青年と女と夕日
戦闘? ゾンビ? 何ソレ美味しいの?
夢を見ていた。酩酊したような感覚に苛まれながらも袖で額にびっしりと浮かんだ汗を拭い、ぼぅっと不定の思考を無理矢理纏めながら天窓を眺める。
仄かな切れ切れの光が降り注いでいる。今、時間は昼なのだろうか。
手狭な部屋があった。無数の木箱と申し訳程度の家具に占領された、一見アパートの一室に見えなくもないそこはキャンピングカーの居住部であった。
そこに一人の青年が寝台にて臥せっていた。日頃より白く、血色が良いとは言えない顔は熱で赤く染まり、脱水からか皮膚がかさつき頬も少し痩けている。
その足下にて不安げに主を眺めているのは一頭のシベリアンハスキー。丁寧に手入れされた毛づやが美しい雌犬は、蒲団の合間よりはみ出した右手にそっと鼻面を寄せた。
その右手には包帯が幾重にも巻かれ、ぞんざいな手当で骨折が固定されている。痛むのであろうか、時折無意識に腕は微動していた。
このままだと死ぬな、と思いながら茫洋たる考えを頭に投げ込みつつ、彼は寝転がったままスポーツドリンクを煽った。汚さないで済むようにとストロー付きのボトルキャップを使っていた物はとうの昔に無くなり、今は汚れても知った事かと普通の容器から飲んでいる。既に、枕元と寝間着の襟元は乾燥したスポーツドリンクの成分が浮き上がり、塩が降りたかのようになりつつある。
殆ど目覚まし時計と化している携帯を開き、時計に目をやると日付が一日だけ進んでいる。僅か一夜でこの憔悴具合なので、相当厄介な感染症を掴まされたのだろうか。単なる熱で此処までなった事は二〇年の人生で初めての事であった。
それとも、単純に疲弊と監禁中の栄養不足で体力が落ちたか。いずれにせよ、今の状況が相当宜しくない事だけは確かだが。
一夜が明けていても体力は回復せず、ひたすらに熱が上がり続けている。今夜辺りが山であろうか。それにしても辛い。
脳に熱が回ってゆだり、体中に汗が吹き上がって不快感があふれ出す。栄養不足を訴えるように、胃が弱々しく顫動して小さな音を立てていた。
口は完全に乾燥し、食欲なぞありはしない。それでも、食べないと死ぬ。前もって枕元に用意してあった固形栄養食をつかみ取り、震える指先と歯を使ってパッケージを剥いた。右手が使えないので左手だけでパッケージを剥く作業は難航し、一時間はかかったのではないかと錯覚するほど体力を奪われた。
僅かに口を開き囓る。かさついたチョコレート風味のブロックが崩れ、ただでさえ乾いた口の水分を奪おうとする。
一部が粉末と化した栄養食が喉へと入り込み、軽く咽せた。それでも食べないといけない。死にたくないから、生きていたいから生き続けてきた。これくらいなら、まだ辛いとは言えない。
無理矢理かみ砕き、ほんの僅かに沸いてきた唾液と共に強引に嚥下する。喉がひりつくような痛みを抗議として伝えてくる。先程大量に飲み込んだスポーツドリンクは未だ水分として完全には染みこんでくれてはいないようである。
咳き込み、咽せ、吐き出すのを抑えながら何とか一箱を胃に収めると、体は少し落ち着いた。茹だるような熱と関節の軋みは健在だが、それでも少しはマシだ。不幸中の幸いというのはリンパ節が腫れて飲み込むことすら辛いという状態ではないことか。流石にそこまで行くと覚悟しても色々と吐き出しかねない。
あれだけ水を飲んでも尿意が殆ど沸かないのは、それ程汗として排出されているからだろう。とはいえ、今トイレに立つ余力など無いので我慢するか粗相する他選択肢は無い。下手に身を起こせば転倒し、立ち上がれないような気がしていた。
瞑目し、そっと外の気配を伺う。冷えた冬風が吹く音と、紐で吊された農具が揺れる音だけが聞こえた。引き摺るような足音や、腐れた肺腑から毀れる呻き声、そういった物が耳朶を揺する事は無い。風の音に紛れて、穏やかな鳥の声が聞こえた。朝方に喧しいこれは、雀の声だろう。
まるでもって平和だと感じる。今苦しんでいるのは自分だけで、もしかしたら今までの事は夢で、自分は狂人。外では車が走り人が行き交い、極めて普通の営みが流れているのでは無いかと思えてくる。
しかし、それは錯覚だった。ごく小さな音だが、倉庫の壁を殴打する音が聞こえた。拳を打ち付けるような小さい音だ。
どうやら、青年の臭いを嗅ぎつけた歩く亡骸が寄ってきたらしい。今は一体だけだが、直に数を増やして倉庫を包囲しはじめるだろう。寝ている間に何処まで増える事か。
本来ならば、他の個体を音で更に引き寄せる前に始末するべきなのだろうが、今出て行ってもどうしようもなかろう。銃を保持するだけの体力も無いのだ、自ら進んで朝餉になりに行く必要は無い。
今は眠り、体力が回復してから始末する他なかろう。しかし、キャンピングカーを止めている倉庫もそれなりに堅牢そうであるし、キャンピングカーそのものが頑丈に改良されている。こじ開けられる事は無いだろう。
今は体を休めて、体調が良くなったら掃除しよう。まずは、体調を万全にしないと何も始まらない。
