡査、階級的に言えば一番の下っ端であった。
青年は手帳を胸の上に返してから、徐にベルトを外して装備をはぎ取った。腐臭が移っているが、使えないこともない。それに、もう彼には無用の物だ。
治安を護るのは崇高な使命だが、果たして死後に亡骸として歩き回る羽目に遭う程の価値があるものだろうか。と考えながら青年は車に戻り、装備を後部に向かって放った。
「どうだった?」
「弾切れです。動作は問題無いっぽいですが、実弾手に入れない限り投擲武器にしかなりませんかね」
グリップが短いと殴りにくいからな、等と言いながら女は車を発進させる。
静かな眠りに就いた治安の維持者は、何も言わず虚ろに彼等を見送った…………。
「お邪魔します」
「邪魔をするなら帰れ」
関西人になら割と馴染みのある軽口をたたき合いながら、女は青年を自らの塒に迎え入れた。
女の下宿はお世辞にも綺麗とは言えない物であった。古ぼけた長屋にも似た風情の屋根が繋がった一軒家、その一つを借り上げて彼女は大学に通っていた。
3LK、と言えば聞こえは良いが、古びた畳の敷かれた六畳半の和室が三つに板張りのキッチンと八畳の居間があるだけだ。しかも、縦に細長いので二階に無理矢理トイレと六畳間を二間を詰め込んであるお粗末さであった。風呂なんて上等な物は備えられていない。あるのは徒歩二分の銭湯だけだ。
築四五年で家賃は45.000円也。綺麗さはともかく、スペースを考えでば破格の値段で、終電で帰りそびれた同輩を偶に泊めたりしていた。
女性の部屋、というと幻想を抱く男は多いが、青年は入った瞬間に漂ってきた古びた藺草と煙草の香りを嗅いで、何とも形容しがたい微妙な気分にさせられた。こんな狂人であっても、女性への幻想程度は持っていたのだ。
「悪いな、散らかっていて」
女はそう言いつつ、土間から続くキッチンに置かれた三角コーナーから異臭の漂うビニール袋を取り上げつつ口を縛る。中には一週間近く放置されて液状化しつつあるもやしの髭や芽、卵の殻なんぞが虚しく押し込められてある。
ゴミが酷い有様なのは仕方があるまい、女の無精ではなく、単純に帰宅できなかった状況が悪いだけだ。しかし、流石に臭いには辟易とさせられる。女はキッチンの窓を開けると、そこからゴミを外に放り投げた。
窓の外に、家の前の細い道に堂々と横付けされたキャンピングカーが見える。泊める場所も無いし、盗まれると困るので家の前に停めてあるのだ。それに、今となっては態々切符を切りに来る鬱陶しい官憲も居ない。
窓を閉めぬままに女は冷蔵庫を開け、中身を漁り始める。聞こえるのは、これは駄目、これも駄目、という選別の声だ。冷蔵庫はシンクの直ぐ横にあり、手を伸ばせば窓に届く。中に入っていた食品が、次々と窓の外に投げ捨てられていた。
それもそうだろう、電気が止まって随分経っている。その間放置された冷蔵庫の中身は当然駄目になっている。女は最初から諦めているからか、三段式冷蔵庫の冷凍室は開けなかった。
「あー……冷蔵庫は全部駄目だな。ソーセージとかは鄙びてるだけだから食えないとも言えんが、万一腹壊すと宜しくない」
密閉パックに入ったソーセージを窓から放り投げて、女は冷蔵庫の扉を閉める。青年も何も言わないで頷いた。医者がやっていない今、ちょっとした体調不良でも死にかねない。身体能力が少々高かろうとも、そこは免疫能力が低下した脆弱な現代人だ、一度崩れるとドミノのように行ってしまうだろう。
悪そうになった食べ物を全て捨てると、女は窓をぴしゃっと閉めて一息吐いた。外は死体が彷徨っているからだろうか、腐臭がうっすらと漂っていて臭いのだが、食べ物の腐臭はまた臭さが異なる。折角慣れてきた鼻が、また馬鹿になったような気がした。
「とりあえず居間で待っていろ。色々取ってくるから」
茶は出ないんですか、と張り付いた仏頂面で冗談らしき物を言う青年に、女は二階への階段に足をかけながら唾でも飲んでろ、と悪態で応えた。
少し広い居間には数人用の座卓の他、座椅子に座布団とテレビ、そして背の低い組み立てラックが幾らか置いてある。それらには電気ケトルやらポット、湯飲みやマグカップなどがティーパックなどと共に並べてあった。
座椅子は薄型で20インチほどの小型テレビの前に置いてある所を鑑みるに、女の指定席だろう。青年は積んである座布団を手に取り、それの上に座ると、漸くほっとする事ができた。
外は危険だ。例え重厚な装甲を誇るキャンピングカーに乗り込んでいようと何が起こるか分かった物では無いので気など一切抜けない。張り詰めて車外を見つめ続け、その精神が弛緩できる暇は寸間たりともありはしなかった。その緊張が、やっとの事で緩められた。
