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青年と女と落日

グロなんて無かった。そして戦闘もありません。

 広い部屋があった。高校の教室程度の広さのリノリウムが敷かれた部屋は、壁際に立ち並ぶロッカーと大きな円卓、そして積み上げられたパイプ椅子で埋められている。


 ロッカーで覆われていない西側の壁に窓があり、東側に廊下へと通じる鉄扉がある。露出した壁の化粧板は経年劣化で白をくすませ、殺風景な部屋にせめてもの賑やかさを演出しようとしたのかポスターやカレンダーが無秩序に貼り付けられていた。その合間には、思い出を刻みつけるような落書きがぽつぽつと残されている。


 ここは大阪の私立大学、そのサークル棟に存在する公認エアライフルサークルの部室であった。ロッカーの内部で鎖に嵌められて陳列されるのは無数のエアライフル。壁際のポスターには、誰かが己の技量を誇るかのように貼り付けた日付と署名付きのターゲットが紛れている。


 日本ではまだまだマイナーな競技ながらも、それに残り僅かな青春を燃やす者達は居る。ここは、そんな趣味人達の牙城であった。


 が、現在は青春を感じさせる青く熱い会話や空気は完全に、全く以て不在であり散逸している。その理由は卓に付き、それぞれの愛銃を弄る二人の人間の性質に依る物だ。


 一人は矮躯の成年。黒いシャツ、黒いスラックスに黒いベストを纏い、髪を小綺麗に短く整えている。黒の彩りが多い物は俗にオタクファッションとも揶揄される事もあるが、この成年が纏う雰囲気は喪服のそれである。


 これと言った特徴の無い顔に鉄面皮を貼り付け、黙々と眼前のエアライフルを整備している。ストックを自らの体躯に合わせて微妙に切り詰め、軽量化の為にウエイトを極限まで削ったフレームが特徴のエアライフル。ワルサーの刻印が施され、マットブラックに塗装された成年と同じく何処までも地味で、システマチックな印象を受けるライフルであった。


 もう一人は、火の付いていない煙草をくわえながら滑らかな光沢を放つウッドストックが特徴のエアライフルを整備する女だった。


 服装は青年と酷似している。ただ、シャツの色を白に変え、洒落っ気の表れなのかベストの右ポケットからベルトに向かって金色のチェーンが伸びている。そのチェーンの先に繋がるのは真鍮色に輝く懐中時計だ。


 細長の切れ目は難しそうに歪められ、普段は人好きのする快活な笑みを浮かべる怜悧な美貌は苦悩を宿していた。


 む、と呻きが形の良い厚みのある唇から溢れた。この女は近頃の女に珍しく完全なノーメイクで通している。だのに、その唇は皮を剥いたばかりの桃の如く瑞々しい。女性からすれば最早理不尽だと憤慨したくなる程の質を有しながら、女はそれを煩悶に曲げていた。


 「どうかしましたか」


 レコーダーから漏れる音の方が幾分か人間味がありそうな声が発せられる。ストックと本体のかみ合わせ、そしてチークピースの位置を調整していた青年の声であった。


 「いや、何、そろそろパッキン周りのオーバーホールの時期かと思ってな。また矢鱈と金が飛んでいく」


 呻きに次いで溜息が深々と吐き出された。まるで肺腑に澱の如く蟠った苦悩そのものが呼気の形を以て散布されたかのような錯覚を受ける。


 大学生というのは人生で一番おちゃらけた時間を送れるが、真面目であろうがおちゃらけていようが共通して非常に金を食う。特に四月、新入生がやってくる時期となると一入だ。


 まず、教科書を新調しなければならない。そんな物が不要な学部や、板書やレジュメだけで講義を進める講師も居るには居るが、それでも大なり小なり必要な物は出てくる。


 特に、女は法学部生であった。法を学ぶには基本書や解説書の類い、そして法の規範や基準ともなる判例書までもが必要になる。全てを図書館の本からコピーして賄うのは殆ど不可能な量だ。むしろ、素直に買った方が下手をすると安く付く。


 そして、そんな阿呆のように高価な教科書を買わせはするが、講義で碌すっぽ使わない教授もいる。その辺りの判断が難しいのだが、先輩の言に従って買わなかったら今年度から教科書から試験を作り始めたりするから急に必要になる事もある。


 そんな訳で、教科書購入の時期は学生にとって異様に出費を強いられる時期なのだ。古本や先輩からのお下がりで済ませるという手もあるが、大学近くの古本屋は競争率が高い上に数があるわけでは無いし、法学の教科書は割と頻繁に版上げが来る。その為に安定して安価に手に入れる方法は少ないのであった。


 それのみならず、四月には新入生歓迎会というものもある。


 文字通り、新たに部員として加わった者を歓迎する飲み会だ。本来、新入生は一八歳か早生まれでも一九歳が殆どだ。なので、飲み会というのは酒も出るのでよろしくないのだろうが、そこは察しろという物である。飲み屋の店員は大学生らしき集まりの年齢など一々気にしないし、部員も全員が成人しているという体で考える。得てして、世の中とは都合の良いように回ることもあるのだ。


 そんな宴のホストは既存生であり、新入生はゲスト。よって、持て成す側である既存生達は大抵の場合奢りとなり新入生の分も支出を強いられるのだ。勿論、ある程度は分割されるのだが、少なくとも五割分はカンパを求められる事となる。飲み会の支出は安くとも四〇〇〇円を少し超える程度となろう。


 それに、サークルの飲み会があればゼミの歓迎会や懇親会も重なれば月に三度や四度は呑みに行くこととなる。体力的な面でも辛いが、学生の財布には大きなダメージとなる。


 そこに、エアライフルのオーバーホール費用が嵩めば、財布の中は凄まじい事になるであろう。それこそ、暫くパスタに塩のみを振って食べるような生活を強いられる程に。


 プリチャージ式のエアライフルは精密性に優れリコイルも弱く、装填の手間が省かれている利点があるが、エアタンクを接続するパッキン部は繊細で傷が入ろうものなら一発で駄目になる。その為、何年かに一度はオーバーホールに出す必要があった。