水分と栄養を適当に放り込まれ、改めて燃料を得た体は、再び侵入者と戦おうと抗体活動を活発にするべく動き始めた。それに伴い、お前は邪魔だと言わんばかりに思考が霞み始める。脳が、眠気に関係無く意識をシャットダウンしようしているのだ。
次に目が覚めるのは、再び水分が枯渇した時であろう。もしくは、死して二度と目覚めないか。
体感だが、まだ余裕は少しある。死ぬにしてもカノンを逃がしてやり、死体として蘇らないで良いように自裁してからだ。あんな、命を失って尚食欲に支配されて街を彷徨うなんぞ、正しく死んでも御免だ。
枕の下には、M360がフル装填でしまわれている。その時が来たら、大人しく脳を吹き飛ばすとしよう。自分の都合で生きてきたのだ、幕引きも自分の都合で何の問題があろうか。
ああ、嫌だな、言葉にならぬ言葉が唇から毀れ、青年の意識は無明の泥濘へと沈降していった。夢という澱の中、ただ、誰かの声を聞く…………。
「私はだね後輩、引き金を引く時、マンターゲットに自分を描いているのだよ」
広々とした大学のキャンパス、青空の下に無数の机が並び、賑やかにサークルを宣伝する学生達が散らばっている。煉瓦風に整地された路面の幅は一〇mはあろうか、都会の合間にあるというのに非常に広々としたキャンパスだ。
台詞を吐いたのは、経済学部棟の前に設けられた新人勧誘席に座する長身の女性であった。その隣に座するのは、何を言ってるんだこいつは、とでも言いたげな顔を貼り付けた青年である。
珍しく表情を歪めた青年を見て、おっ、レアだな、などと抜かしながら女は口の端を釣り上げるような独特の笑みを浮かべた。
痩身長躯の女が浮かべる笑みは、妙に人好きがする感じの良い笑みであった。心の底から楽しそうに口の端が上がり、目が弧を描く。
「嫌な奴の顔、ではなくですか?」
そんな根暗な趣味があるのかい? と問い返しながら笑う女の胸が揺れる。体は運動で引き締まりながらも、女性の象徴だけは身に纏った地味な男物のYシャツを押し上げて存在を主張している。これで、同じく男物スラックスなんぞ履いていなければもっと見栄えもしたであろうに。
男装というには杜撰な格好ではあるのだが、それを除いても女には女性らしさが薄い。細い切れ長の瞳に通った鼻筋、肉感的に厚い唇や白い肌、絹糸のように艶やかな黒い長髪を有しながらも、男に異性を感じさせないのだ。
女ながら人より頭一つ抜けた長身。頭頂部より少し後ろ辺りで束ねられた髪型。あけすけな物言いと毀れ出る笑い声から、女性の嫋やかさや儚さを感じさせない。そのどちらも今の女性からは喪われつつあるが、単純に男性化したり押しが強すぎる訳では無い。
多くの男は言うだろう。あれはもう、姉御と呼んだ方がしっくり存在だと。
近年はサバサバ系などという言葉が流行っているが、彼女はその見本品だろう。装っているのやキャラ作りではなく、正に古き良き姉御肌とでも言うべき気質であった。
そんな彼女に似つかわしくない台詞に疑問を抱きながら、その胸元程度までしか上背の無い青年は訝しげに眉を顰めた。
「ははは、後輩、不機嫌かね?」
いえ、別に。と答えると、そこは、別に……。だろ! 等と言われながら背中を軽く叩かれた。一体何年前のネタであろうか。
「まぁ、別に深い意味は無いんだがね。何となく、そうするとスカッとして命中率が良くなる気がする」
そういって彼女は自分が着いた席、その机に置かれているエアライフルを撫でた。
机には部旗が敷かれ、その上にパンフレットと共にエアライフル部新入部員募集! と記された如何にもフリー素材で作りました、と言うような公告が踊っている。
その机上に飾られているのは、二丁の競技用エアライフルとエアピストルだ。エアライフル競技に用いる実物で、その形状は何処か玩具じみていた。
机の上に置くのは目を引くディスプレイが欲しかったからであろう。新入生に興味を持って貰いたいのであれば目立った者勝ちだ。故に、許可を取ってエアや弾を抜いて安全な状態にした物を持ち主付きで飾っている。
飴色に輝くウッドストックとロングバレルが特徴のエアライフルに同系統のウッドグリップが特色のエアピストルが女の物で、マットブラックに塗装された複合素材製の近代的な外見のエアライフルが青年の物であった。
運転の労力と駐車場代を取られるにも関わらず、青年が入学式の日に車で来たのは、このエアライフルのケースを運ぶためだった。一式収まったケースは割と大きく、矮躯の青年が混み合う電車のラッシュアワーに担いで乗り込むには負担が大きい上に、やはり衝撃などは与えない方が良い。それら諸々の事情もあって、態々車も出したのだ。
とはいえ、大学付近のパーキングは気の早い保護者の車で埋まっていたので、少し離れた住宅街のパーキングに止めたので、割と歩かされるのだが。
エアライフルは競技用の空気圧銃であり、ホビーに用いられるエアーガンとは別の物だ。机に並ぶエアライフルはどちらも口径4.5mmのプリチャージ駆動方式。充填された圧搾空気を使うので、余計なポンプやコッキングが不要になり、通常の銃と同じようにオートで駆動するので照準に集中できる、近年では主流のモデルであった。
