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青年と犬と、無線通信機

例によってグロ有りです。苦手な方はお気をつけを。


3 14 2014 編集

 さして広くもない道があった。アスファルトとコンクリートで舗装された、深い山間を走る二車線道路だ。


濃緑の針葉樹、その合間を蛇のようにのたうつ道の上には転々と車が放置され、荒れ放題であった。


 それのみならず、道の両脇を埋める木々より抜け落ちた枯れ枝や枯葉などが路面に覆い被さり、茶褐色の絨毯が構築されている。荒涼とした有様は、ある種の侘びしさを孕み、沈黙と共に佇んでいた。


 しかし、道の向こうから沈黙をかき消す騒音が産まれた。六気筒の大型エンジンが上げる、低い獣のような咆哮だ。果たして、地平より褐色の絨毯を蹴散らしながら現れたのは、一台のキャンピングカーであった。


 知らぬ人間が見れば、キャンピングカーと判別できぬほどに全身を鎧った鉄塊は、法定速度以下の微速でかつての国道を走り抜ける。


 そんなキャンピングカーからエンジンの駆動音に紛れて漏れるのは音楽だ。多数の金管、木管、弦、打楽器で構成された旋律に合わせて響くドイツ語の低い旋律。


 カーステレオから流されているのは、接続された携帯オーディオプレイヤーより出力された、ドイツはベルリンフィル交響楽団の演奏する第九・四楽章 歓喜の歌だった。


 それに合わせ、葬儀の参列者を思わせる陰鬱な佇まいの青年が下手な鼻歌を左ハンドルの運転席で零していた。片手でハンドルを操り、もう片方の手は無聊の慰めか助手席に伸ばされ大きな毛玉に埋もれている。


 唯一の道連れであり、彼の相方であるシベリアンハスキーのカノンであった。彼女は毛皮を好きにされているのも気にせず丸まって寝そべり、厚みがある二等辺三角形の耳を音楽に傾けるかのようにひくつかせている。


 酷く退屈な旅であった。信号に捕まることは無く、運転席に居合わせるどちらもが寡黙、と言うよりも一者は人語を解さない。


 その上、これほどの僻地ともなると、彼等が目下の所最大の危難として認識している死体の姿さえない。歩き回る死者は、得てして人の多いところに居るのだ。



 のんびりと鳴り響くBGMを聞きながら、時折放置されている車両を躱すためにハンドルを切る以外の操作はない。


 それしか気にする物がないので気楽なものだ。目に入る物と言えば、放置車両とガードレール、そして連綿と広がる山々と緑だけ。剰りにも単調かつ起伏が無いので、目が馬鹿になりそうだなと思いながら彼は低速で車を走らせる。


 ふと注意を放置車両にやると、時折中で何かが動いているのが伺えた。人型で扉を叩き続けるそれは、きっと人間では無いのだろう。


 されど、過ぎ去るだけの囚人は無害だ、気を払い続けるだけの価値を有さない。直ぐに興味を失った青年は、哀れみの変わりに小さな欠伸を一つ零した。


 そうして、何故世の中が、こんな有様になってしまったのかを訥々と、何くれなく思い返す。


 人間が“ああなってしまう”ようになったのは、今年の四月の事だった。青年の凡庸な記憶力では日付までは定かではないが、盛りは過ぎても桜が残っていた頃だったと記憶している。


 桜木の枝が青に衣替えをし始める時節、世界では風邪が流行っていた。感染力が高く、高熱が続く風邪だ。ただ、風邪が流行るのなど珍しいことでもなく、精々注意を呼びかけるしかなかった。貧困国では死者が出たりして事件にはなっていたが、世界であふれかえっている日常のことであった。


 されど、それは直ぐに日常ではなくなっていく。高熱に冒されていた人間が突然意識を失ったかと思うと、起き上がって理性を無くし人々を襲うようになったのだ。


 その者達は、人間が大凡生命活動を停止していると言って良い状態でありながらも動き続け、ただただひたすらに生者を襲う。それが子供や家族、他人であろうとも見境無く。


 兆候とも呼べぬ兆候と共に悲劇はやってきた。死人が人を喰らい、更なる死人へと誘う世界が。あまりにも非現実的かつ衝撃的な出来事に人類文明はまともな対応も出来ずに崩れ去った。


 それもそうだろう。新種の風邪が流行った程度で、誰が世界の終わりを予見しよう。したとしても、ただの陰謀論好きか阿呆の唱える世迷い言でしかないのだ。例え、それが後に現実になろうとも。


 結果として、日常は死に絶え修羅の巷へと成り果てた。今までは中々に成熟して便利な物だと思っていた社会も、一度揺らぐと崩れるのは簡単なものだった。


 それを象徴するかの如き情景が眼前に広がっている。昔ならば事故車両や放置車両が僻地の山間部であろうとも、長々放置され続けるなど、絶対にあり得なかったであろう。


 かつては多数の車が多くの人や物を運んでいた国道も、今となっては走る車両はただの一台。そして、それに乗るのは一人の人間と一匹の犬だけだ。おまけに、積まれているのは一人では一昼夜打撃ちけても消費仕切れぬであろう無数の火器という有様。


 そう考えると寂しい物だな、と思いつつ青年は機械的に車を走らせる。対向車も何も無いので、誰憚ること無くかっ飛ばせる環境であっても、彼は努めて速度を上げることはなかった。


 荒れ放題であるが故に障害物には事欠かないからだ。事故車や事故車からこぼれ落ちた積荷、そして枯葉に覆われて姿を隠していた動かない死体。不用意に速度を出してこれらにぶつかると、ガードレールを突き破って森にダイブすることになりかねない。


 焦れるような速度で走る車だが、操っている当の本人は遅い進みに飽きることも焦れることもなく無表情だった。逸っても良い事が無いのならば、受け入れるしか無い。その顔には諦観だけが色濃く刻み込まれていた。