家の中というのは不思議と安心するものだ。それが、ともすれば乗ってきたキャンピングカーよりも防備が薄く、侵入口も多く儚い要塞だとしても。現に女の家の扉は磨り硝子にスチールの格子枠という実に脆い物だ。死体なら、例え多勢でなかったとしても容易く破られるであろう。
それでも、家屋という存在は人類にとって安心出来る場所だ。文化として長くすり込まれた感覚は、最早後付けされた本能にも等しい。
首を軽く回したりしていると、上から重い足音を響かせながら女が降りてきた。その手には競技用とは違う木製ストックが特徴的なエアライフルが握られていた。
「狩猟用だ。6mmペレットで大体五〇J位は出るか。頭蓋でも、然程遠くなければ砕けるぞ」
狩猟用プリチャージエアライフルは、競技用の細く機能的な外見とは異なり、野外で乱暴に取り回す事を考えて設計されているからか大柄で無骨なフォルムをしていた。見るからに頑丈そうで、ストックで人間の頭部を殴打したとしても大して問題なさそうなほど頼りがいがある。
「弾には割と余裕がある。これで、少しは楽になるだろう。いやいや、やってて良かった、という奴だな」
女はエアライフルの各部点検を手早く始める。整備用オイルの特徴的な臭いが、藺草の臭いを駆逐して部屋に漂った。
女は家に狩猟用エアライフルを所有している、と大学でも言っていた。どこかで狩りをする機会があったのか、それともエアライフル競技の関連で興味を持って手に入れたのか、入手意図は不明のままだが。
競技用エアライフルが銃刀法に抵触するのと同じで、狩猟用エアライフルにも相応の規制があり、免許を必要とする。更には、一定以上の獲物を狩るのであれば狩猟免許も必要だ。どちらも取得するのは相応に面倒くさい筈なのだが、この女は何の理由でそれらを取得したのであろうか。
「熊は流石に無理だが、鹿の頭蓋は十分抜けるからな。人間でも壊せるだろう」
手早く各部を露出させ、駆動を確認し、細かい亀裂が無いか、油が乾いていないかを確認していく。こういった物は剛性を重視しているように見えるが、人が考えるよりも幾分か繊細だ。丁寧に確認し、整備を施してやらねば万全の稼働は望めない。
納得行く状態だったのか、女は全ての部分を確かめると、マガジンを取り出して6mm経のペレットをざらざら流し込んでいく。装填数だけみればアサルトライフル並だ。
「さて、じゃあ行くか」
フル装填された狩猟用のエアライフルを手にすると、女は立ち上がった。青年は、何処へ? と目で問うと、女は笑う。
「お買い物だ」
圧搾された空気が一瞬で解放され、細い細い道を不完全に塞ぐ障害物を押し出しながら邁進し、遂には射出口から解き放たれた。
鋭くも低く響き渡る袋が潰れたような音が空気を揺るがした。例えるならば、柔らかなビニールで包まれたおしぼりの袋をゆっくり潰した時に鳴る、空気が溢れて行く音。それを何倍にも大きくし、一瞬に縮めたような音だった。
そして、それに続いて硬質な物が砕ける音に、水が破裂するような不快な音が続いた。最後に追従するのは、重量物が崩れ落ちる音だ。幾重もの音が重なり、一瞬で構成される怖気の走る即興詩となり脳に刻まれた。
人の頭が砕け、腐れた脳髄がかき回される音。それは、決して聞いていて気持ちの良い物では無い。
頭蓋を砕かれ、丸みのある内側をピンボールのように跳ね回るペレットで脳髄を攪拌され、機能を完膚無きまでに破壊された死体は中年の女性らしきものだ。がらがらと音を立てるショッピングカートが、惰性で拗くれた右腕に引っかかっており、カートからは買い物籠は失せていた。
「うむ、問題無さそうだ」
長身に厚手のジャケットを纏いバンダナやら耐破片グラスで顔を覆った女は、エアライフルを下ろしながら満足げに呟いた。きっかり一〇m先で口から腐って黒くなった血を滴らせていた死体は見事に討ち滅ぼされており、それは女の手による物だ。
試し打ちを兼ねた障害物の除去は、女が満足する結果と共に成されたらしく、その表情は実に満ち足りている。予測できていた結果であろうとも、実際に目の前で起こってみると嬉しいものであった。
「……で、買い物ですか」
その後ろで、クロスボウを手に似たような重装備をした青年が、女の前に鎮座する建物を見上げながら呟いた。
それは、一件のスーパーマーケットであった。何処にでもある全国展開のチェーン店で、系列店舗を含めれば日本で最多と言われる店だ。身近な主婦の味方で、最もメジャーな夕飯の供給源である。
昼間は買い物客で賑わっている筈のそこは、今や無人の地獄と化していた。逃げ遅れた買い物客の死体が散乱し、悪趣味な赤黒いデコレーションが商品に施される店舗は、明かりが落ちて何処までも不気味に薄暗かった。
極めつけに、悪臭は死体が彷徨う大学構内が比にならないほど酷い物だ。何せ、店の中に山ほど商品として陳列されている生鮮食品の多くが、腐敗して凄まじい臭いを放っているのだから。堆積されている駄目になった商品の数を考えると、それも仕方が無いことだろう。
