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青年と犬と寒い朝

 遅くなりましたが続きです。やっぱりグロい所が少し……と、言うよりも殆どですね。苦手ならお止め下さい。乏しい文章力ですが、万一気分が悪くなるとよくありませんので。


25 01 2014 編集

 懐で何かが震えるのを感じて、青年はそっと目を開いた。


 寝起きでぼやけ、霞んだ視界はシーツと枕の白で埋まっており、横向きで枕に顔を埋めるような体勢で寝ていたのだなと気付く。


 懐で震えているのはアラームを設定し、時刻が来たら振動するようにした携帯電話だ。目覚ましとしては音が鳴らないのが妙であるが、余計な音を出したくないが故のバイブ設定だった。青年は懐に手を差し込み、適当なボタンを押して振動を止めさせた。


 欠伸をかみ殺しながらもぞりと身じろぎし、仰向けになろうとするも動作が何者かに阻まれて満足に動けない。足下に重さを感じ、彼は犬の存在を思い出した。


 主が動いたのを察知し、カノンも目を覚ます。月のような金と海のような青のコントラストを描くオッドアイが開かれ、彼女は大きな欠伸を零した。犬であっても人間であっても目覚めの動作は変わらない。


 「おはようカノン……降りてくれ」


 目覚めを確かめるように数度頭を後足で掻くカノンだが、声に反応すると直ぐに寝床から降りた。行動に移る早さは、まるで言葉を理解しているかのようである。


 青年は蒲団から這い出すと、寒さに身を震わせる。室内は暖房機器が一切動いていないことから冷え切っており、窓は結露してどこもかしこも真っ白だ。今日も寒そうだと感じつつ、彼は寝床の下を漁った。キャンピングカーはスペースを有効活用する為に様々な収納が設けられているのだが、寝台の下には引き出しが作られている。彼は、そこに服を保管していた。


 着替えを取り出すが、まだ着替えない。何故か彼は服を一旦這いだした寝床へと皺にならないように気をつけながらしまい込む。


 一見訳の分からない奇行だが、この行動にはちゃんと意味がある。暖かい蒲団に冷たい服を入れ、少しでも熱を移して寒さを誤魔化そうとしているのだ。しっかりした暖房機器でもあれば服を暖めるのは簡単だが、望むべくもないが故に考え出した苦肉の策であった。


 服を蒲団に入れた後、キャビンに積まれた木箱、その群れに埋もれるようにして置かれている段ボール箱を漁る。箱には飲料と適当に書き付けられており、中には何本も雑多な飲料が収められていた。


 青年は箱から一本のミネラルウォーターを取り出して蓋を捻り、手近にあった電気ケトルの中に注ぎ込む。その後で大きく一口含んで、軽く口腔内を濯いでからキッチンのシンクへと吐き出した。


 僅かに濁り、泡だった水が排水溝へと流れて消えていく。寝起きなので口臭が気になり濯いだが、水だけでは気休めにもならない。とはいえ、やらないよりはずっとマシだろう。


 部屋全体が寒いので水自体も冷えているからか、酷く歯茎に凍みた。身を切るような冷たさの水が歯茎に伝える刺激は筆舌に尽くしがたく、青年は忌々しげに舌で歯茎を撫でて、冷たさを少しでも緩和させようと務めた。


 寒いなら暖かい水で口を濯げばいいのだが、ケトルに水は満ちても湯は沸かせない。ともすれば手狭なワンルームマンションのような風情ではあるのだが、キャンピングカーには電気もガスも通っていないのだから。


 どうしようもない不便さに頭を悩ませながらも、大人しく諦めるほか無い現実を彼は受け止める。喚こうが悲観しようが、環境は改善などされないのだから。せめて寒さから逃れるように、青年は寝床から衣服を取り出して手早く着替えを始めた。


 普通のボクサーパンツと化学繊維で編まれた保温性の高いインナーを同じ物に履き替え、黒いカッターシャツを着込んで同色のズボンを履く。そして、ベルトを締めて上から軽くベストを羽織ると着替えは完了だ。


 上から下まで真っ黒な姿は見る者に喪服を連想させる。喪に服する際の正装とは言い難い服装だが、彼の纏う陰鬱な雰囲気と淀んだ瞳が葬儀を想起させた。いや、むしろ棺に収められる遺体の方が幾分が似合いと言えよう。