 その費用は五桁で済めば良い方だろう。エアライフルという競技には手間と金が掛かるので人口が増えづらいのも頷けた。誰だって自宅に大型鍵付きロッカーを置いて、年に何度か警察のお世話になると考えれば面倒臭がるだろう。その上、初期投資に四〇万ほどは必要な上に後々からも何くれと金が入り用となるのだから。


 「はぁ、これは暫く節約せねばな」


 二度目となる深い溜息に、後輩は首を傾げた。この女がここまで金に困窮している所を見た事が無かったからだ。良い所の令嬢という訳ではないのだが、一人暮らしをして尚、割と羽振りが良い方の人間だったのだ。だのに、今は金に困ってひぃひぃ喘いでいる。何か合ったのであろうかと純粋な疑問に首の角度が鋭化した。


 「何でそんなに金が無いんですか?」


 ああ? と何処か不機嫌そうな声を零しながら女は顔を上げた。普段は笑顔が多い女だが、今は苦悩がありありと表れている。今、脳内では財布や預金の中身が素早く巡っている事であろう。


 「……こないだ、ツーリングの間に釘を踏んでタイヤが逝ってな。転んでフレームが歪んでカウルが曲がった」


 何処までも不愉快そうな言葉に、青年は頷きを以て理解を示した。要するに、修理代が掛かったという事だ。只でさえ金を使った後の追い打ちだ、さぞ財布に痛い事であろう。


 「もう私の財政は火の車だ。かといって、この年になって親から金をせびるわけにもいくまい」


 少し、実家にパラサイトしている自分に痛い言葉だと青年は思った。家賃はかからないし、光熱費も不要。月に生活費として二万も入れれば文句を言われないという実に過ごしやすい環境に、完全に溺れているからだ。


 「とりあえず、仕事量でも増やすか。さしあたって金が必要だからな、とりあえず、この土日に日払いのバイトでも探そう」


 新歓の参加費程度は日銭を除いて確保しておきたいからな、と呟く女を見て、青年は彼女がポケットティッシュを愛想笑い浮かべながら配る姿を想像し噴き出しそうになる。これほど日雇いバイトと言う言葉と行為が似合わぬ女も珍しかろう。


 「んむ、しかし、ああ言ったのは何だ、フェミニンな格好をしてやっている女が多いよな。となると、この服は流石によくないか……困った、働く服が無いをネタ抜きで言う事になろうとは」


 女はこのような服しか持ち合わせが無いらしい。その為に、まるでインターネットの掲示板で書き殴られるような事を口にしている。そして、それに続く言葉は服を買いに行く金が無い、であった。


 「これは困った。とはいえ、消費者金融の厄介になるのもな……カードを切るのも最終手段としておきたいし……ぐぬ……」


 苦悩し、頭を抱えて体を奇妙にうねらせる女から精神衛生上の問題と鉄面皮を維持する為に顔を逸らし、腕時計を見やって時間を確認するふりをした。電池が切れるまで永遠に踊り続ける時計の針は、互いに劔を打ち合わさんとするが如く文字盤のⅤの表記上にて間合いを詰めている。


 そろそろ五時も半ばか、と思いながら窓を見やると、冬が明けて随分と日が落ちるのが遅くなったとはいえ、それでも外は赤く灼けている。自分達が部室でぐだぐだと整備や点検を始めて二時間ほども経過している事を漸く理解し、時間の流れが速くなったと青年は軽く溜息を付いた。


 自分には無邪気に遊び回った思い出は無いが、それでも時間が過ぎるのがもっと遅かったと感じている。一日はどうしようも無い程に長く、何冊も本を読みあされる時間があった。しかし、今では時間の経過はあっという間で、本を半分も読めば明日に響く時間になる。この体感時間の差は、どうして生ずるのであろうか。


 吐息して、工具を置いて僅かに整備オイルや潤滑剤が付着した手を拭った。火薬滓や金属滓がボロボロと出てくる実銃よりは幾分かマシなのだろうが、それでも整備は汚れ仕事だ。後で手入れをしっかりしないと肌荒れで泣かされる事になるだろう。


 「先輩、時間が時間ですがどうしますか」


 ボロ切れで手を拭うも、乾いた布ではぬぐい去ると言うよりも殆ど伸ばしているのに近い。無意味と分かっても拭いてしまうのは人間としての性質だろう。


 「ん、ああ……もうこんな時間か」


 奇っ怪な踊りを止めた女は、自分のベストから懐中時計を取り出して時間を確認し、呻く。背後を透かせた時計の内部で、持ち主の苦悩など意に介さず歯車は静かに回転を続けていた。


 ここで二人が二人きりで銃の整備を行っていたのは、今日が土曜日だからだ。大学生において土曜日とはイコール休日であり、基本的に土曜日に登校する者は少ない。


 大学生は自らが望むように必要な講義を選択して受講する事が可能で、故に一日に集めすぎたり散らしすぎたりしないで適度に楽に作ろうとする。講義の都合によっては、三連休や週の半ばが休みになるようにすることも可能なのだ。


 そして、教授だって態々普通ならば休める土曜日に出たくはない。故に、土曜日の授業は必然的に少なくなり、そして学生も考える事は同じなので土曜日の授業は選ばない。なので基本的に土曜日の大学は閑散としているのだ。


 無論、真面目にサークル活動を目的として通学する者も多いが、土曜は朝からやって夕方には解散という所が多い。この時間帯なら三々五々に解散している頃だろう。


 だのに、この二人が大学に来ているのは、奇特にも講義を取っているからだ。青年は興味があった選択講義、女は追加料金を払って受けられる資格試験講義の為に大学へ訪れていた。補講講義があるわけでもないのに、好んで土曜日に来るのは奇特な人物だけなのだが、この二人は実際に奇特な人物であるので誰も気にはしなかった。


 そして、どちらもたった一限のために大学に来て帰るのは色々勿体ないと思っているのか、土曜日の誰も来ないであろう部室で暇を潰している。日曜日であれば、個人でレーンを使おうとする練習熱心な者もいるのだろうが、極めて希であり、この時間の部室は二人の城であった。


 駄弁ったり講義の文句を言ったり、試験対策に昨年度のレジュメを貰ったりと土曜日の午後に部室で交わされるのは、そんな有り触れた大学生としての業だ。特別な事など何も無い。青年は甘ったるいカフェオレを啜り、女は禁煙の慰めに火を付けぬ煙草をくわえている。ただ、それだけの時間だ。