女が言うに、このスーパーは朝の六時から深夜の四時まで開いている殆どコンビニに近い大型店舗で、夜中にも下宿生やらがちらほら出没するスポットであるらしい。しかし、今となっては臓物が絨毯のように敷かれた惨劇の場でしかない。
じゃあ行くか、と呟いてエアライフルを構える女の援護に、青年は部室から持ってきた荷物であるランタンを掲げた。中は昼間でも日の光が入らないから、こうでもしないと先が見えなくて危険なのだ。薄暗がりから死体が飛び出してきたら、反応が遅れて悲惨な目に遭わされてしまうだろう。
店舗の中に蟠った闇が、ランタンの明かりで祓われていく。店の全景が見える程では無いが、惨状が更に浮き彫りになる。
人が逃げ纏ったからか倒された商品の陳列棚。辺り一面に散らばる商品。稼働を止めた生鮮食品の陳列ケースの中で腐敗しどす黒く染まった果物や野菜達。そして、ちらほらと落ちている人間だった物の部品。かつての賑やかさや清潔さは、もう何処にも無い。
まずは店内の安全を確認する為、籠やカートなどは伴わずに侵入する。幸いな事にも、硝子張りの自動ドアは開け放されていた。大きな音を立てて硝子を破らなくてよいので、二人は軽く安堵する。死体を引きつける行動は、少しでも排除したい所だ。
店内は、棚が倒れてしまった辺りでは足の踏み場もない、という状態だった。山ほどの食料品や日用品が無造作に転がり行く手を遮る。これを踏み散らすにせよ退かすにせよ大変な時間が掛かるだろう。
入り口は二カ所、南北にあり、その合間にサッカー台やレジが置かれており、二人が侵入した南側の入り口の前には生鮮食品コーナーがあった。野菜や果物の陳列コーナーが置かれ、店を囲うように陳列用フリーザーが設置される良くあるレイアウトだった。
肉や野菜、乳製品に総菜が並ぶフリーザーには価値が無い。全て腐って駄目になっているからだ。漬け物などのパック商品など食べられる物はあるだろうが、そういった物よりも簡単に食べられる物を優先して積み込むべきだ。キャンピングカーの積載量にも限界があるのだから。
それに、そういった物を積み込んで食べた所で、米が欲しくなって辛いだろうと女は考えた。忌まわしくは美食と飽食に慣れた極東人の民族性と血脈である。
見るべきは、簡単に食べられるスナックやシリアルなどの長期保存が出来そうな食物だ。例外として、煮たり焼いたりと簡単な調理で食べられ、長期保存にも向いているジャガイモは良いだろう。ジャガイモは簡単には腐らないので、野菜コーナーでも無事に残っている。
二人は、何を持っていくべきかを考えながら、ぐるりと店内を回ってみた。死体は数体が店内を当て所なく徘徊していた。夜中の内に多くが獲物を求めて出て行ったらしく、ここには餌、つまり襲うべき生存者が居ないと推測できる。
一歩一歩踏み出す位置がバラバラで安定しない死体が近寄ってくる。よくよく見ると、その膝からはへし折れた骨が皮膚や着ているジャージのズボンを突き破って伸びていた。見た目から察するに夜食を調達に来た学生のようだ。女は冷静に額へポイントすると、軽く引き金を絞った。
着弾の衝撃は殴打されたかの如く大きい。弾丸が被甲され、貫通力を重視される軍用の徹甲弾と異なり、狩猟用エアライフルのペレットは貫通力よりも打撃力の方が高いのだ。その威力は頭蓋を貫くのではなく、砕く。元より安定を欠いていた頭部が凄まじい勢いで背後に弾かれ、死体は勢いの儘に転倒する。
満足の行く威力だ。死体を一撃の下に破壊し、頭部を外れたとしても行動不能に貶めるだけの衝撃。民間で手に入る武器では、下手な鳥打ち弾を装填した散弾銃より頼りになるだろう。
青年がランタンを掲げて視界を確保し、女が一体一体丁寧に額へ弾丸の接吻を贈る。丁寧に整備され、熟練の技量を以て操られる猟銃は、完璧な死を死体へと贈呈していった。
障害物の排除と弔砲が一緒に成されるのは効率的で良い、女がそんな事を嘯きながら、死体の一つにペレットを叩き込む。ブラックな冗談に青年は何ら反応を示すこと無く、女の足下に向かって片手にてクロスボウを放った。
血が飛び散り、女のブーツを赤黒く染め上げる。古びて酸化が進み、半ば固形物とかしたゲルともゾルともつかない液体には脳漿も混ざっていた。
物陰より忍び寄り、倒れて折り重なった棚の下から這って来た店員の死体の物だ。棚に押しつぶされた体を無理矢理這い出させたのか、その体に腰から下は見当たらない。
ボルトは見事に頭蓋を穿ち、その頭部を地面に縫い付けると同時に機能を停止させていた。腐った血液と脳髄が、ボルトを伝って地面へと滴っていった。
「阿呆な事言ってないで真面目にやってください」