 亡骸のように生気の無い青年は、着替えた後でシンクの前にかけられた鏡を覗き込んで己の顔を検める。普段と変わらない景気の悪い仏頂面が映り込んでいた。


 緩くつり上がって淀んだ目に、高くも低くもない鼻と薄い唇。顔色は蒼白に近く、面長な輪郭を彩る頭髪は烏の濡れ羽色をして艶やかだが、自分で刈り取ったかのような散切り頭だ。


 派手でもなく地味とも断言できず、さりとて特別に列挙するような特徴も見当たらない顔。一般大衆の中に埋没しきってしまう、目立たない男がそこに居た。


 ウェットティッシュを引き出し目やになどを拭うと、青年はもう用も無いとでも言うように鏡に背を向けた。生来外見にあまり興味がなく、見苦しくなければそれで良いとしていたので身繕いは極めて短時間で済ませてしまう性質だった。それでも、顔を拭うだけで髪に櫛すら通さないのは大雑把にも程があると言えよう。


 だが、これはある意味仕方がないことでもあった。何せ、外見を気にして接しないとならないような相手は居ないのだから。犬は跳ね上がった髪の毛に興味を示さないし、外に転がる輩は言うまでもない。


 投げやりな身繕いを終えると、青年は天窓から屋根に上った。服を着込んでいるので昨夜よりは少々マシだが、それでも冬の長野は冷える。一二月も近いこともあってか、遠く臨む山は既に雪化粧に覆われていた。そう遠くない内に、この裾野も白に染まることだろう。


 見上げた空は身震いするほどに蒼く、どこまでも高い。雲一つ無い青が、眺める青年を酷く薄ら寒い気分にさせた。まるで、地を這うしかできない自分をあざ笑っているかのような、いっそ皮肉なまでの爽やかさだった。


 天気は良く、視界も遠くまで透き通っている。朝方の靄は遠く去りゆき、問題となるものは何も認められぬと判断すると彼はぐるりと車の周囲を見回した。昨夜と同じく死体が無数に転がっていた。その数を数えると、昨夜と変わりはしていない。


 普通ならば死体の数を気にする必要などないだろう。死体は動かないというのが相場であり、持ち去る人間などいようはずもない。しかれども、相場というのは常に変動するものでもある。


 青年は死体を注意深く観察して、微動だにしないことを確認すると、更に遠くを見回し続ける。木々が密集しているので、そう遠くまでは見えないが、夜と違って明るいので観察に困りはしない。


 冬でも尚青々と茂る常緑樹の林の間には生物の反応は見受けられず、地面には落葉が絨毯の如く広がっている。遠くで何かが動く目立った音も全く聞こえない。


 彼方より鳥の鳴き声や木から飛び立つ際の羽ばたきが聞こえるが、それだけだ。自然の音を除けば、森は驚くほどに静かであった。


 とりあえずは安全か、と青年は吐息して中へと引き返す。そして、木箱に立てかけてある鉄と木の混合物、散弾銃を手に取った。


 モスバーグをベースに改造、というよりも国内法に沿うようにダウングレードされた猟銃であり、12ゲージショットシェルが三発だけ装填できる、外見もこれぞ猟銃というような銃だった。マットブラックに塗装された本体に、ストック部分にベルト装着された弾丸用ポーチ。ちょっとした狩りに持って行くに最適なデザインだ。


 散弾銃が立てかけてあった木箱は三つ積み上げられた青年の腰元ほどの高さがある物で、その一番上の箱は蓋が外されていた。


 木箱の中には色とりどりの紙箱が規則正しく詰まっている。それらは、様々な規格の弾丸のカートンだった。


 その中から箱を一つ選んで取り出す。蓋を開けると、赤い本体と金色のプライマーが特徴のショットシェルが整然と等間隔で並べられていた。まず三発取り出して装填し、一掴みをズボンのポケットへと放り込む。


 ポーチにしまうよりも、ポケットの方が取り出し易いのでポケットにしまったが本当は危険なのでやらない方が無難だ。転んだりした拍子に暴発したり、潰れて火薬が溢れる危険性もある。


