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少女と死体と雪

 一つの大きな建築物があった。三階建ての大型ホームセンターの店舗で、日本中の何処ででも見られるような何の変哲も無い店だ。


 だが、その看板は風雨で汚れて錆び付き、店舗の周囲を囲むフェンスにはベニヤ板やトタンなどが何重にも貼られている。


 駐車場の車は一部に寄せられ、殆どがガソリンを抜かれているが、何台かの軽トラックだけが出入り口と思しき周辺に待期させられている。それらは店が希望者に貸し出す商品運搬用の軽トラックであり、車体側面に店の名前がプリントされていた。


 日常的な建物がバリケードで囲われている様は非常に奇妙で、見ていると得も言えぬ違和感と乖離性を感じさせる。周囲に広がる枯れた稲穂の残る田圃がその異様さを引き立たせていた。


 周囲を急造のバリケードで固めた異形の砦で炎が囂々と燃えさかっている。駐車場の真ん中で、何かに燃え移ることの無いよう周囲から孤立した場所で何かが燃えていた。


 炎の勢いは凄まじく、ここでアルミホイルに包んだ芋でも放り込めば良い塩梅に焼けるだろう。これが焚き火で、焼かれている物が落葉や芋ならば何とも和む光景なのだが。


 しかし、賑やかに囲まれる焚き火と異なり、この炎の隣には一人の女しか居なかった。また、どれだけ火勢が強かろうと誰も芋など決して投げ込みはしないだろう。


 燃えているのは積み上げられた人の亡骸なのだから。


 キャンプで使われる燃焼剤を滴る程にかけられた死体は、当初その燃焼剤の水気で中々燃えなかったが、一部が燃え始めると爆発的な速度で勢いを増した。定期的に薪代わりの廃材が投入されており、数時間もすれば後には骨にへばり付くように残る焦げ付いた肉だけが残ることだろう。


 「はぁ~……あったかい……」


 かつて人間だった物が焼かれている地獄のような火の隣に屈み込んでいた女が、正気を疑わせるような感想を零した。常人であるならば、死体が焼かれている炎で暖を取るといった狂気じみた発想は決してしないだろう。


 まるで神の不存在を試すかのような行動を取っている女は、年の頃に似合わぬ容姿をしながらもあどけなさを残した少女だった。


 大型犬を連想させる豊かにうねる金糸の長髪、一八〇cmを越えながら細さを感じさせない立派な長躯。上半身を覆うフライトジャケットの胸部は溢れる反発に押し上げられている。


 何が楽しいのか分からないが、常に愉快そうな笑みに歪められる顔は炎の明かりに照らされて蠱惑的に色めいている。光の加減なのだろうが、その揺らめきの怪しさは見る物に彼女が慮外の生物であるかのように錯覚させた。


 「お前なぁ、よりによって人を焼いてる炎で暖取るなよ」


 少女は振り返ることなく、背後から足音も立てずに接近してきた相手の存在を判別する。むしろ、驚く素振りも無かったので声をかけられる前から存在に気付いていたのだろう。


 「そういうおやっさんこそ煙草咥えてんじゃん」


 彼女の隣に立った壮年の男は僅かに屈んで火から突きだしている廃材を掴み、それに灯った火を使って咥えた煙草に火を付けた。二等品の安っぽい煙草に火が移り、煙が立ち上る。


 「俺は良いんだよ、片付けに参加したんだ。火の切れ端くらい貰う権利はあるだろうよ」


 先端が赤熱し、炎の球が出来るとおやっさんと呼ばれた壮年の男性は廃材を再び炎の中に投じた。燃されていた廃材や、焼けて細くなった腕が崩れて小さな音を立てる。


 「それ言うなら私だって片付け参加したよ。でもさ、自分が吸う物の付け火が人間由来って何か嫌じゃない?」


 「それで暖を取ってる奴が何を言う」


 別に私は口にしてるわけじゃないからね、と少女は笑い、男は憮然とし胸に煙草のパッケージをねじ込んだ。


 「どのみち、人間が燃えて滲んだ成分が空気に漏れ出てるんだ、大して変わらん」


 周囲には腐肉が焼ける臭いが充満し、軽く舌先を擽らせれば顔に油が付着するのが分かる。全て燃された死体から滲み出た成分が大気中に飛散した物だ。結局、近くに居れば何一つ変わらない。


 彼等の前で焼かれている死体達は今となっては見る影も無いが、ほんの数日前までは腐汁を滴らせ、腐敗した臓物を引き摺りながらホームセンターを取り囲んでいた死に損ないの死体達であった。


 何処か愉快そうな音を爆ぜさせながら燃える彼等の頭部は例外なく破壊されており、例え燃やさなくても二度と動き出す事は無かったであろう。にも関わらず、態々燃料の一部まで使って死体が燃やされているのは感染症を防ぐ為だ。動いている間は仕方が無いが、動かなくなったのであれば用心の為に燃やしておいた方が良い。念に念を入れてくたびれ儲けに終わる方が、手遅れの病が蔓延するよりもずっとマシである。


 先程までは大勢の人間がビニール手袋をし、口をバンダナやタオルで覆いながら死体を運んでいた。ここを囲んでいた無数の死体だ、その数は積み上げて小山が出来上がったことから百体は下るまい。


 これもまだ一部で、多くが外に積まれている。なにせ量が量なので、全て燃やすと火が比喩ではなく火柱となり、乾ききった枯れ稲に燃え移る可能性がある。そうなっては目も当てられない。台風並みの大雨でも降らない限り、ここら一体は焼け野原になるだろう。


 慎重を期して小分けにして燃やしているので、燃やし尽くすには膨大な時間が必要になる。一日か、二日か、それともそれ以上か。


 うんざりするような作業で腰を痛めたのか、おやっさんは数度腰を捻った後で立ったまま前屈したり腰を反らせたりを繰り返す。もう三〇も越えているだろうに体は随分と韌であった。