驚いて振り向いた女の目に映るのは、何処までも冷めた青年の目だ。その視線には、最早嘲りすら滲んでいた。冗談を言って死なれたらこっちが面倒くさい、そう言っているように女は思った。
この青年は何処までも利己主義に染まった愚物だ。さりとて、それは己の栄達などを望む俗物の思考では無く、自己の健全たる存続という何処か野生生物染みた物である。自己の生存に役立つと判断している間は、この青年は他人を救う事に多少の労力は惜しまない。
女は口の端を釣り上げながら、謝罪し、青年は小さな溜息を零しながら死体の頭からボルトを引き抜こうとし……腐れた頭がボルトごと胴体から引っこ抜けて、惰性で血管に留まっていた血液がぼとぼととこぼれ落ちた。
青年の顔が顰められ、余分な頭がくっついたボルトを顔の高さまで持ってくる。串刺しにされて完全に機能を停止した、恨めしそうな死体の濁った瞳が見返してくる。青年は忌々しげに舌打ちを零してからボルトを高々と掲げ、勢いよく振り下ろす。
ボルトが振り払われた勢いで頭部が滑って抜け落ち、床へと激突し不快な湿った音が鳴り響く。亡骸をゴミのように扱いうち捨てるという生理的嫌悪感を掻き立てる有様を、女はおかしげな笑みを浮かべながら眺めていた…………。
「まぁ、こんなもんか」
女は徐に贈答用の箱に収められた上等なウイスキーの包装を剥がしながら言った。その中には琥珀色に揺れる三〇年ものの高価なアルコールが長い熟成の末に封入されている。
「財布の中身が心配になる勢いですね」
柔らかなペットボトルに入ったミネラルウォーターを煽り、青年は目の前に鎮座する二つのカートと、合計四つの籠に詰め込まれた食料品の山を眺める。
それはシリアルであったり固形栄養食であったりと、比較的日持ちする物が選別され、他にはありったけの水が積載されていた。また、最低限簡易的な調理を施せば食べられるジャガイモや塩なども一緒に入っていた。
「とりあえず、何度か往復するか。少なくとも水は欲しいからな」
売り場に一緒に置いてあったコルク抜きの末端についている小ぶりなナイフで、キャップを覆う包装に切り込みを入れ、それを捲ると女はコルクキャップを外し芳醇なアルコールの芳香を堪能する。女は見た目の剛胆さに反さず、酒飲みであった。
「それは水じゃないと思うんですがね」
「酒は命の水さ」
割引も無いスーパーの贈答品コーナーに並ぶ、定価では一本七万円以上もする酒を女は贅沢にラッパ飲みで嚥下する。薫り高い鼻腔を抜けてゆくバニラと樽香が絶妙に混じり合う香気。強いアルコール度数に焼かれながらも、決して紛れる事なく舌に伝わるシェリーや蜂蜜の風味は女の脳を恍惚とした感覚で満たす。溢れ出るのは光悦と言うべき感覚であろうか、決して死体になっては味わえない素晴らしい物だった。
数口だけで数千円はするであろう液体を喉に流し込んでから、女はとても気持ちよさそうに吐息する。その目はとろみさえ帯び、眉尻が落ちて潤んでいた。アルコールの慰撫に脳髄まで全て浸した女は、どこまでも幸福であった。
「流石に美味いな。普段なら勿体なくてショットグラスでも一気に呑めないぞ」
そんな高価な酒を味わうのもそこそこに流し込むという浪費が、美味さに相まって退廃的な快楽を女の脳髄に刻んだ。金という紙切れが無意味と化したからこそ出来る最上の贅沢である。
「こんな状態で酔われたら困るんですが」
「安心しろ、この程度じゃ酔わんよ。ま、残りは終わってからにしよう」
憮然と投げかけられる言葉を受け流し、女はカートの商品の群れに瓶を突っ込む。扱いが雑なのは、同じ品が二本に同クラスの酒が数本カートに眠っているからだ。
「後、五~六回は往復するか。水はあるだけ持っていきたいし、乾麺とか日持ちする上に美味しいからな」
ガラガラと騒がしいカートを押し、女は勝手に進み出す。青年も、特に何も言わないで後に続いた。生鮮食品は殆ど駄目になってしまっているのだが、ここは未だに宝の山なのだ。食べられる物はキャンピングカーに積みきれないほどあるのだから。
「しかし、一々家まで運ぶのもたるいな。何より危ないし。明日、車で横に着けよう。効率と体力重視だ」
ふと、女が言う事に男は違和感を覚えた。車に積み込んで運ぶのはいいのだが、どうにも言外に何らかの意図が潜んでいるように思えたのだ。言葉の並びに潜む物ではなく、現状と照らし合わせて始めて浮かび上がる内包された意図。
「……もうここを離れるんですか?」
事も無げに、籠から瓶を取り出して、更に一口ウイスキーをあおりながら女は肯定した。この辺にしておこうと言いながらも、アルコールの美味さに負けて手を出してしまったようだ。
小さく吐息しつつ、唇から瓶が引き抜かれ酒の滴が飛び散りアルコールが香る。
「移動し続けた方が安定するだろう。死体共がどっかから寄ってくるのはお約束だからな」