 もう真冬と言って良い時期なのだが、今日は日が良く照って暖かい。優しい陽光がフェンスで護られた窓から格子状に差し込み、熱を与えてくれる。


 長閑な雰囲気に毒されて、何度目ともなるか分からない欠伸が溢れた。目尻に涙を浮かべながら、陽光を十分に吸って暖かな道連れの毛並みを撫で続ける。


 不意に、丸まった柔らかそうな体に顔を埋めたくなる衝動に駆られるが、青年はぐっと押し込めて視線を前に固定した。


 旋律の調子が上がり、曲の盛り上がりも最高潮、誰もが知っている小節に入ろうとした時、青年は腕時計をちらと見やって時刻を確認する。


 文字盤の上では短針と長針が近づき、Ⅻの上にて抱擁を交わさんとしていた。


 もう昼かと思いながらも、最近は一日二食で通しているので車は止めない。体力を使いそうな時は食べるが、物資を温存するために平素ならば昼食は省いていた。


 それでも、カノンの毛皮から右手を引き剥がし、ダッシュボードの上へと手を伸ばす。


 そこに置いてあったのは古びたアマチュア無線機であった。通信範囲が広いだけが取り柄のオンボロ型落ち無線機で、かつては車に乗っている間の暇潰しとして、何処の誰とも知れない人間と会話するのが流行った時期の遺物だ。


ただし、その流行はアメリカに限定されるが。この型落ち無線機をどうして未だに積み込み、付箋だらけのマニュアルと共に置いてあったのかは永遠の謎だ。元の持ち主に会う機会は永遠に失われてしまったのだから。


 青年がスイッチを弾いて入れると、甲高いノイズが小さな音で入った後、砂嵐のような音だけが流れ始める。本体は車のバッテリーと直結されており、エンジンが動いている間は電源を入れれば動くような仕組みになっていた。


 ノイズを聞きつつ、円形のつまみを操作して周波数を手繰る。合わせる周波は、本体に貼り付けてある大判の付箋に書かれた数値だ。


 探るように捻り、後はちらちらと視線を其方に送りながら周波数を調整する。次第にノイズが収束し、クリアになって行き、最終的には音が消えた。


 周波数がメモ書きの物と一致した事を確認すると、青年は受話器を取り上げて声を掛ける。


 「テステス、……聞こえたら応答を求む」


 単調で極めて棒読みな声音で話しかける。反応は無いが、青年は暫し待った。この周波数に向かって通信を繋げるのは随分と久しぶりなのだ、相手が今も生きていて通信機が使えるとは限らない。


 暫くして、何かを引っかき回すような音がスピーカーから鳴り、一度ノイズが響いた後で声が続いた。本体の調整と手入れ不足によって引き起こされる、ひび割れた音であった。


 『はいはい、こちら大阪の某複合ショッピングセンターだよ。どちらさま?』


 ひび割れ、ノイズ混じりでも声の主が若い女である事が分かった。気軽で明るい調子の声の主は、急いで通信に応じたのか、呼吸が少しだけだが乱れていた。


 「私だ」


 『おお、名無し氏ではないか。久しぶりー、長野の方はどうだったー?』


 脳天気な声を聞きながら、青年は放置車両を避ける為に乱れた軌道を描いて車を動かす。こんな大型車を転がしたのは春が初めてだったが、飽きるほど走らせると慣れる物だなと思いつつ答える。


 「大した物は何も無いな。死体と放置車両、それと偶に自衛隊の装備なんかを拾えた程度で生存者は殆ど見なかった」


 まぁ、都市部には行かなかったからだが、と内心で続ける。自衛隊の基地なども訪ねてはいなかったし、積極的に生存者を探した訳でも無いので当然の結果であった。


 『そか、やっぱどこも似たようなもんかー……つか、通信可能域入ったって事は、もう大阪近い?』


 ちらとカーナビを見やると、そろそろ長野の県境を抜けて、地方的には名古屋に入ろうとしている。


 渋滞に捕まらないだけで、さして速度を出していなくても移動は捗るだなとつくづく思いながら、進路上に転がっていた死体を避けた。踏みすぎると血が駆動部に掛かってへたるので、例え面倒くさかろうと避けなければならぬ。


 「そろそろ名古屋だな……来る時も通ったが、人気は全くない」


 『名古屋かー、お土産に味噌持ってきて欲しいねぇ、他は鶏とか。つか、名無し氏、こっちに会いに来てよー。通信繋がった事自体随分と久しぶりだしさぁ』


 そう言われ、この喧しい通信相手の事を思い出す。大阪でうろちょろしていた頃、何とも無しに無線機を付けてみたら繋がったというだけの間柄で、互いに情報を交換したりしていることくらいしか接点は無い


 しかし、この距離でどうやって大阪からの電波を受信できるのだろうかと青年は考えた。日本は狭いが、指先で一またぎ出来るのは世界地図の上だけでの話であり、実際には中々の距離がある。


 とはいえ、無線の事など門外漢なので詳しいことは考えても分からないし、聞いて説明を受けたとしても理解することは難しいだろう。アンテナが車外から伸ばされているし、その効能だと彼は納得することにした。


 この明るい声の女とは半年くらいは連絡を取り続けていたので、全く以て他人とも言い切れない微妙な仲であった。今で言うネット上での友人に近いのだが、そう言うには何とも歪でもある。