 「しかしまぁ、直近の脅威が無くなったのは良いけど、逆に物騒になったねぇ」


 「お前が余計な物見つけたからな」


 少女は口を歪めて笑い、荷造り紐で作った急造のスリングにて吊られるMP5A5を背中から引っ張り出した。軽く婉曲したマガジンを有するそれは、警察の特殊部隊などで使われる短機関銃である。


 数日前の大雨の日、決死隊としてバリケードの外に出て物資を探し始めた彼女は偶然田圃に突っ込んで擱座していた警察の車両を発見する。何か役立つ物は無いかと漁ったそこには、何の因果か無数の銃器が搭載されていた。


 恐らく、死体が群れとなって動き出す事態に対応する為、何処からか運んでいた物だろう。しかし、その物資を積んだ運転手が何らかの原因で死体となって車はコントロールを喪失。そのまま田圃に突っ込んで今まで放置されていた訳だ。


 手近に放置されているパトカーなどは既に漁っていたが、田圃はホームセンターからかなり離れている上、建物に遮られてホームセンターから存在を確認することが出来なかったのだ。


 こんな事ならば、もっと状況が切羽詰まる前に見つかれば良かったのだが。しかし、そう願ったとしても事実は変わらない。


 緊迫し、暴発しかけた構成員が大勢居るコミュニティに無数の銃器が運び込まれたという事実は。


 何が理由かは分からないが、あのトラックにはMP5だけで三〇挺以上。拳銃にしても9mmを装填出来るH&KUSPが殆ど同数積まれていた。そして、これらの銃に使われる9mm口径の弾丸は数えきるのが馬鹿らしい程箱詰めにされている。


 数える程であるが、豊和工業製のM1500ボルトアクションライフルもある。まるで特殊強襲部隊の装備見本市だ。


 何らかの悪意が働いているのではないかと錯覚させられる示し合わせだった。小口径で取り回しが良く、持ち歩きが簡単。そして比較的素人でも撃ちやすい大量の銃器。


 暴発しかけの、何時争いに発展するか分かった物では無いコミュニティにあってはならないものだ。


 今までコミュニティ内の平和は武装した自警団が守っていたが、この自警団は自衛隊員で戦闘の覚えがあるおやっさんと数人の自衛官を軸に維持されていた。彼等が安全の為に戦う気概のある男達を少し鍛え、内部での不和や侵入しようと押し寄せる死体共を撃退し続けていた。


 彼等は平和を維持する為に戦い、そしてコミュニティの中で暴力や悪事が蔓延しないようある程度の締め付けを以て風紀を正していたが、概ねの住民はこれに不満を抱いていなかった。


 外には自分達を貪ろうとする死体共が闊歩しており、彼等はそれから自分を守ってくれている。感謝こそすれ、態々暴発する理由がなかったのだ。


 しかし、締め付けられる側の人間に、当然の如くこれをよく思わない面々もいた。若く、血気に盛る青少年達だ。昼間に学校をサボったりする素行の宜しくない者達がそれなりにいたのだが、彼等はコミュニティの中で独自の集団とも言え、他の若者を自分達の所に集め、団体で行動することが多かった。


 最初は彼等も大人しくしていたのだが、その内不満が出てくる。大人しくしていろ、外に意味も無く出るな、不安かもしれないが必要も無いのに武器を携行するな。大人達は彼等をとことん押さえつけた。


 無論、それは単なる理不尽ではなく、コミュニティの内部で彼等に怯える女子供が出ないよう気を遣った措置だ。理に適っており、別段問題はない。


 当人達がどう感じるか以外には。


 度重なる注意は、若い彼等の反骨心を刺激してしまったのである。


 不満は募るし、武器は自警団員以外の携帯は非常時以外認めない。銃器は厳しく管理され、自分達には触れる事さえ赦されない。警備上全く不自然なことではないのだが、彼等にはそれが気にくわなくて仕方が無かったのだろう。


 最早外の世界では法がまかり通っているとは思いがたい。だったら、好き勝手やってもいいじゃないか、と素行の宜しくない者達が考えても不思議ではない。むしろ、順当な結果とも言えた。


 最初の内は言葉で自警団員に抗議したりもしたが、大人達は決してそれを受け入れなかった。一つ無法からの要求を認めたら、なし崩し的に二つ、三つと繋がりかねないからだ。


 とはいえ、無下にはね除けたり、無視を決め込んだわけでは断じてない。しっかりと、おやっさんを初めとする自警団の人間が、筋道立てて理由を挙げながら説明をした。


 しかし、その説明でも気が収まらないのか、彼等は増える死体に対処しきれなくなった自警団員が死体の処理をしないのを良い事に一般のコミュニティ参加者を煽り始める。


 理由は単純であり、大人達には理解し難い事だ。単に、気に入らないから。若人の暴走は大抵の理由がそれに尽きる。どれだけ説明されようと、世の中には理解できない者も少なからず存在するものだ。


 誰も彼等の相手なんぞしていなかったが、立て籠もりが長期に渡った場合、もしかすれば、という懸念も一般の参加者は抱いていた。


 そこに、大量の銃器だ。


 今は全て元々武器庫にしていた倉庫に纏めてあるのだが、最近意味も無く近くを彷徨く奴が増えた。なので、前の見張りは銃器を携行した三人に増やしている。


 鍵を管理している自警団の本部である警備員室も、常に最低で四人が短機関銃を持って詰めている。一重に若者達が暴発して暴れ出さないようにするための予防策だ。


 何故彼等がそこまで反発するのかは分からない。大人に反発したい気持ちよりも、重視すべき現実があろうだろうと大人は考える。


 だが、若者の中には嘗められたり自由に出来ないくらいなら全部ぶちこわした方が良いと考える者とて存在するのである。彼等は怏々にして倫理的な考え方ができないか、敢えて放棄しているのではないかと思わされた。