 だが、装填にもたつくのは少々のリスクよりも遙かに危険で、避けるべき事態だ。青年は二種類のリスクを天秤に盛り、より軽い物を選び取ったに過ぎない。


 手と、ポケットの中に確かな重さを感じながら散弾銃の安全装置を外してキャビンの扉へと向かう。定位置に伏せていたカノンには、ついてこないように手で制しておいた。


 彼女は付いてこようと身を起こしかけていた所だが、直ぐに体を下ろす。何やら不満そうに小さく鼻を鳴らしたが、決して鳴きはしなかった。青年が音を立てるのを好まないことを良く理解している、賢い良い犬だ。


 鍵を外して慎重に、かつ静かに扉を少しだけ開き、さっと身を外に躍らせた。出ると同時に扉を後ろ手で閉め、散弾銃の銃口で周囲をなぞるように見渡す。


 何も居ない。また、近くで動くものも無い。風の音以外は何も聞こえない、静かなものだった。


 小さく口の中でクリア、と自分に言い聞かせるように呟いて、青年は散弾銃を油断無く腰だめに構えて足を進めた。


 向かうのはキャンピングカーの後部。そこにも死体が二つ転がっている。昨夜始末した内の二体だ。服装には見覚えがあった。ただ、顔などは判別が付かないほどボロボロになっているので、より正確に言えば服装にしか見覚えはないのだが。


 頭部に散弾銃を向けながら足先で仰向けに倒れる死体の足先を蹴る。小さな衝撃が体を揺らしたが、それだけであった。


 もう一体も同じように蹴るも、死体はやはり小さく揺れるに留まった。当然のことであるが、青年は深いため息をついて散弾銃を下ろした。


 死体は大凡肉という肉が腐敗し、酷い臭いを放っている。腹腔が破れて消化系が零れ、その合間で何かが蠢いているのが見えた。恐らくは蠅が産み落としていった蛆だろう。


 ふと、死体を眺めながら、青年はゲームとは違う物だなと思った。


 生物災害の名を冠する某有名ゲームでも彼等のような存在が出てきたが、あれの外見は実際に比べると幾分か綺麗だ。


 人間に限らないことだが、生物の死体が腐乱すると徐々に肉が液状化し、体内にガスを蓄えて膨れ上がる。その度合いは環境に依るが、彼等もその例に漏れず、僅かに肉体を膨らませていた。とはいえ、ゲームのゾンビは倫理規定もあるからマイルドに作られていると言えば、それまでだが、


 明らかに死んで腐敗しているのに、昨夜のように動いて此方に向かってくる……正に、ジョージ・A・ロメロ監督が創造したスクリーンの怪物、ゾンビそのものだ。


 没個性的な怪物の筆頭であり、その源流はブゥードゥー教の懲罰的呪術にまで遡る。今やヴァンパイアやライカンスロープと並ぶ有名怪物だが、それらは空想の産物だった。


 そう、“だった”のだ。


 今までは空想の産物であり、決して物理的な干渉力を持って人間に害をもたらしはしなかった。しかし、それはもう、過去形での話になってしまった。


 動く死体は厳然たる脅威として世界を闊歩しているのだ。


 青年は死体を跨いでキャンピングカーの背後へと廻る。そこには発電機が備えられていた。燃料系を確認し、十分にガソリンが入っていることを確認すると彼は電源を入れてからスターターを引っ張り発電機を起動した。


 数度素早くスターターの紐を引っ張ると、発電機が寝起きの獣の如く震え始め、始動した機構が電気が作り始める。


 青年は他のキャンピングカーの事は分からないが、このキャンピングカーはタープを張ってバーベキューをやっている時、外にも電気を供給できるように独立した発電機が付いており、それがキャビンの発電も担うようになっている。勿論エンジンからもキャビンには電力が供給されるが、ちょっと電化製品を使うだけならば外の発電機の方が効率も燃費もずっと良いのだ。。


 エンジンでも居室に電気は供給されるが、発電機よりもずっとガソリンを食うし、バッテリーの寿命も縮むので停車したままエンジンをかけ続けるのは色々とよろしくない。青年としては、例え面倒臭くても外に出る方が長期的には得するので、そうするようにしていた。