 人が少なく寂しい校舎で、特に目的を持って行われる訳では無い会話は、文字通りとりとめの無い物で、意味など何処にも無い。それでも、二人は何とも無しに続けていた。


 だが、それもそろそろお開きだろう。時間を知ると、どちらとも無しに整備具とライフルを片付け始める。ガンロッカーに仕舞うか、自宅に持って帰るか。ともかく金と手間の掛かる趣味だ。


 「オーバーホールは先送りにするかな。そうすると金に余裕ができる……が、それをやると春の学内大会や新入生教練がな」


 学内大会というのは部長が企画する部員同士の腕を競わせると同時に新入生に本物の競技ルールでの実演を見せるためのイベントだ。僅かながらだが賞品も出るし、新入生に空気を掴んで貰うための大切なイベントでもある。


 そして、新入生教練は文字通り新入生を手ずから教えてやる期間の事だ。保持の方法、スタンスの取り方、狙いの付け方から銃の整備まで、大学から始めた人間は0から始めなければならないので経験者がついて教える必要がある。教本一冊押しつけて、これでやれと言っても誰もやる気を出さないし上達も遅くなる。最悪、興味を無くして止められかねない。故に、お客様期間を設ける事になっても部員は甲斐甲斐しく下級生に尽くすのだ。


 このイベントをこなすのにライフルは言うまでも無く必須である。どうやって持っていないのに大会に参加して、教えてみせるというのか。


 銃刀法の問題もあるので、他人から大っぴらに借りる訳にもいかず、仮に借り受けたとしても癖が分からないライフルでは扱いに苦労する。どのみち、自分の物を使うしか無いのだ。


 結局、どうするべきなのかは考えるまでも無い事であった。


 「……夕飯、奢りますが」


 と、青年が言うと、軽く頭を叩かれる。


 「馬鹿が、先輩として個人個人で払うならまだしも後輩から飯なんぞ奢られてたまるか」


 古風な考え方かもしれないが、この女は何処までも先輩であろうという立場を崩さない。自分が、そうあることによって生かされているとでもいうように堅持し続ける。その理由は分からない。


 しかし、青年はふと考えた。もしかしたら、自分が普通を装って無害で目立たぬ人間をやっているように、彼女にも何かしら偽る物があるのではないかと。


 彼女と共にあると感じる妙な安堵感と、空気の相似性。そして、時折感じさせられる気味の悪さと、それに伴う僅かな嫌悪感。最後に、夕焼けの屋上で投げかけられた同類か? との問いかけ。その理由を薄々感じながらも、青年は敢えて何も言わず、そして気付かなかったとしてきた。


 触れて良い物と悪い物、良いとしても益となるか害となる物の区別くらいは付いているからだ。故に、青年は黙し、忘れ、そして無かった事としてきた。


 だから、今もそう振る舞う。触らぬ神に何とやら、青年は実に上手く言った物だと感じていた。


 「夕飯は家で食う……パスタの買い置きだけはあるからな」


 塩パスタ生活……! と青年は内心にて震撼した。趣味や遊行に金を使いすぎたツケとして、業務スーパーで買える安いパスタに塩を振っただけの生活を送るというネタは、少なからずサブカルチャー文化に接している現代日本人である青年の知る所ではあったが、身近でやっている人間が居るという事に驚愕を隠し得なかった。


 そんな侘びしい生活、やらざるを得ない状況に追い込まれれば堪え忍ぶが、進んでは絶対にお断りしたい物だった。自分が狂っているという自覚はあれども、まともな感性を持ち合わせてもいる青年にとって味気の無い食事など考えたくも無い事態である。


 「とりあえず、醤油バターとペペロンチーノ、和風下ろしポン酢とゆず胡椒、それにカルボナーラもどきでローテーションするか」


 響きだけを聞けばお洒落だが、実情はあり合わせの調味料で苦心しているだけに過ぎない。野菜の彩りも足りないので、色々と栄養分が不足しそうだと青年は思った。これが、性別が逆であれば弁当でもこさえたのかもしれないが。


 「野菜が足りませんね、絶望的なまでに」


 会話の合間に撤収の準備は終わり、それぞれ荷物を担ぎ上げてポケットなどを漁り、忘れ物がないかを確認して部室を出ていた。後は施錠に使った鍵を守衛室に返却するだけだ。


 「最悪、自家製もやし栽培だな。あ、いや、確か何処かにプランターが……」


 小松菜か二十日大根、プチトマトでも栽培する心づもりなのだろうかと思いながら明かりの落ちた廊下を歩く。普段通り、青年は数歩下がった立ち位置で。


 簡素な床材に足音が反響し、コンクリートがむき出しの壁面に反響して遠く響き渡る。何処かの部室には、この時間になっても何やら活動している者達が居るのだろう、遠くの方で動いているコピー機の駆動音も聞こえていた。


 節電のために日頃廊下の明かりは落ちている。日が沈み、暗くなりかけた廊下は薄暗闇に覆われ、曖昧にしか物の輪郭を途絶える事はできない。それでも、通い慣れた二人は問題なさそうに歩いて階段へと向かう。階段だけは、安全上の問題で小さな明かりが灯されていた。


 「大きな会員制業務スーパーがあれば、もう少しマシになりそうなのだがな……」


 会員制の業務スーパーには一般人では立ち入れない。企業として手続きするか、紹介してもらうか、知人にくっついて行くしか無いのだ。青年は、母親が知人に連れられて、山ほど買い物をして帰ってきたのを思い出した。あれは安さで購買意欲と物欲が刺激されるので、下手をすると余計な打撃を財布に受けそうだ。


 「後輩、何か良いバイトのアテなんぞはないか?」


 角を防護するゴムカバーが剥がれて、コンクリートがむき出しになった階段を下りる。階段の構造上、音の反響は更に大きくなり嫌に耳へと染みいった。何処か不気味で、由来の知れぬ恐怖を掻き立てる音に二人は何の物怖じもしないで会話を続ける。青年が、生憎治験くらいしか、と零した辺りで二人はサークル棟より脱した。