 とはいえ、彼等もコミュニティを滅ぼして全員が死ぬのを見たい訳では無い。そうならば、夜中にこっそり抜け出してニッパーなりを使ってバリケードを固定している針金やロープを切れば良いのだ。そうすれば、夜中の内に無数の死体が雪崩れ込み、誰も逃げ出す事も出来ず死体の仲間入りを果たすであろう。


 若者達が望むのは、そんな残酷で救いの無い死ではない。今まで社会がしてきたように、彼等を放任し、自由にさせ、そして少人数を支配したいだけなのだ。


 学校や家庭という小さな社会にさえ適応しなかった彼等は我慢するという事を知らない。予期せぬ事態で閉じ込められ、抑圧され、そして自由を剥奪される。それが我慢ならない。図式は極めて単純だった。


 要するに、我が侭な餓鬼なのだ。


 そんな危機感の足りない考えも、このホームセンターが比較的安全だから出来ているのだろう。死体に囲まれていようとも、バリケードが壊れて死体が山と入り込み数十人規模で人が死ぬと言った惨劇が起こった事は未だなく、プロの教練を受けた大人達は、ある程度簡単そうに死体を処理していく。


 その安全さが危機感を隠した。あの程度ならば自分でもできるのではなかろうか、そう考えてしまったのだ。


 環境が悪かったとは言わない。単純で、幼く、そして我慢出来なかった彼等が悪いのだ。今では小さな子供ですら我慢を覚えているというのに。


 できる事なら、片っ端から殺した方が安全なんだろうなぁ、などと脳内で考えつつ、少女は笑顔を歪ませて軽くセレクターを弄る。これをフルオートに設定し、軽く掃射するだけで彼奴等は呆気なく全滅するだろう。ともすれば死体を相手取る事より簡単だ。


 しかし、それは楽だろうが絶対にやれない。思考を放棄して単純に邪魔者が居なくなったという結果を求めれば、行動の短絡さに比例した大きさの不利益が帰ってくることになる。


 他のコミュニティ参加者は考えるだろう。自警団にとって邪魔になった若者達は武器が手に入った途端、いとも簡単に殺された。そうなると、もしも自分達が彼等にとって邪魔、ないしは負担になった時、同じように切り捨てられるのでは……と。


 勿論何も言わないで始末はしない。コミュニティの不和を煽り、このままでは危険で、幾度も説得しても聞かず、武器を奪おうと企てていたからだと説明する筈だ。


 だが、それを聞いて一時的に納得はしても、不利益を産むからとして若者を切り捨てたという事実は消えない。コミュニティ参加者は、その姿勢に完全に納得はするまい。考えてみれば、何時か自分達が不利益を産むようになったら殺されると考えられるのだから。


 その疑念と怯えは若者達が煽った以上に大きな不和をコミュニティにもたらし、何れ溝が出来る。こんな小さなコミュニティだ、例え小さかろうと、団結を断つ不和は致命傷だ。団結してこれたからこそ何とか保ってきたのであって、それが無くなれば彼等は砂糖細工よりも脆く崩れ去る。


 生かして置いても面倒で、殺して置いても面倒くさい。全く以て始末に負えない。この考えは、おやっさんにも少女にも共通の事であろう。特に、少女の場合は一入だ。何せ、武器の携行を特別に許可され個室まで与えられている事から彼等から絡まれる事が多く、いい加減疎ましく感じていたのだ。


 いい加減M4のストックで顎でもかち割ってやろうかと思う程だが、絡む所までは行っても実力行使まではしてこないのだ。


 やって来れば良いのに、と少し口を尖らせる少女であったが、誰が好き好んでカービンを背中に担ぎ拳銃まで持っている一八〇cmもあろう大女に襲いかかろうものか。例え容姿が良かろうが、武器云々以前に体のスペックで圧倒され撃退されるのが目に見えている。


 負けると分かっている相手に向かっていく馬鹿は居ない。余程突き抜けた馬鹿か、負けるのが好きという変人でもない限り普通の事だ。


 むしろ、何をどうすれば一〇〇m離れた死体の頭をぶち抜き、蹴りで骨を砕く女を力尽くで押し倒そうと考えられるのか。この少女はどうにも自分に関して考えが甘いところがあるようだ。


 「お前、さっきから表情がころころ変わってるが、何かよからぬ事でも考えてるのか?」


 火にあたって笑っているかと思えば若者の事を考えて笑顔を歪ませたり、いつもより外連味の濃い笑みに変わったかと思うと今度は口を尖らせる。笑顔のままに百面相を続けるという実に器用な所行だが、端から見れば気味が悪い。


 「良からぬ事って何さ、ぷりちーなお顔を見て失礼だねおやっさん」


 「ぷりちーてお前……」


 呆れながらも深くは突っ込まない。この常に笑顔を貼り付けた女の言葉に真意など何処にも滲んでいないのだから。相手をするだけ無駄というものだ。


 本意は笑顔の奥に隠し、本物は何一つとして見て取れない。この女は今まで本音など誰にも話さず生きていたのだろう。完璧に作られていながら、本来の意味での喜びなぞ一片も含まれていない笑み、それは正しく女が世から自らを隔絶させている証左に他ならぬ。


 一体何をそこまで必死で隠しているのやら。彼は肺腑から溜息と共に取り込んだ紫煙を吐き出し、無意味な思考を打ち切った。


 殆ど根元まで吸われ、高熱になった火玉が煙りの味を辛くする煙草を猛火へと放り込む。全く偶然ながら、煙草が炎に消えると同時に焼かれる死体の何処かが限界に達したのか、自らの重みに耐えかねて崩れた。