 青年が黙っていると、女は何を思っているのかは知らないが更に言葉を続けてくる。まるで、黙ったら死ぬというようなゲッシュでも結んでいるかのように。


 『そもそもさ、私、名無し氏の名前すら知らないんだけど。この名無し氏だって、苦肉の策で付けたニックネームだしさぁ。いい加減教えてよー』


 困った様な文脈であろうとも、底抜けに明るい語調に対し、彼も平素と変わらぬ抑揚のない声で答える。ともすれば、録音吹き込みメッセージよりも人間味の薄い声であった。


 「別に名前なんてどうでもいいだろう。大勢の中から個体を認識するだけの記号で、結局この周波数で其方と話すのは私だけなんだから、私は私で十分だ」


 『何それ、厨二くせぇー』


 げらげらと通信機の向こうで女人にあるまじき下品かつ大胆な笑い声が沸くが、それでも青年は何ら反応することはなかった。


 女は笑い過ぎて息も絶え絶えだが、ある程度笑いが落ち着いたのを見計らうと、今度は青年から話題を切り出す。しかし、今の台詞の一体何処がツボに入ったというのだろうかと内心で首を傾げていたが。


 「其方はどんな具合だ」


 『んー? 楽しい事も新しい事も、なーんもないよ。昨日も明日も明後日もー♪ 毎日缶詰やんなっちゃーう』


 調子っ外れな節を付けながら声の主は歌うように言い、更に切ること無く言を繋げる。この女に話す切っ掛けを与えると、際限なく話し続けることを青年は漸く思い出していた。


 『最近は近くのパトカーから弾とかてっぽーも取り尽くしたからねぇ。食料品売り場の物も枯渇し始めててんてこ舞ーい。


 試しで作ってる菜園からもあんまり作物は取れないし、食べられる生き物つっても危険無く狩れるのは鳥くらいなんだけど……鳥は何持ってるか分からなくて危ないからねぇ。


 もっと遠くに出てアイテム探そうぜ派と、節約して引き籠もろうぜ派で喧々囂々って感じかな』


 凄まじくアバウトかつ要点を得ない報告だったが、大まかに常況は理解できた。


 この女はショッピングセンターに居ると言ったが、正確には大阪のとある都市にある大型複合ショッピングセンターに二〇〇人近い人間と共に立て籠もっているらしい。


 現代の人間でも意外とジョージ・A・ロメロに毒されている人間は多いようで、このような事態になって世が混乱した時、大勢が集まってショッピングモールに立て籠もったそうだ。


 存外古い映画だが、結構見られているのだなと、密かにファンであった青年は嬉しく感じる。かといって、その喜びを分かち合う相手も居ないし、何の役にも立たないので口に出すことはしないが。


 ショッピングセンターに立て籠もるのは、生き延びる為の方法としては最良に当たるだろう。物資もあれば食料もあるし、スペースも広い。上手く区分け出来れば一つの共同体として活動出来るはずだ。


 だが、しかし、それはあくまで物資が充足して、満足に配給出来ている場合に限る。


 物資が枯渇すれば共同体はまともに機能しにくくなり、諍いが産まれる。そして、食料が少なくなっただけで、その小さな芽は容易く内乱という華を咲かせてしまう。


 小さな諍いや喧嘩の結果、共同体から単なる有象無象が寄り集まった群衆へと変化すれば、その結末は火を見るより明らかだ。過程はどうあれ、そう間を置かずに全員が歩き回る死体の仲間入りだろう。


 『私はあれだよー、通信機で生存者探したり、適当に屋上から下警戒してるだけの簡単なお仕事だからいいんだけどさぁ……一部の若いのが本当に血気盛んで……』


 「お前さん、まだ十代だって言ってなかったか」


 『ええ、紛れもない十代ですよ? 硝子の十代!!』


 「ああ、おばさんだな、言語センス的な意味で」


 うっせーやいと大声での文句が飛んできて、スピーカーの音が盛大に割れた。それに驚いてカノンが頭を擡げるが、周囲を見回して異常事態ではないと理解すると、直ぐに興味を失ったように体へ頭を埋めて午睡へと戻る。


 『とにかくさー、名無し氏ー、家来てよー。ついでにたっけてよーう』


 「半年前から延々聞いてるが、こっちも余裕が無い」


 言い切ったが、実はそうでもないことを青年は自覚していた。しかし、嘘を吐いたと自覚しながらも、その声音は全く以て平生のものと変わることはない。


 嘘を吐いても声音が変わらないのは、悪びれていないか、吐いても仕方ないと納得しているかだ。しかし、彼はどちらでもあった。げに恐ろしきは、自分の為に悪行を完全に受け入れる覚悟を持っている精神であった。


 後部を見やると無数の木箱が生活スペースを圧迫するように置かれているし、硬質密閉ケースで屋根にも武器が幾許か括り付けてある。


 弾は膨大過ぎてカートンでしか数えていないが、打ち続ければ腱鞘炎を起こしかねない程に蓄えがある。全て、死んだ警察官や自衛隊員、放置された軍用トラックから残さずかっぱらってきた物であり信頼性は高い。


 対して、青年がそれを得るに当たって要した労力は死体の排撃などと安くは無いが、対価としては十分過ぎる内容と言えよう。


 恐らく、女の話を聞く分にはショッピングセンターの戦える人員全てに配っても余るほど火器は充実している。だが、それが相手を助ける理由にはならないし、助けても益は無い。


 むしろ害になる危険性の方が高いと青年は考えていた。


 何故そう思うのかというと、極限状態に置かれた人間が何でもするというのを嫌というほど見てきたからだ。


 彼等は青年が武器と頑丈な移動手段を持って揚々とやってくれば、彼を殺してそれらを奪うかもしれない。対価を払わずに利益を得ようと考えるのは、誰しもが一度はするものだ。それが極限状態なら尚のことである。


 だまし討ち、伏撃、歓待すると見せかけての毒殺。油断はトイレででもできない生活が始まる。そんな有様が容易に想像出来た。


 状況を打開するほどの強力な物資だ。例え、青年が度を超した要求をするまいと、相手が深読みしないとも限らない。勿論、歓迎され受け入れられる可能性が無いとは言い切れないが、両天秤にかけた場合のリスクは裏切られた場合の方が重い。