 「あのな、私は危ない橋を渡りたくはないんだよ。第一、二泊も三泊もしている余裕があるか」


 地方の俗に言うFラン、ボーダーフリーと呼ばれる大学ならば数日留守にしたところで代返などでどうにかなるだろうが、流石に授業を真面目に行っている大学で連続して欠席するのは厳しい。とみに、彼等の学部においては殆どの講義の評価が完全に試験による物なので、ダメージは大きいだろう。


 それに、ああいった物の被害は数年、或いは十数年経ってから現れる物が多いとも聞く。そんな博打、余程切羽詰まった状況で無い限りは避けて通った方が無難である。


 スキンケア用品や健康食品のモニターも一応は治験なのだが、それでも数ヶ月やって数万円程度だ。割は良いかもしれないが、金にはなるまい。それに、取り急いで必要なので時間が掛かる内容など問題外だった。


 やはりポケットティッシュを配るしか無いのか、と口に手を添えて真面目くさって呟きながら歩いて居ると大きなアーチを描く門の所にまで到着した。


 しかし、不思議な事に、その門は閉ざされていた。レールに従い、壁の中に格納できる門は普段開け放され、車が三台ほどは悠々と通れるスペースを生徒が行き交っているのだが、どういう訳か格子状の門が行く手を阻んでいる。十時を過ぎて生徒の出入りが制限されるようになると閉じるのは普段通りなのだが、日は沈みつつあっても十時などまだまだ先、門が閉まる時間にはほど遠い。


 「む、妙だな。何かあったのか?」


 女が呟き、青年は守衛室の方へと目をやった。そこに、数人の生徒に囲まれて説明をしている警備員が居た。大学が雇っている警備員で、青い征服を着込んだ老境に達しつつある男性だ。彼は、困った様な顔で生徒達に何かを説明している。


 近寄って話しを聞いてみるに、警察から連絡があって警戒のために門を閉めているそうだ。何でも、最寄り駅の辺りで暴動が起こったそうな。


 暴動という言葉は極めて日本人には馴染みの薄い言葉だ。デモ行進であっても平穏に実行し、数人程度の殴り合いしか起こらない。そして、震災が起こっても略奪に走らないでコンビニに並ぶ民族だ。大凡暴動と呼べるだけの動乱は日本人が日本国内において十数年間は体験していない物である。


 それが直ぐ近くの普段利用している駅で起こっていると言われても誰が納得できようか。


 とはいえ、出られない訳ではないと警備員は言っていた。警察の要請で大門は閉めているが、通用門は施錠していても開けられるので家が近い人間には帰宅の為に開けているらしく、下宿生はそこから帰宅していた。


 ただ、暴動が起こっている駅の生徒は危険なので申し訳ないが大学に留まって欲しいとも言っていた。確かに、学校としては悪戯に生徒を帰して被害を出したくないのだろう。


 普段生徒は下校時刻を過ぎれば学校に留まる事は赦されない。特別の理由がある際に発行される宿泊許可証を以て始めて滞在を許可される。だが、今回は急のことなので手続無しに滞在を許可してくれるそうだ。


 警察が言うには、暴動が終わったとしても直ぐに電車の運行が再開する訳でもないとのこと。なので、学校はやむなしと判断したのであろう。


 「これは中々におかしな事になったな。春には変人が増えると聞くが」


 女が何処かおかしそうに嗤っているのを聞いて、青年は眉を僅かに顰める。別に不謹慎だと機嫌を悪くしたわけでは無い。ただ、少し遠いが歩いて帰れなくも無い距離だというのに滞在するつもりなのか、と訝ったのだ。


 「さて、後輩。学校のコンビニが閉まる前に色々買い込もうではないか」


 そういって学内に設置されたコンビニへと向かおうとする女の背に追従しながらも、青年は疑問を投げかけた。


 「泊まるんですか? 私は歩いて帰ると何時間かかるか分からないんで泊まりますけど」


 普段よりも笑みを強くしながら、女は歩速を早める。そういえば、非日常的なイベントや祭りも女の良しとする所であったな、と青年は思い出した。


 「楽しそうじゃないか、学校に泊まるというのも。何かあったのかもしれないからな、色々買い込んでみないか?」


 明らかに楽しんでいる。青年が停電の時の蝋燭とかランタンに興奮する性質でしたか? と問うと、無論だという答えたが返ってきた。


 軽く嘆息しつつもコンビニで買い物をする。金欠だという事を忘れたように、女は色々と買い込み始める。どうやら、イベントを楽しむだけ楽しんだ後でバイトに勤しむ覚悟を決めたらしい。


 青年も万一の事を考えて2Lの水ボトルを三本とカップ麺や、黄色いパッケージの固形栄養食を買い込んでみる。合わせないと、テンション低いぞ、と背中を強打されるだろうから。


 女も似たような物を買い込んでいる。飲料を多めに、カップ麺などの直ぐに作れて保存の利く食糧を色々と。大体、二人とも二〇〇〇円から三〇〇〇円程度は使ったであろうか。明らかな浪費に、青年は軽くだが憂鬱になった。金が飛ぶ時期だから、できるだけ出費を控えるようにしていたのが一瞬で無駄になったからである。


 とはいえ、今まで節制していた分総合的なダメージは少なく済むと思おう。そう考えつつ二人は部室へと戻った。


 「確か、シュラフがあった筈だが……」


 荷物を置き、青年が電気ケトルで湯を用意している間に女は雑多な品をねじ込んだ備品ロッカーを探っていた。目当ての品は、夏の定例行事であるキャンプに使われるシュラフだ。ここで夜を明かす事になるのならば寝具は欠かせなかった。床はトップコートが施された白いリノリウムなので土足で歩く上に汚れていて寝心地も悪い。何も敷かずに寝た場合、間違い無く体を痛めるであろう。


 ケトルに注がれた水がゴボゴボと音を立てて湯立ち始めた頃、ロッカーに上半身を突っ込んで適当に押し込まれた品を探っていた女が身を引っ張り出して歓声を上げた。その手には丸め込まれたシュラフが収まっている。


 科学繊維性の袋は折りたたみ傘より二回りほど大きい程度で、言われなければシュラフが入っているとは思わないだろう。ただ、最近のシュラフは工夫されていて、丁寧に折り畳めば実に小さいサイズになる物が多くある。