 灰になった肉が崩れる音、骨と骨がぶつかる音、炎が弾ける小さな音。それらが混ざり合って空虚に反響する。積み上げられた死体は殆どが炭になりつつあった。人間の体は水気に溢れているので燃えにくいが、それでも燃料をかけて根気よく焼いてやれば何時か燃え尽きる。火葬場ほど綺麗に骨だけにはならないが、腐汁と血液さえ失せればそれで十分だ。


 「そろそろ死体追加するか」


 少女が隣で小さく抗議の声を上げているが、おやっさんは無視して短距離用のトランシーバーを取り上げた。自衛隊で使っている物ではなく、ここの警備員が携行していた、警備室に繋がる短距離用のトランシーバーだ。


 一旦燃え始めると炎は中々消えないが、新しく火を熾すのは大変なのだ。なので、火勢が強い内に死体を燃料と共に放り込み、火勢の減衰を抑える。何度も火を熾し直したり、燃料を使うのは非効率だし体力の浪費だ。手間は可能な限り省いた方が良い。


 「おら、何時までも休んでるな。燃やさないといけない死体は幾らでもあるんだ」


 「あーあ、やだなぁ……足とか掴んだら引っこ抜けたりして汚いんだもん」


 愚痴る少女を無視し、おやっさんはゴム手袋に手を突っ込む。意図していない程の小さな傷口からでも血が入り込むと危険なので、できる限り死体に触れる可能性は消しておくに越した事はない。


 ゴム手袋が破れていないことを確かめてから半目で死体の山を睨め付ける。数は一〇〇か二〇〇か、少なくとも数える事すら簡単ではない量が残っている。


 「腰、いわさないといいんだけどな……」


 そろそろ壮年から中年と形容するのが相応しい年齢に達しかかっている彼は、心底うんざりしたように呟いた…………。











 粘質な水が立てる音。それは死体から滴る腐り果てた血液や、液化した肉が骨から剥離して滑り落ちる音であった。


 「こいつらってさ、動いてる間は筋肉とかもしっかりしてるっぽいのに、何で壊れたら途端に腐敗が加速すんだろね」


 「知らん、口よか手ぇ動かせ」


 大判のバンダナで口を隠した少女が死体の足を掴みながら、対面で似たような格好をしている美形の青年に問いかけるも、返ってきたのは素っ気ない言葉だった。


 理由は諸説あるが、エコーと呼ばれる青年は少女が足首を掴んでいる死体の腕をゴム手袋に覆われた手で掴んだ。腐った肉の不愉快な柔らかさは、薄いゴムの層一枚では殺しきれない。


 それなり以上に整った容貌は不快さに歪められており、死体から漂う悪臭に耐えかねるかのように眉根に皺が寄っている。


 今掴んでいる死体は体に纏っているのが腐汁で汚れきっていたり、所々が食い千切られていて判別し辛いがスーツなので、恐らくは男だろう。既に顔面は男女の違いすら分からないほど腐れ爛れているので、最早判断するには服装を頼るしかないのだ。


 「三つ数えたら持ち上げるぞ、合わせろよ」


 三つって、三を言った後なのか丁度なのかはっきりしてよと言う少女を無視し、エコーはカウントすると死体を持ち上げた……。


 が、持ち上がったのは彼の腕と、千切れた方から先の腕だけであった。取り残された死体が地面にぶつかって生理的嫌悪を誘う水気のある音を立てた。


 「あっちゃー……やっぱ駄目だね。遅すぎたんだ、腐ってやがる」


 何の捻りも無い冗談を言いながら肩をすくめる少女の両手には引っこ抜けた太股から先の両足が握られていた。腐った血液と腐汁を滴らせる足を持ちながら、彼女が何ら感慨を抱いていない様子であることがエコーの背筋を怖気で擽る。


 「しかし、これは酷い。またスコップ持ってこないと」


 少女が両手から足を投げ出した先には、四肢をもがれ、腹から真っ二つになって臓液や臓物、腐った赤黒い血を一面にブチ撒けた死体が転がっていた。二人で持ち上げた衝撃で、弱っていた関節部と腹が千切れたのだ。


 死体は活動している最中は歩行を可能とする程度に関節や筋はしっかりしているのに、中枢を破壊されて活動が止まると、まるで今やっと死んだ事を思いだしたかのように腐敗しはじめる。


 誰かが戦闘の最中に打撃を掠めてさせ、腐った皮膚をはぎ取ってしまった事があるのだが、その下にはそれなりに整った筋肉の層があったと言う。つまり、アレは動くのに最低限必要な物だけは腐らせていないのだろう。


 一体何が原因で死体が動いているのかは未だに不明だが、良く出来ている。全く以て迷惑でしかないのだが、構造だけ見れば死体は良く出来た兵器と言えよう。何せ、これが沸いただけで国家が少なからず潰えたようなのだから。


 とはいえ、これが人間が軍事目的で作ったのだとは俄に信じがたいが。それに、もしも軍事目的で作ったとしても、現実ではそう簡単に漏洩なんぞしないだろうに。


 エコーがそんな事を考えていると、血で滑って気味の悪い輝きを放っている猫車を少女が押してきた。その中には柄の長いスコップが二本乗せられている。


 「さー、やろーか」


 「気ぃ滅入るわ、クソが……」


 二人でスコップを担ぎ、地面に広がった臓物を掬い取って機械的に猫車へと放り込んでいく。その度に嫌な音が響き、吐き気を催す臭いが広がる。


 最早、液状化しつつある腐乱死体が千切れて散らばった場合、片付けるにはこうするしか無いのだ。後は適当に水で流すか、雨が降るのを気長に待つしかない。幸いにも現在はこの間の大雨で雨水が大量に蓄えられているので、漂う悪臭に悩まされる事は無さそうだ。