お約束とは勿論映画や小説の展開的な意味の物だろう。確かに、何故か分からないが死体は人の居る所に何処からか彷徨い歩いてくる。まるで、遙か遠くに居ても人の存在を感じ取れるかのように。
「移動するのは良いんですが、何処に行くんですか?」
店と外界を隔てる自動ドアのレールを踏み越えた時にカートが軽く軋みを挙げる。そして、硬質ゴムのタイヤは細やかな起伏に富んだアスファルトの路上に出た瞬間から喧しい音を上げ始める。それは、カートと籠がぶつかり合う金属音から詰め込んだ商品のぶつかる軽い音まで幾つも重なり合って非常に騒がしい。
カートは本来不整地を走る事を想定して作られていない。平坦なリノリウムの床であれば、自転車の車輪のような空気を入れて弾力性を持たせた車輪を使う必要性は何処にも無いのだ。更には、揺れも殆ど無いが故にサスペンションなども導入されていない。激しい揺れも致し方の無い事だった。
女は片手でカートを押しながら、酒瓶を持った手を所在なさ気にブラブラさせつつ、暫し逡巡する。アルコールに浸され始めた脳細胞が如何様な計算を辿ったかは知らないが、数十秒の後に女はひとまずの指標を見つけたのか、さも愉快そうにもう一口酒を嚥下し、言った。
「伊丹の自衛隊駐屯地なんてどうだ?」
鍋が煮えていた。土鍋がカセットコンロの上に置かれ、ぐつぐつと湯気を立てながら煮えている。細い水蒸気の帯が鍋の噴気孔から絶えず溢れ出て、室内に湿度と温度を供給していた。
薄暗い部屋で鍋を囲むのは、女の自宅の居間で座卓を囲む二人だ。光源は、鍋を炙るカセットコンロの炎以外には何一つとして無い。青年は暇そうにコンロで揺れる青い炎を眺め、女は煙草を吹かしながら虚空を見つめている。
煙草はスーパーから失敬してきた物だ。幾度かの往復の後、青年が荷物を整理している間に一人でこっそり行って取ってきたのである。最近のスーパーでは煙草を扱っている事も珍しくはなく、女は物色の最中に目敏くも発見していたのだ。
その時に取らなかったのは、煙草のカートンは30cm近い大きさがあってカートにねじ込んだならば多くのスペースを圧迫し運べる食糧の量が少なくなってしまうから。それに、突っ込んだならば青年からの誹りは免れなかっただろう。
結局、碌でもない理由で勝手に危険な事をするな、と怒鳴られはしたが。女は、青年との付き合いはそれなりにあるが、彼が怒気も露わに声を荒げる所は始めて見た。
そんな頭の悪いイベントをこなしてから、二人は夕餉としゃれ込んでいる。噴気孔から立ち上る湯気の勢いがいよいよ増し、細く燻っていた湯気が一本の帯と化した頃、青年は土鍋の蓋を外した。
果たして、中で煮えているのは美味しそうな鍋……ではなく、銀色のパッケージに包まれていたレトルトのカレーであった。
当然の事ながら、鍋をやれるだけの物資は無い。春先とは言え夜は非常に冷えるので、暖かい鍋という夕食は有り難いだろうが、生鮮食品は全て腐り果てている。故に、選択肢として鍋など最初からやりようがないのだ。
土鍋を使ったのは、カセットコンロで安定する物がこれくらいしかなかったから。そして、その中で煮えているレトルトカレーは単純に美味しそうだったからだ。既に鍋で煮られたパックのご飯も皿の上で待機させられていた。
「もう良いんじゃないですかね」
青年が菜箸で浮かび上がってきたパックを突いて沈めつつ問うと、女は煙草の煙を吐き出す事で応えた。
パックが取り出され、片側を菜箸で保持しながら切れ目を使って開封される。あちっ、と声を零しながら、青年は安っぽいが美味しそうな香りを上げるビーフカレーをご飯の上にゆっくりと垂らした。
皿には洗い物をしなくて済むようにラップが巻かれており、その上にご飯がのっていた。キャンプにおけるちょっとした知恵なのだが、水が貴重な今は無精云々ではなく有用な方法だ。
手早く二人分のカレーを用意すると、青年は女の前に皿を押しやって一人黙々と食事を開始する。女は、煙草を吹かすのに忙しいらしく、まだ食事には手を付ける気配はない。
青年が半ばまで美味くもなければ不味くも無い普通のカレーを胃に放り込み終えると、漸く女は灰皿に煙草をねじ込んで食事を開始する。その手はゆっくりとした物で、もそもそと食事を口にねじ込んでいく様は正しく作業だ。
よくよく見ると、その視線は茫洋として一所に定まらず、正しく心此処に非ず、という有様だ。更には、頬は紅潮し、その吐息には煙草の残り香のみならずアルコールの成分も多量に含まれている。
何て事は無い、酔っ払っているのだ。部屋の片隅を見やれば、干された空瓶が一本転がっていた。見つけた時に煽っていた、あの高級なウイスキーだ。