 これで、今宵は幾分かまともに眠れる事になるだろう。


 「ノリノリですね」


 「まぁな。楽しいだろう、何となく」


 楽しげに、同じくキャンプの為に置いてあるランタンなんぞを取り出しつつ女は笑う。あ、電池切れてる、という一言まで余さず楽しそうであった。


 「そういえば、夜でも普通に電気は使えるんでしたっけ」


 高校の頃に聞いた、必要な場所以外は完全に送電をカットしているという教師の言葉を思い出して青年は呟く。電気があればどうとでもなるのだが、流石に繋がらないのなら色々と厳しい。講義の為に持ち込んでいるノートパソコンの充電や携帯電話の充電など、電気を使う機会は少なくないのだから。


 「多分つくだろ、去年学祭の準備で泊まった時にはついたからな」


 適当に答えながら女はコンビニの袋に手を突っ込み、暫く物色した後にカップ麺を一つ取り出した。


 カップ麺の蓋が破られる。湯が注がれ、異なる二種類の香りが漂った。青年はカレー風味の通常サイズラーメンを選び、女はキングサイズと銘打たれたシーフードのラーメンを買っていた。青年自身は決して食が太い方ではないので十分だが、女はよくぞその細い胴体にその量を押し込めるものだ。確か、売りは通常サイズ三つ分の麺だというのに。


 女は湯を雪いでから二分で蓋を開いて麺を啜りはじめ、青年は三分しっかり待ってから蓋を開けた。女は麺が硬い方が好みで、ラーメンの堅さを選べる時は何時もハリガネやらコナオトシなどを頼んでいるから早めに開けたのだろう。

 互いに無言で麺を啜る。食べながら喋るのは下品であると互いに辨えているからだ。ただ、女は片手で手帳のような革のケースに包まれたスマートフォンを操作していたが。


 何やら真面目に読み込んでいるが、片手で器用にやるものだと感心した。それでいて箸を運ぶ右手は止まっていないのだから。


 分量の問題もあって先に青年が食べ終わった。ラーメンのスープは啜らず、麺と具だけを食べきったのは塩分が多すぎるからだ。流石に全部飲み干すと体に悪い。


 数分送れて女も妙に巨大なカップの中身を干して食事を終えた。明らかにオーバーカロリーなのだが大丈夫なのだろうか、と考えつつも青年は自らが講義の際に使用するノートパソコンの充電器をコンセントへとねじ込む。数時間もすれば充電は完了するだろう。


 買ってきた黒い炭酸飲料で水分を補給した女は、青年の背後から覆い被さるようにして目の前にスマートフォンを見せつけてくる。ともすれば、コンセントに充電器を差し込もうとしゃがんでいた青年を女があすなろ抱きしているようにも見える物だった。


 何を、とは問わない。女が突拍子も無い行動を取るのはいつものことだ。それに、青年には首筋から肩口に押し当てられた豊かな双丘よりも、目の前に突きつけられたスマートフォンに映る内容が気になった。


 ディスプレイに映し出されている画像を青年は映画のワンシーンかと考えた。最大の望遠を以てして撮影されたであろう写真は像の輪郭をぼやかせ、滲んだような色合いで風景を切り取っている。それは、どこかの民家のベランダから撮られたであろう路上の写真だった。


 大勢の人間がしゃがみ込み、何かに群がっている。空から豆やら餅を撒いて人々に饗するイベントを想起させる光景だが、実際には趣が違った。人々の合間より赤い何かがにじみ出して広がっていき、棒のような何かがはみ出している。望遠拡大のせいで精度が落ちている故に画質が荒いが、よくよく観察すれば手のようであった。


 そう、人々が人間を喰らっている、そう捉えることができる情景であった。


 青年はホラー映画を愛好しており、その中でも特にゾンビ物は得手とする物であった。ジョージ・A・ロメロを敬愛していると言ってもいい部類であり、人間の命が何処までも無価値に貶められた世界に愛着を感じていたのだ。人間に価値は見いだせなくとも、個人の趣向はあるのだから可笑しな物だと常日頃から感じつつも、この系列の映画が発表される度に青年はマメにチェックして視聴していた。


 そして、見せられた情景は正しくその手の映画で繰り広げられるそれだ。正気を失った死体、または理性を無くした人間が生きた人間を喰らう世界。そんな風景が切り取られている。


 だが、青年にはそれを食後に見せつけてくる意味が理解できなかった。青年はもつ鍋やホルモン焼き肉を突きながらスプラッター映画を眉一つ歪めず視聴できる人間ではあるのだが、かといって食後に唐突に凄惨な画像を見せつける理由にはならない。


 故に、その真意を問いただすと、女は青年の頭頂部に頭を乗せたまま話し始めた。顎が頭頂部にぶつかり嫌な衝撃と痛みを伝えてきた。


 「さっき暇だから某便所の落書きを見ていたのだがな?」


 ここで言う便所の落書きとは、とある大型インターネット掲示板のことであろう。別称と言うよりも、半ば利用者の自称とかしている名前だ。


 「面白いスレが立っててな、何か家の外が騒がしいんだが……という、普段通りのゾンビネタスレだと思って開いてみれば、1でこの画像が張られていた」


 だから何だ、と思わないでも無いのだが、ふと数年前に公開された映画を思い出す。主人公がゾンビに沈みゆく世界の情景をカメラに撮ってインターネットに流しつつ生き残りを図るというストーリーだ。興業はそこまで振るわなかったそうだが、青年としては割と気に入りの部類にある映画だった。


 「で、そのネタスレが何なんですか。画像なら何かの映画のキャプチャーかコラージュでしょう」


 画像なんて幾らでも用意出来ると指摘すると、女が頭の上で笑っているのが分かった。普段通りの小気味の良い笑声が溢れている。


 「日本の路地でここまでやる映画はあんまり見たことがないな。それに、何か引っかからないな? 駅の辺りの暴動と言い色々な。その暴動だが、他の所でも起きててんてこ舞いだぞ? ネットニュースでも大阪駅の方がえらい騒ぎだと報じている」