 死体の片付けをやっている時に、このような問題がしばしば起こるようになってしまった。腐敗した死体が、持ち上げられた時に壊れる事が多いのだ。


 嵐の時に銃器が大量に発見され、少女達は帰還の為に無数の弾丸を用いて死体を蹴散らし、比較的安全に急造の橋を用いて帰還に成功した。


 その後で嵐が落ち着いてから弾を使って死体を掃討し、何人かに分かれてトラックの中身を全て持ち帰ったのだが、死体の多くを壊したのは外征に出かけた日であり、片付けるまでに間が空いてしまっているのだ。


 故に活動を停止した死体の腐敗が進行し、持ち上げる事すら出来ない状態の物が多い。普通に持ち上げられる死体は、もう数える程も無いだろう。


 「もうさぁ、最初っからスコップで少しずつ突っ込めば良いんじゃない?」


 少女が黒く変色した消化器系を掬い上げながらぼやく。確かに合理的な考えではあるのだろうが、普通の人間には抵抗が大きいであろう。


 現に、片付けの為に出て来た自警団員の殆どは一度持ち上げて、出来るだけ綺麗な形で運ぼうと努力している。流石に、人であった物を必要以上に壊す事に忌避感を禁じ得ないようだ。


 動きながら此方を喰らおうとするのならば、その排除には何ら抵抗はない。しかし、これはもう単なる死体なのだ。死体とは手厚く、そして丁重に扱われるべき物であり、断じてスコップでぶつ切りにして猫車にブチ込む物では無いのだ。


 彼等は一部の事は割り切っていても、まだ完全に全てを受け入れた訳ではないのだ。死体の扱いが、その最たる物の一つである。


 「別にさ、纏めて燃やすんだから、それまでの扱いとかどうでもいいじゃん。結果は変わらないんだし」


 スコップを適当に扱い、今度は落下の拍子に転がった首を掬い上げて叩き込む。少女としては、その考えは理解しづらいのだろう。後で燃やすのだから、集める過程で少々手荒に扱った所で為すことは変わらない。


 「スコップでバラにして運ぶってのもぞっとする光景やろ……。正気を試されそう」


 今し方ばらけた死体の全てを猫車に詰め込んでから、エコーが袖で額の汗を拭いつつ呟いた。それを聞き、少女が笑みを零しながら腹を抱える。実際に大声は上げて居ないものの、爆笑しているという表現だろう。


 「あはは、エコー面白い。この状況で正気とか、新鮮なお刺身よりも見つけ難い物だと思うよ。今じゃ何処でもとっくにソールドアウトでしょーに」


 「やかましゃ。俺は少なくとも人間で居たいんだよ」


 お前と違ってな、という本音は寸での所で飲み込んだ。別に口にしても少女は笑うだけだろうが、あっさり肯定でもされた日には、押さえ込んでいたおぞましさがあふれ出て嘔吐しかねない。


 エコーはもう、暴力も死体も怖くなかったが、少女だけは未だに慣れず怖かった。この女の底に澱のように溜まっている物が何なのか、一年近く共に居ても分からないのだ。


 それはきっと、何処よりも汚い川の底に堆積したヘドロよりも黒く、深く積もった物なのだろう。ただの人間であるのなら、手を触れない方が良い物なのだ。


 気が狂った相手の事など、まともな人間には理解し得ない。正気と理性で理解出来ないからこその狂人なのだ。


 もし出来るとしたら、それは既にまともな人間ではなく、同じく正気を失った狂人だ。


 そうなるくらいなら、死体として蘇らないように屋上から飛んだ方がマシだとエコーは思っている。理性によって立っている生き物として、その骨子を失う事ほど畏れる物は他に無い。


 じっと己を見ている彼に、どうかしたの? と笑顔で問いかける少女に、何でもないと首を振ってエコーは答える。所詮、言葉を以てして理解出来る相手ではない。


 なら、そんな無駄な事をする意味はないのだ。理解なんてしなくていい。極論、自分に害を及ぼさないならばそれで結構。狂気を笑顔の下に隠し続ける限りは好きにすれば良いさ。


 エコーは逃避だな、と心の端で軽い嫌悪感を自己に抱きながらスコップを猫車に産まれた臓物の海に突き込み、取っ手を掴んで持ち上げる。人間一人分以上の臓物を掻き込んだ猫車は思ったよりも重く、腕に響いた。とはいえ、これが命の重さ等ではないのだろうが。


 滴る血と臓液で車輪に気味の悪い音を立てさせながら、燃えさかる焚き火の下へと運ぶ。人間を燃料に燃える、嫌な臭いを立てる忌まわしき炎の元へ。


 腐った肉が燃える臭いというのは実に気分が悪い。今はもう鼻が順応して麻痺しているが、最初に火を付けた時は剰りの臭いに気分が悪くなり朝食を戻してしまった。


 心を蝕むような悪臭に、誰も彼もが体を折って臓腑まで吐き出す様に反吐を吐いていたのを覚えている。こればっかりは何度嗅いでも鼻が馬鹿になるまで慣れる事はなさそうだ。


 この悪臭の中、平然と立っていられたのはおやっさんと少女の二人だけだ。おやっさんが言うには、自衛隊で狩り出された災害救助の現場で死体の臭いは嗅ぎ慣れているらしいが、少女が耐えられているのは狂人だからだろうか。