40度ものアルコールを半瓶も開ければ、流石に酔っ払う。飲み会でザルやワクもかくやの如く酒を干す女でも、これだけきつい酒を短時間で山ほど煽れば酔いもするのだ。とはいえ、痛飲という勢いで飲んだ後で走り回ったのに潰れていないという所が、女のアルコール耐性の高さを伺わせるのだが。
機械的に淡々と食事をねじ込み終わった女は、大きな欠伸を零しながら皿に貼ったラップを引っぺがし、ゴミ箱に放り込む。もう、戻る事は多分無いのだ、ならゴミの始末も適当で良いとでも考えているのだろう。
冷めた目で女を見る青年に、女は頭を掻きむしりながら先に寝ると言って二階に上がってしまう。二階には女の私室があるので、そこの寝床で惰眠でも貪る算段だろう。
青年は何も言わないで、腕時計を見て時間を確かめた。部屋の明かりは土鍋を温めていたガスコンロの明かり以外無く、それが蛍光塗料の塗られた針をぼんやりと照らし出している。
時刻は午後八時の半ばを過ぎた辺り。では、交替は日付が変わった頃か、と考えつつクロスボウを手に取る。法学部棟の屋上で籠城していた時からそうだったのだが、念の為に見張りを立てて眠る事にしているのだ。
交替は眠りの浅深が入れ替わるサイクルと眠りに落ちるまでの時間を見積もって、三時間半程度で行われている。連中に昼夜の区別は無く、特に日が落ちたら活発に動き始める。だから暢気に二人揃って眠る訳にはいかなかったのだ。
それに、外に出てから気付いたが、昼間は建物の中など光の入らない所に殆どの死体が隠れて居るので、動くなら昼間が最も楽に動ける。対して夜になると、所に寄れば通りに死体があふれ出して動けなくなる危険性もあった。だから、連中のサイクルに合わせて昼間眠り、夜に動く事もできない。なら、見張りを立てて交替で眠るほかあるまい。
それに、車で移動できるのだ。移動時間を使って交互に足りなくなった睡眠時間を補う事もできる。車のシートで取る睡眠は上質とは言い難いが、しないよりはずっとマシだ。
なら、仕方が無いな、と思いつつも青年はコンロのノブを捻って明かりを消した。ランタンを使っても良いのだが、明かりが強すぎると外に光が漏れる危険性があったので、ガスの無駄遣いになるが、この方が明かりが丁度良いのだ。キャンプ用の大光量ランタンは六畳間で使うには強すぎた。障子の遮りを突き破って外に光が溢れてしまうのはよろしくない。
消えた灯りの代わりに、胸ポケットにねじ込んでいたペンライトを引っ張り出し、先端を捻って明かりを付ける。LEDの豆球によって産まれた光が、細く伸びて部屋を照らす。
最近の大型スーパーには色々と置いている。洗剤を初めとした日用品や御茶のパックなどの消耗品のみならず、こういった緊急時の避難用品も豊富に揃えられていた。商売の対象を増やすためとは言え、逞しい物だ。ただ、それも今となっては略奪者の安全を保護するツールでしかないが。
青年はペンライトを咥えると、億劫そうに立ち上がり土鍋をそのままに階段へと向かった。階段の中程で座り込み、ライトを下へ向けてクロスボウを抱え込む。こうする事によって、警戒する方向を前方だけに絞れるのだ。背後には二階しか無く、二階には女だけで、死体には窓から入り込むだけの知能も運動能力も無い。警戒のコツは、出来るだけ意識を向ける方向を減らして精神力を保つ事なのだ。
ふと思い立って、青年は一旦階段から起き上がり、ぎしぎしと小さな軋みを上げながら居間へと戻った。放置された土鍋から、暖かそうな湯気が立っていた。
家から持ち出す物として女が居間の片隅に置いておいたマグカップを手に取る。それで土鍋から湯を掬い、同じく傍らに置いてあったインスタントコーヒーの粉末を投入。安っぽいが、特有の香り高さを有するコーヒーの芳香がマグカップから立ち上った。
見張りのお供を用意したのだ。カフェインは覚醒を促し眠気を祓う。それに、何かを飲んでいるだけでも暇が潰れて眠る危険性は下がるのだ。
フレッシュがあれば尚好ましいが、無いので残念そうに青年は立ち上がり、ふと、もう一度土鍋に目線をやる。
土鍋の保温性は高いが、ポットほどでは無い。煮立っていた湯も、暫く時間が経って温度は七〇度ほどに下がっている。青年は暫く考え込んだ後で、小さく手を打って、ある物を手にした。
タオルだ。女が使い古して、新品の頃のボリュームを失ってしまった、何処にでもあるタオル。粗品なのか、印刷所の名前が書いてあるそれを青年はそっと土鍋に浸す。
十分に湯が染みたタオルを取り出すと、それを土鍋の蓋に一旦置き、適温に温むまで待つついでに服を脱ぎ捨てる。着た切り雀で着古された被服からは、不快な汗と滲んだ垢の臭いが漏れていた。ある程度は水で洗って干したとは言え、水だけでは皮脂や垢を落とすのには限界があるのだ。
まだ少し熱すぎる嫌いはあるが、垢をふやかして落とすにはこれくらいで丁度良かろう。青年は、まず熱そうな湯気を上げるタオルで顔を拭った。