 確かに日本作成のゾンビ映画というのは然程多くないし、その殆どがB級と呼ぶも烏滸がましい質である事の方が多い。だが、全く無い訳ではないし、洋画から切り取ってきた画像をコラージュしても用意出来る。この画像だけでアポカリプスが始まった、と判断するのはよっぽどのゾンビオタか破滅主義者だけだろう。


 ただ、大阪駅の辺りでも暴動が起こった、というのは少し引っかかった。大阪駅は大阪北部で最大のハブ駅で大勢の人間が集まる場所だ。ここ数年で大きな商業施設ができたり、未だ建造中であったりと利用率が非常に高い。そんな所で暴動、と聞かされれば府民であれば危機感の一つも覚えよう。


 春闘も昔ほど激しくはなく、大阪でデモ行進をやらかす予定などニュースでは言っていなかった。では、どこぞかの国が悪戯を始めたのかと言うと、そういう訳でも無かろう。そうであったならば、もっと騒がしいし情報規制の一つも敷かれるはずだ。


 色々と気にはなる。おかしいなと感じる部分もあれば、気味が悪いと根源的な何かを擽る感覚もあった。そして、微かにだが危機感も。


 しかし、現代社会に暮らす一般人は変革を夢想こそすれ、それが現実に起こりうるなど考えもしない。どれだけ希っても空から女の子は落ちてこないし、隕石も接近しなければ教室にテロリストが雪崩れ込むこともない。何があっても変わりないと思うからこそ、事故が絶えないのである。


 よって、青年もこれを漠然とした不安としか感じず、女が好む普段通りの与太話だと切って捨てた。話題のネタとしては面白い方だが、実際に起こっているかと考察する必要性を感じられない物だった。


 「で、もしもそうだったらどうするんですか?」


 問うと、女は愉快そうに部室据え付けのガンロッカーを指さした。


 「楽しそうじゃないか、ゾンビが来たらどうするかを考えるなんて。折角だ、備えてライフル抱えながら寝てみたりしないか?」


 何と頭の悪い事を……と思ったが、青年としても一端のゾンビ映画愛好家だ。一度くらいは世界にゾンビが溢れたらどうするか、という妄想を巡らせた事はある。ならば、女の茶番に付き合ってやっても良いかと考えた。


 「……エアライフルで何処までやれるもんですかね」


 「なに、いざとなれば下のアーチェリーサークルの所からリカーブボウかコンパウンドボウを失敬すればいいだろう。あれなら余裕で頭をぶち抜けるぞ」


 弓なんぞ行楽地の遊戯施設でしか撃ったこと無いですよ、などとぼやきつつ、青年は女の腕から抜け出してケースから自らのライフルを取り出した。整備したばかりで僅かな整備用オイルの匂いを漂わせる、機能的な構造美を誇る愛銃を軽く構える。調節したチークピースの位置は丁度良く、しっかりとしたスタンスを維持出来る。


 「これで斃せますかね?」


 「何、100m先の板には余裕で穴が開く、至近距離ならやれるだろうさ」

 エアライフルは銃刀法で規制されるだけあって、競技用でも中々に高為力だ。流石に鹿などを狩ることは難しいが、至近距離でなら痛いでは済まされない。とはいえ、口径が小さいので即座に人間を殺傷し得るかと問われれば首を横に振るしかないのだが。


 「最悪、家までくれば狩猟用のエアライフルがあるぞ。これなら人間の頭でも何とかなりそうだが」


 女も自分のエアライフルを取り出して楽しそうに弄っている。無論、単なる享楽の一環であるが故にエアの装填も弾丸の装填もしない。4.5mmの鉛弾が一〇m以内の至近距離で当たれば流石に死にかねないからだ。暴発の危険性は可能な限り避けた方が良い。


 「さぁ、実際にゾンビが沸いて出たらどうするね?」


 女はエアライフルをかき抱きながら、心の底から愉快そうに笑った…………。











 異音に神経を逆撫でされ、夢の中、自意識の奥深くへと埋没していた思考が休息に浮上する。


 そっと目を開くと、既にキャビンの内部は暗く、日が落ちているか陰っている事が分かった。夢と時刻が同期しているとはな、と目を擦る。ぼろぼろと目脂が溢れるのが分かった。目脂は血中の不純物が滲み出た物だ、どうやら色々と薬などの不純物を頑張って排出しているらしい。


 軽く扉の方に目をやる。断続的な打音は、その数を増やしていた。テンポや回数から考えるにキャンピングカーは二から三体の死体に囲まれているとみても良いだろう。早かれ遅かれ何とかせねばなるまい。


 軽く息を吐く。未だに焼け付くような感覚が折れた人差し指と二の腕に蟠っているが、体の重さは随分とマシになった。熱も幾分か下がり、頭の靄も薄れてきている。どうやら、自分の体は感染症に打ち勝ったようだ。


 だが、まだまだ体力は戻っておらず動きが硬い。上体を持ち上げようとすると妙にふらついた。活動を開始するには、今暫しの休養が必要であるようだ。


 ふとベッドの下を見やると、金と青の瞳が僅かな明かりを反射して輝いていた。青年は、その目の上にある頭へ手を伸ばし撫でてやる。右手の掌を指に気を遣いながら添え、毛並みに沿って降ろしていくと、艶やかで心地の良い感覚が返ってきた。もっとしてくれ、というように足下の忠犬、カノンは頭を掌に擦り付ける。


 頭を撫でてやりながら部屋を探ると、微かに糞尿の匂いがした。カノンがペットシーツの上に済ませたのだろう。匂いを吸収するとは書いてあるが、密閉空間で完全には消せないようだ。


 そして、自分もそろそろ限界だという事を悟る。水分の殆どは汗として流れ出て、殆ど何も食べていないが腹はしっかりと張っている。膀胱に溜まった老廃物が腹腔を押し上げてもどかしさが強い不快感を伝えていた。


 体も動くには万全ではないが、立って歩く程度はできるだろう。ベッドマットを放棄するよりは、少し我慢して体に鞭を打った方が損失は少なかろう。


 それに、この年になってから粗相などやらかしたら、精神的に割とフェイタルなダメージを負いそうであった。


 用を足すために青年は寝床から足を引き抜いた。温度差に体が震え、汗で湿りきった寝間着のスウェットが冷え始める。体力に余裕がある内に一度着替えた方がいいやもしれない。