 だが、電源が付いた時の音も馬鹿にならないし、継続して低い音を立て続けるので青年はあまり発電機を使いたくなかった。


 理由は単純だ。音は死体を引きつけるのだ。


 どうしてこんな世の中になったのだと考えつつ、青年は素早く車内に引き返した。


 扉に鍵をかけ電気ケトルのスイッチを入れる。電源部分に灯りが灯ったので、電気は滞りなく生産、供給されているようだった。


 ケトルの湯が沸くのにさして時間は掛からなかった。ケトルの口に付けられていた笛が小さな音を立て始めると、青年は手早くコンロの電源を切った。


 蓋を開けて中を覗くと、沸騰の余韻として泡を残しつつ湯気が立ち上る。青年は温度に満足すると、シンクの上に伏せて並べていたカップの一つを手に取り、紅茶のティーパックを一つ放り込んで湯を注いだ。


 ティーパックは何故かキッチンペーパーの上で干されている。何てことはない、勿体ないと何度も使い回しているだけだ。湯気を上げる無色の液体に緋色が滲み出し、出涸らしながらに優しい紅茶の香りが溢れ始める。


 「カノン、朝食にしよう」


 カップを片手にローテーブルに向かいつつ言うと、カノンがいつの間にか乗っていたベッドから身を素早く床に降ろす。カップを置き、同じくシンクに洗って伏せて置いてあった犬用の皿を取った。


 そして、木箱の近くに置いてあった、また別の段ボールに手を突っ込んで一つの缶詰を取り出す。笑顔で笑っているデフォルメされた犬の絵が印字されたドッグフードの缶詰だ。何処ででも手に入る物だが、珍しくタブを引き上げて開封する缶詰ではなかった。


 缶詰を片手で弄びながら、青年は手近にあったナイフを取る。掌に収まる小型の折りたたみナイフ。様々なツールが柄に内蔵されている、俗に言うサバイバルナイフであった。


 十徳ナイフとも言い、多様なツールを有するので一つあれば様々な局面に対応出来る非常に便利なツールだが、下手に持ち歩けば官憲から職務質問を受けかねない片刃であるにも関わらず諸刃の道具である。


 とはいえ、銃刀法違反だの軽犯罪法違反だのと言ってしょっ引いてくる官権は、もうどこにも居ないのだが。未だに制服を着た者も居るやもしれぬが、もはや番犬が阿るべき国家は存在しない。


 もしも、ナイフを好きに持ち歩ける環境と官憲に注意されども安全な世界を選べるのなら、青年は迷わず後者を選んだであろう。何故、世界は死体が闊歩する世の中になったのか。


 官僚でもなければ自衛官でもなく、研究者ですらない青年には、何が原因で世界が壊れたのかを知る由は無い。ただ、無力な個人として歩き回る死体から逃れるだけだ。


 生きるために戦って逃走を繰り返して生きてきて、きっと今後も変わらないのだろう。そう思いながら、青年は缶切りを缶詰に突き立て、手早く封を切った。


 生臭いドッグフードの臭いに彼は顔をしかめる。味付けは犬に合わせて作っているので、人間からすれば調理されぬ肉に近いらしいが、臭いばかりが鼻につく。彼は、この臭いがどうしても好きになれなかった。


 臭いに耐えながらドッグフードを手早く皿に開けてやり、じっと座って此方を見ているカノンの足下にそっと置く。


 だが、彼女はそれに手を付けようとはせず、ただ、澄んだ瞳で青年を見上げて見つめている。蒼と金のコントラストが美しいなと思いつつ、青年はカノンに背を向けてソファーに向かい、許可の言葉を呟いた。


 許しを受けて静かにカノンが皿に顔を埋めて食事を始めたのを認めると、青年も朝食を採り始める。静かに紅茶を啜り、ソファー脇の段ボールに手を伸ばして中の物を一つ探った。


 オリーブグリーンの袋。黒い印字が施されているそれは、自衛隊の携帯糧食であった。乾パンなどが入った簡易食であり、震災時に被災者へ配られることが多い物だ。手軽な朝食には丁度良い献立と言えた。


 乾パンを取り出してオレンジスプレッドを塗りたくりながら淡々と口にねじ込んでいく。味はさておき、酷くぱさついている乾パンを咀嚼し、口が渇いてくると紅茶を流し込んで誤魔化す。何とも味気の無い朝食は手早く済まされた。