今ではサークルで用いられるのは、殆どがこの形式で、物好きな先輩やOBの幾人かがポンプ型やスプリング型を使っている。ポンプ型は一発毎に空気蓄積のポンピングが必要な上にポンプは凄まじく硬く、スプリング型もコッキングが以上に硬い上にリコイルが大きくて精密製に劣る物だ。故に、どちらも競技において用いる者は減っている。
プリチャージ式はリコイルも小さく精度も高く現在主流の方式である上に、充填は空気ボンベや自転車の空気入れにも似た充填機で行う事ができる。手軽で精密というのが売りだった。
とはいえ、接合部などのゴムパッキンなどは消耗品な上、一つでも壊れたら稼働しなくなるほどデリケートなので数年毎のオーバーホールは必須というコストも高い物だが。
空気圧は馬鹿にした物では無い。エアライフル競技では一〇m距離が一般的で、オリンピックでも一〇m競技しか行われていないが、届くだけなら五〇mも優に届く。ただ、法令の問題で一〇m以上の競技が難しいだけなのだ。競技用であっても生半可な威力では無く、当たれば勿論怪我をする。
それが狩猟用ともなると、至近距離であれば獣でさえ殺傷し得る程だ。部室には幾らかガンロッカーに狩猟用の物が引っさげられており、それを用いれば人間でさえ殺しうるだろう。しかし、それでも本物には劣るので至近できちんと狙う必要はあるだろうが。
そんな代物で自分を狙う想像をする。女は相当に奇特な趣味をしているのだろうか。青年は軽く考えてみたが、内心で身震いした。
「自分の頭を射貫いて、スカッとする、ですか」
まぁな、と前置きして女は続ける。
「割と楽しいぞ。何というか、自分を打ち倒すという感覚であろうか。形容しがたい快感がある」
言われて、なる程と考えた。標的に写すのは不完全な自分、今までの目標を達成できない自分。それを打ち倒すイメージにより自己暗示をかけて集中力を上げると同時に達成感を得る。そう考えると、然程狂気染みた考えでは無いと思われた。むしろポジティブな部類の思考とも言えよう。
しかし、何となく嘘くさい理由だと青年には感じられた。納得はできるし、理解もできるが、どうにも腑に落ちないという言うべきか。この女性が吐く台詞にしては違和感がある、そんな感覚であった。
とはいえ、面と向かって嘘でしょうとも言えないので黙って首肯する。人付き合いは妥協と嘘の付き合いにして、その許容だ。何もかもを突っつき合ってひっくり返していたら、それは最早喧嘩だ。人間関係は諦観と看過、そして思考停止によって安定するのである。
「そういうお前は、何を思って引き金を引いている?」
今の所、ガイダンスでもやっているからか新入生の人通りが無く新入背歓迎席は暇を持て余している。暇つぶしの為に話題を振られているのだろう。
「……そうですね、銃を構えた別人。撃たないと、当てないと死ぬ、という状況を想定してやっています」
ほぅ、と感嘆とも関心とも聞こえる声が隣から毀れた。何だろう、と思って顔を巡らせると、妙に男らしい印象の笑みがあった。
鋭い美貌が笑顔に歪んでいる。何か、さも愉快な物を見つけたとでも言いたげな笑みであった。
「……何か?」
「いや、何、どうやら、私と本格的に馬が合うようだと思ってね」
幾度目になるか忘れたが、青年は疑問から首を傾げた。唐突に何を言うのであろうか。
この女、二つ上の先輩と青年との付き合いは入学当初、青年が興味を持ってサークルに入った時にまで遡る。複雑な関係や因縁があった訳では無い。新入生歓迎会で声をかけられ、基礎を教えられた、ただそれだけの間柄である。
が、青年は、ふとした時に目線で女を捜し、女は何かとつけて青年を付き合わせた。飲み物を買って休憩する時、部室棟の屋上で一服する時など様々だ。二人で飲みに行ったこともある。
理由は定かでは無い。ただ、何となく気に入ったという具合だ。理由も無く好感を感じる人間は少なからず居るだろう。人は、それを一目惚れや運命などと呼ぶが、青年は、そこまで色っぽい物だとは思っていなかった。
そう、例えるならば…………。
「おーい、おつかれー」
声に反応し、そろって顔を向けると、通りの向こうからライフルケースを担いだ一団がやって来ていた。新入生生活ガイダンスが公演ホールで開かれており、そこで行われていたサークル紹介に参加していた面々だ。声をかけてきたのはサークルの幹事長だった。
「ああ、おつかれ。どうだった?」
女の問いに幹事長は、素直に分からんと答えた。それに続けて、間違ったミリオタが流れてこなけりゃいいんだけど、とも言う。
確かにコルダイトの香り漂う長距離シューティングレンジを予想して来られても困るという物だ。現に、青年の同期にも勘違いして入部し、理想と違うからと一月も立たずに止めていった男が居た。入部直後の退部は手続が面倒なのだろう。学生部との名簿やりとりもある事だし。
新入生との縁なんて運だろうさ、と笑う女に同調して幹事長も笑い、休憩入ってくれと促した。此処に座るのはシフト制で、講義の都合などもあってそれぞれ都合の良い時間に入る事が決まっている。座りっぱなしは辛いので、大体九〇分毎に交替が入るようになっていた。
「そんじゃ、一服してくるかな。後輩、付き合え」