 単に腐った肉、駄目になった豚肉や牛肉を燃やしているのならば、ここまでの嫌悪感は感じなかった筈だ。不快である事には変わりないだろうが、幾分かはマシだったろう。


 だが、これが腐り果てた同族が燃える臭いだと思うと、途端にこの世から漂う物では無いと思える程の悪臭に感じられる。


 それを、うっかり三角コーナーに生ゴミ残したまま旅行に出かけた夏休みのある日よりは臭くないと宣う、あの少女は感性までも狂人のそれなのだろう。


 再び猫車の中身をスコップで掬い、火の中に投げ込んでいく。燃やさないと危険なのは分かるが、憂鬱な作業だ。これを後どれほど繰り返せば死体は無くなるのだろうか。


 ……いや、きっと無くなることなど無いのだろう。今は日本中が死体だらけなのだ、億単位の死体など、日本中の火葬場をフル稼働させても早々処理しきれまい。


 「この世はでっかいゴミ捨て場って感じだなぁ……」


 「私達も死体も生ゴミみたいなもんだし、どっちかっていうと三角コーナーの方がしっくりくるかな」


 皮肉をたっぷり籠もらせた感想に、それよりも更に拗くれた感想が帰ってくる。そして、それを否定出来ず、むしろ少し上手いとさえ思える環境が憎らしく、エコーはスコップを振るう速度を少しだけ上げた。


 八つ当たりでも良い、少しでも作業速度を上げ、この地獄から抜け出す為に。精神衛生の為、少しでも早く死体で作られた焚き火から離れたかった。


 腐った大地を蠢く蛆虫、何となく、少女の言う皮肉が的を射ているように感じられる。少なくとも自分達はまともな生産活動を行えない、そうなると、生きている価値はあるのだろうか。


 無いと断じる者は居ないだろうが、エコーには自信を持って言い切る事などできなかった。


 地球という一つの生命を内包した環境という名の生き物は、人間なんぞさして気にしていないだろう。それこそ、我々が掌の上に繁茂させている日和見菌を意識せず、毛穴に住むダニを認識しないように。


 今のこれも全て無意味で、惑星単位や地球単位で考えれば塵芥ほどの価値も無いのだろうか。エコーはふと、天を見やって考えた。


 不機嫌な冬空が鈍色の空を広げている。まるで、汚水を一面にぶちまけたかのような景気の悪い空色だ。


 不意に冷たさを頬に感じた。冬の寒さとは異なる冷たさ。何だろうと目を凝らすと、小さな白い物が空を舞っていた。


 「おお、雪だ」


 少女がスコップの中身を火に投じながら、楽しそうに呟いた。彼の口からも、雪か、と言葉が小さく漏れる。


 「積もるかな?」


 笑顔で問う少女に、エコーは分からないと素直に答えた。何せ大阪は殆ど雪が降らない地方だ。彼の記憶では、積雪なぞ物心つくかつかないかの時分に一度しかなかった。


 淡い牡丹雪が少しずつ勢いを増してゆく。空から舞い降りるそれは、汚れてしまった世界を何とか拭おうとする布巾のようだ。


 「積もったら面白いなぁ。死体が凍ったら運びやすくなるよ」


 「アホ、凍ったら凍ったで持ち上げたら折れるぞ、多分」


 凍った肉というのは硬いが、脆い。持ち上げたら、細い場所が負荷に耐えきれず枯れ枝のように折れる事も考えられる。何より、雪で地面が濡れて火が消えかねない。そうなるともっと面倒だ。


 「おい、おやっさん呼んでこい。最悪ガソリンかけて火勢強めるぞ」


 「うぃうぃ、風情を感じる暇もありゃしない」


 猫車を傾け、適当に中身を焚き火の中へと放り込む。血液と蔵液が炙られて蒸発し、非常に不愉快な臭いが新たに立ち上った。しかし、それも直に順応して感じなくなるだろう。


 少女は血濡れのスコップを乱雑に猫車へ放りだし、別の場所で死体を運んでいるであろうおやっさんの所へと向かっていった。金属同士がぶつかり合う大きな音が響くも、最早誰も気にはしない。


 ほんの数日前までは、死体を興奮させ、寄せ集めてしまうからと大きな音は厳禁だった。だが、今となっては外での作業でも大人数で、しかも煙草を燻らせながらや雑談をしながら行えている。


 悪い事ばかりでは無いのだが……不安であった。何だか良くない事が起こるのではないだろうか。エコーは手袋を脱ぎ、ぼんやりと考えつつ自らと同じ名前を持つ煙草を咥える。


 ライターで火を灯し、その勢いを増し続けた雪を眺め、不安を紛らわせるように煙を吐き出した。


 煙は僅かに空へとたなびき、風に掠われて消えた…………。











 「うへぇ、服に臭いが染みこんでる……」


 少女は散々な散らかり方をしている自室にて、珍しく心の底から不愉快そうに顔を顰めていた。


 自分が着ている厚手のフライトジャケットの袖、丁度曲げた肘の辺りに鼻を埋めて臭いを嗅いでみると、据えたような腐臭とアンモニアの臭いがした。当然だろう、何時間も腐乱死体を燃やしている近くで作業し、あまつさえその火で暖を取ったのだから。


 その臭いを多分に含んだ煙にじっくりと燻されれば、臭いの一つや二つ染みこもうと言う物である。


 その上、全身余さずぐっしょりと濡れていた。降りしきる雪の中で数時間作業していたのだ、溶け出した雪で濡れるのは避けられない。最早芯まで臭いが染みついており、選択しても臭いは落ちないだろう。


 剰りにも酷い臭いだ、もうこれは着られない。棄てる他無かろう。確かに気に入っていたが、無理に着続けて不興を買う程の物でもない。諦めが肝要だ。


 少女はぼやきながら服を脱ぎ捨てる。ズボンも下着も何もかも、臭いが染みついていて駄目だろう。むしろ、臭いは体にも染みついている。溶け出した雪で体温も落ちているし、後で体を拭わなくては。


 雪は、あれから止むことはなく、むしろ勢いを増して降り続けている。ぼた雪が溶ける端から積もっていったので、遠からず一面は雪化粧に覆われるだろう。


 火は維持するコストと新しく熾すコストを見比べて、結局放棄された。今頃は雪を被って消えているはずだ。しかし、雪の中に交代で薪を放り込み続けるだけの人員を配置するのは現実的では無いし、燃料ももったい無いので諦めざるを得なかった。