 覚束無い足取りでトイレに向かい、ズボンを下ろして用を足す。電源が供給されていないが故に冷えた便座がカバーを通り越して冷たさを臀部に突き刺してきた。


 開放感に浸る間に、ふと思い返す。最近は夢なんて滅多に見なかったのだが、寝込んでからはずっと夢を見ている。懐かしく、そして無意味で今となってはどうしようもなくなってしまった記憶を。


 あれを思い起こしてどうなるというのだろうか。それに、夢の内容なので掠れつつあるが、改めて記憶として引っ張り出せば内容はしっかりとした物になってくる。


 あの後、何が起こり今に至るのかを。


 ……自分は排泄しながら何をくだらない事を考えているのだろうか、と青年は肺腑の底から重々しい溜息を吐き出した。そして、さっさと拭いて水を流し、汚水槽の掃除もしなければと再び憂鬱な気分になった。


 だが、とりあえずは……ここを脱してからの事だ…………。












 確かな振動を感じて青年は意識を覚醒させた。目覚めたばかりの朧気な認識と感覚は、誰かに肩を断続的に押されている事を教えてくれる。


 誰かに揺り動かされて目が覚めるなど青年には極めて希な事だ。常は目覚まし時計に起こされ、そのまま行動を開始するので起こされる理由がないのだ。休みの時に寝穢く眠り続ける事はあるが、平素となると直ぐに目覚められる為、急を要するときか体調を崩して寝過ぎた時以外に起こさる事もなく、青年は頭に疑問符を浮かべながら目を開いた。


 横ばいになって寝ている自分の視界に入っているのはリノリウムの薄汚れた床。体を蠢動させると、締め付けられるような感覚で思うようには動けなかった。そして、漸く気付く。ここが部室で、自分はシュラフにくるまって寝ていると言う事に。


 昨日は駅の辺りで暴動が云々などと言われ、そのまま部室に泊まったのだと思い返す。と、なると自分を揺するのは……。


 「起きたか後輩」


 妙に顰められた声の方を見やると、何やら厳しい顔をした女が居た。普段とは違って髪を後頭部の辺りで団子に束ねた女は、普段の笑みを消して神妙そうに青年の顔を覗き込んでいる。


 「……おはようございます」


 「ああ、おはよう。今、朝五時だ」


 五時? と呟いて青年は欠伸をし、脳に不足していた酸素を送り込む。欠伸は脳が酸欠を伝えるサインだ、これを無理に飲み込むと返って眠気が悪化するので、少々下品ながらシュラフに顔を埋めて誤魔化しながらも大きく零す。


 「起きろ、凄い物が見られるぞ」


 女は青年から身を外し、付近の椅子に立てかけてあったプリチャージ式のエアライフルに手を伸ばす。ようよう見やると、近くには充填用の器具が転がっている。


 射出準備を済ませている? 何をやっているのだと思いながら青年はシュラフから這いだした。寝間着なんぞは置いていないので、寝姿はシャツを脱いだだけの適当な物だ。蛹より羽化する虫を想起させる動きでシュラフから出ると、青年は近くに畳み置いたシャツに手を伸ばし手早く纏った。未明の空気が体を撫で、俄に皮膚が泡立つのを感じる。


 四月の中頃は朝方ともなると気温的には冬と大差ない。僅かに暖かくなってきてはいるが、明け方の気温は未だ冬の厳しさを伴っていた。


 シャツを着て、ジャケットを羽織り少し浮いた目脂をハンカチで擦り落とす。後で洗面所に行って顔を洗うとしよう。


 「起きたな? 行くぞ。机の上の双眼鏡を持て」


 寝起きの低血圧のせいで動きが鈍い青年を急かし、女は扉の前に立つ。普段は飄々としつつも余裕を湛えた雰囲気から余裕が消えている。青年が着替えている間も、焦れたようにライフルを弄っていた事より余裕の無さが伺えた。


 机の上に置いてあるのは大型の双眼鏡だった。競技時に一〇m先にある標的の弾着を確認するための備品だった。青年は、どうしてこんな物をと思いながら女の後ろに立った。


 ノブに手を伸ばした女が、青年に振り返り、険しいままの表情で、ぼそぼそと囁くように告げる。


 「いいか、音を立てるな。できるだけ足音を消して動け。目立つのは厳禁だ」


 まるで泥棒の親方が初めての仕事をする子分に言い聞かせるようだ、と青年は思った。それよりも、銃刀法の縛りを受けるエアライフルを担いで部屋の外に出て隠密行動をしようなど少々悪ふざけが過ぎるのでは、という考えの方が強いのだが。


 それでも、女は至極真面目らしく雰囲気が張り詰めており冗談など言える様子ではない。ここは黙って従う方が良いだろう。


 無言は肯定と見なす性質の女は、青年が黙っているのを良い事に扉を開けて部屋を一時的に外界と繋げた。朝の冷えた空気と、仄かな生臭さが何処からか漂ってくる。


 軽く鼻をひくつかせ、青年は不快そうに眉を顰めた。強烈な、とまではいかないが嗅いでいて気分の良い匂いでは無い。何の匂いであろうかと考えている内に女の足は階段へと向かっていた。


 できる限り足音を立てぬよう歩く。衣擦れの音が極めて小さくサークル棟に響いた。ここには自分達以外にも人間が宿泊しているのか、僅かながらに人間の気配がある。昨日は夜半過ぎまで何処かで騒いでいる音が小さく聞こえたほどであるが、今は静かな物だった。らんちき騒ぎで溜まった疲れを癒やすため、皆眠りを貪っているのであろう。


 屋上の扉を開けると寒さは倍加した。高い所ではよく風が吹く故に、吹き付ける冷たい空気に青年の体温は否応なしに奪われ、反射的に体が跳ね上がる。肉体を運動させる事によって体温を保とうとする生理反応であった。


 吐息すると早朝の冷え切った空に息が白く立ち上る。数瞬となく消えていく呼気を見送りながら、青年は未だ暗い地平の彼方を眺めていた。背の低いビルの群れ、その奥は仄かに明るくなりつつあったが、我が国のシンボルたる赤く輝く恒星の光を伺う事はできなかった。