女は立ち上がり、机の下の死角、部旗に隠れていたライフルケースを引っ張り出す。黒い革が張られた上品な物で、エアピストルも格納できるように拡張された物だ。
ついでに、と言うように青年の焦げ茶の革が張られネームタグがぶら下がるライフルケースも取り出した。礼を言って受け取り、ディスプレイしていたライフルを分解して収める。代わりに別の部員がライフルを組み立て、机の上に置いていた。暫くは彼等が座るのだろう。
一応、管理の問題があるので、置いておけるのは座っている人間が持ち主のライフルだけなのだ。エアライフルは銃刀法では競技用でも立派な銃器に当たる。所持するには公安からの許可が必要なので、管理も割と面倒なのだ。ゴタゴタした場合、活動停止の可能性もあるので扱いは皆神経質である。
ライフルケースを担いでキャンパスを闊歩する。女が先頭に立ち、青年は自然と一歩下がった位置につく。これが、二人の距離感であった。
「で、最近どうだね後輩」
「どうだね、と言われても答えかねます。何が具体的にどうなのかと」
お前アスペかよー、等と朝方にも一度聞いたような事を言われながらキャンパス北部を目指す。北部には運動部のサークル棟があって、エアライフル部は割と広い部室を与えられている。エアライフルの管理にはガンロッカーなどが必要なので当然の処置である。
キャンパス内はひたすらに賑やかであった。誰もが楽しそうに新人勧誘席に座って駄弁り、どんな新入生が来るのだろうかと話題に華を咲かせている。誰もが、これからの展望に瞳を輝かせていた。
学内に無数に植えられ、咲き誇る桜の花びらが何処からか飛んできてジャケットにくっついた。左の胸、まるで何かの飾りのように付着した花びらを、青年は何の感慨も抱かずに払いのける。
「まるでレーザーサイトだったな」
視線を上げると、首だけを此方に向けた女が笑っていた。いや、この女の笑いは青年からすると、嗤っていると形容するに相応しい笑みに思えた。別の人間に言わせれば、人好きのする感じの良い笑みだそうだが、青年には、そう思えなかった。
まるで、何かを皮肉っているような笑みだと常々考えていた。
「左胸にポイントくらうような覚えはありませんが」
「人は大なり小なり恨みを買って生きてる物だ。後輩、お前はそんなに当たり障りの無い人生を送ってきたか?」
問いに、当たり障りの無い生き物ですので、と答えて視線を女から外した。何と言うべきか、あまり長々と話していると不安になってくる。適切な形容や表現が思い当たらないのだが、自我を被甲する外面という殻を剥がされていくような便りの無い感覚。
女の間合いの取り方は絶妙だ。自然体で誰の間合いにでも入り込む。そして、妙に近い立ち位置でなれなれしくても不快に思われないという希有な才能の持ち主でもある。彼女はきっと良い営業職になることだろう。
何となく共にある。そうすると落ち着くような気がするし、今感じているような不気味さを覚えて落ち着かなくなる頼りなさに襲われる事もある。では、何故自分は彼女の姿を目で追い、背中に追従するのであろうか。
「そう言う先輩はどうなんです?」
答えがでないので、気を紛らわす為と間の繋ぎに問いを返すと、彼女は振り返って嗤いながら答えた。正しく、嗤うと形容するに相応しい笑みだった。
「私だぜ?」
……左様で、としか青年は言えなかった。何よりも表情が雄弁に物語っている。この女の笑み、極端に歪んだ笑みは自分以外に見た事は無いのだろう。今の笑みは、サークルの面々に見せる笑みとは決定的に違う。
恐らく、この女にも何か含む所があるのだ、自分と同じく。
五分ほど歩いて部室へと帰還した。広い大学だ、部室に帰るにも苦労する。昼休みの一〇分で大学の端から端まで歩かされる事もあるので広いのも考え物である。だが、狭くてまともに設備も無いのと比べるとどちらがマシと考えるべきであろうか。
部室を留守にして鍵を開ける事はできないので、部室には数人の部員が留守番役として暇を持て余していた。高校の教室ほどはあろうかと言う部室には、ロッカー以外にも大きな円卓が一つ置かれており、それを囲むように沢山のパイプ椅子が並んでいる。専ら整備や会議に使われる机だが、今は弛緩した空気の中で菓子やトランプが散乱していた。
整備用オイルの臭いが漂う中で、よく菓子なんぞ食う記になるなと思ったが、青年は何も言わなかった。できるだけ余計な事を言わないのも人付き合いのコツだ。
この部室にはガンロッカーが並んでおり、家にロッカーを置けない部員や顧問の銃を保管する為の物だ。ロッカー内の枠を一個使えるようになっており、ロッカー内部の銃棚にチェーンと南京錠で固定するようになっている。銃刀法が適用されるので、競技用エアライフルであっても管理は厳重になされているのだ。
部内での人気が高い女は、留守番していた部員は絡まれ、青年は何も言わないで女の分のエアライフルもガンロッカーにしまっておいた。
自分の枠をしっかりと施錠し、鍵をキーケースに戻しておく。鍵は南京錠なので持ち主が変わる度に入れ替えられている。こうする事によって盗難の可能性が下がるのだ。ロッカーの鍵を引き継ぐよりは安全性が高いし、買い換えるよるいは安上がりだからだろう。