 そうであるならば、青年が選ぶ回答は決まり切っていた。より生存確率が高い方だ。


 自身とカノンが生き延びるのが彼にとっての最優先事項。このキャンピングカーは、青年にとってのカルネアデスの板なのである。


 カルネアデスの板とは、法律で用いられる緊急避難の例えだ。船が沈み、自分は自分一人なら何とか浮かんでいられる板にしがみついている。だが、もう一人がしがみつけば、その板は沈んでしまう。


 自分は死にたくないし、もう一人も死にたくない。だから、自分は板に捕まり続けるし、もう一人は板に捕まろうとする。そんな時に、その他人を蹴落として殺してしまっても、罪にはならない。そんな話だ。


 正にこのキャンピングカーは荒れた大洋をたゆたう一枚の板なのだ。手放せば、青年はそのまま沈んで死んでしまうだろう。


 他人に話せば、それは強迫観念だの、人間は助け合えるものだと説得されるかもしれないが、彼にはそう思えなかったし、その実例も嫌というほど見ていた。


 だから、彼は何が起ころうとも、この板を手離すことは無いだろう。


 それで尚、ショッピングセンターに身を寄せる可能性があるとすれば。


 「其方が安定して、私を受け入れられるくらいの余裕が出来たら寄せて貰うかもな」


 襲ってまで物資を手に入れようとする貪欲さや、それを生み出す逼迫感が無ければ交渉も出来なくは無いだろう。人間の卑しさとは余裕の無さから産まれるのだ。されど、余裕がある時に限り、人間は得てして鷹揚でいられるのである。


 だが、今の時点では死んでもご免、と言うよりも自傷行為に等しい。


 『ちぇー。でも、何時でも待ってるからね。


 ああ、名無し氏は缶詰好き? 最近はほんっと缶詰ばっかでさー。たまには美味しい物食べたいよー』


 「私は自衛隊の糧食が多いな。味が濃くて旨い。乾パンのジャムも慣れれば割かし美味なものだ」


 『ぬぁー、ミリメシ羨ましいぃー! 私も鶏飯たーべぇーたぁーいー!!』


 地団駄を踏む雑音がちらちらと聞こえてくる。それにしても、若いし明るい語調の女なのに、無線を弄れたりミリタリー関係の知識があったりと変な女だと青年は小さく首を傾げた。


 人間性と人となりに僅かな好奇心が沸かないでもないが、自分の命よりは軽い。それに、変に質問すれば延々と話し続けることになるだろう。青年は疑問を飲み込んで言葉を続けた。


 「探せばあるだろう、自衛隊の放置車両くらい。上手く行けば小銃も拾える。


 大阪なら和泉にも基地はあるし、伊丹まで出向けば第三師団の駐屯地だってある」


 『流石に遠いんだよぉーう。それに、人が居る気配をどうやって察してるかは知らないけど、近所に山ほど集まって来てるしぃ』


 青年が絶えず、では無いにしろ頻繁に移動している理由にはこれにあった。歩く死人共はどういう訳か人間が居る場所に集まってくる。


 何度も間際で見て壊しているから分かるが、死体の目は白濁して腐れていたり、脱落して暗い眼窩が覗いていることが多いので、まず視覚から情報を得ているとは考え難い。


 その代わり、死体は音に敏感だ。特に大きな音には過敏に反応し、例え小さな音であっても、それしか音源が無ければ反応して遠くからでものろのろとやってくる。


 それが、青年の移動し続ける理由と発電機などの音の大きな器具を使いたがらない理由であった。


 だが、反応する物が音だけかというと、そうでもない。青年が普段愛用している靴は分厚い軟質ゴムが靴底に張られた軍用のブーツで、足音は気をつけて歩けば殆ど無音だ。しかし、それでも連中はめざとく此方を見つけて追ってくるのだ。


 かなり気をつけて歩いてもやってくるので、青年は臭いが原因ではないのかと践んでいた。


 推測の域は出ないが、恐らく、ホルモンか何かで同類か、それ以外の食べ物かと区別しているのだろう。


 全く、無駄に高性能で嫌になるな、と嘆息しつつアクセルを踏み込む。走っている国道は長い直線に入り、ここから見える限り地平線まで障害物は無い。


 カーナビのモニターを見やると、今の地平線まで見える直線が終わって暫くすると、長いトンネルに差し掛かり、また深い山の合間に戻るので通信は断絶してしまうことだろう。


 「そろそろトンネルに入るが、その前に言っておくことは?」


 『んー、特に思いつかないけど……気をつけてーってのと、お土産よろしくー? かな』


 脳天気に言われても、彼は自分のリズムを崩さずに返す。この女性と青年では、人生の芸風が大きく違うのだろう。


 「だから、そっちには行かないと何度言わせれば分かる。気が向いて暇だったらまた通信を入れる。以上」


 『うーい、気長に待ってるよぉーう。それじゃ、オーヴァー』


 通信を切るのは向こうからでは無く、此方からだった。付けた時と同様に片手を伸ばして、電源を弾いて消した。スピーカーから一度ノイズが響き、後は完全に沈黙する。


 再び、BGMのクラシックだけが流れる穏やかな空間が運転席に帰ってきた。青年は深い溜息をつきながら、速度を少しずつ落としていく。地平の向こうにトンネルの入り口が見えてきたからだ。


 スイッチを操作して車のライトを起こす。暗くなったら自動で点灯するような、流行の便利機能はついていないのだ。


 何か良い物が見つかればいいのだが、と青年は呟く。物資に余裕はあれども、補給できるのなら可能な限りした方が良い。何時、物資が大量に必要になるかは誰にも分からないのだから。