 寒さにジャケットの前を合わせ、体をかき抱く青年を無視して女はサークル棟の縁に立つ。転落防止用フェンスの合間より切れ長の美しい瞳を更に細め、まるで猛禽が獲物を探るが如く地上を睥睨している。そして、一点で視線を止めると、手招きして青年を呼び寄せた。


 何事か? と此方を見る女の顔に首を傾げ眉を顰める事で問うと、女の指が視線の先を示した。見ろと、黙したままに命じている。


 肉眼で示された方を見てみると、校内を誰かが歩いていた。随分と不確かな千鳥足で経営学部棟の前を歩いているのだが、道幅が数十メートル単位で広い学内の道を堂々と闊歩するには違和感のある人物であった。


 大学の校内は開放されており、門ごとに守衛室と警備員が常駐しているのだが、普段は出入り自由で余程怪しくない限りは誰何されることもなく一般人でも入れる。校内は広い上に自然も多いので散歩コースにする人や、ショートカットに使う人も居る程だ。


 だが、それは日中の事で、門が開放されるのは七時を過ぎてからのことである。こんな早くには門は開放されておらず、職員でもない限りは立ち入れないはずなのだ。


 人影は確かにスーツを着ている。だが、それは遠間に見ても分かる程汚れていて鞄も持っていない。フラフラとした千鳥足のそれは正しく朝帰りする酔っ払いの物である。そんな人物が、こんな時間に大学を歩いて居る訳が無いのだ。


 しかし、そんな事で女は青年を屋上まで連れ出したりはするまい。もしも不審者が侵入していたとしても、それは警備員の仕事で学生の関与する所では無く、更にあれは何かを見せようとして探した目標だ。青年を呼んだ理由では無い。


 では、何を見ろというのであろうか。青年は疑問に思いながらも、今度は双眼鏡を目に当てて対象を観察した。キャップを外し、目に添えて摘みを調節しピントを合わせる。距離がそれなりにあるので悉に観察しようと思えば倍率を上げなければならない。


 指先で躙るような速度でピントを上げると、少しずつ遠くに見えていた像が鮮明になり輪郭を結ぶ。それは、スーツを纏った壮年の男性であった。


 いや、男性だと形容して良い物であろうか。その腹は破れて、惰性で残っているシャツに隠されていた空虚な腹腔が風が吹く度に露わになり、その顔面は食い漁られたのか大凡皮膚が張っている部分は見当たらず、両目は完全に脱落し、欠けうげた鼻の後には鼻腔だけが残されている。


 それが一歩一歩足を引きずるようにして歩いている。何かを探しているのか、アテがあるのかなど伺えないが、それでも歩いているのだ。青年は、俄に酸味を帯びた何かが食道からせり上がってくるのを感じた。


 凄惨な情景には耐性があると思っていた青年だが、吐き気に襲われたのはグロテスクな有様に気分を害されたからではない。


 その吐き気は恐れによってもたらされた物であった。


 心の奥底、魂や本能とでも呼ぶべき部分から恐怖の怖気が上がってくる。あれの近くに居てはいけない、あれをよく見てはならない、あれに触れてはならないと、本能が全力で警鐘を鳴らしている。


 あれは自分の命を脅かす存在だ、と。


 青年は有り体に言って狂っていると言っても間違いではない。美しい物を美しい、美味な物を美味いと感じられても人間に価値を見いだせず、自分が楽に生きる事に腐心し、その為に気を遣い斟酌する。自分が狂人である事を理解しながら、狂人であるままに平穏に生きようとするある種性質の悪い狂人であった。


 必要であると思えば、青年は肉親であれども迷わず殺すだろう。自分が生きていくために。故に、彼は自分の命、ひいては安寧に生きるための立場が脅かされるという事態には一際敏感であった。狂人の感覚は人間のそれにほど遠い、ある意味において獣に類似するものであり、青年に関しては命の危機を察知するという点において狂人の形質が如実に表れている。


 その本能が告げていた。あれは、茶番でも映画の撮影でも何でもない。本物なのだ、と。


 青年は、双眼鏡を下ろすと震える手でポケットの中にしまってある携帯に手を伸ばした。それを見ると電波感度を示す部分には見慣れた四本の棒は存在せず、ただ圏外という文字だけが無情に踊っていた。この大都市大阪の大学校内で電波が途切れる事などあり得ようか。


 電気は? と隣でふらつく男……いや、死体を睨め付ける女に問うた。知らぬ間に声が震えている。ふと体に意識を落とすと、恐れで体が萎縮すると同時に小刻みに震えているのが自覚できた。


 紛れもなく体が恐れているのだ。この事態を、状態を。そして、ある答えが返ってくる事を。


 「携帯を充電器から外す前に確認したが、私がトイレに目を覚ました時点で電気は止まっていた。水道はまだ止まっていないが、時間の問題かも知れないな」


 携帯は停波し、電気は活動を止めた。どんどんと、目の前の光景に現実味が帯びてくる。青年は、頭を振って呆然と呟いた。


 「こんな、まさか、そんな……」


 意味を成さぬ言葉の群れ。時化の海の如く落ち着かぬ内情は思考を定める事すら許さず、自分が何を思い何を言おうとしているかさえ定かではなかった。


 ただ、何かしなくては、何かを言わなくてはと思いはするものの、その具体的な内容は乱れきった頭の中に産まれてはくれなかった。


 故に、青年は気付くことは無い。


 先程までは苦々しげに死体を見つめていた女の顔が、喜悦の嗤いに歪んでいる事を…………。

 はい、またお待たせ致しました、私です。そろそろ過去話は終わりで一応の決着が付いたら少女の視点に戻ります。当初のプロットから色々変わってしまったのは何でなんや……。


 とりあえずカタをつけないとな、色々と。できるだけ待たせないで済むように暇な時間を見つけてちまちま書いていますが、引きやら内容やら考えるとどうしても文章量が増えてえらい事なりますね。読みづらかったら大変申し訳ありません。


 皆様の感想や意見が大変励みになっております。これからも何卒宜しくお願い申し上げます。今暫し、完走までお付き合いの程を。

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