「ん、ご苦労」
いつの間にか女が横に居て、銃がしまわれたロッカーに自分の鍵をかけていた。ケースはロッカーの上に上げられており、その代わりに煙草のケースが握られていた。妙に細長い、金属のシガレットケースだ。
「改めて言うけど、一服付き合え」
シガレットケースを此方に突き出す。いや、正確にはシガレットケースと指の間に100円玉が二枚挟まれていて、それを受け取れというのだ。手を差し出すと、指が離れて掌に百円玉が落ちてきた。
「私はいつもので。先に上がってる」
一方的に言って女は部室を後にした。部室棟は三階建てで、屋上は開放されている。屋上にはそれなりのスペースがあって、サークル活動で利用する者達がいるからだ。何かの塗装をしたり、軽く楽器を弾いてみたりと色々な用途があるので要望を受けて数年前に解放されたのである。
小銭を弄びながら、自分も部室から出て部室棟の一階に並んでいる自動販売機へと向かう。部室棟の側面に並ぶ自販機達は、全て大学価格なのか缶は一〇〇円、ペットボトルは一三〇円と中々のお値打ち価格だ。安いのは何かと金が入り用な大学生には有り難いが、外で飲み物を買うのが馬鹿らしくなるのが難点か。
青年は紅茶は朝に飲んだのでカフェオレを飲むことにした。他の物より頭一つ抜けて大きな缶の、甘ったるく暖かいカフェオレを購入する。渡された二枚の百円玉の一枚を挿入口に入れ、ボタンを押した。軽快な電子音と共に、真っ赤な自販機から飲み物が吐き出される。
渡された二百円、その半分は一服に付き合う手間賃とパシリの駄賃のような物だ。別に金はそこまで使わないので困っていないが、貰える物は貰っておいて損は無い。
先輩が愛好しているのは白い自販機に入っている微糖コーヒーだ。同じように百円玉を投入し、金色の見本に指を伸ばしかけてから、ふと考えた。
そういえば、ホットかアイスか聞いていなかった。
あの人は飲み物の温度を気分で変える。真冬にキンキンに冷えたコーヒーを飲むこともあれば、真夏に態々コンビニでホットコーヒーを求める事も。この時期は大抵同社製の自販機が複数並んでいると同一製品のホットとアイスが両方売られている。
なので、どちらを買っていくか困る。別に、気分じゃ無い物を持って言ったとしても怒られはしないが、自分を楽にするため人付き合いに気を遣う青年だ。印象に悪いだろうからと、変に気にしてしまう。
自分がホットを買ったから相手もホット、とはいかない。個人的な趣向は皆違うから、自分の価値観では如何とも判断し難い。
さて、どうした物かと顎に手を当て考え込む。時間が経ちすぎると百円が自動的に返却されてしまうので、その前に決めてしまおう。別に入れ直せば良いだけの事なのだが、何となく、そうした方が良いような気がするのだ。
そういえば、今日はジャケットを羽織っていなかったなと考えた。普段はスラックスと同系色のジャケットを羽織っていて、青年と似たような格好をしているのだが、今日はジャケットが見当たらない。
暑くて邪魔だったならば腕に引っかけるか座席にかけるのだろうが、その様子も無かった。つまりジャケットは持ってきていないのだろう。
屋上は風が強い。そこに肌着云々はおいておいてシャツ一枚だと春先でも冷えるだろう。特に、最近は寒の戻りが酷くて異様に冷える。桜も咲く時期を間違ったのでは、と思える程だ。
ならば、ここはホットだろう。青年は暫しの逡巡の後にボタンを押してコーヒーを買い求めた。金色の缶が転がり出て、自販機特有の大きな落下音を立てる。
熱い缶を指先で摘むように拾い上げ、熱が籠もりすぎないように軽く放り投げつつ保持する。自分のカフェオレはジャケットのポケットにねじ込み、両手でお手玉をするように持てば熱さも耐えられる。とはいえ、熱は伝わり続ける割に冷却インターバルが無いので、その内に熱くなってしまうが。
無精せずにポケットからハンカチでも取り出して包むべきだったかと考えつつ急ぎ足で階段を昇る。火傷するほどでは無いが、熱いのには変わりない。さっさと押しつけてしまいたかった。
階段を昇り終えると、屋上への扉は既に開放されていた。両手で持つにせよ何にせよ、手が埋まっていたら大変だろうからと開けっ放しにしてくれいるのだろう。
「ん、ご苦労後輩」
風が吹き抜ける。整髪料の乗っていない柔らかな髪が背後へと流れつつ揺れ、俄に変わった明度に瞳孔が収縮するも調節が追いつかず、青年は目を眇めつつ声の発生源を見た。
束ねられた女の髪が尾のように揺れる。機嫌の良い猫の尾のような歩く時とは違い、何かを威嚇するように激しく揺れる髪。屋上の逆光、陰影によって彫りが深まった美貌は凄絶さを増し、まるで一服の絵画の如くある。これほどに立ち姿が絵になる人間というのも珍しかろう。
青年は、美しい光景を見入ったら感動して滂沱として涙を流し詩的な感想を並べる性質ではないので、思考を直ぐさま切り捨ててコーヒーを手渡す。美しいとは思った、綺麗だと感じた、しかし、それに如何ほどの価値があるのであろうか。