 淡い希望を乗せて、キャンピングカーはただ駆けてゆく…………。













 鮮烈な橙の光を浴びて、全体が淡いオレンジに染まったサービスエリアがあった。簡単な給油所や食堂に土産屋等を兼ねた建物と、広い駐車場を抱えた、車にて旅をする者達の休憩場だ。


 時刻は夕方に差し掛かり、日が山の稜線へと沈みつつあるそこで、一台のキャンピングカーが停まっている。装甲が施された青年のキャンピングカーであった。


 彼はベストの上からジャケットを着込み、キャンピングカーの上に立っている。眩しさに目を眇めにしつつ、片手にはM37エアウェイトをぶら下げていた。


 車の周囲には、無数の影が蠢いていた。夕日が差し込んで陰影がはっきりした駐車場で、疎らに散った死体共が頭を揺らしながら蠢いている。その数は概算でだが、三〇体は下ることはあるまい。


 それらは汚濁した体液を滴らせながら虚しい呻きを零し、降って湧いた餌に歓喜していた。皆一様に腕を差し伸べて高所に立つ青年へ向かっていく姿は、救いを求める衆生のようでもあった。


 車が駐車場に入り込んだばかりの時、死体の姿は殆どなかった。しかし、青年が車を停めてルーフに昇る頃には、放置車両の下などの日陰から競うにように這いだしてきたのだ。


 姿形や背格好からして、残された車両の持ち主や職員達だろう。移動する事が多い彼等が何故この場に留まっていたのかは定かではないが、それでも刃物で駆除するには剰りに多い数であった。


 「さして多くないが……流石に弾は勿体ないな」


 青年は呟きながらジャケットの内ポケットに手を突っ込み、M37をしまい込む。距離が近いので一射一殺も難しくはないが、消費は激しい。今後生産供給されることのない弾薬だ、大事に使わねば鳴らない。


 代わりに、一緒にルーフへと持ち出してきた箱から、ある物を取り出した。キッチンタイマーだ。白い卵を象ったキッチンタイマーで、何処ででも手に入る有り触れたものである。


 軽く操作し、十秒後になり始めるようにして、音量のつまみも最大まで捻り上げる。これで、スイッチを押した十秒後には凄まじい電子音が上がるはずだ。


 青年はタイマーを起動させ、アンダースローで優しく、駐車場の比較的車が無いところへと放った。


 からからと軽い音を立ててタイマーが地面を転がっていき、その内車から一〇メートルほどの距離で止まった。


 そして、十秒の後にしっかりと作動して、けたたましい音を立て始める。すると、ふらふらとキャンピングカーの上に立つ青年へと向かっていた死体達が、一度立ち止まった後で一様にキッチンタイマーへと向きを変え始めたではないか。


 音に敏感であるという習性を知った青年は、その習性を利用する方法を考え出していた。キッチンタイマーなどの音を発する道具を使い、死体を誘導するのだ。


 この方策をとってから分かった事だが、彼等は音や匂いを察知して対象を判別するが、その判断基準は刺激の大きさに依る部分が多い。


 現に、青年という餌が前にあろうとも、甲高い目障りな電子音を立てる無機物へと彼等は殺到しようとしている。目の前の餌よりも、より刺激が強い対象を狙う辺り、死体の知能が高くないことが簡単に分かった。


 死体の集まり具合を確かめながら、ある程度納得行くところまで待ってから青年は足下の箱を漁る。キッチンタイマーは、ただ無為に死体を集めるために投ぜられたのではない。死体を手軽に一掃する為の策なのだ。


 持ち出された箱に収まる複数の瓶。その一つを手に取った。洋酒のラベルが貼られた角形瓶で、その口は開けられており、蓋の代わりに新聞紙が生えていた。


 モロトフカクテルとも呼ばれる手製の火炎瓶であった。オクタン値の高いハイオクガソリンとベンジンを混ぜ込んで作った焼夷手榴弾の一種であり、瓶が割れることにより消えにくい炎が広範囲に広がる。


 そう、音で死体を一カ所に集めて、一気に焼き殺そうというのだ。始末が手早く済み、弾の浪費も控えられて火炎瓶自体の調達は容易。極めて合理的な駆除方法であった。


 だが、人間ならば直ぐに死ぬだろうが、彼等は火に巻かれても直ぐには壊れない。人間が炎に弱いのは呼吸によって呼吸器が焼かれるからであり、死体は言うまでも無く呼吸をしていない。


 故に、死体が火によって活動停止に陥るには中枢があるらしい脳が煮立つまで待たねばならない。それに、燃えながらもフラフラ歩き回るので延焼の危険性もあるのだ。


 なので、市街地や山の中のような燃え移りやすい物が多い場所では、この駆除方法は使えなかった。流石に大火事になれば青年にも不利益が多いからだ。


 しかし、この場は延焼するものは少ないし、時間がかかると言ってもウェルダンになるまでじっくりと焼かなければならない訳でもない。三分程もすれば脳にも熱が十分に廻ってバタバタと斃れる。その間に此方へ寄ってこられなければ良いだけだ。


 キッチンタイマーへと死体共を横目に青年はポケットからオイルライターを取り出す。金色の本体に胡蝶がレーザー刻印された美しいライターで、上手に使い込んだのか、金色はくすんでいてもむらはない。


 かつては輝かしたかった金色は年期によって真鍮色に近づいているが、色調の変化は古くささではなく使用者の愛着を滲ませる。真鍮色の本隊に浮かぶ胡蝶の意匠が夕日に映えた。


 茜色の光に黄金の本体が溶け、まるで胡蝶が空を飛んでいるように見える。数秒だけ意匠に見とれた後、青年は親指で蓋を弾いた。油の香りが僅かに鼻腔を擽る。


 石を指で回して火花を起こすと、油が染みた軸へに淡い炎が灯った。そして、発火元となる新聞紙に火を移す。新聞紙はあっという間に燃え上がり、種火の何倍もの大きさに変化する。