 ふと見やれば、カノンも既に朝食を終えて、嘗めて整えたように綺麗な皿を前にして静かに座っていた。行儀の良い犬だ。


 青年もゴミや乾パンの滓を袋に落として片付けを済ませ、キッチンの近くに置いてあったゴミ箱に放り込み、餌皿を軽く洗った。


 さて、食器を洗うので水を使ったが、このキャンピングカーには水道なんてものは当然繋がっていない。


 キッチンの水道から出る水は車に供えられたタンクから供給されている。故に、言うまでも無く有限だが、蓄えている量だけは膨大だ。


 タンクの水はシャワーユニットと共用であれど、その量はシャワーの連続使用にも三〇分は耐える。生活用水だけに切り詰めれば一ヶ月以上は無補給でも生活できよう。移動しながら補給も考えて行動する場合、キャンピングカーは正しく最適の足だ。だからこそ、彼も、この機動性に欠いたデカ物に乗り続けているのだが。


 人間が生存するにあたって、最も重要な物は水だ。環境に依るが、人間は水さえ有れば絶食したとしても一月は保つらしい。だが、水が無ければ三日と保たずに死ぬ。それを知っているから、青年は水に関しては他の物より多く積み込んでいた。普通の乗用車なら、こうはいくまい。


 多くの水を集め、補給できる時はタンクに補給し、雨が降れば水を溜める。例え無補給であろうともある程度は何とかなるように。


 青年は洗ったカップや皿をタオルの上に伏せて置き、同じくキッチン台の上に置いてあった保温ポットの中に湯を注いでおく。これで今日一日分の湯は確保できた。


 電気を使わない魔法瓶と同じ構造の保温ポットの蓋を閉じた時、不意にカノンが自分のズボンの裾を引っ張った。


 見下ろすと、彼女はズボンの裾を軽く噛んで青年を険しい表情で見上げていた。犬の表情は人間ほど分かりやすいものではないが、それでも見慣れると随分と賑やかなものだ。


青年は何かと問うことも無く、頭を何度か撫でてやった。するとカノンは裾を離す。


 甘えているのではない。その証拠に相手をしてもらっても彼女の表情は険しいままだ。青年は何もかもを理解したというように足を運転席に向けた。


 寒々とした運転席に座り、耳を澄ます。いつの間にか、あの枝をへし折る音が聞こえてきていた。


 青年は舌打ちをして背後を見た。キャンピングカーの後部、バスユニットへ続く扉。正確には、位置的にはその向こう側にある発電機をだ。


 心底面倒臭そうに頭を掻きむしった後で、青年はキャビンに取って返し、昨夜使った物と同じニューナンブを手に屋根へと昇る。


 相変わらず空は嫌味なまでに蒼くて清々しく澄み渡り、空気は身を切るように冷えていた。絵になる冬空の景色ではあるが、悠長に眺めている暇なぞ有りはしない。キャンピングカーを囲むように枝を踏み折る音が増え続けていた。


 「思ったより多いな……。流石に長居しすぎたか」


 舌打ちをもう一つ。忌々しげな視線は、斃れている亡骸達に向けられていた。


 何処までも静かな森の中に響き渡るのは発電機が低く震える音だけ。それに答えるようにして、森の中を何かが近づいてくる音がひっそりと駆動音に紛れて聞こえて来る。


 音は全方位から響き、距離もまちまちだった。正確な距離までは分からないが、音が聞こえるということは、さして遠くはあるまい。


 今のうちにと、キャンピングカーの後部へとタンクなどを跨ぎながら向かい、細い鉄パイプを強引に溶接して新造した柵を手懸かりとし、下へ大きく身を乗り出す。


 右手を精一杯伸ばすと、何とか発電機のスイッチに手が届いたので電源を切った。発電機は数度大きく震えた後で完全に沈黙する。電源を切った直後なので、運動の余熱が残っているが気にしている暇は無い。


 だが、もう遅かった。青年が身を再び屋上に戻そうとした時、木々の合間に人影が見えた。定まらぬ歩調で汚物と腐汁を滴らせながら躙り寄る、彼等の姿が。


 舌打ちを三度重ね、青年は一瞬ベルトへと差し込んだニューナンブへと手を伸ばしかけたが、少し考えて止めた。ニューナンブは銃身が短く、口径が小さいので安定性に欠く。肉眼で何とか捉えられる距離の的に命中は期待できない。