「お、丁度ホットが飲みたかった。やはり気が利くな後輩」
暢気に褒めつつ、女は片手でプルトップを引き起こす。安っぽい缶コーヒーの芳香が風に乗って漂い流れた。
今時の女性にしては珍しくルージュもリップクリームも敷かれていない艶やかな唇が缶に触れる。黄土色の液体が、静かに唇を濡らした。
「ふぅ、最近は妙に寒くていかん。出がけは暖かかったからジャケットを置いてきたのは失策だったな」
所感を零しつつ首をすくめる女は、その動作の流れで青年にライターを投げ寄越す。首をすくめると自然、肩が上がる。その動作に付随して左手がスナップを利かせて放ったのは、レーザー刻印で胡蝶が描かれた一つのオイルライターであった。
女はライターの行き先を見送ったりはせず、片手で器用にシガレットケースを開け、口でフィルター部分をくわえて固定ベルトから引っこ抜く。収まっていたのは、一般的な長さの煙草よりも細く、ずっと長い煙草であった。
火を付けろ、という事だ。風のある中、片手で火を付ける事は難しい。どうしても片手を風防にしないと火が吹き消されてしまう。
最早慣れた事だ、青年は右手の親指でライターの蓋を弾き開け、左手で炎の灯る軸芯部を遮りつつ火打ち石を擦った。火花が散り、オイルの染みこんだ軸に熱が宿る。
隣に並び、それを差し出すと、女は直接顔を寄せて先端を火に翳した。煙草は単にかざしただけでは火が付かない。近づけた上で、軽く吸って酸素を集めないとしっかりした玉ができないのだ。
巻紙と葉が燃え上がる小さな音を上げ、煙草の先端に真っ赤な炎が玉として宿った。ちっぽけな炎だが、これでいて六〇〇℃近い熱量がある。
燻る紫煙は一瞬だけ尾を引き、後は風に吹き消されて消えてゆく。独特の甘い香りだけは残るが、不快な煙草が青年の顔にかかる事は無い。
女はフィルターを吸い、口腔内に煙草の煙を誘い込んで風味を楽しむ。彼女が好んで吸う海外製の煙草、そのフレーバーは深く多様だ。淡いバニラの香りに溶け込む、ほんの僅かなチョコの風味。タール含有量は多いものの、吸い口は甘く軽やかな吸いやすい煙草だった。
暫し香りを堪能した後で煙を肺に送り込む。ただ、口腔内にため込んでいた空気を深く取り込むだけだ。灼けるような感覚が喉奥へと落ち込み、肺が膨張する。直に成分が体に周り、依存の解消と酸欠による痺れにも似た恍惚感を伝えてくることだろう。
肺に送り込んだ煙を、軽く開いた口から吐き出す。顔は軽く上に向け、隣とも後ろとも言えない微妙な位置に立つ後輩にかからないように。
そんな気遣いなど無用というように、肺から吐き出されて濁った色へと変じた煙が風の中へと消えていった。
「はぁ……美味い」
万感の意を込めて、ただ一言感想が煙りに追随して吐き出される。味覚的な旨味ではなく、何か染みいるような抽象的な感覚と、心が満たされるような陶酔感。正しく、美味いと表現するに相応しい感覚だ。
鉄面皮の後輩は、微笑を浮かべた先輩をつまらなそうに見つめている。口は開けられたカフェオレに軽く被さり、その香味を吸っていた。
「どうだ? 一本」
「生憎、金を払ってまで自分の肺をヤニ付けする趣味は無いもので」
このやりとりも、二人で一服する時には決まって交わされる物であった。青年は非喫煙者であるらしく、煙草を吸った事も買ったことも無い。対する女性はチェーンスモーカーとまでは行かないが愛煙家だ。日に数本は吸っている。
「この芳醇さが分からないのは残念だ。しかし、それも個人の趣向か」
煙草を支え無しに咥え、ゆっくりと煙を吸い込む。女の煙草を吸うペースは非常に緩やかな物だった。早く吸うと空気の通りで燃焼が加速して温度が上がり、温度が高くなると煙の風味が損なわれ、辛みが増す。女はニコチンやタールの補給よりも、風味を楽しむ嗜好品として吸っている気があるので重要な事なのだろう。
「美味いですか?」
自分には此方の方が向いている、青年はそう思いながらカフェオレを一口啜り、問うた。普段なら余計な会話は面倒くさいとしか思わないのだが、この先輩と話す時は別なのだ。自然に言葉がわき出てくる。
「ん? ああ、美味いよ。純粋な味というと酷いものだが、この香りはな。吸い方を辨えれば、煙は辛いだけじゃない」
一般の喫煙者は大抵、美味い物では無いと言うが、やはり吸い方の問題なのであろうか。そして、何故好きで無いのならば吸い続けるのか。
「健康云々考えるとやらない方がいいのかもしれないがね、無いと寂しくて仕方が無い。これもある種の依存か」
ふと、煙草を吸うと集中できるという言葉の真相を何かの本で読んだのを思い出した。ニコチンが欠乏すると依存症で集中力が欠如しはじめ、吸うことによって依存症が治まり基準値まで回復する。結果からすると、集中力など上がりはしないのだ。ただ、上がった気がするだけ。
では、美味しい訳でも利点がある訳でもなく、値段も決して安いとは言えず、将来的に悪影響を及ぼすというに、人は何故煙草を吸うのだろうか。
煙草に火を灯し、その煙の慰撫に浸る意味は何なのであろう。
巡った思考の内容を見返して、青年は、一体自分はいつから詩人になったのであろうかと考えた。