 役割を果たしたライターを仕舞うと、青年は火炎瓶をできるだけ高く弧を描くように放りだす。狙いは死体のど真ん中だ。


 火の付いた先端が回りながら光の軌跡を描いて落ちていき、弾けた。


 液体が広がり、ほぼ同時に火が散って広範囲へと燃え移り、死体が炎上する。ほぼ全ての死体は広がった液体の範囲内に入っており、足先から高温の炎が舐めるように浸食してゆく。


 だが、それでも死体は何でもないかのように動いている。被服が焼け、肉が燃え上がり、白濁した目が弾けても気にしない。ただ、自分達を引きつけて止まない音源に向かって手を伸ばし続ける。


 一体の死体が焼かれながらも、同様に炙られたキッチンタイマーを両手で掴み上げる。表面を熱で蕩かせながらも音を発していたタイマーを掬い上げるように口元へと運ぶ動作は、まるで掛け替えのない愛しい宝物を扱うかのようであった。


 求めて止まぬ物を手に入れた彼は、きっと幸せなのだろう。しかし、歯が囓ったのは、焦がれた肉ではなく、無情に硬い無機物だ。そして、同時に彼等の興味を掻き立てていた音も壊れて止んだ。


 音が止んだことで死体は一度動きを止めた。タイマーをかみ砕いた死体の燃える口から、虚しく残骸がこぼれ落ちる。興味の対象は、再び香しき匂いを放つ生者へと移りつつあった。


 このままでは大変拙いことになる。火が付いたままの死体がキャンピングカーに殺到すれば、延焼しかねない。


 だが、青年には進んで丸焼きになる趣味はない。勿論、火を使うのであれば後始末のことまで含めて計算してあるので慌てる必要は無かった。


 彼は、もう一つキッチンタイマーを取り出して、即座に鳴らしながら死体達の更に向こう側へと放る。残響を耳に残し、夕日を浴びて雛鳥を模したタイマーが弧を描いて飛んで行く。


 アンダースローで放られたキッチンタイマーは、燃えさかる死体の頭上を越えて駐車場の端へとへと落着した。軽いし機構が簡素な機械なので、少々雑に扱った所で壊れはしない。


 その身を業火に焼かれながらも、死体は新たな音源に惹かれてフラフラと歩いて行く。ただ愚直に足を動かす。彼等はそれしか知らないし、できないのだ。


 大きな音へと燃えながら引きつけられ、待ち望んだ馳走からは遠ざけられる。そして、末に待つのは冷たい無機質との邂逅だけだ。焼けながらも脚を動かしてまで辿り着いた先に、彼等の望みなどありはしない。


 その内、脳が煮立ったのか死体達はどんどんと斃れて行き、最後には嫌な臭いを上げて燃える腐肉の塊だけが駐車場に遺された。


 青年はそれを無感動に眺めながらライターをしまい、懐にしまった拳銃の換わりに手を伸ばす。足下の箱に火炎瓶と共に収まっているのは、大きな減音機を銃口先端に備えた、警察の特殊部隊で採用されているMP5A5であった。


 スリングで短機関銃を肩に引っかけて、彼はキャビンに引き返す。梯子の袂では、まるで彫像のような静けさでカノンが帰りを待って佇んでいた。


 出迎えの労いに頭を撫でられると、大きな雌犬は喜ぶかのように目を細め、更に強請るように手を頭に押しつけて応えた。


 暫しリクエストに応えてやってから、青年は武装を整える。何か拘りでもあるのか、統一された喪服のような普段着、その上に銃と同じく警察官から失敬した黒のタクティカルベストを羽織る。


 強化繊維で織られた分厚く頑丈なベストには、動きが邪魔になるので防弾プレートは入っていない。手に入れた当初は入っていたが、死体相手では重しにしかならないので抜いてあるのだ。


 その代わり、ベストのホルスターにはP220がねじ込まれており、ポーチにはMP5とP220に対応したマガジンがそれぞれフル装填で収められていた。使う武装は何時も決まっているので、少々ズボラだが収めっぱなしにしてあるのだ。


 最後に、腰のベルトを通して太股の辺りで固定するレッグホルスターに手を伸ばしかけて、青年は手を止めた。M92Fがねじ込まれたホルスターを見て暫し逡巡し、今日は良いかと手を引っ込める。


 本来なら、メインアーム一挺とサブアーム二挺を吊してフル装備なのだが、既に外の死体は大凡が駆逐されている。そこまで大仰にする必要は無いかと判断したのだ。


 ただ、この武装のチョイスには意味がある。全て使用する弾丸が9mmパラベラムで統一されていることだ。そうすることによって、万が一武器本体が壊れたり、喪失したとしてもマガジンから弾を抜くことによって別の銃器で再利用することができるのだ。


 死体は兎に角数が多い。押し込まれそうになった時は、がむしゃらに撃ちまくって突破しなければならない場面もある。そんなシチュエーションを想定して、青年は大量の弾と銃器を携行していた。


 そして、忘れず近距離戦闘に対応した得物も身につける。大ぶりな革製の鞘に収まった山刀であった。先端に向かって刃が広がり、重心が切っ先にあるから振り下ろしやすい刃は死体の頭を叩き割るのには最適であった。


 頑丈で軽く、それでいて雑に扱っても血糊を拭って適当にシャープナーで研いでやれば切れ味も落ちない。便利な武器だが、青年はこれを何処で手に入れたか記憶が定かではないので、きっと最初から積まれていたのだろう。