お湯で顔を拭う清々しさは何者にも代えがたい。欲を言うなら熱々のシャワーを浴びたい所であったが、今の青年にはこれでも十分過ぎた。フェイスタオルに微量の水を染みこませて済ますだけの洗顔では落としきれなかった垢や汚れが熱でふやけ、タオルの繊維とこすれ合って剥がれ落ちる。数度の往復の後、タオルから顔を上げると、この上なく気持ちよさそうに吐息した。
世の中には月単位で入浴しないでも平気という人種は居るが、青年はそうではない。どちらかと言うと潔癖症の気があって毎日でも入りたい人間だ。そんな彼が、一週間近く風呂を取り上げられたのだ、今の気持ちよさは一入であろう。
顔を拭うと、歯止めが利かなくなったかのように次々と体を拭い始める。首筋から始まって脇を通り腕を経て腹へ。タオルが汚れたら土鍋に付けて汚れを落とし、そのついでに暖かさと水気を足す。次に足を拭い、最後に出来るだけ清潔に保つべき局部を拭う。溜まりに溜まった汚れが落ちて、まるで体が新しくなったような爽快感を感じる。
流石に、局部を拭った後のタオルは土鍋に漬けると不味いと思ったのか、最後にはタオルを台所のシンクで水気を絞るとビニール袋に入れて捨ててしまった。汚い話だが、青年も人間だ。長期間風呂に入らず生活していれば、排泄もするのだから気を遣った所で局部が汚れるのは仕方が無いことなのだ。
乾いたタオルでざっと体を拭い、スーパーから持ってきた戦利品より、個人的に取ってきた品を取り出す。丁寧に畳まれ、ビニールで包装された新品のシャツとトランクスだ。
それだけではない、カーゴパンツやカッターシャツもある。最近のスーパーという物は品揃えが素晴らしく、日用品だけではなく服飾品も僅かながら取りそろえている事も珍しくない。いい加減に汚れが溜まって汚らしくなった服に嫌気が差した青年は、それに目を付けて使えそうな物を持ってきていたのだ。
女はちゃっかりと帰宅直後に着替えている。それもそうだろう、ここは女の家なのだ。着替えなんぞ箪笥を開ければ幾らでもあるのだから。青年だけが、不快な着た切り雀を数時間長く続けていた訳だ。
ポケットが多めで機能性は高いもののワンサイズ上のカーゴパンツは裾が余る。だが、汚いよりはずっとマシだ。そして、新しい下着類は例えようも無い心地よさを提供してくれるし、ぱりっとした新品のカッターシャツは崩れ去った文明の残り香がした。
青年は満足すると、ジャケットを取り上げて羽織り直す。こればっかりは外の腐臭が染みついていても汚れは少ない。皮膚に直接触れたりはしないのだから。
僅かな幸せを噛みしめると、青年は少し温んだコーヒーを啜りつつ、階段へと戻っていった…………。
数度、薄い瞼が痙攣した後に開かれた。目脂が溜まった目尻から涙が一滴流れ、充血した白目に続いて暗い状態に慣れて開ききっていた瞳孔が収縮しつつ覗いた。
何処までも沈み込み、自分の意識を飲み込む汚泥のような眠りから、青年はやっと目覚めた。今まで体にじっとりとのし掛かっていた苦痛は感じられない。脳髄を冒す熱も、体を蝕む火照りも、そこにはもう、残っていなかった。体力の消耗による疲労は、随にこびり付くように残っているが、それだけだ。もう、自分の命を脅かす物は体の何処にも無い。
寝転がったまま、数度瞬きし、体の調子を確かめる。四肢の先から少しずつ微動させていき、体の全てが動くことを確かめると体を擡げた。彼の汗が滲んだ毛布と掛け布団が剥がれ、中に籠もった熱気が霧散し未明の温度が肌を撫でる。
キャンピングカーは倉庫の中に止められているせいで陽光は当たらないのだが、天井の裂け目から差し込む陽光が天窓から注いでいる。もう、朝なのだ。
指を気遣いながら首を回す。ここ暫く伏せっていたせいで体の筋肉は緊張し、凝り固まっている。軟骨が久しく稼働したせいか、間に溜まった小さな気泡が弾けたり、僅かにずれた位置が治る際に小気味良い音が幾度も響く。少しずつ、確かめるように青年は己の体を解していった。
寝床の足下で、青年が目覚めた事を察したカノンは静かに座って待期していた。暫く世話が出来ないから、と大量に盛っていた水や食事は半ばまで無くなり、何枚も敷いていたペットシーツは三分の一ほどが汚れている。
「おはよう」
青年は体が正常に動くことを確認すると、指が折れて使えない右手の変わりに左手でカノンを撫でた。特徴的な黒銀の毛並み、犬特有の堅さを有する長毛を乱すように力強く撫でてやると、カノンも強請るように頭を擦り付け、尻尾を振りたくった。彼女も、主人の快癒を祝っているかのようだ。
割り箸や包帯を使って固定した右手の親指は、未だに熱を持っているが、もう痛みは無かった。数ヶ月は使えないだろうが、安静にしておけば、何れ治るだろう。とはいえ、正規の治療を受けた訳では無いので、歪んだりと何らかの不具合が発生する可能性は決して低くないが。