「どうしたね?」
「いえ、別に。最近は日が暮れるのがゆっくりになったな、と思っていただけです」
日は、既に傾きつつあった。屋上にやってきた頃には既に夕刻に近づいていたが、まだ空は青かった。しかし、今では紅に染め上げられ、傾いた太陽が此方に強い光を浴びせかけてくる。この辺りには高い建物は大学の学舎以外には希で、立地的に部活棟の西側には霞む程遠くにしか見当たらない。強い夕日が降り注ぎ、二人の姿をシルエットへと変えていく。
長く長く伸びる影。その影においては、数十センチにも及ぶ身長の差は殆ど感じられない程度になっていた。伸びた影と、赤い世界を見ていると酷くもの悲しい気持ちになってくる。
だが、どうして自分は、こうにも自分勝手なのだろうか。
感性はズレて居ないと思う。美しい物を美しい、良い物を良いと思う心を青年は持ち合わせていた。柔らかそうな動物を見れば幸せな気持ちに浸れるし、勇壮な音楽は心を弾ませる。
だのに、何故自分は人間に価値を見いだせないのだろうか。生きている、ただその事に意味が無いように思えて仕方が無い。それでいて、自分は生きていられるのなら生きていたいし、楽に過ごしたいと思っている。
何と碌でもなく救いようのない思考パターンなのであろうか。世に言う厨二病よりもずっと性質が悪い。
多分、きっと、自分だけがおかしいのだろう。何者にも価値は無く、意味も無い。自然に感じるのはおかしい事なのだ。
利己的な人間にも一人は大切にする人間が居ると聞く。妻であったり、夫であったり、子であったり血族であったり。人間は人間とふれあわないと生きて行けない生き物だ、だから自然とそうなっている。
では、自分は?
もし仮に誰かを殺さないと生き延びられないのでは、自分は容易く誰かを殺すだろう。例え、それが優しい笑みを浮かべた祖母でも。頼りがいのある父でも。自分を産んでくれた母でも。
嗚呼、何と救い難い生き物。
もしかしたら。自分は人間ではないのかもしれない。その方が自然に思えてくる。そうでなければ、何処かがおかしい。
医者に行けば立派な御病名を付けてくれる事であろうが、そうではないのだ。これは病などではない。もっと、根強く拭えない物。そう、本性とでも言うべきであろうか。
夕焼けに染まる街が問いかける。意味も無く郷愁を掻き立てる風景が、自分の事を探らせる。腐った沼のような心の底を探っても、拾えるのは澱のように溜まったゴミの山だけ。全く以て、酷い物だった。
しかし、同じ違和感を隣に感じる。この、快活に嗤う女から、同種の薄気味悪さを。
女は一本目を吸い終えたのか、懐に入れていた携帯灰皿を取り出して手早くもみ消した。そして二本目を咥え、何かを期待するように目線を送る。青年は、何も言わないで火を付けてやった。
呼気を吹き込まれて肺が膨張し、胸が僅かに弾む。何処か恍惚とした表情で煙を吐き出しながら、女は徐に口を開いた。
「なぁ、後輩」
何ですか、と答えると、女は目を合わせる事無く一歩を踏み出し、青年の視界から横顔を離脱させて背中のみを見せた。Yシャツ一枚だというのに矯正具の線が見えないのは、恐らく肌着を下に着ているからだろう。
「同類か? お前」
は、とも、な、ともつかない声が毀れた。誰も顔を見られる場所には居ないが、今顔を見たならば、青年の顔は普段の鉄面皮からかけ離れた中々に滑稽な物になっていただろう。
「一年ほど付き合った結果の考えなんだが、やっぱりお前私の同類だろう?」
一瞬だが、心の臓が跳ね上がるのを感じた。脈拍が知らぬ内に上がっている。自分が異物であることを察知された? という驚きと、この女は何を言っているのだという驚きの相乗効果だ。
しかし、今までずっと自分を押し殺して生きてきた。リカバリーは然程難度の高い事では無い。平静を装った声で、青年は、同類とは? と問い返した。
答えは返って来ない。口の端を釣り上げるいつもの笑顔と、その合間より奇妙な笑い声が断続的な響きを以て吐き出されているだけだ。
暫し、止めるつもりもないのか女は嗤い続けた。決して大きな声ではないというのに、その嗤いは何処までも響き渡る哄笑の如く感ぜられる。背筋に泡立つような気味の悪い感覚を覚えつつも、青年は体の震えを押さえ込んだ。
嗤いから感じ取れたのは狂気。何処か、常なる者の嗤いではないと感じられるおぞましい気配。普通の人間なら、どれだけ精密に演技をしたとしても発せられない気配だった。
多分、この問いは確信から来ているのだろう。自分が、人間に価値を感じられないという異常性そのものを知られた訳では無いと思う。されど、世の中にはこういった言葉があるのだ。
類は友を呼ぶ、という言葉が。
自分が、この女に不快さを感じなかったのは、そういう事か。青年は、はっとして思わず顔を上げた。女の、邪悪な笑みに歪んだ目と目が合った。
視線が絡み合う。逆光になっているから、その虹彩の動きや色は完全に伺い知る事は適わない。しかし、無形の何かが腕のように心の底に入り込む錯覚を得る。
数秒であろうか、それとも数分か。互いに目線が離れる事は無く、それは永劫の間に固定されたかのように思えたが、驚くほど呆気なく分かたれた。女が、笑みの質を変えて目を伏せたのだ。