 一応、既に燃やし始めていた分は殆ど燃やしきったのだが、代償として少女を初めとする自警団員は腐臭を体中に染みこませた挙げ句、体温で溶けた雪で全身ずぶ濡れになっている。体調管理の為に何らかの手を打つ必要がありそうだ。


 本来ならば温かい湯を溜めた浴槽に浸かるのが一番なのだが、残念ながらバスタブはあっても全員が入れるだけの湯を沸かす余裕はない。銭湯ではあるまいし、大人数が代わる代わる入ったら湯は直ぐに汚くなって、むしろ衛生的に宜しくない。


 出来る事は着替えるか、少し特別な配給を待つしかない。


 このコミュニティ内における身体的清潔の維持方法は三つ。一つは、週に一回のシャワーを待つ。これはレジャーで使われる野外用簡易シャワーを使って、屋上にて数分だけシャワーを浴びるのだ。丁寧に体を洗う事は出来ないが、爽快感は一入だろう。雨が降らなかったりすると二週間に一回になったりもするが、これが楽しみで生きているという人も居る。日本人は風呂好きだ、せめてもの慰めにと心の支えにする者も多い。


 湯は温かいので、これが一番なのだろうが、実はシャワーの配給は昨日だった。計算では、次のシャワーは来週なのだ。


 もう一つは湯を含ませたタオルで体を拭うこと。これが殆どの体を綺麗に保つ方法だ。配給される水をあんまり飲まないようにすれば、毎日出来なくも無い。体を不潔にすることで起こる感染症を防ぐ為、三日に一回は体を清める事を推奨されているので、殆どの人間が行っている。


 そして最後は、特配のシャワー。これは死体とのインファイトで汚れたり、死体清掃の作業を行った者に対する報償であると同時に、死体になるリスクを下げる為の措置だ。あれだけの作業だったので、恐らく今日は特配のシャワーがあるだろう。


 普段は屋上でやっているが、雨が降っている時は仕方なしに下がコンクリートなので手入れが楽な倉庫でやったりすることもある。今日は、恐らく倉庫でのシャワーになるだろう。


 直に誰かが呼びに来るはずだ。簡易シャワーを動かすのも電気を使うし、水では風邪を惹くので湯を作る必要もあるから燃料コストは下げなければならない。殆ど流れ作業になる。


 少女のように髪が長いと清潔さを保つのが難しいので、シャワーは何よりも有り難い。早くお呼びが来ないかなとワクワクしつつ臭う服を一つに纏めておく。これは後でビニール袋に突っ込んで焼却物行きだ。


 少女は普段下着をあまり身につけない。ショーツは流石に履くのだが、ブラは面倒くさがってあまり付けないのだ。フライトジャケットを着れば目立たないからと無精して、直接シャツを身につけている。故に、一糸まとわぬ姿になるのは実に早い。


 均整の取れた体のバランス。腰は体の高い位置にあり、そこから伸びる足はカモシカの如くしなやかで引き締まっている。腕も長くて薄く筋肉のラインが確認でき、しっかりと鍛えられている。一部の贅肉も無い見事な体であった。


 腹もだらしなく揺るむ事無く、浅く、それでも見て取れる程度に割れている。背筋のラインも完璧で、腹筋と背筋のバランスも整っている。


 胸も、その大きさに反してしっかりと支えも無しに聳えている。豊かな胸を支えきれる程に強靱な筋と、大胸筋のお陰であろう。普通ならば胸の揺れで筋が伸びきりそうな物だが、それは成長期から適度に行われた運動による筋肉の発達で抑えられている。今後、無理をしない限り理想的なハリを持つ女性のシンボルは醜く歪む事はないだろう。


 一八〇cm近い理想的な長身に、適度な筋肉を装甲したその身は誰もが憧れる一つの完成系だ。無駄な筋肉は動きを鈍くするが、この自然な付き方ならば動作を阻害することはあり得ない。


 異性ならば見惚れ、同性ならば憧れると同時に嫉妬する体。少女は環境が悪くなろうとも、トレーニングによって体型を維持し続けてきた。体は資本であるというが、今の世では同量の金塊にも勝る宝なのだ。


 「んー……腹筋、ちょっと緩んだかな? かといってあんまりやり過ぎても不格好だしなぁ。別にボディービルやってるわけでも無いし」


 しかし、少女は自分の体を見下ろして、そんな批評を零す。人が羨む体であっても、まだ少女の理想型には遠い。


 望むのは、どれだけ闘っても疲労せず、長時間ポテンシャルを維持し続け、ベストな動きを保てる理想的な肉体。一人でも闘い続けられ、生きていけるようなボディが欲しかった。


 幸いにも時間は持てあますほど有るので体を鍛える暇は幾らでも捻出できるのだが、やはりバランスを考えるのが大変だ。


 筋肉を付けすぎれば動きが硬くなるし、スタミナも落ちる。かといって落とせば膂力が弱まり、力の持久力に乏しくなる。


 鍛えすぎてもいけないし、手を抜きすぎるのも良くない。丁度良いバランスというのが中々分からず、その機微が曲者だ。本職の指導者が居ればもっと効率が良いのだろうが……。


 本屋に置いてある教本だけじゃ限界があるなと考えていると、扉が数回ノックされる。


 はて、誰だろう、そういえば鍵閉めたっけ等と思う間も無く、扉が開かれた。


 「よう、ちょっと警備室まで……」


 何の為のノックなのか分からないノックをして、許可も得ずに入室してきたのはエコーだ。据えたような腐臭の代わりに濃い香水の匂いが漂っているのは、シャワーまでの間に合わせなのだろう。