それでも、生き残った。
万感の意を込めて、深い息を吐く。今まで蟠っていた疲労が呼気に混ざって吐き出されていくようだ。そして、まだ生きていられる、その実感が何よりも青年には嬉しかった。
張り付いた目脂を指で擦って剥がし、軽く頭を触って相当に汚れている事を悟った。軽く枕を見やれば、汗や皮脂がにじみ出して気味の悪い模様を描いている。頻繁にシャワーを浴びる訳にもいかないので汚れは溜まっていたのだろうが、どうやら流した汗に混じって沢山染みだしてしまったらしい。
キャンピングカーは、未だに僅かに揺れている。小さく聞こえるうなり声も健在だ。外では、クッキーの缶を開けようと腹を空かせた餓鬼が諦め悪く叩き続けているのだろう。
数度頭を掻きむしり、溜息を付く。手を下ろすと、僅かに伸びた爪の間に汗と油が混じった垢が溜まっているのを見て再度嘆息した。
「……とりあえず、掃除をしたら風呂だな。それに、洗濯もしよう。たまの贅沢だ、悪くはないさ」
言いながら青年は枕の下に敷いておいた拳銃を取り出して左手で握り混む。最近はユニバーサルデザイン云々が流行ってはいるが、大抵の物は右利きを考慮して作られている。このM360もそうだが、人差し指が使えない以上、左手で撃つほか無い。普通に撃つだけなら人差し指を使わないでグリップし、中指で引き金を絞っても良いのだが、リコイルで骨折に響くだろう。ならば、少々使いづらいのにも目を瞑る他無いのだ。
梯子を引き下ろし、天窓を開いて屋根に上る。かび臭い倉庫の臭いに死体が放つ腐臭が混ざって絶妙に不快な薄暗い空間。車内よりも尚冷えた新鮮な空気が皮膚を泡立たせるも、体に感じる刺激が生を実感させてくれるので寒くとも青年は不快ではなかった。
安全装置を解除しながら、親指で撃鉄を引き上げる。寝る前にフル装填にしてあるので、弾は万全だ。
車の周囲には死体共が群がっていた。その数は一〇に満たないが、獣欲に突き動かされたそれらは、やっと姿を現した食事に腕を伸ばし歯を噛み慣らしている。自分が下に降りたなら、彼等は腕で以て四肢を引きちぎり、臓物を掻きだして一片も無駄にすること無く堪能することであろう。
だが、青年は淡々と銃を向け引き金を絞った。朝の静謐な空気の中に銃声が幾度も響き渡り、その度に呻き声が減っていく。
放たれた弾丸は、動きもしないで無意味に腕を届くわけも無いのに青年へ捧げていた死体の頭部を一発も過つこと無く穿った。動きもしない目標を撃つのは簡単だ、例え慣れない左手であろうとも。やっていることは、腐った西瓜を叩き割る、ただそれだけなのだから。
全ての死体を掃除し終えるのに自作の厚紙制のクリップを用いて一度リロードを挟む必要があった。暫く寝込んでいた体に38スペシャルのリコイルは、平素より重く感ぜられるも、青年は障害の排除を始めた時と同様に淡々と終えた。
M360を右手に持ち替え、ラッチを押してシリンダーを露出させる。レンコンのような形のシリンダーには撃ち尽くされた五発の薬莢が収まっており、それは僅かに熱を有している。青年は、空薬莢を手の上に開けるとポケットにしまい、新しいクリップで弾丸を装填する。構造上、どうしても左手に持ったままでのリロードは難しいのだ。
死体は、本当の意味での死体に返った。そして、青年も生きて返った。高熱に侵されて死の淵に立つも、帰ってきたのだ。
帰れない日々に浸りながらも、彼は戻ってきた。我がことながら生き汚いことこの上ないな、と自嘲しつつも青年は笑う。生きている幸運と、これからも生きて行ける幸福に感謝しながら。
さぁ、下に戻ったらシャワーを浴びよう。張り付いた汗と垢を洗い流し、気分も新たに部屋を掃除するのだ。生きて帰った、なら、もう一度生き返るような感覚を味わう贅沢も許されよう。
青年は、珍しく満足げに破顔し、小さな笑い声を上げて下に戻った。
そして、その脳裏には、まるで残照のように、聞き慣れた彼の物ではない笑い声が掠めていた…………。
お待たせしました、私です。また一月近くお待たせして申し訳無い。おかしいな、本当は一年くらいで終わらせるはずだったんですが、プロットもシナリオも全部できてて文章出力が襲いというあるさま。困った物だ、誰か私に速筆と文章力を下さい、切実に。
とはいえ、まだ過去編が終わった訳では無いんで、今後ぽつぽつと青年が大阪に帰りながらぽつぽつと思い出していく形になります。纏めてやると、コイツどんだけ寝てるんだよ、という事になるので。
感想、誤字訂正何時もありがとうございます。とても励みになっております。来月、というか、もう来週終わったら就活が始まるので忙しくてどうしようもならなくなりつつある中、心の励みとしております。今暫し、よろしければ、この物語にお付き合い願います。