「冗談だ、忘れろ後輩」
朗らかな微笑。女性としての美しさよりも、奇妙な頼もしさを醸し出す笑顔は全く平素の物と相違なく、それ以外の何物でも無かった。
青年は異を唱える事無く、ただ頷いて、すっかり温んで甘みを増したカフェオレを飲み干した。きっと、触れない方が良いのだろう、自分にとっても、彼女にとっても。
青年は無難に生きていきたいだけなのだ。だからこそ、例え自分が危うい物であろうとも好き好んで危うい物に触りに行く必要などないのだから。
「さって、そろそろ帰るか……後輩、お前車か?」
女は伸びをして二本目の煙草を形態灰皿にねじ込む。嗤っている間中、指に挟まれたまま燃えるに任された煙草は、殆どが灰と化しており消すまでも無く脆く崩れ去る。
「車ですけど、先輩、バイクは?」
女は普段バイクで通学している。そこまで家は遠くないようだが、バイクも趣味の一つらしい。
「流石にケース括り付けては走れん。だから今日は電車で来たんだ。どうせ方向は同じだろう? 乗っけてってくれ」
愛車は大型のレーシングバイクで、青年には引き起こせないなと思う程大きなバイクだ。背の高い女が横に立つと非常に映える真っ黒な大きなバイクだった。本来サーキットを駆けるようなバイクは、払い下ろしの品であるらしく、その名をブラックバードと言った。
確かに、あの車体でライフルケースを運搬するのはきついだろうと青年は納得する。それに、車で送る事は度々あったり帰りの途上だ、断る理由は無い。
快諾すると、女は電車代が浮いたと笑った。電車賃と後輩に奢るコーヒー、差額は大した物では無かろうに。
何もかもが夕暮れの幻で、最初から無かったかのように女は身を翻して屋上から去って行く。青年も後に続き、何も言いはしない。
ただ、仄かに残った煙の香りだけが屋上に取り残されていた…………。
懐かしい夢を見たような気がしていた。
彼方に過ぎ去った頃の夢を見ていた青年が目を覚ましたのは、奇妙な違和感を覚えたからだ。僅かに車体が揺れているような気がしたのである。
身を起こすと、カノンが扉の方を厳しい目で睨んでいた。耳を澄ますと、車体がほんの僅かに軋む音がしている。
断続的な揺れは、まるで何かに車体が押されているような感覚であった。いや、これは正しく……。
そこまで考えた所で、青年は心の底から不愉快そうな息を吐き出した。
侵入したのだ、死体が。
何処かにトタンが剥がれている場所でもあったのだろう。そこから偶然に死体が入り込んだのだろうと青年は推察した。揺れている感覚は実に微弱な物だ。大勢の死体が群がっている訳では無い。ほんの数体、もしかしたら一体程度だろう。
まだ現時点では脅威では無い。いわば、缶の開け方も分からない子供がクッキーを欲しがって小さな手で叩いているだけに過ぎない。
ただ、その子供がやたらと大きくなったり複数になると流石に問題が発するが。やがてクッキー缶が衝撃で歪んで美味しいクッキーが溢れてしまう。
この場合、クッキーが青年で缶がキャンピングカーだ。車は頑強である上に、人間ならば直立が厳しい角度であっても倒れないようにしっかりと重量配分と銃身を考えて設計されているので転ぶ事は無い。
しかし、力を与える数が増えれば増える程傾きは強くなり、何れ耐えきれなくなって転倒する事だろう。
今はまだ大丈夫。しかし、先の事は分からない。何かしらの対策を講じた方が無難であろう。
されども体は動かない。熱と軋み、そして痛みと思考の散漫は収まらない。今下手に動いたら喰われかねない。嘆かわしきは自由に動かない己の体だ。
悪態を呟いたつもりだったが、掠れた喉はまともな言葉を発してはくれなかった。悪意だけが呼気に混ざって霧散する。
半ば自棄になりながらもスポーツドリンクを煽る。どれだけ飲んでも乾きが消えない。きっと、治った頃にはベッドマットも毛布も悲惨な事になっていることだろう。
500mlのボトルに収まったスポーツドリンクを飲み干すと、キャップも嵌めずに扉に向けて投擲した。正確には、扉の向こうで開かない缶を開けようと努力している死体へと。
しかし、力がこもっていなかった故にペットボトルはフラフラとした軌道を描いた上、カノンの目の前に落ちて虚しく転がった。カノンが心配そうに青年の方へと顔を向けたが、青年はそれを見る事無く毛布に顔を埋めた。
痛みから逃げ出すように…………。
はい、私です。何とか然程待たせずにやれてよかったです。
サークルでのエアライフルの扱いは知人からちらほら聞いて書いているので変な所があるかもしれません。一応、銃刀法にしっかりひっかかるので管理が異様に厳重だとは聞かされていますが。
まだお気に入り数が上がっている事に驚いています。こんなマイナーな題材の上に文章力も高くは無い作品に付き合ってくれる諸氏が多い事に喜びを隠しきれません。素直に嬉しいです。
未だに返信とか訂正できてませんがすみません。しかし、感想は大変励みになっております。頑張って終わらせますので、宜しければお付き合いください。それではまた次回。