 彼は最後まで言葉を言うことはできなかった。少女の全裸を直視し、脳が情報を処理仕切れずフリーズしてしまったから。


 本来、女性であるのならばあられもない姿を見られた時には然るべき行動を取るべきなのだが、少女は特に恥じらう事もせず、うんざりしたように告げる。


 「ほらー、だから扉は返事待ってから開けろって言ってるじゃんかー。何の為のノックなのさ」


 別に裸を見られたからと言って何かが減る訳でもない。態々大声上げて追い出す程自分は乙女でもなんでもないので、ただ窘めるに留める。これが漫画か何かであったら、盛大に物をぶつけるか、発砲でもしているのだろうか。


 言われてから漸く思考が復帰したのか、エコーはスマンと一つ謝罪を残して扉を閉めた。金属製の分厚い扉が鈍い音を立てて少女の姿を外界から隔絶させるが、音が大きかったのは思いの外驚いていたからだろうか。


 「随分とプレイボーイぽいのになぁ」


 呟きながら、手早く代わりの服を着込んだ。棄てた服と似たような格好で、ジャケットが化学繊維の安物になっただけだ。本当は体を洗った後に着替えた方が良いのだろうが、流石に全裸でシャワーまでは行けない。少々臭いが移るのには目を瞑るとしよう。


 いや、エコーは今、警備室と言わなかっただろうか。てっきりシャワーだと呼びに来たと思ったのだけれども。少女は不思議に思いながらも居住まいを整え、扉を開けた。


 そこには普段通りのエコーが立っていた。別に少女としてはからかっても良いが、先ほど聞こえた警備室という単語の方に興味があったし、エコーとしては狂人だと断じている相手の裸を見たとて欲情はしない、というよりもできない。面食らったりはしたが、それは飽くまで驚いただけに過ぎないのである。


 故に、二人の間で先ほどの事は即座に無かった事にされた。話題に上るとすれば、後々の馬鹿話の合間に思い出されるだけであろう。


 「どしたのエコー、シャワーじゃなくて警備室なんて」


 問いかけながら部屋から出て、扉に鍵をかける。一応私物もあるし、通信機のように勝手に弄られては困る物もある。出かける用事がありそうなら、しっかり施錠しなければならない。


 「おやっさんからの呼び出しだ、シャワーは後回し」


 簡潔に答え、エコーは廊下を奥を親指で指し示した。正確に言えば、指の向こう、フロアを隔てた場所にある警備室を。


 少女は頷き、エコーが先導して歩き出す。その半歩後ろに彼女は黙って続いた。問いを続けないのは、態々呼び出したと言う事は大勢に聞かれたくないからだろう。


 ならば、今ここで質問しても答えは返ってこない。それなら態々意味のない質問をする意味が何処にあろうか。


 警備室には直ぐ到着した。いくつもの監視カメラに繋がっているモニターが壁に並んでいる部屋だが、今はもう何も映っていない。電力が供給されなくなって久しいので当然だろう。


 大きな店舗の警備を司る部屋だ。広さはそれなりで、机を壁際に寄せている今では軽く二〇人位が立ったまま談笑できそうな程の面積があった。


 電気が通っていないので、締め切られて大きな窓も無い部屋は非常に薄暗かった。明かりは、天井からフックで吊されたキャンプ用のランタンや、暖房器具として動いているハロゲンヒーターから漏れる明かりくらいだ。


 全員シャワーがまだなので、態々室内に置いてある小型発電機を動かして付けているのだろう。近くは既に占拠されていたが、室温は廊下よりも暖かいので有り難かった。


 警備室には二人が入った時には、自警団員は全員集まっていた。中央には野戦服姿のおやっさんや、おやっさんと一緒に避難してきた部下の自衛隊員達が立っている。


 おやっさんは二人が入室し、扉を閉めて鍵も掛けた事を見届けると、静かに口を開いた。


 「よし、全員揃ったな。シャワーを先延ばしにしてすまない、この後でゆっくり浴びてくれ」


 シャワーを後回しにする程の重要な案件があるのだろうか。少女は訝しげにおやっさんを見たが、その面持ちは外征の話が出た時よりもずっと険しい物であった。


 「重大な問題が発生した。可能な限り素早く解決しなければならない問題である」


 態々重大な、と形容する程の問題。それこそ、水の節約の為にシャワーをもっと手早く済ませろ等というつまらない事ではなかろう。その場の全員が身を強ばらせた。


 「……実は先ほど、管理している銃の数と、帳簿の数値が合わない事が判明した」


 重々しく吐き出された言葉は、滲むような淡い明かりが照らし出す警備室に、静かに染み入る。誰もが一瞬、理解できないという顔をした。


 いや、理解できないというより、認め難い事なので、理解したくなかったとする方がより正確だろう。


 何せ、自分達のコミュニティの内部に、自分達の管理をすり抜けて危険な武器が流れてしまった、という想定しうる限り最悪の報告なのだから。


 武器は、ギリギリのバランスで維持されているコミュニティを容易く崩壊に導くだけの力がある。それも、持ち出されたのは現状で最も強力な武器なのだ。


 嫌な予感に、誰ともなく背筋を振るわせ、唾を飲み込む。俄に悪い報せが飛び込んだ警備室を、唾液を嚥下する喉の律動すら大きく響くような静寂が支配した…………。 

 二週間くらいなので、前回よりはお待たせせず更新する事ができました。遅筆で申し訳ありません。そして、例によって展開が遅いですね。とはいえ、そろそろ色々と動くんですが……。


 一人だけで書いているのと、見直しが甘い所がどうしても出てくるので設定や作内での矛盾がある可能性があるので、気付いたらお教えください。


 感想返しを中々できなくて申し訳無いです。ですが、感想は大変励みになっています。これからもどうか拙作にお付き合い下さい。

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