 暫しの黙考の後、彼はキャビンに取って返し、一挺の銃を手に屋根へと舞い戻る。その手に握られていたのは、自衛隊が正式採用している豊和の89式歩兵小銃。日本人の体に合わせて設計された、国産の小銃であった。


 普段は暴発を防ぐために外している、5.56mmのFMJ(フルメタルジャケット)弾が詰め込まれた弾倉を装填し、槓桿を引いて初弾を薬室に送り込む。そして、並びこそ違えどアタレと読めそうなセレクターを操作した。合わせる位置はタ、単発のタだ。


 発射できる状態に小銃を準備すると、青年はゆっくりと肩付けに構える。片膝を突き、ストックに頬を添え照準器を覗き込んだ。拳銃とは異なる、円環照門の輪に遠く臨む死体を収める。


 急ぎもせず、慌てもせず、青年は静かに的をビープサイト越しに睨め付けながら待った。音が尽きても人影は消えず、不確かな足取りで此方にゆっくりとだが、確実に近づいてくるのが見える。


 数分もすると、ぼんやりした人影では無く、完全にその姿が見えるような距離にまで奴らは到達していた。一番近い物で、距離は五〇mを割っている。


 昨夜と同じく不確かな足取りで森の中を進み、時折木の幹や木の根にぶつかったり、足を取られて倒れるが、のろのろと起き上がって此方への足は止めない。愚直なまでに一直線に奴らは向かってくる。


 外も中も腐り果てた人間、いや、元人間達。その外見をゾンビと例えたが、あまりにも陳腐な形容に過ぎるが、それでもゾンビ以外の何と表現できようか。


 怨嗟の呻きを上げながら青年へと行進を続ける死体の群れを狙って、青年は引き金をゆっくり絞った。


 狙いはキャンピングカーの正面、落葉で見えない小道に立った死体。覚束無い足取りで歩く死体は、汚れて元の色が分からなくなったスーツを着ていた。左腕が脱落し、右足の肉を大きく欠いた死体は向けられた暴威に臆さず進軍し、鋼で被甲された弾丸に砕かれて呆気なく斃れた。


 青年が小銃を取ってきたのは、純粋に射程が長く安定性に富むからだ。弾丸の直進安定性は銃身に刻まれた旋条によって加えられる回転、その回転がどれだけ強いかによってきまる。だからこそ、長距離の射撃を目的に作られた銃は銃身が長いのだ。そして、有効射程五〇〇mを誇る89式小銃は、五〇m程度の中距離でじっくり狙えば的を過たぬ信頼性を持つ。


 強烈な回転を帯びた弾丸は空気を切り裂いて虚空を疾駆する。微風の影響を撥ね除け、弾丸は目標の首の付け根に着弾した。


 先端を鋼で被甲された弾丸は硬く、貫通力に秀でる。左鎖骨上部から侵入した弾丸は肉を引き裂き、筋を引きちぎって飛翔し、人体を脆く貫通する。そして、対象を貫いて抜ける瞬間に本来の破壊力を発揮するのだ。


 腐って脆くなった肉がはじけ飛び、どす黒い血飛沫が舞い、支えを無くした頭部が背後へと千切れ飛ぶ。娯楽作品では軽く描写されがちだが、弾丸が命中時に与える衝撃というのは凄まじく、圧倒的な運動能力を持つ弾頭が体に入り込んだ時、負荷に耐えきれず肉がはじけ飛ぶことは珍しくない。