 武装は全て整った。ガチャガチャと色々身につけて着ぶくれしたように見えるが、金属部分にはテープが巻かれているので走ったとしても雑音は衣擦れだけだ。


 改めて武装が全て完全に固定されていることを確認すると、青年はMP5のエジェクションスイッチを押してマガジンを取り出して弾丸が詰まっていることを確認する。


 鉛色の弾頭を覗かせた9mmパラベラム弾がランタンの光を反射して鈍く光った。暴力の力を秘めた鉄は、静かに己が身に湛えた暴威を主張していた。


 マガジンを元に戻し、チャージングハンドルを引いてチェンバーに初弾を装填、無機質な音を立てて薬室へと弾丸が送り込まれ、各部がしっかりとかみ合った機械音が鳴り響く。


 後は引き金を絞るだけで、鉄の暴威は正確に音よりも早く飛翔する。強化プラスチックの外殻を持つ獣は、咆哮の瞬間を待って居た。


 「行くか、カノン」


 言いつつ多目的ポーチから厚手のバンダナを取り出して口元に巻き付ける。その上、分厚い皮の手袋も身につけ、更にはスモークの入ったゴーグルを身につける。鼻から額を隠すグーグルは、本来ならスノーレジャーに使うようなものであった。


 これらは全て感染防止の措置だ。死体に噛まれることによって、人は何らかの感染を引き起こし死体に成り果てる。それが唾液か血液か粘膜が原因かは分からないが、防ぐ為には全身を覆うのが一番だ。


 それに、それ以外にも通常の感染症のリスクもある。動いているとはいえ、腐った死体なのだ。どのような病原菌を抱えているか、想像するだに恐ろしかった。


 僅かな息苦しさを感じながらも戸を開けると、斜陽の光が差し込んでくる。目を焼く淡い光はスモークに遮られるが、腐肉が焼ける気味の悪い臭いまでは防いでくれない。。


 嫌な臭いはするものの、動く影は他にはない。時折、扉の閉じた車両の中で、何かが反抗するように窓を殴る姿が見える程度だ。


 耐えがたい臭気に気勢を削がれながらも、青年は駐車場を観察した。朱に染まったアスファルトの地面には、動く物は何もない。ただ、無情に炙られた死体だけが転がっていた。


 静かだった。燃える炎が爆ぜる以外には、バンダナの内でくぐもった呼吸だけが聞こえる。かつて人だった物が燃え、生の象徴とも言われる陽が沈む朱の空間は酷い寂寥感を青年に与える。


 しかし、それでも青年は感傷すら抱かず、一番手近にある給油所へと足を向けた。運転手自身が操作し、給油し終わった後に料金を支払う、何処にでもあるセルフサービス型の給油所であった。


 車が走るのにはガソリンが必要だ。だから、頂戴しようとしているのである。見つけたら補給したり、ジェリ缶などに入れて持ち替える。消耗品なので、幾らあっても困りはしない。


 だが、青年は給油機を見て小さく舌打ちを零す。地下に埋設されたタンクからガソリンを引き上げるタイプの給油機は通電していないと使えないのだ。当然、インフラなど動いている訳も無く、ガソリンは出てこなかった。


 これが災害時対応用のガソリンスタンドであったならばなと、青年は舌打ちを我慢しながら、今度は土産屋や食堂が入った建物へと進路を変える。地下のタンクからガソリンを引き出す術を青年は持たないし、知らないので潔く諦めるしかないのだ。


 が、硝子張りの自動ドアも同じく電気が通っていないので開かない。指を差し込むほどの隙間もないので、何かを差し込みでも市内限り開きはしないだろう。


 他にある入り口も全て硝子の自動ドアであり、きっと裏口は鍵のかかった頑丈な鉄扉だ。開けるのには相応の苦労がかかるだろう。


 そうであるならば、物事はできるだけシンプルで楽な方が良い。そう思いながら、青年は入り口脇に置かれたある物に目を向けた。


 灰皿だ。格子の下にある受け皿に水を溜め、そこに吸い殻を捨てるスタンド型の灰皿であった。


 青年は灰皿の横に立つと、おもむろに灰皿を持ち上げる。薄いスチールで出来た灰皿は風で転ぶのを防ぐ為か思いの外重量感があった。軽く息を吐きながら灰皿の底面に掌を添え、肩に担ぐようにして掲げると、青年はひと思いに自動ドアへと放り投げる。


 灰皿が頭からドアへと突っ込み、ドアの硝子が大音響と共に弾けて割れた。衝撃の起点を中心に硝子が砕け、千々に散った部品が地面に一斉に落ちる音は万雷の喝采のようでもあった。


 これで新しい入り口ができた、とでも言うように両手を叩いて泥を落とす青年。その顔は無表情なれど、何処か満足気であった。


 山刀を抜いてサッシに残った硝子を払い、足先で散らばった硝子を蹴散らす。カノンへの配慮であったが、彼女は何て事無いと言わんばかりに砕けた硝子を踏み越えて青年に並ぶ。長い間外で暮らした彼女の肉球は、硝子すら通さぬほどに硬化していたのだ。


 さもあらん、犬は元々狼が家畜化された姿だ。彼等は本来、外の山や荒野で生きていた種族である。小さな鋭い石等を践む度に出血してはやっていられまい。


 青年がカノンを見下ろすと、勇猛な雌犬は、何かあったのかと問うような瞳で見上げてきた。


 彼は何も言わず、視線を前に戻して硝子を踏み散らしながら前に出る。気遣いが空回りするとどうにも微妙な気分にさせられた。


 入り込んだ建物の中は明かりが消えていて、日の光が斜めに差し込む以外の光源は存在せず、非常に薄暗い。侵入口の向かいに土産屋があり、その奥に食堂がある。


 漁るなら土産屋だろう。食道には碌な物が遺されていないはずだ。あっても精々、調理に使う添え物の缶詰程度であろう。ならば、態々労力を掛けて少ない実入りを求める必要は無い。