 特に、何者にも邪魔されぬ小銃弾を受けた頭部は、頭蓋骨が衝撃に耐えきれず内側から弾けたようになるとも言う。青年が放った弾は、その威力を遺憾なく発揮していた。


 まるで冗談の様に、首が肉と砕けた脊索を伴ってごろりと抜け落ちるように脱落し、黒く濁って腐った血が地面を黒く染め上げる。


 完全に無力化できた事は確認するまでも無く明らかだ。斃れた死体は電気信号の名残か、四肢を小さく振動させているが、意味ある行動を取ることはない。


 軽いリコイルを受け流しながら、青年は狙いを次の死体に移す。安定した姿勢を取り、正しく撃った場合に銃が伝えてくるリコイルというのは非常にマイルドなものなのだ。


 更なる狙いは、今し方撃ち倒した死体の後方に付く女。四肢は揃っているが、腐汁と血で汚れた平服の内で臓物の腐敗が進み、全身が太っているかのように張り詰めていた。


 狙いを付け、引き金を絞る。森に響き渡る乾いた銃声、何処までも響き渡る轟音と共に死体の右腕がはじけ飛んだ。撃った瞬間に死体が一歩踏み出したせいで狙いが逸れたのだ。


 腐汁が弾け、肉片と骨片が宙を舞い、右腕が数度回転しながら何処かへ飛んでいく。着弾の衝撃は凄まじく、人間に蹴られた程度では済まない。死体は弾かれたように転倒し、その瞬間に石にでもぶつかったのか体が中程から折れた。腹腔で醸された臓物がこぼれ落ち、バケツをひっくり返したような勢いで広がっていく。見るだけで気分が悪くなる光景であった。


 にも関わらず、死体は未だに動いていた。残った左腕をばたつかせながら、立ち上がろうと藻掻いていた。もげた下半身は活動をとめているものの、頭部が有する戦意は健在だ。


 連中は頭を潰さないと止まらない、青年は頭の中で考えながら狙いを変える。あれはもう、まだ動いているだけに過ぎない。歩けないなら実質的に無力なので弾の無駄だ。


 もう一発撃ち、小学生くらいと思しき死体の胸を砕いた。頭がころりと支えを失ったように転げ、惰性で足が数回ばたついた後で完全に止まった。


 愚直に向かってきた死体は、高所からの打ち下ろしで淡々と処理されていく。青年は更に二つの死体を鋼の打擲で破壊した後、薬莢を拾い集めてキャビンへと滑り込む。


 未だに動く死体は残っているのだが、青年には全ての死体を相手にするつもりはなかった。死して尚歩き回る姿は哀れですらあるが、弾丸は有限なのだ。その全てに死の安寧を与えてやれるほどの余裕はない。


 小銃に安全装置を掛けてから助手席に放り投げ、ねじ込んだままのキーをイグニッションに捻る。エンジンは少し機嫌悪そうな嘶きを上げながら咆哮し、数日ぶりの覚醒を遂げた。


 進路上に死体は既にない。青年はクラッチとギアを操作して車を操作する。巨体を振るわせながら、キャンピングカーはゆるやかに敵勢力が掃除された小路を走り始めた。


 態々弾丸を使って彼等の活動をとめたのは、フラフラと寄ってこられて跳ねるのを防ぐ為だ。車には装甲が施してあり、剛性は高めてあるが足回りばかりは脆弱だ。死体を踏んでスピンしたり、折れた骨が配管やタイヤに突き刺さっては目も当てられない。だから、動かなくして回避し易くしたのだ。


 死体を避けながら道を走る。じりじりと包囲を進めていた死体達は、包囲網の一角を食い破れて対応も取れぬままに獲物を見送った。狙った訳では無かろうが、追い込みに失敗した彼等が上げる呻き声は、何処か口惜しげな響きを宿していた。


 死体の群れをサイドミラーで見送りながら、青年は深く溜息を吐き、アクセルから足を離さぬまま座席に深く身を預ける。よく見ると、座席には小さな青年を補助するようにクッションが敷かれている。体躯に恵まれぬ彼は、こうでもしないと視点が低くて運転し辛いのだ。


 「割と居心地が良かったのだが、一週間を過ぎると集まりすぎるか」


 森の中を抜けていくキャンピングカーの窓辺から外を見ると、周囲を徘徊する死体の姿が未だに木立の中に見つけられる。あの死体は、何を感知しているのか分からないが、どこからか集まってくるのだ。例え恐ろしく遠い土地からであっても、ただ愚直に歩いてゆっくりと追ってくる。


 青年はキャンピングカーの点検を兼ねて暫しの間であるが、あの広場、もともとはスキー場に併設されていたキャンプ場を拠点としていた。期間は一週間に届かないくらいだが、それでも奴らはやって来た。目も見えないだろうに、人間の存在を何かで察知して死体は集まってくるのだ。