 しかし、青年はそれ以上進もうとしなかった。片手にぶら下げた山刀を軽く振り上げ、壁に峰を叩きつける。壁の化粧板と金属がぶつかって、乾いた音がサービスエリアに響き渡った。


 叩きつけるのを一度では止めない。何度も何度も繰り返し、音を反響させる。食物の腐った臭いと外の死体が焼ける臭いの混ざり合う場に、虚しく音が反響した。


 伽藍とした食道で音が産まれる。乾いたプラスチックが発する打音は、椅子が倒れる音だ。


 案の定か、と小さく呟きながら、椅子が倒れた辺りへと注意をやる。すると、ふらりと小さな影が立ち上がるのが見えた。


 青年が壁を殴っていたのには意味がある。死体には負の走光性、つまり光を避ける性質があるせいか、外が明るい時は獲物でも居ない限りは殆ど暗所に潜んでいるのだ。それを引き摺り出すために、態々音を立てて死体に自分の存在を報せたのである。


 外の死体もそうだった。エンジン音が響くまでは、扉の開いた車の中や下で隠れて居たのだ。不要に踏み込めば暗がりからアンブッシュを喰らう危険性がある。


 その危険性を知っていたからこそ、青年は入り口で死体を誘い出そうとしたのだ。入り口ならば退路があるし、死体があまりにも多いようであれば、また焼くためにおびき寄せた方が良い。敢えて危険な多対一の戦闘を挑むほど、彼は無謀ではない。


 死体の姿は一体だけだ。椅子や机にぶつかりながら、左右に大きく体を揺らしながら向かってくる小柄な影。逆光でモノトーンのシルエットだけが見える姿は矮躯の青年よりも尚小さい。


 子供だった。Tシャツと短パンを履いた小学生程度と思しき少年。表面の腐敗以外の損傷は比較的小さく、囓られた首の肉が削げている以外は全ての部品が揃っていた。


 距離がある内に周囲を見回す。他の死体の姿は無い。何故一体、それも子供の死体しか居ないのかを青年は訝しんだが、その理由は考えた所で分かる物ではない。どうでもよい思考を切り捨て、青年は自ら死体へと近づいていく。


 低い唸り、腹の底から捻り出される最奥の見えない飢えの声。あどけない笑顔を浮かべていたであろう顔を腐らせ、腐った皮膚が剥げて大きく垂れた腕を突き出して向かってくる。


 動作だけを見れば、年上の青年にじゃれつこうとする子供のようにしか見えない。しかし、その本性は癒えない飢えだけを抱えた醜悪な怪物だ。青年は、迷うことなく山刀を振り上げ、頭頂めがけて振り下ろした。


 垂直の残撃は頭蓋を割り、大脳をかき混ぜて切っ先を小脳にまで潜り込ませる。大きな衝撃は頭を撓ませ、腐って真っ黒になった血液と共に眼窩から白濁した目が飛び出した。


 彷徨っていた体から力が抜け、頽れる。頭蓋の合間に割り込んでいた刃が取り残され、粘性を帯びた血液が刃先から滴り落ちる。心臓の脈動が止まった死体から溢れる血は、意外なほどに少なかった。


 この少年にも未来があっただろう。何かになって、誰かと幸せになったのかも知れない。しかし、その可能性は永遠に潰えた。もう、誰にとっても未来や可能性という言葉など、ただ虚しい虚飾の言葉に過ぎないのだ。


 青年は無言のまま刃を振り払って血糊を適当に落とし、軽く死体を蹴って完全に動かなくなったことを確かめる。スモークで隠れた彼の目に感情の光は無く、換わらず淀んだ闇が横たわっていた。


 「適当に回収したら、夕飯にするか」


 そう言って、青年は山刀をぶらつかせながら土産屋に向かう。カノンも、何も言わずに後に続いた。


 珍妙な名前だったり、よく分からないセンスの菓子が殆どだが胃に入って消化できれば全て同じだ。少々不味かろうと、どの辺りが名産品なのかと首を傾げるラインナップでも栄養になればいいのである。


 青年は籠を手に取りながら、どうせならばもっとまともな食事がしたいものだと独りごちた…………。












 青年が土産屋の物色を終えた頃、日は完全に陰って山の稜線を淡くオレンジの光で染めるだけになり、ほの白く注ぐ月の光が駐車場をうっすらと照らしていた。


 それ以外に光源は無いので、かなり暗い。頼りになるのは青年の胸元にねじ込んであるL型の軍用ライトのみであった。


 遙か天上では、ほの白い貌を覗かせる夜の女王がビロウドの舞台に座し、周囲をちらちらと輝く従者達で囲っている。明かりがかなり減ったので星がよく見えるようになったなと思いつつ、四往復目になる略奪品で満載の籠を手に青年はキャンピングカーに戻った。


 賞味期限を過ぎた物ばかりだが、それでも大丈夫そうなものだけをチョイスしてきた。収穫としては悪くない方で、あまり栄養バランスは宜しくないだろうが、少なくとも暫く食糧に苦労することは無いだろう。


 とはいえ、元々苦労することが無い程度に備蓄はあったので、これ以上積み込むと生活スペースが圧迫されてしまうので、これが最後の往復であるが。


 「……さて、これはどんな味がするのかね」


 エビフライ煎餅なるパッケージを睨みつつ微妙そうな顔で呟く青年を嘲笑うかの如く、空に座する女王は静かに輝き続けていた…………。

 と、言う訳で間が空きましたが三話です。遅筆な上に忙しいので、ちまちまとしか投稿出来なくて申し訳ありません。


 それと、感想ありがとうございます。色々と直さないと行けないところがあることが分かりますし、役に立ちます。近い内に返信もしたいので、暫しお待ち下さい。

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