 それが、青年が危険を冒しながら態々キャンピングカーで移動を繰り返す理由。一所に拠点を作り、腰を据えて籠城するのは安全だが、少し気を抜いたならば十重二十重に囲まれ身動きが取れなくなるからだ。


 キャンピングカーでの移動は不便が付きまとうし、危険でもある。荒れた道での事故、不意に飛び出してきた死体を跳ねる危険性、移動中に立てる大きなエンジン音で死体を呼び寄せる可能性。列挙していけば限りは無いが、リスクは大きい。だが、それでも籠城に失敗して枯死するよりはマシだと考えたからこそ、彼は移動を続けている。


 数分ほど車を走らせると、片側一車線の道路に辿り着いた。キャンプ場への乗り入れ口と思しき看板が立ち、その裏にはどちらへ走れば、どの国道に通じるかの案内が記してある。青年は死体の数が疎らで、暫く動きを止めても進路を塞がれない状態にあると確認してからカーナビを起動し、道を模索する。


 地図をスクロールするためにリモコンを探していると、運転席へとカノンがやって来て、助手席の方へと向かう。しかし、そこには小銃が鎮座しており大型犬が寝そべられるスペースは無い。


 何かを訴えるように鼻を鳴らすカノンに応え、青年は小銃を退かしてやった。すると、カノンは助手席に座って体を丸める。此処が彼女の指定席なのだ。


 「カノン、次は何処に行こうか?」


 自分の提案に具体的な答えなど帰って来よう筈がないと分かっていても、青年はカノンに語りかけ、カノンは何も言わずに青年の目を美しい二色の瞳で見上げる。


 静かで、言葉を交わさずとも、二人の間で意思の疎通は出来ていた。彼は頭を少し乱暴に掻いてやると、リモコンを操作し大雑把な目的地を定めた。付近にある道の駅だ。


 「よし、行こうか。次は暖かいところが良いな。とりあえず……南にでも戻ってみるか。一度大阪の様子を見てから南下しよう」


 ここ数ヶ月、青年はずっと東北に居た。雪が降り風が刃のように冷たい土地。特別寒いのが好きという者は珍しいだろうが、青年も例に漏れず寒いのは好きではない。比較的温暖で過ごしやすい土地が好みだ。


 だから、今までの寒さと、これからの冷え込みを見込んで南下することを臨んだ。安直ではあるが、温暖な所に住みたいのならば南に行くのが一番手っ取り早い。


 もっとと催促するように頭を自ら押しつけてくるカノンから手を離し、青年は計器を確認しつつ車を発進させる。ガソリン残量が心許ないが、まだ予備はジェリ缶やタンクにしこたま貯め込んである。何処かで補充する必要はあるが、このまま無補給で大阪に辿り着くのも不可能ではない。


 それでも、そろそろバッテリーやら何やらを交換し簡単に整備した方がいいだろうか。そう考えながら青年はカーナビの命令に従ってウインカーを出し車を左折させる。もう、誰にも進路の変更を報せる必要などありはしないのに。


 道路は落葉の絨毯に覆われて朧気にしか見えないが、走行に支障を来す程ではない。タイヤの回転が落葉を巻き上げ、道を掃き清めながら走り去る。軌跡として遺る綺麗な街路に、ふらりと死体が出てくるのが見えた。特徴の無い服装の男だ。損傷は比較的軽微だが、その顔面は肉が削げ落ち、骨が覗いている。


 狩りに失敗し空腹を抱えた獣のように口惜しげな唸りをあげる死体をサイドミラー越しに見やり、アクセルを踏み込む。エンジンの回転数があがり、タイヤが地面を踏みしめながら車体を前に押しだした。


 落下物に引っかかることもあるので、然程速度を出せる訳でもないが死体では決して追いつけない速度だ。それでも、分かってか分からいでか、死体は呻きを上げながら歩き続ける。青年の手によって掃き清められた道路を一歩一歩確実に。


 二度と誰も訪れることが無いであろう寂れたスキー場。そこに通じる道を死体は黙々と歩いていく。何時までも、何時までも。ただ、その足がもげて、体が朽ち果てるその日まで…………。

 お楽しみいただければ幸いです。もしもよろしければ感想などお待ちしております。

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